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第九圏の欠落王 ―棺の底から始める地獄改革―  作者: カイメイラ
第一章 氷獄に火を灯す

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第八話 氷獄の祝杯


 狩猟番が置かれてから、第九圏の朝は少しだけ騒がしくなった。


 もっとも、そこに太陽はない。


 氷獄の空は相変わらず暗く、鉛色の雲が低く垂れこめ、風は骨の芯を削るように冷たい。


 それでも、集落の空気は以前とは明らかに違っていた。


 炉の煙が上がっている。


 道がある。


 そして、外角側に設けられた狩猟小屋には、魔物の肉が吊るされていた。


 太い梁に縄が掛けられ、赤黒い肉塊がいくつもぶら下がっている。


 皮は張り枠に広げられ、氷風にさらされていた。骨は大きさごとに分けられ、脂は壺に詰められ、内臓は使えるものと捨てるものに分けられている。


 まだ粗い。


 まだ雑だ。


 だが、そこには確かに仕事の流れが生まれていた。


「そこ、吊るす位置が低い。獣に届く」


 フルカスが低い声で指示を出す。


 かつて老いさらばえたように見えた悪魔は、今では少しずつ背筋が伸びてきていた。


 顔の皺は深いままだが、目に力が戻っている。


 動きも鈍くない。


 狩猟番頭。


 そう呼ばれるようになってから、フルカスはまるで昔を思い出すように、悪魔たちへ指示を飛ばしていた。


「骨は骨でまとめろ。脂を混ぜるな。塩花を使う肉と、今日食う肉を分けろ」


「へい!」


「へいじゃない。数えろ。数えられぬなら、アガレス殿を呼べ」


「数えます!」


 怒鳴られた悪魔が慌てて肉を運んでいく。


 その横では、グレルが地面にしゃがみ込んでいた。


 氷の上についた足跡を指でなぞり、鼻をひくつかせる。


「この足跡は昨日の群れ。こっちは古い。こっちは……違うな。単独で動いてる」


 グレルはそう呟きながら、薄い骨片に傷を刻んでいた。


 それが記録らしい。


 どの方角に、どの種類の魔物が多いか。


 どの時間帯に動くか。


 どこに巣があり、どこを避けるべきか。


 ただ狩るだけではない。


 狩場を知る。


 その考え方が、少しずつ形になっている。


 アガレスは、加工場の端に小さな台を置いて、忙しそうに何かを書きつけていた。


「本日の塩花消費量、昨日比で増加。肉の保存予定量も増加。ですが、吊るし場が不足。保存庫予定地は未完成。王様、これは早急に追加施工が必要です」


「分かってるよ」


 ヴェスパーは腕を組み、加工場全体を眺めていた。


 狩猟は回り始めた。


 食料の流れもできつつある。


 悪魔たちも、以前よりは明らかに動けている。


 だが、問題は山ほどある。


 吊るす場所が少ない。


 塩が足りない。


 保存庫がまだない。


 加工場も、あくまで仮設だ。


 このままだと、肉が腐る。


 いや、ここは氷獄だから腐る速度は遅いかもしれないが、それでも管理が雑なら無駄が出る。


「狩る、捌く、保存する。ここまでは一本で繋げねぇと駄目だな」


 ヴェスパーは小さく呟いた。


「まず保存庫だ。氷室みたいなものを掘るか。いや、ただ掘るだけじゃ駄目だ。湿気と血が溜まる。排水もいる。入口の動線も分けるべきか……」


 考えれば考えるほど、やることが増える。


 道。


 炉。


 加工場。


 狩猟番。


 そして保存庫。


 次から次へと課題が湧いてくる。


「環境改善っていうか、ただの現場監督じゃねぇか」


「王様?」


「なんでもねぇ」


 アガレスが首をかしげる。


 ヴェスパーは軽く手を振った。


 その時だった。


 グレルの動きが止まった。


 鼻をひくつかせていた悪魔の耳が、ぴくりと動く。


「……」


 グレルはゆっくり立ち上がった。


 その目が、氷原の向こうへ向けられる。


「どうした」


 ヴェスパーが問う。


 グレルはしばらく答えなかった。


 代わりに、風上を確かめるように顔を上げる。


 そして、低く言った。


「血の匂いに、別の匂いが混じってる」


「何の匂いだ」


「群れです」


 その一言で、加工場の空気が変わった。


 フルカスが顔を上げる。


 アガレスが記録の手を止める。


 肉を運んでいた悪魔たちも、動きを止めた。


 氷原の向こう。


 暗い地平の先で、白い雪煙が上がっている。


 風ではない。


 何かが走っている。


 一つではない。


 二つでもない。


 群れだ。


 獣のような低い唸り声が、氷の大地を這って近づいてくる。


 肉の匂い。


 血の匂い。


 加工場から漏れ出したそれに、飢えた魔物たちが引き寄せられたのだ。


「狙いは小屋か」


 ヴェスパーが言う。


 グレルが頷いた。


「吊るした肉です。まっすぐ来てる」


 フルカスが舌打ちした。


「早いな。匂いを消す処理が追いついていなかったか」


「今さら反省会してる場合じゃねぇな」


 ヴェスパーは加工場の周囲を見た。


 狩猟小屋。


 吊るされた肉。


 張り枠。


 仮設の解体台。


 掘りかけの保存庫予定地。


 第六話で引いた道。


 第七話で組んだ作業導線。


 全部、まだ未完成だ。


 だが、使えないわけではない。


 悪魔たちの間に、わずかな怯えが走った。


 当然だ。


 彼らは悪魔だが、万全ではない。


 長く凍え、飢え、力を失っていた。


 身体も戻りきっていない。


 武器も、防具も、昔のままではない。


 魔物の群れを相手にするには、まだ不安が残る。


 だが。


「……魔物如きが調子に乗るなよ」


 誰かが笑った。


 乾いた、しかし獰猛な笑いだった。


「腐っても俺らは悪魔の戦士だぜ」


 その言葉に、別の悪魔が口の端を吊り上げる。


「肉を食いに来たってか」


「なら、逆に食ってやろうぜ」


「いいな。向こうから肉が走ってくる」


「その発想はどうなんだ」


 ヴェスパーは呆れたが、悪くないと思った。


 怯えが、笑いに変わる。


 恐怖が、戦意に変わる。


 悪魔たちが手を開いた。


 魔力が漏れる。


 黒く、赤く、青白く、紫に揺らめく力が、それぞれの手の中で形を取っていく。


 欠けた大剣。


 錆びた槍。


 黒い鎖。


 骨の斧。


 ひび割れた盾。


 半分だけ刃のある鎌。


 どれも完全ではない。


 どれも全盛期の姿には遠い。


 それでも。


 確かに、そこに悪魔の軍勢の影が戻り始めていた。


「……へぇ」


 ヴェスパーは思わず声を漏らした。


 魔力で武器を顕現させる。


 悪魔ならできるのか。


 ならば、自分にもできるのかもしれない。


 ヴェスパーは右手を開いた。


 息を吐く。


 炉を起こした時の感覚。


 氷に道を引いた時の感覚。


 身体の奥にある黒い力を、手のひらへ集める。


「出ろ」


 短く命じた。


 魔力が集まる。


 黒い光が手の中で凝り固まる。


 剣か。


 槍か。


 それとも大鎌か。


 ヴェスパーは一瞬、そんなものを想像した。


 だが、現れたのは違った。


 黒金に、白い光沢を帯びた短銃だった。


 金属の冷たい質感。


 角ばった銃身。


 悪魔の骨を思わせる白い紋様。


 手のひらに収まるには少し重く、それでいて奇妙なほど馴染む。


 ヴェスパーは固まった。


「……」


 沈黙。


 アガレスが目を丸くする。


「王様。それは?」


「俺が聞きてぇよ」


 ヴェスパーは短銃を見下ろした。


 剣ではない。


 槍でもない。


 悪魔っぽい大鎌でもない。


 銃だ。


「剣じゃねぇのかよ」


 思わずそう言った。


 だが、不思議と使い方は分かる。


 知識として覚えている。


 いや、身体の奥に残っている。


「確か……ここで覗いて、狙って、引き金を引くんだったな」


 ヴェスパーは銃を構えた。


 遠くから、最初の魔物が飛び出してくる。


 狼に似ていた。


 ただし、体高は人の胸ほどもあり、背中には氷の棘が生えている。


 口からは黒い涎を垂らし、目は飢えで濁っていた。


 ヴェスパーは息を止める。


 照準を合わせる。


 引き金を引いた。


 次の瞬間。


 銃声が氷原に響いた。


 音は乾いていた。


 だが、威力は凶悪だった。


 白黒の閃光が一直線に走り、先頭の魔物の頭部を撃ち抜く。


 頭蓋が弾け、巨体が前のめりに倒れた。


「おおっ!」


 悪魔たちがどよめく。


 だが、ヴェスパーも無事ではなかった。


 反動が大きすぎた。


 腕が跳ね上がり、肩に鈍い衝撃が走る。


「ぐっ……!」


 思わず一歩下がる。


 手首が痺れた。


 肩の奥がじんじん痛む。


「反動がでけぇな……!」


 強い。


 だが、連射は無理だ。


 一発撃つたびに姿勢が崩れる。


 前線で撃ち続ければ、次の瞬間には魔物に食われる。


「王様、続けて撃てますか?」


 アガレスが問う。


「撃てるが、やめとく。これは切り札だ。俺は指揮に回る」


 ヴェスパーはすぐに判断した。


 銃を下ろし、加工場の配置を見る。


 正面から来る群れ。


 左右に回り込む影。


 守るべき狩猟小屋。


 絶対に壊されたくない吊るし場。


 それから、掘りかけの保存庫予定地。


 穴。


 段差。


 資材。


 張り枠。


 道。


 全部、使える。


「フルカス!」


「はっ!」


「正面を支えろ。小屋の前まで入れるな」


「承知」


「グレル、回り込みを見ろ。左から来るやつを見逃すな」


「分かりました」


「盾持ちは狭い導線に並べ。広い場所で囲まれるな。道の上に誘導しろ。あそこなら足場がいい」


 ヴェスパーは次々に指示を飛ばした。


「保存庫予定地に落とせ! 掘りかけの穴も障害物に使え!」


「了解!」


「肉を守れ!」


「おお!」


「小屋を壊すな!」


「おおお!」


「死ぬな! 死体が増えると面倒だ!」


「そこは心配してくれよ!」


 悪魔たちが叫び返す。


 魔物の群れが突っ込んできた。


 フルカスが一歩前に出る。


 その手には古びた長槍があった。


 穂先は欠けている。


 柄にもひびが入っている。


 だが、構えは美しい。


 老いた悪魔の目が、鋭く細められる。


「来い」


 先頭の魔物が跳んだ。


 フルカスの槍が伸びる。


 氷風を裂き、魔物の喉を貫いた。


 そのまま横へ払う。


 巨体が吹き飛び、後続の魔物を巻き込んだ。


「正面を開けるな!」


 フルカスの声が飛ぶ。


 盾を持った悪魔たちが並ぶ。


 ひび割れた盾が、魔物の突進を受け止めた。


 骨の斧が振り下ろされる。


 黒い鎖が魔物の脚に絡みつき、引き倒す。


 錆びた槍が腹を突き、半刃の鎌が首を裂いた。


 完全ではない。


 洗練もされていない。


 だが、そこには戦場の呼吸があった。


「左、三匹!」


 グレルが叫ぶ。


 ヴェスパーが振り向く。


 加工場の左手、皮の張り枠を回り込むように、三匹の魔物が低く走っていた。


 狙いは吊るされた肉。


「そこ、張り枠を倒せ!」


「えっ、皮が!」


「また取れる!」


「なるほど!」


 悪魔が張り枠を蹴り倒した。


 広げられていた皮が、氷の上へばさりと落ちる。


 走っていた魔物の脚がそれに絡まった。


 一匹が転ぶ。


 後続がぶつかる。


「今だ!」


 骨の斧を持った悪魔が飛びかかる。


 黒い血が氷に散った。


「右、さらに来ます!」


 グレルが叫ぶ。


「道へ誘導しろ!」


 ヴェスパーは道路予定地を指差した。


 第六話で無理やり拓いた道。


 周囲よりも足場が平らで、魔物も走りやすい。


 つまり、誘導しやすい。


 悪魔たちがわざと隙を作る。


 魔物がそこへ流れ込む。


 その先には、掘りかけの保存庫予定地があった。


 穴と呼ぶには浅い。


 だが、全力で走る魔物を転ばせるには十分だった。


「落とせ!」


「おらぁ!」


 黒い鎖が脚を絡める。


 魔物が穴へ転がり込む。


 そこへ上から槍が降る。


「保存庫予定地、役に立ってんじゃねぇか!」


「本来の使い方じゃねぇよ!」


 ヴェスパーが叫び返す。


 戦場は混乱していた。


 だが、崩れてはいない。


 悪魔たちは狩猟小屋の前に壁を作り、魔物を狭い導線へ押し込んでいく。


 グレルが気配を読む。


 フルカスが正面を支える。


 アガレスは安全圏にいるかと思いきや、なぜか肉の在庫表を抱えたまま叫んでいた。


「王様! 現在の襲撃数から推定すると、処理後の肉量が保存可能量を大幅に超過します!」


「今それ言う!?」


「重要です!」


「重要だけど後だ!」


「では記録しておきます!」


「そうしてくれ!」


 魔物の一匹が盾の列を越えた。


 大きな口を開け、吊るされた肉へ飛びかかる。


 ヴェスパーは短銃を構えた。


 狙う。


 撃つ。


 銃声。


 弾丸が魔物の胴を撃ち抜いた。


 巨体が横へ吹き飛び、吊るし場の柱ぎりぎりで止まる。


 反動でヴェスパーの肩が跳ねた。


「ぐっ……!」


 やはり連射はきつい。


 だが、止めるには十分だ。


「王様!」


「平気だ! 前を見ろ!」


 フルカスが槍を回す。


「押し返せ!」


 悪魔たちが吠えた。


 それは、飢えた者たちの声ではなかった。


 凍えて膝を抱えていた者たちの声でもない。


 戦う者の声だった。


 最後の一群が突っ込んでくる。


 ヴェスパーは地面を蹴った。


「中央を開けろ!」


 悪魔たちが左右へ割れる。


 魔物たちは、目の前が開いたと見て一気に走り込んだ。


 その先は、保存庫予定地。


 掘りかけの穴。


 そして、張り出した氷の段差。


「今だ!」


 鎖が走る。


 盾が横から押す。


 魔物たちがまとめて体勢を崩し、穴へ転げ落ちた。


 そこへフルカスが槍を投げた。


 古びた槍が黒い魔力をまとい、穴の中で爆ぜる。


 鈍い轟音。


 氷片と黒い血が舞い上がる。


 しばらく、誰も動かなかった。


 風が吹く。


 氷原に、魔物の唸り声はもうなかった。


 悪魔の一体が、恐る恐る言った。


「……終わり、ですかね」


 グレルが鼻を鳴らす。


「近くには、もういない」


 その言葉を聞いた瞬間、悪魔たちが一斉に息を吐いた。


 そして。


「勝ったぞ!」


「肉を守った!」


「小屋も無事だ!」


「肉のためなら死ねる!」


「死ぬなっつってんだろ!」


 歓声が上がった。


 ヴェスパーは肩を押さえながら、加工場の周囲を見た。


 狩猟小屋は無事。


 吊るし肉も無事。


 皮の張り枠はいくつか倒れたが、直せる。


 保存庫予定地は、だいぶひどいことになっている。


 そして、その周囲には。


 魔物の死骸が山になっていた。


「……多いな」


 ヴェスパーは呟いた。


 狩った分がある。


 そこへ、襲ってきた分が加わった。


 結果として、肉が増えた。


 あまりにも増えた。


 吊るす場所が足りない。


 解体台も足りない。


 皮も骨も脂も山になる。


 悪魔たちが嬉しそうな顔のまま、次第に現実へ戻っていく。


「これ、どこに吊るすんですか」


「解体台、足りません!」


「皮を張る枠もないぞ!」


「脂壺ももういっぱいです!」


「多すぎる!」


「捌ききれません!」


 全員の視線がヴェスパーへ向いた。


 ヴェスパーは一秒考えた。


 保存できない。


 吊るせない。


 捌ききれない。


 ならば。


「とりあえず食え!」


 即答だった。


 アガレスが目を瞬かせる。


「王様。記録上、それはかなり雑な判断です」


「分かってる。でも現場としては正しい」


「確かに、食べれば減りますね」


「食べれば回復する。食べれば士気も上がる。保存できないなら腹に保存しろ」


「腹に保存」


 アガレスが真顔で記録した。


「それは書かなくていい」


 だが、悪魔たちはすでに動き始めていた。


「食っていいってよ!」


「焼け!」


「鍋を出せ!」


「塩花だ! 塩花を持ってこい!」


「モツもいけるぞ!」


「骨付きで炙れ!」


 なし崩しだった。


 防衛戦の後片付けは、いつの間にか宴の準備へ変わっていた。


 炉から火が分けられ、加工場の周りにいくつもの火床が作られる。


 肉が串に刺される。


 骨付き肉が炙られる。


 鍋には内臓と脂と塩花が放り込まれ、地獄の塩モツ煮込みがぐつぐつと音を立て始める。


 香りが広がった。


 血と肉の匂いとは違う。


 焼けた脂。


 塩。


 煮込まれた内臓。


 湯気。


 それは、空腹を殴りつける匂いだった。


「うめぇ!」


「塩だ! 塩があるって偉大だ!」


「肉がある!」


「肉が余ってる!」


「余ってるってなんだ!? そんな言葉、久しぶりに聞いたぞ!」


 悪魔たちは食った。


 焼き、煮込み、かじり、笑い、騒いだ。


 フルカスも、珍しく大きな骨付き肉を手にしていた。


 最初は静かに食っていたが、途中から明らかに食べる速度が上がっていた。


「フルカス、食えてるか」


 ヴェスパーが声をかける。


 フルカスは肉を飲み込み、少しだけ気まずそうに頷いた。


「……悪くありません」


「それ、かなり気に入ってるやつの言い方だろ」


「塩加減が良いだけです」


「はいはい」


 グレルは少し離れた端で、静かに肉を食っていた。


 騒ぎには混ざらない。


 だが、皿の上の肉はしっかり減っている。


 ニムは両腕で肉を抱えていた。


 抱える必要はない。


 誰も取らない。


 だが、ニムは宝物のように肉を抱きしめ、嬉しそうにかじっていた。


「うまいか」


 ヴェスパーが聞くと、ニムは口いっぱいに肉を詰めたまま頷いた。


「ん!」


「喉詰まらせるなよ」


「ん!」


 多分、分かっていない。


 アガレスは宴の中でも記録を続けていた。


「料理名。骨付き氷狼肉の直火炙り。塩花焼き。地獄塩モツ煮込み増量版。脂壺の残量、要確認。保存予定量、再計算。宴による消費量、予想以上」


「宴による消費量ってなんだよ」


「重要指標です」


「まあ、そうか」


 ヴェスパーは少し離れた場所に腰を下ろした。


 手には焼いた肉。


 肩はまだ痛い。


 短銃は、今はもう手の中にない。


 魔力を解いたら消えた。


 だが、感覚は残っている。


 あの反動。


 あの威力。


 自分の武器。


「銃か……」


 ヴェスパーは呟いた。


 剣でも槍でもなく、銃。


 妙にしっくりくるのが腹立たしい。


 だが、それについて考えるのは後でいい。


 今は、目の前の光景の方が大事だった。


 悪魔たちが笑っている。


 武器を出し、戦い、肉を守り、魔物を倒し、今はその肉を食って騒いでいる。


 少し前まで、彼らは凍えていた。


 飢えていた。


 炉の前で、ただ火に縋っていた。


 それが今は、杯もないのに杯を掲げるような勢いで肉を振り上げている。


「……こうなると、酒飲みてぇな」


 ぼそりと、ヴェスパーは呟いた。


 誰に向けた言葉でもなかった。


 ただの独り言だ。


 肉がある。


 火がある。


 騒ぐ馬鹿どもがいる。


 なら、酒が欲しくなる。


 それだけの話だった。


 だが。


 次の瞬間。


 風の向こうで、誰かが笑ったような気がした。


 小さな笑い声。


 低く、遠く、氷の底から響くような声。


 ヴェスパーは顔を上げた。


「……あ?」


 直後。


 貯水池の一角が、どろりと色を変えた。


 透明だった水が、深い赤紫へ染まっていく。


 氷獄の冷たい空気を押しのけるように、芳醇な香りが立ち上った。


 甘く。


 重く。


 どこか血にも似ていて、しかし明らかに違う。


 悪魔たちの動きが止まる。


 肉をかじっていた者も、鍋をかき混ぜていた者も、全員が貯水池を見た。


「……なんだ、あれ」


「水が赤いぞ」


「血か?」


「いや、匂いが違う」


 一体の悪魔が、恐る恐る近づいた。


 手にしていたタンブラーを突っ込み、赤紫の液体を汲む。


「おい、やめとけ」


「毒かもしれんぞ」


「悪魔が毒を恐れてどうする」


「それもそうか」


 悪魔はタンブラーに口をつけた。


 一口飲む。


 沈黙。


 全員が見守る。


 悪魔は目を見開いた。


 そして叫んだ。


「ワインじゃねぇか!!」


 次の瞬間、宴が爆発した。


「ワイン!?」


「酒だ!」


「酒が湧いたぞ!」


「貯水池から酒が湧いた!」


「タンブラー持ってこい!」


「並べ! 押すな!」


「鍋でもいいか!?」


「鍋はやめろ! 煮込みが薄まる!」


「桶を持ってこい!」


「それもやめろ! 風情がねぇ!」


「風情なんか知るか!」


 悪魔たちが貯水池へ殺到する。


 さっきまで魔物の群れと戦っていた者たちが、今度はワインを巡って列を作ろうとして失敗している。


 押すなと言いながら押す。


 並べと言いながら横入りする。


 タンブラーを持った者、椀を持った者、なぜか骨の器を作り始める者までいる。


 ヴェスパーは額を押さえた。


「なんで酒が湧くんだよ、この地獄……」


 アガレスが目を輝かせている。


「王様の願望に、第九圏が反応した可能性があります」


「やめろ。さらっと怖いこと言うな」


「ですが、炉の時も、塩花の時も、この地獄は王様の行動に応じて変化しています」


「俺が酒飲みてぇなって言ったら池がワインになるの、変化として雑すぎるだろ」


「願いが明確だったのでは?」


「嫌な納得感を出すな」


 風はもう何も答えなかった。


 ただ、氷の底で何かが愉快そうに笑っているような気がした。


 ヴェスパーは眉をひそめる。


 気のせいか。


 いや、この地獄で起こることを、気のせいで片づけるのは少し危ない。


 そう思いながらも、目の前の悪魔たちの騒ぎを止める方が先だった。


「王様! 飲んでみますか!」


 悪魔の一体が赤紫の液体を入れたタンブラーを持ってきた。


 ヴェスパーは受け取る。


 香りを嗅ぐ。


 確かにワインだ。


 しかも、妙に上等そうな香りがする。


「……地獄産ワイン」


「氷獄ヴィンテージですね」


「アガレス、それ記録しなくていい」


「商品名として有望です」


「売る気か」


 ヴェスパーは一口飲んだ。


 冷たい。


 だが、喉を通ると内側から熱が広がる。


 濃い。


 甘みがあり、渋みがあり、どこか血のような鉄の余韻がある。


 地獄らしいと言えば、地獄らしい。


「……うまいな」


 そう言った瞬間、悪魔たちがさらに騒いだ。


「王様がうまいと言ったぞ!」


「飲め!」


「食え!」


「祝杯だ!」


「何の祝杯だ!」


「肉の祝杯だ!」


「勝利の祝杯だ!」


「王様の祝杯だ!」


「勝手に増やすな!」


 だが、もう止まらなかった。


 宴はさらに盛り上がった。


 肉を食い、ワインを飲み、笑い、歌になっているのか叫びなのか分からない声が氷獄に響く。


 悪魔たちの目に力が戻っていく。


 頬に血色が戻る。


 背筋が伸びる。


 手にした武器の残滓が、火の光を受けて揺れている。


 そこにはもう、ただ飢えて凍えていた悪魔たちの姿はなかった。


 その時、フルカスが静かに立ち上がった。


 大きな骨付き肉を食い終え、手を拭う。


 そして、低く言った。


「皆、聞いてほしい」


 最初は誰も聞いていなかった。


「おい、フルカス様が何か言うぞ」


「静かにしろ」


「肉は置け」


「酒も置け」


「酒は置けない」


「置け」


 ざわめきが少しずつ収まっていく。


 炉の火がぱちぱちと鳴った。


 赤紫のワインの香りが、冷たい空気に溶けている。


 フルカスは集まった悪魔たちを見回した。


「私は、曲がりなりにもこの集落をまとめてきた」


 その声は派手ではなかった。


 だが、不思議とよく通った。


「だが、それは長と呼べるものではない。ただ生き残るために、火のない場所で身を寄せ合っていただけだ。飢え、凍え、力を失い、過去の栄光に縋ることすらできなかった」


 悪魔たちは黙って聞いていた。


 誰も茶化さない。


 誰も笑わない。


 フルカスの言葉は、彼ら全員の現実だった。


「だが、今は違う」


 フルカスは炉を見た。


「炉がある」


 次に、加工場を見た。


「食事がある」


 道を見た。


「道が引かれた」


 狩猟番たちを見た。


「狩猟番が置かれた」


 そして、武器を顕現させた悪魔たちを見る。


「我らは再び、戦えるようになり始めている」


 誰かが息を呑んだ。


「これを成した者がいる」


 フルカスの視線が、ヴェスパーへ向けられた。


 ヴェスパーは嫌な予感がした。


 こういう時の流れは、だいたい面倒な方向へ行く。


「ここには、王がおられる」


 静寂が落ちた。


 炉の火の音だけが響く。


 悪魔たちは、すぐには声を上げなかった。


 フルカスは最初からヴェスパーを王として見ていた。


 アガレスも、自然に王様と呼んでいる。


 だが、他の悪魔たちにとって、ヴェスパーはまだ謎の存在だった。


 何者なのか分からない。


 なぜ第九圏に現れたのか分からない。


 どこまで信じていいのかも分からない。


 名も知らぬ石棺から現れた男。


 リリスに名を与えられた男。


 炉を起こし、道を引き、肉をもたらし、魔物を撃ち抜き、貯水池をワインに変えたかもしれない男。


 怪しい。


 あまりにも怪しい。


 だが。


 腹を満たしたのは事実だ。


 炉を作ったのも事実だ。


 魔物から加工場を守ったのも事実だ。


 そして今、笑える夜を作ったのも事実だった。


 沈黙が続く。


 ヴェスパーは気まずくなって頭をかいた。


「いや、そういうのはまだ早ぇだろ」


 本音だった。


 王。


 そんなもの、簡単に名乗る気はない。


 名乗った瞬間に責任が増える。


 やることも増える。


 たぶん、面倒も増える。


 だが、その空気を破ったのはニムだった。


 ニムは肉を抱えたまま、ヴェスパーを見上げた。


 そして、無邪気に言った。


「王様」


 ヴェスパーが振り返る。


 ニムは笑った。


「へへへ」


 それだけだった。


 ただ、それだけだった。


 だが、その一言で張り詰めていた空気が少し緩んだ。


 誰かが小さく笑う。


 別の悪魔が、試すように呟いた。


「王……」


「王様、か」


「まあ、炉を作ったしな」


「肉も食えたしな」


「酒も湧いたしな」


「それは王様のせいなのか?」


「知らん。でも湧いた」


「なら王様でいいだろ」


「基準が雑だぞ」


 ざわめきが戻る。


 だが、さっきまでとは少し違っていた。


 正式な戴冠ではない。


 全員が心から認めたわけでもない。


 膝をつき、忠誠を誓うような場面でもない。


 それでも、呼び名が生まれた。


 王様。


 最初はアガレスの呼び方だった。


 次に、ニムが呼んだ。


 そして今、他の悪魔たちの口にも乗り始めている。


 ヴェスパーは困ったように笑った。


「……まあ、悪くない気もしてきたな」


 その瞬間、悪魔たちがどっと笑った。


「王様が認めたぞ!」


「祝杯だ!」


「また祝杯かよ!」


「飲む理由はいくらあってもいい!」


「それはそう!」


 宴が再び騒がしくなる。


 フルカスは静かに頭を下げた。


 アガレスは嬉しそうに記録している。


「本日、王様呼称、集落内に拡大。正式戴冠には至らず。ただし否定者なし」


「それは書いていい」


「はい、王様」


「……おう」


 ヴェスパーはタンブラーを手に、夜の氷原を見た。


 宴の火が揺れている。


 肉の匂いと、赤紫の酒の香りが氷獄に漂う。


 第九圏はまだ寒い。


 住居も足りない。


 保存庫も未完成。


 火も食料も、まだ十分ではない。


 明日になれば、また課題が山ほどある。


 保存庫を掘らなければならない。


 加工場を拡張しなければならない。


 匂い対策も必要だ。


 狩猟番の巡回も見直す必要がある。


 銃の反動もどうにかしなければならない。


 だが、今夜だけは。


 悪魔たちは笑っていた。


 武器を取り戻し、肉を食い、杯を掲げている。


 ヴェスパーはワインを一口飲んだ。


 氷獄の風が吹く。


 その奥で、また小さく笑い声が聞こえた気がした。


 ヴェスパーは空を見上げる。


「……見てんのか」


 返事はない。


 だが、氷の底に溶けた何かが、愉快そうに目を細めているような気がした。


 その夜から。


 ヴェスパーという名とともに、もう一つの呼び名が第九圏の底へ静かに根を下ろし始める。


 王様。


 それはまだ、冗談のような呼び名だった。


 だが、誰もそれを否定しなかった。

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