第二話 氷獄の名
石棺の間を抜ける風は、死んだように静かだった。
男は神殿の外へと続く大きな裂け目を見上げ、思わず顔をしかめた。
中にいるだけでも寒かったが、外から吹き込んでくる空気は、その比ではない。肌を刺すというより、骨の奥まで直接削ってくるような冷たさだった。
「……本当に出るのか、ここ」
隣を歩くアガレスは、相変わらず場違いなほど朗らかな声で答えた。
「はい。外に出なければ何も始まりませんので!」
「何も始まらないってのが、一番平和な気もするがな……」
ぼやきながらも、男は足を止めなかった。
背後には、自分が目覚めた石棺と、無数の棺が眠る巨大な神殿がある。あの場所に戻ったところで、何かがわかる気もしなかった。
むしろ、今は外を見ておきたかった。
自分がどこにいるのか。
ここが何なのか。
そして、なぜ自分がこんな場所で目を覚ましたのか。
その答えが、少しでも転がっているかもしれない。
男は神殿の外へと一歩踏み出した。
瞬間、白い風が全身を叩きつけた。
「うおっ……!」
思わず腕で顔を庇う。吹雪だ。
ただの雪ではない。細かな氷の粒が刃みたいに頬を切り、服の隙間から容赦なく入り込んでくる。地面も空も白に埋め尽くされ、遠くの景色など何ひとつ見えない。
「……なんだよ、これ」
男は目を細めた。
神殿の外に広がっていたのは、ただの雪原ではなかった。
凍てついた世界そのものだ。
見渡す限り、白と灰の氷原。
大地はひび割れた氷に覆われ、ところどころに黒い岩が突き出している。空は低く、分厚い雲に閉ざされ、光はほとんど差し込まない。吹きつける風は生き物の息遣いみたいに唸り続け、神殿の巨大な影すら飲み込もうとしていた。
「……本当に地獄だな」
思わず、そんな言葉が漏れた。
アガレスはそれを聞いて、少しだけ笑う。
「はい。ここは地獄の第九圏。最果ての氷獄です」
「氷獄、ね……。もうちょっとこう、火とか溶岩とか、いかにも地獄っぽいもん想像してたんだが」
「わかります。ですが、現実はご覧の通りでして」
「笑い事じゃねえだろ。寒いんだよ」
言っているそばから、指先の感覚が薄れていく。
男は肩をすくめ、襟元を押さえた。だが当然、布一枚でどうにかなる寒さではない。
そのときだった。
空が、光った。
白銀の世界に、異質な光が差し込む。
雲のさらに向こう、この世界を塞ぐ天井そのものが裂けたようだった。
光の裂け目から、無数の白い翼が吹雪を裂いて降りてくる。
ラッパのような高い音が響き、凍てついた空気を震わせた。
祝福の音ではない。胸の奥に直接突き立つような、裁きの音だった。
「おいおい、なんだありゃ……」
男は呆然と呟いた。
天使の群れの中心に、ひとりの女がいた。
なすすべもなく空中に浮かび、長い黒髪を風に乱している。白い肌、どこか人ならざる気配をまとった女。距離があるせいで顔までははっきり見えない。だが、なぜか目を離せなかった。
「……あれ、誰だ?」
男は思わず呟く。
アガレスが横目で男を見る。
「知り合いですか?」
「知らねえよ。……いや、でも」
言葉が続かない。
見覚えがあるわけじゃない。名前も知らない。けれど、胸の奥がざわついた。あの女を見過ごしてはいけないような、そんな妙な感覚があった。
その直後、眩い光が走る。
女の手足に、幾重もの光の鎖が巻きついた。
「っ……!」
女が苦しげに身をよじる。
だが鎖は容赦なく締まり、その身体を空中に磔にするように拘束した。
「おいおい、なんだよそれ」
「連行でしょうね」
「連行? 誰を、どこにだよ。ていうか、あの女は何なんだ」
アガレスは空を見上げたまま、肩をすくめた。
「少なくとも、ただの悪魔ではなさそうですが」
「お前、知ってるのか」
「知っていることと、今ここで言ってよいことは別ですので」
「急に面倒なこと言うなよ」
男が顔をしかめた、そのとき。
天使たちが左右に割れた。
その奥から、ひとりの男が姿を現す。
背に広がるのは、八枚の白翼。
光の中に立つその男は、天使というより、もはや一つの現象だった。壮年の顔には深い皺が刻まれ、その眼差しには一片の揺らぎもない。白い法衣は吹雪の中でも乱れず、ただそこに立っているだけで、周囲の空気が張り詰めていく。
「……今度はなんだ」
男は呻くように言った。
「アガレス。あれは誰だ」
「メタトロンです」
「誰だよ、それ」
「天の書記官。神の代行者。要するに、非常に面倒な相手です」
「……その説明で、ろくでもない相手なのはわかった」
男が吐き捨てるように言った直後、メタトロンの声が響いた。
低く、澄み切った声だった。
だがそこには慈悲の色はなく、氷よりも冷たい断罪だけがあった。
「――リリス。汝は、さらなる罪を重ねた。わかっておるな」
リリス。
その名が響いた瞬間、男の胸がどくりと脈打つ。
拘束された女――リリスは、苦しげな姿勢のまま、それでも顔を上げた。
口元に、かすかな笑みすら浮かべている。
「必要なことだったわ」
その声を聞いた瞬間、男の背筋にぞくりとしたものが走った。
――この声だ。
石棺の中で、自分を呼んだ声。
暗闇の底から、こちらへ手を伸ばすように届いた声。
聞き覚えがあるはずなどない。
何も思い出せない。自分の名前すら知らない。
それなのに、その声だけは胸の奥に引っかかっていた。
懐かしいのか。
腹立たしいのか。
それとも、ただ怖いのか。
自分でもわからなかった。
「……おい」
男は思わず前に出る。
「あの声……」
アガレスが、わずかに目を細めた。
「気づかれましたか」
「気づくも何も、あいつ……!」
だが、言葉の続きを口にする前に、メタトロンの宣告が重なった。
「認めるのだな」
「ええ」
リリスは光の鎖に縛られたまま、まっすぐに答えた。
「あなたたちにとっては罪でしょうね。けれど、わたしにとっては必要なことだった。それだけよ」
天使たちの間に、わずかなざわめきが走る。
メタトロンはしばし黙した。
「そうか」
たった一言。
それだけで、周囲の空気がさらに冷え込んだように感じた。
「リリス。汝は魂の理に背き、裁きの秩序を乱した」
空間が軋むような音を立てた。
リリスの周囲に、巨大な光の輪が幾重にも展開する。円環は瞬く間に重なり、まるで一つの牢獄のように彼女を包み込んでいく。女の身体が、その中心へと引きずり込まれていくのが見えた。
「その罪により――汝を、深淵へ封ずる」
「深淵……?」
意味はわからない。
だが、ろくでもない言葉だということだけはわかった。
「おい、待てよ!」
男は叫んだ。
なぜ叫んだのか、自分でもわからない。ただ、あのまま連れていかせてはいけない気がした。
リリスが、こちらを見る。
吹雪と光の向こうで、その瞳だけがはっきりと男を捉えた。
「ごめんね」
柔らかな声だった。
さっきまで裁かれていた女とは思えないほど、穏やかな声。
「もっと色々伝えたかったけれど……」
光の輪が、さらに閉じていく。
リリスの姿が薄れていく。
それでも彼女は、まっすぐ男を見つめたまま言った。
「あなたの名前は、希望を込めて――ヴェスパーよ」
その瞬間、世界が静止したように思えた。
ヴェスパー。
その名だけが、氷の世界に落ちる。
次の瞬間、光の牢獄が完全に閉じた。
リリスの姿は消え、残ったのは空を裂く眩い残光だけだった。
「……っ」
男――いや、ヴェスパーは、しばらく言葉を失った。
自分に向けられた言葉だった。
間違いなく、あの女は自分に名を与えたのだ。
ヴェスパー。
口の中でその名を転がしてみる。奇妙なくらい、しっくりきた。最初からそこにあったはずのものが、ようやく空いた場所にはまり込んだみたいに。
「ヴェスパー……」
「よいお名前ですね、王様!」
アガレスがぱっと顔を輝かせた。
「お前はちょっと黙ってろ」
反射的にそう返しながらも、ヴェスパーの視線は空に釘付けのままだった。
メタトロンが、こちらを見ていた。
遠く離れているはずなのに、その視線だけは妙に鮮明だった。
観察するような、値踏みするような、あるいは――何かを確かめるような目。
だが、それも一瞬だった。
メタトロンは何も言わず、翼を広げる。
無数の天使たちとともに、その姿は光の中へ溶けるように消えていった。裂けた天井も閉じ、ラッパの音も消える。残ったのは、元通りの吹雪だけだった。
あまりに急で、あまりに一方的な幕引きだった。
「……なんだってんだよ」
ヴェスパーは呆然と呟いた。
さっきの女は誰だ。
リリス。自分を石棺から呼び起こし、勝手に名前をつけて、天使に連れていかれた女。
あの天使は誰だ。
メタトロン。天の書記官。神の代行者。非常に面倒な相手。
そして、自分は何者なのか。
問いばかりが増えていく。
答えは、ひとつもない。
「王様、さすがにそろそろまずいです」
アガレスの声で、ヴェスパーは我に返った。
「まずい?」
「凍えます」
「それは見りゃわかる」
言われてみれば、さっきから身体の震えが止まらない。
あまりの出来事に気を取られていたが、冷気は容赦なく体温を奪い続けていたらしい。指先は痺れ、足の感覚も怪しい。
「近くに身を隠せる洞窟があります。ひとまず、そこで寒さを凌ぎましょう」
「……そうしてくれ。今はもう、考えるのもしんどい」
「では参りましょう!」
アガレスに先導され、ヴェスパーは吹雪の中を歩き出した。
神殿から少し離れた岩場の陰に、小さな洞窟が口を開けていた。中は思ったより広く、風もいくらか防げる。奥へ進むと、アガレスが手をかざした。
ぽっと、火が灯る。
赤い小さな炎。
それだけで、洞窟の中の空気が少しだけ和らいだ。
「……助かる」
ヴェスパーは岩壁にもたれかかり、大きく息を吐いた。
冷え切っていた身体に、じわじわと熱が戻ってくる。火は小さい。だが、それでも十分ありがたかった。
「便利だな、その火」
「悪魔ですので」
「便利の一言で済ませていい能力じゃねえな」
アガレスは楽しそうに笑い、火のそばに腰を下ろす。
ヴェスパーも少し距離を詰め、両手をかざした。火の熱が指先に染み込んでいく。
しばらく無言の時間が流れた。
だが、黙っていればいるほど、頭の中にさっきの光景が戻ってくる。
リリスの顔。メタトロンの視線。深淵。
そして――ヴェスパーという名前。
「……なあ、アガレス」
「はい、王様」
「さっきの女、リリスって言ったか」
「言いましたね」
「誰なんだ」
アガレスは、火の揺らぎを見つめたまま答えた。
「第九圏において、その名を知らぬ者はいない――と言いたいところですが、実際には知らぬ者もいるでしょうね」
「答えになってねえ」
「ええ。まだ、答えるべきではないと思っているだけです」
「お前、そういうところあるよな」
ヴェスパーは眉間を押さえた。
「じゃあ、あの天使。メタトロンとかいうのは?」
「天の書記官。神の代行者。魂の記録と裁定を司る者です」
「……つまり、本当に偉いんだな」
「そして非常に面倒です」
「そこは一貫してるんだな」
火を見つめながら、ヴェスパーは吐き捨てるように言った。
「深淵ってのは、なんなんだ」
「地獄のさらに下――という言い方は、少し違いますね」
アガレスは顎に手を当てた。
「地獄が罪を背負った魂の行き着く先だとすれば、深淵は、その秩序から外れたものが沈められる場所です」
「よくわからん」
「簡単に言えば、閉じ込めるための場所です。処罰というより、封印に近い」
「……なるほどな。余計に嫌な響きだ」
リリスはそこへ封じられた。
メタトロンがわざわざ出てきて、天使の大群まで引き連れて。
それだけの存在だということだ。
「で、俺は?」
ヴェスパーは火の揺らぎを見つめたまま問う。
「俺は何なんだ。あいつは俺を呼んだ。勝手に名前までつけた。王様だの石棺だの、お前もさっきからわけのわからんことばっかり言ってる。俺は何をすればいいんだ」
問いは、ほとんど独り言に近かった。
アガレスは少しだけ考えるように目を伏せ、それから静かに言う。
「王様が何者かは、いずれご自身で知ることになるでしょう」
「そこは結局ぼかすんだな」
「ですが、少なくともひとつだけ言えることがあります」
「なんだよ」
「この第九圏は、今のままでは長く持ちません」
ヴェスパーは眉をひそめた。
「長く持たない?」
「ええ。寒さ、飢え、魔力の枯渇。ここは、ただ生きているだけで削られていく場所です」
火が小さく揺れる。
ヴェスパーは洞窟の外を見た。吹雪は相変わらず唸り声を上げている。
あの氷の世界で、ただ生きるだけでも地獄なのは、少し外に出ただけで嫌というほどわかった。
「……みんな、こんな中で生きてるのか」
「はい」
「お前みたいに火を出せるやつばっかりじゃねえのか」
「そんなに便利な悪魔ばかりなら、もっと楽しい地獄になっていたでしょうね」
「それはそれで嫌だな」
ヴェスパーは小さく息を吐く。
「悪魔って、飯食うのか?」
「食べますよ」
「食うんだな」
「ただし、人間のように栄養のために食べるわけではありません。悪魔は精神生命体ですので」
「精神生命体」
「食事は、精神と魔力を保つために必要な補給です。食べなくてもすぐ消えるわけではありませんが、精神が摩耗し、理性や魔力が削れていきます」
「腹じゃなくて、心が減る感じか」
「雑ですが、概ねその通りです」
ヴェスパーは火を見つめた。
精神と魔力を保つための食事。
寒さで削られ、食えなければさらに削られる。そりゃ長く持たないわけだ。
「この辺に、悪魔が住んでるような場所はあるのか」
「はい。この近くだと、名もない小さな集落があります」
「名もないのかよ」
「第九圏では珍しくありません。名乗る余裕も、名を誇る理由も失った者が多いので」
淡々と告げられた言葉に、ヴェスパーは少しだけ黙った。
名もない集落。
寒さに震えながら、精神を削られ、なんとか生きている悪魔たち。
脳裏に、外の氷原が浮かぶ。
あんな場所で、ただ耐えているだけの連中がいるのだ。
「……ずっとこうなのか? ここは」
「第九圏は、ええ。少なくとも私が知る限り、ずっと」
「みんな凍えてるだけか」
「強い者はまだしも、弱い者はそうですね」
ヴェスパーは火を見つめた。
小さい炎だ。それでも、さっきまで死にそうだった身体を少しずつ生き返らせてくれる。
「なあ」
「はい、王様」
「その火、俺にも出せないのか」
アガレスがきょとんと目を丸くした。
「さあ」
「おい」
「王様も悪魔であるなら、不可能ではないと思いますが」
「適当だな」
「知識はありますが、王様の中身まではわかりませんので」
ヴェスパーは火の向こう、洞窟の外へ目を向けた。
吹雪の向こうには、名もない集落がある。寒さに震え、精神を削られながら生きている悪魔たちがいる。
さっきまでの自分だって、たぶん同じだ。
この火がなければ、今ごろここで凍えていたかもしれない。
「……こんな場所で、ただ凍えてるだけってのは気に入らねえな」
ぽつりと漏らした言葉に、アガレスが目を細める。
「おや」
「なんとかならねえのか、って話だ」
「王様らしいお言葉ですね」
「どの辺がだよ。俺はまだ王様ってのにも納得してねえぞ」
「ですが、気になるのでしょう?」
ヴェスパーは答えなかった。
気になる。
それは否定できない。
リリスのことも、メタトロンのことも、自分のこともわからない。
だが、それとは別に、この第九圏の有様は妙に引っかかった。あまりにも寒々しく、あまりにも何もかもが止まっている。
吹雪が止んだら、その集落に行ってみるか。
そんな考えが、自然と浮かんでいた。
「……吹雪が収まったら、その集落に行くぞ」
アガレスがぱっと顔を上げる。
「おお、ついに王様の視察が!」
「視察ってほど偉そうなもんじゃねえよ。ただ、このまま洞窟で凍えてるよりはマシだ」
「十分立派なご決断です!」
「うるせえ」
そう言いながらも、ヴェスパーは火に手をかざしたまま、外の風の音に耳を澄ませた。
吹雪はまだ強い。
だが、永遠に続くわけでもないだろう。
吹雪が止めば、名もない集落へ向かう。
そこで何ができるかはわからない。
けれど、ただ凍えているだけの地獄なら。
「……ひとつくらい、文句をつけても罰は当たらねえだろ」
火の揺らめきが、洞窟の壁に小さな影を揺らした。
外ではなお、氷の風が地獄を鳴らしていた。
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