第22話 いつもと違う味
「動かないで」
「動いてません」
「息もしないで」
「死にます」
雪の月10日、夕方。青い鍋亭の屋根裏で、ハンナさんが私の背中の紐を締め上げていた。
ハンナさんが若い頃に一度だけ着たという、深い緑色の晴れ着だった。袖口に小さな刺繍がある。30年ぶりに箪笥から出したら、樟脳の匂いがすごかった。3日間、窓辺に吊るして匂いを抜いた。
「城の晩餐会なんて、あたしの人生で一番縁のない場所だよ。それに行く子の服を、あたしが着せてるんだからねえ」
「ありがとうございます」
「礼はいいから、腹をへこませな」
紐が、もう一段締まった。
前世の私は、会社の式典にさえ私服のスーツで出ていた。着飾るという工程が、人生の工程表に入っていなかった。
鏡の中に、見慣れない女の人が立っていた。
「……誰ですか、これ」
「あんただよ」
「是正処置が必要です」
「何を言ってるのか分からないけど、似合ってるよ」
ハンナさんは私の手に何かを押しつけた。
白い手袋だった。毒見のときにはめていた、あの手袋。
「これも持っていきな。あんた、これがないと落ち着かないんでしょ」
*
城の裏門をくぐったのは、20日ぶりだった。
門番が、私を見て二度見した。三度目は、敬礼だった。
厨房へ下りる階段の途中で、もう声が聞こえた。
「来た!」
ティモが、階段の下から駆け上がってきた。途中で2段踏み外して、それでも止まらずに飛びついてきた。
「ミレーユさん! ドレス! すごい! 誰ですか!」
「私よ」
「帳面に書いていいですか!」
「何を」
「『誰ですか、これ』って顔してたので!」
書かなくていい。
厨房に入ると、湯気と、懐かしい匂いと、全員の視線が一度に来た。
マルタさんが、粉まみれの手を前掛けで拭いてから、私を抱きしめた。拭いたのに、背中に白い手形がついた。ルネさんが、コック帽を胸に当てて一礼した。帽子は、今日は斜めに戻っていた。フロリアンさんが、なぜか厨房にいて、眼鏡のひびが新しいものに替わっていた。
そして、作業台の向こうに、ガストーネさんがいた。
口ひげはきれいに整えてあった。先がほんの少しだけ上を向いている。ルネさんの仕事は、今も続いているらしい。白い前掛けは、ぴんと張っていた。頭のてっぺんの一房だけが、あいかわらず天を向いていた。
目が合った。
手紙のことを言おうと思っていた。ばか熊、と。書くならもっと早く書け、と。
言えなかった。
「……ただいま、戻りました」
「ん」
14種類目。おかえり、の「ん」だった。
ガストーネさんは、作業台の上の天板を指さした。グラタンの皿が、24枚並んでいた。まだ焼く前の、白いソースとチーズ。
「あとで、焼く」
「……縁は」
「焦がす」
*
食堂へ上がる階段の途中で、ヘルマン様が待っていた。
踊り場の窓の前に、懐中時計を持って立っていた。私を見ると、ほんのわずかに眉を上げた。晴れ着のせいだと思う。
「……毒見役」
「元、です」
「今夜は、客だ」
ヘルマン様は懐中時計に目を落とした。
「料理は、温かい。術式で2分。昇降機で2分。30分は、もう誰も待っていない」
「ティモから、聞きました」
「陛下は、3口しか召し上がらない」
「……それも、聞きました」
ヘルマン様は、しばらく窓の外の雪を見ていた。
「規定には、客の食べ方の定めはない」
それだけ言って、踵を返した。かつ、かつ、と階段を上がっていく。
2段上がったところで、振り返らずに付け加えた。
「今夜は、陛下の隣で、ゆっくり食べたまえ」
この石頭。
……12年かけて、ようやく分かってきた。この人の石頭は、たぶん、中身を守るための殻なのだ。
*
晩餐会は、3階の食堂で開かれた。
長いテーブルの24脚の椅子が、今夜は全部埋まっていた。評議会の議員たち。貴族たち。ヘルマン様。フロリアンさん。そして、紫の上着。
ベルトラン伯爵は、テーブルの中ほどに座っていた。香水が、暖炉の熱で温められて、いつもの1.5倍くらい強く漂っていた。
「おや。説明係殿」
伯爵はにこやかにグラスを掲げた。
「城下の食堂で、ずいぶん繁盛されているとか。天職を見つけられたようで何よりです。人は、分相応の場所にいるのが一番ですからな」
この紫キャベ——
「……紫キャベツのマリネ、おいしそうですね」
テーブルの上に、紫キャベツのマリネはなかった。
伯爵の笑顔が、ぴくりと引きつった。向かいの席の老侯爵が、ナプキンで口を押さえて咳き込んだ。
テーブルの一番奥で、ユリウス様が、うつむいて肩を震わせていた。
私の席は、その隣だった。
*
「……来たか」
ユリウス様は顔を上げて、私を見た。
少しだけ、背が伸びたような気がした。20日で伸びるものだろうか。伸びるのかもしれない。14歳だ。
「お招きいただき、ありがとうございます、陛下。お誕生日、おめでとうございます」
「その服は」
「借り物です」
「似合っている」
この子は、まっすぐすぎる。ティモと同じ種類のまっすぐだ。私は、返事の代わりに頭を下げた。
晩餐が始まった。
料理は昇降機で控えの間まで上がってきて、そこでフロリアンさんの術式を通してから運ばれてくる。フロリアンさんは皿が上がってくるたびに席を立ち、控えの間へ走っていった。晩餐会の客なのか給仕なのか、本人にもよく分からなくなっているようだった。前菜の皿が、湯気を立てて運ばれてきた。本当に、温かかった。
焼いた蕪に、溶かしたチーズをかけたもの。蕪の表面にこんがりと焼き色がついていて、ナイフを入れると、中から甘い汁があふれた。チーズの塩気と、蕪の甘みと、黒胡椒のぴりっとした刺激。
見る、嗅ぐ、含む。
手順が、勝手に始まりかけた。私は、慌てて蕪を飲み込んだ。今夜は、判決を出す日ではない。
隣で、ユリウス様が蕪を食べていた。3口目で止まらずに、4口目を切り分けていた。
ただ、今夜の汁物だけは、違うやり方だった。
鶏と根菜のスープ。人参多め。
大鍋ごと昇降機で上がってきて、ガストーネさんが食堂の暖炉にかけた。その前に、フロリアンさんが控えの間で鍋に術式をかざしていた。暖炉の前で、ガストーネさんが器によそう。それを、給仕たちが1人ずつ運ぶ。
陛下の器を運ぶのは、クラウスさんだった。
栗色の髪をきれいに撫でつけて、にこやかに。器を両手で捧げ持ち、暖炉からテーブルの奥まで、ゆっくりと歩いてくる。
ユリウス様の前に、器が置かれた。
私の前にも、別の給仕が器を置いた。
同じスープ。同じ湯気。人参が、器の半分くらいまで入っていた。
*
「ミレーユ」
呼ばれた気がして、振り向いた。
ユリウス様は、私ではなく、器を見ていた。今の声は、気のせいだったのかもしれない。
「……今夜だけ」
ユリウス様が小さく言った。
「判決を、聞かせてくれないか。私の器の」
テーブルが、ざわついた。
「陛下。毒見役は、もう」
ベルトラン伯爵がにこやかに口を挟んだ。
「術式の検査は済んでおります。今さら素人の舌で——」
「余興だ」
ユリウス様は伯爵を見なかった。
「誕生日の余興として、聞きたい。ヘルマン」
「……規定に、誕生日の余興の定めはございません」
ヘルマン様は懐中時計を開いた。
「禁じる定めも、ございません」
テーブルの全員が、私を見ていた。
私は、膝の上の、ハンナさんが持たせてくれた手袋を見下ろした。
白い手袋。20日ぶりに、はめた。
それから、外した。
「被告人、鶏と根菜のスープ」
声が、少しかすれた。20日で、口上を忘れていないだろうか。忘れていなかった。舌が覚えていた。
「罪状、毒物混入の疑い」
ユリウス様が、口の端をほんの少しだけ上げた。
*
見る。
澄んだ黄金色。脂の粒は小さく、少ない。人参の橙色が、器の底に沈んでいる。濁りなし。変色なし。
嗅ぐ。
鶏と玉ねぎとローリエ。人参の、甘い土の匂い。暖炉の、薪の匂いがかすかに移っている。それから、伯爵の香水。これは、スープのせいではない。
ユリウス様の匙を借りて、ひと口すくった。
含む。
熱い。
鶏のスープが、舌の上にやさしく広がった。野菜の甘み。塩は控えめで。
——塩。
舌の上で、塩が1つ目の層をつくった。煮込むときに入れた塩。野菜の甘みと溶け合った、丸い塩気。
2つ目の層が来た。仕上げの塩。表面にだけ、少しだけ尖った塩気。ガストーネさんは、いつも塩を2回に分ける。煮込みの途中と、火から下ろす直前に。12年間、変わらない。
そこで、終わるはずだった。
3つ目が、来た。
舌の奥のほうで。
冷たい、塩気。
熱いスープの中にあるのに、そこだけ、冷たかった。雪をなめたときのような、きんとした、細い冷たさ。塩の味がするのに、塩ではなかった。
知らない味だった。
図鑑の7つのどれでもなかった。眠り苔の痺れでもない。灰鼠の胆の金属の冷たさとも違う。もっと細くて、もっと深いところに沈んでいく冷たさ。
12年間、1万3千回。
一度も、舌に来たことのない味だった。
私は口の中のものを、器の横に吐き出した。
テーブルの誰かが、悲鳴のような声を上げた。
「……どうした」
ユリウス様の声が、遠くで聞こえた。
舌の奥が、冷たかった。吐き出したのに、冷たさだけが、まだそこに残っていた。
私は、ユリウス様の手から匙を取り上げて、器を自分のほうへ引き寄せた。
「陛下。これには、手を触れないでください」
食堂が、静まり返った。
暖炉の前で、ガストーネさんがお玉を持ったまま凍りついていた。ヘルマン様の懐中時計が、ぱちんと鳴った。フロリアンさんが、立ち上がっていた。
扉の脇で、クラウスさんが、にこやかな顔のまま、立っていた。
ベルトラン伯爵のグラスが、ほんのわずかに、傾いていた。
舌の奥で、3つ数えた。
1。
2。
3。
12年間、1度も言わなかった言葉を、私は、口にしようとしていた。
「判決」
声が、震えなかった。自分でも、不思議なくらいに。
「本日——」
*
——同じ瞬間、地下の厨房では。
ティモは、昇降機の綱の前で、24枚のグラタンが焼き上がるのを待っていた。
天板の上で、チーズがぐつぐつと煮え立っていた。縁のところが、ほんの少しだけ、かりかりに焦げ始めていた。
「ミレーユさんの分は、一番焦げてるやつにしなきゃ」
ティモは、1枚ずつ見比べて、一番縁の焦げた皿を選んだ。
それから、帳面を開いて、今夜の日付を書いた。
雪の月10日 陛下のお誕生日
ミレーユさん、帰ってくる
上の階から、何かが倒れるような音がした。
ティモは顔を上げた。




