第21話 厨房からの手紙
「ババロアは、ないよ」
青い鍋亭の扉を開けるなり、その人は言った。
白髪をきっちりまとめて、背中は少し曲がっている。目だけが、鷹のように鋭い。杖をついた手に、雪がついていた。
「……アデライデさん」
「この店に、ババロアはないんだろう。先に言っておくよ。あんたが何か言いかける前に」
まだ何も言っていない。
でも、言いかけてはいた。「このババ」まで、喉のすぐそこまで来ていた。
勝てない。城を出ても、この婆さんには勝てない。
*
「城をクビになったって話、城下の南の外れまで届いてるよ」
店の隅の卓で、アデライデさんはハンナさんの煮込みをすくっていた。見る。嗅ぐ。含む。舌の奥で3つ数える。
「……無罪」
「よその店で判決を出さないでください」
「いい煮込みだね。玉ねぎを、今日はちゃんと炒めてる」
厨房の奥から、ハンナさんが「あんたたち、何者なのよ」という顔でこちらを見ていた。
「ティモが来たよ。あたしの家に」
アデライデさんは匙を置いた。
「厨房の料理を、少し持ってきた。あの子、あんたがいなくなってから、何かあるたびに、あたしのところに報告に来る。拡声器の宛先が、あんたからあたしに変わっただけさ」
「ティモらしいです」
「料理を、食べたよ。熊の料理を」
アデライデさんは窓の外の雪を見た。
「毒が入ってた」
私の匙が、止まった。
「……え」
「本物の毒じゃないよ。落ち着きな」
アデライデさんは、ハーブティーの代わりに出された白湯を、ゆっくりと飲んだ。
「あたしはね、40年毒見役をやって、毒を見つけたのは、1度だけだ」
はじめて聞く話だった。
「先王陛下のお父上の頃さ。当時の料理長が、奥さんを亡くしてね。それからの料理は、何ひとつ間違っていなかった。塩も、火も、盛りつけも、全部正しい。でも、食べる人のことを、何も考えていない料理だった」
アデライデさんは、窓の外を見たまま言った。
「そういう料理はね、体は壊さない。でも、食べる人を少しずつ冷やす。毎日食べてると、食べることが嫌いになる。あたしは、それを毒だと判じた。判決、差し戻し。料理長は怒ったよ。何が悪いんだって」
「……それで」
「3か月、毎日差し戻した。4か月目に、料理長が泣きながら、奥さんの得意だった豆のスープを作った。塩が強すぎたね。完全無罪にしてやったよ」
アデライデさんは私のほうを向いた。
「熊の料理にも、今、同じ毒が入ってる」
*
「焦げが、ないんだよ」
アデライデさんは言った。
「グラタンの縁の、チーズの焦げ。あの熊は、いつもわざと、ほんの少しだけ焦がす。縁のところを、かりかりに。陛下の皿だけじゃない。毒見役の小皿の分まで」
私は思い出した。
グラタン。舌を焼いたあのグラタン。縁のチーズが、皿にかりかりに焼き固まっていた。
晩餐会の夜に出してくれた、仔羊の端切れの焼き色。カレーの、玉ねぎの飴色。ラーメンの、煮豚の焦げ目。
どれも、ほんの少しだけ焦げていた。
「なんで、焦がすんですか」
「あんたが、言ったんだろう」
「私が?」
「12年前。見習いに入ったばかりの頃。熊のグラタンの縁の焦げたところをかじって、『ここが一番おいしい』って。あんた、覚えてないのかい」
覚えていなかった。
「……あんたらしいね」
アデライデさんはため息をついた。
「あの熊はね、それから12年、ずっと縁を焦がしてる。あんたが毒見するから。……今は、焦がしてない。焦げたところを食べる人間が、城にいないからさ。だから、料理が冷えてる。術式で温めたって、冷えてるんだよ」
温かいのに、3口。
ティモの言葉が、頭の中で重なった。
「アデライデさん」
「なんだい」
「毒見役の仕事は、毒を見つけることじゃないって。12年、毎年聞いてます」
「聞いてるね」
「……答えは、何なんですか」
アデライデさんは、しばらく私の顔を見ていた。
「半分だけ教えてやる」
「半分」
「毒見役の仕事はね」
アデライデさんは匙を持ち上げた。
「食べる人が、安心して『いただきます』を言えるようにすることさ」
私は息を止めた。
この人は、いただきますという言葉を知らないはずだ。この国に、その言葉はない。
「あんたが教えたんだろう。ティモが言ってたよ。城の新しい言葉だって。陛下が、毎食、ひとりで言ってるって」
アデライデさんは匙を置いた。
「残りの半分は、自分で見つけな。……まだ半人前だからね」
*
アデライデさんが帰って、その日の夜。
店じまいの頃に、マルタさんが来た。
いつもの粉まみれの前掛けではなく、よそ行きの外套を着ていた。手に、封筒を3つ持っていた。
「郵便屋よ。今夜だけ」
厨房の奥から、ハンナさんが顔を出した。
「マルタ。あんた、この子の面倒をあたしに押しつけて、自分は半月も顔を見せないで」
「忙しかったのよ。城の厨房、誰かさんがいなくなってから、全員の手が遅いの。料理長なんて、塩を入れる前に3回ため息をつくんだから」
「3回?」
「数えてたの。統計よ」
2人は、昔からの知り合いらしかった。見習いの頃、同じパン屋で粉をこねていたのだと、あとで聞いた。声の大きさが同じなのは、そのせいかもしれない。
マルタさんは卓の上に封筒を並べた。
「1つ目。陛下から」
白い上等な紙に、赤い封蝋。王家の紋章。
「2つ目。厨房の全員から。……まあ、全員じゃないわね。いろんな人から」
分厚い封筒だった。
「3つ目」
マルタさんは少しだけ間を置いた。
「料理長から」
茶色い、粗末な紙の封筒。表に、大きな角張った字で「ミレーユへ」とだけ書いてあった。
「ガストーネさんが、手紙を」
「書いたのよ。3日かかって。厨房の隅で、ずっとうなりながら。便箋を14枚だめにしたわ。……ちゃんと数えてたの、あたし」
*
1つ目の封筒を開けた。
【招待状】
雪の月10日、夜
国王ユリウスの14歳の誕生日を祝う晩餐会に、
城下青い鍋亭の説明係、ミレーユを招く
席は、国王の隣とする
ユリウス
少し右上がりの、几帳面な字だった。何度も書き直した跡が、紙の端にうっすらと残っていた。
2つ目の封筒には、1枚の大きな紙が入っていた。
【嘆願書】
侍従長ヘルマン殿
雪の月10日の晩餐会において、
元王宮毒見役ミレーユを、陛下の隣席の客として
お招きすることを、ここに嘆願いたします
その下に、署名が並んでいた。
マルタ。ルネ。ティモ。給仕頭。フロリアン。厨房の料理人と給仕たちの名前が、30人以上。字の大きさも形もばらばらで、ティモの署名だけが、なぜか一番大きかった。
一番下に、細い几帳面な字で、ひと言だけ書き添えてあった。
規定に、誕生日の客の席順の定めはない ヘルマン
「侍従長も、署名したんですか」
「署名じゃないわよ。あれは『許可』ですって。本人いわく」
マルタさんはにやりと笑った。
「あたし、侍従長が嘆願書に何か書く方に賭けてたの。20倍だったわ」
*
3つ目の封筒を開けた。
便箋は、1枚だけだった。大きな、角張った字。インクがところどころ滲んでいた。
ミレーユへ
12年前の話をする
お前は覚えていない
マルタに聞いた
だから書く
俺が料理長になった年の、秋の晩餐会だ
客の侯爵が、俺の料理を食べて倒れた
毒だと言われた
俺は衛兵に腕をつかまれた
アデライデ殿は病で寝ていた
毒見役の代わりにいたのは、見習いのお前だけだ
お前は、俺の料理の残りを、全部食べた
皆の前で、30分、待った
震えていた
それから、言った
毒なし。この料理に毒はありません
毒見役が確認しました。責任は私にあります
侯爵は、酒の飲みすぎだった
次の日から、俺は壁に線を引いた
お前が俺の料理を無罪にするたびに、1本
1万3千と少し、無罪にしてもらった
まだ足りない
雪の月10日、来い
縁を焦がして待つ
ガストーネ
便箋の上に、ぽたりと何かが落ちた。
私のだった。
覚えていなかった。本当に、何も覚えていなかった。
いや。
ひとつだけ、覚えていることがあった。
城に来たばかりの秋、ひどく怖い思いをした夜があった。何があったのかは、ぼんやりとしか覚えていない。ただ、その次の日から、厨房の熊みたいな料理長が、私の小皿の分までグラタンの縁を焦がしてくれるようになった。
16歳の私は、それを「今日はたまたま焦げたんだな」と思って、かりかりのところを、いつもおいしく食べていた。
12年間。毎日。
「……ばか」
声が、漏れた。
「ばか熊。書くなら、もっと早く書いてよ」
「本人に言いなさいよ、それ」
マルタさんが、私の背中をばしんと叩いた。粉のついていない手だったのに、背中が白くなった気がした。
*
マルタさんが帰ったあと、ハンナさんが、鍋の残りを2つの器によそった。
ひとつを私の前に、ひとつを自分の前に置いた。向かい合わせに座った。
「読んでたんでしょ、手紙。泣きながら。何が書いてあったかは訊かないけど」
「……ありがとうございます」
「で、あれ。やるんでしょ。城の新しい言葉」
ハンナさんはぎこちなく両手を合わせた。
「ティモって子が、この前、店でやってたやつ。あたしも覚えた」
私も手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
牛の尾の煮込み。麦酒のほろ苦さ。ほろりと外れる肉。
温かかった。
縁が、ほんの少しだけ焦げていた。
「ハンナさん。この鍋、焦げてます」
「あ? ああ、あんたが泣いてる間、火にかけっぱなしだったからね」
「……おいしいです」
「焦げてるのに?」
「焦げてるところが、一番おいしいんです」
*
——同じ夜、3階の寝室では。
少年は机の上の紙くずを数えていた。
招待状の書き損じ。7枚。
1枚目は、「毒見役」と書いてしまった。もう毒見役ではない。
2枚目は、「ミレーユ」の字が、うまく書けなかった。
3枚目から6枚目は、「席は、国王の隣とする」の一行を、書いては消した。命令のように読めるので。お願いのように書くと、王の招待状にならないので。
7枚目は、最後に「来てほしい」と書き足して、また消した。
少年は、紙くずを1枚ずつ広げて、しわを伸ばした。
それから、机の引き出しに全部しまった。




