第27話 焼きながら、丸める
3日後の朝。厨房の作業台に、黒い鉄の板が置かれた。
縦に4つ、横に7つ。親指の半分ほどの深さの、丸いくぼみがきれいに並んでいる。
そして、端のほうに、もうひとつ。
「29個目」
鍛冶屋のゴドーさんが、煤だらけの指でそのくぼみを指さした。ほかの28個より、明らかに浅い。しかも、少しだけ楕円だった。
「失敗した」
「予告どおりですね」
「ん」
ゴドーさんも「ん」の人だった。ガストーネさんと並ぶと、厨房の「ん」の濃度が倍になる。2人は黙って鉄板を見下ろし、同時にうなずいた。何かが通じ合ったらしい。
ゴドーさんは、鉄の串を2本、作業台に置いて帰っていった。去りぎわに一度だけ振り返った。
「……丸くなったら、1個くれ」
職人は、自分の作った道具の行く末を知りたいものなのだ。
*
「では、たこ焼き作りを始めます」
私は、かまどから3歩離れた位置に立った。厨房規則、第一条。毒見役はかまどに近づかないこと。
作業台の周りに、厨房の全員が集まっていた。マルタさんは、もちろん黒板の前にいた。
【本日の賭け】
1回目で丸くなる 8倍
3回目までに丸くなる 3倍
今日中は無理 1.5倍
「マルタさん。その倍率、私への信頼が低すぎませんか」
「あんたへの信頼じゃないわよ。あんたの説明への信頼よ」
反論できなかった。メロンパンのときの瓜を、私はまだ忘れていない。
「生地は、小麦粉と卵と、出汁です。とにかく、ゆるく。スープくらいゆるく」
「スープで、丸い玉ができるのかね」
菓子職人のルネさんが、斜めのコック帽の下で眉をひそめた。
「できます。鉄板の熱で、外側から固まっていくので。固まりかけたところを、この串でくるっと返すんです」
「くるっと?」
「くるっと」
ルネさんは、鉄の串を手に取って、光にかざした。
「芸術的な道具ではないね」
「芸術じゃなくて、屋台の道具なので」
心の中で、ルネさんの斜めのコック帽のてっぺんに、鉄の串を1本まっすぐ突き立てた。帽子の傾きが、少しだけ直った気がした。
出汁は、ガストーネさんが昆布の代わりに干し茸と鶏の骨で取った。具は、茹でた蛸を親指の先ほどに切ったもの。それから、刻んだ青ねぎ。
「ねぎは、細かく刻んでください。キザ……」
ルネさんが、こちらを見た。
危なかった。今、何かが零れかけた。斜めの帽子の気取った芸術家を見ながら「キザ」と言いかけたのは、たまたまだ。たまたまに決まっている。
「……キザミネギ、と言います。故郷では。刻んだねぎのことを」
「キザミネギ?」
「はい。キザミネギです」
ルネさんは、しばらく私を見ていた。それから、ふんと鼻を鳴らして大理石の台に戻っていった。
「私は芸術家であって、ねぎではない」
ばれている気がする。
*
1回目。
ガストーネさんが、熱した鉄板に油を引いた。お玉で生地を流し込む。じゅわっ、と音が立ち、くぼみからあふれた生地が鉄板の上に広がった。
「あふれてますけど、いいんですか」
ティモが心配そうに覗きこんだ。
「いいの。あふれた分も、あとで中に巻き込むから」
それぞれのくぼみに、蛸をひとつずつ落とす。ねぎを散らす。
そして、待つ。
「今です!」
ガストーネさんが、串をくぼみの縁に差しこんだ。くるっと返す。
返らなかった。
串の先で、生地がぐにゃりと崩れた。まだ固まっていなかったのだ。くぼみの中で、半分だけ固まった生地と液体の生地が混ざり合い、蛸がぷかりと浮かんだ。
29個のくぼみに、29個の「崩れた何か」ができあがった。
「被告人、平たい何か」
「判決はいいから」
マルタさんが黒板の「1回目で丸くなる」に、大きな×をつけた。
*
2回目。
今度は、待った。しっかり待った。待ちすぎた。
鉄板の下で、火が強くなりすぎていた。焦げた匂いがして、ガストーネさんが慌てて串を差しこんだ。くるっと返すと、今度はきれいに返った。
くぼみの中から、真っ黒な半球が現れた。
「……焦げてる」
ティモがつぶやいた。
「外は、ね」
マルタさんが、黒板の前で腕を組んだまま言った。
ガストーネさんがひとつ取って、割った。
外側は黒く、かりかりに焦げていた。中は、どろりとした液体のままだった。
「被告人、外は炭、中はスープ」
「名前がどんどん長くなるわね」
品質保証部の目で見れば、この鉄板1枚分は全数不合格だ。1回目は形状不良。2回目は外観不良と加熱不足の合わせ技。たった2回で、不良の見本帳ができてしまった。
工程を設計したのは、誰か。
私だ。
前世の屋台のおじさんは、どうやっていたのだろう。私は目を閉じて、記憶を掘り返した。
お祭りの夜。鉢巻きのおじさん。鉄板の上で、串が2本、ものすごい速さで動いていた。くぼみの縁に沿って、ぐるりと生地を切り離す。それから、半分だけ返す。
半分だけ。
「……一度に返さないんです」
私は目を開けた。
「最初に、くぼみの縁に沿って、あふれた生地を切り離す。それを中に押しこみながら、90度だけ返す。生の生地が下に流れて、また固まる。それを、もう一度90度。何回かに分けて、少しずつ丸くしていくんです」
「焼きながら、丸める」
ガストーネさんが、低くつぶやいた。
「はい。焼きながら、丸める」
ガストーネさんは、しばらく鉄板を見つめていた。
「……ん」
やる気の「ん」だった。
*
3回目。
火は中くらい。油はたっぷり。生地を流し、蛸を落とし、ねぎを散らす。
ガストーネさんが、串でくぼみの縁をなぞった。あふれた生地を切り離し、くぼみの中へ押しこみながら、くいっと90度だけ返す。半球の下から、生の生地がとろりと流れ出て、くぼみの底で固まっていく。
隣のくぼみ。その隣。
1周したところで、最初のくぼみに戻る。もう90度。
くぼみの中で、生地が、ゆっくりと丸くなっていった。
厨房が、静まり返った。ティモが息を止めていた。ルネさんが、大理石の台からいつのまにか戻ってきていた。
3周目。ガストーネさんの手の動きが、目に見えて速くなっていく。大きな手の中で、細い串がくるくると踊った。
鉄板の上に、28個の丸い玉が並んだ。
きつね色。まんまる。表面のところどころに、かりっとした焼き色。
29個目だけが、浅いくぼみの中で、楕円のまま平たく焼けていた。
「……できた」
声が、かすれた。
前世の夏祭りの、あの丸いもの。夜店の明かりの下で、紙の舟に8個並んでいた、あれだ。
*
仕上げのソースは、前の晩にガストーネさんと相談して作っておいた。
前世のソースは、野菜と果物と酢と香辛料を煮詰めたものだと、品質保証部の研修で聞いたことがある。玉ねぎ、人参、林檎、干し葡萄。それを酢と砂糖で煮詰めて、丁子と肉桂と黒胡椒で香りをつける。
香辛料の使い方は、規定第3条の2で、毒見役の判断に委ねられている。冬の終わりに改められたばかりの条文だ。さっそく使わせてもらった。
茶色くとろりとしたソースを、刷毛でたこ焼きに塗る。じゅっ、と鉄板の熱で焦げる香りが立った。
最後に、乾かして粉にした香草をぱらりと振る。青のりの代わりだ。本当は削った鰹節が踊っていてほしいところだけれど、この国に鰹はいない。
手袋を外した。
「被告人、たこ焼き。罪状、毒物混入の疑い」
見る。きつね色、均一。表面のソースに、香草の緑。割ると、中から湯気がもわりと立った。外は薄く固まり、中はとろとろ。蛸の赤が、真ん中で顔を出している。
嗅ぐ。焦げたソースの甘酸っぱさ。出汁。小麦の焼ける香ばしさ。
含む。
熱い。
熱いなんてものではなかった。外側の薄い皮が歯に当たって、ぱりっと割れた瞬間、中から溶岩のような生地があふれ出した。
「はふっ」
口の中で、熱を転がす。はふ、はふ。とろりとした生地に出汁の旨みが溶けていて、そこにソースの甘酸っぱさが絡みつく。熱さで涙が出そうになったところで、歯が蛸に当たった。むちっ、と押し返して、ぷつりと切れる。噛むほどに、蛸の甘みがにじむ。
前世の夏祭り。熱すぎて、半分に割って冷ましてから食べた、あの味。
ただし、こっちのほうが蛸が大きい。
「……舌の奥で、3つ数えます。1、2、3。容疑者、なし。被告人の主張は、熱さのみ」
厨房の全員が、私を見ていた。
「判決。——無罪」
「えっ」
ティモが声を上げた。
「完全無罪には、もうひとつ条件があるの。これを焼くのは、ガストーネさんじゃなくて」
*
夕方。
3階の食堂の暖炉の前に、鉄板が据えられた。
毒見はいつもどおり、第一審を先に済ませてある。生地、蛸、ねぎ、ソース。30分のあいだ、鉄板は暖炉の火の上で温まり続け、ガストーネさんは油を引いて出番を待っていた。
「では、陛下」
私は、鉄の串を1本、ユリウス様に差し出した。
ユリウス様は、串を受け取って、じっと見つめた。
「これで、回すのか」
「はい。くぼみの縁に沿って、ぐるりと切り離してから。半分だけ、くいっと」
斜め後ろで、ヘルマン様の懐中時計が、ぱちんと鳴った。
「陛下に、火の前で調理をさせるのか」
「規定第21条が禁じているのは、料理人でない者が陛下の料理を火にかけることです。火にかけるのは料理長です。陛下は、回すだけです」
「……毒見役」
「はい」
「君は、規定の隙間を探すのがうまくなりすぎた」
「陛下のおかげです。菓子代の件で、お手本を見せていただいたので」
ヘルマン様は何も言わず、懐中時計を開いた。止めないらしい。
ガストーネさんが、鉄板に生地を流した。蛸を落とし、ねぎを散らす。
ユリウス様が、鉄板の前に立った。串を握る手に、少しだけ力が入っている。
「まだです。……まだです。……今です」
ユリウス様の串が、くぼみの縁をなぞった。ぎこちない手つきで、あふれた生地を押しこむ。
くいっ。
半球が、90度だけ傾いた。下から、生の生地がとろりと流れた。
「……回った」
ユリウス様が、小さくつぶやいた。
「回りました。次のくぼみへどうぞ」
2個目。3個目。最初は1個に何秒もかかっていたのが、少しずつ速くなっていく。10個目のあたりで、ユリウス様の口の端が上がっていた。
1周して、最初のくぼみに戻る。もう90度。
ユリウス様の頬に、暖炉の火の色が映っていた。
ふと見ると、ヘルマン様が、ユリウス様の手元を覗きこんでいた。懐中時計を持ったまま。
「陛下。返す間隔が、ばらついておられます」
「間隔?」
「最初の1個から最後の1個まで、1周がおよそ40秒。であれば、どのくぼみも40秒ごとに90度ずつ返すのが、理にかなっております」
ヘルマン様は、懐中時計を鉄板の横に置いた。
「拍子をお取りいたします。……はい。……はい。……はい」
侍従長が、たこ焼きの拍子を取りはじめた。
ユリウス様の串が、ヘルマン様の声に合わせて、規則正しく動きだした。くいっ。くいっ。くいっ。
私とガストーネさんは、顔を見合わせた。
この国で一番規定にうるさい人が、今、一番楽しそうにたこ焼きの拍子を取っている。
途中から、ガストーネさんまでその拍子で油を引いていた。
*
28個のたこ焼きは、ほとんどがまんまるになった。いくつかは少し歪んでいたけれど、それは手で握ったおにぎりと同じで、作った人の手の跡だ。
29個目は、やっぱり平たかった。
私は鉄板から、ユリウス様が最初に返した1個を取った。陛下ご自身が焼いた、最初の1個。
「第二審。……熱いので、気をつけて食べます」
割る。湯気。外はかりっと、中はとろり。
口に入れる。はふ。はふ。熱い。出汁と、ソースと、蛸。それから、焦げたところのほろ苦さ。
舌の奥で、3つ数えた。
「判決」
暖炉の前の全員が、私を見ていた。ユリウス様は、串を持ったまま固まっていた。
「——完全無罪。本日も、毒なし」
ユリウス様が、ほっと息を吐いた。
「陛下。ひとつだけ、ご注意を」
「なんだ」
「とても熱いので、半分に割って、少し冷ましてから」
言い終わる前に、ユリウス様は1個を丸ごと口に入れていた。
「っ……!」
ユリウス様の目が、まんまるになった。口を手で押さえて、はふ、はふ、と声にならない息を吐いている。涙目だった。
「だから、言いましたのに」
「……あふい」
「熱いです」
「……らが、うまい」
口の中にたこ焼きを入れたまま、14歳の王様は、熱さに涙を浮かべて笑っていた。
ヘルマン様が、懐中時計を閉じた。
「陛下。お口に物を入れたままお話しになるのは、作法に」
そこまで言って、ヘルマン様は黙った。それから、自分も1個つまんで、口に入れた。
侍従長の眉間のしわが、1本、ゆるんだ。
29個目の平たいたこ焼きは、ゴドーさんへの約束の分として、ティモが布に包んで鍛冶場に届けた。丸くなったら、と言われていたのに、平たいほうを届けてしまった。ティモによると、ゴドーさんは長いことそれを眺めてから「……ん」と言ったらしい。
*
食事のあと、ヘルマン様が姿勢を正した。
「陛下。ご報告がございます」
懐中時計を、きっちり閉じる音がした。
「北のヴォルスカ王国より、使節団が国境を越えたとの知らせが届きました。5日後に、王都に入ります」
食堂の空気が、少しだけ変わった。
ヴォルスカ。霜塩の産地。あの雪の夜の事件で、疑いをかけられた国だ。
「目的は、霜塩の件での潔白の申し立てと、止まっている交易の再開。それから」
ヘルマン様は、ほんの一瞬だけ言葉を切った。
「使節団には、ヴォルスカの第二王女、エレオノーラ殿下が同行されております。15歳。……専属の毒見役を伴っておいでとのことです」
専属の、毒見役。
私は、自分の手袋を見下ろした。
この国の毒見役は、私ひとりだ。ほかの毒見役に会ったことは、アデライデさんを除けば、一度もない。
「北の毒見役は、判決を一文字しか言わないそうです」
ヘルマン様が、付け加えた。
一文字。
私の判決は、何文字あっただろう。少なくとも、一文字ではない。
暖炉の火が、ぱちりと鳴った。
*
——同じ夜、北の街道の宿場では。
宿のいちばん奥の部屋で、少女がひとり、冷めたスープの前に座っていた。
金色の髪を、きっちりと結い上げている。背筋はまっすぐ。器には、ほとんど手がつけられていなかった。
卓の上に、1枚の紙が置かれていた。
【エレオノーラ殿下 禁止表】
1:秋祭りの焼き菓子
2:黒麦の練り菓子
3:山羊乳の蒸し菓子
4:森の茸のパイ
5:燻製鱒の油漬け
……
37:南の国の料理全般(安全が確認されるまで)
少女は、紙の最後の行を指でなぞった。
「南の国の料理、全般」
小さくつぶやいて、冷めたスープを匙でひとすくいした。
扉の脇には、灰色の外套の女が、無言で立っていた。スープは1時間前に毒見を終えている。北の典礼法では、毒見のあと1時間待ってからでなければ、王族の口に入れてはならない。
少女は、ひと口だけ飲んで、匙を置いた。
「……冷たい」
灰色の外套の女は、何も言わなかった。
ただ、手袋をはめた指先を、ほんの少しだけ握りしめた。




