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第九圏の欠落王 ―棺の底から始める地獄改革―  作者: カイメイラ
第一章 氷獄に火を灯す

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第四話 腹が減った地獄


 炉の熱は、一晩を越えても消えなかった。


 名もなき集落の中央に据えられた炉は、まだ低く唸っている。

 赤黒い炉壁の隙間から、ゆらゆらと熱が漏れ、周囲の氷を少しずつ溶かしていた。


 屋根から水滴が落ちる。

 岩肌を、細い水の筋が伝う。

 地面に張りついていた霜が、ところどころ薄くなっていた。


 氷獄の朝に、湯気が残っている。


 それだけで、この集落は昨日とは違って見えた。


「……だるい」


 炉の前に腰を下ろしたまま、ヴェスパーは低く呟いた。


 体が重い。

 骨の内側に鉛でも流し込まれたようだった。指先を動かすだけでも、魂の奥が軋むような感覚がある。


 昨日、灼熱炉核を造った反動だ。


 作れるとは思った。

 だが、思った以上に持っていかれた。


 ヴェスパーは炉の奥を見つめる。


 炉核は、まだ安定しきっていない。

 熱は出ている。

 だが、それは安全という意味ではなかった。


 生まれたばかりの獣のようなものだ。

 呼吸を覚え、熱を吐き、己の出力の加減をまだ知らない。


 少し魔力の流れが乱れれば、炉壁が割れる。

 少し熱が偏れば、炉そのものが暴れる。


 昨日、凍死しかけていた集落が、今日は焼け野原になった。

 そんな笑えない結末だけは避けたい。


 だからヴェスパーは、炉から離れられなかった。


「王様、お顔の色が悪いです!」


 アガレスがぱたぱたと駆け寄ってきた。


 小さな体に似合わず、昨日よりも足取りが軽い。

 目もよく動いている。頬にも、ほんの少しだけ血色のようなものが戻っていた。


 ヴェスパーは片目だけを向ける。


「炉核を作った反動だ。しばらく大きくは動けない」


「おお……! やはり王様の御業は、魂を削るほどの大事業だったのですね!」


「盛るな。普通に疲れただけだ」


「では、今は炉の番でございますか?」


「ああ。こいつが暴れたら集落ごと焼ける」


 ヴェスパーは集落の方を見た。


 悪魔たちが炉の周囲に集まっている。

 昨日のように、ただ火に縋るだけではない。


 立っている者が増えた。

 肩を寄せ合わずに座っている者もいる。

 凍りついた目の奥に、ほんのわずかだが、光が戻っていた。


 だが、その直後。


 ぐぅ、と。


 妙に間の抜けた音が響いた。


 音を立てたのは、ニムだった。


 小さな悪魔は、自分の腹を押さえて目を丸くしている。


「……おなかが」


 続いて、別の悪魔の腹が鳴った。

 さらに別の悪魔も、腹を押さえる。


 ざわり、と集落が揺れた。


「腹が……減った?」


「空腹など、いつぶりだ……」


「腹の中が、怒っている……」


「怒ってるのは胃だろ」


 ヴェスパーは額を押さえた。


 暖まったことで、体が動き始めた。

 体が動き始めたから、腹が減った。


 当たり前のことだ。


 けれど、この第九圏では、その当たり前すら失われていた。


 フルカスが静かに近づいてくる。


 昨日よりも、背筋が伸びていた。

 老人と呼ぶにはまだ枯れているが、完全に崩れ落ちそうだった昨日とは違う。初老ほどの輪郭が、少しだけ戻っている。


「王様。朝の糧を用意いたしましょう」


「糧?」


「粥でございます」


「粥があるのか」


 それなら話は早い。


 ヴェスパーは少しだけ安心した。


 だが、その安心はすぐに消えた。


 フルカスが持ってきた器の中には、灰色の湯が入っていた。


 湯、と言っていいのかも怪しい。

 濁っている。

 底に、豆だったものらしき粒が二つ三つ沈んでいる。

 湯気は立っているが、それ以外に食べ物らしい要素がない。


 ヴェスパーは黙って器を見た。


 フルカスは当然のように言う。


「粥でございます」


「……これが?」


「はい」


「……」


 ヴェスパーは器を持ち上げ、少し傾けた。

 中身が、しゃば、と音を立てて揺れる。


 粥というより、濁った湯だ。

 底に沈んだ豆らしき粒も、申し訳程度にしかない。


「これは粥じゃない」


 ヴェスパーは断言した。


 フルカスがわずかに眉を動かす。


「では、何でございましょう」


「白湯を飲んでるのと大差ないな」


 アガレスが器を覗き込み、ぱっと目を輝かせた。


「王様、的確です! 栄養価は限りなく低く、満腹感も錯覚に近いです!」


「胸を張って分析するな」


「ちなみに、これを三杯飲むと腹は膨れます!」


「それは腹の中が水浸しになるだけだ」


 ニムが器を見つめている。


 腹は減っているのだろう。

 だが、目の前のそれを食べたいとは思っていない。

 そんな顔だった。


 ヴェスパーは重い息を吐く。


「食えるものはないのか」


 フルカスが少し考えた。


「食える、の定義にもよりますが」


「腹を壊さず、力になるものだ」


「それは難題でございますな」


「地獄だな、本当に」


 フルカスは集落の奥へ目を向けた。


「ブエルを呼びましょう。草根、苔、毒、薬に詳しい者です」


「毒は詳しくなくていい」


「詳しくなければ避けられませぬ」


「それはそうだが」


 しばらくして、骨で編んだ籠を背負った悪魔が、のんびりと歩いてきた。


 痩せている。

 肩も細い。

 だが、目元だけは妙に穏やかだった。


 角は片方が欠け、髪には霜が残っている。

 歩き方はゆっくりで、急ぐ気配がまるでない。


「お呼びですかぁ」


「お前がブエルか」


「はいぃ。食べられるものと、食べるとしばらく動けなくなるものなら、だいたい分かりますよぉ」


「後半はいらないな」


「でも、大事ですよぉ」


「大事なのは分かるが、言い方が嫌だ」


 ブエルはにこにことした顔で首を傾げる。


「この辺りなら、灰豆、黒根草、霜苔、塩花。骨溜まりに冥骨が残っていれば、いい出汁が出ますぅ」


「出汁を知ってるのか」


「昔は、少しだけ」


 ブエルは遠い記憶を探すように目を細めた。


「昔は、もう少し食べていた気がしますぅ」


「昔?」


「はいぃ。けれど、ここへ落とされてから、少しずつ、何も口にしなくなりましたねぇ」


 ブエルは不思議そうに首を傾げる。


「いつからでしょう……」


「腹が減らなかったのか」


「腹が減ることを、忘れていったのかもしれませんねぇ」


 ヴェスパーは器の中の灰色の湯を見る。


 腹が減ることを忘れる。

 食うことを忘れる。

 食べ物を食べ物にすることさえ、忘れていく。


 それは生きているとは言えない。


 いや、悪魔だから生きているのかどうかも怪しい。

 だが、少なくとも、まともな状態ではなかった。


「よし、アガレス」


「はい、王様!」


 アガレスが背筋を伸ばした。


「ブエルと一緒に、動ける奴をまとめろ。食えるものを採ってこい」


「採取隊ですね!」


「名前はどうでもいい。魔物に襲われるなよ」


「承知しました!」


「あと、無茶はするな。飯の材料を採りに行って死ぬな」


「はい!」


 ブエルがのんびりと手を上げた。


「王様ぁ」


「なんだ」


「食材に襲われた場合は、どうしましょう」


 ヴェスパーは黙った。


 アガレスも黙った。


 フルカスだけが、何かを知っている顔で目を伏せた。


「……食材に襲われる前提で動くな」


「灰豆は、飛びますよぉ」


「豆が飛ぶな」


「飛びますねぇ」


「飛ぶのか……」


 ヴェスパーは頭を抱えた。


 だが、行かせるしかない。


 自分は炉から離れられない。

 全部自分でやるのは無理だ。

 そもそも、この土地で何が食えるのかも知らない。


 分かる者に、分かることを。

 動ける者に、動けることを。


 偉そうな理屈ではない。

 ただ、そうしなければ回らないだけだ。


「アガレス」


「はい!」


「ブエルの言うことを聞け。分からないものは触るな。危ないと思ったら逃げろ」


「承知しました!」


「ブエル」


「はいぃ」


「危ないものは先に言え」


「思い出したら言いますぅ」


「思い出す前に言え」


 採取隊は、集落の外へ出ていった。


 先頭はブエル。

 その後ろを、妙に張り切ったアガレスが歩く。

 さらに、昨日の炉で少し力を取り戻した悪魔たちが数人、籠や袋を抱えて続いた。


 ニムも行きたそうにしていたが、ヴェスパーは首を振った。


「お前は残れ」


「ニムも、行けます」


「腹が鳴ってる奴は留守番だ」


「……鳴ってないです」


 ぐぅ、と鳴った。


 ニムは黙って腹を押さえた。


「鳴ったな」


「……今のは、炉です」


「炉に濡れ衣を着せるな」


 ニムは少しむくれたが、炉のそばに座った。


 ヴェスパーはその頭を軽く撫でようとして、途中で手を止めた。

 角がある。

 撫でる場所が難しい。


 結局、肩を軽く叩いた。


「最初に食わせてやる」


 ニムは顔を上げた。


「ほんとうですか」


「ああ。だから待て」


「待ちます」


 その返事は、妙に真剣だった。


 採取隊が戻ってきたのは、しばらくしてからだった。


 全員、額や頬に小さな黒い跡をつけていた。


 アガレスはなぜか誇らしげだった。

 ブエルは変わらず、のんびりしている。

 悪魔たちの籠には、黒ずんだ豆、ねじれた根、白い結晶、灰色の苔、そして古い骨が詰め込まれていた。


 ヴェスパーは炉の前で顔を上げる。


「……魔物に襲われたか?」


「いいえ!」


 アガレスが元気よく答えた。


「食材に襲われました!」


「一番聞きたくなかった報告だな」


「王様! 灰豆がイシツブテを飛ばしてきます!」


「だから豆が遠距離攻撃するな」


 ブエルが籠を下ろしながら、穏やかに頷いた。


「刺激すると弾けるんですぅ」


「先に言ったのか」


「言いましたよぉ」


「いつ」


「弾けたあとに」


「それは報告だ。警告じゃない」


 アガレスが額を押さえた。


 そこには黒い豆粒の跡が残っている。


「ですが、被害は軽微です!」


「採取で被害という単語を使うな」


「灰豆は強敵でした」


「豆だ」


「豆ですぅ」


 ブエルが同意した。


 妙に腹が立つ同意だった。


 ヴェスパーは採ってきた材料を一つずつ確認する。


 灰豆は石のように硬い。

 指で押してもびくともしない。


 黒根草は、黒い根がうねるように絡み合っていた。

 触るとわずかに身をよじる。


「これ、本当に食えるのか」


「薄く切れば、体が温まりますぅ」


「生だと?」


「舌が三日ほどしびれますぅ」


「食材紹介が全部怖い」


 塩花は白い結晶だった。

 花というより、岩に咲いた塩の棘だ。


 霜苔は灰色の苔。

 煮るととろみが出るらしい。


 そして冥骨。


 古い魔獣の骨だという。

 名前は不穏だが、これが一番まともに出汁が出そうだった。


「煮炊きは誰がしている」


 ヴェスパーが聞くと、フルカスが炉のそばに目を向けた。


「ハボリムでございます」


 炉の陰に、一人の老人悪魔が座っていた。


 ひび割れた角。

 長い髭。

 落ちくぼんだ目。

 手には欠けた鍋を抱えている。


 髭の先に、消えかけた火の粉のような赤がわずかに残っていた。


「ハボリム。かつては火を操る悪魔でございました」


「かつては?」


 ハボリムは、ぼんやりと顔を上げた。


「火……?」


 しばらく炉を見つめる。


「ああ、火はよいのう。冷たいものを、冷たくなくする」


「料理への理解が原始的すぎる」


「料理……」


 ハボリムは首を傾げた。


「煮ることかの」


「煮るだけじゃない」


「焼くのかの」


「焼くこともある」


「焦げるのう」


「焦がすな」


 ヴェスパーは冥骨を一本持ち上げた。


「まず骨を焼く」


 ハボリムの目が、ほんの少しだけ動いた。


「骨を……焼く?」


「臭みを飛ばす。たぶん旨味も出る」


「旨味……」


 その言葉を聞いた瞬間、ハボリムの濁った目に、わずかな火が映った。


「懐かしい響きじゃのう」


「思い出せるか」


「半分くらいなら」


「大事な半分を忘れるなよ」


 ハボリムはゆっくりと立ち上がった。


 頼りない足取りだった。

 だが、炉に近づくにつれて、指先に小さな火が灯る。


 昨日までの、死にかけた火ではない。

 炉の熱を受けて、眠っていたものが目を覚ますような火だった。


「焼くのじゃな」


「ああ。焦がすなよ」


「焦げたものは、香ばしい」


「限度がある」


 ハボリムは冥骨を炉の上に置いた。


 じゅ、と音がした。

 骨の表面が焼け、黒い煙が少し上がる。

 最初は嫌な匂いだった。


 だが、しばらくすると、匂いが変わった。


 焦げ臭さの奥から、重く、太い香りが出てくる。

 腹の奥を刺激する匂いだ。


 悪魔たちが一斉に顔を上げた。


「なんだ、この匂いは」


「胃が文句を言っている……」


「それは腹が減ってるんだ」


 ヴェスパーは灰豆を砕かせた。


 硬い。

 悪魔が石で叩いて、ようやく割れる。

 割れた中身は灰色で、粉にすると少し豆らしい匂いがした。


「灰豆は、本来なら三日は煮ますぅ」


 ブエルが鍋を覗き込みながら言った。


「三日?」


「それでも芯が残りますねぇ」


「食材なのか、嫌がらせなのか分からんな」


 黒根草は薄く切る。

 動こうとする根を押さえつけながら切る必要があった。


「根菜が抵抗するな」


「元気がいいですねぇ」


「食われる側が元気でどうする」


 砕いた灰豆、薄く切った黒根草、霜苔、塩花。

 それらを、焼いた冥骨と一緒に鍋へ入れる。


 炉の熱を受けた鍋は、すぐに音を変えた。


 ことこと、ではない。


 ぼこり、と底から力強く沸き立つ。


「ハボリム、少し強い。焦がすなよ」


「難しいことを言うのう」


「火の悪魔だろ」


「昔はのう」


 ハボリムの指先に灯った火が、炉の熱を受けて赤く伸びる。

 だが、鍋の底を舐める直前で、すっと細くなった。


 灰豆の粉が湯を吸う。

 黒根草の苦味がほどける。

 霜苔が粥にとろみを与えていく。


 ブエルが目を丸くした。


「あらぁ」


「どうした」


「灰豆が、もう柔らかくなっていますぅ」


「早いのか」


「早いですねぇ。いつもなら、まだ怒っていますぅ」


「豆の機嫌で煮え具合を語るな」


 ハボリムが鍋を覗き込んだ。


「……火が、通っておる」


「そりゃ火だからな」


「違う。これは、食える火じゃ」


 ヴェスパーは炉を見た。


 暖を取るだけではない。

 この炉は、硬いものを柔らかくする。

 味の出なかったものから味を引き出す。

 食えないものを、食えるものに変える。


 ただ熱いだけの火ではない。


 生活を作る火だ。


 鍋が静かに煮え続ける。


 それは、この集落では久しく聞かれなかった音だった。


 ただの湯が温まる音ではない。

 食材から何かが溶け出し、混ざり、別のものになっていく音だ。


 湯気が立つ。


 昨日の湯気とは違う。


 昨夜、炉から立った湯気は、氷を溶かすためのものだった。

 体を凍えから救うための湯気だった。


 今、鍋から立つ湯気は、腹を掴んでくる。


 食事の匂いだった。


 悪魔たちが、ひとり、またひとりと鍋の周りに集まってくる。


 昨日は火に集まった。

 今日は匂いに集まった。


 それだけで、この集落は少しだけ変わっていた。


「まだか」


 誰かが言った。


「まだだ」


 ヴェスパーは答えた。


「もう食えるのでは」


「まだだ」


「胃が抗議している」


「抗議は受け付けない。待て」


 ニムが鍋の前で正座している。


 じっと鍋を見ている。

 真剣すぎる目だった。


「ニム」


「はい」


「近い。落ちるぞ」


「落ちません」


「落ちそうな奴はみんなそう言う」


 ようやく、鍋の中身が粥らしいとろみを持ち始めた。


 灰色ではある。

 見た目は決して良くない。


 だが、さっきの白湯もどきとは違う。


 湯に、味がある。

 豆に、力がある。

 骨から、出汁が出ている。


 ヴェスパーは器に少しよそった。


「ニム」


 ニムが両手で器を受け取る。


「熱いぞ」


「はい」


 ニムは小さく一口食べた。


 目を丸くする。


「……おなかの中が、あったかいです」


「味の感想を聞いたんだが」


「さっきのとは、違います」


「粥か?」


 ニムはこくりと頷いた。


「これは、粥です」


 ヴェスパーは息を吐いた。


「よし」


 それだけ言うと、周囲の悪魔たちが一斉に器を差し出した。


「並べ」


 フルカスが静かに言った。


 その声には、昨日よりも力があった。


 悪魔たちは驚くほど素直に並んだ。

 ハボリムが鍋から粥をよそう。

 時々、器ではなく手に入れようとしてヴェスパーに止められる。


「器に入れろ」


「手の方が早いのう」


「熱いだろ」


「熱いのは、よい」


「よくない」


 食卓と呼ぶには、あまりにも粗末だった。


 卓などない。

 器も欠けている。

 粥の色も、決してうまそうではない。


 それでも、誰かと同じ鍋のものを食べている。


 悪魔たちは器を抱え、ただ粥をすすっていた。

 湯気に顔を近づけ、熱を逃がさないように、両手で器を包んでいる。


 しばらく、誰も大きな声を出さなかった。


 フルカスも器を受け取った。


 彼は静かに一口食べる。


 目を閉じた。


 長い沈黙のあと、低く呟く。


「……なるほど」


「どうだ」


「これは、粥ですな」


「最初から粥を出せ」


 フルカスの口元が、ほんのわずかに緩んだ。


 食べ終えた悪魔たちの表情が変わっていく。


 欠けた翼を抱えていた悪魔が、そっと肩を震わせた。

 凍りついていた翼膜が、薄く開く。


 別の悪魔は、器の底を見つめたまま笑っていた。

 笑い方を忘れていたのか、その顔はひどくぎこちなかった。


 フルカスは何も言わない。

 ただ、杖を握る指から震えが消えていた。


 ただ暖まったのではない。

 腹の中から、体が動く準備を始めていた。


 その光景を見ているうちに、ヴェスパーはふと、別のことを思い出した。


「そういや」


 ヴェスパーは器の中を見下ろしたまま呟く。


「リリスは、なんで俺を呼んだんだろうな」


 周囲の空気が、わずかに変わった。


 ニムが顔を上げる。

 アガレスも、粥を持ったまま動きを止めた。


 フルカスだけが、静かに目を伏せる。


「王様を、でございますか」


「ああ。俺はここで目を覚ました。名前もなかった。あいつは俺にヴェスパーって名前をつけた」


 ヴェスパーは炉の火を見た。


「けど、それだけだ。なんで俺なのか。なんで第九圏なのか。何をさせたかったのか。肝心なことは、何も聞けてない」


「リリス様は、王様に願いを託されたのでは?」


 アガレスが言った。


 いつもの無邪気な声だったが、その目は少し真剣だった。


「願い、ね」


 ヴェスパーは苦笑する。


「本人に聞かないと分からんだろ、そんなもの」


「それは、そうでございますな」


 フルカスが低く答えた。


 ヴェスパーはフルカスを見る。


「リリスはどこにいる」


 フルカスは少しだけ沈黙した。


 炉の音が、こと、と鳴る。

 鍋の底で、粥が小さく泡を立てた。


「深淵ですな」


「深淵?」


「天界が管理する、最重の封印領域でございます」


 アガレスが補足するように口を開いた。


「普通の牢獄ではありません。落とす、というより、隔てる場所です。声も、姿も、魂の流れも、容易には届きません」


「……地獄より下ってことか?」


「下、というより、外です」


 アガレスは器を抱えたまま、少し考える。


「世界の底に開いた、閉じられた穴。そう表現するのが近いかもしれません」


「説明されても、ろくな場所じゃないことしか分からんな」


「はい。ろくな場所ではございません」


 アガレスは即答した。


 ヴェスパーは舌打ちした。


「メタトロンとかいうやつに、釈放してくれって言ったら通じるのか?」


 その場にいた悪魔たちが、何とも言えない顔をした。


 フルカスが静かに首を横に振る。


「通じるか、という問いであれば、言葉は通じるでしょう」


「じゃあ」


「願いは通じませぬ」


「だろうな」


 ヴェスパーは器の中の粥をかき混ぜた。


「そいつは管理者なんだろ」


「はい。記録と秩序を司る天の書記。リリス様を深淵へ封じたのも、メタトロンでございます」


「そいつに、俺が何を言えばいい」


「分かりませぬ」


 フルカスは正直に答えた。


「ですが、今の第九圏の言葉は、おそらく届きませぬ」


「今の?」


「凍え、飢え、崩れかけた集落の嘆きなど、天は記録して終わりでございましょう」


 フルカスは器を見下ろす。


「ですが、王様がこの第九圏にいる者たちの声を取り戻されたなら」


「なら?」


「その時は、ただの嘆きではなくなります」


 ヴェスパーは黙った。


 アガレスが小さく頷く。


「要求になりますね!」


「急に事務的だな」


「王様、天界は形式を重んじます。要求には根拠が必要です。根拠には実績が必要です」


「なるほどな」


 ヴェスパーは炉を見た。


 火がある。

 湯気がある。

 粥がある。


 まだ、それだけだ。


 リリスがなぜ自分を呼んだのか。

 なぜヴェスパーという名を与えたのか。

 深淵に封じられた彼女が、何を願ったのか。


 分からない。


 分からないなら、本人に聞くしかない。


「どっちにしろ、リリスに話を聞かないと分からないか」


「はい」


 フルカスが頷いた。


「そのためには、深淵へ至る術が必要でございます」


「で、今の俺たちにあるのは?」


 ヴェスパーは周囲を見回した。


 欠けた器。

 半分空になった鍋。

 飛んでくる豆。

 ぼけた火の悪魔。

 おっとりした採取係。

 炉の前で腹を空かせた悪魔たち。


 アガレスが胸を張る。


「粥がございます!」


「道のりが遠すぎる」


 けれど、ヴェスパーは笑った。


 ほんの少しだけ。


「まあ、飯も食えない奴が、天界相手に交渉なんてできるわけないか」


 ニムが器を抱えたまま言った。


「ごはん、大事です」


「ああ」


 ヴェスパーは頷いた。


「まず飯だ」


 ハボリムは空になっていく鍋を、ぼんやりと見つめていた。


「……空じゃ」


「足りなかったか?」


 ヴェスパーが聞くと、ハボリムはゆっくり首を振った。


「違う」


 老人の悪魔は、炉の火を見た。


 ひび割れた角の奥で、かすかな赤が揺れている。


「鍋が空になるまで食われたのは、久しぶりじゃ」


 その声は、先ほどより少しだけはっきりしていた。


 ブエルが穏やかに笑う。


「灰豆も、役に立ちましたねぇ」


「飛ばしてきた分は、食って仕返しだ」


 ニムが真剣に頷いた。


「勝ちました」


「何にだ」


「豆に」


「そうか。ならよかった」


 その時、アガレスが勢いよく手を上げた。


「王様!」


「嫌な予感がする」


「この料理に名を与えましょう!」


「やめろ」


「冥骨粥です!」


「やめろと言っただろ」


「ですが、皆さんもう呼んでいます!」


 見ると、悪魔たちは器を抱えたまま、満足げに頷いていた。


「冥骨粥……」

「力が出る名だ」

「骨の味がする」


「名前も感想もひどいな」


 ヴェスパーは止めようとしたが、もう遅かった。


 悪魔たちは次々に、その名を口にする。


 冥骨粥。

 冥骨粥。

 冥骨粥。


 ひどい名前だ。

 だが、彼らにとっては、久しぶりに腹を満たした食事の名だった。


 ヴェスパーは諦めて、炉の前に座り直す。


 集落には湯気が立っていた。


 炉の湯気。

 鍋の湯気。

 器を抱える悪魔たちの、白い息。


 それは、暖を取るためだけの湯気ではなかった。


 食べるための湯気だった。


「……次は、もう少し見た目をどうにかするか」


 ヴェスパーが呟くと、アガレスが目を輝かせた。


「王様! 色のつく食材なら心当たりがございます!」


「毒じゃないやつで頼む」


 ブエルがのんびりと首を傾げた。


「毒抜きすれば、だいたい食べられますよぉ」


「その基準をやめろ」


 ハボリムが鍋の底を見つめながら、ぽつりと言った。


「次は、もう少し多く煮るかのう」


 その声を聞いて、ヴェスパーは炉の火を見た。


 まだ安定しきっていない。

 まだ危うい。

 まだ、この集落は何もかも足りない。


 けれど、昨日よりはましだ。


 凍えていた悪魔たちは、腹を空かせた。

 腹を空かせた悪魔たちは、食べた。

 食べた悪魔たちは、少しだけ立ち上がる力を取り戻した。


 それだけだ。


 それだけで、十分だった。


 ヴェスパーは重い体を炉壁に預け、深く息を吐いた。


「飯があるなら、まだ何とかなる」


 誰に言うでもないその言葉は、炉の熱に溶けて消えた。


 名もなき集落の朝は、昨日より少しだけ、腹持ちがよかった。


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