悪役転生
ドン、ドン——という音がなった。
誰かが固い扉を続けざまに叩いたようにも聞こえた。しかし、扉ではなかった。
――血の味がする。
古い硬貨を舌の上に何枚か載せられたような味だった。
腹から流れ出した温かいものが、服の内側を通って脚を濡らしていた。
その少し前に、短い破裂音がいくつか聞こえた。
間隔はほとんどなかった。
――俺は撃たれたのか。
男はそう考えた。
それ以外に、今の状況をうまく説明できる言葉を思いつかなかった。
体を貫く複数の感覚。致命傷だ。
だが、男はパニックを起こすこともなく。いつものようにゆっくりと後ろを振り返った。
そこには女が立っていた。
仲間だと信じていた女。両手で銃を構え、わずかに震えている。銃口はまっすぐ男の腹を向いていた。
「ごほっ……」
咳と一緒に、血の塊が口からこぼれた。
痛みは少し遅れてやってきた。まるで、忘れていたことを思い出したみたいに。
腹に手を当てると、掌が赤く染まった。
彼方で響く遠雷を頭の中で聞いているような、耳鳴りがしていた。
チカチカと視界が明滅する。
「……なぜ?」
男の問いかけに、女はしばらく答えなかった。
「……ごめんなさい。でも、あなたが悪いのよ」
一体何をと男が問いかける余裕もなく。
それから女は、同じ言葉を何度も繰り返した。
「そうよ……あなたが……あなたが悪いの——。あなたが、あんなことを――他の女に——」
後半は聞き取れなかった。
声はひどく遠く、泣いているようにも、笑っているようにも聞こえた。
男の膝から力が抜けた。
女が銃を下ろし、倒れかけた彼の体を支えた。
その仕草は、自分が撃った相手に向けるものとしては、不思議なほど優しかった。
――俺は死ぬのか?
体の奥から熱が失われていった。
代わりに、冷たいものが指先から静かに入り込んでくる。底の見えない水の中へ、ゆっくり沈んでいくような感覚だった。
——そうか、俺は死ぬのか。
不思議なことに、恐怖はなかった。
死について考えたことがなかったわけではない。むしろ、人より考えてきた方だろう。
決まった時間に起き、決まった場所へ通い、決まった給料を受け取るような生活を、彼は一度もしたことがなかった。
男は犯罪者だった。
――まだ、終われないはずなのに。
心残りはあった。
やり残したことも、言えなかったこともあった。
しかし、それらはもう手の届かない場所にある事を分かっていた。
人生なんてそのようなものだ。
分かっていたことだ。本当に心残りなく往けるものなど、どれほどもいない。
「あ……ああああああっ!」
女の叫び声が聞こえた。
温かい雫が、男の頬に落ちた。
それが女の涙なのか、自分の涙なのか、彼には分からなかった。確かめようとも思わなかった。
——まぁ、これも悪くはないか。
意識は少しずつ深い場所へ沈んでいった。
最後に見えた女の顔は、笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
「私も……あとから行くわ」
その言葉の意味を考える時間は残されていなかった。
暗闇が男の意識を覆った。
そして最後に、もう一度だけ乾いた破裂音が響いていた。
◇
ガキン、ガキン——と、深夜の訓練場に、剣戟の音が鳴り響いていた。
「――あの女ッ! この俺に恥をかかせるとは!」
レクス・サセックスは、眼前の標的へ剣を叩きつけた。
一度、二度、三度。
端正な顔を怒りに歪め、肩で息をしながら、なおも剣を振るい続ける。
レクスは、エルロード王国有数の名門、サセックス公爵家の嫡男として生まれた。
恵まれた血筋。
他者の追随を許さない才能。
数多の令嬢を魅了するであろう美貌。
彼は、生まれながらにしてあらゆるものを与えられていた。
ゆえに、敗北を知らなかった。
「この俺が……あんな無様に……!」
今日、レクスは一人の女に敗れた。
剣でも、魔術でも、そして最後に用いた卑怯な手段でさえ、彼女の顔へ泥をつけることはできなかった。
衆目の前で味わわされた、人生で初めての大敗。
胸の奥で煮えたぎる屈辱を、レクスは剣へぶつけることしかできなかった。
(次は必ず――勝つ。どんな手を使ったとしても——)
そのときだった。
「ぐッ……!?」
頭の中で、何かが弾けた。
剣が指からこぼれ落ちる。
レクスは頭を押さえ、地面へ膝をついた。
「なんだ……これは……ッ!」
見たことのない光景が、濁流のように流れ込んでくる。
天を突くほど巨大な建物。
夜を昼のように照らす街。
地面を高速で走る、鉄の箱。
そして――。
複数の破裂音。
腹部を貫く衝撃。
口の中に広がる鉄の味。
自分へ銃口を向ける、仲間だった女。
『<なぜ……?>』
『<ごめんなさい……。でも、あなたが悪いのよ>』
これは自分の記憶ではない。
そう思う一方で、間違いなく自分が体験した出来事だとも感じていた。
『<……私も後から、いくわ>』
「ああああああああッ! 死ぬ……」
レクスは地面へ倒れ込んだ。
少年として生きた十五年の記憶へ、別人の人生が無理やり流れ込んでくる。
「消える……消される。俺が……俺ではない何かに……! 誰かに——何かに——」
レクスは土を握りしめた。
レクス・サセックスとして生きてきた記憶。
犯罪者として生きてきた記憶。
二つの人生が混ざり合い、自分と他人の境界が失われていく。
「黙れ、俺は……俺だ……! ……じゃない。俺は——俺は、まだ……!」
叫びもむなしく、その意識は暗闇へ呑み込まれた。
◇
どれほど倒れていたのだろう。
レクスは、頬に触れる冷たい土の感触で目を覚ました。
「……ここは?」
体を起こすと、割れるような頭痛が走った。
自分が誰なのか、すぐには分からない。
別の男だったような気もする。
レクス・サセックスだったような気もする。
いや、どちらの記憶も、自分のものだった。
「俺は……泣いていたのか?」
頬には涙の跡が残っていた。
誰が流した涙なのかは分からない。
ふらつきながら立ち上がると、レクスの足は自然に手洗い場へ向かった。
そこに据えられた鏡をのぞき込む。
美しい金髪。
宝石を思わせる碧い瞳。
少年の面影を残しながらも、完成されつつある端正な顔。
「これは……俺の顔だ。美しい」
異常なまでに整った容姿。初めて見たはずなのに、十五年間、毎日のように見てきた顔でもある。
レクスは鏡の中の自分へ手を伸ばした。
「俺はレクス・サセックス……」
その名を口にした瞬間、別の男の記憶が一つの答えを示した。
レクスは、この名前を知っている。
いや、名前だけではない。
この世界も、この国も、これから起きる出来事さえ知っていた。
「まさか……」
男が幼いころに熱中したファンタジーRPG。
その名は――。
「『ブレイヴ・ヒストリア』……?」
物語の主人公は、辺境の村で暮らす少年ローラン。
初恋の少女アリシアをレクスに奪われ、決闘で徹底的に叩きのめされたローランは、復讐を誓って冒険者となる。
やがて強大な力を手に入れたローランは、レクスから地位も、名誉も、すべてを奪う。
そしてレクス・サセックスは、誰からも見放され、国外へ追放される。
主人公の成長を引き立てるためだけに存在する、典型的な踏み台の悪役。
それが、レクスに与えられた役割だった。
「この俺が……悪役だと?」
恐怖より先に、腹の底から笑いが込み上げてきた。
「あり得ない」
鏡の中には、これほど美しく、自信に溢れ、才能に満ちた自分がいる。
そんな自分が、どこの誰とも知れない村の少年にすべてを奪われるという。
「この俺が主人公の踏み台だと? ははは。随分とくだらない筋書きだ」
レクスは鏡の中の自分を見つめ、不敵に笑った。
ある男の記憶が言っている。
世間が自分を悪人と呼ぼうと、知ったことではない、と。
「だが、もし——そうだとしても」
誰かに好かれるために、自分を偽るつもりもない。
レクス・サセックスは、自分こそが最も優れた人間であると信じていた。
「俺の人生を決めるのは、いつだって、この俺だ」
たとえ、この世界そのものが彼の破滅を望んでいたとしても。




