あの女
一歩近づくたびに、レクスの胸の奥へ冷たいものが広がっていった。
思い起こされるのは、昨日の敗北。
剣でも、魔術でも、最後に卑怯な手段を使ってさえ、手も足も出なかった。
敗北を認められず、惨めに足掻くことしかできなかった自分の姿。
意識では恐れる必要などないと分かっている。
それでもレクスの肉体は、目の前の女が自分よりはるかに強いことを覚えていた。
――武者震いというやつだ。
レクスは、自分にそう言い聞かせた。
「おう。また来たのか」
少しかすれた、妙な色気を帯びた声だった。
女は振り返りもせず、背後から近づく足音の主がレクスだと見抜いていた。
昨日争った相手が背後にいるというのに、不意打ちを警戒する様子すらない。
「昨日ぶりだな」
「そうだな……」
「昨日の借りを返しに来た。一勝負といこうではないか」
「お前なぁ……」
女は頭をがしがしと掻きながら、ようやく振り返った。
その名はレベッカ。
燃えるような赤い髪。年の頃は二十代半ば。女性としては長身で、すらりと伸びた手足と引き締まった腰、それでいて豊かな曲線を備えた、均整の取れた体つきをしている。
肉食獣を思わせる獰猛な目つきとは対照的に、顔立ちそのものは端正で、どこか高貴な気品を漂わせていた。
鈴木守の記憶が正しければ、レベッカは主人公ローランと深い縁を持つ人物だ。
後にローランへレクスを倒すための策を授け、レクスを公爵領から追放するうえでも大きな役割を果たす。
現在の実力だけでなく、原作での立場まで含めて、レクスにとっては天敵と呼ぶべき女だった。
「昨日、あんな醜態を晒しておいて、よくもまあ私の前に顔を出せたもんだな」
レベッカは呆れたように言った。
「過去は過去だ。昨日までの俺とは、一味も二味も違う」
「昨日の今日で、そんなに変わるもんでもないだろ。強さってのは、一朝一夕に身につくもんじゃない。だから日々の積み重ねが大事なんだよ。高名な天才様は、努力なしでもいきなり強くなれるってか?」
レベッカが小馬鹿にしたように笑う。
「お前の言っていることも分からなくはない。だが、今の俺は昨日とは別人と言っていい」
「別人って……お前なぁ……」
「ああ。ある意味では、本当に別人だな」
「はぁ……」
レベッカは深いため息をついた。
昨日あれだけの負け方をしておきながら、この態度である。どうやら、まったく懲りていないらしい。
(分かります。その気持ちはよく分かりますッ! だから、今の変なレクス様を相手にしないでください……!)
ミリアムは、レベッカの心情を察したつもりで、胸の前で固く手を組んだ。
「それで? 天才様は、いったい何が変わったっていうんだ? 私には違いが分からない。教えてくれよ」
レベッカが挑発するように問いかけた。
「ふむ。いろいろ変わったが、強いて挙げるなら、昨日より格好良くなった」
「は?」
「昨日の俺も十分に格好良かった。しかし、今日の俺は、昨日の俺よりさらに格好良いだろう?」
レクスは恥ずかしげもなく言い切った。
あまりにも堂々としているものだから、レベッカはわずかに目を丸くした。
「なんか……お前、そんな奴だったか? 自分でそんなことを言って、恥ずかしくないのか?」
至極当然の疑問だった。
(そうですッ! そうですッ! 言ってやってください、レベッカさんッ!)
ミリアムはうつむき加減に拳を握りしめた。
今の彼女にとって、レベッカは自分の代わりに本音を口にしてくれる、頼もしい代弁者だった。
「何が恥ずかしいというのだ、レベッカよ。俺は超格好良いだろう?」
「まあ、確かに顔はそれなりにいいよ。でも、そこまでじゃないな」
「な、なんだと……ッ!」
レクスの表情が凍りついた。
――それなり?
――今、この女は俺の顔を見て「それなり」と言ったのか?
――この完璧な顔が、そこまでではない? それなりにいい程度だと?
――この女、どこかおかしいのではないか?
――「それなり」だと?
それはレクスにとって、聞き捨てならない評価だった。
しかし――
「ふぅ……」
レクスは深呼吸し、心を落ち着けた。
――落ち着け。今の俺は、自信と余裕に満ちあふれた大人の男だ。
――今朝のメイドたちも、俺が顔を近づけただけで、まともに話せなくなるほど心を奪われていたではないか。
人の好みは千差万別だ。万人が美しいと認めるものを評価できない人間が、わずかながら存在しても不思議ではない。
目の前の女が、たまたま変わった価値観を持っているだけなのだ。
――恐らく、こいつは少数派だ。
レクスは自分にそう言い聞かせた。
「では、レベッカにとって本当に格好良い男とは、どんな男なんだ?」
「そうだな……強い男だ。私よりも強い男――ッ!」
レベッカは少し考えたあと、そう答えた。
「なるほどな……ふふ。そういうことか」
レクスはほくそ笑んだ。
――やはり俺の予想どおり、この女は《マイノリティ》だ。
男の魅力は顔だけではない。経済力、性格、そして強さ。何を重視するかは人によって違う。
だが、数ある条件の中から、真っ先に強さを挙げる女など、傭兵か高位の女性冒険者くらいだろう。
しかも、レベッカが求めるのは単に強い男ではない。「自分よりも強い男」だ。
レベッカは、この世界でも屈指の強者である。彼女より強い男など、広い王国を探しても、そう何人もいるはずがない。
統計的に考えて、この女の価値観は一般人から大きく乖離しているだろう。
そんな極端な基準で男を選ぶ女に、一般的な男の魅力を正しく判断できるはずがない。
――つまり、この女に男の魅力など分かるはずがない。
「本当に、変わった女だな、お前は」
レクスは、やれやれと呆れたように言った。
「今のお前ほどじゃないがな……」
レベッカはジト目でそう返した。
「ならば、もう一度俺と勝負しろ、レベッカ。この俺が今ここで、お前のその歪んだ認識を正してやることにしよう」
レクスは訓練場中に響き渡る声で、高らかに宣言した。
「あのガキ……」
「レクス様……」
「おいおい、またやる気か……」
訓練していた兵たちが一斉に手を止め、レクスとレベッカへ視線を向けた。
レベッカは、しばらくレクスの顔を見つめていた。
「はぁ……」
やがてレベッカは、心底呆れたような深いため息をついた。
静まり返った訓練場には、その音だけがやけに大きく響いた。




