第26話 足が8本あるらしい
花の月12日。朝7時。王城の3階、食堂。
「被告人、ベーコンと豆の煮込み。罪状、毒物混入の疑い」
私は白い手袋を外した。
見る。豆の皮、張りあり。煮崩れなし。ベーコンの脂は透き通って、端だけがかりっと焼けている。
嗅ぐ。燻した豚の脂、玉ねぎ、ローリエ、ほんの少しの黒胡椒。
含む。熱い。豆がほくりとほどけて、ベーコンの塩気を吸ったスープが舌の上に広がった。
「舌の奥で3つ数えます。1、2、3。判決。——無罪。本日も、毒なし」
暖炉の前で、料理長のガストーネさんが「ん」と言った。角を挟んだ隣の席では、ユリウス様が両手を合わせていた。
「いただきます」
「いただきます」
王宮毒見役、ミレーユ。28歳。前世は食品メーカーの品質保証部。この職について12年と少し。
毒に当たったのは、12年でたった一度きりだ。その一度で死にかけ、復職して、今はこうして毎朝陛下と同じ卓で毒見をしている。
城の人たちは相変わらず、私を「食レポ係」と呼ぶ。もう訂正するのは諦めた。
訂正を申し入れた回数は、もう数えていない。前世の職場なら、出した是正報告書の束で鍋敷きがひとつ作れている。厚手の、少しも熱を通さないやつが。
*
朝食の皿が半分ほど空いた頃、食堂の扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします」
給仕頭だった。いつもの穏やかな顔が、今朝は少しだけ引きつっている。
「陛下。南の港から、荷が届きました。陛下がご注文なさった品です」
ユリウス様の匙が、止まった。
「来たのか」
「はい。樽が1つ。ただ……」
給仕頭は、言葉を探すように目を泳がせた。
「その、動いております」
「樽が?」
「樽の、中身が」
ユリウス様と私は、顔を見合わせた。
春の食卓の会の翌朝、厨房の再現表の板に増えていた1行を、私は思い出していた。
たこ焼き:未着手 ※陛下が、南の港に蛸を注文済み
その横には、小さな字でこうも書いてあった。
足が8本あるらしい
*
厨房は、すでに大騒ぎだった。
作業台の真ん中に、大人が抱えられるくらいの樽がひとつ。蓋の上に、マルタさんの麺棒が重しとして載っている。
その樽が、ときどきごとりと揺れた。
「来たわね、ミレーユちゃん」
マルタさんが、黒板の前でチョークを構えていた。もちろん、もう書いてあった。
【本日の賭け】
樽の中身:足が8本 2倍
樽の中身:足が8本未満 3倍
樽の中身:足が8本より多い 5倍
樽の中身:足がない 10倍
「足の本数で賭けないでください」
「統計よ。誰も見たことがないんだから、倍率は勘」
それは統計ではない。
ティモは、樽からいちばん遠い壁に張りついていた。ルネさんはコック帽を両手で押さえて、なぜか大理石の台の陰に隠れている。料理人たちは、包丁を握ったまま半円を作っていた。誰ひとり、樽に近づこうとしない。
「ミレーユさん。蛸って、噛みますか」
「噛むわよ。口があるから」
「口、あるんですか!」
「足の付け根の真ん中に。くちばしみたいなのが」
ティモの顔から、血の気が引いた。
私は腕まくりをした。誰も開けないなら、毒見役が開けるしかない。陛下のお口に入るものを最初に確かめるのは、毒見役の仕事だ。
麺棒をどけて、蓋を持ち上げた。
海水の匂いが、むわっと立ちのぼった。
樽の底で、赤茶色のものがぬるりと動いた。
*
一瞬だった。
樽の縁に、吸盤の並んだ足が1本かかった。2本、3本。私が瞬きをする間に、蛸は自分の体を樽の外へ引きずり出していた。
べちゃり、と作業台に落ちる。
「出たあああ!」
厨房が、爆発した。
料理人たちが一斉に後ずさり、誰かが鍋を落とし、ルネさんの悲鳴が裏返った。蛸は作業台の上を、8本の足で器用に這っていく。速い。思っていたよりずっと速い。
その先に、壁に張りついたティモがいた。
「来ないで! ぼく、おいしくないです!」
蛸は、作業台の端からぴょんと跳んだ。
ティモの顔に、べちゃりと張りついた。
「むぐうううう!」
「ティモ!」
ティモが両手をばたつかせる。蛸の足が、ティモの頭と首と、なぜか帳面に巻きついていた。帳面だけは手放さないところが、実にティモだった。
そのとき、横から大きな手が伸びた。
ガストーネさんだった。
片手で蛸の胴をつかみ、もう片方の手で足を1本ずつ、ぺり、ぺり、と剥がしていく。吸盤が外れるたびに、ティモの頬に小さな丸い跡が残った。
最後の1本を剥がし終えると、ガストーネさんは蛸を目の高さまで持ち上げた。
蛸と、料理長が、見つめ合った。
「……ん」
ガストーネさんの「ん」は、15種類まで数えたところで、数えるのをやめたはずだった。
でも、これは新種だった。
強いて名前をつけるなら、「お前、なかなかやるな」の「ん」。
ティモは床にへたりこんで、頬の丸い跡を指でなぞっていた。
「……帳面、無事です」
「顔の心配をしなさい」
*
蛸は、水を張った大鍋の中に移された。
空になった樽の底を覗くと、もう1杯、手のひらほどの小さな蛸が張りついていた。こちらは逃げる気力もないらしく、じっとしている。ガストーネさんが黙って桶に移した。予備、ということらしい。
ようやく、落ち着いて見ることができた。
赤茶色のまだらの胴。大人の腕くらいの長さの足が、8本。数えた。ティモも数えた。マルタさんは3回数えて、黒板の「足が8本 2倍」に丸をつけた。
「さて」
私は、鍋の前に椅子を置いて座った。
手袋を外す。
「被告人、蛸」
厨房が、静かになった。
「罪状、毒物混入の疑い。……および、逃走の疑い」
誰かが吹き出した。蛸は、鍋の縁に足を1本かけて、外の様子をうかがっていた。反省の色はない。
見る。
毒物図鑑の第1巻、毒草の巻。その巻末に、なぜか「海の毒」という短い章がある。編纂した人が、載せる場所に困ったらしい。そこに、蛸は1種類だけ載っている。
青輪蛸。手のひらほどの小さな蛸で、怒ると体に青い輪の模様が浮かぶ。唾液に強い毒があり、噛まれると息が止まる。毒見役が最初に覚える、海の毒のひとつだ。
「大きさ、青輪蛸の10倍以上。体表、赤茶色のまだら。青い輪の模様、なし。……怒らせてみます」
「怒らせるんですか!」
私は、匙の柄で蛸の足をつついた。
蛸の体の色が、さあっと濃い赤に変わった。足の先まで、怒りが走るのが見えた。
青い輪は、出なかった。
「容疑者、青輪蛸。アリバイ成立。体色の変化は赤のみ。これはただの、機嫌の悪い蛸です」
蛸の足が1本、するりと伸びて、私の人差し指に吸いついた。
ちゅぽん、と音がした。
放さない。
「……被告人、法廷侮辱罪」
指を引くと、吸盤が1つずつ、ぽん、ぽん、と外れていく。外れたあとに、小さな赤い丸がいくつも残った。痛くはない。ただ、腹は立つ。
「舌の奥で……は、生きているので、確かめるのはあとにします。仮の判決。——無罪。ただし、身柄は鍋の中に拘束」
*
昼前。規則正しい足音が、廊下の向こうから近づいてきた。
かつ、かつ、かつ。
侍従長のヘルマン様だった。胸の懐中時計を指で撫でながら、厨房の入口で立ち止まる。眉間のしわが、最初から2本あった。
「毒見役。陛下の注文の品が届いたと聞いた」
「はい。こちらに」
ヘルマン様は、鍋を覗きこんだ。
蛸が、鍋の縁から目だけを出して、ヘルマン様を見上げた。
ヘルマン様が、半歩下がった。
「……王宮料理規定、第3条」
来た。
「陛下のお食事に使ってよい食材の一覧に、蛸はない。私は今朝、念のため3回読み返した」
「3回も」
「4回目は、そこの生き物の顔を見てから読む予定だった。今、見た。読む気が失せた」
「でも、陛下がご自分で注文なさったんですよ。春の食卓の会の夜に」
「陛下のご注文であろうと、規定は規定だ。8本の足を持つ得体の知れない生き物を、陛下のお口に入れるわけにはいかん」
一覧にないものは、全部だめ。
前世の品質保証部にも、こういう人がいた。仕様書にない色のネジが1本混じっていただけで、ラインを丸1日止めた検査係長。社内でのあだ名は「歩く差し戻し」だった。
その2人目が、懐中時計を持って目の前に立っている。
心の中で、ヘルマン様の眉間のしわに、蛸の吸盤を1つずつ貼りつけた。8本分。
この人は、何年経っても変わらない。規定と懐中時計でできた、この——
「このタコ……」
口から、零れた。
ヘルマン様の懐中時計が、止まった気がした。
厨房の全員が、息を呑んだ。この国でも「タコ」が悪口になるのかどうか、私は知らない。でも、口調で分かる。たぶん、伝わった。
「……タコ、じゃなくて。この蛸、とってもおいしいんですよ。茹でると、赤くなって」
私は、鍋の中を指さした。蛸が、ちょうどいい具合に足を1本振った。
「故郷では、この蛸のことを、親しみをこめて『このタコ』と呼ぶんです。尊敬する方にしか使わない言い方で」
「尊敬?」
「はい。とても」
ヘルマン様は、長いこと私を見ていた。眉間のしわが、3本になった。
それから、ふいに懐中時計を開いた。閉じた。ポケットから、手のひらに収まる薄い本を取り出した。王宮料理規定の、抜き書きの写しだ。
「……第3条、第7項」
ヘルマン様は、ぱらりとページをめくった。
「『海の幸。魚、貝、その他、海より獲れたるもの』」
「その他?」
「その他、だ」
規定集を丸ごとそらんじている人が、わざわざページをめくっていた。蛸から目をそらすための時間稼ぎに見えた。
ヘルマン様は、本を閉じた。
「規定を起草した者は、蛸を想定していなかっただろう。だが、海より獲れたことは疑いようがない。樽の中に、海水が入っていた」
「……つまり」
「第3条第7項、『その他』として認める。ただし、毒見役が茹でたものを確かめてからだ。それから」
ヘルマン様は、懐中時計をポケットに戻した。
「尊敬する相手を、生き物の名前で呼ぶ習慣は、報告書には書かなくてよい」
ヘルマン様は、規則正しい足音で去っていった。
かつ、かつ、かつ。
厨房の誰かが、つぶやいた。
「侍従長、『その他』で通した……」
「あの人、蛸が見たかったんじゃないの」
マルタさんの言葉に、全員がうなずいた。
*
午後。蛸の下ごしらえは、ガストーネさんが引き受けた。
「塩で、もむんです。ぬめりが取れるまで」
私はかまどから3歩離れて説明した。厨房規則、第一条。毒見役はかまどに近づかないこと。12年経っても、この3歩は変わらない。
ガストーネさんは、粗塩をひとつかみ蛸にまぶし、大きな手で揉みはじめた。蛸はまだ少し動いていたが、料理長の手の中ではおとなしかった。灰色の泡が立ち、ぬめりが落ちていく。
「それから、足のほうから、ゆっくりお湯に入れます。足がくるんと丸まるので」
ガストーネさんが、沸き立つ大鍋に蛸を沈めた。足の先から、ゆっくりと。
湯の中で、8本の足がくるり、くるりと外側へ巻いていった。赤茶色だった体が、みるみる鮮やかな赤に染まっていく。
「赤くなった!」
ティモが、頬の丸い跡を忘れて身を乗り出した。
「花みたい……」
確かに、花のようだった。湯の中に、赤い花がひとつ咲いた。
茹で上がった蛸を、ガストーネさんがまな板に載せた。足を1本切り落とし、薄く切る。断面は白く、縁だけが赤い。
手袋を外した。
「被告人、茹で蛸。罪状、毒物混入の疑い」
見る。断面、真っ白。透明感あり。皮の赤、均一。
嗅ぐ。潮の香り。茹でた甲殻類に似た、甘い匂い。
含む。
噛んだ瞬間、むちっと歯が押し返された。もう一度噛む。ぷつり、と切れた。噛むほどに、身の奥から甘みがにじんでくる。吸盤のところだけが、こりこりと楽しい歯ごたえを残した。
前世の、スーパーの鮮魚売り場の茹で蛸。それより、ずっと甘い。
「舌の奥で3つ数えます。1、2、3。容疑者、青輪蛸。唾液の毒は熱で壊れない。しかし、舌のしびれ、なし。これは、ただの甘い蛸です」
厨房が、息を詰めていた。
「判決。——無罪」
「完全じゃないの?」
マルタさんが、黒板の前で首をかしげた。
「完全無罪は、たこ焼きになってからです。この蛸は、まだ途中なので」
ガストーネさんが、切れ端をひとつつまんで口に入れた。黙って噛んで、もうひとつつまんだ。
「……ん」
今日2つ目の新種だった。「気に入った」の「ん」。
*
夕食の毒見のあと、30分のあいだに、私はユリウス様に蛸の話をした。
樽が動いたこと。ティモの顔に張りついたこと。ヘルマン様が「その他」で通したこと。茹でると赤い花のようになったこと。
ユリウス様は、ハーブティーのカップを両手で包んだまま、ずっと聞いていた。
「足は」
「8本ありました。マルタさんが3回数えました」
「本当だったのか」
ユリウス様の青い目が、少しだけ大きくなった。
「見たい」
斜め後ろで、ヘルマン様の懐中時計がぱちんと鳴った。
*
翌朝、樽の底にいた小さいほうの蛸が、桶に入れられて食堂に運ばれた。ガストーネさんが予備に生かしておいたものだ。
ユリウス様は、桶の前にしゃがみこんだ。
「1、2、3……」
足を数えている。
その後ろで、ルネさんが小さくため息をついた。昨日、黒板の『足がない 10倍』に銀貨を置いたのは、ルネさんだった。足のない生き物であってほしかったのだよ、と本人は言っていた。
「……8」
蛸の足が1本、するりと桶の縁を越えて、ユリウス様の指先に触れた。
ちゅぽん。
「陛下!」
ヘルマン様の声が裏返った。ユリウス様は、吸いつかれた指をじっと見ていた。蛸の足が、ゆっくりと指に巻きついていく。
ユリウス様の肩が、震えた。
「……冷たい。それに、くすぐったい」
それから、声を立てて笑った。
14歳の王様が、蛸に指を吸われて笑っていた。ヘルマン様は、懐中時計を握りしめたまま、天井を仰いでいた。
*
たこ焼きを作るには、たこ焼き器が要る。
鉄の板に、半球の穴がいくつも並んだもの。前世の屋台で、鉢巻きのおじさんがくるくる回していた、あの黒い鉄板だ。この国には、もちろんない。
私は、羊皮紙に絵を描いて、城の裏手の鍛冶場を訪ねた。
鍛冶屋のゴドーさんは、煤だらけの顔をした、無口な大男だった。厨房のガストーネさんと並べたら、どちらが熊か分からない。
「鉄の板に、丸い穴を。深さは親指の半分くらい。それを、縦に4つ、横に7つ」
「28個」
「はい。穴は貫通させないでください。お椀みたいに、底を残して」
ゴドーさんは、羊皮紙をしばらく見つめていた。
「……何に使う」
「料理です」
「料理?」
「丸い粉の玉を、焼くんです。中に蛸を入れて。焼きながら、この鉄の串でくるっと回して、丸くします」
ゴドーさんは、私の顔と羊皮紙と、持参した細い鉄の串を順番に見た。
「毒見役が、28個の穴の開いた鉄板と、鉄の串を注文する」
「はい」
「……新しい拷問具か」
「違います」
「陛下のお食事に、使うのか」
「陛下が、ご自分で回したいそうです」
ゴドーさんは、煤だらけの顔をこすった。顔が、さらに黒くなった。
「3日で、やる」
「ありがとうございます」
「穴は、29個にしておく」
「なんでですか」
「1個、失敗する」
職人の言うことは、正しい。私は黙ってうなずいた。
*
——同じ頃、北の国境では。
国境の砦の見張り台で、若い兵士があくびを噛み殺していた。
雪の残る街道の向こうから、馬車の列がやってくる。先頭の旗に、銀の狼の紋章。北の隣国、ヴォルスカ王国の紋章だった。
「使節団だ。通達のとおりだな」
隊長が、望遠鏡をのぞきながら言った。
馬車の列が、砦の前で止まった。兵士たちの昼食の鍋が、ちょうど煮えたところだった。隊長が、使節団に温かい汁を一杯振る舞おうと声をかけた。
2台目の馬車から、灰色の外套の女がひとり降りてきた。表情のない顔。まっすぐな背筋。手袋をはめた手に、細い銀の針を1本持っている。
女は、兵士たちの鍋の前に立ち、無言で針を汁に浸した。引き上げて、針先を見る。それから、ひと匙だけ口に含んだ。
3つ数えるほどの間。
女は、それを飲み込まずに、手巾に吐き出した。
「可」
それだけ言って、女は馬車に戻っていった。
兵士たちは、顔を見合わせた。
「……今の、何だ」
「さあ。うちの鍋に、何か文句があったんじゃないか」
隊長は、望遠鏡を下ろした。
「あれが、北の毒見役だそうだ。噂じゃ、判決は一文字しか言わないらしい」
鍋は、ぐつぐつと煮え続けていた。
「……で、これ、食っていいのか」
「可、と言ってたぞ」
「可って、何だ」
誰も、答えられなかった。




