第八話 氷獄の祝杯
狩猟番が置かれてから、第九圏の朝は少しだけ騒がしくなった。
もっとも、そこに太陽はない。
氷獄の空は相変わらず暗く、鉛色の雲が低く垂れこめ、風は骨の芯を削るように冷たい。
それでも、集落の空気は以前とは明らかに違っていた。
炉の煙が上がっている。
道がある。
そして、外角側に設けられた狩猟小屋には、魔物の肉が吊るされていた。
太い梁に縄が掛けられ、赤黒い肉塊がいくつもぶら下がっている。
皮は張り枠に広げられ、氷風にさらされていた。骨は大きさごとに分けられ、脂は壺に詰められ、内臓は使えるものと捨てるものに分けられている。
まだ粗い。
まだ雑だ。
だが、そこには確かに仕事の流れが生まれていた。
「そこ、吊るす位置が低い。獣に届く」
フルカスが低い声で指示を出す。
かつて老いさらばえたように見えた悪魔は、今では少しずつ背筋が伸びてきていた。
顔の皺は深いままだが、目に力が戻っている。
動きも鈍くない。
狩猟番頭。
そう呼ばれるようになってから、フルカスはまるで昔を思い出すように、悪魔たちへ指示を飛ばしていた。
「骨は骨でまとめろ。脂を混ぜるな。塩花を使う肉と、今日食う肉を分けろ」
「へい!」
「へいじゃない。数えろ。数えられぬなら、アガレス殿を呼べ」
「数えます!」
怒鳴られた悪魔が慌てて肉を運んでいく。
その横では、グレルが地面にしゃがみ込んでいた。
氷の上についた足跡を指でなぞり、鼻をひくつかせる。
「この足跡は昨日の群れ。こっちは古い。こっちは……違うな。単独で動いてる」
グレルはそう呟きながら、薄い骨片に傷を刻んでいた。
それが記録らしい。
どの方角に、どの種類の魔物が多いか。
どの時間帯に動くか。
どこに巣があり、どこを避けるべきか。
ただ狩るだけではない。
狩場を知る。
その考え方が、少しずつ形になっている。
アガレスは、加工場の端に小さな台を置いて、忙しそうに何かを書きつけていた。
「本日の塩花消費量、昨日比で増加。肉の保存予定量も増加。ですが、吊るし場が不足。保存庫予定地は未完成。王様、これは早急に追加施工が必要です」
「分かってるよ」
ヴェスパーは腕を組み、加工場全体を眺めていた。
狩猟は回り始めた。
食料の流れもできつつある。
悪魔たちも、以前よりは明らかに動けている。
だが、問題は山ほどある。
吊るす場所が少ない。
塩が足りない。
保存庫がまだない。
加工場も、あくまで仮設だ。
このままだと、肉が腐る。
いや、ここは氷獄だから腐る速度は遅いかもしれないが、それでも管理が雑なら無駄が出る。
「狩る、捌く、保存する。ここまでは一本で繋げねぇと駄目だな」
ヴェスパーは小さく呟いた。
「まず保存庫だ。氷室みたいなものを掘るか。いや、ただ掘るだけじゃ駄目だ。湿気と血が溜まる。排水もいる。入口の動線も分けるべきか……」
考えれば考えるほど、やることが増える。
道。
炉。
加工場。
狩猟番。
そして保存庫。
次から次へと課題が湧いてくる。
「環境改善っていうか、ただの現場監督じゃねぇか」
「王様?」
「なんでもねぇ」
アガレスが首をかしげる。
ヴェスパーは軽く手を振った。
その時だった。
グレルの動きが止まった。
鼻をひくつかせていた悪魔の耳が、ぴくりと動く。
「……」
グレルはゆっくり立ち上がった。
その目が、氷原の向こうへ向けられる。
「どうした」
ヴェスパーが問う。
グレルはしばらく答えなかった。
代わりに、風上を確かめるように顔を上げる。
そして、低く言った。
「血の匂いに、別の匂いが混じってる」
「何の匂いだ」
「群れです」
その一言で、加工場の空気が変わった。
フルカスが顔を上げる。
アガレスが記録の手を止める。
肉を運んでいた悪魔たちも、動きを止めた。
氷原の向こう。
暗い地平の先で、白い雪煙が上がっている。
風ではない。
何かが走っている。
一つではない。
二つでもない。
群れだ。
獣のような低い唸り声が、氷の大地を這って近づいてくる。
肉の匂い。
血の匂い。
加工場から漏れ出したそれに、飢えた魔物たちが引き寄せられたのだ。
「狙いは小屋か」
ヴェスパーが言う。
グレルが頷いた。
「吊るした肉です。まっすぐ来てる」
フルカスが舌打ちした。
「早いな。匂いを消す処理が追いついていなかったか」
「今さら反省会してる場合じゃねぇな」
ヴェスパーは加工場の周囲を見た。
狩猟小屋。
吊るされた肉。
張り枠。
仮設の解体台。
掘りかけの保存庫予定地。
第六話で引いた道。
第七話で組んだ作業導線。
全部、まだ未完成だ。
だが、使えないわけではない。
悪魔たちの間に、わずかな怯えが走った。
当然だ。
彼らは悪魔だが、万全ではない。
長く凍え、飢え、力を失っていた。
身体も戻りきっていない。
武器も、防具も、昔のままではない。
魔物の群れを相手にするには、まだ不安が残る。
だが。
「……魔物如きが調子に乗るなよ」
誰かが笑った。
乾いた、しかし獰猛な笑いだった。
「腐っても俺らは悪魔の戦士だぜ」
その言葉に、別の悪魔が口の端を吊り上げる。
「肉を食いに来たってか」
「なら、逆に食ってやろうぜ」
「いいな。向こうから肉が走ってくる」
「その発想はどうなんだ」
ヴェスパーは呆れたが、悪くないと思った。
怯えが、笑いに変わる。
恐怖が、戦意に変わる。
悪魔たちが手を開いた。
魔力が漏れる。
黒く、赤く、青白く、紫に揺らめく力が、それぞれの手の中で形を取っていく。
欠けた大剣。
錆びた槍。
黒い鎖。
骨の斧。
ひび割れた盾。
半分だけ刃のある鎌。
どれも完全ではない。
どれも全盛期の姿には遠い。
それでも。
確かに、そこに悪魔の軍勢の影が戻り始めていた。
「……へぇ」
ヴェスパーは思わず声を漏らした。
魔力で武器を顕現させる。
悪魔ならできるのか。
ならば、自分にもできるのかもしれない。
ヴェスパーは右手を開いた。
息を吐く。
炉を起こした時の感覚。
氷に道を引いた時の感覚。
身体の奥にある黒い力を、手のひらへ集める。
「出ろ」
短く命じた。
魔力が集まる。
黒い光が手の中で凝り固まる。
剣か。
槍か。
それとも大鎌か。
ヴェスパーは一瞬、そんなものを想像した。
だが、現れたのは違った。
黒金に、白い光沢を帯びた短銃だった。
金属の冷たい質感。
角ばった銃身。
悪魔の骨を思わせる白い紋様。
手のひらに収まるには少し重く、それでいて奇妙なほど馴染む。
ヴェスパーは固まった。
「……」
沈黙。
アガレスが目を丸くする。
「王様。それは?」
「俺が聞きてぇよ」
ヴェスパーは短銃を見下ろした。
剣ではない。
槍でもない。
悪魔っぽい大鎌でもない。
銃だ。
「剣じゃねぇのかよ」
思わずそう言った。
だが、不思議と使い方は分かる。
知識として覚えている。
いや、身体の奥に残っている。
「確か……ここで覗いて、狙って、引き金を引くんだったな」
ヴェスパーは銃を構えた。
遠くから、最初の魔物が飛び出してくる。
狼に似ていた。
ただし、体高は人の胸ほどもあり、背中には氷の棘が生えている。
口からは黒い涎を垂らし、目は飢えで濁っていた。
ヴェスパーは息を止める。
照準を合わせる。
引き金を引いた。
次の瞬間。
銃声が氷原に響いた。
音は乾いていた。
だが、威力は凶悪だった。
白黒の閃光が一直線に走り、先頭の魔物の頭部を撃ち抜く。
頭蓋が弾け、巨体が前のめりに倒れた。
「おおっ!」
悪魔たちがどよめく。
だが、ヴェスパーも無事ではなかった。
反動が大きすぎた。
腕が跳ね上がり、肩に鈍い衝撃が走る。
「ぐっ……!」
思わず一歩下がる。
手首が痺れた。
肩の奥がじんじん痛む。
「反動がでけぇな……!」
強い。
だが、連射は無理だ。
一発撃つたびに姿勢が崩れる。
前線で撃ち続ければ、次の瞬間には魔物に食われる。
「王様、続けて撃てますか?」
アガレスが問う。
「撃てるが、やめとく。これは切り札だ。俺は指揮に回る」
ヴェスパーはすぐに判断した。
銃を下ろし、加工場の配置を見る。
正面から来る群れ。
左右に回り込む影。
守るべき狩猟小屋。
絶対に壊されたくない吊るし場。
それから、掘りかけの保存庫予定地。
穴。
段差。
資材。
張り枠。
道。
全部、使える。
「フルカス!」
「はっ!」
「正面を支えろ。小屋の前まで入れるな」
「承知」
「グレル、回り込みを見ろ。左から来るやつを見逃すな」
「分かりました」
「盾持ちは狭い導線に並べ。広い場所で囲まれるな。道の上に誘導しろ。あそこなら足場がいい」
ヴェスパーは次々に指示を飛ばした。
「保存庫予定地に落とせ! 掘りかけの穴も障害物に使え!」
「了解!」
「肉を守れ!」
「おお!」
「小屋を壊すな!」
「おおお!」
「死ぬな! 死体が増えると面倒だ!」
「そこは心配してくれよ!」
悪魔たちが叫び返す。
魔物の群れが突っ込んできた。
フルカスが一歩前に出る。
その手には古びた長槍があった。
穂先は欠けている。
柄にもひびが入っている。
だが、構えは美しい。
老いた悪魔の目が、鋭く細められる。
「来い」
先頭の魔物が跳んだ。
フルカスの槍が伸びる。
氷風を裂き、魔物の喉を貫いた。
そのまま横へ払う。
巨体が吹き飛び、後続の魔物を巻き込んだ。
「正面を開けるな!」
フルカスの声が飛ぶ。
盾を持った悪魔たちが並ぶ。
ひび割れた盾が、魔物の突進を受け止めた。
骨の斧が振り下ろされる。
黒い鎖が魔物の脚に絡みつき、引き倒す。
錆びた槍が腹を突き、半刃の鎌が首を裂いた。
完全ではない。
洗練もされていない。
だが、そこには戦場の呼吸があった。
「左、三匹!」
グレルが叫ぶ。
ヴェスパーが振り向く。
加工場の左手、皮の張り枠を回り込むように、三匹の魔物が低く走っていた。
狙いは吊るされた肉。
「そこ、張り枠を倒せ!」
「えっ、皮が!」
「また取れる!」
「なるほど!」
悪魔が張り枠を蹴り倒した。
広げられていた皮が、氷の上へばさりと落ちる。
走っていた魔物の脚がそれに絡まった。
一匹が転ぶ。
後続がぶつかる。
「今だ!」
骨の斧を持った悪魔が飛びかかる。
黒い血が氷に散った。
「右、さらに来ます!」
グレルが叫ぶ。
「道へ誘導しろ!」
ヴェスパーは道路予定地を指差した。
第六話で無理やり拓いた道。
周囲よりも足場が平らで、魔物も走りやすい。
つまり、誘導しやすい。
悪魔たちがわざと隙を作る。
魔物がそこへ流れ込む。
その先には、掘りかけの保存庫予定地があった。
穴と呼ぶには浅い。
だが、全力で走る魔物を転ばせるには十分だった。
「落とせ!」
「おらぁ!」
黒い鎖が脚を絡める。
魔物が穴へ転がり込む。
そこへ上から槍が降る。
「保存庫予定地、役に立ってんじゃねぇか!」
「本来の使い方じゃねぇよ!」
ヴェスパーが叫び返す。
戦場は混乱していた。
だが、崩れてはいない。
悪魔たちは狩猟小屋の前に壁を作り、魔物を狭い導線へ押し込んでいく。
グレルが気配を読む。
フルカスが正面を支える。
アガレスは安全圏にいるかと思いきや、なぜか肉の在庫表を抱えたまま叫んでいた。
「王様! 現在の襲撃数から推定すると、処理後の肉量が保存可能量を大幅に超過します!」
「今それ言う!?」
「重要です!」
「重要だけど後だ!」
「では記録しておきます!」
「そうしてくれ!」
魔物の一匹が盾の列を越えた。
大きな口を開け、吊るされた肉へ飛びかかる。
ヴェスパーは短銃を構えた。
狙う。
撃つ。
銃声。
弾丸が魔物の胴を撃ち抜いた。
巨体が横へ吹き飛び、吊るし場の柱ぎりぎりで止まる。
反動でヴェスパーの肩が跳ねた。
「ぐっ……!」
やはり連射はきつい。
だが、止めるには十分だ。
「王様!」
「平気だ! 前を見ろ!」
フルカスが槍を回す。
「押し返せ!」
悪魔たちが吠えた。
それは、飢えた者たちの声ではなかった。
凍えて膝を抱えていた者たちの声でもない。
戦う者の声だった。
最後の一群が突っ込んでくる。
ヴェスパーは地面を蹴った。
「中央を開けろ!」
悪魔たちが左右へ割れる。
魔物たちは、目の前が開いたと見て一気に走り込んだ。
その先は、保存庫予定地。
掘りかけの穴。
そして、張り出した氷の段差。
「今だ!」
鎖が走る。
盾が横から押す。
魔物たちがまとめて体勢を崩し、穴へ転げ落ちた。
そこへフルカスが槍を投げた。
古びた槍が黒い魔力をまとい、穴の中で爆ぜる。
鈍い轟音。
氷片と黒い血が舞い上がる。
しばらく、誰も動かなかった。
風が吹く。
氷原に、魔物の唸り声はもうなかった。
悪魔の一体が、恐る恐る言った。
「……終わり、ですかね」
グレルが鼻を鳴らす。
「近くには、もういない」
その言葉を聞いた瞬間、悪魔たちが一斉に息を吐いた。
そして。
「勝ったぞ!」
「肉を守った!」
「小屋も無事だ!」
「肉のためなら死ねる!」
「死ぬなっつってんだろ!」
歓声が上がった。
ヴェスパーは肩を押さえながら、加工場の周囲を見た。
狩猟小屋は無事。
吊るし肉も無事。
皮の張り枠はいくつか倒れたが、直せる。
保存庫予定地は、だいぶひどいことになっている。
そして、その周囲には。
魔物の死骸が山になっていた。
「……多いな」
ヴェスパーは呟いた。
狩った分がある。
そこへ、襲ってきた分が加わった。
結果として、肉が増えた。
あまりにも増えた。
吊るす場所が足りない。
解体台も足りない。
皮も骨も脂も山になる。
悪魔たちが嬉しそうな顔のまま、次第に現実へ戻っていく。
「これ、どこに吊るすんですか」
「解体台、足りません!」
「皮を張る枠もないぞ!」
「脂壺ももういっぱいです!」
「多すぎる!」
「捌ききれません!」
全員の視線がヴェスパーへ向いた。
ヴェスパーは一秒考えた。
保存できない。
吊るせない。
捌ききれない。
ならば。
「とりあえず食え!」
即答だった。
アガレスが目を瞬かせる。
「王様。記録上、それはかなり雑な判断です」
「分かってる。でも現場としては正しい」
「確かに、食べれば減りますね」
「食べれば回復する。食べれば士気も上がる。保存できないなら腹に保存しろ」
「腹に保存」
アガレスが真顔で記録した。
「それは書かなくていい」
だが、悪魔たちはすでに動き始めていた。
「食っていいってよ!」
「焼け!」
「鍋を出せ!」
「塩花だ! 塩花を持ってこい!」
「モツもいけるぞ!」
「骨付きで炙れ!」
なし崩しだった。
防衛戦の後片付けは、いつの間にか宴の準備へ変わっていた。
炉から火が分けられ、加工場の周りにいくつもの火床が作られる。
肉が串に刺される。
骨付き肉が炙られる。
鍋には内臓と脂と塩花が放り込まれ、地獄の塩モツ煮込みがぐつぐつと音を立て始める。
香りが広がった。
血と肉の匂いとは違う。
焼けた脂。
塩。
煮込まれた内臓。
湯気。
それは、空腹を殴りつける匂いだった。
「うめぇ!」
「塩だ! 塩があるって偉大だ!」
「肉がある!」
「肉が余ってる!」
「余ってるってなんだ!? そんな言葉、久しぶりに聞いたぞ!」
悪魔たちは食った。
焼き、煮込み、かじり、笑い、騒いだ。
フルカスも、珍しく大きな骨付き肉を手にしていた。
最初は静かに食っていたが、途中から明らかに食べる速度が上がっていた。
「フルカス、食えてるか」
ヴェスパーが声をかける。
フルカスは肉を飲み込み、少しだけ気まずそうに頷いた。
「……悪くありません」
「それ、かなり気に入ってるやつの言い方だろ」
「塩加減が良いだけです」
「はいはい」
グレルは少し離れた端で、静かに肉を食っていた。
騒ぎには混ざらない。
だが、皿の上の肉はしっかり減っている。
ニムは両腕で肉を抱えていた。
抱える必要はない。
誰も取らない。
だが、ニムは宝物のように肉を抱きしめ、嬉しそうにかじっていた。
「うまいか」
ヴェスパーが聞くと、ニムは口いっぱいに肉を詰めたまま頷いた。
「ん!」
「喉詰まらせるなよ」
「ん!」
多分、分かっていない。
アガレスは宴の中でも記録を続けていた。
「料理名。骨付き氷狼肉の直火炙り。塩花焼き。地獄塩モツ煮込み増量版。脂壺の残量、要確認。保存予定量、再計算。宴による消費量、予想以上」
「宴による消費量ってなんだよ」
「重要指標です」
「まあ、そうか」
ヴェスパーは少し離れた場所に腰を下ろした。
手には焼いた肉。
肩はまだ痛い。
短銃は、今はもう手の中にない。
魔力を解いたら消えた。
だが、感覚は残っている。
あの反動。
あの威力。
自分の武器。
「銃か……」
ヴェスパーは呟いた。
剣でも槍でもなく、銃。
妙にしっくりくるのが腹立たしい。
だが、それについて考えるのは後でいい。
今は、目の前の光景の方が大事だった。
悪魔たちが笑っている。
武器を出し、戦い、肉を守り、魔物を倒し、今はその肉を食って騒いでいる。
少し前まで、彼らは凍えていた。
飢えていた。
炉の前で、ただ火に縋っていた。
それが今は、杯もないのに杯を掲げるような勢いで肉を振り上げている。
「……こうなると、酒飲みてぇな」
ぼそりと、ヴェスパーは呟いた。
誰に向けた言葉でもなかった。
ただの独り言だ。
肉がある。
火がある。
騒ぐ馬鹿どもがいる。
なら、酒が欲しくなる。
それだけの話だった。
だが。
次の瞬間。
風の向こうで、誰かが笑ったような気がした。
小さな笑い声。
低く、遠く、氷の底から響くような声。
ヴェスパーは顔を上げた。
「……あ?」
直後。
貯水池の一角が、どろりと色を変えた。
透明だった水が、深い赤紫へ染まっていく。
氷獄の冷たい空気を押しのけるように、芳醇な香りが立ち上った。
甘く。
重く。
どこか血にも似ていて、しかし明らかに違う。
悪魔たちの動きが止まる。
肉をかじっていた者も、鍋をかき混ぜていた者も、全員が貯水池を見た。
「……なんだ、あれ」
「水が赤いぞ」
「血か?」
「いや、匂いが違う」
一体の悪魔が、恐る恐る近づいた。
手にしていたタンブラーを突っ込み、赤紫の液体を汲む。
「おい、やめとけ」
「毒かもしれんぞ」
「悪魔が毒を恐れてどうする」
「それもそうか」
悪魔はタンブラーに口をつけた。
一口飲む。
沈黙。
全員が見守る。
悪魔は目を見開いた。
そして叫んだ。
「ワインじゃねぇか!!」
次の瞬間、宴が爆発した。
「ワイン!?」
「酒だ!」
「酒が湧いたぞ!」
「貯水池から酒が湧いた!」
「タンブラー持ってこい!」
「並べ! 押すな!」
「鍋でもいいか!?」
「鍋はやめろ! 煮込みが薄まる!」
「桶を持ってこい!」
「それもやめろ! 風情がねぇ!」
「風情なんか知るか!」
悪魔たちが貯水池へ殺到する。
さっきまで魔物の群れと戦っていた者たちが、今度はワインを巡って列を作ろうとして失敗している。
押すなと言いながら押す。
並べと言いながら横入りする。
タンブラーを持った者、椀を持った者、なぜか骨の器を作り始める者までいる。
ヴェスパーは額を押さえた。
「なんで酒が湧くんだよ、この地獄……」
アガレスが目を輝かせている。
「王様の願望に、第九圏が反応した可能性があります」
「やめろ。さらっと怖いこと言うな」
「ですが、炉の時も、塩花の時も、この地獄は王様の行動に応じて変化しています」
「俺が酒飲みてぇなって言ったら池がワインになるの、変化として雑すぎるだろ」
「願いが明確だったのでは?」
「嫌な納得感を出すな」
風はもう何も答えなかった。
ただ、氷の底で何かが愉快そうに笑っているような気がした。
ヴェスパーは眉をひそめる。
気のせいか。
いや、この地獄で起こることを、気のせいで片づけるのは少し危ない。
そう思いながらも、目の前の悪魔たちの騒ぎを止める方が先だった。
「王様! 飲んでみますか!」
悪魔の一体が赤紫の液体を入れたタンブラーを持ってきた。
ヴェスパーは受け取る。
香りを嗅ぐ。
確かにワインだ。
しかも、妙に上等そうな香りがする。
「……地獄産ワイン」
「氷獄ヴィンテージですね」
「アガレス、それ記録しなくていい」
「商品名として有望です」
「売る気か」
ヴェスパーは一口飲んだ。
冷たい。
だが、喉を通ると内側から熱が広がる。
濃い。
甘みがあり、渋みがあり、どこか血のような鉄の余韻がある。
地獄らしいと言えば、地獄らしい。
「……うまいな」
そう言った瞬間、悪魔たちがさらに騒いだ。
「王様がうまいと言ったぞ!」
「飲め!」
「食え!」
「祝杯だ!」
「何の祝杯だ!」
「肉の祝杯だ!」
「勝利の祝杯だ!」
「王様の祝杯だ!」
「勝手に増やすな!」
だが、もう止まらなかった。
宴はさらに盛り上がった。
肉を食い、ワインを飲み、笑い、歌になっているのか叫びなのか分からない声が氷獄に響く。
悪魔たちの目に力が戻っていく。
頬に血色が戻る。
背筋が伸びる。
手にした武器の残滓が、火の光を受けて揺れている。
そこにはもう、ただ飢えて凍えていた悪魔たちの姿はなかった。
その時、フルカスが静かに立ち上がった。
大きな骨付き肉を食い終え、手を拭う。
そして、低く言った。
「皆、聞いてほしい」
最初は誰も聞いていなかった。
「おい、フルカス様が何か言うぞ」
「静かにしろ」
「肉は置け」
「酒も置け」
「酒は置けない」
「置け」
ざわめきが少しずつ収まっていく。
炉の火がぱちぱちと鳴った。
赤紫のワインの香りが、冷たい空気に溶けている。
フルカスは集まった悪魔たちを見回した。
「私は、曲がりなりにもこの集落をまとめてきた」
その声は派手ではなかった。
だが、不思議とよく通った。
「だが、それは長と呼べるものではない。ただ生き残るために、火のない場所で身を寄せ合っていただけだ。飢え、凍え、力を失い、過去の栄光に縋ることすらできなかった」
悪魔たちは黙って聞いていた。
誰も茶化さない。
誰も笑わない。
フルカスの言葉は、彼ら全員の現実だった。
「だが、今は違う」
フルカスは炉を見た。
「炉がある」
次に、加工場を見た。
「食事がある」
道を見た。
「道が引かれた」
狩猟番たちを見た。
「狩猟番が置かれた」
そして、武器を顕現させた悪魔たちを見る。
「我らは再び、戦えるようになり始めている」
誰かが息を呑んだ。
「これを成した者がいる」
フルカスの視線が、ヴェスパーへ向けられた。
ヴェスパーは嫌な予感がした。
こういう時の流れは、だいたい面倒な方向へ行く。
「ここには、王がおられる」
静寂が落ちた。
炉の火の音だけが響く。
悪魔たちは、すぐには声を上げなかった。
フルカスは最初からヴェスパーを王として見ていた。
アガレスも、自然に王様と呼んでいる。
だが、他の悪魔たちにとって、ヴェスパーはまだ謎の存在だった。
何者なのか分からない。
なぜ第九圏に現れたのか分からない。
どこまで信じていいのかも分からない。
名も知らぬ石棺から現れた男。
リリスに名を与えられた男。
炉を起こし、道を引き、肉をもたらし、魔物を撃ち抜き、貯水池をワインに変えたかもしれない男。
怪しい。
あまりにも怪しい。
だが。
腹を満たしたのは事実だ。
炉を作ったのも事実だ。
魔物から加工場を守ったのも事実だ。
そして今、笑える夜を作ったのも事実だった。
沈黙が続く。
ヴェスパーは気まずくなって頭をかいた。
「いや、そういうのはまだ早ぇだろ」
本音だった。
王。
そんなもの、簡単に名乗る気はない。
名乗った瞬間に責任が増える。
やることも増える。
たぶん、面倒も増える。
だが、その空気を破ったのはニムだった。
ニムは肉を抱えたまま、ヴェスパーを見上げた。
そして、無邪気に言った。
「王様」
ヴェスパーが振り返る。
ニムは笑った。
「へへへ」
それだけだった。
ただ、それだけだった。
だが、その一言で張り詰めていた空気が少し緩んだ。
誰かが小さく笑う。
別の悪魔が、試すように呟いた。
「王……」
「王様、か」
「まあ、炉を作ったしな」
「肉も食えたしな」
「酒も湧いたしな」
「それは王様のせいなのか?」
「知らん。でも湧いた」
「なら王様でいいだろ」
「基準が雑だぞ」
ざわめきが戻る。
だが、さっきまでとは少し違っていた。
正式な戴冠ではない。
全員が心から認めたわけでもない。
膝をつき、忠誠を誓うような場面でもない。
それでも、呼び名が生まれた。
王様。
最初はアガレスの呼び方だった。
次に、ニムが呼んだ。
そして今、他の悪魔たちの口にも乗り始めている。
ヴェスパーは困ったように笑った。
「……まあ、悪くない気もしてきたな」
その瞬間、悪魔たちがどっと笑った。
「王様が認めたぞ!」
「祝杯だ!」
「また祝杯かよ!」
「飲む理由はいくらあってもいい!」
「それはそう!」
宴が再び騒がしくなる。
フルカスは静かに頭を下げた。
アガレスは嬉しそうに記録している。
「本日、王様呼称、集落内に拡大。正式戴冠には至らず。ただし否定者なし」
「それは書いていい」
「はい、王様」
「……おう」
ヴェスパーはタンブラーを手に、夜の氷原を見た。
宴の火が揺れている。
肉の匂いと、赤紫の酒の香りが氷獄に漂う。
第九圏はまだ寒い。
住居も足りない。
保存庫も未完成。
火も食料も、まだ十分ではない。
明日になれば、また課題が山ほどある。
保存庫を掘らなければならない。
加工場を拡張しなければならない。
匂い対策も必要だ。
狩猟番の巡回も見直す必要がある。
銃の反動もどうにかしなければならない。
だが、今夜だけは。
悪魔たちは笑っていた。
武器を取り戻し、肉を食い、杯を掲げている。
ヴェスパーはワインを一口飲んだ。
氷獄の風が吹く。
その奥で、また小さく笑い声が聞こえた気がした。
ヴェスパーは空を見上げる。
「……見てんのか」
返事はない。
だが、氷の底に溶けた何かが、愉快そうに目を細めているような気がした。
その夜から。
ヴェスパーという名とともに、もう一つの呼び名が第九圏の底へ静かに根を下ろし始める。
王様。
それはまだ、冗談のような呼び名だった。
だが、誰もそれを否定しなかった。
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