第四十三話 家畜は壁を登る
黒パンは、悪くなかった。
少なくとも、悪魔たちの反応を見る限りでは、成功と言ってよかった。
飯場の前には、焼き上がった哭麦の黒パンが黒石の台に並べられている。
見た目は相変わらず不吉だった。
黒い。
とにかく黒い。
丸く焼けば黒い石に見え、細長く焼けば焦げた骨に見える。何も知らない者が見れば、食べ物だとは思わないだろう。
だが、割ると中から湯気が上がる。
外側は硬いが、中は重く詰まっている。噛めば、哭麦特有の苦みと、わずかな甘みが舌に残った。
「腹に残るな」
「粥より噛める」
「炙るとうまいぞ」
「冥骨粥につけると強い」
「パンが強いとは何だ」
悪魔たちは真剣だった。
黒パンを粥に浸して食べる者。
火で炙って表面をさらに硬くする者。
布に包んで保存できるか確かめる者。
それぞれが、初めての主食らしい主食に向き合っている。
ヴェスパーはその様子を眺めながら、黒パンを一切れ手に取った。
噛む。
硬い。
だが、悪くない。
「……ようやく粥だけの生活からは一歩出たな」
隣でアガレスが記録板を抱え、嬉しそうにうなずく。
「王様、文明がまた上がりました!」
「文明の上がり方がパン一個なの、だいぶ地道だな」
「地道な文明です!」
「まあ、そうだな」
炉。
道。
湯殿。
水車。
送風機。
風車。
そして黒パン。
この第九圏の村は、少しずつだが確実に変わっている。
だが、ヴェスパーの顔はまだ晴れなかった。
黒パンを見つめながら、腕を組む。
「パンはできた」
「はい!」
「だが、パンだけ食ってりゃいいってもんじゃねぇ」
アガレスが首を傾げた。
「では、粥も一緒に食べますか?」
「それも悪くないが、そうじゃない」
ヴェスパーは飯場の向こうを見る。
鍛冶場帰りの悪魔が、黒パンをかじりながら冥骨粥をすすっている。探索隊の悪魔は、黒パンを布に包み、腰の袋へ入れていた。湖底勢の悪魔は、硬さに戸惑いながらも、ゆっくり噛んでいる。
腹に残る主食。
これは大きい。
だが、まだ足りない。
パンデモニウムへ移る。
そう決めた以上、食料はもっと厚くしたい。
乳。
卵。
脂。
肉。
毛。
皮。
肥料。
そこまで回り始めれば、ただ食いつなぐだけの集落ではなくなる。
「欲しいのは、乳と卵だ」
「乳と、卵」
アガレスが記録板に書きかけ、そこで手を止めた。
「王様、卵とは?」
「鳥が産む、食える宝石みたいなもんだ」
「食える宝石!」
アガレスの金色の瞳が輝いた。
近くで黒パンを食べていたニムも、ぱっと顔を上げる。
「宝石、食べるの?」
「いや、まあ、実際には殻の中身を食うんだが」
「王様、説明が夢を壊しました」
「俺も言ってから思った」
ヴェスパーは黒パンをもう一口かじる。
「だが卵はすごいぞ。焼ける。茹でられる。混ぜられる。固まる。パンにも使える」
「万能ではありませんか!」
「そうだ。卵は偉い」
「卵は偉い、と」
「記録するな」
だが、アガレスはすでに書いていた。
その時だった。
東側の道から、騒がしい声が聞こえてきた。
「王様!」
振り返ると、第九圏探索隊の一団が戻ってくるところだった。
以前まで霜牙軍と呼ばれていた者たちだ。
氷槍を背負い、霜鋼の道を使ってパンデモニウム街道方面の調査を進めている。
その彼らが、妙なものを連れていた。
一つは、黒灰色の毛に覆われた山羊のような獣。
氷の角を持ち、四肢は細いくせに妙に力強い。岩場を歩くように、黒石の上を軽々と跳ねている。
もう一つは、灰色の大きな鳥だった。
丸い体。
やたら不機嫌そうな目。
短い翼。
太い脚。
鳥というには貫禄があり、魔獣というには妙に間抜けな姿をしている。
探索隊が村に入ってきた瞬間、飯場の空気がざわめいた。
「なんだ、あれ」
「魔獣か?」
「食えるのか?」
「連れてきたのか?」
「逃げないのか?」
「逃げる前提で話すな」
ヴェスパーも、思わず黒パンを持ったまま固まった。
畑が撃ってきた次は、家畜候補が自分の足で村へ入ってくる。
この地獄は、食料になるものほど自己主張が強い。
「……山羊と鳥か?」
「はい!」
探索隊の悪魔が胸を張った。
「パンデモニウム街道の先、岩壁地帯で見つけました!」
「連れてきたのか」
「家畜候補と判断しました!」
「判断が早いな」
その瞬間、霜喰い山羊が首を振った。
氷の角が、近くにいた探索隊員の腹へ軽く当たる。
「ぐふっ」
探索隊員が膝をついた。
ヴェスパーは半眼になる。
「家畜候補が、もう一人倒したぞ」
「元気です!」
「元気で済ませるな」
灰鳥の方は、じっとヴェスパーを睨んでいた。
丸い体のわりに、目つきだけはやけに鋭い。
「なんで鳥が俺を睨んでんだ」
「警戒されておりますね!」
「俺が何した」
「王様だからでは?」
「王様って便利な理由にするな」
ヴェスパーが近づこうとした時、ニムが声を上げた。
「王様、これなに?」
見ると、灰鳥を入れていた大きな籠の中に、丸いものが転がっていた。
灰色の殻。
黒い斑点。
両手で包めるほどの大きさ。
ヴェスパーは固まった。
「……卵だ」
「卵?」
「卵だぞ、アガレス」
ヴェスパーの声が少し上ずる。
「これは卵だ」
「食える宝石ですか!」
「そうだ」
「王様、目が輝いております!」
「卵だからな」
「卵だから!」
アガレスまで目を輝かせる。
ヴェスパーは慎重に手を伸ばした。
その瞬間、灰鳥が動いた。
「ぐぇ」
低いやる気のない鳴き声とともに、灰鳥が翼を振る。
ばさり、と灰が舞った。
「ぶっ」
ヴェスパーの顔面に灰がかかる。
アガレスも灰をかぶり、ニムは小さな角の先まで灰色になった。
灰鳥は、籠の中の卵を守るように胸を張っている。
ヴェスパーはゆっくりと顔を拭った。
「……卵を守る気概は認める」
「ぐぇ」
「でも灰を撒くな」
灰鳥は聞いていない顔をしていた。
その騒ぎを見ていたアスタロトが、静かに歩み寄ってきた。
彼女は霜喰い山羊と灰鳥を見比べ、少しだけ目を細める。
「霜喰い山羊と、灰鳥ですね」
「知ってるのか」
「旧王都時代には、少数ですが飼われていました。どちらも扱いは難しいですが、有用です」
「有用」
ヴェスパーは灰を払いつつ、即座に反応した。
「乳か?」
「霜喰い山羊は乳が取れます。毛も暖かい。灰鳥は卵と羽毛ですね」
「卵と羽毛」
ヴェスパーは灰鳥を見た。
灰鳥は睨み返してくる。
「お前、態度は悪いが可能性の塊だな」
「ぐぇ」
「返事は可愛くねぇな」
アスタロトは少し考えるように視線を動かした。
「家畜でしたら、モレクに任せるとよいでしょう」
「モレク?」
「旧王都で獣舎を見ていた者です。家畜、魔獣、飼料、乳、卵、毛、糞肥料まで一通り扱えます」
「全部いるやつじゃねぇか。呼べ」
「もう来ています」
「早いな」
ヴェスパーが振り返ると、広場の端に一人の悪魔が立っていた。
大柄だが、ひどく猫背。
肩には古い毛皮を引っかけ、太い角の下には眠そうな半目。
髪も髭もぼさぼさで、全身から獣舎の匂いがしそうな悪魔だった。
彼は大きくあくびをすると、のそのそと近づいてくる。
「いやぁ、騒がしいと思いましてぇ」
「お前がモレクか」
「はいはい。モレクですぅ」
モレクは眠そうな目で、霜喰い山羊を見た。
山羊が角を向ける。
モレクはまったく動じず、その角の根元をぽんと叩いた。
山羊が一瞬だけ止まる。
次に、灰鳥を見る。
灰鳥が「ぐぇ」と鳴いた。
モレクはうなずく。
「うん。いいですなぁ」
「何がだ」
「家畜なら、まあ、まかせんしゃい」
けだるい。
とにかくけだるい。
だが、その声には妙な安心感があった。
ヴェスパーは即座に頷いた。
「よし、丸投げする」
「判断が早いですなぁ」
「俺が山羊と鳥の世話まで見てたら、王都に着く前に倒れる」
「それはそうですなぁ」
モレクはまず霜喰い山羊へ近づいた。
毛を掴む。
指で広げる。
歯を見る。
角を見る。
蹄を見る。
腹を軽く叩く。
山羊は嫌そうに鼻を鳴らしたが、なぜか暴れなかった。
「こいつらの毛、めっちゃあったかいぞ」
「めっちゃって言ったか?」
「めっちゃですなぁ」
「記録しづらい言葉を使うな」
クロセルが遠くで筆を止めた。
「めっちゃ、はどの程度でございましょう」
「記録しようとするな」
モレクは霜喰い山羊の毛を両手で包み、メルツへ渡した。
メルツがそれを受け取り、目を見開く。
「王様、これ、すごいです」
「何がだ」
「暖かいです。炉の近くにいるみたいです」
「毛が?」
「はい。これを布の内側に入れれば、探索隊の外套が変わります」
探索隊の悪魔たちが一斉に反応した。
彼らは寒さに強い。
だが、パンデモニウム街道の作業は長くなる。遠征や見張り、夜間作業を考えれば、防寒具はいくらあってもいい。
ヴェスパーは霜喰い山羊を見た。
「お前、飯だけじゃなくて服にもなるのか」
「めぇ」
「急に役に立つな」
モレクは次に灰鳥へ近づいた。
灰鳥が翼を膨らませる。
「ぐぇ」
「はいはい」
モレクは慣れた手つきで、鳥の足元に哭麦の殻を少し撒いた。
灰鳥がちらりと見る。
ついばむ。
その隙に、モレクは羽毛を少し摘まんだ。
「こっちは羽毛ですなぁ。寝具にも、防寒具の内張りにも使えますわ」
「卵だけじゃなく羽毛もか」
「糞も肥料になりますなぁ」
「ついに糞まで資源になったか」
ヴェスパーは遠い目をした。
アガレスは嬉しそうに記録板へ書き込む。
「循環型地獄ですね!」
「言葉だけ聞くと最悪だな」
だが、実際には重要だった。
哭麦の茎を飼料にする。
霜喰い山羊の糞を肥料にする。
灰鳥の殻や糞も畑へ回す。
毛と羽毛は防寒具へ。
乳と卵は食料へ。
少しずつだが、食料と生活資材が循環し始める。
ただし、問題は家畜が家畜らしくないことだった。
「東側だな」
ヴェスパーは地図を広げた。
火の村の東側。
旧王都東広場へ向かう霜鋼の道に近いが、居住区からは少し離れている。
水路からも遠すぎず、臭いや灰の問題も村中心部から逃がせる。
「ここに畜産区を作る」
「東畜産区でございますね」
クロセルが即座に記録した。
「命名が早い」
「行政区画は早めに定めた方が混乱が少なくなります」
「正論が重い」
すぐに工事が始まった。
ザグたちは黒石を運び、牧柵を組む。
バティンは地面を均し、排水溝を掘る。
メルツは哭麦の茎を束ね、敷材にする。
ブエルは霜苔と黒根草の葉を飼料用に分ける。
ハボリムは、家畜用に薄い哭麦粥を作り始めた。
モレクは眠そうにしながらも、指示だけは的確だった。
「山羊は登りますぞ」
「だろうな」
「なので、登らせない柵では駄目ですなぁ」
「登らせない柵じゃ駄目なのか」
「登るものを登らせないと暴れますわ。登って、降りて、戻る場所を作るんですなぁ」
「家畜のために遊具を作るのか」
「だいたいそうですなぁ」
ヴェスパーは額を押さえた。
「地獄の畜産、面倒くさすぎるだろ」
「おとなしい家畜は、先に食われましたなぁ」
「地獄の自然淘汰、嫌すぎる」
霜喰い山羊用の区画には、低い黒石壁と、段差のある足場が作られた。
灰鳥用の小屋には、巣箱と灰受けの溝が作られた。
飼料庫には、哭麦の茎、霜苔、暗黒大根の葉、灰豆の殻が積まれる。
毛刈り場と搾乳場も仮設で用意された。
見た目だけなら、それなりに畜産区らしい。
見た目だけなら。
「王様」
ザグが真顔で言った。
「山羊が屋根にいます」
「なぜだ」
「登りました」
「だろうな!」
霜喰い山羊は、完成したばかりの獣舎の屋根に立っていた。
黒灰色の毛を風になびかせ、まるで山の王のように村を見下ろしている。
下では、バルガンが両腕を広げて構えていた。
「降りてこい!」
「めぇ」
「おお、鳴いたぞ!」
「感動してる場合か!」
バルガンが屋根に手をかけようとした瞬間、山羊が飛んだ。
空中で角を下げる。
次の瞬間、バルガンの腹に軽く突っ込んだ。
「ぐおっ!」
バルガンが尻もちをつく。
山羊は何事もなかったように着地し、ヴェスパーが持っていた黒パンを奪って走り出した。
「あっ」
ヴェスパーは空になった手を見る。
「俺のパンを食うな!」
「王様、哭麦茎だけでなく黒パンも食べるようです!」
アガレスが嬉しそうに記録する。
「発見みたいに言うな!」
一方、灰鳥小屋も平和ではなかった。
ニムが灰まみれで戻ってくる。
両手には、灰色の卵を抱えていた。
「王様、卵取れた」
「泥棒じゃねぇか。戻してこい」
「でも食える宝石」
「言ったのは俺だが、勝手に取るな」
灰鳥が小屋の中から翼を振った。
ばさり、と灰が舞う。
灰をかぶった悪魔たちが一斉に咳き込んだ。
「灰を撒くな!」
「ぐぇ」
「腹立つ鳴き方だな!」
モレクは、けだるそうに偽の卵を一つ持ってきた。
黒石を丸く削り、灰色の布を巻いたものだ。
「巣箱に偽卵を置くといいですなぁ」
「そんな知恵までいるのか」
「卵を全部取られたと思うと怒りますからなぁ」
「まあ、それは怒るな」
「なので、本物を一つ取るなら、代わりに偽物を置く」
「家畜相手に交換制度が始まったぞ」
「取引は大事ですなぁ」
モレクは眠そうな顔のまま、灰鳥の前に偽卵を置いた。
灰鳥はそれをじっと見た。
つつく。
転がす。
しばらく睨む。
そして、なぜか納得したように座った。
「納得したのか」
「したようですなぁ」
「鳥に負けた気分だ」
夕方になる頃には、東畜産区はなんとか形になっていた。
霜喰い山羊はまだ屋根に登る。
灰鳥はまだ灰を撒く。
バルガンは二回吹っ飛ばされた。
ニムは三回灰まみれになった。
ザグは牧柵を二度直した。
それでも、収穫はあった。
霜喰い山羊からは少量だが乳が取れた。
灰鳥からは卵が一つ確保できた。
抜けた山羊毛と羽毛は、メルツが大事そうに布袋へ詰めている。
ハボリムは小鍋に灰鳥の卵を入れ、慎重に茹でていた。
「王様、できましたぞ」
「おお」
殻は灰色。
割ると、中はやや青白い。
見た目は少し不思議だが、匂いは悪くない。
ヴェスパーは少しだけ塩を振り、黒パンに乗せて食べた。
噛む。
黒パンの苦み。
卵の濃さ。
塩の味。
思わず、目を閉じた。
「……うまい」
周囲の悪魔たちがざわめいた。
「王様、卵とはすごいのですね」
ニムが灰の残る顔で言った。
「ああ」
ヴェスパーは、残った卵を見つめながら頷く。
「卵はすごい」
「食える宝石ですか?」
「そうだ。食える宝石だ」
アガレスが記録板を抱えて、にこにこと笑っている。
「王様、文明がまた増えました!」
「今日は本当に増えた気がするな」
パン。
卵。
乳。
毛。
羽毛。
肥料。
東畜産区はまだ混乱の塊だ。
だが、可能性はあった。
食料が増える。
防寒具が良くなる。
畑に肥料が回る。
探索隊の外套も改善できる。
パンデモニウムへ向かう準備として、これ以上ない前進だった。
ヴェスパーはモレクを見た。
「モレク」
「はいはい」
「東畜産区を任せる」
「まあ、いいですぞ」
「軽いな」
「獣は毎日見るもんです。気合い入れすぎると続きませんわ」
「妙に説得力あるな」
クロセルが筆を走らせる。
「モレク殿を、東畜産区管理官として記録いたします」
「管理官ですかぁ」
モレクはあくびをした。
「では、まず山羊が屋根に登っても壊れないよう、屋根を強くしましょうかねぇ」
「登らせない選択肢はないのか」
「ないですなぁ」
「ないのか」
ヴェスパーは深くため息をついた。
「黒パン、卵、乳、毛、肥料。だいぶ農村っぽくなってきたな」
「はい、王様!」
アガレスが元気よく答える。
その背後で、霜喰い山羊が再び獣舎の屋根に登った。
灰鳥は巣箱からこちらを睨んでいる。
「ただし、山羊は壁を登る」
ヴェスパーは半眼で呟いた。
「地獄の農業、難易度高すぎだろ」
その時だった。
東側の帰還柱が、赤く点滅した。
緊急連絡の合図だ。
広場にいた悪魔たちの空気が変わる。
畜産区の騒ぎで緩んでいた表情が、一瞬で引き締まった。
帰還柱のそばに、建設部隊の悪魔が姿を現す。
泥と霜にまみれ、息を切らしていた。
ザグが駆け寄る。
「どうした!」
建設部隊の悪魔は、ヴェスパーの前に膝をついた。
「王様」
「何があった」
「パンデモニウム東門まで、道は届きました」
広場が静まり返る。
ヴェスパーはゆっくりと顔を上げた。
パンデモニウム。
旧王都。
彼らが目指してきた場所。
火の村から伸ばした道が、ついにそこへ届いた。
「……そうか」
ヴェスパーの声は低かった。
「やったじゃねぇか」
「はい。霜鋼の道も、帰還柱も、作業炉も、門前まで設置できています。荷車も通れます」
「なら、何でそんな顔してる」
建設部隊の悪魔は、唇を噛んだ。
「中へ、入れません」
空気が再び変わった。
アガレスが目を見開く。
フルカスが一歩前へ出る。
ベリアルが腕を組み、低く喉を鳴らした。
「門が開かないのか」
「はい」
建設部隊の悪魔は頷く。
「力でも、魔法でも、工具でも駄目です。黒石の巨大門に、封印が残っています」
「封印……」
クロセルの筆が止まった。
アスタロトが静かに目を伏せる。
「旧王都の封印式が、まだ生きているのでしょう」
「ただ」
建設部隊の悪魔は、さらに声を低くした。
「門の奥から、声がしました」
ヴェスパーは黙って続きを待った。
炉の音も、家畜の声も、灰鳥の鳴き声すら、その瞬間だけ遠くなった。
「その声は、耳で聞こえたというより……門そのものが、胸の奥へ刻んできたようでした」
建設部隊の悪魔の肩が、わずかに震えている。
「古く、低く、けれど女の声にも聞こえました。怒っているわけではないのに、膝をつきたくなるような声でした」
その言葉に、フルカスの表情が変わった。
アガレスの翼が小さく震える。
クロセルは記録板を抱いたまま、息を止めていた。
ベリアルの笑みが消える。
アスタロトが、ほんのわずかに顔を上げた。
門の声。
旧王都の声。
パンデモニウムの奥底で、長く眠っていたものの気配。
建設部隊の悪魔は、乾いた喉で続けた。
「その声は、こう言いました」
誰も動かなかった。
帰還柱の赤い光だけが、東畜産区の黒石を淡く照らしている。
「――王権を持つ者以外に、封印は解除しない、と」
その瞬間、広場の空気が沈んだ。
重く。
冷たく。
まるで遠い旧都の門前に、この場ごと引き寄せられたようだった。
ニムが無意識にヴェスパーの外套を掴む。
メルツが山羊毛の袋を抱きしめる。
灰鳥ですら、巣箱の中で鳴かなかった。
フルカスは、何かを噛みしめるように拳を握った。
ベリアルは低く呟く。
「王権、か」
アスタロトは、静かにヴェスパーを見ている。
クロセルは記録板を抱えたまま、筆を動かせずにいた。
モレクだけが、灰鳥に餌を撒きながら、けだるそうに言った。
「王様、呼ばれてますなぁ」
「家畜の次は、王都の封印かよ」
ヴェスパーはため息をつき、東の空を見た。
その先に、パンデモニウムがある。
眠り続けていた旧王都。
閉ざされた門。
王権を求める封印。
面倒ごとの気配しかしない。
だが、ここまで道を作った。
火を灯した。
飯を作った。
風呂を作った。
水車を回した。
黒パンを焼いた。
山羊と鳥まで連れてきた。
なら、今さら門の前で引き返す理由はない。
「分かった」
ヴェスパーは黒い外套を整えた。
「じゃあ、門番に挨拶しに行くか」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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