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第九圏の欠落王 ―棺の底から始める地獄改革―  作者: カイメイラ
第一章 氷獄に火を灯す

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第六話 地獄に図面を引く


 翌日、木は切れた。


 正確には、切れたというより、ようやく木らしい抵抗を見せた。


 昨日まで斧を弾いていた凍った幹は、排管の熱を浴び続け、根元の氷を水に変えていた。

 黒い木肌には、まだ白い霜が残っている。

 けれど、完全な氷ではない。


 フルカスが斧を振るう。


 ざく。

 ざく。

 ざく。


 凍った森に、乾いた音が響いた。


「木だな」


 ヴェスパーは腕を組んで頷いた。


「木ですねぇ」


 隣でブエルものんびり頷く。


「昨日までは、木の形をした氷でしたぁ」


「素材分類が雑すぎる」


 斧を受けた幹は、少しずつ切り口を広げていく。

 完全に乾いてはいない。

 芯にはまだ冷気が残っている。

 だが、昨日のように刃を弾き返すことはなかった。


 やがて、一本目の木が倒れた。


 ずしん、と地面を揺らす。


 悪魔たちがどよめいた。


「倒れた」


「木が倒れたぞ」


「森が、折れた」


「言い方が物騒だな」


 ヴェスパーは倒れた木に近づき、断面を見る。


 黒い。

 硬い。

 重そうだ。

 だが、使えないことはない。


「これで建材は確保できるな」


「王様、では家を建てましょう!」


 アガレスが勢いよく言った。


「建てない」


「えっ」


「今すぐには建てない」


「なぜですか!」


「適当に建てると、あとで邪魔になる」


 ヴェスパーは集落の方を見た。


 炉の周囲には、悪魔たちが集まり始めている。

 暖かいからだ。

 だが、その周りには泥がたまり、器や材料や薪代わりの骨が雑に置かれ、通るだけでも足を取られる。


「炉の近くに寝床を作りすぎると、作業場がなくなる。炊事場を遠くに作ると熱が逃げる。木材置き場を水の流れる場所に置くと腐るかもしれない。排水を考えずに家を並べたら、全部泥に沈む」


 アガレスは口を開けた。


「家とは、そんなに考えるものなのですか?」


「考えないで建てた結果が、今の集落だろ」


「なるほど!」


「納得が早いな」


 ヴェスパーは倒れた木を見た。


 建材は手に入った。

 なら次は建築。


 普通ならそうだ。


 だが、目の前にあるのはただの小屋作りではない。

 炉を中心にした生活圏の作り直しだ。

 どこに寝るか。

 どこで飯を作るか。

 どこを歩くか。

 水をどこへ逃がすか。

 木材をどこで乾かし、どこで加工するか。


 考えずに作れば、あとで必ず壊すことになる。


「まず設計図がいる」


「設計図!」


 アガレスが嬉しそうに復唱した。


「紙とペンは?」


「ありません!」


「元気よく言うな」


「紙は凍って砕けます! ペンはとうの昔に折れました!」


「じゃあどうするんだよ」


 ヴェスパーが眉を寄せると、アガレスは当然のように両手を広げた。


「そこは王様の魔法で、空中に表示すればよいのでは?」


「魔法?」


「はい。イメージを、こう……ほいっと」


「ほいっと」


 ヴェスパーは眉間にしわを寄せた。


 炉を中心にした集落の形を思い浮かべる。

 調理場。

 広場。

 寝床。

 排水路。

 木材置き場。


 そして、空中を見る。


「……」


 何も出ない。


「出ないぞ」


「もっと、ほいっとです!」


「だから、ほいっとが分からん」


「王様ならできます!」


「根拠のない励ましはやめろ」


 ヴェスパーは腕を組んだ。


 頭の中の図面を外に出す。

 紙がない。

 板もない。

 地面に描くと泥で消える。


 必要なのは、書く場所だ。


 線を置ける面。

 消して、描き直せる場所。

 全員が見られる、大きな作業台。


 欲しい。


 そう思った瞬間、胸の奥にある空洞が、かすかに疼いた。


 痛みではない。

 けれど、何かが足りない場所に、何かが形を求めているような感覚だった。


「……キャンバス」


 ヴェスパーが呟いた瞬間、空気が震えた。


 炉の熱が揺らぎ、灰色の光が薄く広がる。

 ヴェスパーの目の前に、四角い面が浮かんだ。


 何も描かれていない。

 空中の白紙。


 アガレスが息を呑む。


「……出ましたな」


 ヴェスパーも目を見開いた。


「これだ。これ」


「今のは、王様の魔力が形を取ったものです」


「俺の?」


「はい。命令ではなく、必要が形になったように見えました」


「また面倒なこと言うな」


 ヴェスパーは、胸の奥に残る違和感を無視して、空中の白紙に指を伸ばした。


「キャンバスだ」


「きゃんばす」


「描く場所だ」


 ヴェスパーは空中のキャンバスに指を伸ばした。


 指先が触れた瞬間、黒い線が走る。


「描けるな」


「空中に、線が……」


 アガレスは震えた声で言った。


「王様、これは高度な投影魔術です。頭の中の像を魔力で外へ映し出す術で、通常は訓練を積んだ術者が数年かけて――」


「今は説明いい」


「はい!」


 ヴェスパーは中央に円を描いた。


 円の中心に赤い点が灯る。


「ここが炉」


「色もつくのか」


「王様がつけたのでは?」


「つけた覚えはない」


 アガレスはじっとキャンバスを見つめた。


「王様、その術の名称は?」


「知らん」


「名をつけましょう!」


「やめろ」


「空中設計魔術!」


「やめろ」


「王の図面!」


「重い」


「では、キャンバス!」


「それでいい」


「おお! 王様の第一魔術、キャンバス!」


「第一とか付けるな」


 ヴェスパーは深く息を吐き、キャンバスへ向き直った。


 中央に炉。

 その周囲に、薄い円をいくつか描く。


「炉を中心にする」


 フルカスが近づき、静かに問う。


「その円は?」


「温度の届く範囲だ」


「温度を、線で見るのですか」


「見えないなら、見える形にする」


 ヴェスパーは炉の近くに小さな区画を置いた。


「まず炉の近くに調理場だな。熱を使う場所は近い方がいい」


「調理場」


 ハボリムが、欠けた鍋を抱えたまま顔を上げる。


「火のそばがよいのう」


「ただし近すぎると危ない。火の粉も飛ぶし、混雑する。炉に隣接はさせるが、作業する空間は取る」


 ヴェスパーは炉の前に広めの空白を取った。


「それから、ここは広場だ」


「広場、でございますか」


「みんなが集まれる場所だ。飯を配るにも、話をするにも、作業の割り振りをするにもいる」


 アガレスが大きく頷く。


「王様の御前広場ですね!」


「ただの空き地だ」


「しかし、王様が立てば御前です!」


「やめろ。面倒くさい名前をつけるな」


 ヴェスパーはその一回り外側に、弧を描くように区画を置いた。


「この辺りが居住区だな」


「炉から離すのですか?」


 アガレスが不思議そうに問う。


「近すぎると危ない。暖かさを感じられるが、火の粉や作業音からは離れる。寝る場所はそのくらいでいい」


 フルカスは静かに頷いた。


「理にかなっております」


「食材置き場は、調理場に近いが炉からは少し離す。近すぎると傷むかもしれない」


「傷むのですか?」


「知らん。だが試したくない」


 ブエルがのんびりと手を上げる。


「食材置き場は、もう少しこちらがいいですよぉ」


「理由は?」


「そこは灰豆が勝手に転がっていきますぅ」


「食材置き場の地形条件として最悪だな」


 ヴェスパーは線を指で払った。


 描いた区画が消える。


「消せる」


「消えました!」


「便利だな」


「王様、便利で済ませてよい術ではございません!」


「便利なものは便利だ」


 ブエルの指摘を受け、食材置き場を少しずらす。


 次に、炉から少し離れた場所に別の区画を置いた。


「ここは木材加工場。切った木を運んで、削って、乾かす場所だ」


「木を乾かすのかのう」


 ハボリムが首を傾げる。


「濡れたままだと使いにくい。乾かす。ただし燃やすな」


「木は燃えるのう」


「だから気をつけるんだよ」


「難しいのう」


「難しくない。燃やしたら材料がなくなる」


「それは困るのう」


「だから燃やすな」


 ハボリムは真剣に頷いた。


「焼かずに、火を当てる」


「そうだ」


「火の機嫌を見ねばならんのう」


「火の機嫌で語るな」


「じゃが、ほんとうじゃ」


「……じゃあ、少し炉から離す」


 ヴェスパーは木材加工場を調理場より外側へ移した。


 アガレスが感動したように見る。


「王様、悪魔たちの意見で図面が変わっております」


「現場を知ってる奴の話は聞いた方がいい」


「図面は絶対ではないのですか?」


「絶対じゃない。現場が違えば直す」


「記録と違う場合は?」


「現場を優先する」


 アガレスは目を見開いた。


「王様、恐ろしいことを言いますね」


「現場を見ない記録の方が怖い」


 アガレスは少し黙り、それから深く頷いた。


「肝に銘じます」


「本当に銘じろよ」


 ヴェスパーはキャンバスに細い線を引いた。


「で、排水だ」


「排水」


 アガレスがうっとりした声で復唱する。


「好きだな、その手の言葉」


「はい。実務の匂いがします」


「嫌な嗅覚だ」


 ヴェスパーは炉の周囲から外側へ向かう線を引いた。


「炉の周りに溶けた水がたまると、足元が泥になる。だから、水を逃がす」


「排水路ですね」


「そうだ。それと……一部は貯水するか」


「貯水、でございますか?」


 フルカスが問う。


「溶けた水を全部捨てるのももったいない。飲めるかどうかは分からんが、洗い物や冷却には使えるかもしれない」


「水を、ためるのですか」


「使えるかは分からん。でも、使えるかもしれないものを全部流すのは雑だ」


 ヴェスパーは排水路の途中に、小さな丸を描いた。


「ここに貯水穴。こっちは排水路。余った水は外へ逃がす」


「水の行き先を、二つに分けるのですね」


「そうだ。全部ためるとあふれる。全部流すと使えない」


 アガレスが感心したようにキャンバスを見た。


「地獄に水の道を作るのですね」


「大げさに言うな。泥対策だ」


「泥対策!」


「そこに感動するな」


 ヴェスパーはさらに森へ向かう太めの線を引いた。


「それから、道を作る」


「道」


 フルカスが目を細める。


「木材を運ぶには、まず通れる道がいる。今のままだと、氷と泥で足を取られる」


 ヴェスパーは森への線の両脇に、細い線を引く。


「道の脇に側溝だ」


「そっこう?」


 アガレスが首を傾げる。


「道の横に掘る細い水路だ。溶けた水をそこへ流す。水が道にたまると、ぬかるむ。ぬかるむと荷物が運べない。だから、道と水の通り道を分ける」


「道と水の通り道を分ける……」


 アガレスは真剣に呟いた。


 ヴェスパーは道の断面をキャンバスの横に描いた。

 真ん中が少し盛り上がり、両側へ緩く下がる形だ。


「それと、道の中心を少し上げる」


「中心を?」


「水が道の真ん中にたまらないようにする。中央を少し高くして、左右に流す」


「道は平らではないのですか?」


「平らに見えて、少しだけ傾ける。そうしないと水が残る」


「水が残ると?」


「泥になる。凍る。足を取られる。荷物が運べない。最悪、転ぶ」


「道が敵になりますな」


「そういうことだ」


 アガレスは断面図を覗き込む。


「では、平らではない道を作るのですね」


「そうだ」


「それは、道として欠陥では?」


「欠陥じゃない。仕様だ」


「仕様!」


「好きそうな言葉を見つけるな」


 ヴェスパーは道の断面を指で叩いた。


「真ん中を少し高くする。水は左右に落ちる。左右の側溝で受ける。そこから排水溝へ流す」


「なるほど。水に、自分から退いてもらうわけですね」


「そんな上品な話じゃない。強制誘導だ」


 キャンバスの上には、いつの間にか線が増えていた。


 中央には炉。

 炉の近くには調理場。

 その前には広場。

 一回り外に居住区。

 森へ向かう道。

 道の両脇には側溝。

 側溝の先には排水溝。

 途中には貯水穴。

 水がたまらないように、道の中央を少し高くする断面図まで描いてある。


 ヴェスパーは、その図をしばらく見つめた。


「……」


 そして、ふと我に返った。


「なんで俺、地獄で道路設計してるんだっけ」


 誰も答えなかった。


 アガレスだけが、きらきらした目で言った。


「王様だからでは?」


「違うと思う」


 フルカスが静かに頷いた。


「必要だからでございます」


「それが一番困る」


 ブエルがのんびり笑う。


「でも、道がないと木が運べませんよぉ」


「分かってる。分かってるんだよ」


 ヴェスパーは額を押さえた。


「分かってるから、余計に嫌なんだよ」


 彼はキャンバスを見上げる。


 区画。

 動線。

 排水。

 勾配。

 作業場。

 居住区。


 言葉は出てくる。

 理屈も分かる。

 手も動く。


 けれど、それをどこで覚えたのかは分からない。


「記憶はないのに、面倒な知識だけ残ってるのか」


 ヴェスパーはキャンバスを睨んだ。


「使い勝手が悪いな、俺の頭」


 アガレスが感動したように頷く。


「王様の失われた記憶が、道となって現れているのですね!」


「いい話っぽくするな。俺は今、普通に困惑してる」


 ヴェスパーは小さく息を吐いた。


「……リリス。お前、俺に何をさせたかったんだ」


 その問いに答える声はない。


 ただ、炉が低く唸り、キャンバスの上で灰色の線が静かに揺れていた。


 ヴェスパーは首を振り、思考を戻す。


「穴掘りとか、得意な奴いるか?」


 ヴェスパーが尋ねると、悪魔たちは互いに顔を見合わせた。


「穴、でございますか」


「土を掘る。溝を掘る。水を流す。できれば、地面の硬さが分かる奴がいい」


 しばらく沈黙があった。


 すると、炉の外れで、地面が少し盛り上がった。


「……道なら、分かる」


 低い声がした。


 ヴェスパーはそちらを見た。


 黒い地面の下から、短い角が出ている。

 次いで、分厚い肩。

 大きな手。

 半身を土に埋めたまま、ひとりの悪魔がゆっくりと顔を上げた。


「いたのかよ」


「凍っていた」


「そりゃそうだろうけど」


 フルカスが目を細める。


「バティン」


「バティン?」


「かつて地底道と運搬路の管理を任されていた者です。地盤と通路に長けております」


 バティンと呼ばれた悪魔は、のっそりとヴェスパーを見た。


「穴なら掘れる。道なら、もっと分かる」


「頼もしいな」


「ただし、掘ると、何か出る」


「何が出る」


「骨。石。水。たまに、起こしてはいけないもの」


「最後だけ別格だろ」


 ブエルがのんびり頷く。


「第九圏では、よくありますぅ」


「よくあるな」


 バティンは地面に大きな手を置いた。


「穴は、掘ればいいものではない」


「ほう」


「水の道。人の道。熱の道。全部、間違えると村を壊す」


 ヴェスパーは少しだけ目を細めた。


「分かってるじゃないか」


「道を見ていた」


「じゃあ頼む。この図面通りに……いや、違うな」


 ヴェスパーはキャンバスを指した。


「お前が見て、危ないところは直せ」


 バティンはしばらく黙り、やがて頷いた。


「なら、通せる」


 ヴェスパーはキャンバス上の排水路を指さした。


「炉の周りの水は、ここに集める。そこからこの溝を通して外へ流す。途中に貯水穴を一つ。あふれた分はさらに外へ逃がす」


 バティンは黙って図面を見た。


 しばらくして、大きな指で空中の線をなぞる。


「ここは、浅い」


「分かるのか」


「下に空洞がある」


「いきなり怖いこと言うな」


「ここを掘ると、落ちる」


「じゃあ避ける」


 ヴェスパーは排水路の線を少しずらした。


 キャンバスの線が、灰色の光を引きながら曲がる。


 バティンはそれを見て、わずかに目を細めた。


「便利だな」


「だろ」


「欲しい」


「やらん」


 アガレスが横から言った。


「これは王様のキャンバスです」


「名前ついたのか」


「今つけました」


「勝手につけるな」


 バティンはさらに地面を叩いた。


「ここは凍土が硬い。高く盛るなら、砕いた黒石を混ぜる」


「土だけだと沈むか?」


「沈む。水を吸う。凍る。割れる」


「最悪だな」


「だから、石を噛ませる」


「分かった。道の芯に黒石。上に土。左右へ勾配。側溝へ落とす」


 バティンは頷いた。


「通せる」


 ヴェスパーはキャンバスを見上げた。


 中央の炉。

 炉に隣接する調理場。

 炉前の広場。

 その外側に並ぶ居住区。

 森へ向かう道。

 道の両脇の側溝。

 側溝の先の排水溝。

 途中の貯水穴。

 水が道にたまらないよう、中央をわずかに高くした断面図。


 いつの間にか、そこには小さな村の骨格が描かれていた。


「バティン」


 地面に片手を置いていた悪魔が、ゆっくり顔を上げる。


「道と側溝、それから排水溝を頼む。途中に貯水穴も一つだ」


「分かった」


「動けそうな奴を集めて作業してくれ。図面通りでいいが、現場を見て危ないところは直せ」


 バティンは少しだけ目を細めた。


「図面は、絶対ではないのか」


「絶対じゃない。現場が違えば直す」


「よい」


「それと、道の中心は少し上げる。水がたまらないように、左右の側溝へ流せ」


「中央を高く。水は左右。側溝へ。そこから排水溝へ」


「そうだ」


「通せる」


 バティンは短く答え、立ち上がった。


 それだけで、周囲の悪魔たちが一歩下がる。


「掘れる者、石を運べる者、凍土を砕ける者。来い」


 低い声だった。


 だが、その声を聞いて、何人かの悪魔が顔を上げた。


「俺は掘れる」


「石なら運べる」


「凍った土なら割れる」


 ひとり、またひとりと、悪魔たちがバティンの周りへ集まっていく。


 ヴェスパーは次に、フルカスを見た。


「フルカス」


「は」


「木を切れる奴を集めてくれ。凍った森から切り出した木を運ぶ。無理に太い木を狙わなくていい。まずは小屋に使える分だ」


「承知いたしました」


「切る班、運ぶ班、乾かす班に分ける。木は濡れたままだと使いにくい」


「乾かす班」


 フルカスが頷く。


「ハボリムの火を使いましょう」


 ハボリムが顔を上げた。


「木を焼くのかのう」


「焼くな。乾かすんだ」


「難しいのう」


「難しくない。燃やしたら材料がなくなる」


「それは困るのう」


「だから燃やすな」


 フルカスは集まった悪魔たちへ向き直った。


「斧を持てる者、木を運べる者、森の道を歩ける者。こちらへ」


 その声には、かつて軍をまとめていた者の響きがあった。


 弱っていた悪魔たちが、少しずつ動き出す。


 まだ足取りは重い。

 翼は欠け、角は折れ、腕の震えも残っている。


 それでも、誰も地面に伏せてはいなかった。


 アガレスがキャンバスの下で、胸を張る。


「では私は、この図面を記録いたします!」


「消えるのか、これ」


「分かりません!」


「分からないなら急いで記録しろ」


「はい!」


 ヴェスパーはもう一度、空中に浮かぶ村の骨格を見た。


 まだ家はない。

 屋根もない。

 壁もない。


 あるのは、線だけだ。


 だが、バティンは道を掘り始める。

 フルカスは木材を集め始める。

 ハボリムは木を乾かす火を見張る。

 ブエルは森と食材の場所を知っている。

 アガレスは図面を残す。


 線は、現物になる。


 悪魔たちは、思ったよりも素直に動き出した。


 ヴェスパーはその光景を見て、少しだけ首を傾げる。


「……なんで、みんな俺の言うこと聞いてるんだ?」


 思わず漏れた声に、アガレスがきょとんとした顔をした。


「王様だからでは?」


「それ、さっきも聞いた」


「何度でも申し上げます」


「いや、俺は王様じゃないだろ」


 アガレスは真顔になった。


「では、何者なのですか?」


「知らん」


「では、王様でよろしいかと」


「よくない」


 フルカスが静かに歩み寄った。


「王様。悪魔は弱き者には従いませぬ」


「急に物騒な話になったな」


「ですが、強き者に従うだけでもございませぬ」


「そうなのか」


「はい。強いだけの者は、恐れられます。奪うだけの者は、避けられます。命じるだけの者は、いずれ背かれます」


 フルカスは、炉の周りで動き始めた悪魔たちを見た。


「王様は、火を与えました。食を与えました。道を示しました」


「大げさだ」


「そして今、寝床を作ろうとしておられる」


「必要だからだ」


「それで十分でございます」


 ヴェスパーは黙った。


 必要だからやっている。


 凍えていたから火を作った。

 腹を空かせていたから粥を作った。

 木が要るから森を溶かした。

 泥になるから排水を考えた。

 道が要るから図面を引いた。


 それだけだ。


 それだけなのに、悪魔たちは動いている。


「……変な連中だな」


「地獄の者ですので」


「それ、便利に使いすぎだろ」


 その時、袖を引かれた。


 ニムだった。


「ヴェスパー」


「なんだ」


「みんな、あったかいほうがいい」


 それだけ言って、ニムは炉の方を見た。


「だから、聞く」


 ヴェスパーは一瞬、言葉に詰まった。


 あまりにも単純だった。


 だが、たぶん、それが一番正しい。


「……そうか」


 ヴェスパーは小さく息を吐いた。


「じゃあ、あったかい場所を増やすしかないな」


 悪魔たちが動き始める。


 凍った地面に、道が刻まれる。

 道の脇に、側溝が掘られる。

 森から、木材を運ぶ準備が始まる。


 ヴェスパーはキャンバスの中央にある炉を見た。


 そこから伸びる線が、灰色の光を帯びて揺れている。


「まず道を通す。木を運ぶ。水を逃がす」


 悪魔たちが彼を見る。


「それができたら、次は寝床だ」


 小さなざわめきが起こった。


 寝床。


 その言葉だけで、何人かの悪魔が顔を上げた。


 ヴェスパーは短く言った。


「線を、現物にするぞ」


 誰かが、小さく息を呑んだ。


 ヴェスパーは灰色の光を帯びるキャンバスを見上げた。


 まだ家はない。

 屋根もない。

 壁もない。


 ただの線だ。


 だが、その線に従って、悪魔たちは動き始めた。


 凍った地面に、道が刻まれる。

 道の脇に、側溝が掘られる。

 森から、木材を運ぶ準備が始まる。


 地獄の底で、初めて村の形が描かれた。


 そして、村はまだ線のまま、少しだけ現実に近づいた。

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