第28話 北からの客
「可」
朝食のあと、毒見の間で、私はひとりでつぶやいてみた。
短い。あまりにも短い。言い終わった気がしない。
「……可。本日も、可。判決、可。被告人オムレツ、可」
だめだ。どうしても長くなる。
北の毒見役は、判決を一文字しか言わないらしい。それを聞いてから5日、私は暇さえあれば一文字の判決を練習していた。練習してどうするのかは、自分でもよく分からない。ただ、負けたくなかった。何に負けたくないのかも、よく分からない。
「ミレーユさん、何してるんですか」
盆を下げに来たティモが、扉のところで首をかしげていた。
「判決の練習」
「いつもの判決じゃだめなんですか」
「北の毒見役は、一文字なんだって」
「一文字!」
ティモの目が輝いた。帳面が開いた。嫌な予感がした。
「書かなくていいわよ」
「『北の毒見役は一文字』。いただきました」
その日の昼には、城門の衛兵まで「北の毒見役は一文字」と言っていた。夕方には、城下の青い鍋亭で、ハンナさんが客に「一文字で何が分かるのさ」と言っていたらしい。ティモの拡声能力は、雪が解けて、さらに磨きがかかっている。
*
花の月21日。昼過ぎ。
王城の正門の前に、馬車の列が止まった。
先頭の旗に、銀の狼の紋章。ヴォルスカ王国の使節団だった。
出迎えの列の端に、私は立っていた。毒見役は、本来こういう場には出ない。けれど今回は、北の毒見役が来る。毒見役同士の挨拶があるだろう、とヘルマン様が判断したらしい。
隣で、ヘルマン様が懐中時計を開いていた。
「予定より、2分早い」
「早いのはいいことでは」
「出迎えの楽団が、まだ1曲目の途中だ」
確かに、楽団が慌てて曲を切り上げようとしていた。
最初の馬車の扉が開いた。
まず、帽子が出てきた。
比喩ではない。本当に、帽子が先に出てきた。黒い毛皮の、ものすごく大きな帽子。ひと抱えはある。その下から、遅れて大柄な男が出てきた。赤ら顔に、立派な口ひげ。毛皮の外套。春の陽射しの中で、ひとりだけ真冬の格好をしている。
「おお、南は暑いな! 溶けるかと思ったわ!」
声が大きい。中庭の向こうの鳩が、一斉に飛び立った。
「ヴォルスカ王国大使、ラドミールである!」
大使は、胸を張って名乗った。帽子が、少しだけずれた。
その後ろから、細身の男が音もなく降りてきた。黒い服。整えすぎた前髪。手に、分厚い革表紙の本を抱えている。
「大使付き書記官、メルヒオルと申します」
メルヒオルさんは、ヘルマン様の前で立ち止まり、きっちり30度だけ頭を下げた。
ヘルマン様も、きっちり30度だけ頭を下げた。
2人が、同時に顔を上げた。
「……北の宮廷儀礼書、第4条。他国の侍従長に対する礼は、30度」
「王宮礼法、第2条。他国の書記官に対する礼は、30度」
2人は、互いの懐中時計と革表紙の本を、一瞬だけ見た。
何かが始まった気がした。ろくでもない何かが。
*
2台目の馬車から、少女が降りてきた。
金色の髪を、きっちりと結い上げている。淡い青の旅装。背筋がまっすぐで、顎が少しだけ上を向いていた。年は、ユリウス様とほとんど変わらないはずだ。
ヴォルスカ第二王女、エレオノーラ殿下。
出迎えの列の中央で、ユリウス様が一歩前に出た。
「遠路、はるばる……」
ユリウス様が、歓迎の口上を言いかけた。
「存じております、ユリウス陛下」
王女は、ユリウス様の言葉を遮って、完璧な角度でお辞儀をした。
「ヴォルスカ第二王女、エレオノーラでございます。このたびは、霜塩の件では、貴国にご心配をおかけいたしました。わたくしどもの潔白を申し上げに参りました」
声は澄んでいた。言葉も丁寧だった。
ただ、目が、まったく笑っていなかった。
ユリウス様は、少しだけ目を瞬かせてから、うなずいた。
「……遠いところを、よく来られた」
「お気遣い、痛み入ります」
会話が、そこで終わった。
中庭に、微妙な沈黙が流れた。楽団が、慌てて2曲目を始めた。
そして、王女のすぐ後ろに、灰色の外套の女が立っていた。
表情のない顔。まっすぐな背筋。私と同じくらいの年に見える。白い手袋をはめた手を、体の前で軽く組んでいた。
北の毒見役だ。
私は出迎えの列から一歩出て、頭を下げた。
「この国の王宮毒見役、ミレーユと申します。遠いところをようこそ。同じ毒見役として、お会いできるのを楽しみにしておりました。こちらにご滞在のあいだ、食材のことでも、厨房のことでも、何かあれば遠慮なく」
「ヴェラです」
女は、短く言った。
「確認しました」
何を確認されたのかは、分からなかった。それで、終わりだった。
私の挨拶は、およそ100文字あった。返ってきたのは、名前と、一言。
練習した「可」は、口から出る機会がなかった。
*
歓迎の茶会は、2階の広間で開かれた。
卓の上には、ルネさんが朝から仕込んだ菓子が並んでいた。小さな焼き菓子。果物のタルト。それから、ルネさんの今の自信作、プリン。
私は、ユリウス様の席の脇に立ち、手袋を外した。
「被告人、果物のタルト。罪状、毒物混入の疑い」
広間の貴族たちが、待ってましたとばかりに身を乗り出した。この口上を目当てに茶会に来る人もいると、ティモが言っていた。
見る。苺の赤、艶あり。生地の縁、均一な焼き色。
嗅ぐ。バター、焼けた小麦、苺。かすかに、橙の皮。
含む。さくっと生地が割れ、カスタードのとろみと苺の酸味が舌の上でほどけた。橙の皮の苦みが、甘さを後ろから引き締めている。
「舌の奥で3つ数えます。1、2、3。判決。——無罪。本日も、毒なし」
貴族たちの間から、小さな拍手が起きた。
「長い!」
大きな声が、拍手をかき消した。
ラドミール大使だった。毛皮の帽子をかぶったまま、焼き菓子をひとつ口に放りこんでいる。
「南の毒見は、ずいぶんと長いな。毒見はおしゃべりではないぞ。わしの国の毒見役を見よ。一文字だ。一文字で済む」
大使は、焼き菓子をもうひとつ口に放りこんだ。
「それに、南の菓子は甘いばかりで、薄い。腹にたまらん。女々しい味だ」
そう言いながら、3つ目に手を伸ばしていた。
この人は、何を言っているのだろう。薄いと言いながら3つ食べている。腹にたまらないなら、食べるのをやめればいい。この人の口は、けなすためと食べるためで忙しすぎて、どちらも中途半端だ。
だいたい、春の広間でその帽子は何なのか。暑いと言っていたではないか。脱げばいい。脱いだら、たぶん、ただのよく食べるおじさんだ。
黙れ、毛皮おや——
「……毛皮、おや……親子丼が、食べたいなー」
零れた。
広間が、しんとなった。
大使が、4つ目の焼き菓子を口の手前で止めた。
「オヤコドン?」
「……故郷の料理です。鶏肉を煮て、卵でとじて、ご飯に載せます」
「鶏と、卵を?」
「はい。鶏と、その卵を。親子で一緒に煮るので、親子丼と」
大使の顔色が変わった。
「親子を、一緒に煮るだと? 南は、なんと残酷な料理を食べるのだ!」
「残酷ではなく、おいしいんです」
「おいしいのか」
「とても」
大使は、焼き菓子を口に入れて、しばらく噛んでいた。
「……どんな味だ」
広間の隅で、ルネさんが顔を覆っていた。ヘルマン様の懐中時計が、ぱちんと鳴った。
メルヒオルさんが、無表情で革表紙の手帳に何かを書きつけていた。あとでティモが盗み見たところでは、こう書いてあったらしい。
南の毒見役:口が悪い。親子を煮る料理を好む。
誤解だ。半分は。
心の中で、メルヒオルさんの手帳に赤字を入れた。「口が悪い」に二重線。横に「心の中が少しにぎやかなだけ」と訂正して、日付と署名。ついでに、整えすぎた前髪を定規で測り直した。1本だけ長かった。
他人の記録に手を入れたら、前世なら始末書だ。心の中なので、許してほしい。
*
王女は、何も食べなかった。
卓の上の菓子に、一度も手を伸ばさなかった。ヴェラさんが王女の脇に立ち、出された茶の器を手で制していた。
「失礼ながら」
王女が、茶会で初めて口を開いた。
「わたくしは、南の国の料理はいただきません。禁止表に定められておりますので」
「禁止表?」
ユリウス様が、聞き返した。
「わたくしの口に入れてよいものと、いけないものの表です。南の国の料理は、安全が確かめられるまで、すべて禁止となっております」
「この菓子は、私の毒見役が確かめた」
ユリウス様の声が、少しだけ硬くなった。
「無罪だった。毒は、入っていない」
王女は、ユリウス様をまっすぐに見た。
「陛下の毒見役が、わたくしの毒を確かめたわけではございません」
広間が、また静かになった。
言い方は丁寧だった。でも、ひとつひとつの言葉に、薄い氷の膜が張っているようだった。
ユリウス様は何か言いかけて、口を閉じた。
その横顔を見て、私は、少しだけ胸の奥がざわついた。
出された料理を、信じないで、手をつけない子供。
去年の秋まで、この城の3階に、同じ顔をした子供がいた。
「……では、殿下の毒見役が確かめたものなら、召し上がりますか」
私が言うと、王女はちらりとこちらを見た。
「南の毒見役が、口を挟むことではございません」
それだけ言って、王女は茶の器に視線を落とした。ヴェラさんは、相変わらず何も言わなかった。
ユリウス様は、自分の皿のプリンを、しばらく見つめていた。
それから、ひと匙だけすくって、黙って食べた。
*
夜。厨房に下りると、黒板が書き換えられていた。
【本日の賭け】
縁談まとまる 4倍
縁談まとまらない 2倍
そもそも縁談ではない 6倍
「マルタさん」
「統計よ」
「縁談なんて、誰も言ってませんけど」
「言ってなくても、15歳の王女様が来たのよ。14歳の陛下のところに。城中そう思ってるわ」
「城中?」
「ティモ」
ティモが、作業台の陰で帳面を抱えて縮こまっていた。
「ぼく、まだ『縁談かもしれない』としか言ってません」
「それを何人に言ったの」
「……38人です」
「かもしれない、で十分なのよ。この城では」
私は、黒板の前で腕を組んだ。
縁談。あの2人が。茶会で、ひとことも笑わなかった2人が。
大人というのは、どうしてこう、子供を勝手に並べたがるのだろう。前世の親戚の集まりでも、同じ年頃の子供がいると、すぐに「お似合いね」と言い出す伯母さんがいた。あの伯母さんは、本人たちの顔をまったく見ていなかった。
この城の大人たちも、たぶん、2人の顔を見ていない。
陛下は、今日、プリンをひと匙しか食べなかった。
王女は、ひと口も食べなかった。
「……私は、『そもそも縁談ではない』に銅貨1枚」
「あら、珍しい。あんたが賭けるなんて」
「賭けじゃありません。判決です」
マルタさんが、黒板の6倍の横に、私の名前を小さく書いた。
厨房の奥で、ガストーネさんが黙って大鍋を磨いていた。北の使節団の料理人が、近いうちに厨房の半分を使うことになっている。料理長の縄張りに、北の誰かが入ってくる。
ガストーネさんは、鍋を磨く手を止めずに言った。
「……ん」
何種類目かは、分からない。ただ、背中が少しだけ大きく見えた。
*
——同じ夜、王城の客間では。
灰色の外套の女は、窓辺の小さな卓で、手帳を開いていた。
北の典礼法を写した、薄い手帳。その最後のほうの白いページに、几帳面な字で、今日の記録が書いてある。
南の毒見役 ミレーユ
判決が長い
毒見のあとの待ちは、30分(侍従長より)
料理を、飲み込む
女は、ペンを止めた。
それから、もう1行書き足した。
楽しそうだった
しばらく、その1行を見つめていた。
女は、その行に、まっすぐな線を1本引いて消した。




