第20話 城下の食堂にて
冬の月21日、朝。
私は城の裏門を出た。
荷物は、革の鞄がひとつ。着替えが3枚。毒物図鑑の全3巻は、城の備品なので置いてきた。手袋は、12年ぶんの私物なので持ってきた。それから、厨房で受け取った紙包み。
開けると、人の形をした茶色い焼き菓子が入っていた。生姜と糖蜜の匂い。
ジンジャーブレッドだった。
人形の胸のところに、白い砂糖衣で細い線が描いてあった。よく見ると、懐中時計の形をしていた。ルネさんの仕事だ。ヘルマン様がどこまで注文したのかは、分からない。
ひと口かじった。生姜がぴりっとして、糖蜜が甘い。
判決は、出さなかった。
もう、出す立場ではないのだ。
*
城下は、雪で白かった。
12年間、城の地下と厨房を往復するばかりで、城下を歩いたのは数えるほどしかない。前世の私も、会社と家の往復だった。転生しても、行動範囲の設計が変わっていない。是正処置が必要だ。
住む場所を探さなければならなかった。
マルタさんの紹介状を持って、港に近い通りを歩いた。「青い鍋亭 ハンナを訪ねなさい」。それだけ書いてあった。マルタさんの字は、黒板の賭けの字と同じくらい大きかった。
青い鍋亭は、すぐに分かった。軒先に、本物の青い鍋が吊るしてあった。錆びて、半分緑色になっていた。
扉を開けると、湯気と、煮込みの匂いと、怒鳴り声が一度に襲ってきた。
「ちょっと! そこ閉めな! 寒いんだよ!」
厨房の奥から、大柄な女の人が顔を出した。袖をまくった太い腕。赤い頬。頭に巻いた布から、灰色の髪がはみ出している。
「マルタの紹介? ああ、城をクビになった子ね」
クビ。
廃止、とは誰も言ってくれない。城の外では、廃止も解雇も同じ言葉らしい。
「屋根裏なら空いてるよ。家賃は月に銀貨3枚。払えないなら、店を手伝いな。皿洗いはできる?」
「できます」
「料理は?」
「できません」
ハンナさんが私をじろりと見た。
「城の厨房で12年働いて、料理ができない?」
「厨房ではなく、毒見の間で働いていました」
「毒見ぃ?」
ハンナさんは大きな声で笑った。
「そんなもん、この店には要らないよ。うちの煮込みに毒を入れる暇な奴はいない」
*
青い鍋亭は、港で働く人たちの店だった。
朝は、夜明け前に漁から戻った漁師たち。昼は、荷揚げの人足たち。夜は、その全員がまとめて。
献立は、日替わりの煮込みが1つと、黒パン。それだけだ。
ハンナさんの煮込みは、うまかった。
皿洗いの合間に、鍋の残りをすくって食べさせてもらった。牛の尾と根菜を、麦酒でじっくり煮込んだもの。肉は骨からほろりと外れ、麦酒のほろ苦さが脂の重さを切っている。
見る。嗅ぐ。含む。
癖で、手順を踏んでしまう。
「……ハンナさん。今日の煮込み、いつもより黒胡椒が多いですか」
「あ? ああ、うっかり瓶ごと傾けてね」
「それから、玉ねぎを炒める時間が、昨日より短いです。甘みが少しだけ足りない」
ハンナさんが木べらを止めた。
「……あんた、なんで分かるの」
「舌が、覚えてるので」
「昨日の煮込みを?」
「昨日のも、一昨日のも」
ハンナさんはしばらく私の顔を見ていた。
それから、にやりと笑った。
*
3日目から、私の仕事が変わった。
「今日の煮込みは!」
店の真ん中で、私は声を張り上げた。昼時の、人足たちでぎゅうぎゅうの店内。
「牛のすね肉と、蕪と、人参。麦酒ではなく、今日は林檎酒で煮込んであります! 肉は、フォークを当てるだけでほどけます。蕪は、口に入れた瞬間にとろけて、中から甘い汁が出ます。林檎酒の酸味が、脂っこさをきれいに消して、最後に少しだけ果物の香りが鼻に抜けます。黒パンは、煮込みの汁に浸して食べてください。浸しすぎると崩れます。3つ数えるくらいが、ちょうどいいです!」
人足たちが、ぽかんと私を見ていた。
それから、誰かが叫んだ。
「おかわり!」
「まだ1杯目でしょう」
「聞いてたら、1杯じゃ足りねえ気がしてきた!」
ハンナさんの店の売り上げは、その週、いつもの1.5倍になった。
ハンナさんは、私を「説明係」と呼んだ。
城では、食レポ係と呼ばれていた。
同じことをしているのに、城の外では、それが仕事になるらしい。
*
ただ、城の癖は、いいことばかりではなかった。
「ハンナさん。この牛乳、ちょっと待ってください」
5日目の朝。牛乳屋が届けた大きな壺を、私は止めた。
「なに。いつもの牛乳屋だよ」
蓋を開ける。見る。表面に、うっすらと膜。嗅ぐ。ほんの少しだけ、酸っぱい匂い。
手袋を外して、指先にひと滴。
「……舌の奥で、3つ数えます。1、2、3」
ハンナさんが呆れた顔で見ていた。
「被告人、牛乳。容疑者、腐敗。判決、差し戻し」
「は?」
「傷みかけてます。今日のお昼のシチューに使ったら、夕方あたりに、港の人足さんたちがお腹を壊します」
ハンナさんは、半信半疑で指をつっこみ、なめた。
「……分かんないけど」
「私には、分かります」
ハンナさんは、しばらく壺をにらんでいた。それから、牛乳屋を呼び戻した。
牛乳屋は、最初は怒っていた。うちの牛乳にけちをつけるのか、城を追い出された小娘が、と。
心の中で、牛乳屋を壺ごと差し戻した。でも、私が「この壺だけ、搾ってから2日経っていませんか。それとも、冷やしておく井戸の水を替えましたか」と訊くと、急に黙った。
あとで分かったことだが、同じ日に同じ牛乳を使った通りの向こうの店で、客が7人、腹を壊していた。
その日から、青い鍋亭に届く食材は、全部、私が確かめるようになった。
見る。嗅ぐ。含む。
手順は、城にいたときと何も変わらなかった。
「あんた、城で何をやってたんだい。本当に」
ハンナさんが呆れたように言った。
「毒見役です」
「毒がないのを、確かめる仕事?」
「……はい」
「毎日、毒がないのを確かめて、12年?」
「12年です」
「それで、毒は見つかったのかい」
「一度も」
ハンナさんは大きな声で笑った。
「そりゃあ、いい仕事だねえ」
馬鹿にされたのかと思った。でも、ハンナさんの目は、笑っていなかった。
「毎日、毒がない。12年、毎日だよ。そんないいことを、毎日確かめてた人がいたんだねえ」
私は何も言えなかった。
*
10日目の夜。店じまいのあと、扉を叩く音がした。
ティモだった。
鼻の頭を真っ赤にして、息を切らしていた。城から港まで、走ってきたらしい。
「ミレーユさん!」
「どうしたの、こんな時間に」
「会いたかったので!」
正直すぎる。この子は、正直すぎる。
ハンナさんが、ティモにも煮込みを出してくれた。ティモは、それを3口食べてから、帳面を取り出した。新しい帳面だった。表紙に「2冊目」と書いてある。
「報告します」
「報告?」
「陛下の、お食事の記録です。ミレーユさんがいなくなってから、ぼく、皿を洗うときに、また書いてます」
ティモはページを開いた。
「術式になってから、お料理は、すごく温かいです。厨房でフロリアンさんが2分でかざして、昇降機で2分。スープが、湯気を立てたまま食堂に着きます。給仕頭さんが言ってました。先王陛下の頃より、温かいって」
「……よかった」
「でも」
ティモがページをめくった。
「陛下は、3口しか召し上がりません」
私の匙が、止まった。
「スープ、3口。パン、3口。お肉も、3口。毎食、全部、3口です。人参も、3口」
「……3口」
「それから、給仕頭さんが教えてくれました。陛下は、毎回、食べる前に、ひとりで手を合わせて、何か小さな声でおっしゃるそうです。給仕頭さんには、聞き取れなくて」
ティモは帳面を見つめたまま言った。
「ぼく、分かります。いただきます、って言ってるんです」
店の中が、静かになった。
ハンナさんが洗い物の手を止めていた。
「24脚ある椅子の、1脚目に座って。隣の2脚目には、誰もいなくて。それで、いただきますって言って、3口だけ食べて、ごちそうさまって言うんです。……たぶん」
ティモの声が、震えていた。
「温かいのに、3口なんです」
*
ティモが帰ったあと、屋根裏の部屋で、私は眠れなかった。
料理は、温かくなった。
私が12年かけても届けられなかった熱いスープを、術式は、たった2分で届けた。
それなのに、陛下は3口しか食べない。
温かいだけでは、だめだったのだ。
それから、もうひとつ。
——術式は、かざしたときの器の中を読みます。
フロリアンさんの言葉が、頭から離れなかった。
厨房で術式をかざす。そのあと、昇降機で2分。控えの間から食堂まで、給仕が運ぶ。その間、器の中を確かめる人は、誰もいない。
前の毒見は、30分と12分。そのあいだも、確かめる人はいなかった。でも、30分待つことで、毒見役が自分の体で、白雫の分まで引き受けていた。
今は、術式のあとの2分と、給仕の数歩に、誰も責任を持っていない。
私は屋根裏の小さな机に、紙を広げた。
前世で、何百枚も書いた書式。
【ヒヤリハット報告書】
報告者:元・王宮毒見役 ミレーユ
件名:術式検査後の料理の取り扱いについて
事象:術式による検査ののち、陛下のお口に入るまでの間、料理を確認する者がいない
想定される危険:検査後に異物が混入した場合、これを発見できない
提案:検査後の運搬を2名以上で行うこと。または、食卓の前で再度の検査を行うこと
書き終えて、読み返した。
起きていない事故の報告書だ。何も起きていない。前世でも、この書類は、たいてい読まれずに棚にしまわれた。
それでも、書いた。
*
翌朝、城の裏門の門番に侍従長宛てで預けた。
*
——同じ日の午後、評議会の間では。
「侍従長殿のご提案、拝見しましたよ」
ベルトラン伯爵は、にこやかに1枚の紙をひらひらと振った。
「陛下のお食事の運搬を、給仕2名で行う。……この予算の厳しいおりに、給仕を1名増やせと?」
「万一のための備えです、伯爵」
「術式は、完璧です。評議会がそれを確かめたではありませんか。何のための術式ですか」
伯爵は紙を卓の上に置いた。
「それに、この提案の元になった報告書。差出人は、廃止された毒見役だそうですね。職を失った者が、未練がましく城の手順に口を出す。……よくある話です」
ヘルマンは懐中時計を握りしめていた。
採決が行われた。
提案は、否決された。
伯爵は、席を立ちながら、扉の脇に控えていた栗色の髪の給仕に、ほんの一瞬だけ目をやった。
給仕は、にこやかに頭を下げた。




