第24話 本当の毒見
目を開けると、知らない天井だった。
白い漆喰。黒い染みは、ひとつもない。厨房の天井ではない。
体の上に、毛布が3枚かかっていた。重い。温かい。胸の上に、橙色の小さな光が、ぼんやりと浮かんでいた。
「……起きた」
声のほうを向くと、寝台の脇の椅子で、ティモが目をこすっていた。
「起きた! 起きました! ミレーユさんが起きました!」
ティモは、扉を開けて廊下に叫んだ。それから私のほうに戻ってきて、また扉に走って、また叫んだ。
「起きました! しゃべる前ですけど、目が開きました!」
城じゅうに、聞こえたと思う。この子の拡声能力は、医務室の壁くらいでは止められない。
「……ティモ。何日」
「3日です。3日、寝てました」
3日。
毒見役に休日はない。12年間、1日も休まなかった。
その記録が、3日で途切れた。いや、もう毒見役ではないのだから、記録はとっくに途切れているのだけれど。
*
最初にやってきたのは、医務室の薬師だった。
私の脈を測り、瞼をめくり、舌を見て、満足そうにうなずいた。胸の上の橙色の光は、フロリアンさんが3日間、交代で術式をかけ直してくれていたものだと聞いた。
「もう大丈夫でしょう。何か、召し上がれますか」
薬師が、盆を持ってきた。
深い器に、白いものが入っていた。
粥だった。
私は器を見下ろした。
手袋は、なかった。どこかで落としたのだろう。
「……被告人、粥」
薬師が、ぎょっとした顔をした。ティモが、帳面を開いた。
「見ます。白い。米の粒が、半分ほどほどけている。表面に、薄い膜。嗅ぎます。米の、甘い湯気。それから」
私は器の縁に顔を近づけた。
「……焦げた、匂い」
匙を入れた。器の底のほうから、茶色い、薄いかけらが浮かんできた。
鍋の底で焦げついた米。前世で、おこげと呼んでいたもの。
口に入れた。
とろりとした粥の甘さ。塩が、ほんの少し。そこに、おこげの香ばしさが混じる。噛むとかりっとして、それからふやけて、ほどけていく。
塩は、2回だった。
煮込みの途中で1回。火から下ろす前に1回。
「……この粥、医務室で作ったものじゃないですね」
薬師が、困ったように笑った。
「料理長が、毎朝、持ってこられるのです。3日間、毎朝。あなたが起きなければ、下げて、また翌朝に新しいのを。規定で、白麦は病人食の粥に限ると定められているから、と」
白麦は、粥に限る。
ガストーネさんは、はじめて規定を、そのまま守っていた。
縁を、焦がして。
「舌の奥で、3つ数えます」
1、2、3。
冷たさは、どこにもなかった。
「判決。——完全無罪」
ティモが、帳面に書きつけながら、ぐしゃぐしゃの顔で笑っていた。
*
昼過ぎに、ユリウス様がいらした。
ヘルマン様を連れて。ヘルマン様は、懐中時計を握っていなかった。珍しく、両手が空いていた。
「ミレーユ」
ユリウス様は、寝台の脇の椅子に座った。ティモが、慌てて立ち上がって部屋の隅に下がった。
「気分は」
「おかげさまで。陛下こそ、お食事は」
「……毎食、ヘルマンに見張られている。全部食べろと」
ヘルマン様が咳払いをした。
ユリウス様は、この3日間のことを話してくれた。
クラウスは、すべてを白状した。ベルトラン伯爵に雇われて、城に上がったこと。霜塩は、伯爵が北部の交易の荷に紛れさせて取り寄せたものだったこと。
伯爵は、北部の不作の救済金を、長年にわたって懐に入れていた。王宮の仕入れを安い業者に替えては、差額を着服していた。菓子も、魚も。
陛下が、評議会で意見を言うようになった。毒見役の減俸を、自分の菓子代で払うような、規定の隙間を突く王になり始めた。15歳になって議決権を持てば、いずれ帳簿を見られる。
だから、15歳になる前に。
まず、見抜く舌を城から追い出した。それから、術式の穴を使った。
「伯爵は、爵位を取り上げられた。北の塔に入っている」
ユリウス様は淡々と言った。
「香水は、没収した。塔の番兵が、鼻が曲がると言っていたので」
私は笑おうとして、咳き込んだ。
「……陛下。それ、冗談ですか」
「ヘルマンから、教わった」
ヘルマン様が、窓の外を見ていた。耳が、少しだけ赤かった。
*
「毒見役」
ヘルマン様が私のほうに向き直った。
「元、です」
「今は、そうだ」
ヘルマン様は寝台の前で姿勢を正した。
それから、深く頭を下げた。
腰を折って、背中がまっすぐになるくらいまで。侍従長が、誰かに頭を下げるのを、私は12年間、見たことがなかった。陛下にさえ、会釈以上はしない人なのに。
「王宮料理規定を守る者として、申し上げる。評議会の判断は、規定上は正しかった。術式は正しかった。……だが、あの夜、陛下のお命を守ったのは、規定でも術式でもなかった」
ヘルマン様は顔を上げなかった。
「100年前の毒見役の名前の隣に、君の名前を書き加えた。第8条の原本に。……いや、違う。100年前の毒見役は、倒れたあとで陛下を守った。君は、倒れる前に守った。同じ欄に書くべきではなかったかもしれない」
「……侍従長」
「頭を上げろ、と言いたいのだろう。規定に、侍従長が頭を下げる相手の定めはない。したがって、私の好きにする」
かち、とどこかで音がした。
ヘルマン様の懐中時計は、胸のポケットにしまわれたままだった。音は、ヘルマン様の靴が、床を踏み直した音だった。
ようやく、ヘルマン様は頭を上げた。
「毒見役を、復職させる」
手に、紙の束を持っていた。
「評議会は、今朝、全会一致で議案第38号を撤回した。毒見役の予算は、王宮の年4回の晩餐会のうち、1回を取りやめて捻出する。……晩餐会1回で、毒見役の3年分の給金がまかなえる。私は、12年間、その計算をしてこなかった」
ヘルマン様は紙を1枚ずつめくった。
「それから、規定を改める」
【王宮料理規定 改正案】
第3条の2 香辛料の使用は、毒見役の判断に委ねる
第8条の2 毒見役は、陛下の食卓において、陛下と同卓にて最終の毒見を行う
第9条の2 毒見ののち、料理の運搬は2名以上で行う
第12条の2 料理人は、毒見役の定める手順で手を清めたときに限り、素手で料理に触れてよい
「第3条の2は」
「カレーだ」
ヘルマン様は無表情で言った。
「陛下が、あの夜に窓から嗅いだ匂いの料理を、一度は食べてみたいとご所望だ。毒見役の舌が確かめた料理を、規定に載っていないというだけでお出しできないのは、侍従長として筋が通らん」
この石頭。
……いや。
いい石頭だ。本当に。
「術式も、続ける。フロリアンには、北の毒も読めるよう、術式を広げさせる。舌と術式の、二重の検査だ」
「前の職場では、それを、ダブルチェックと言いました」
「覚えておく」
ヘルマン様は紙束を枕元に置いた。
「毒見役。復職の意思は」
私はユリウス様を見た。
ユリウス様は、何も言わなかった。ただ、膝の上で、両手をぎゅっと握っていた。
「……謹んで、お受けします」
ユリウス様の手が、ほどけた。
*
夕方、薬師の許しをもらって、厨房へ下りた。
ティモに支えられて、階段を1段ずつ。3日ぶりの、地下への階段。20日ぶりに下りたのが、ついこのあいだのことなのに、もうずいぶん昔のような気がした。
厨房の扉を開けると、全員がいた。
マルタさんが黒板の前に立っていた。
【本日の賭け】
ミレーユ復職:確定
配当なし(全員同じほうに賭けたため)
「統計よ」
マルタさんは泣きながら言った。
ルネさんは、コック帽を斜めにかぶって、プリンを1つ差し出した。カラメルは、7枚目と8枚目のあいだの色だった。フロリアンさんは、目の下のくまが顎まで届きそうだった。「理論上は、3日寝なくても平気です」と言いながら、作業台に突っ伏した。
ガストーネさんは奥の壁の前にいた。
1万3千本を超える、黒い線。
その端に、1本だけ、赤い線。
「料理長」
「ん」
私は赤い線の前に立った。
「……あのとき、2回だって、言ってくれて、ありがとうございました」
「本当のことだ」
「12年前も、ありがとうございました」
「……覚えてないんだろう」
「覚えてません。でも、グラタンの縁は、覚えてます」
ガストーネさんは、しばらく何も言わなかった。
それから、赤い線の隣に、黒い炭で新しい線を1本引いた。
「……今朝の粥の分だ」
「粥は、医務室の分です」
「無罪にしたんだろう」
「完全無罪です」
「なら、引く」
*
「あたしが来てること、忘れてないかい」
厨房の隅の椅子から、声がした。
アデライデさんだった。杖を膝に立てかけて、ハーブティーをすすっていた。ティモが、城下まで迎えに行ったのだと、あとで聞いた。
「……アデライデさん」
「毒あり、を出したんだってね」
「はい」
「あたしは、40年で1度。料理長の、冷えた料理にだけ。あんたは、12年で1度。本物の毒に」
アデライデさんはカップを置いた。
「半人前は、卒業だね」
私は何も言えなかった。
この婆さんに褒められたのは、12年ではじめてだった。
「約束だから、残りの半分を教えてやる」
アデライデさんは、壁の線を見上げた。黒い線と、1本の赤い線を。
「毒見役の仕事はね。食べる人が、安心して『いただきます』を言えるようにすること。それが半分」
「はい」
「残りの半分は。作る人が、安心して料理を出せるようにすることさ」
私は息を止めた。
「毒見役が『毒なし』と言うから、料理人は、胸を張って皿を出せる。あんたが12年前に熊にしたことだよ。……あんたは、それを覚えてもいないで、12年間、毎日やってたんだ」
アデライデさんは、カップの縁を指でなぞった。
「あの晩のあと、あたしは次の春に引退した。病み上がりの婆さんが、安心して毒見の間を空けられたのはね。あの晩の見習いがいたからさ」
アデライデさんはふんと鼻を鳴らした。
「あたしは、それを言葉にするのに、30年かかった。あんたは、言葉にする前にやってた。だから半人前だと言ってたんだよ。……自分のやってることが、分かってなかったからね」
勝てない。
やっぱり、この婆さんには、一生勝てない。
「……アデライデさん」
「なんだい」
「今度、ババロア、作ってください。毒なしで」
「気が向いたらね」
*
夜。医務室に戻ると、寝台の脇の小さな卓に、皿が1枚置いてあった。
白い、三角のもの。
おにぎりだった。
ただし、三角というには、ずいぶん歪んでいた。ひとつの角だけが尖っていて、反対側は丸くつぶれている。表面に、小さな指の跡が、いくつもついていた。
ガストーネさんの手の跡ではなかった。もっと小さな手の。
「……陛下」
扉の陰から、ユリウス様が顔を出した。ヘルマン様はいなかった。ひとりで来たらしい。
「手は、洗った。お前の手順で。30数えて。酒で清めた」
「……陛下が、握られたんですか」
「料理長に教わった。はじめてだ。うまくできなかった」
ユリウス様は、歪んだおにぎりを見下ろした。
「規定に、王が自分で握ったおにぎりを、誰に食べさせるかの定めはあるか」
「……ございません」
「では、食べよ」
私は手を合わせた。
「いただきます」
両手で持った。かじった。
塩が、多かった。握りすぎて、ぎゅっと固かった。真ん中の鱒が、端のほうに寄っていた。
でも、手の形がついていた。
「……判決」
ユリウス様が息を止めた。
「塩、多め。握り、固め。具の位置、偏りあり」
ユリウス様の肩が、少し下がった。
「——完全無罪」
ユリウス様が顔を上げた。
「ただし、陛下にとっての、はじめての判決です。料理人の判決は、もう少し厳しくいきます」
「……分かった」
ユリウス様は、少しだけ笑った。それから、寝台の脇の椅子に座って、言った。
「ミレーユ。私は、ずっと、毒見役とは何なのか、分からなかった」
「はい」
「毒を確かめる者だと、ヘルマンに教わった。でも、お前が来てから、違う気がしていた」
ユリウス様は、自分の小さな手のひらを見た。
「毒見役というのは、私と一緒に食べてくれる人のことだ」
私は、歪んだおにぎりの最後のひと口を、ゆっくりと噛んだ。
塩が、多かった。
目から出た分の塩も、たぶん混ざっていた。
*
——同じ夜、侍従長の執務室では。
ヘルマンは、王宮料理規定の原本を開いていた。
第8条のページ。100年前の日付と、ひとつの毒の名と、ひとりの毒見役の名前。
その下に、今朝、新しい一行を書き足してあった。
雪の月10日 毒見役ミレーユ、倒れる前に陛下を守る
ヘルマンはその一行を読み返した。
それから、ペンを取って、その横に小さく書き足した。
同日 陛下、毒見役の名を呼ぶ
書いてから、少し考えた。
規定の原本に、書くべきことではなかった。
ヘルマンは、懐中時計を開いた。夜の11時。
閉じた。
線を引いて消すのは、明日にすることにした。




