第一話 棺の底で目覚める
音がした。
乾いた、ひどく軽い音だった。
最初、それが何の音なのか分からなかった。
何かが破裂したような。
手を叩いたような。
遠くで、枝でも折れたような。
そんな、日常のどこかに紛れてしまいそうな音。
けれど次の瞬間、胸の奥に火が灯った。
息を吸おうとしたが、肺は動かなかった。喉が鳴るだけで、空気は一滴も入ってこない。
代わりに、口の中へ鉄の味が広がった。
苦い。
熱い。
気持ち悪い。
視界が傾く。
床が近づいてくる。
ああ、倒れるんだ。
そう理解するより早く、膝から力が抜けた。
身体が崩れる。
受け身を取ることもできなかった。
手をつくことも、声を出すことも、何もできなかった。
目の前が赤くなっていく。
血だ。
自分の血だ。
分かっているのに、どこか現実味がなかった。
赤い。
ただ、赤い。
世界が赤に沈んでいく。
その向こうに、女性の姿が見えた。
誰かが、こちらを見ていた。
泣いていたのか。
叫んでいたのか。
怒っていたのか。
分からない。
耳鳴りがひどくて、何も聞こえなかった。
ただ、その顔だけが焼きついた。
名前を呼ぼうとした。
呼ばなければならないと思った。
けれど、その名前が喉まで上がってこない。
知っているはずなのに。
大切だったはずなのに。
何よりも先に呼ぶべき名前だったはずなのに。
掴もうとした瞬間、記憶が指の隙間から零れ落ちていく。
やめろ。
消えるな。
忘れたくない。
そう思った。
けれど、思うだけだった。
身体はもう、自分のものではなかった。
指先から感覚が薄れていく。
胸の奥だけが、焼けるように熱を持っている。
頭の奥では、何か大切なものが壊れる音がしていた。
ああ。
死ぬのか。
ひどく唐突に、そう思った。
人生の終わりというものは、もっと劇的なものだと思っていた。
走馬灯のように思い出が流れるとか。
最後に何かを悟るとか。
誰かに想いを伝える時間があるとか。
そんなものは、なかった。
呼吸ができない。
身体が動かない。
視界が狭くなる。
恐怖だけが、最後までしつこく残っている。
死にたくない。
そう思った。
強く、思った。
まだ終わりたくない。
まだ言っていないことがある。
まだ返していないものがある。
まだ謝っていない。
なのに、目の前の女性の姿が薄れていく。
赤の中に溶けていく。
待て。
行くな。
違う。
俺が、行くのか。
口が動いた。
声になったのかは分からない。
それでも、最後に残った言葉はそれだった。
「……すまない」
届いたかどうかは分からない。
届いてほしいと思った。
けれど、もう確かめることはできなかった。
視界が暗くなる。
赤が黒に呑まれていく。
熱も、痛みも、耳鳴りも、床の硬さも、自分の身体の重さも、少しずつ遠ざかっていった。
意識が落ちていく。
深く。
深く。
どこまでも深く。
そして、何もなくなった。
完全な闇だった。
上も下もない。
前も後ろもない。
身体の感覚もない。
時間の流れすら分からない。
ただ、闇だけがあった。
死後の世界。
そう呼ぶには、あまりにも何もなかった。
考えることすら、少しずつ溶けていく。
俺は誰だった。
どこにいた。
何をしていた。
誰に謝った。
何もかもが、闇の底へ沈んでいく。
名前。
自分の名前。
それだけは掴もうとした。
けれど、思い出せない。
そこに確かにあったはずのものが、ぽっかりと抜け落ちていた。
名前の形をした空洞が、俺の中心にある。
死ぬことよりも、それが怖かった。
自分が自分でなくなっていく。
存在の輪郭が崩れていく。
もう何も分からなくなる。
そう思った時だった。
闇の中で、声がした。
――見つけた。
女の声だった。
近いのか遠いのか分からない。
優しいのか冷たいのかも分からない。
ただ、その声は闇そのものを震わせた。
次の瞬間、何もないはずの空間が裂けた。
黒い手が伸びてきた。
一つではなかった。
二つ、三つ、十、二十。
闇よりもなお黒い手が、四方八方から伸びてくる。
それらはためらいもなく、俺を掴んだ。
腕を。
足を。
首を。
胸を。
頭を。
そして、魂の奥を。
身体など、もうないはずだった。
なのに、痛みだけが戻ってきた。
肉ではなく、魂そのものを焼かれているような感覚だった。
引っ張られる。
裂かれる。
剥がされる。
自分というものを、無理やり世界から引き剥がされていく。
やめろ。
そう叫んだはずだった。
けれど声は出なかった。
口がない。
喉がない。
肺がない。
それでも苦しい。
全身がバラバラになる。
そう感じた。
腕がちぎれる。
背骨が砕ける。
頭蓋が割れる。
心臓が握り潰される。
そんな感覚だけが、何度も何度も繰り返された。
死んだはずなのに。
もう終わったはずなのに。
なぜ、まだ苦しむ。
なぜ、まだ俺はここにいる。
闇の向こうで、何かが開いた。
底のない穴だった。
黒い手が俺をそこへ押し込む。
落ちる。
落ちていく。
今度は意識が消えない。
消えてくれない。
痛みだけを抱えたまま、俺は闇の底へ落ち続けた。
その果てで、微かに声が聞こえた。
――ごめんなさい。
誰の声だったのか。
それすら分からないまま、世界が砕けた。
次に感じたのは、骨まで凍りつかせるような冷たさだった。
背中に、硬い何かが触れている。
息を吸った。
空気が入ってきた。
肺が動いた。
そのことに驚くより早く、喉が悲鳴を上げた。
「が、はっ……!」
咳き込む。
何かを吐き出そうとして、何も出ない。
胸が痛い。
けれど、それはさっきまでのものとは違った。
生きている痛みだった。
生きている。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、ぞっとした。
なぜだ。
俺は死んだ。
確かに死んだ。
撃たれて、倒れて、血の中で、あの人に謝って。
なのに。
暗い。
狭い。
息苦しい。
身体を動かそうとすると、肘が硬いものにぶつかった。
上にも、横にも、冷え切った壁がある。
石だ。
俺は、石の箱の中にいる。
棺。
その言葉が浮かんだ瞬間、全身に力が入った。
「ふざ、けんな……!」
声は掠れていた。
自分の声ではないようだった。
だが、確かに声だった。
俺は膝を曲げた。
狭い空間の中で、全力で上を蹴り飛ばす。
一度目。
鈍い音がしただけだった。
二度目。
石が軋む。
三度目。
「開け!」
叫びながら蹴った。
重い何かがずれた。
隙間から、凍てつく空気が流れ込んでくる。
俺は肩を押し込み、歯を食いしばった。
全身の力を石の蓋へ叩きつけるようにして、押し上げる。
石の蓋がずれ、轟音を立てて床に落ちた。
俺は棺の中から起き上がった。
手のひらに触れたのは、氷のような石だった。
荒い息を吐きながら、顔を上げる。
そこは、見知らぬ場所だった。
墓所のような神殿。
高い天井。
朽ちた柱。
壁一面に刻まれた、読めない文字。
砕けた祭壇。
凍りついた燭台。
そして、中央に置かれた巨大な石棺。
俺が入っていた棺。
「……どこだよ、ここ」
声が神殿の中へ吸い込まれていく。
返事はない。
反射的に胸元を押さえた。
傷はなかった。
服も破れていない。
そもそも、自分が着ているものすら見覚えがなかった。
黒い布。
肌に張りつくような、奇妙に滑らかな衣。
装飾らしい装飾はない。
けれど、ただの服とも思えない。
死体を入れる場所から出てきて、見覚えのない服を着ている。
生きているのか。
死んでいるのか。
それすら分からない。
ふと、石棺の表面に刻まれている文字が目に入った。
俺は立ち上がり、ふらつきながら近づいた。
文字は読めなかった。
見たことのない形だった。
けれど、見ていると頭の奥がざわつく。
意味が分かりそうで、分からない。
あと少しで掴めそうなのに、指先が届かない。
その感覚に苛立ち、俺は石棺から目を逸らした。
「……くそ」
悪態をついて、周囲を見回す。
神殿の奥に、通路があった。
扉はない。
ただ、黒い石で作られたアーチが口を開けている。
そこから、わずかに違う空気が流れてきていた。
棺の中よりはましだ。
そう思って、俺は歩き出した。
一歩進むたびに、身体が軋む。
痛みはある。
だが、動けないほどではない。
むしろ、妙に軽い。
さっきまで死んでいたはずの身体とは思えないほど、足は動いた。
それが余計に気味悪かった。
通路を抜けると、隣の部屋に出た。
そこは、石棺の間とは少し雰囲気が違っていた。
墓所というより、物置。
いや、書斎か。
壁際には古びた棚が並んでいる。
机がある。
椅子がある。
黒ずんだ燭台。
用途の分からない器具。
鎖。
黒い羽根。
小瓶。
古い布に包まれた何か。
そして、割れた鏡。
「……鏡か」
足が、そこで止まった。
鏡面は大きくひび割れていた。端の方は黒く曇り、いくつもの亀裂が蜘蛛の巣のように走っている。
それでも、中央にはぼんやりと人影が映っていた。
俺だ。
そう思うまでに、少し時間がかかった。
映っていたのは、見知らぬ男だった。
長い銀髪が、肩から背中へ乱れて落ちている。
寝癖などという可愛いものではない。長い眠りから無理やり引きずり出されたように、ところどころ跳ね、絡まり、薄く濡れたような光を帯びていた。
肌は白い。
ただ血の気が薄いというより、生者の温度を忘れたような白さだった。
蝋のようで、雪のようで、光を受けるとわずかに青白く見える。
頬は少し細い。
目元は鋭く、若い顔立ちのはずなのに、どこか冷えた印象がある。
そして、瞳。
暗い赤だった。
血のような赤ではない。
凍りついた夜の底で、消え残った熾火だけが揺れているような、ひどく静かな赤。
「……おいおい」
思わず、声が漏れた。
「なんだこりゃあ」
鏡の中の男も、同じように口を動かした。
俺だ。
これは、俺だ。
そう理解はできる。
だが、納得はできなかった。
見覚えがない。
この顔に。
この髪に。
この肌に。
この目に。
ただ、厄介なことに、何と違うのかも分からなかった。
俺は以前、どんな顔をしていた。
髪は何色だった。
目は。
肌は。
年は。
背格好は。
何一つ出てこない。
違和感だけがある。
だが、その違和感の正体を確かめるための記憶がない。
「……気持ち悪ぃな」
撃たれたはずの胸元を押さえる。
傷はない。
血もない。
痛みだけが、まだどこかに残っている気がする。
自分の名前も分からない。
自分の顔すら分からない。
鏡の中の男は、俺と同じ顔でこちらを見返していた。
白い肌。
長い銀髪。
暗い赤の瞳。
悪魔。
そんな言葉が、なぜか頭をよぎった。
俺は鏡から目を逸らした。
見続けていると、鏡の中の男に、自分の中身まで奪われるような気がした。
そして、奥の壁一面を埋める本棚。
本棚だけは、他の物よりも妙に整っていた。
凍ってもいない。
崩れてもいない。
埃すら、ほとんど積もっていない。
まるで、そこだけが今も生きているようだった。
「……本?」
近づく。
背表紙には、やはり読めない文字が並んでいた。
一冊を引き抜こうとして、手を伸ばす。
その瞬間だった。
本棚の奥で、何かが光った。
「うおっ」
思わず後ずさる。
光は細い線となって、本棚全体を走った。
棚板の隙間。
本の背表紙。
壁に刻まれた紋様。
それらが淡く光り、低い音を立てる。
起動音。
なぜか、そんな言葉が頭に浮かんだ。
次の瞬間、本棚の中央にあった分厚い本が、ひとりでに開いた。
ページが勢いよくめくれていく。
ぱらぱら、ぱらぱらと。
誰も触れていないのに。
やがて、ページの動きが止まった。
開かれた本の上に、黒い煙が集まり始める。
煙は丸く膨らみ、小さな影を形作った。
短い角。
薄い翼。
細い尻尾。
人間の子供ほどもない、ちんちくりんの影だった。
ただ、その輪郭だけは妙に古く、底の知れないものを隠しているようにも見えた。
それが、ふわりと本の上に腰を下ろし、金色の瞳を細めて俺を見た。
その視線には、底知れぬ好奇心と、わずかな飢えのようなものが混じっていた。
「待機状態を解除。石棺開放を確認。外部魂質を検出。第九圏接続を確認。記録照合……照合不能。うん、たぶん大丈夫!」
「何がだよ」
反射的に突っ込んでいた。
小さな悪魔は、ぱちりと瞬きをした。
そして、さっきまでの底知れなさが嘘だったように、にこっと笑う。
「おはようございます、王様」
「誰が王様だ」
「あなたです」
「なんでだよ」
「石棺から出てきたからです!」
「理由が雑すぎる」
言いながら、俺は一歩下がった。
小さい。
見た目だけなら、怖くはない。
だが、ここが普通の場所ではないことは分かる。
死んだはずの俺が、石棺から目覚めた。
その隣の部屋で、本棚から小さな悪魔が出てきた。
状況だけ並べれば、完全に頭がおかしい。
だが、それでも不思議と、目の前の小悪魔から敵意は感じなかった。
むしろ、妙に嬉しそうだった。
「僕はアガレス。知識を司る悪魔です」
小悪魔は胸を張った。
「ここで、ずっと待っていました」
「待ってた?」
「はい。誰かが来るのを」
「誰かって、俺か?」
「たぶん!」
「たぶんで王様扱いするな」
「でも、石棺が開きましたから」
アガレスはそう言って、俺が出てきた部屋の方を見た。
「あれは、ただの棺ではありません。第九圏の中心に置かれた、特別な石棺です。そこから出てきたなら、少なくとも普通ではありません」
「普通じゃないのは認めるが、王様は飛躍しすぎだろ」
「では、暫定王様ですね」
「暫定をつければ許されると思うな」
会話をしているうちに、少しだけ呼吸が落ち着いてきた。
この状況を理解できたわけではない。
だが、ひとまず目の前のやつは話が通じる。
たぶん。
いや、通じているかどうかは怪しいが、言葉は返ってくる。
それだけで、闇の中に一人でいるよりはましだった。
アガレスは本の上で足を揺らしながら、首を傾げた。
「それで、王様。お名前は?」
名前。
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥が軋んだ。
「っ……」
視界が揺れる。
こめかみに鋭い痛みが走った。
名前。
俺の名前。
あるはずだ。
なければおかしい。
俺は誰かだった。
どこかにいて、誰かと話して、何かをしていた。
撃たれた。
倒れた。
謝った。
その前に、確かに人生があったはずだ。
なのに。
ない。
何も出てこない。
掴もうとすると、頭の中が白く焼ける。
無理に思い出そうとするほど、自分の輪郭が崩れていく。
名前だけが、抜き取られている。
そんな感覚だった。
「……分からねぇ」
俺は歯を食いしばりながら言った。
「名前が、分からねぇ」
アガレスは、先ほどまでの笑顔を少しだけ引っ込めた。
「記憶欠損ですか?」
「知らねぇよ。こっちが聞きたい」
「うーん」
アガレスは腕を組み、目を閉じた。
考えているらしい。
小さいくせに、やけに真剣な顔だった。
やがて、ぽんと手を叩く。
「では、確認しましょう」
「何を」
「ステータスです」
「……ステータス?」
「はい。唱えてみてください」
「なんで」
「情報は大事ですから!」
「説明になってねぇ」
「大丈夫です。たぶん危なくありません」
「たぶんって言うな」
だが、他に手がかりもない。
この小悪魔を信用する理由もないが、信用しない理由を考える余裕もなかった。
俺は額を押さえながら、小さく息を吐いた。
「……ステータス」
口にした瞬間、目の前の空間が揺れた。
薄い光が集まり、半透明の板のようなものが浮かび上がる。
文字が並ぶ。
読める。
さっきまで壁や本の文字は読めなかったのに、それだけはなぜか理解できた。
「なんだよ、これ……」
思わず呟く。
アガレスが本の上から身を乗り出した。
「出ましたね。個体情報です」
「個体って言うな。気持ち悪い」
「では、王様情報です」
「もっと嫌だ」
俺は表示された文字に目を走らせた。
心臓が、嫌な音を立てた。
そこには、こう書かれていた。
名称:なし
所属:第九圏
それを見た瞬間、背筋が冷えた。
「……名前は」
声が掠れる。
「名前は、ないな」
アガレスも表示を覗き込み、こくりとうなずいた。
「ないですね」
「そんなことあるのかよ」
「普通はありません」
「じゃあなんで平然としてんだよ」
「珍しいものを見ると、少し嬉しくなってしまって」
「知識の悪魔、最悪だな」
「褒め言葉です!」
「褒めてねぇ」
アガレスは楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺は少しだけ救われた気がした。
状況は何も良くなっていない。
俺は死んだのかもしれない。
名前もない。
ここがどこかも分からない。
けれど、少なくとも今、目の前に話せる相手がいる。
そのことだけは、闇の中でバラバラにされていた時よりも、ずっとましだった。
俺はもう一度、半透明の板を見る。
名称:なし。
その文字が、やけに重く見えた。
名前がない。
つまり、俺はまだ、この世界で何者でもない。
俺自身ですら、自分が誰だったのか分からない。
アガレスは表示を指差した。
「ただ、名前はありませんが、所属は出ています」
「所属?」
「はい。第九圏です」
「第九圏って、なんだ」
聞き慣れない言葉だった。
だが、不思議と、嫌な響きがした。
深い穴の底。
光の届かない場所。
凍りついた世界。
そんなイメージが、言葉と一緒に沈んでくる。
アガレスはにっこり笑った。
「ここは第九圏です」
「だから、その第九圏って何だよ」
「地獄の最下層です」
部屋の空気が、急に重くなった気がした。
「……地獄?」
「はい」
「俺は、地獄にいるのか」
「正確には、その中でも一番下です」
「住環境としては最悪だろ」
「最下層ですから!」
「胸を張るな」
俺は額を押さえた。
死んだ。
地獄に来た。
名前はない。
情報が多すぎる。
何一つ理解したくない。
けれど、半透明の表示は消えない。
名称:なし。
所属:第九圏。
それだけが、俺の現実として突きつけられていた。
アガレスは本棚からぴょんと飛び降りた。
小さな足音が、凍った床に響く。
「では、王様」
「だから王様じゃねぇ」
「外をご覧になりますか?」
その言葉に、俺は口を閉じた。
外。
この墓所の外。
この神殿の外。
地獄の最下層。
見るべきではない気がした。
見た瞬間、何かが決定的に変わってしまう気がした。
それでも、ここに閉じこもっているわけにはいかない。
棺の中よりは、ましだ。
俺は小さく息を吐いた。
「……案内しろ」
「はい!」
アガレスは嬉しそうに返事をして、部屋の奥へ向かう。
そこには、黒い大扉があった。
氷に覆われ、鎖に縛られ、長い年月閉ざされていたような扉。
アガレスが手をかざすと、扉に刻まれた紋様が淡く光った。
鎖がひとりでにほどけていく。
氷が砕ける。
重い音を立てて、扉が開き始めた。
隙間から、凍てつく風が吹き込んでくる。
俺は思わず目を細めた。
その向こうに、光はなかった。
夜よりも暗い空。
どこまでも続く氷の大地。
壊れた塔。
崩れた城壁。
黒い山脈。
遠くに沈む巨大な影。
世界そのものが、死んでいるようだった。
アガレスが、扉の前で振り返る。
「ようこそ、王様」
小さな悪魔は、無邪気に笑った。
「ここが、あなたの国です」
俺は凍りついた地平を見た。
国というより、世界の死骸だった。
どこにも明かりはない。
風を遮るものもない。
暖を取れそうな場所もない。
食えるものどころか、水すらまともにあるのか怪しい。
死後一発目の住居がこれか。
神は住宅基準法を知らないのか。
「……こんなところ、住めるか」
凍てつく風に喉を削られながら、俺は吐き捨てた。
「まず生活インフラが死んでる」
アガレスは目を丸くした。
そして、なぜか嬉しそうに笑った。
「では、住めるようにしますか?」
その問いに、俺は答えられなかった。
答えられなかったが、否定もできなかった。
名前もない。
記憶もない。
自分の顔すら分からない。
生きているのか、死んでいるのかすら分からない。
それでも、棺の中に戻るつもりだけはなかった。
俺は唇を噛み、凍てつく風の中へ一歩踏み出した。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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