ミリアム
ミリアムは物音を立てないよう、そっと部屋の扉を開けた。
扉の隙間から顔をのぞかせ、まずベッドの様子を確認する。
部屋の主であるレクス・サセックスは、まだ眠っていた。
「よかった……まだ起きてない」
ミリアムは胸をなで下ろした。
白みがかった銀髪に、赤い瞳。小柄な体を可愛らしいメイド服に包んだ彼女は、レクス付きの侍女だった。
主人が眠っていることに安堵する侍女というのも妙な話だが、ミリアムには十分な理由があった。
レクスは気分屋で、感情の起伏が激しい。
特に昨日はひどかった。
ある女性との勝負に敗れたレクスは、負けを認めずに喚き散らし、部屋の鏡を叩き割った。そのまま剣を持ち、夜の屋敷から姿を消したのだ。
いつ戻ってきたのかは分からない。
朝になって恐る恐る部屋を確認すると、彼は何事もなかったようにベッドで眠っていた。
その寝顔だけを見れば、普段の傲慢さなど想像できない。
整った顔には年相応の幼さが残り、ひどく無防備に見えた。
(本当に、ずっと眠っていてくれたらいいのに)
眠り姫のように、二度と目を覚まさなければよい。
そこまで考えて、ミリアムは小さく首を振った。
「ああ、でも、起こさなかったら後で怒られるよね……」
起こせば怒られるかもしれない。
起こさなくても、やはり怒られる。
どちらを選んでも怒られるのなら、せめて侍女としての仕事を果たしたほうがよい。
ミリアムは覚悟を決め、ベッドの傍らにしゃがみ込んだ。
「レクス様……朝です。起きてください」
返事はなかった。
「レクス様……起きてください」
やはり反応はない。
「でも、怒るくらいなら……起きなくてもいいですよ?」
最後だけ小声で付け加え、恐る恐る肩を揺らす。
それでもレクスは目を覚まさない。
「もういいかな……。私、頑張ったよね?」
誰にともなく確認して、ミリアムが立ち上がろうとした、その瞬間だった。
「……ミリアム?」
「ひゃいッ!」
突然名前を呼ばれ、ミリアムの肩が跳ね上がった。
レクスがゆっくりと目を開く。
「……あれは夢ではなかったのだな」
一晩眠ったことで、混濁していた二人分の記憶は、多少なりとも整理されていた。
レクス・サセックスとして生きた十五年。
犯罪者・鈴木守として生き、女に撃たれて死ぬまでの人生。
どちらも今の彼にとっては、自分自身の記憶だった。とはいえ、二つの人生の境界はまだ曖昧で、自分が誰なのかという感覚もおぼつかない。
「あ……おはようございます、レクス様」
「ああ。おはよう」
「え?」
ミリアムは目を丸くした。
「どうした?」
「い、いえ。なんでもありません」
挨拶を返された。
ただそれだけのことが、ミリアムには信じられなかった。
レクスはベッドから体を起こし、改めて部屋を見回した。
何人も眠れそうな天蓋付きの寝台。床には毛足の長い深紅の絨毯が敷き詰められ、重厚な机や衣装棚には精緻な彫刻が施されている。壁に掛けられた大きな織物には、サセックス公爵家の紋章が金糸で縫い取られていた。
鈴木守も、仕事柄、裕福な人間の屋敷へ忍び込んだ経験はある。しかし、これほど時代がかった部屋は、博物館か映画の中でしか見たことがない。
ここにある品々は、展示物でも舞台装置でもない。レクスが十五年間、当たり前のように使ってきた生活用品だ。
レクスにとっては見慣れた自室。
鈴木守にとっては、現実離れした異世界の光景。
二つの相反する感覚が、今の彼の中では同時に存在していた。
――やはり、夢ではない。
ここは『ブレイヴ・ヒストリア』の世界なのだ。
そう実感しながら室内へ視線を巡らせ、レクスは新しく置かれた姿見に目を留めた。
「ミリアムよ」
「は、はい!」
「そういえば、鏡を用意したのはお前か?」
「そうです、申し訳ありません!」
ミリアムは反射的に頭を下げた。
「なぜ謝る?」
「え?」
「割れた鏡を新しいものに取り替えたのだろう?」
「そ、そうですけど……」
「そうか。うむ。良い仕事だ」
「え?」
ミリアムは顔を上げた。
レクスはすでに彼女から興味を失い、鏡の前に立っていた。
さらさらと流れる金髪。
蒼穹を閉じ込めたような碧い瞳。
少年の面影を残しながら、完成されつつある端正な顔立ち。
昨夜も確認したはずだが、明るい場所で見ると、その美しさはさらに際立っていた。
レクスは顔を右へ向けた。
次に左へ向ける。
少し顎を引き、それから前髪を指で整えた。
「……やはり美しいな」
「はい?」
「俺の顔の事だ。実に素晴らしいと思わないか?」
「え、ええと……」
「この角度も悪くない。いや、むしろ最高だな。ふふ」
レクスは真剣だった。
昨日、女性につけられた傷を確認しているのだろうか。
そう考えていたミリアムは、主人が自分の顔に見惚れているだけだと知り、言葉を失った。
「昨日の俺も悪くなかった。しかし、この顔はさらにいい」
「同じ顔だと思いますけど……」
ミリアムは小声で呟く。
「何か言ったか?」
「な、なんでもありません!」
ミリアムは慌てて首を振った。
不用意なことを言えば、何をされるか分からない。
「お着替えを用意しますね」
「ああ、頼む」
ミリアムは逃げるように衣装棚へ向かった。
「レクス様、お着替えをお持ちしました」
「うむ」
着替えを終えると、レクスは再び鏡の前に立った。
ミリアムの選んだ服は、彼の金髪と碧眼をよく引き立てている。
「良い仕事だ、ミリアム」
「え……?」
「この服だ。俺の美しさをよく引き立てている。さすがは俺だ。何を着ても似合ってしまう」
白い絹のシャツには金糸の刺繍が施され、体に沿った黒いズボンが少年の長い手足を際立たせている。
鈴木守の感覚で表現するなら、貴族というより高級店の若いホストに近い。しかし、彼本人はいたく気に入っている様子。
「だが、これを選んだお前の仕事も悪くない。褒めてやろう」
「あ、ありがとうございます……?」
ミリアムは困惑した顔で礼を返した。
「それから、この鏡のことだが」
ミリアムの体が強張った。
「か、鏡がどうかなされましたか?」
「昨日はすまなかったな」
「え?」
「俺が割ったものを、お前が片づけたのだろう。余計な仕事を増やした」
「えっ?」
ミリアムは何度も瞬きをした。
あのレクス・サセックスが謝った。
「それに、物へ当たり散らすなど美しくない。昨日の俺は、いささか品位を欠いていた」
「……え? ……え?」
「あんな醜態は俺らしくないな」
「俺らしくないって、あれがレクス様のいつもの――」
小声で言いかけたミリアム。
「いつもの? なんだ?」
「なんでもありません!」
ミリアムは慌てて頭を下げた。
この少年の前で、滅多なことを言うものではない。
「まあいい。安心しろ、ミリアム。俺は昨日までの俺とは違う」
「は、はい……?」
「これからの俺に期待するがいい。新しくなった、この俺にな」
レクスは輝くような笑顔を浮かべた。
ミリアムの顔が引きつった。
(なんか昨日より、ずっと怖いかもしれない……)
一方のレクスは、怯えるミリアムの胸中など知る由もなく、鏡に映る自分へ満足そうに微笑みかけていた。




