第18話 解毒魔法があるので
試験の前日、フロリアンさんが毒見の間に来た。
目の下のくまが、保温の箱の3号のときより濃くなっていた。灰色のローブの袖は、焦げ跡が2か所から4か所に増えていた。
「すみません」
開口一番、フロリアンさんは頭を下げた。
「僕の術式のせいで、あなたが」
「フロリアンさんのせいじゃありません」
「でも、伯爵に研究費をもらっていたのは僕です。何に使われるか、考えもしなかった。毒の反応が読めたら面白いな、としか」
理論上は、とは言わなかった。この人が「理論上は」を言わないのを、はじめて聞いた。
「術式は、完成したんですか」
「……しました」
フロリアンさんは、眼鏡を外して、ひびの入ったレンズを袖で拭いた。
「図鑑に載っている毒は、全部読めます。遅効性の7つも。……白雫も」
白雫も。
私はしばらく黙っていた。
「それで、お願いがあって来ました」
「なんですか」
「試験には、本物の毒が要ります。7つ全部。王宮で本物の毒を管理しているのは——」
「薬草庫。毒見役の職務です。規定第17条」
私は腰の鍵束を取った。
薬草庫の一番奥の棚。鍵のかかった小箱。見習いの頃、アデライデさんに一度だけ見せてもらった。毒見役が毒を知るための、見本の小瓶が7本。
自分を廃止する試験の、毒を用意する。
評議会の菓子の毒見より、ずっと皮肉な仕事だった。
「出納帳に記録します。持ち出した量、日時、用途。用途は」
ペンが、少しだけ止まった。
「……毒見役廃止の、試験のため」
*
冬の月16日。評議会の間。
楕円形の卓の上に、白い陶器の椀が8つ並んでいた。中身は、全部同じ澄んだコンソメ。ガストーネさんが今朝作ったものだ。
8つのうち7つに、薬草庫の毒が1つずつ入っている。1つには、何も入っていない。どれに何が入っているかは、議長の老侯爵と書記しか知らない。
「では、宮廷魔術師殿」
フロリアンさんが卓の前に立った。
評議員11人。上座にユリウス様。その斜め後ろにヘルマン様。卓の端にベルトラン伯爵。それから私。
伯爵は、今日も紫の上着だった。香水が、いつもより濃かった。勝利の日の正装らしい。
「術式の、調整をします」
フロリアンさんが卓の上に手をかざすと、白い光の輪がふわりと広がった。
伯爵がよく見ようと身を乗り出した。
光の輪の端が、伯爵の胸元に触れた。
光が、どぎつい紫色に変わった。
「……反応、あり」
評議会の間が、凍りついた。
「伯爵様、少し、離れていただけますか。香水の成分に、術式が反応しているようです。理論上は、人体に害のない量ですが」
伯爵が、ものすごい速さで椅子ごと後ろに下がった。紫の光が、すっと白に戻った。
評議員の何人かが、咳払いでごまかしていた。上座で、ユリウス様がうつむいていた。
私は、心の中で術式に完全無罪を出した。12年間、私の鼻が言いたくても言えなかったことを、術式はたった一瞬で言ってのけた。
「では、改めて。術式を、展開します」
フロリアンさんが両手を椀の上にかざすと、白い光の輪が卓の上に広がった。
光が、8つの椀を順番になぞっていく。
1つ目の椀の上で、光が青く変わった。
「眠り苔。反応、青」
2つ目。紫。
「夜霧茸。反応、紫」
3つ目、黄色。黄泉蔓。4つ目、灰色。沈み石の粉。5つ目、赤。灰鼠の胆。6つ目、桃色。三日月草。
書記が、手元の紙と照らし合わせて、1つずつうなずいていった。
7つ目の椀の上で、光が止まった。
何色にもならない。白いまま。
「……反応なし。毒物、検出されません」
評議員たちが、書記を見た。書記が、紙を見て、うなずいた。
何も入っていない椀だった。
そして、8つ目。
光が、椀の上に来た。
しばらく、何も起きなかった。
それから、ゆっくりと、光が透き通った。白でも青でもない、水のような、ほとんど見えない色。光の輪の中で、コンソメの表面に、細い筋のようなものが浮かび上がった。
「白雫」
フロリアンさんが小さな声で言った。
「反応、透明」
書記が、紙を見た。
長い沈黙のあと、うなずいた。
評議会の間が、どよめいた。
*
ベルトラン伯爵が、ゆっくりと立ち上がった。
「見事。実に見事です、フロリアン殿」
両手を広げて、卓を見渡した。
「8つの椀、すべて正解。しかも、かかった時間は」
「……2分ほどです」
「2分。30分でも、3分でもなく、2分。しかも、人の舌を危険にさらすこともない」
伯爵は私のほうに向き直った。
「毒見役殿。念のため伺いましょう。あなたの舌で、この8つ目の椀の白雫を、見分けることができますか」
評議会の間が、しんと静まった。
ユリウス様が私を見ていた。
ヘルマン様も、見ていた。懐中時計を握りしめたまま。
この紫の香水だるま。後頭部の髪の流れを、今すぐ全部逆向きに梳かしてやりたい。
でも、それは、答えではない。
陛下には、嘘をつかない。
「……見分けられません」
自分の声が、評議会の間に、ひどくはっきりと響いた。
「白雫は、無色、無臭、無味です。私の舌では、見分けられません。毒見役は、30分待つことでしか白雫を確かめられません」
私はフロリアンさんの術式の光を見た。
「前の……前の職場では、こう教わりました。より確かな検査の方法があるなら、古い方法はそれに置き換えるべきだ、と。検査をする人間の都合で、検査の方法を選んではいけない、と」
ベルトラン伯爵が満足そうにうなずいた。
「毒見役ご本人が、そうおっしゃる」
それから、評議員たちに向かって言った。
「では、よろしいですな。毒見役など要りません。解毒魔法があるので」
「……解毒ではなく、検出の術式です」
フロリアンさんが小声で訂正したが、誰も聞いていなかった。解毒の術式もあるにはある。ただし、図鑑に載っている毒に限った話だ。前にフロリアンさんがそう言っていた。
伯爵にとっては、どちらでも同じなのだろう。毒見役がいなくなれば。
*
採決は11票のうち、賛成10、反対1だった。
反対したのは、議長の老侯爵だった。あとで聞いたら、「あの菓子の件の礼だ」とだけ言ったそうだ。
王宮毒見役は、冬の月20日をもって廃止。以後、陛下のお食事は、宮廷魔術師の術式による検査を経ること。
書記が、議事録にそう書きつけた。
ユリウス様は、最後まで一言も発しなかった。
*
評議会の間を出ると、廊下の窓の外で雪が降り始めていた。
「毒見役」
振り返ると、ユリウス様がひとりで立っていた。ヘルマン様は、少し離れた場所に控えていた。
「なぜ、見分けられると言わなかった」
青い目が、まっすぐに私を見ていた。
「言えば、よかった。見分けられると。そうすれば」
「陛下」
「私は、お前に」
ユリウス様の声が、途切れた。
「……いてほしかった」
私は、膝をついた。13歳の王様と、目の高さを合わせた。
「陛下には、嘘をつかないと決めています」
「なぜだ」
「陛下のお口に入るものを確かめる人間が嘘をついたら、陛下は、何を信じて召し上がればいいのか分からなくなります」
ユリウス様の唇が、震えた。
「毒見役が確認しました。責任は私にあります。……それを、嘘で言うわけにはいきません」
ユリウス様は長いこと黙っていた。
それから、小さくうなずいた。
「……そうか」
冷めたポタージュの夜と同じ言葉だった。でも、声が違った。
「では、20日までは」
ユリウス様は窓の外の雪を見た。
「毎日、一緒に食べよ。延長で」
「はい」
「ヘルマン。記録せよ」
少し離れたところで、ヘルマン様が手帳を出した。ペンを持つ手が、珍しく止まっていた。
*
厨房に戻ると、黒板の賭けが消されていた。
マルタさんが、黙って小銭の袋を私の前に置いた。
「何ですか、これ」
「否決に賭けた有り金。はずれたから、胴元のあたしが没収した分。……あんたの退職祝いに回すわ」
「胴元が、はずれの金を回していいんですか」
「統計よ」
意味が分からなかった。でも、マルタさんの目が赤かったので、それ以上は訊かなかった。
ルネさんは、菓子の型を磨く手を止めずに言った。
「ミレーユ嬢。最後の日の菓子は、泡立てすぎないよう努めよう」
「努めるだけですか」
「芸術家だからね」
ガストーネさんは、何も言わなかった。「ん」も言わなかった。
暗い厨房の奥で、ひとりで大鍋を磨いていた。もう磨く必要がないくらいぴかぴかの鍋を、ずっと。
*
夜遅く、フロリアンさんが厨房の入口に顔を出した。
「……すみませんでした」
「謝らないでください。フロリアンさんの術式は、正しかったです。白雫を見分けられる検査は、白雫を見分けられない検査より、確かです。それだけです」
「でも」
フロリアンさんは、ひびの入った眼鏡を押し上げた。
「あなたの判決、もう聞けないんですね。見る、嗅ぐ、含む。あれ、塔の上で、給仕たちの噂を聞くのが楽しみだったんです」
「食レポが聞けなくなるのが、困るんですか」
「困ります。理論上も、実際にも」
フロリアンさんは泣きそうな顔で笑った。
帰りぎわに、ひとつだけ付け加えた。
「術式は、かざしたときの器の中を読みます。そのときの器の中を、正確に」
「……はい」
「それだけです。おやすみなさい」
そのときは、なぜその言葉が耳に残ったのか、分からなかった。
*
皆が帰ったあと、ティモが最後まで残っていた。
作業台の端で、帳面を開いていた。3年分の、私の名言と、陛下の食べ残しの記録。もう、残りのページがほとんどなかった。
「ミレーユさん」
「なに」
「ぼく、最後のページに、何て書けばいいか分からなくて」
ティモは白いページを見つめていた。
「ミレーユさんの言葉、3年分、全部もらったので。お返しに何か書きたいんですけど」
私はティモの頭に手を置いた。
「じゃあ、こう書きなさい」
ティモがペンを握った。
「いただきました」
ティモはしばらく私の顔を見ていた。
それから、最後のページのまんなかに、小さな字でゆっくりと書いた。
いただきました
書き終えて、ティモは帳面を閉じた。泣かなかった。泣かないように、口をぎゅっと結んでいた。
*
——同じ夜、ベルトラン伯爵の屋敷では。
伯爵は、書斎で上等な葡萄酒の栓を抜いていた。
香水の匂いに満ちた部屋で、グラスを2つ出した。
「冬の月20日。予定どおりだ」
向かいの椅子の人物は、何も言わずにグラスを受け取った。
燭台の灯りが揺れて、その人物の、きれいに撫でつけた栗色の髪を、ちらりと照らした。




