第19話 最後の毒見
冬の月20日。
朝の毒見は、いつもどおりだった。
白パン。ベーコン。オムレツ。ハーブティーの茶葉。見る、嗅ぐ、含む。30分。判決。本日も、毒なし。
昼の毒見も、いつもどおりだった。
いつもどおりにしようと、全員が必死だった。
ガストーネさんは「ん」の種類を1つも増やさなかった。マルタさんは黒板に賭けを書かなかった。ルネさんのコック帽は、朝からずっとまっすぐだった。ティモは、帳面を持っていなかった。最後のページまで、もう埋まってしまったから。
そして、夕食。
献立は、3日前から厨房に貼り出されていた。
【冬の月20日 夕食】
前菜:おにぎり(鱒)
汁物:鶏と根菜のスープ(人参多め)
麺:ラーメン(食堂の暖炉にて茹でる)
菓子:プリン
再現表の板から、ユリウス様が選んだ4品だった。
*
食堂の暖炉には、鍋が2つかけられていた。
1つは、鶏と根菜のスープ。もう1つは、たっぷりの湯。ラーメンの麺を茹でるための湯だった。
ラーメンを最初に作ったあの日、陛下はこう言った。
——次は、のびていないものを。
麺は、茹でてから時間が経つとのびる。30分待てば、ぶよぶよになる。42分なら、なおさらだ。だからラーメンは、再現表の中で一番、陛下に届けるのが難しい料理だった。
今日は、暖炉の前で茹でる。
スープを毒見して、麺を毒見して、30分。そのあいだ、麺は茹でずに生のまま待たせておく。30分が経ったら、ガストーネさんが麺を湯に放り込む。茹で上がりを、第二審で確かめる。
毒見役の最後の日に、ようやく思いついたやり方だった。
遅い。私は、いつも遅い。
*
「被告人、おにぎり。罪状、毒物混入の疑い」
手袋を外す。
ユリウス様が、向かいの席で私の手元を見ていた。ヘルマン様は、懐中時計を開いていた。暖炉の前にガストーネさん。扉の脇に給仕頭と、クラウスさん。
それから、今日は、扉の外の廊下に、厨房の全員が立っていた。規定では、料理長のほかは、料理人は食堂に入れない。だから、廊下から。マルタさんも、ルネさんも、ティモも。
「見ます。三角、均一。料理長の手のひらの形、今日もついてます。嗅ぎます。炊きたての米、鱒の塩と脂。含みます」
ほろりとほどけた。米の甘さ。鱒の塩気。
「3つ数えます。1、2、3。第一審、無罪」
スープ。人参の甘い土の匂い。熱い。第一審、無罪。
ラーメンのスープ。鶏と豚の骨を半日煮た、白く濁ったスープ。塩と、魚醤と、香味油。第一審、無罪。生の麺。小麦粉と、灰を溶かした水の、ほのかなえぐみ。ちぢれ具合、均一。第一審、無罪。
プリン。ぷるん。卵、牛乳、カラメル。カラメルは、7枚目と8枚目のあいだの色だった。第一審、無罪。
「これより、30分。経過観察に入ります」
ヘルマン様が懐中時計を見た。
私にとって、最後の30分だった。
*
何を話したのか、あとから思い出そうとしても、あまり思い出せなかった。
たこ焼きの話をもう一度したような気がする。ユリウス様は、足が8本ある生き物をまだ疑っていた。ヘルマン様が、先王陛下が一度だけ厨房に下りてきた日の話をした。ガストーネさんが、「は」と3回言った。
廊下から、ティモが鼻をすする音がずっと聞こえていた。
ユリウス様はときどき、扉の外を見ていた。
25分を過ぎたころ、クラウスさんが、控えめに口を開いた。
「ミレーユさん。明日からは、術式の検査になると伺いましたが」
「はい」
「術式は、どちらで行われるのでしょう。厨房で?」
「厨房で、フロリアンさんが。料理ができあがったら、その場で。2分で終わるそうです」
「では、そのあと、食堂までお運びするのは」
「給仕の方々です。昇降機で2分」
「なるほど。ありがとうございます。明日から、責任重大ですね」
クラウスさんはにこやかに頭を下げた。
いい人すぎて、逆に怪しい。
でも、明日から陛下のお食事を運ぶ人に、手順を訊かれて答えないわけにはいかない。私は、もうすぐ毒見役ではなくなるのだ。
「……30分です」
ヘルマン様が懐中時計を閉じた。
*
ガストーネさんが麺を湯に放った。
大きな手で、長い木のへらをぐるりと回す。湯の中で、黄色いちぢれ麺がほどけて泳いだ。
ユリウス様が、身を乗り出して鍋をのぞいていた。
「こうやって、茹でるのか」
「はい。これが、のびる前の麺です」
ガストーネさんが、麺をざるに上げた。湯を、ばっ、ばっ、と2回切る。器のスープに滑り込ませる。その上に、煮豚の薄切り、ゆで卵の半分、青ねぎ。
「第二審」
私は麺を1本すくった。
すすった。
ずるずるっ、と音が食堂に響いた。
はじめてラーメンを作った日、この音で、厨房の全員が固まった。今日は、食堂の誰も固まらなかった。ヘルマン様でさえ、懐中時計から目を上げなかった。
麺に、こしがあった。噛むと、ぷつりと切れる。スープを吸って、小麦の香りがふわっと立つ。のびていない。
前世の、会社の近くのラーメン屋の、カウンター席の味だった。仕事で嫌なことがあった日に、ひとりで行った店。
「……3つ数えます。1、2、3。判決」
廊下で、ティモが息を止めたのが分かった。
「——完全無罪。本日も、毒なし」
スープ、完全無罪。おにぎり、完全無罪。プリン、完全無罪。
ルネさんが、廊下で崩れ落ちる音がした。2回目なのに、1回目と同じ崩れ方だった。
*
ユリウス様と私の前に、同じものが並んだ。
手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
2人の声が重なった。
ユリウス様は、まずラーメンの器に顔を寄せた。フォークを握って、麺をくるりと巻かずに、そのまま持ち上げた。
すすった。
ずるずるっ。
上手だった。フォークから麺が1本も逃げていない。どこで覚えたのだろう。
「……練習した」
ユリウス様が小さな声で言った。
「茶で」
ヘルマン様の懐中時計が、止まった。
私は笑いをこらえて、自分の麺をすすった。
のびていない麺を、陛下と一緒にすすった。
鶏と根菜のスープを飲んだ。ユリウス様は、今日も人参から食べた。おにぎりを両手で持った。プリンをつついて、ぷるん、と揺らした。
1品ずつ、ゆっくり食べた。急ぐ理由は、何もなかった。
最後のひと口を食べ終えたとき、窓の外は真っ暗だった。雪が、音もなく降っていた。
「ごちそうさまでした」
「……ごちそうさまでした」
ユリウス様は、空になった器を見下ろしていた。
しばらくして、言った。
「毒見役」
「はい」
「明日の朝、ハーブティーは、誰と飲めばいい」
答えられなかった。
陛下には、嘘をつかない。だから、「大丈夫です」とは言えなかった。
*
夜。毒見の間。
私は12年分の記録帳の、最後の1冊を開いた。
【毒見記録】
日付:冬の月、20日 夕食
おにぎり(鱒):完全無罪
鶏と根菜のスープ:完全無罪
ラーメン:完全無罪 ※暖炉にて茹で、のびず
プリン:完全無罪
毒見(延長):陛下と同卓にて摂食
所見:異常なし。本日も、毒なし
ペンを置いた。
記録帳を閉じて、厨房へ下りた。
灯りが、ひとつだけついていた。
ガストーネさんが、奥の壁の前に立っていた。
正の字の壁。白い漆喰の上に、炭の線がびっしりと並んでいる。天井近くまで。隣の壁にもはみ出している。1日3食、12年分。1万3千本を超える、「毒なし」の線。
ガストーネさんは炭を持っていた。
一番新しい列の端に、書きかけの正の字がひとつ。あと1画で、閉じる。
ガストーネさんは炭を私に差し出した。
「……引け」
「私がですか」
「ん」
12年間、この線を引いたのは、いつもガストーネさんだった。私は一度も引いたことがない。引いていいものだと思ったこともない。
炭を受け取った。指が黒くなった。
最後の1画を、引いた。
正の字が、ひとつ閉じた。
ガストーネさんは、しばらく壁を見上げていた。それから、私の手から炭を取って、壁の下の棚にそっと置いた。
「あの事件のあと、って、マルタさんが言ってました」
「ん」
「何の事件ですか」
ガストーネさんは、答えなかった。大きな手で、私の頭を1回だけ、ぽんと叩いた。
それから、灯りを消した。
*
侍従長の執務室の扉を叩いた。
ヘルマン様は、まだ起きていた。机の上に、懐中時計が開いたまま置かれていた。
「これを」
私は鍵を2本差し出した。
「薬草庫の鍵と、毒見の間の鍵です。薬草庫の出納帳は、今日の日付で締めてあります。見本の毒の小瓶は、試験で1本ずつ使いましたので、それも記録に」
「……ご苦労」
「それから、記録帳です。12年分、49冊。最後の1冊は、途中までですが。毒見の間の棚に並べてあります。陛下が即位されてからの分は、余白に、召し上がった量も書いてあります」
ヘルマン様は鍵を受け取った。
手のひらの上で、2本の鍵が鳴った。
「毒見役」
「もう、毒見役ではありません」
「規定では、今夜の12時までは毒見役だ」
ヘルマン様は、懐中時計に目をやった。夜の11時を回っていた。
「……第8条は、100年前にできた」
唐突だった。
「当時の毒見役が、白雫で倒れた。料理を確かめて、何も感じず、陛下のもとへ送り出した。その25分後に、厨房で倒れた。陛下は、まだ料理に手をつけておられなかった。毒見役が倒れたと聞いて、皿を下げさせた」
ヘルマン様は懐中時計の蓋を撫でた。
「毒見役の命で、陛下のお命が助かった。だから、第8条ができた。毒見役が倒れるまで、待てるように」
私は黙って聞いていた。
「術式は、正しい。毒見役を廃止した評議会の判断も、規定上は正しい。私は、それに従う」
ヘルマン様は蓋を閉じた。
「……だが、100年前の毒見役の名前を、この城で覚えているのは、私だけになった」
かち、かち、と懐中時計が鳴っていた。
「君の名前は、覚えておく」
「……ありがとうございます、侍従長」
私は深く頭を下げた。
執務室を出るとき、背中に声がかかった。
「毒見役。最後に、ひとつ」
「はい」
「ジンジャーブレッドは、菓子職人に申しつけておいた。明日の朝、厨房で受け取りたまえ」
*
——同じ夜、魔術師の塔では。
フロリアンは、明日から使う術式の紙を、もう一度読み返していた。
かざしたときの器の中を、正確に読む。
かざしたときの。
ペンの先で、その一語を何度もなぞった。
「……そのあとは」
呟いてから、首を振った。
「そのあとは、術式の管轄外、か」
理論上は。
フロリアンは灯りを消した。




