第五話 凍った軍団と排管工事
炉が生まれてから、数日が経った。
名もなき集落の中央では、今日も炉が低く唸っている。
赤黒い炉壁は、最初の夜ほど荒々しくはない。
けれど、その奥に宿る灼熱炉核は、まだ確かに呼吸していた。
熱を吐き、冷え切った空気を押し返し、周囲の氷を少しずつ溶かしている。
炉の周りには、黒い地面が見え始めていた。
氷でも霜でもない。
硬く、冷たく、ひび割れた地面。
ヴェスパーはそれを見下ろし、腕を組んだ。
「地面って、久しぶりに見るとありがたいもんだな」
足元には、まだ水が浮いている。
溶けた氷が行き場をなくし、炉の周りに浅い泥を作っていた。
悪魔たちは、その周囲に集まっている。
以前のように、ただ凍えてうずくまっているわけではない。
冥骨粥を食べるようになってから、少しずつ動ける者が増えていた。
炉の近くで器を洗う者。
砕いた灰豆を乾かす者。
欠けた鍋を磨いているハボリム。
塩花を選別しているブエル。
そして、その横でやたらと偉そうに記録を取っているアガレス。
「王様、冥骨粥の提供量ですが、昨日より二割ほど増やせました!」
「配給って言わなくなっただけ偉い」
「はい! 王様のご指摘により、食事提供量へ改めました!」
「その報告いるか?」
「必要です! 改善は記録してこそ改善です!」
「そこは分からんでもない」
アガレスは胸を張った。
「あと、灰豆による負傷者は本日ゼロです!」
「それは報告しなくていい」
「王様のご命令どおり、灰豆に近づく前に全員で盾を構えました!」
「採取の絵面じゃないな」
ブエルがのんびり頷く。
「灰豆も、最近は少し大人しいですよぉ」
「豆の性格まで把握するな」
ヴェスパーは周囲を見回した。
確かに、集落は少しずつ動き始めている。
だが、動き始めたからこそ、問題も見えてきた。
炉の周りに人が集まりすぎている。
寝床も、食事の場所も、材料置き場も、作業場も、ほとんど区別がない。
溶けた水は地面にたまり、歩きにくい。
凍った家は傾き、壁には割れ目が走っている。
屋根から落ちる水滴で、寝床が湿っている場所もある。
「……これは、そろそろ分けないとまずいな」
ヴェスパーが呟くと、アガレスが顔を上げた。
「何をでございますか?」
「場所だ。寝る場所、飯を作る場所、材料を置く場所、作業する場所。全部ごちゃ混ぜだ」
「区画整理ですね!」
「言葉だけは立派だな」
「王国建設の第一歩です!」
「まだ村の片付けだ」
ヴェスパーは炉の方を見た。
熱源はある。
食事も、最低限は作れるようになった。
次は住む場所だ。
だが、家を直すには材料が要る。
石はある。骨もある。氷なら腐るほどある。
けれど、木がない。
壁を補強するにも、屋根を直すにも、床を上げるにも、何かしらの木材が欲しい。
石だけでどうにかするには、今の悪魔たちの力も道具も足りない。
「木がいるな」
ヴェスパーが言うと、ブエルがのんびりと手を上げた。
「森ならありますよぉ」
「あるのか」
「はいぃ。凍っていますけどぉ」
「だろうな」
ヴェスパーは即座に肩を落とした。
「芯まで凍っていますねぇ。斧を入れると、刃が負けますぅ」
「木が斧に勝つな」
「勝ちますねぇ」
「勝つのか……」
その時、フルカスが静かに近づいてきた。
数日前よりも、さらに姿がはっきりしている。
老いは残っているが、背はまっすぐ伸び、目にも力が戻っていた。
彼はヴェスパーの前で一礼した。
「王様。木の前に、見ていただきたい場所がございます」
「また何か出るのか」
「出る、というより、沈んでおります」
「嫌な予感しかしないな」
ヴェスパーはため息を吐いた。
「遠いのか」
「集落の奥でございます。王様の体調であれば、歩ける距離かと」
「炉は?」
「ハボリムに見張らせます」
「ハボリムに?」
炉のそばで鍋を抱えていた老人悪魔が、ぼんやりと顔を上げた。
「火は、よいのう」
「不安しかない」
アガレスがびしっと背筋を伸ばした。
「王様! 私が炉の番を――」
「アガレス」
「はい!」
「お前も来い」
「よろしいのですか!」
アガレスの目が一気に輝いた。
「説明役がいる。フルカスだけだと話が重そうだ」
「お任せください! 天上戦争、堕天史、封印術、旧第九圏王国の統治構造まで、何でも補足いたします!」
「必要な分だけにしろ」
「努力します!」
「そこは約束しろ」
ヴェスパーはハボリムを見た。
「ハボリム。炉が変な音を立てたら呼べ」
「変な音とは、どんな音かのう」
「分からない音だ」
「なるほど。分からぬ音がしたら呼べばよいのじゃな」
「そうだ」
「鍋の蓋が落ちる音も、分からぬ音に入るかのう」
「それは入らない」
「難しいのう」
「難しくない」
ヴェスパーは炉を見る。
ここ数日で、炉核の暴れ方も少し読めてきた。
今なら短時間なら離れられる。
「分かった。案内しろ」
「は」
フルカスは静かに歩き出した。
ヴェスパーはその後に続く。
アガレスは嬉しそうに小走りでついてきた。
ニムは少し離れたところから見ていたが、今回は何も言わなかった。
ヴェスパーとフルカス、そしてアガレスは、集落の奥へ向かった。
そこには、氷壁に走る細い裂け目があった。
大人一人がようやく通れるほどの幅。
中は暗く、冷気がさらに濃い。
「ここを行くのか」
「はい」
「秘密基地みたいだな」
「封印地でございます」
「全然わくわくしない返答だ」
裂け目の中を進む。
足元は滑る。
壁は透明に近い氷で覆われ、奥に黒い筋のようなものが走っている。
頭上から水滴が落ち、肩に触れた瞬間、また凍りつきそうな冷たさを残した。
アガレスだけは、周囲をきょろきょろと見回している。
「王様、この氷壁には古い封印式の残滓があります!」
「見て分かるのか」
「はい! 文字の形はほとんど崩れていますが、天界式と地獄式が混ざっています!」
「混ぜるな危険って感じだな」
「まさに危険です!」
「そこで元気よく言うな」
しばらく進むと、空間が開けた。
そこには、地底湖があった。
湖と呼ぶには、あまりにも静かだった。
黒い氷が、広大な平面となって奥まで続いている。
天井から垂れた氷柱が、まるで逆さまの槍のように並んでいた。
炉の熱はここまでほとんど届かない。
空気そのものが、古い沈黙を抱えているようだった。
ヴェスパーは湖面に近づいた。
そして、足を止めた。
氷の下に、影があった。
ひとつではない。
無数に。
巨大な翼を広げた者。
四本腕の戦士。
牛の頭を持つ巨躯。
蛇の尾を持つ女悪魔。
竜の骨格を思わせるもの。
折れた槍を握ったまま凍りついた者。
砕けた鎧をまとい、片膝をついたまま眠る将軍のような悪魔。
どれも、ただの死骸には見えなかった。
眠っている。
だが、その眠りはあまりに深い。
ヴェスパーは思わず呟いた。
「……なんだこの怪獣軍団は」
「地獄の最強の戦士たちでございます」
フルカスは静かに答えた。
「かつての友であり、兄弟であり、戦場で背を預けた者たちです」
「戦場?」
「天への反乱です」
フルカスが答えると、アガレスが横から補足した。
「後世の記録では、天上戦争と呼ばれます。天の軍勢と、ルシファー様に従った者たちの戦いです」
「天上戦争、ね」
「はい。天界側の記録では反逆戦争とも呼ばれますが、地獄側では大反乱と呼ぶ者もおります」
「呼び方だけで揉めそうだな」
「実際に揉めました」
「だろうな」
その言葉に、氷穴の空気が少しだけ重くなった。
フルカスは黒い湖面を見つめたまま続ける。
「かつて、天に最も近い場所に、ひとりの大天使がおりました」
「ルシファーか」
「はい」
フルカスの声には、敬意があった。
「光を掲げる者。明けの明星。天の軍勢を率いた、大天使長でございます」
アガレスが頷く。
「十二枚の白翼を持っていたと記録されています。天においても、あれほどの翼を持つ者は稀でございました」
「十二枚?」
「はい」
「寝るとき邪魔そうだな」
「王様」
フルカスが静かに言った。
「そこではございませぬ」
「そうか」
フルカスは氷の下に沈む影を見る。
「かつては、すべてが白く輝いておりました。天の光を映す、明けの明星そのものの翼でございました」
「堕ちてからは?」
「黒く染まった、とは申しませぬ」
フルカスは静かに首を振った。
「白い翼も残っておりました。焼け落ちた翼も、黒く変じた翼も、灰に濁った翼もあった。天と地獄、その両方を背負ったような御姿でした」
「ずいぶん面倒くさい背中だな」
「王とは、面倒なものを背負う者でございます」
「嫌な定義だ」
フルカスは少しだけ、ヴェスパーの背を見た。
そこには何もない。
白い翼も。
黒い翼も。
灰色の翼も。
ただ、何もなかった。
「王様には、翼がございませんな」
「見れば分かる。背中が軽くて助かる」
アガレスが身を乗り出した。
「ですが、それは不思議なことなのです。悪魔や天使にとって翼は、権能の輪郭。力が外へ形を取ったものと言えます」
「つまり俺は、力の形がないのか」
「ない、というより……まだ定まっていないのかもしれません」
「曖昧だな」
「王様が曖昧なのです」
「本人に言うな」
フルカスは静かに首を振った。
「ルシファー様は、すべてを背負った王でございました。王様は、まだ何も背負っておられない」
「背負わされそうな気配はあるけどな」
「はい」
「否定しろ」
「できませぬ」
ヴェスパーは氷の下へ視線を戻した。
「それで、その十二枚羽根の王様が天に反乱を起こしたわけか」
「はい。神の秩序に異を唱え、天の座を揺るがした。多くの天使がそれに従い、多くの者が堕ちた」
「そして負けた」
ヴェスパーが言うと、フルカスが静かに頷いた。
「はい。我らは敗れ、堕ちました。それでもルシファー様は地獄の長となり、この第九圏に王国を築かれたのです」
「王国」
ヴェスパーはその言葉を、氷穴の中で聞いた。
今の集落からは、想像しにくい言葉だった。
傾いた家。
白湯もどきの粥。
飛んでくる豆。
炉の周りに集まる、痩せた悪魔たち。
そこに、かつて王国があった。
「ルシファー様がいらした頃、この第九圏は今ほど冷たくはございませんでした」
フルカスは黒い湖面を見下ろしたまま言った。
「地獄の第九圏なのにか?」
「はい。氷獄であることに変わりはございませぬ。氷も、罰も、封印も、冷気もありました。ですが、ルシファー様の結界が、冷気を和らげていたのです」
「結界、か」
ヴェスパーは小さく呟いた。
炉は熱を生む。
排管は熱を運ぶ。
だが、結界というものがあるなら。
冷気そのものの流れを変えることも、できるのかもしれない。
ヴェスパーは一瞬だけ考えたが、すぐに首を振った。
今の自分に、そんな大層なものは作れない。
そもそも仕組みも分からない。
「まあ、今考えても仕方ないな」
「王様?」
「なんでもない。続けろ」
アガレスが目を輝かせる。
「結界に興味がおありで?」
「少しな」
「では、後ほど基礎理論からご説明いたします」
「短く頼む」
「結界術の基礎だけで、古文書三十二冊分ございます」
「やっぱり後でいい」
フルカスは黒い湖面を見つめたまま続ける。
「ルシファー様の結界があった頃、火は絶えず、道は通り、食糧は分けられ、眠る場所もありました。寒さはありました。ですが、暮らせぬほどではなかったのです」
「最低限の生活はできていたわけか」
「はい。地獄であれ、王国でございました」
アガレスが補足する。
「記録では、中央の熱源、貯蔵庫、封印監視塔、地底道、各集落への熱供給路が存在していたとされています」
「熱供給路?」
「はい。ルシファー様の結界は、単なる防壁ではありません。第九圏全体に張られた環境制御のようなものです」
「環境制御」
「冷気を完全に消すのではなく、流れを整え、封印を保ち、熱が各地へ巡るようにしていたと記録されています」
「地獄の空調設備か」
「かなり雑に言えば、そうです」
「雑に言わせたのは俺だが、嫌な納得感があるな」
だが、ルシファーは消えた。
ヴェスパーは、そう言おうとして、先にフルカスが口を開いた。
「けれど、ルシファー様は、いつしか消えました」
氷穴に、水滴の落ちる音が響く。
「第九圏の長となり、地獄を統べる王となった。ですが、いつしか玉座から姿を消されたのです」
「失踪か」
「はい」
「そんな重要人物が?」
「ゆえに、異常なのです」
フルカスの声が、わずかに低くなった。
「ルシファー様が最後に何を命じ、どこへ向かったのか。誰も正確には語れません。記憶にも、記録にも、欠落がございます」
「記録にも?」
アガレスが珍しく、真面目な顔で頷いた。
「はい。まるで、書物からページを抜き取られたように途切れています」
ヴェスパーは黙った。
怪獣のような悪魔たち。
敗れた軍勢。
消えた王。
弱まった結界。
そして、自分が目覚めた石棺。
「俺が起きた棺は?」
「ルシファー様の玉座に最も近い、王の石棺でございます」
「つまり、俺はその消えた王の席で目を覚ましたわけか」
「はい」
「面倒くさいにも程があるな」
ヴェスパーは頭をかいた。
フルカスは静かに言葉を続けた。
「王が消えた後、第九圏は荒れました」
その声には、長く凍りついていた痛みがあった。
「誰かが王を隠したのだと疑う者が現れました。天界に奪われたのだと叫ぶ者もおりました。王を裏切った者がいると、同胞を責める者も」
「疑心暗鬼か」
「はい。王が消え、結界は弱まりました。冷気は戻り、火種は一つ、また一つと消えた。道は凍り、地底道は閉ざされ、集落は互いに行き来できなくなりました」
「そこへ争いか」
「はい。わずかに残った熱源は奪い合われ、食糧は囲われ、地底道は断たれ、各地の砦は互いに門を閉ざしました」
フルカスは氷の下の戦士たちを見た。
「王国は、外から滅ぼされたのではございませぬ」
その声は静かだった。
「王を失い、結界を失い、互いを疑い、内側から凍っていったのです」
ヴェスパーは黙った。
物理的な寒さだけではない。
疑いも、争いも、孤立も、この地獄を凍らせた。
アガレスが小さく手を上げた。
「補足してもよろしいでしょうか」
「短くな」
「はい。ルシファー様の消失以後、第九圏の統治機構は急速に機能を失いました。中央の熱源、貯蔵庫、封印監視塔、地底道、各集落への熱供給路。それらが順に停止し、記録上は百年以内に王国としての形を失っています」
「短くって言ったよな」
「かなり短くしました」
「今のでか」
「はい」
ヴェスパーは額を押さえた。
「つまり、王が消えたあと、誰も全体を見なくなった。各地が勝手に閉じて、奪い合って、設備も壊れて、そのまま凍った」
「その理解でよろしいかと」
アガレスが頷いた。
「最低だな」
「地獄でございますゆえ」
「便利な言い訳にするな」
ヴェスパーは氷の奥を見た。
確かに、こんな連中が一斉に起きたら大惨事だ。
味方であっても、食わせるだけで集落が潰れる気がする。
「で、こいつらを起こしたらどうなる」
「王様の軍勢となりましょう」
「飯は?」
「……」
「寝床は?」
「……」
「家は?」
「……」
「今起こしてどうする。飯も家も足りないだろ」
フルカスは黙った。
「起こした途端に、腹を空かせた怪獣軍団が集落を踏み潰す未来しか見えない」
「怪獣軍団ではございませぬ」
「俺にはそう見える」
ヴェスパーは黒い氷を見下ろした。
「今は無理だ。起こすなら、飯と寝床と場所を用意してからだ」
フルカスは長い沈黙のあと、深く頭を下げた。
「王様は、軍勢より先に、住む場所を見られるのですな」
「軍勢だろうが何だろうが、起きたら腹は減るだろ」
「……はい」
「なら、まず家だ」
フルカスは顔を上げた。
その目には、わずかな驚きと、別の熱があった。
「王様」
「なんだ」
「この氷は、ただの氷ではございませぬ」
フルカスは黒い湖面を見下ろした。
「天界の封印と、第九圏そのものの冷気が重なったもの。力で砕けば、中にいる者ごと壊れましょう」
「じゃあ、溶かすしかないのか」
「はい。ですが、これまでの火では、表面に傷一つつきませなんだ」
フルカスはそこで、わずかに集落の方角を見た。
「けれど、王様の炉は氷を溶かしました。地面を露わにし、腹を忘れた者たちに、空腹を思い出させた」
「大げさだな」
「大げさではございませぬ」
フルカスは静かに首を振る。
「そして、もしかすると……炉を増やすことができれば、すべての氷は溶けるのではないかと」
その声には、畏れと、ためらいが混じっていた。
「少しだけ、夢を抱いております」
ヴェスパーは氷の下の怪獣軍団を見た。
「夢にしちゃ、規模がでかすぎる」
「地獄に残された夢など、そのくらいでなければ凍ってしまいます」
「うまいこと言ったつもりか」
「本心でございます」
ヴェスパーは少し黙った。
「全部の氷を溶かす、ね」
熱量が足りない。
炉も足りない。
燃料も足りない。
管もない。
飯も家も足りない。
足りないものだらけだ。
つまり、今すぐは無理だ。
だが。
「炉を増やせば、届く範囲は増える」
フルカスが顔を上げる。
「一本の火じゃ無理でも、火を繋げば、少しずつ溶かせるかもしれない」
「王様……」
「夢ってほど綺麗な話じゃない。工事だ」
「工事、でございますか」
「そうだ。火を届かせるには、仕組みがいる」
ヴェスパーは踵を返した。
「戻るぞ。まず森を溶かす」
「森、でございますか」
「家を直すには木がいる。木を切るには、凍った森を溶かす必要がある。全部の氷はその後だ」
「……はい」
フルカスは再び、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
集落に戻ると、ハボリムが炉の前で鍋を抱えていた。
「炉はどうだった」
「火は、よいのう」
「それは知ってる」
「一度だけ、ぼん、と鳴ったのう」
「先に言え」
「蓋じゃった」
「紛らわしいな」
ヴェスパーは集落の中央に悪魔たちを集めた。
「家を直す」
その一言に、悪魔たちがざわついた。
「家……」
「寝床か」
「屋根が落ちぬ場所か」
「そうだ」
ヴェスパーは地面を指した。
「まず、炉の周りに集まりすぎるな。危ない。寝る場所、飯を作る場所、食材を置く場所、作業する場所を分ける」
アガレスが目を輝かせた。
「都市計画ですね!」
「まだ村の片付けだ」
「ですが、区画を分けるのですね」
「そうだ。ついでに水の逃げ道も作る。今のままだと、溶けた水で足元がぐちゃぐちゃになる」
「排水ですね」
「お前、そういう言葉は好きだな」
「響きが実務的です」
「その感性は分からんでもない」
ヴェスパーは続ける。
「ただ、家を直すには木がいる」
ブエルがのんびりと手を上げた。
「森はありますよぉ」
「凍ってるんだろ」
「はいぃ」
「なら、溶かす」
悪魔たちが黙った。
ハボリムが顔を上げる。
「森を、火で炙るのかの」
「燃やしたら意味がない。熱を送る」
「熱を、送る?」
アガレスが首を傾げた。
ヴェスパーは炉を指さした。
「炉はここにある。森は遠い。だから、ここから森まで管を伸ばす」
「管?」
「熱い空気か蒸気を通す。森の近くまで運ぶ。凍った木の根元を温める」
アガレスの目が一気に輝いた。
「地獄に血管を作るのですね!」
「血管じゃない。排管だ」
「排管!」
「そんなに嬉しそうに言う言葉じゃない」
ハボリムがゆっくりと炉を見る。
「火を、遠くへ行かせるのか」
「そうだ」
「火は、よいのう」
「それはもう聞いた」
「遠くへ行けるなら、もっとよいのう」
近くにいた悪魔たちが、互いに顔を見合わせた。
「火が、動くのか」
「火は、炉にあるものではないのか」
「遠くに火が届けば、外でも凍えぬのか」
ざわめきが、少しずつ広がっていく。
ヴェスパーは頷いた。
「材料は?」
フルカスがすぐに答える。
「魔獣の骨ならば、いくらかございます。太いものをくり抜けば、管にできましょう」
「黒石も使えるか?」
「焼き固めれば、継ぎ目に使えるかと」
「ハボリム」
「なんじゃ」
「接合できるか」
「せつごう……」
「骨と石の隙間を焼いて固める」
「焼くのか」
「焦がすなよ」
「焦げたものは、香ばしい」
「食い物じゃない」
ブエルがにこにこしながら言う。
「森までの道なら案内できますよぉ。途中に穴が三つ、噛む根が二本、寝ている魔物が一匹いますぅ」
「最後が一番重要だろ」
「寝ているので大丈夫ですぅ」
「起こすなよ」
「たぶん大丈夫ですぅ」
「たぶんで工事をするな」
だが、やるしかない。
ヴェスパーは炉の前にしゃがみ、地面に黒く焼けた棒で線を引いた。
炉。
集落。
森。
排水の溝。
食材置き場。
寝床。
作業場。
大ざっぱな図だ。
アガレスが覗き込み、感嘆の声を上げる。
「これは地図ですか!」
「雑な配置図だ」
「配置図!」
「本当にそういう言葉好きだな」
「王様の頭の中が、線になっています!」
「言い方が怖い」
フルカスはその図をじっと見ていた。
「ここに寝床。ここに飯場。ここに材料置き場。作業場は炉から少し離す。火の粉が飛ぶからな」
「理にかなっております」
「森への排管は、なるべく曲げない。曲げると熱が逃げる」
アガレスが首を傾げる。
「熱は逃げるのですか?」
「逃げる。水も熱も、行きたい方にしか行かない」
「では、行きたい方を作るのですね」
「そういうことだ」
工事が始まった。
フルカスが動ける悪魔たちをまとめる。
ブエルが森までの道を案内する。
ハボリムが炉の火を分け、骨管の継ぎ目を焼き固める。
アガレスは配置図を抱え、必要以上に張り切って指示を読み上げる。
「右へ三歩です!」
「二歩でいい」
「王様、三歩と書いてあります!」
「それは俺の字が曲がっただけだ」
「では二歩!」
太い魔獣の骨をくり抜き、つなげていく。
継ぎ目には黒石の粉と灰を詰め、ハボリムが熱で焼き固めた。
氷の上に直接置くと冷えすぎるため、下に石を並べる。
溶けた水が流れ込まないよう、脇に浅い溝を掘る。
作業は遅い。
管は重い。
悪魔たちはまだ完全には力を取り戻していない。
途中で何度も休憩が必要だった。
だが、誰もやめようとは言わなかった。
炉から伸びる骨の管は、少しずつ集落の外へ向かっていく。
一本つながるたびに、悪魔たちは管に手を近づけた。
「温かい」
「ここまで、火が来ている」
「炉から離れているのに」
その声には、驚きが混じっていた。
ヴェスパーは継ぎ目を見る。
「角度が悪い。熱が逃げる」
「管とは難しいものですね!」
「適当にやると、ただの熱い骨だ」
「熱い骨!」
「喜ぶな」
森に着く頃には、ヴェスパーの体もかなり重くなっていた。
目の前には、凍った森が広がっている。
木々は黒く、背が高い。
だが、生きている森というより、氷に閉じ込められた標本のようだった。
幹には白い霜が張りつき、枝先まで凍っている。
地面は硬く、根元には分厚い氷が盛り上がっていた。
フルカスが斧を持ち上げ、試しに幹へ当てる。
がきん、と嫌な音がした。
刃が弾かれる。
「木の音じゃないな」
「凍っておりますゆえ」
「分かってたけど、むかつく硬さだな」
ヴェスパーは排管の先端を木の根元へ向けた。
「流せ」
ハボリムが炉の方角へ手をかざす。
しばらくして、管の奥から低い音がした。
ごう、と。
熱を含んだ空気が、骨管を通って森へ吐き出される。
白い蒸気が、凍った根元を包んだ。
最初は何も起きなかった。
悪魔たちは黙って見ている。
蒸気は氷に触れ、すぐに白く広がり、消えていく。
木は相変わらず凍ったままだ。
アガレスが不安そうにヴェスパーを見る。
「王様……」
「待て」
「はい」
「熱が入るには時間がかかる」
「はい」
「返事が早いな」
「待つのは苦手です」
「だろうな」
しばらくして。
ぽたり、と。
凍った木の根元から、水滴が落ちた。
それだけだった。
だが、フルカスは目を見開いた。
「……溶けた」
「少しな」
ヴェスパーは管の継ぎ目を確認する。
「効率は悪い。途中でだいぶ熱が逃げてる。管も雑だ。改良が必要だな」
「それでも、溶けました」
フルカスの声は震えていた。
近くにいた悪魔が、木の根元に落ちた水滴をじっと見つめていた。
「森が……水を落とした」
別の悪魔が、白い蒸気に手を伸ばす。
「火が、ここまで来た」
その声は小さかった。
けれど、誰も笑わなかった。
フルカスは凍った森を見た。
「火は、遠くへ届くのですな」
ヴェスパーは少し黙った。
「届かせるんだよ。勝手には届かない」
「はい」
「管を増やして、炉を増やして、熱を逃がさないようにする。そうすれば、もっと遠くまで届く」
フルカスは深く頭を下げた。
「ならば、いつか」
「いつか、な」
ヴェスパーは凍った森を見上げた。
「まずは一本切れるようにする」
それから、さらにしばらく熱を通した。
木の根元の氷が薄くなり、霜が水に変わって垂れ始める。
ハボリムが手をかざし、目を細めた。
「刃が、入るかもしれんのう」
フルカスが再び斧を構えた。
今度は、先ほどより慎重に振り下ろす。
ざく、と。
浅く、刃が入った。
悪魔たちがどよめいた。
「入った」
「木が切れるぞ」
「まだ浅い」
ヴェスパーはすぐに言った。
「今日はここまでだ」
「切らぬのですか?」
フルカスが問う。
「無理に切ると割れる。もう少し熱を通す」
ヴェスパーは排管の先を見る。
「明日だ。明日、木を切る」
アガレスが目を輝かせた。
「次は建築ですね!」
「まずは小屋だ」
「王宮ではなく?」
「寝床だ」
アガレスは少し考え、真剣に頷いた。
「寝床、大事です」
「分かればいい」
地獄の底で、凍った森が初めて水を垂らした。
炉は火を生んだ。
粥は腹を満たした。
そして今、火は少しだけ遠くへ届いた。
すべての氷を溶かすには、まだ遠すぎる。
だが、一本の木を切るところからなら始められる。
ヴェスパーは白い蒸気の向こうで、浅く斧の入った黒い幹を見た。
「飯があって、火があって、木が切れるなら……家くらいは建つだろ」
まだ遠い。
だが、確かに一歩、踏み出せた。
名もなき集落の外れで、凍った森は静かに水を落とし続けていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
もし面白いと感じていただけたら、
ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。
今後ともよろしくお願いいたします。




