兄と弟
ミリアムを従え、レクスは公爵邸の長い廊下を歩いていた。
床に敷き詰められた深紅の絨毯には染み一つなく、等間隔に並ぶ窓も、曇り一つ残さず磨き上げられていた。
「ミリアムよ」
「は、はい。なんでしょうか?」
「これから俺の格好良いところを見せてやる。期待するがいい」
「あ、はい……」
ミリアムは曖昧にうなずいた。
今の彼女の胸を占めているのは、レクスの勇姿に対する期待ではなく、これから起きることへの不安だった。
昨日、あの女に完膚なきまでに叩きのめされたレクスは、屋敷へ戻るなり喚き散らし、鏡を割り、剣を持って姿を消した。
もう一度負ければ、今度は何をするか分からない。
「おはようございます、レクス様」
向かいから歩いてきたメイドが、足を止めて頭を下げた。
「うむ。おはよう」
「……え?」
メイドは驚いたように顔を上げた。
これまでのレクスは、使用人から挨拶されても気に留めなかった。機嫌が悪ければ、目が合っただけで怒鳴られることさえある。
ところが今朝は、自ら足を止め、満面の笑みで挨拶を返したのだ。
廊下を進む間にも、何人もの使用人とすれ違った。
「おはようございます、レクス様」
「ああ。今日も励んでいるな」
「は、はい……!」
声をかけられた使用人は、例外なく目を見開いた。
中には、頬を引きつらせながら後ずさる者までいる。
――この俺の整った顔に見惚れているようだな。
レクスは口元を緩めた。
鈴木守は、世間を騒がせることに喜びを感じる犯罪者だった。
レクス・サセックスは、他人よりも自分を愛する傲慢な少年だった。
その二つが混ざり合った今、彼の自己顕示欲には、いよいよ歯止めをかける者がいなかった。
「あ、あの……レクス様」
「先ほどからどうした、ミリアム。言いたいことがあるのなら言うがいい」
「なんといいますか……その……」
やめてください。どうせ、また勝てません。
本当はそう言いたかったが、ミリアムに口にする勇気はなかった。
妙に機嫌がよい今のレクスは、かえって嵐の前の静けさのように思える。
「ああ、そうか。もしかして――」
「な、なんでしょうか……?」
もしかすると、自分の願いが伝わったのかもしれない。
ミリアムは淡い期待を抱いてレクスを見上げた。
「お前は俺の顔を、もっとよく見たいのだな?」
「え……?」
「遠慮する必要はない。俺のよく整った顔を、好きなだけ見るがいい。俺は心が広いからな」
「あ……はい……」
「ふっ、やっぱりそうか」
ミリアムの切なる願いが、目の前のナルシストへ届くことはなかった。
レクスは廊下を歩きながら考えた。
昨日までの自分に対する使用人たちの印象は、決してよくない。挨拶だけでも多少の効果はあったようだが、皆の労をねぎらうには、もうひと押し欲しいところだった。
「そうだ。あれをやるか」
鈴木守の記憶から、女性を喜ばせるのに最適な方法を見つけ出した。
前方から、見覚えのある若いメイドが歩いてくる。普段からレクスを見かけるたび、欠かさず挨拶をしてくる使用人だった。
「おはようございます、レクスさ――」
最後まで言わせず、レクスは一気に距離を詰めた。
ドンッ――!
メイドの顔の横へ手を突き、逃げ道を塞ぐ。
そして、驚愕に見開かれた瞳を至近距離から見つめた。
「ああ、おはよう」
「ひっ……!」
壁ドン。
鈴木守が生きた世界で一時期流行した、男性が女性を壁際へ追い込み、至近距離から見つめる行為である。
容姿の整った男、即ちイケメンにそれをされれば、女性は胸をときめかせるらしい。
ならば、この自分が行えば効果は絶大。
レクスがそう結論づけるまで、時間はかからなかった。
「どうだ?」
「な、何がでしょうか……?」
「俺は、良かったのかと聞いている」
レクスは笑顔で尋ねた。
しかし、壁際へ追い詰められたメイドには、答えを間違えればただでは済まないという脅迫にしか聞こえなかった。
だからこそ、とっさにこう答えた。
「よ、良かったです!」
「そうか」
解放されたメイドは、悲鳴を押し殺しながら走り去った。
「やはり、世界が変わっても女心は同じということだな」
レクスは満足そうにうなずいた。
(何言ってるの、この人)
ミリアムは心の中でこう言った。
もちろん、声には出せなかった。
そこへ、二人目のメイドがやってくる。
「おはようございま――」
ドンッ――!
「ああ、おはよう」
「きゃあッ!」
二人目は、抱えていた洗濯物を床へ落とした。
さらに、曲がり角から三人目が現れる。
ドンッ――!
「今日もよく励んでいるな」
「ご、ごめんなさいッ!」
三人目は、なぜか謝罪しながら走り去った。
こうしてレクスは、すれ違ったメイド三人へ立て続けに壁ドンを決めた。
壁ドンの三連撃。
鈴木守の知識で表現するなら、見事な《ハットトリック》である。
「完璧だ」
レクスは満足していた。
廊下には洗濯物が散乱し、三人のメイドが逃げ去り、残されたミリアムは青ざめている。
「ああ、ミリアムよ。今のは壁ドンと言ってだな。女は俺のような《《イケメン》》にあれをされると、ときめいてしまうらしい」
レクスは得意げな顔で言い切った。
「あ、はい……」
ミリアムは唖然としたまま、かろうじて返事をした。
「皆も日々の仕事で疲れているだろう。たまには俺がねぎらってやらねばと思ってな」
「そう……だったんですね……」
何を言っているのか、まるで意味が分からない。
もちろん、ミリアムにはそれを口にする勇気などなかった。
「なんだ。お前もやってほしいのか?」
「い、いえ……私は大丈夫です……!」
絶対にやめてください。
その言葉も、やはり声には出せなかった。
「遠慮することはないぞ?」
「本当に大丈夫です……!」
そんな会話をしながら廊下を進んでいると、前方から二人の男が歩いてきた。
一人はレクスの父、ハロルド・サセックス。
四十を越えてなお精悍な顔つきと鍛え抜かれた肉体を保つ、サセックス公爵家の当主である。王国有数の武門を率い、自身も国内屈指の実力者として知られていた。
その隣にいるのは、レクスより一つ年下の異母弟、アランだ。兄とは対照的に、気の弱そうな中性的な顔立ちをしている。
「おはよう、レクス」
「ああ、おはよう、父上」
「ところでレクスよ、昨日のことだが――」
ハロルドは長男を溺愛していた。
だからこそ、敗北を知らずに育ったレクスの傲慢さと危うさを、誰よりも案じていた。
昨日レクスを打ち負かした女へ指南役を頼んだのも、一度の敗北から何かを学んでほしいと考えたからだった。
ところが、敗北したレクスは屋敷で当たり散らしたという。
ハロルドは、息子が何も学ばなかったのではないかと心配していた。
「……ああ、そのことなら問題はない。俺は変わった。あの女には、ある意味で感謝しなくてはならない」
「お、おお……。ついに分かってくれたのか」
ハロルドの目が大きく見開かれた。
「もちろんだとも、父上。失敗や誤りは、時に人を成長させる。人はそれらを乗り越えてこそ成長する。そうではないか?」
「そのとおりだ。あのレクスが、よくぞ……」
ハロルドは感極まったように目頭を押さえた。
「大げさだな、父上。泣くようなことではない。過去の失敗は乗り越えなければならない。だから俺は、これからあの女へ礼をしに行かなければならん」
「そうか、そうか……礼か。礼は大事だよな」
ハロルドは何度もうなずいた。
だが、息子の言っていることはよく分からなかった。
「う、うん。僕も、兄さんが元気そうで安心したよ」
アランは、ほっとしたように小さく笑った。
会話が続く間も、アランは時折ミリアムへ視線を送っていた。
『ブレイヴ・ヒストリア』の設定では、アラン・サセックスは兄付きの侍女であるミリアムへ、密かな想いを寄せている。
原作の筋書きでは、レクスが公爵家を追放され、その後に命を落とす。そして父ハロルドの死後、次男であるアランがサセックス家を継ぐことになっていた。
物語のエンディングでは、当主となったアランの傍らにミリアムが寄り添い、ミリアムの腕には幼い子供が抱かれている。二人が結ばれ、家庭を築いたのだと受け取れる場面だった。
ただし、その一枚絵には奇妙な点がある。
アランの瞳は金色であるにもかかわらず、ミリアムが抱く子供の瞳は、レクスと同じターコイズブルーに描かれていたのだ。
単なる彩色ミスなのか。それとも、表立って語られなかった何かがあるのか。公式から明確な説明はなく、ゲームのファンからは『ブレイヴ・ヒストリア』に残された闇の一つとして語られていた。
しかし、これから起きるであろう惨事で頭がいっぱいのミリアムは、その視線にまったく気づいていなかった。
「ではな、父上、アラン。俺は借りを返しに行かなければならんのでな」
「ああ。しっかり礼を尽くすのだぞ、レクス」
「う、うん。それじゃあ、兄さん。ミリアムさんも……」
「あ、はい。失礼します」
ミリアムはアランへ一礼し、レクスの後を追った。
公爵邸を出ると、剣と剣がぶつかり合う音が聞こえてきた。
朝の訓練場では、サセックス家の正規兵と雇われた傭兵たちが、すでに合同訓練を始めている。
踏み固められた地面から土埃が舞い、汗と革、それに鉄の匂いが鼻をついた。
「おお。朝早くから励んでいるな」
装備の統一された正規兵に対し、傭兵たちの格好はさまざまだった。分厚い毛皮と金属板を組み合わせた鎧をまとう者もいれば、軽装で細身の剣を振るう者もいる。上半身をさらし、傷だらけの体で大剣を打ち合わせる者までいた。
規律を守る正規兵たちは、レクスの姿に気づくと口を閉ざし、さりげなく視線を逸らした。
一方、サセックス家に雇われているだけの傭兵たちは、嘲りを隠そうともしなかった。
「レクス様が今日も来たぞ」
「昨日はひどかったな」
「よく顔を出せたもんだ」
「サセックス家の天才様は、面の皮の厚さまで超一流ってことだ。はははッ!」
潜めた声もあれば、わざと聞こえるように放たれる声もある。
ミリアムは不安そうにレクスの横顔をうかがった。
しかし、当のレクスは嘲笑など聞こえていないかのように、堂々と訓練場を進んでいく。
「やるぞ。まずは、ここからだ」
レクスは訓練場を見渡した。
その一角、兵たちの動きを一望できる高台に、腕を組んで立つ女がいる。
昨日、レクスを完膚なきまでに叩きのめした女だった。
――いた。
周囲から向けられる視線を意にも介さず、レクスは口元へ自信に満ちた笑みを浮かべた。
そして、まっすぐ女のもとへ歩き出した。




