第23話 本日、毒あり
「判決。本日——」
食堂の24人が、息を止めていた。
「毒あり」
12年間、1万3千回。
一度も言わなかった言葉は、思っていたよりも、ずっと短かった。
*
最初に動いたのは、ヘルマン様だった。
「衛兵! 扉を閉めよ。誰も食堂から出すな。陛下の器には、誰も触れるな」
懐中時計を握ったまま、よく通る声で言った。この人の声が大きいのを、12年ではじめて聞いた。
扉の外で、衛兵たちが槍を交差させた。
食堂が、ざわめきに包まれた。どこかで、グラスが倒れる音がした。貴族たちが椅子を引き、互いの顔を見合わせた。老侯爵が、自分の器を遠くへ押しやっていた。
「何を」
ベルトラン伯爵が立ち上がった。
「何を馬鹿な。術式の検査は、済んでいるのですよ。フロリアン殿が、控えの間で鍋にかざした。毒はなかった。そうでしょう、フロリアン殿」
「……鍋には、ありませんでした」
フロリアンさんの声は、硬かった。
「では、毒などあるはずがない。素人の舌が、何を」
伯爵は暖炉の前を指さした。
「それとも、鍋から器によそった者が、何かしたとでも?」
全員の目が、暖炉の前に向いた。
お玉を持ったまま立ち尽くしている、白い前掛けの大男に。
「衛兵。料理長を」
衛兵が2人、ガストーネさんの両腕をつかんだ。
ガストーネさんは、抵抗しなかった。お玉が、床に落ちて、からんと鳴った。
その音で、私の中の何かがぴたりと止まった。
——12年前と、同じだ。
覚えていないはずの光景が、手紙の文字の形で、目の前に浮かんだ。衛兵に腕をつかまれた、料理長になったばかりの男。皆の前で、震えながら、残りの料理を食べた見習い。
舌の奥が、冷たかった。
でも、今はそれどころではない。
「待ってください」
私は立ち上がった。
膝が、少しだけぐらついた。
「料理長を、離してください。犯人は、料理長ではありません」
「何を根拠に」
「私の器を」
私は、自分の前に置かれた器を引き寄せた。同じ鍋から、同じガストーネさんのお玉でよそったスープ。陛下の器とは、別の給仕が運んだもの。
手袋は、もうはめていなかった。
「見ます。澄んだ黄金色。陛下の器と同じ。嗅ぎます。鶏、玉ねぎ、ローリエ、人参。同じ。含みます」
ひと口、すくった。
熱い。やさしい鶏のスープ。
1つ目の塩。煮込みの塩。丸い。
2つ目の塩。仕上げの塩。表面だけ、少し尖っている。
——そこで、終わった。
3つ目は、来なかった。
「……料理長」
衛兵に両腕をつかまれたまま、ガストーネさんが私を見た。
「このスープに、塩を、何回入れましたか」
食堂じゅうが、ガストーネさんを見た。
ガストーネさんはひと呼吸だけ置いて、答えた。
「2回だ」
大きな声だった。「ん」でも「は」でもない、はっきりとした、料理人の声。
「煮込みの途中で1回。火から下ろす前に1回。12年、変えていない」
「私の器には、塩が2つあります。料理長の、2回の塩です」
私は陛下の器を指さした。
「陛下の器には、3つあります。3つ目は、冷たい塩です。塩の味がする、塩ではないものです」
食堂が、しんとなった。
「鍋には、2つ。陛下の器には、3つ。鍋からよそったあとで、陛下の器にだけ、何かが加わったんです。料理長のお玉から、陛下の前に置かれるまでのあいだに」
私は扉の脇を見た。
「その器を運んだのは、あなたです。クラウスさん」
*
クラウスさんは、にこやかな顔のままだった。
「ミレーユさん。何かの間違いです。私は、器を運んだだけですよ。暖炉からテーブルまで、ほんの十数歩」
「十数歩あれば、十分です」
「証拠は、ございますか」
クラウスさんは、フロリアンさんのほうを向いた。
「魔術師殿。陛下の器に、術式を」
フロリアンさんが、ためらいながら両手をかざした。白い光の輪が、陛下の器の上に広がった。
光は、白いままだった。
青にも、紫にも、透明にも、ならなかった。
「……反応、ありません」
フロリアンさんの声が、かすれていた。
ベルトラン伯爵が両手を広げた。
「ご覧なさい。術式は、毒はないと言っている。王国の宮廷魔術師が、評議会の前で証明した術式が。……毒見役殿。あなたは、職を失った恨みで、陛下の誕生日の席を乱しているだけではありませんか」
心の中で、何かを言い返そうとした。紫の、何か。
でも、言葉が出てこなかった。
舌の奥の冷たさが、喉のほうへ、ゆっくりと広がり始めていた。
「……術式は」
私はテーブルの縁をつかんだ。
「図鑑に載っている毒しか、読めません。フロリアンさんが、そう言っていました」
フロリアンさんがはっとした顔をした。
「私の舌も、知らない毒の名前は、言えません。でも」
指先が、冷たかった。
「いつもと違うことは、分かります。12年、1万3千回、同じ料理長のスープを確かめてきましたから。……いつもと違う味は、この3つ目だけです」
そのときだった。
クラウスさんが動いた。
にこやかな顔のまま、すっと一歩下がり、衛兵の槍の隙間を目がけて、身をひるがえした。
その腕を、大きな手がつかんだ。
ガストーネさんだった。
衛兵の手を、いつ振りほどいたのか、誰にも分からなかった。30年間、大鍋を振り、昇降機の綱を1日3回引いてきた手が、クラウスさんの手首を万力のように締め上げていた。
「……ん」
15種類目。
怒ったときの「ん」だった。12年間、一度も聞いたことのない「ん」。
クラウスさんの袖口から、何かがこぼれ落ちた。
小さなガラスの瓶。床に落ちて、転がって、私の足元で止まった。
中に、白い細かな結晶が、半分ほど残っていた。塩のように見えた。
*
フロリアンさんが瓶を拾い上げ、光にかざした。
「……霜塩」
小さな声だった。
「北の国の毒です。この国の図鑑には載っていない。北では、塩に混ぜて使うと聞いたことがあります。口にすると、体の熱を奪う。ゆっくりと。指先から、体の芯まで。……術式が読めないのは、当然です。僕は、この国の図鑑に載っている毒しか、術式に教えていない」
ヘルマン様がクラウスさんを見下ろした。
「給仕クラウス。お前を城に推薦したのは、誰だ」
クラウスさんは答えなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ、テーブルの中ほどに目をやった。
紫の上着に。
ベルトラン伯爵は、にこやかな笑顔のまま、立っていた。額に、汗が一筋、流れていた。
「……私が推薦したのは、身元の確かな若者です。その者が何をしようと、私の知るところでは」
「伯爵」
ヘルマン様の声は、低かった。
「北部の交易の窓口は、評議会の予算担当の管轄だったはずですな」
伯爵の口が、止まった。
衛兵たちが、伯爵のまわりを囲んだ。紫の上着が、香水の匂いごと、槍の輪の中に閉じこめられた。
*
そこから先は、少しだけ音が遠くなった。
膝から、力が抜けた。椅子に座ろうとして、座り損ねた。
床が、近づいてきた。
誰かの腕が、私を受け止めた。細い腕だった。
「ミレーユ!」
ユリウス様だった。
はじめて、名前を呼ばれた。
私の頭を膝に抱えて、青い目が、真上から私を見下ろしていた。
「ミレーユ。飲んだのか」
「……吐きました。でも、少し」
舌の奥から、冷たさが、喉を通って胸のほうへ降りてきていた。指先の感覚が、遠い。
フロリアンさんが、私の横に膝をついた。両手をかざす。解毒の術式の、青い光。
何も、変わらなかった。
「だめだ。解毒の術式は、知っている毒にしか効かない。霜塩の成り立ちが分からないと、術式が組めない」
フロリアンさんの手が、震えていた。
私は息を吸った。
知らない毒の名前は、言えない。
でも、知らない毒の味なら、言える。それが、毒見役の仕事だ。
「……フロリアンさん。書いてください」
「え」
「毒見の、記録です」
ユリウス様の膝の上で、私は目を閉じた。
「舌の奥。冷たい。雪をなめたときの、細い冷たさ。塩の味。ただし、塩ではない。広がり方は、舌の奥から喉、喉から胸。広がる速さ、ゆっくり。熱いスープの中でも、冷たさが消えない。つまり、熱で壊れない」
フロリアンさんが、ペンを走らせる音がした。
「指先、しびれ。右手が先。脈、遅い。……数えます。1、2、3。いつもより、1つ数えるあいだが長い。体温、下がっている。寒い。……判決の、材料は、以上です」
フロリアンさんの手が、止まった。
「……熱を、奪う毒。熱で壊れない。ゆっくり、芯へ」
それから、フロリアンさんは顔を上げた。
「奪われた熱を、外から戻し続ければいい。毒が抜けるまで、奪われるより速く。……保温の箱の、1号」
「……グラタンを、焦がしたやつ」
「熱の入口が開きっぱなしで、周りの熱を集め続ける術式。失敗作です。でも、理論上は」
理論上は。
グラタンを化石にした、あの理論上は。
人の命を、理論上で扱わないでほしい。……と、いつもなら言うところだった。今夜は、言わなかった。理論上でいい。理論上で十分だ。
「……焦がさないで、くださいね」
「努力します」
フロリアンさんの声が、少しだけ笑っていた。泣きそうな声のままで。
フロリアンさんが、私の胸の上に両手をかざした。
橙色の光が、広がった。
温かかった。
暖炉の前にいるように。冬の夜に、大鍋のそばにいるように。
「ミレーユ」
ユリウス様の手が、私の冷たい手を握っていた。
「ミレーユ、寝るな。30分だ。30分、起きていろ。ヘルマン、時計を」
「……計っております、陛下」
ヘルマン様の懐中時計の音が、すぐそばで聞こえた。かち、かち、かち。
「100年前の毒見役は、25分で倒れた」
ヘルマン様の声が、少しだけ震えていた。
「君は、倒れる前に、陛下の器を止めた。……第8条が、条文になってから、はじめて本来の役目を果たした」
かち、かち、かち。
私は、ユリウス様の手の温かさを数えていた。
1、2、3。
陛下のお口には、入らなかった。
それだけ確かめられれば、今日の判決は、十分だった。
*
——同じ夜、地下の厨房では。
誰もいなくなった厨房で、ガストーネは、奥の壁の前に立っていた。
1万3千本を超える、炭の黒い線。
ガストーネは、炭ではなく、赤い何かを指先につけていた。紅蕪を煮詰めた、深い赤の汁。
一番新しい列の端に、線を1本引いた。
赤い線だった。
12年間で、はじめての色だった。
ガストーネは、その赤い線を、長いこと見上げていた。
作業台の上で、24枚のグラタンが冷めていた。一番縁の焦げた1枚だけが、ティモの手で、布に包まれていた。




