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第九圏の欠落王 ―棺の底から始める地獄改革―  作者: カイメイラ
第一章 氷獄に火を灯す

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第七話 狩猟番を置く


 炉の火が落ち着いてから、第九圏の景色は、少しずつ変わり始めていた。


 ヴェスパーが前日に地面へ引いた線は、ただの落書きでは終わらなかった。凍りついた地面を割り、雪を払い、石をどけ、悪魔たちがその線に沿って道をならしていく。炉を中心に、居住区となる区画を分け、通路を広げ、風の抜け方を見ながら壁の位置を決める。ほんの数日前まで、寒さをしのぐために互いの身体を寄せ合うだけだった悪魔たちが、今はそれぞれの役目を持って動いていた。


 まだ都市とは呼べない。だが、確かに集落ではなくなり始めている。


 その変化を、ヴェスパーは少し離れた場所から眺めていた。


「……動けるようになってるな」


 独り言のように漏らすと、隣にいたアガレスがぱっと顔を上げた。


「はい。皆、昨日より明らかに足取りが軽くなっております。声にも張りが戻っておりますし、運べる石の量も増えています」


「そうか」


「ええ。つまり、ご飯が効いているのです」


「そこは素直に嬉しいんだがな」


 ヴェスパーは腕を組み、前方に目を細めた。


 区画整理のために氷を砕いている一団の中に、ひときわ大きな背中がある。かつて老人のように痩せ衰え、長い髭を氷に垂らしていた悪魔――フルカスだ。


 今のフルカスは、もはや老人とは呼び難かった。


 まだ全盛には遠い。頬は痩せ、髪には白いものが残り、長年の疲弊が完全に抜けたわけでもない。だが、背は以前より真っすぐに伸び、腕に乗る筋は太くなり、石斧を振るう動きにも迷いがない。初老と呼ぶにも若すぎる、壮年に差しかかる手前の戦士といった姿に戻りつつあった。


 石を割ったあと、フルカスが短く周囲へ指示を飛ばす。


「そこは三人で持て。無理に一人で動かすな。角度を合わせろ」


 その声は低いが、以前よりずっと通った。従う悪魔たちの動きにも、もう「死にかけの老人を立てている」ような遠慮はない。自然に、頼れる者の指示として受け入れている。


 ヴェスパーは小さく鼻を鳴らした。


「飯ってのは、思ったより効くんだな」


「生きるための根っこですからね」


「お前、たまに妙に良いこと言うよな」


「たまに!?」


 アガレスが抗議の声を上げる横で、ヴェスパーは現場を見回した。


 炉の周りでは、別の悪魔たちが木材を運んでいる。住居の壁にする分、屋根を支える柱にする分、柵に使う分。集めた石材は足りているが、木はいくらあっても困らない。居住区を整えれば、寝る場所が増える。炉が増えれば、火の回る範囲も広がる。そうなれば、もっと動ける悪魔が増える。


 そこまではいい。


 問題は、その先だ。


 ヴェスパーは、先ほど運び込まれた食料の山を見た。採取してきた根菜、凍土の裂け目から掘り出した芋、僅かな果実、そして前回仕留めた火獄犬の残り。どれも以前なら十分すぎる量だった。だが、今は違う。悪魔が動けば腹が減る。工事が進めば進むほど、消費する食料も増える。


 目に見えて、減りが早い。


「……食い物、減るの早くねぇか?」


 ぼそりと漏らすと、アガレスが即座に頷いた。


「はい。皆さま、昨日より動けますから」


「いいこと言ってるのに、すげぇ悪い知らせだな」


 回復は喜ばしい。だが、回復した分だけ燃料がいる。身体を動かせるようになった悪魔たちは、今まで以上に食う。工事が進めばさらに食う。住居が整えば、もっと多くの悪魔を動かせるようになる。そうなれば、ますます食料が要る。


 採取だけでは追いつかない。


 ヴェスパーは少し考え、それから振り返った。


「なあ」


「はい」


「魔物って食えるのか?」


 アガレスが瞬いた。すぐそばで木材を運んでいた悪魔たちも、手を止めてこちらを見た。


「食えます」


「食えるのかよ」


「部位は選びますが」


「妙に現実的だな」


「血抜きをしないと臭いです」


「そこまでちゃんとしてんのかよ」


 別の悪魔が、当然のことのように頷く。


「肉質の硬いものもおります。煮込み向きと焼き向きがあります」


「料理人みてぇな説明すんな」


「昔は狩っておりましたので」


「そうかよ……」


 ヴェスパーは額を押さえた。聞けば聞くほど、悪魔たちは思ったより普通に食文化を持っている。ただ、その普通を実行できるだけの余裕がなくなっていただけらしい。


「じゃあ狩りが得意なやつは?」


「戦士でしたので、大抵は狩れます」


「大抵は狩れる、で済ませるな。雑すぎるだろ」


「ですが事実です」


 フルカスがいつの間にか近づいてきていた。石斧を肩に担いだまま、静かに頭を下げる。


「この地に落ちてきた悪魔の多くは、戦うことを生業としておりました。獲物を追い、仕留め、運ぶくらいなら、誰でもある程度はできます」


「ある程度、な」


「はい。ですが、ある程度では足りませぬか」


「足りねぇな」


 ヴェスパーは即答した。


「強いやつがその場のノリで獲ってくるだけじゃ、飯は安定しねぇ。今日取れた、明日取れない、じゃ困る。誰が追って、誰が仕留めて、誰が運ぶか、ちゃんと決める」


 言いながら、視線を遠くへ向ける。居住区のさらに外、炉の熱がほとんど届かない白い荒野の向こうには、魔物の気配がある。火獄犬だけではない。凍土を這う獣、群れで動く魔物、時に悪魔を襲うものもいるだろう。


 狩りはできる。だが、それを制度にしなければ、ただのその場しのぎだ。


「狩猟番を置く」


 ヴェスパーがそう告げると、周囲の悪魔たちがざわめいた。


「狩猟番……」


「獲物を取るための役目ですか」


「飯のための部署だ」


 ヴェスパーは地面を指で叩きながら続けた。


「採取班は採取班で残す。根菜も果実もいる。だが、それだけじゃ回らねぇ。これから工事が増えるなら、肉も必要だ。仕留める役、追跡する役、運ぶ役、解体する役まで分ける」


 そして、フルカスを見た。


「フルカス」


「はっ」


「お前、狩猟番頭をやれ」


 一瞬だけ、周囲が静まり返った。


 フルカス自身もわずかに目を見開いたが、すぐに頭を垂れる。


「……この老骨に、務まりますかな」


「もう老骨じゃねぇだろ」


 ヴェスパーが顎をしゃくると、フルカスは少しだけ苦笑した。


 確かに、もう以前のように今にも倒れそうな姿ではない。石を運び、斧を振り、声を張り上げられるだけの力が戻っている。何より、戦士としての勘がまだ生きているのは、ここ数日の動きを見れば分かった。


「狩る腕もある。指揮もできる。今のところ、お前が一番向いてる」


「……承知いたしました」


 フルカスは深く頭を下げた。


「この命、狩猟番として王に捧げましょう」


「命は捧げなくていい。肉を持ってこい」


「は」


 真顔で返されたので、ヴェスパーは少しだけ眉を寄せた。こいつはこいつで、たまに冗談が通じているのか怪しい。


 だが、狩猟番頭は決まった。問題はもう一つ――獲物を見つける役だ。


「追跡に一番向いてるやつは?」


 ヴェスパーが問うと、悪魔たちは互いに顔を見合わせた。やがて、一体の悪魔が後ろを振り返り、声を張る。


「グレル! おい、グレルを呼べ!」


 しばらくして、集団の後方から一体の悪魔が引っ張り出されるように現れた。


 犬面の悪魔だった。


 細い。とにかく細い。腕も脚も骨ばっていて、肩幅も狭く、戦士というより飢えた野犬がそのまま二足歩行しているような姿だ。顔は長く、鼻先は鋭く、灰色の毛並みはところどころ抜け落ちている。だが、その眼だけは妙に落ち着いていて、周囲を一瞥しただけで風向きまで測っていそうな気配があった。


「……こいつか?」


「はい。グレルです」


 押し出された犬面の悪魔は、びくりと肩を震わせてから、慌てて膝をついた。


「ぐ、グレルにございます」


「戦えるのか?」


「い、いえ……その……あまり」


「弱いです」


 横からアガレスが即答した。


「フォローしろよ」


「戦闘はからきしですが、鼻と足跡読みだけは異様に優れております」


 グレルは縮こまりながらも、小さく頷いた。


「血の匂いなら、雪の上を半日流れても追えます。足跡も……風で消えかけていても、多分」


「多分で言うな」


「す、すみません……!」


 怒鳴ったわけでもないのに、グレルは今にも地面に埋まりそうな勢いで頭を下げた。ヴェスパーは少しだけ呆れたが、逆に言えば、それだけ戦うことに向いていないのだろう。


 だが、向いていないことは、悪いことではない。


「誰が戦えって言った」


「……え?」


 グレルが顔を上げる。


「お前は追え。見つけろ。どこに何がいるか調べて戻れ。無理に仕留めるな。死なれたら困る」


「し、死なれたら……」


「狩猟番に必要なのは、槍振り回して突っ込む馬鹿だけじゃねぇ。獲物の場所が分からなきゃ、狩りにならん」


 ヴェスパーはグレルの目を真っすぐ見た。


「お前は索敵と追跡だ。鼻と足跡読みを使え」


 グレルの喉が、ごくりと鳴った。


「……私で、よろしいのですか」


「それができるの、お前なんだろ」


「は、はい……」


「ならお前だ」


 犬面の悪魔はしばらく呆然としていたが、やがて地面に額がつくほど深く頭を下げた。


「グレル、命に代えても――」


「だから命は代えなくていい」


 ヴェスパーは即座に遮った。


「戻ってこい。見つけて、知らせて、帰ってこい。それがお前の仕事だ」


「……っ、はい!」


 声が、先ほどより少しだけ強くなった。


 それを見ていた悪魔たちも、どこか安堵したように息を吐く。戦えない者にも役目がある。そのことを、ヴェスパーは言葉ではなく任命で示したのだ。


 ヴェスパーは地面にしゃがみ込み、氷の上へ指で線を引いた。


「狩猟番は二本立てだ。フルカスが番頭。仕留める役、指揮する役、運ぶ役のまとめ。グレルは追跡、索敵、獲物の発見。まずは近場の魔物の生息圏を洗い出せ」


「承知いたしました」


「は、はい!」


「それと、獲って終わりにするな。持ち帰った後の場所も作る」


 ヴェスパーはそのまま、居住区からさらに外側を指差した。


 中心の炉から離れ、住居区を抜け、作業区のさらに外。風当たりが強く、血の匂いが流れても生活圏に入り込みにくい場所だ。


「あそこに狩猟小屋を建てる」


「狩猟小屋、ですか?」


「居住区の近くで血を流すな。臭ぇし、危ねぇし、何より気分が悪い」


 ヴェスパーは指で順に場所を示した。


「外から獲物を運び込んで、そこで吊るす。血抜き、解体、仕分け、皮剥ぎ、なめし、全部そこだ。食材になったもんだけ中心に運ぶ」


 悪魔たちは真剣な顔で聞いている。ヴェスパーはさらに続けた。


「食材は中心に運べ。だが、血と臭いは中心に入れるな」


 誰かが、感嘆したように小さく息を呑んだ。


 たったそれだけの言葉で、狩猟小屋の位置の意味が決まる。生活の中心と、処理場を分ける。言われてみれば当然だが、飢えに追われていた悪魔たちには、そこまで考える余裕がなかった。


「木材はあるな」


「はい、住居用に切り出した分の一部を回せます」


「壁と屋根だけでいい。風を防げりゃ十分だ。中に吊るし梁を通せ。血を流す溝も掘る。皮を干す場所もいる。骨と脂を仕分ける棚も欲しい」


 ヴェスパーはぶつぶつと必要なものを並べていく。


「血抜き場、解体台、肉の保管棚、骨置き場、皮干し場、なめし場、燻製用の仮設炉……」


「多いですねぇ」


「当たり前だろ。獲物ってのは肉だけじゃねぇんだ」


 ヴェスパーは顔を上げた。


「肉は食う。骨は出汁に使う。皮は防寒具になる。脂は料理にも灯りにも使える。捨てるな。使えるもんは全部使え」


 その一言に、フルカスが深く頷く。


「承知いたしました。狩るだけでなく、持ち帰った後までを狩猟番の責といたします」


「そうしろ」


 そこからの動きは早かった。


 狩猟番の選抜が始まり、槍の扱いに慣れた者、足の速い者、力のある者がフルカスのもとに集められる。グレルは数体の補助役をつけられ、近場の獲物の痕跡を探すために外周を回り始めた。居住区の外角では、木材を組み合わせて狩猟小屋が建てられていく。大きな建物ではない。だが、屋根と壁があり、風をしのげて、獲物を吊るす梁がある。それだけで十分だった。


 ヴェスパーは狩猟小屋の中に立ち、床に刻んだ溝を見下ろした。血を流すための溝だ。端には雪を詰めた槽を置き、内臓や肉を一時的に冷やせるようにする。壁際には木の棚を並べ、骨や皮を仕分けられるようにした。小屋の外には皮を張る枠を作り、風にさらして乾かせるようにする。


「……まあ、こんなもんか」


 完全ではない。足りないものも多い。だが、何もないよりは遥かにいい。


 アガレスが小屋の中をきょろきょろと見回した。


「これは皮を吊るす場所で、こちらが肉を切る場所で……こちらは?」


「なめし場。皮をそのまま放っとくと腐る」


「おお……」


「感心するのはいいけど、後で塩花がどれだけいるか計算しろよ」


「記録します」


 塩花から採れる塩は、すでに第九圏の貴重な資源になりつつあった。料理に使うだけでなく、保存にも使える。皮をなめすにも、肉を漬けるにも、必要になる。


 狩猟小屋が形になった日の午後、グレルが戻ってきた。


 息を切らし、雪まみれになりながら、それでもその目には確かな手応えがあった。


「王……北東の氷丘の裏に、単独の大物が一。足は重く、警戒も薄いです」


「十分だ」


 ヴェスパーは頷いた。


「フルカス、まずはそいつを狙え。群れは失敗すると散る」


「承知」


「無理はするな。初日だ。怪我悪魔を出すな」


「は」


 フルカス率いる狩猟班が出ていくのを、ヴェスパーは小屋の前で見送った。槍と斧を持った悪魔たちが、久しぶりの役目に緊張と高揚を滲ませながら雪原へ消えていく。先頭を行くのはグレルだ。細い身体で雪の上を駆けながら、時折立ち止まり、鼻を上げ、足跡を確かめている。


 夕方近くになって、狩猟班は戻ってきた。


 遠くからでも分かるほど、大きな影を引きずっている。角を持つ四足の魔物だった。氷色の毛皮に覆われた巨体で、鹿と山羊を足してさらに凶悪にしたような姿をしている。首には深い槍傷があり、脇腹にも斧の跡が走っていた。


 悪魔たちの間に、ざわめきが広がる。


「でかい……」


「本当に仕留めてきたのか」


「肉だ……」


 その声には、単なる食欲だけではないものが混じっていた。期待だ。明日も食えるかもしれないという、久しく抱いていなかった希望だ。


 フルカスが血に濡れた槍を持ったまま、小屋の前で膝をつく。


「王よ。初陣、無事に果たしました」


「ご苦労」


 ヴェスパーは立ち上がり、獲物を見上げた。


「怪我したやつは」


「軽傷が二。いずれも自力で動けます」


「上出来だな」


 狩猟小屋の中へ獲物が運び込まれる。梁に脚を吊り、喉元へ刃を入れ、血を流す。床に掘った溝を赤い液体が走り、外へと抜けていく。悪魔たちは慣れた手つきで皮を剥ぎ、肉を切り分け、骨を外し、脂を分けていく。居住区の外角に建てた小屋だからこそ、その生々しい作業を生活圏から切り離せる。


 ヴェスパーは黙ってその様子を見ていたが、やがて解体された内臓の山を見て眉を上げた。


「……これ、捨てるつもりか?」


 手を止めた悪魔が答える。


「食えますが、好みは分かれます」


「臭みもありますし」


「洗えばいいだろ」


 ヴェスパーはしゃがみ込み、腸をつついた。


「使える部位は全部使うって言ったよな」


「は、はい」


「じゃあ煮るぞ」


「煮る?」


「臭み抜いて、柔らかくして、味入れる。食えるもんは食う」


 悪魔たちは互いに顔を見合わせた。どうやら、焼くか干すかが基本で、内臓を丁寧に煮込む文化はあまりなかったらしい。だが、ヴェスパーにとっては話が別だ。前世の記憶ではなく、もっと曖昧な、けれど確かな「こうすれば食える」という知識が残っている。


「骨は出汁。塩はある。あと臭み飛ばせる草が何かあればいいんだが……」


「香りの強い根ならあります」


 アガレスが即座に手を挙げる。


「持ってこい」


「はい」


 そこからは、また小さな騒ぎになった。


 腸を何度も雪水で洗い、余計な脂を削ぎ、下茹でをして臭みを飛ばす。骨を砕いて鍋に放り込み、出汁を取る。塩花から採った塩を入れ、香りの強い根を刻み、脂を少し落として煮込む。ぐつぐつと煮立つ鍋の匂いが狩猟小屋から漂い始めると、作業をしていた悪魔たちがそわそわと落ち着かなくなってきた。


「王よ……それは、本当に食えるので?」


「食えなきゃ俺が困るだろ」


「た、確かに」


 やがて、煮込みは出来上がった。


 深い鍋の中で、白く縮れていた腸は柔らかく煮え、骨の出汁を吸って琥珀色の汁をまとっている。塩だけの味つけにしては香りが濃い。脂の甘みと骨の旨味が溶け、湯気と一緒に立ち上る。


 ヴェスパーは木の匙でひと掬いし、ふうと息を吹いて口に入れた。


「……うん」


「どうですか」


「いける。お前らも食え」


 最初に手を伸ばしたのはアガレスだった。熱々の煮込みを口に運び、目を丸くする。


「お、おお……柔らかいです!」


「臭くねぇだろ」


「はい。塩だけなのに、妙に深い味がします!」


 フルカスも無言で一口食べ、静かに息を吐いた。


「温かい……」


 その一言が、妙に重かった。


 周囲の悪魔たちも恐る恐る匙を伸ばす。最初に口へ運んだ一体が、ぴたりと動きを止めた。次の瞬間、震える手でもう一口すくう。別の悪魔は目を見開いたまま、熱さも忘れたように掻き込んでいた。痩せた小柄な悪魔などは、途中で何度も鼻をすすりながら、それでも匙を止めようとしない。


「うまい……」


「内臓とは思えん……」


「骨の汁が、こんなに……」


「温かい……腹の奥まで、熱い……」


 誰かが、ぽろりと涙をこぼした。


 それを笑う悪魔はいない。皆、自分の鍋に夢中だった。何かを噛み締めるように、確かめるように、ひたすら食べている。


 アガレスが鍋を抱えたまま、感極まったように言った。


「これ、名前をつけるべきではありませんか」


「名前?」


「新しい料理です。記録に残さねば」


「お前、そういうの好きだな」


「大事です!」


 アガレスは真剣だった。ヴェスパーは少しだけ考え、それから鍋の中を見た。


「モツ煮込みだろ、こんなの」


「モツ……」


「内臓のことだ。たぶんな」


「では、塩花を使ったモツ煮込み……」


 アガレスはぶつぶつと何かを書きつけ、顔を上げた。


「**地獄の塩モツ煮込み**、でいかがでしょう」


「なんだその、開き直ったみたいな名前は」


「地獄ですし」


「まあ、そうだが」


 ヴェスパーが苦笑すると、近くにいた悪魔が吹き出した。ひとつ笑い声が漏れると、それは鍋の周りにいた悪魔たちへ広がっていく。腹が満ち、身体が温まり、ようやく笑う余裕が戻ってきたのだろう。


 ヴェスパーはその様子を眺めながら、狩猟小屋の外へ出た。


 空気はまだ冷たい。だが、炉の火が増えたせいか、以前ほど骨身に刺さるような寒さではなくなってきている気がする。今はいい。だが、これから炉が増え、住居が増え、火が増えれば、環境は変わる。氷の上に置いておけば保存できる――そんな理屈は、いつまでも通用しない。


 ヴェスパーは居住区の外れ、少し盛り上がった地面を見た。


 そこなら、掘れる。


 凍土の下を削り、冷気の残る地下へ、肉や根菜を保管するための穴を作る。棚を組み、雪と氷を詰め、風を遮れば、簡易の保存庫にはなるはずだ。


「……地下保存庫、いるな」


 独り言のように呟く。


 食える時に食うだけでは足りない。食える時に、残せるだけ残す。明日食う分、明後日食う分、その先のための備えを持たなければ、また飢える。


 背後では、悪魔たちの笑い声がかすかに聞こえていた。狩猟小屋の中では、まだ鍋が回っているのだろう。久しぶりの肉。久しぶりの温かい汁。久しぶりに、腹が満ちる夜だ。


 ヴェスパーは白い息を吐き、保存庫予定地を見つめた。


「食える時に、食う。だが、残せるもんは残す」


 その日から、第九圏の鍋には新しい定番が増えた。

 魔物の腸を丁寧に洗い、臭みを抜き、骨の出汁でじっくり煮込み、塩花の塩で整えた一皿。


 後に**『地獄の塩モツ煮込み』**と呼ばれることになる、それが最初の一杯だった。


 ヴェスパーは小屋の外で、夜の氷原を見ながら小さく息を吐いた。


 まだ足りない。


 でも、確かに一歩、また一歩、進んでいる。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


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