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2/5

ミリアム

 ミリアムは物音を立てないよう、そっと部屋の扉を開けた。

 扉の隙間から顔をのぞかせ、まずベッドの様子を確認する。

 部屋の主であるレクス・サセックスは、まだ眠っていた。


「よかった……まだ起きてない」


 ミリアムは胸をなで下ろした。

 白みがかった銀髪に、赤い瞳。小柄な体を可愛らしいメイド服に包んだ彼女は、レクス付きの侍女だった。

 主人が眠っていることに安堵する侍女というのも妙な話だが、ミリアムには十分な理由があった。

 レクスは気分屋で、感情の起伏が激しい。

 特に昨日はひどかった。

 ある女性との勝負に敗れたレクスは、負けを認めずに喚き散らし、部屋の鏡を叩き割った。そのまま剣を持ち、夜の屋敷から姿を消したのだ。

 いつ戻ってきたのかは分からない。

 朝になって恐る恐る部屋を確認すると、彼は何事もなかったようにベッドで眠っていた。

 その寝顔だけを見れば、普段の傲慢さなど想像できない。

 整った顔には年相応の幼さが残り、ひどく無防備に見えた。


(本当に、ずっと眠っていてくれたらいいのに)


 眠り姫のように、二度と目を覚まさなければよい。

 そこまで考えて、ミリアムは小さく首を振った。


「ああ、でも、起こさなかったら後で怒られるよね……」


 起こせば怒られるかもしれない。

 起こさなくても、やはり怒られる。

 どちらを選んでも怒られるのなら、せめて侍女としての仕事を果たしたほうがよい。

 ミリアムは覚悟を決め、ベッドの傍らにしゃがみ込んだ。


「レクス様……朝です。起きてください」


 返事はなかった。


「レクス様……起きてください」


 やはり反応はない。


「でも、怒るくらいなら……起きなくてもいいですよ?」


 最後だけ小声で付け加え、恐る恐る肩を揺らす。

 それでもレクスは目を覚まさない。


「もういいかな……。私、頑張ったよね?」


 誰にともなく確認して、ミリアムが立ち上がろうとした、その瞬間だった。


「……ミリアム?」

「ひゃいッ!」


 突然名前を呼ばれ、ミリアムの肩が跳ね上がった。

 レクスがゆっくりと目を開く。


「……あれは夢ではなかったのだな」


 一晩眠ったことで、混濁していた二人分の記憶は、多少なりとも整理されていた。

 レクス・サセックスとして生きた十五年。

 犯罪者・鈴木守として生き、女に撃たれて死ぬまでの人生。

 どちらも今の彼にとっては、自分自身の記憶だった。とはいえ、二つの人生の境界はまだ曖昧で、自分が誰なのかという感覚もおぼつかない。


「あ……おはようございます、レクス様」


「ああ。おはよう」


「え?」


 ミリアムは目を丸くした。


「どうした?」


「い、いえ。なんでもありません」


 挨拶を返された。

 ただそれだけのことが、ミリアムには信じられなかった。

 レクスはベッドから体を起こし、改めて部屋を見回した。

 何人も眠れそうな天蓋付きの寝台。床には毛足の長い深紅の絨毯が敷き詰められ、重厚な机や衣装棚には精緻な彫刻が施されている。壁に掛けられた大きな織物には、サセックス公爵家の紋章が金糸で縫い取られていた。

 鈴木守も、仕事柄、裕福な人間の屋敷へ忍び込んだ経験はある。しかし、これほど時代がかった部屋は、博物館か映画の中でしか見たことがない。

 ここにある品々は、展示物でも舞台装置でもない。レクスが十五年間、当たり前のように使ってきた生活用品だ。

 レクスにとっては見慣れた自室。

 鈴木守にとっては、現実離れした異世界の光景。

 二つの相反する感覚が、今の彼の中では同時に存在していた。


 ――やはり、夢ではない。


 ここは『ブレイヴ・ヒストリア』の世界なのだ。

 そう実感しながら室内へ視線を巡らせ、レクスは新しく置かれた姿見に目を留めた。


「ミリアムよ」


「は、はい!」


「そういえば、鏡を用意したのはお前か?」


「そうです、申し訳ありません!」


 ミリアムは反射的に頭を下げた。


「なぜ謝る?」


「え?」


「割れた鏡を新しいものに取り替えたのだろう?」


「そ、そうですけど……」


「そうか。うむ。良い仕事だ」


「え?」


 ミリアムは顔を上げた。

 レクスはすでに彼女から興味を失い、鏡の前に立っていた。

 さらさらと流れる金髪。

 蒼穹を閉じ込めたような碧い瞳。

 少年の面影を残しながら、完成されつつある端正な顔立ち。

 昨夜も確認したはずだが、明るい場所で見ると、その美しさはさらに際立っていた。

 レクスは顔を右へ向けた。

 次に左へ向ける。

 少し顎を引き、それから前髪を指で整えた。


「……やはり美しいな」


「はい?」


「俺の顔の事だ。実に素晴らしいと思わないか?」


「え、ええと……」


「この角度も悪くない。いや、むしろ最高だな。ふふ」


 レクスは真剣だった。

 昨日、女性につけられた傷を確認しているのだろうか。

 そう考えていたミリアムは、主人が自分の顔に見惚れているだけだと知り、言葉を失った。


「昨日の俺も悪くなかった。しかし、この顔はさらにいい」


「同じ顔だと思いますけど……」


 ミリアムは小声で呟く。


「何か言ったか?」


「な、なんでもありません!」


 ミリアムは慌てて首を振った。

 不用意なことを言えば、何をされるか分からない。


「お着替えを用意しますね」


「ああ、頼む」


 ミリアムは逃げるように衣装棚へ向かった。


「レクス様、お着替えをお持ちしました」

「うむ」


 着替えを終えると、レクスは再び鏡の前に立った。

 ミリアムの選んだ服は、彼の金髪と碧眼をよく引き立てている。


「良い仕事だ、ミリアム」


「え……?」


「この服だ。俺の美しさをよく引き立てている。さすがは俺だ。何を着ても似合ってしまう」


 白い絹のシャツには金糸の刺繍が施され、体に沿った黒いズボンが少年の長い手足を際立たせている。

 鈴木守の感覚で表現するなら、貴族というより高級店の若いホストに近い。しかし、彼本人はいたく気に入っている様子。


「だが、これを選んだお前の仕事も悪くない。褒めてやろう」


「あ、ありがとうございます……?」


 ミリアムは困惑した顔で礼を返した。


「それから、この鏡のことだが」


 ミリアムの体が強張った。


「か、鏡がどうかなされましたか?」


「昨日はすまなかったな」


「え?」


「俺が割ったものを、お前が片づけたのだろう。余計な仕事を増やした」


「えっ?」


 ミリアムは何度も瞬きをした。

 あのレクス・サセックスが謝った。


「それに、物へ当たり散らすなど美しくない。昨日の俺は、いささか品位を欠いていた」


「……え? ……え?」


「あんな醜態は俺らしくないな」


「俺らしくないって、あれがレクス様のいつもの――」


 小声で言いかけたミリアム。


「いつもの? なんだ?」

「なんでもありません!」

 

 ミリアムは慌てて頭を下げた。

 この少年の前で、滅多なことを言うものではない。


「まあいい。安心しろ、ミリアム。俺は昨日までの俺とは違う」


「は、はい……?」


「これからの俺に期待するがいい。新しくなった、この俺にな」


 レクスは輝くような笑顔を浮かべた。

 ミリアムの顔が引きつった。


(なんか昨日より、ずっと怖いかもしれない……)


 一方のレクスは、怯えるミリアムの胸中など知る由もなく、鏡に映る自分へ満足そうに微笑みかけていた。


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