第三話 名もなき集落
吹雪が止んだ。
正確には、止んだように見えた。
洞窟の外へ一歩出た瞬間、ヴェスパーはその考えを撤回した。
「……これで止んでるのかよ」
白い大地が、どこまでも続いていた。
空は鈍い鉛色に沈み、太陽らしきものは見えない。あるのは、見渡す限りの氷と、黒く裂けた岩肌と、遠くで唸る風の音だけだった。
吹雪は確かに弱まっていた。
だが、風はまだ刃のように頬を削り、足元の氷は踏みしめるたびに軋んだ。空気そのものが冷たいというより、世界そのものが凍りついているようだった。
吐く息は白くならない。
そもそも自分が息をしているのかどうかも、ヴェスパーにはよくわからなかった。
それでも寒い。
肉体が寒がっているのか、魂が寒がっているのか。
その区別すら、今の彼にはつかなかった。
「王様、こちらです」
前を歩くアガレスが、当然のように言った。
小柄な悪魔は、氷原の上をぴょこぴょこと進んでいる。背丈は子供のようだが、歩みに迷いはない。薄い翼を揺らしながら、ときおり振り返ってはヴェスパーの様子を確かめていた。
「だから、王様じゃない」
「王の石棺より目覚めた方ですから」
「その理屈がわからねえって言ってんだよ」
「細かいことは、いずれ慣れます」
「慣れたくねえ」
ヴェスパーは頭を押さえた。
目覚めたら石棺。
そこは地獄。
自分の名前はない。
と思ったら、どこからか届いた女の声にヴェスパーと名付けられた。
そして目の前のちんちくりんな悪魔には、王様と呼ばれている。
情報量が多すぎる。
しかも、何一つ整理できていない。
「俺は、結局なんなんだ」
ぽつりと漏らす。
問いかけた相手は、アガレスではなかった。
けれど、アガレスは答えた。
「王様です」
「お前には聞いてねえ」
「では、知識の悪魔として申し上げます」
アガレスは足を止め、振り返った。
金色の瞳が、氷の光を受けて細く輝く。
「いまの王様は、記憶を失い、名を得たばかりの存在です。ですが、知識の残滓は残っている。判断し、疑問を持ち、構造を見ようとしている」
「構造?」
「ええ。物事の仕組みです。王様は先ほどから、この氷原をただ寒いとは見ていません。なぜこうなっているのか、どこに原因があるのか、どうすればましになるのか。そういう目で見ております」
「……そうか?」
「そうです」
言われて、ヴェスパーは周囲を見渡した。
確かに、ただ寒いとは思っていない。
道がない。
風除けがない。
明かりがない。
目印もない。
足場は悪く、どこに裂け目があるのかもわからない。
こんな場所で暮らせるわけがない。
というか、移動するだけで命がけだ。
「ひどい環境だな」
「第九圏ですので」
「説明になってねえ」
「地獄ですので」
「もっと説明になってねえ」
ヴェスパーは顔をしかめた。
地獄だから苦しくて当然。
そう言われて納得できるほど、彼は従順ではなかった。
苦しいなら、どうにかする。
寒いなら、暖める。
危ないなら、避けられるようにする。
そう考えることの何が悪いのか。
そこで、ヴェスパーはまた違和感を覚えた。
なぜ、そんなふうに考える。
自分は誰だ。
何をしていた。
何を知っている。
何も思い出せない。
なのに、考え方だけが残っている。
まるで、手足に染みついた癖のように。
「……気持ち悪いな」
「体調が悪いのですか?」
「違う。自分がだ」
「では正常です。己を疑える者は、まだ壊れておりません」
「悪魔に正常って言われてもな」
そう返したときだった。
風の音に混じって、甲高い悲鳴が聞こえた。
ヴェスパーは足を止めた。
「今の、なんだ」
アガレスも耳を動かす。
次の瞬間、もう一度悲鳴が響いた。
子供の声だった。
ヴェスパーは反射的に走り出していた。
「あ、王様。そちらは――」
「声がした!」
氷の上を蹴る。
足が滑る。
転びかける。
それでも走った。
前方の黒い岩場の陰から、小さな影が転がるように飛び出してきた。
小さな悪魔だった。
角は短く、翼もまだ薄い。灰色の肌をした子供のような悪魔が、必死に氷原を這うように逃げている。
その背後から、巨大な犬のような魔獣が飛び出してきた。
骨ばった四肢。
裂けた口。
氷の上を爪で削りながら走る姿は犬に似ているが、背中には黒い棘が並び、目は赤く燃えていた。
そして、そいつの口から炎が漏れていた。
「火!?」
ヴェスパーは思わず叫んだ。
「第九圏なのに、火を吹くのかよ!」
「火獄犬の類ですね」
追いついてきたアガレスが、妙に冷静に言った。
「地獄の各圏より流れ着く魔獣の一種です。火を持っておりますが、暖を取るための火ではございません。焼き、奪い、追い立てるための火です」
「最悪じゃねえか!」
火獄犬が口を開いた。
赤い炎が吐き出される。
小悪魔は悲鳴を上げて転がった。炎はそのすぐ横を舐め、氷の表面を黒く焦がす。
だが、氷は溶けない。
焦げてもなお、そこに残っている。
「どういう氷だよ……!」
ヴェスパーは近くに落ちていたものを掴んだ。
凍りついた枝だった。
いや、枝なのか骨なのかもわからない。黒く曲がった棒状の何かが、氷に半分埋まっている。
彼はそれを力任せに引き抜いた。
火獄犬が小悪魔へ飛びかかる。
「伏せろ!」
小悪魔がびくりと身を縮めた。
ヴェスパーは横から飛び込み、凍った枝を火獄犬の頭へ叩きつけた。
鈍い音がした。
火獄犬の頭がわずかに逸れる。
同時に、枝が真ん中から折れた。
「武器が脆すぎるだろ!」
ヴェスパーは折れた枝を見て叫んだ。
火獄犬が唸る。
赤い目がヴェスパーを捉えた。
「あ、やべ」
次の瞬間、火獄犬が突進してきた。
ヴェスパーは残った枝を構えたが、構え方などわからない。剣術も槍術も覚えていない。体が勝手に動くこともなかった。
だから、思いきり横に転がった。
火獄犬の爪が、直前まで彼の胴があった場所を裂く。
氷の破片が飛び散った。
避けたつもりだった。
だが、遅い。
右腕に熱い痛みが走った。
「っ……!」
血は出なかった。
代わりに、傷口から黒い靄のようなものが滲む。
痛い。
自分が何者かもわからないくせに、痛みだけは妙にはっきりしている。
枝は折れた。
魔法は使えない。
剣もない。
体の動かし方すら、まともにわからない。
それでも、背後には小さな悪魔がいる。
「くそ……」
ヴェスパーは折れた枝を握り直した。
「何もできねえからって、どく理由にはならねえだろ」
「王様、少々頭を下げてください」
「少々ってどのくらいだよ!」
「できるだけです」
「雑!」
文句を言いながら、ヴェスパーは頭を下げた。
直後、空気が変わった。
アガレスの小さな体から、赤黒い魔力があふれ出す。
それは炎の形をしていなかった。
だが、周囲の氷を照らし、風の流れを歪ませ、火獄犬の唸り声を一瞬だけ止めた。
ヴェスパーは思わず横目でアガレスを見る。
さっきまで無邪気に歩いていた小さな悪魔が、まるで別物に見えた。
金色の瞳が細く光る。
翼の先から赤黒い火の粉が散る。
アガレスは静かに手を前へ向けた。
「黒炎弾」
静かな声だった。
だが、放たれた炎は静かではなかった。
赤黒い火球が、ヴェスパーの頭上を唸るように通り過ぎる。
それは火獄犬の顔面に直撃した。
黒い炎が弾けた。
魔獣が悲鳴のような鳴き声を上げ、後退する。
焦げた肉の臭いが、冷たい空気の中に漂った。
「火に火って効くのか?」
「火獄犬の火より、私の黒炎の方が少々質がよろしいので」
「少々じゃねえだろ、それ」
「黒炎ですから」
「説明になってねえ」
火獄犬は怯んだ。
だが、まだ逃げない。
ヴェスパーは折れた枝を握り直す。
短い。
軽い。
頼りない。
それでも、ないよりはましだ。
「おい、こっち見ろ」
ヴェスパーは火獄犬の前に出た。
小悪魔を背に隠す。
「弱いやつ追い回してんじゃねえよ」
火獄犬が唸り、炎を吐こうと口を開ける。
その瞬間、アガレスが再び魔力を高めた。
赤黒い火の粉が、氷原の上に散る。
「黒炎弾」
二発目の黒炎弾が、火獄犬の口元で爆ぜた。
焼けた臭いが、さらに濃くなる。
魔獣はたまらず後退し、氷原に爪痕を残して逃げ出した。
黒い影が遠ざかる。
やがて、風と氷の向こうに消えた。
アガレスの周囲に漂っていた赤黒い魔力が、ゆっくりと収まっていく。
ヴェスパーはしばらく構えたまま動かなかった。
完全に見えなくなってから、ようやく息を吐く。
「……勝った、でいいのか」
「追い払いましたね」
「勝ったとは言わねえのか」
「王様が枝を折ったところまでは見事でした」
「そこ褒めるとこじゃねえ」
ヴェスパーは折れた枝を放り捨てた。
そして振り返る。
小悪魔は氷の上に座り込んだまま、震えていた。
寒さか、恐怖か。
おそらく両方だ。
ヴェスパーは膝をつき、目線を合わせた。
「怪我は」
小悪魔はびくりと肩を震わせる。
「……だ、だいじょうぶ」
「歩けるか」
「う、うん」
「ならいい。礼はいらない。ここにいたら、また襲われる。集落は近いのか」
小悪魔はこくこくとうなずいた。
「あっち……。案内、できる」
「頼む」
ヴェスパーが立ち上がると、小悪魔は少しだけ迷ってから、彼の服の裾を掴んだ。
服、と呼んでいいのかはわからない。
石棺から出たときから身につけている、黒い布のようなものだ。
だが、小悪魔はそれを必死に掴んでいた。
ヴェスパーは何か言いかけた。
けれど、やめた。
そのまま歩き出す。
アガレスが横に並び、にこにこと笑った。
さっきまでの魔力の圧は、もうほとんど感じない。
だがヴェスパーの頭には、黒炎弾を放ったときのアガレスの姿が残っていた。
こいつ、見た目通りの小悪魔じゃない。
今さらながら、そう思う。
「すでに民をお救いになりましたね、王様」
「今のはたまたまだ」
「王の資質とは、たまたま手を伸ばせることでもあります」
「うるせえ」
小悪魔が、二人のやりとりを不思議そうに見上げていた。
それから、少しだけ震えが小さくなった。
氷原をしばらく進むと、黒い影が見えてきた。
最初は岩かと思った。
だが近づくにつれて、それが氷壁で囲まれた小さな集落だとわかった。
集落。
そう呼ぶには、あまりにも頼りない場所だった。
黒い石を積み、魔獣の骨を組み、ところどころに折れた鎖を絡ませている。氷壁は風除けにはなっているが、隙間だらけだ。家らしい家は少なく、ほとんどが岩陰に布や皮をかけただけの避難所だった。
中央には、小さな火種があった。
火と呼ぶには弱すぎる。
黒い石で囲ったくぼみの中で、赤い光がかろうじて揺れている。
その周りに、悪魔たちが身を寄せ合っていた。
角の折れた者。
翼の凍りついた者。
腕を抱えて震える者。
子供のような小悪魔もいれば、老人のように見える悪魔もいる。
誰も彼も、疲れきっていた。
ヴェスパーは思わず呟いた。
「村っていうより、遭難者の避難所だな」
言ってから、少し後悔した。
だが、実際そう見えた。
暮らしている場所ではない。
ただ、消えないために集まっている場所だった。
小悪魔が集落の中へ駆け込む。
それに気づいた悪魔たちが顔を上げた。
「ニム!」
低く、しわがれた声が響いた。
奥の岩陰から、一人の老悪魔が姿を現した。
白髪。
白い髭。
深く刻まれた皺。
折れた片角。
凍りついた翼。
骨で作った杖を手にしている。
老いた騎士。
ヴェスパーは、そう思った。
体は痩せ、力は衰えている。
だが、背筋はまだ折れていない。
目には、消えかけながらも確かな威厳が残っていた。
老悪魔は小悪魔――ニムを抱き寄せると、その体を確かめた。
無事だとわかると、ゆっくりとヴェスパーへ向き直る。
「この子を、助けてくださったのか」
「たまたま通りかかっただけだ」
「それでも、礼を申し上げる。ニムは、この集落では数少ない若い命だ」
老悪魔は骨杖をつき、深く頭を下げた。
「私はフルカス。この名もなき集落を預かる者だ」
「ヴェスパーだ」
自分の名を口にした瞬間、胸の奥にわずかな違和感が走った。
ついさっき得たばかりの名。
それでも、不思議と口には馴染み始めている。
フルカスは頷き、それからアガレスを見た。
その表情が、目に見えて変わった。
「まさか……アガレス様では」
「お久しぶりです、フルカス殿」
アガレスは軽く手を上げた。
気楽な挨拶だった。
だが、集落の空気は一気に変わった。
悪魔たちがざわめく。
何人かは、信じられないものを見るようにアガレスを見ていた。
ヴェスパーは眉をひそめる。
「お前、有名なのか」
「知識の悪魔ですので」
「そのわりに見た目は子供だな」
「知識に身長は必要ありません」
「それはまあ、そうか」
フルカスはアガレスとヴェスパーを交互に見た。
「アガレス様。その方は……」
「王の石棺より目覚めた方です」
集落が静まり返った。
風の音だけが、氷壁の隙間を鳴らした。
フルカスの目が見開かれる。
「王の、石棺……」
「ええ」
「馬鹿な。あれは、もはや伝承ですらない。誰も近づけぬ氷の底に沈んだ、失われた玉座の名残だと……」
「その中で眠っておられました」
「おい」
ヴェスパーは口を挟んだ。
「俺抜きで納得するな。俺はまだ何も納得してない」
アガレスは笑顔のままだ。
「王様はそうおっしゃっております」
「だからその呼び方も納得してねえ」
フルカスはしばらくヴェスパーを見ていた。
疑い。
驚き。
期待。
恐れ。
そのすべてが、老いた瞳の中で揺れている。
だが、フルカスはすぐに膝をつかなかった。
代わりに、静かに頭を下げた。
「事情は、後ほど伺いましょう。今は、客人として迎えます」
「客人ってほど立派なもんじゃないだろ、ここ」
「ええ」
フルカスは苦く笑った。
「おっしゃる通りです」
その声には、自嘲があった。
ヴェスパーは中央の火種を見る。
悪魔たちは、その小さな熱に群がっている。
だが、火の周囲にいる者でさえ震えていた。
「あの火、弱すぎないか」
「燃やすものがありません」
フルカスが答えた。
「魔獣の骨、古い鎖、黒石に残るわずかな魔力。それらを削りながら、どうにか火種を保っております」
「食い物は」
「粥を」
フルカスが中央の隅を示した。
そこには黒い鍋のようなものがあり、灰色の液体がわずかに揺れていた。
匂いはほとんどない。
湯気も立っていない。
「粥っていうか、水じゃねえか」
「悪魔は人とは異なります。肉の糧よりも、精神と魔力の維持が重要です。ですが……」
フルカスは周囲を見た。
「弱き者ほど、この寒さに精神を削られます。魔力を保てず、形を保てず、やがて氷に呑まれる」
「死ぬのか」
「消える、と言うべきでしょう」
ヴェスパーは黙った。
集落の悪魔たちを見る。
彼らは魔物ではない。
少なくとも、今のヴェスパーにはそう見えなかった。
寒さに震え、火にすがり、薄い粥を分け合う者たち。
人間と何が違う。
いや、人間か悪魔かなど、今はどうでもいい。
この環境が終わっている。
それだけはわかった。
「この村、よく持ってるな」
「持っている、というよりは」
フルカスは目を伏せた。
「まだ崩れきっていないだけです」
ヴェスパーは中央の火種へ近づいた。
火は小さい。
周りを石で囲っているが、隙間だらけだ。
風が入り、熱が逃げる。
燃え方も安定していない。
煙は低く漂い、周囲の悪魔たちの顔にまとわりついている。
見れば見るほど、ひどい。
「……囲えばいい」
言葉が、自然に出た。
アガレスが目を細める。
「王様?」
「火をそのまま置くから熱が逃げる。囲う。空気の通り道を作る。煙は上に逃がす。熱は内側に溜める」
ヴェスパーはしゃがみ込み、黒石を手に取った。
重い。
だが使える。
次に、折れた鎖を見る。
骨もある。
鉄屑らしきものもある。
「炉だ」
口にした瞬間、ヴェスパーは固まった。
炉。
なぜ、その言葉を知っている。
なぜ、構造が頭に浮かぶ。
燃焼室。
通気。
排気。
蓄熱。
断熱。
知らないはずの言葉が、思考の底から次々と浮かび上がってくる。
「なんで俺、炉なんて知ってるんだ」
ヴェスパーは自分の右手を見た。
答えはない。
だが、案は止まらなかった。
目の前に材料がある。
火がある。
寒さに震える者たちがいる。
なら、やることは一つだ。
「アガレス」
「はい、王様」
「術式で補助できるか」
「できます」
「フルカス。使っていいものを集めろ。黒石、鉄屑、骨、鎖。壊れてるもんでいい。いや、壊れてるもんがいい」
フルカスは驚いたように目を瞬かせた。
「何をなさるおつもりで」
「暖房を作る」
「だん……?」
「暖を取る仕組みだ。火を無駄にしない形にする」
ヴェスパーは立ち上がった。
「立派なもんじゃない。ただの間に合わせだ。でも、今よりはましになる」
フルカスはしばし彼を見た。
やがて、骨杖を強く握る。
「皆、聞け。使えぬ黒石を集めよ。折れた鎖もだ。魔獣の骨も持ってこい」
悪魔たちが顔を見合わせる。
だが、すぐに動き始めた。
動きは遅い。
体力もない。
それでも、一人、また一人と資材を運んでくる。
ニムも小さな骨片を抱えて戻ってきた。
ヴェスパーの前にそれを置き、すぐにフルカスの背後へ隠れる。
「それも使える。助かる」
ヴェスパーが言うと、ニムは目を丸くした。
それから、小さく頷いた。
作業はひどいものだった。
道具がない。
設計図もない。
材料は不揃い。
ヴェスパー自身、自分が何をどこまで知っているのかもわからない。
それでも、手は動いた。
黒石を積む。
骨を支えにする。
鉄屑で隙間を押さえる。
壊れた鎖を巻いて固定する。
下に空気の入り口を作る。
上には煙を逃がす道がいる。
「鉄の柱みたいなものはないか。まっすぐで、なるべく穴が空いてるやつ」
「折れた拷問柱ならばあります」
「拷問柱を素材にするな。いや、使うけど」
運ばれてきたのは、黒く錆びた鉄柱だった。
ところどころ穴が空き、何かの爪痕のような傷が走っている。
ヴェスパーはそれを見て、煙突にできる、と直感した。
「これを立てる。周りを骨で支える。隙間は……」
「火喰い蜥蜴の皮があります」
フルカスが言った。
「燃えぬ皮です。かつて仕留めたものを、風除けに使っておりました」
「それだ。断熱材にする。外に熱を逃がさない」
「だんねつ……?」
「熱を逃がさない工夫だ。細かい説明は後でいい。鎖で巻け。骨と鉄を固定する」
悪魔たちが、壊れた鎖を引きずってくる。
ヴェスパーは鉄柱と魔獣の骨を組み合わせた。骨は肋骨のように湾曲しており、煙突を支える枠にちょうどいい。
だが、固定が甘い。
少し力を入れると、全体がぐらついた。
「くそ、溶接できれば……」
「ようせつ、とは?」
「金属を熱でくっつけるやつだ」
「それならば、似たことはできます」
アガレスが小さな手をかざした。
赤黒い火が細く伸び、鉄柱と鎖の継ぎ目を舐めるように走る。
炎というより、熱を持った糸のようだった。
じゅ、と嫌な音がした。
錆びた鉄が赤く光り、鎖の輪が鉄柱の表面に沈み込むように癒着していく。
「おお。できるのかよ」
「火を細く絞って、金属の境目を少し緩めています」
「説明が急に専門的だな。要するに溶接っぽいやつか」
「ようせつ、という言葉は存じませんが、概ねそのようなものでしょう」
「器用だな、お前」
「知識の悪魔ですので」
「そこ関係あるのか?」
「大いにあります。火は熱量だけでなく、扱い方が重要です」
「急にまともなこと言うな」
鉄柱と骨の煙突は、鎖で巻き締められ、火喰い蜥蜴の皮で覆われた。
見た目はひどい。
黒い鉄、白い骨、赤茶けた皮、錆びた鎖。
まるで魔獣の死骸を無理やり立たせたような姿だった。
だが、空気は下から入り、煙は上へ抜ける。
火は囲われ、熱は逃げにくい。
ヴェスパーは歪んだ炉を見上げ、腕を組んだ。
「……まあ、初号機としてはこんなもんだろ」
「王様。初号機とは?」
「一回目の失敗前提品だ」
「失敗前提なのですか」
「成功するまで直すんだよ」
アガレスが炉の周囲に指を走らせる。
赤い光の線が刻まれていく。
術式。
ヴェスパーには読めない。
だが、それが火と熱の流れを補助しているのだと、なぜか感覚でわかった。
「火を入れます」
アガレスが手をかざした。
赤黒い炎が、炉の中心に灯る。
ごう、と小さな音がした。
黒石の内側に熱が入り、鉄柱が鈍く赤みを帯びる。骨で組んだ煙突が震え、煙が上へ吸い上げられていく。
悪くない。
ヴェスパーは直感した。
下から空気が入っている。
煙は上に抜けている。
火は囲われ、熱も逃げにくい。
さっきまで地面に置かれていた火種よりは、はるかにましだ。
「……温かい」
誰かが呟いた。
その声を聞いて、悪魔たちが炉に近づいた。
「本当に……」
「火が、逃げていない」
ニムが炉の前にしゃがみ込み、小さな手をかざす。
その顔に、ほんの少しだけ赤みが差した。
ヴェスパーは息を吐いた。
「よし。ひとまず――」
そこで、火が揺らいだ。
黒紅の炎が、一瞬だけ大きくなり、すぐに弱まる。
炉の中の熱が薄い。
届く範囲が狭い。
悪魔たちは確かに温かさを感じている。だが、それは炉のすぐそばだけだ。少し離れた者たちは、まだ肩を抱えて震えている。
ヴェスパーは舌打ちした。
「ダメだ。火力が足りねえ」
アガレスが炉を覗き込む。
「私の火では、着火と補助はできます。しかし、この規模の集落を暖め続けるには足りませんね」
「燃えるものは」
ヴェスパーがフルカスを見る。
フルカスは首を横に振った。
「黒石に残った魔力、魔獣の骨、古い鎖。それらを削って、どうにか火種を保ってきました。これ以上は……」
「ない、か」
ヴェスパーは炉の前にしゃがんだ。
必要なのは、もっと強く燃えるものだ。
ただの火ではない。
火を入れるだけでは足りない。
この炉の中心に置くもの。
燃え続ける芯。
熱を吐き出し、火を安定させ、周囲を暖める核。
「炉心がいる」
また、知らない言葉が口から出た。
ヴェスパーは眉をひそめる。
「……炉心?」
「王様。今の言葉は?」
「知らねえ。でも、そういうものが必要なんだろ。火を置くだけじゃダメだ。中心がいる。燃え続ける何かが」
何かないか。
ヴェスパーは周囲を見回した。
黒石。
骨。
鎖。
燃えない皮。
折れた鉄柱。
どれも材料にはなる。
だが、中心にはならない。
火を受け止める器ではあっても、火そのものにはなれない。
「何か……」
ない。
ここにはない。
なら。
「生み出せばいい」
口に出してから、ヴェスパーは自分で固まった。
何を言っている。
どうやって。
何から。
アガレスの火か。
いや、違う。
あれは火だ。
火を点けることはできる。
鉄と鎖をつなぐこともできる。
けれど、あれだけでは足りない。
火を燃やすための、さらに奥にあるもの。
火が宿る中心。
炉に心臓を入れるようなもの。
「どうやって生み出す……」
ヴェスパーは右手を見た。
さっき、火獄犬を追い払ったとき。
アガレスの火とは別に、自分の中で何かが動いた気がした。
だが、あれは形にならなかった。
ただ、怒りと反射で体が動いただけだ。
それでは足りない。
「さっきのじゃダメだ。あれじゃ、足りない」
炉の火がまた弱まる。
ニムの手が、少し震えた。
悪魔たちの顔から、戻りかけた色が消えかける。
ヴェスパーはその光景を見た。
寒さに震えるだけの集落。
火を前にしても、まだ救われきらない者たち。
どうにかしたい。
その思いが、胸の奥を叩いた。
「もっとだ」
ヴェスパーは呟いた。
「もっと、煌々と燃えるものがいる」
火を大きくするだけでは足りない。
薪をくべるのとも違う。
この炉の中心で、燃え続けるもの。
火を受け止め、熱を吐き出し、この集落全体を暖める心臓。
火を宿す石がいる。
ただ熱いだけではない。
燃え尽きず、砕けず、凍らず、火を抱えたまま脈打つ石。
灼熱の石。
そのときだった。
声が聞こえた気がした。
――そう願えばいい。
誰の声かはわからない。
女の声ではない。
アガレスでも、フルカスでもない。
風の音に紛れた幻聴のようで、氷の底から響く鼓動のようでもあった。
ヴェスパーは歯を見せて笑った。
「そうかよ」
右手を炉へ向ける。
「じゃあ、イメージ通りやってやるさ」
頭の中に形を描く。
黒く、赤く、重く。
ただの石ではない。
火を閉じ込めた核。
凍てつく地獄の底でなお燃え続ける、灼熱の石。
右手の奥が熱を持つ。
いや、右手だけではない。
胸の奥に、ぽっかりと穴が開いたような感覚があった。
その穴が、広がっていく。
肋骨の内側を削り、腹の底をえぐり、背骨の芯まで空にしていく。
視界が白く滲んだ。
音が遠くなる。
フルカスの声も、悪魔たちのざわめきも、風の音も、すべて氷の向こう側へ沈んでいく。
それでも、ニムの震える手だけは見えた。
小さな指が、消えかけた火に向けられている。
それだけは、見失わなかった。
重い。
暗い。
脈打っている。
それは血のように赤く、炭のように黒く、星の欠片のように硬かった。
ヴェスパーの手のひらから、赤黒い物質が滲み出す。
周囲の悪魔たちが息を呑んだ。
アガレスの笑みが消える。
フルカスが骨杖を握りしめる。
赤黒いものは、手のひらの上でゆっくりと固まっていった。
その瞬間、ヴェスパーは自分の中から何かが引き抜かれるのを感じた。
「っ……!」
力が抜ける。
腕だけではない。
足も、腹も、背中も、頭の奥までも。
全身の芯を鷲掴みにされ、炉の中へ引きずり出されるような感覚だった。
それでも、ヴェスパーは手の中の石から目を離さなかった。
まだ足りない。
もっとだ。
燃え続けろ。
凍るな。
消えるな。
この場所を、暖めろ。
手のひらの上で、赤黒い石が脈打った。
表面には黒い亀裂が走り、その奥で紅蓮の光が明滅している。
まるで、地獄の心臓を削り出したような石だった。
「これで……燃えろ」
ヴェスパーはそれを炉の中心へ落とした。
灼熱の石が、炉の底に触れる。
瞬間、炉が鼓動した。
どくん。
黒石が赤く染まる。
どくん。
鎖が震え、鉄柱の奥を炎が駆け上がる。
どくん。
魔獣の骨で組んだ煙突から、黒い煙ではなく、赤い湯気のようなものが噴き上がった。
黒紅の炎が、炉の中で立ち上がる。
それは周囲を焼かなかった。
だが、確かに温めた。
凍りついた空気を押し返し、氷壁の内側に熱を満たしていく。
「……温かい」
ニムが、小さく呟いた。
その声を聞いたところで、ヴェスパーの膝が落ちた。
気づけば、彼は氷の上に片膝をついていた。
息が荒い。
胸の奥が空っぽになったようだった。
自分の体なのに、指先の感覚が遠い。
「王様!」
アガレスが駆け寄ってきた。
珍しく、本気で焦った顔をしている。
「大丈夫ですか、王様!」
「……大丈夫に見えるか?」
「見えません!」
「じゃあ聞くな」
アガレスはヴェスパーの肩に手を伸ばした。
その瞬間、炉から広がる熱気が彼女の頬を撫でた。
「あちちっ」
アガレスは反射的に手を引っ込めた。
ヴェスパーは片膝をついたまま、半眼で見上げる。
「心配するか、焼かれるか、どっちかにしろ」
「心配はしております。ただ、この熱は少々予想外でして」
「少々じゃねえだろ」
アガレスは炉を見た。
その金色の瞳が、黒紅の炎を映している。
いつもの無邪気な笑みは、まだ戻っていなかった。
「赤黒き炉の心臓。凍土を退け、火を抱え、王の願いに応じて生まれた石」
「……おい」
「これは、灼熱炉核と呼ぶべきでしょう」
「今それどころか?」
「名は重要です、王様。名付けられたものは、世界に居場所を得ます」
その言葉に、ヴェスパーは少しだけ黙った。
名付けられたものは、世界に居場所を得る。
つい先ほど、自分もそうだった。
名もないまま石棺から出て、リリスにヴェスパーと呼ばれた。
その名が、今も胸のどこかに残っている。
ヴェスパーは炉を見た。
灼熱炉核。
大げさな名だ。
だが、悪くはない。
「……勝手にしろ」
「では記録いたします。王様が初めて生み出した炉心、灼熱炉核」
「初めてとか言うな。二回目があるみたいだろ」
「あるのでは?」
「この消耗で毎回やってたら死ぬぞ」
「死んだ後の世界ですので」
「それでも嫌だわ」
アガレスが、ようやく少し笑った。
ヴェスパーも息を吐く。
体は重い。
全身が鉛になったようだ。
だが、炉は燃えている。
黒紅の炎は揺らぎながらも消えず、集落を満たしていく。
最初に近づいたのは、ニムだった。
小さな手を炉へかざし、信じられないものを見るように目を丸くしている。
次に、火のそばで丸くなっていた小悪魔が、よろめきながら立ち上がった。
一歩。
また一歩。
倒れそうになりながら、それでも炉へ近づいていく。
角の折れた悪魔が、腕を抱えたまま顔を上げた。
翼を引きずっていた悪魔が、重そうに体を起こした。
岩陰に隠れていた者たちも、布をまとったまま外へ出てくる。
誰も声を張らない。
誰も騒がない。
ただ、赤黒い火に導かれるように、悪魔たちは炉の周りへ集まっていった。
まるで、長い夜の底で初めて星を見つけた者たちのように。
炉の周囲に、輪ができる。
小さな輪だった。
だが、その輪は少しずつ広がっていく。
凍りついていた翼の霜が、ぱき、と音を立てて割れた。
縮こまっていた悪魔が、恐る恐る背を伸ばす。
長く動かなかった指先が、ぎこちなく曲がる。
「……動く」
誰かが、自分の手を見つめて呟いた。
灰色に濁っていた瞳の奥に、炉の炎が映る。
別の悪魔は、自分の翼を見ていた。
凍りつき、ただの重荷になっていた翼が、わずかに震えている。
「魔力が……戻っている」
フルカスが、信じられないものを見るように呟いた。
老悪魔の骨杖が、かたりと氷の上で鳴る。
凍りついていた翼から、白い霜が剥がれ落ちた。
折れた角の根元に、赤い魔力の光が灯る。
深く刻まれていた皺が、少しずつ薄れていく。
白く枯れていた髪に、黒鉄のような色が混じった。
曲がっていた背が、ゆっくりと伸びる。
老人だった。
だが、ただの老人ではなくなっていく。
枯れ木のように細かった腕に、わずかな厚みが戻る。
落ちくぼんでいた頬に力が宿り、濁っていた瞳の奥に、古い炎のような光が戻った。
フルカスは杖から手を離した。
その瞬間、集落の悪魔たちが息を呑む。
彼は倒れなかった。
白髪を残したまま、しかし先ほどよりも明らかに若い姿で立っていた。
全盛期には遠い。
だが、死を待つ老騎士ではない。
戦場を知り、なお剣を取れる初老の騎士が、そこにいた。
「フルカス様……」
誰かが震える声で呟いた。
フルカス自身も、自分の手を見下ろしていた。
指先には、赤い魔力がかすかに脈打っている。
「……戻っている」
フルカスは信じられないものを見るように呟いた。
「削られたはずの力が、戻りかけている」
ヴェスパーは片膝をついたまま、荒い息を吐いた。
「若返り効果まであるのかよ、この炉」
「違います、王様」
アガレスが真顔で言った。
「若返ったのではありません。本来の姿を、少し思い出したのです」
「余計に意味がわからねえ」
「この第九圏の寒さは、肉体ではなく存在を削ります。ならば、この火はその逆。削られた存在の輪郭を、押し戻している」
「暖房器具にしては大げさすぎるだろ」
「王様が作られたものですので」
「責任を押しつけるな」
フルカスが一歩後ずさった。
だが、もう膝は折れなかった。
杖に縋ることもない。
初老の騎士の姿を取り戻した悪魔は、炉を見つめながら低く呟いた。
「第九圏の氷を……押し返している……?」
ぽたり、と音がした。
炉の足元から、水滴が落ちていた。
ヴェスパーはそれを見下ろす。
溶けている。
決して溶けないはずの氷が。
灼熱炉核を抱いた炉の下で、静かに水へ変わっていた。
「氷が……溶けている」
誰かが呟いた。
集落の悪魔たちがざわめいた。
第九圏の氷。
この地獄を覆う、決して溶けないはずの氷。
火獄犬の炎ですら焦がすだけで、溶かすことはできなかった氷。
それが、炉の足元で水になっていた。
アガレスも、珍しく真顔のままだった。
「これは……記録にありません」
「知識の悪魔が知らないのか」
「ええ」
「じゃあ俺に聞くなよ。俺も知らねえ」
ヴェスパーは息を整えながら、炉を見た。
自分が何をしたのか、まるでわからない。
わからないが、炉は燃えている。
黒紅の炎が、名もなき集落の中央で脈打っている。
炉の周りには、いつの間にか集落の悪魔たちが輪を作っていた。
先ほどまでただ寄り添って震えていた者たちが、今は同じ火を見ている。
その中心に、灼熱炉核があった。
ニムが炉のそばからヴェスパーを見上げた。
大きな目が、真っ直ぐに彼を見ている。
そして、小さく呟いた。
「王様」
ヴェスパーは否定しようとした。
違う。
俺は王様じゃない。
そう言うつもりだった。
けれど、言葉は喉で止まった。
ニムの手は、もう震えていなかった。
フルカスが深く頭を垂れる。
アガレスは静かに笑っている。
集落には、湯気が立っていた。
凍りついた骨と黒石と壊れた鎖の隙間から、赤黒い火が揺れている。
それはまだ、小さな火だった。
この広大な氷獄を変えるには、あまりにも頼りない。
けれど、確かにそこにある。
その日、名もなき集落に、初めて火が灯った。
ヴェスパーは片膝をついたまま、赤黒く脈打つ炉を見つめていた。
まだ、何も始まっていない。
名前も、記憶も、自分の力の正体もわからない。
それでも、この凍りついた地獄で何かが動き始めたことだけは、確かに感じていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
もし面白いと感じていただけたら、
ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。
今後ともよろしくお願いいたします。




