状況確認
鈴木守の常識に照らせば、この世界の文明は中世に最も近かった。
石造りの城と城壁に囲まれた街。馬や馬車で行き交う人々。戦いに用いられる剣や弓、鎧。街道を外れれば人を襲う魔物が生息し、それらに立ち向かう剣士や魔術師も珍しくない。
しかし、鈴木守が知る中世と、何もかもが同じというわけではなかった。
この世界には魔術がある。そして、人の魔力を動力として作動する《魔道具》が、科学とは異なる方向へ文明を発達させていた。
公爵家の屋敷では、壁に取り付けられた照明が火も油も使わずに室内を照らし、室温を保つ魔道具が朝の冷気を遠ざけている。仕組みこそ違うが、果たしている役割だけを見れば、鈴木守の知る電化製品と大差はない。
文明が遅れているのではない。
魔法を前提として、別の道を進んできたのだ。
そうした世界の姿は、鈴木守が『ブレイヴ・ヒストリア』から得た知識とも一致していた。
ゲーム画面の向こうで眺めていた街を、レクスは実際に馬車で走ったことがある。ゲームの図鑑で覚えた魔物の名前や特徴には、レクス自身の目で見て、剣を交えた記憶が重なる。薬草や鉱物の性質、国の名、土地の位置、通貨、そして魔術の原理まで、二つの記憶に食い違いはなかった。
片方は、鈴木守がゲームの外から得た知識。
もう片方は、レクス・サセックスがこの世界で十五年間を生きた記憶。
照らし合わせるほど、単なる偶然や長い夢だという可能性は消えていく。
ここは、ゲームによく似た異世界などではない。
『ブレイヴ・ヒストリア』そのものの世界なのだ。
しばらくすると、ミリアムが朝食を載せたワゴンを押してきた。
銀の蓋を持ち上げると、焼きたての白パンと、香草を散らした卵料理、厚切りの燻製肉、それに根菜を煮込んだ乳白色のスープが現れた。品数こそ多くないが、白磁の皿へ施された盛りつけには、公爵家らしい気品が感じられた。
料理は厨房から運ばれてきたばかりのように温かかった。ワゴンの棚板に刻まれた術式が淡い赤色の光を帯び、皿から熱が逃げるのを防いでいる。
こうした魔道具はどこの家にもあるものではない。庶民が薪を燃やして暖を取り、食べ物を塩漬けや燻製にして保存する一方で、裕福な貴族は照明、暖房、保温、冷却に魔道具を使う。便利ではあっても、製作にも維持にも相応の金がかかるからだ。
画面越しに見ていたころ、この世界の料理に味や匂いはなかった。
だが今は、焼けたパンの香りも、スープから立ち上る湯気も、紛れもなく現実のものとして目の前にある。
鈴木守には馴染みのない銀食器の扱いにも、レクスの手は迷わなかった。二人分の記憶が重なっているのは、知識だけではないらしい。
サセックス家の料理人が作った朝食は、見た目に違わず上品な味だった。
「美味かったぞ。作った者にそう伝えておいてくれ」
「で、では……食器をお下げしますね」
「うむ。ご苦労」
「……ご苦労」
ミリアムは「ご苦労」と小さく反芻し、怪訝な顔を浮かべたまま、食器をワゴンに載せて退出していった。
ミリアムが退出すると、部屋には再び静けさが戻った。
朝食を終えたレクスは椅子に深く腰かけ、自分が置かれた状況を頭の中で整理する。
『ブレイヴ・ヒストリア』の物語は、サセックス公爵領から離れた辺境の地、ククル村で始まる。
主人公ローランは、幼馴染の少女アリシアと穏やかな日々を送っていた。
その平穏を最初に壊すのが、レクス・サセックスだ。
レクスはアリシアを連れ去るために村へ現れ、彼女を守ろうと決闘を挑んだローランを圧倒する。
最愛の少女を奪われたローランは、レクスへの復讐を胸に冒険者となり、やがて英雄へ成長していく。
つまりレクスは、主人公が旅立つきっかけを作り、その成長を引き立てるための最初の悪役だった。
そして物語が進めば、成長したローランによって、今度はレクスがすべてを奪われる。
――この俺が、あのローランの踏み台になるだと。
ゲームの筋書きだと理解していても、到底納得できる話ではなかった。
だが、それはゲームの筋書きに従った場合の未来だ。
運命を変えるにしても、まずは現在の自分に何ができるのかを知らなければならない。
――次は、今の俺がどこまで動けるのか確かめる必要があるな。
レクスは椅子から立ち上がり、軽く肩を回した。
鈴木守だったころより背は低く、手足もまだ成長の途中にある。だが、他人の肉体を借りているような違和感はなかった。指を一本ずつ動かせば思いどおりに動き、歩けば重心の置き方まで自然に分かる。
先ほど銀食器を迷わず扱えたのと同じだ。
鈴木守の意識で命じた動きを、レクスの肉体が十五年分の経験をもって実行している。
「悪くない。むしろ以前より軽いくらいだ」
レクスは壁に立てかけられていた愛剣へ手を伸ばした。
金の装飾が施された柄と、細身の刀身を持つ片手剣。刺突を主としながら、斬撃にも耐えられるよう鍛えられた、サセックス家の特注品だった。
柄を握った瞬間、その重さも、重心も、鞘から最も滑らかに抜ける角度も理解できた。
「これも、俺の記憶か」
レクスは左足を半歩引いた。
鈴木守が修めた古武術の足運び。腰を落とし、鞘走りを利用して一息に剣を抜く。
白銀の軌跡が朝の光を裂いた。
刀身が空気を切り、遅れてカーテンがかすかに揺れる。
振るったのは、レクスが一度も習ったことのない技だった。
それでも体は遅れずについてきた。むしろ、鈴木守の技術を、レクスの若く鍛えられた肉体が以前より鋭く再現している。
「なるほど」
今度は剣先を正面へ向ける。
サセックス家に伝わる剣術の構えだった。
踏み込みと同時に鋭い突きを放ち、切り返す。そこへ鈴木守の体さばきを重ねると、構えから余分な力が抜け、剣先の動きから無駄が削ぎ落とされた。
レクスの肉体が覚えている剣術を、鈴木守の経験が外側から研ぎ直していく。
「二人分を足しただけではないな」
レクスは剣を鞘へ戻し、満足そうに口元を緩めた。
異なる二つの技術は、すでに彼の中で一つのものになり始めていた。
「では、次は魔術だ」
目を閉じ、自分の内側へ意識を向ける。
血の流れとは異なる、温かな何かが体の中心を巡っていた。それは鈴木守としては一度も感じたことがなく、レクスにとっては呼吸と同じほど身近な感覚だった。
魔力だった。
この世界に生きる人間は、誰もが多かれ少なかれ魔力を宿している。それを肉体へ巡らせれば身体を強化でき、術式とイメージを通せば、炎や水、風といった現象として外へ放つこともできる。
魔力量には生まれ持った資質が大きく影響するが、鍛錬によって伸ばすことも可能だ。そして名門サセックス家の血を引き、幼少期から一流の教育を受けてきたレクスは、同年代でも群を抜く魔力を有していた。
「炎よ」
そう呟き、レクスは右手の人差し指を立てた。
体内を巡る熱を指先へ集め、そこに炎が存在する光景を思い描く。
小さな音を立て、蝋燭ほどの炎が灯った。
「これが魔術か」
知識としては昔から知っている。何度も使った記憶もある。
それでも、鈴木守の感覚を併せ持つ今のレクスには、自分の指から火が生まれる光景は新鮮だった。
指を動かすと、炎もそれを追って揺れる。
丸くする。細長く伸ばす。二つに分け、再び一つに戻す。
試しにハートの形へ整えると、炎はわずかに輪郭を崩しながらも、その姿を保った。
「なるほど、こんなものか」
魔力を追加すると、炎がひと回り大きくなる。
魔術の威力を決めるのは、注ぎ込む魔力だけではない。頭の中に描いた現象を、どれほど明確に現実へ落とし込めるか。その制御力も重要になる。
そこでレクスは、鈴木守の知識を使った。
炎が燃え続ける条件。熱の伝わり方。空気との関係。
かつて漠然と炎を思い描いていたレクスとは違い、今はその現象を細部まで想像できる。
橙色だった炎が、青く研ぎ澄まされていく。
さらに意識を集中すると、中心部が眩い白へ変わった。
「科学の知識を、魔術のイメージに利用できるということか」
以前のレクスには不可能だった制御だ。
科学知識を利用して炎を制御するのは、これが初めてだった。
白い炎は揺らぐことなく、宝石のように指先で輝いている。
その完成度に、レクスは目を細めた。
「初めてにしては悪くない。さすがは俺だ」
指を閉じると、炎は煙一つ残さず、光の粒となって空中へ溶けた。
鈴木守の知識。レクスの才能。そして、二人分の経験を宿した肉体。
すべてが、昨日までとは異なる可能性を示している。
「もう少し試したいところだが――」
レクスが愛剣を腰へ差したところで、扉が控えめに叩かれた。
「ただいま戻りました」
食器を片づけ終えたミリアムが、扉の隙間から顔をのぞかせる。
その視線は、剣を帯びたレクスと、わずかに焦げた空気の間を不安そうに行き来した。
「ちょうどいい。出かけるぞ、ミリアム」
レクスは上機嫌に微笑んだ。
「え、ええと……どちらへ?」
「決まっているだろう。昨日、俺を負かした女のところだ」
「え……!?」
ミリアムの顔から、さっと血の気が引いた。
「あの女に一泡吹かせにいくとする」
「ま、まさか……今から、ですか?」
「当然だ」
「で、ですが……その……」
ミリアムは何かを言おうとして、口を閉ざした。
昨日、あれほど徹底的に負けたではないか。もう一度挑んでも、同じ目に遭うだけではないのか。
そう言いたかったが、とても口にはできなかった。
「なんだ?」
「い、いえ……。まだ、お体も本調子ではないのではないかと……」
口から出たのは、主人の体を気遣う遠回しな言葉だった。
「心配はいらん。先ほど確かめたが、体調は申し分ない」
「そ、そうですか……」
ミリアムが止めるために用意した言葉は、あっさりと封じられた。
「行くぞ。付いてくるがいい」
「は、はい……」
「安心しろ。昨日のような無様は晒さない」
レクスは自信に満ちた笑みを浮かべ、意気揚々と部屋を出ていった。
(何一つ安心できません……)
もちろん、それを声に出す勇気はない。
昨日までとは違うと言いながら、目覚めて最初にすることが再戦なのだ。ミリアムには、何が変わったのか少しも分からなかった。
彼女は泣きそうな顔で、主人の後を追いかけた。




