第四十二話 黒麦と黒いパン
ラファエル式送風機は、予想以上に役に立った。
最初は、レンガの乾燥を早めるための仕組みだった。
水車小屋で得た回転の知識を使い、魔鉄の筒に羽根車を入れ、そこへラファエルの風術式を刻む。強すぎず、弱すぎず、一定の風を長く流す。
ただそれだけの装置。
だが、その装置が村の作業を大きく変えていた。
レンガは割れにくくなった。
洗濯物は乾きやすくなった。
繊維は湿気を抜きやすくなった。
皮も、乾燥草も、魔獣毛も、乾燥棚に並べれば以前よりずっと扱いやすくなった。
風というものは、あれば地味だ。
だが、なければ全てが詰まる。
ヴェスパーは乾燥棚の前で腕を組み、並んだレンガと布を見ていた。
「……地味だけど、だいぶ文明だな」
隣にいたアガレスが、ぱっと顔を上げた。
「王様、地獄に風力文明が生まれました!」
「文明って言葉を軽く使うな」
「では、風を使う段階へ移行しました!」
「それならまだいい」
ヴェスパーは、乾き始めた布を指でつまんだ。
湿ってはいる。
だが、以前のようにいつまでも冷たい水気を抱えたままではない。
洗濯場の悪魔たちも、乾燥棚の前で嬉しそうに布を広げている。繊維担当の悪魔たちは、乾いた繊維束を抱えて、今日はよくほぐれると話していた。
作業が一つ安定すると、別の作業も安定する。
ようやく、そういう段階に入ってきた。
だが、ヴェスパーの表情は晴れなかった。
「次は飯だな」
「飯でございますか」
クロセルが、いつものように記録板を抱えて歩み寄ってきた。
「パンデモニウム遷都準備において、食料備蓄は最重要項目にございます」
「そういうことだ」
ヴェスパーは村の外へ目を向けた。
温室。
試験畑。
霜苔床。
暗黒大根の区画。
灰豆の隔離棚。
食料生産は少しずつ増えている。
それでも、まだ足りない。
人口が増えれば飯は減る。
作業が増えれば腹も減る。
パンデモニウムへ移るなら、携行食も保存食もいる。
粥だけでは限界がある。
「冥骨粥は悪くない」
ヴェスパーは言った。
「だが、粥は粥だ。持ち運びに向かねぇ。保存にも弱い。街道を伸ばして、パンデモニウムまで行くなら、固形の飯がいる」
「固形の飯」
アガレスが記録板に書き込む。
「主食でございますね」
クロセルが言った。
「そうだ。粉にできるものが欲しい。煮ても食える。焼いても食える。乾かして運べる。そういうやつだ」
「王様」
クロセルが記録板を見た。
「試験畑の哭麦が、そろそろ収穫期かと」
「こくむぎ?」
ヴェスパーは首を傾げた。
「黒い麦か?」
「哭く麦と書いて、哭麦にございます」
「字面が悪化したな」
その時だった。
試験畑の方から、悲鳴が上がった。
「王様ああああ!」
ザグの声だった。
ヴェスパーは反射的に顔を上げた。
「今度は何だ!」
「畑が撃ってきます!」
「畑が?」
意味が分からない。
だが、この村では、意味の分からない報告ほどだいたい正しい。
ヴェスパーはアガレス、クロセル、バルガンを連れて試験畑へ向かった。
そこには、黒い麦畑があった。
いや、ただの麦畑ではない。
黒紫の茎。
灰色の葉。
黒い穂。
風に揺れるたびに、きぃ、きぃ、と細く擦れるような音がする。耳を澄ませると、どこかで誰かがすすり泣いているようにも聞こえた。
「……これが哭麦か」
「はい」
アガレスが嬉しそうに頷く。
「泣いておりますね!」
「麦が泣くな」
ヴェスパーが顔をしかめた、その瞬間だった。
ばばばばばばっ。
乾いた連続音が響いた。
哭麦の穂から、黒い実が弾丸のように飛び出す。
畑の手前にいたザグが、黒石の盾を構えた。
実が盾に当たり、ぱちぱちと音を立てて弾ける。
「王様! 攻撃されています!」
「見れば分かる!」
ヴェスパーは一歩下がった。
また、ばばばばっと黒い実が飛ぶ。
距離はそれほど長くない。
だが、まともに顔に受ければ痛いどころでは済まなそうだった。
「何なんだ、この麦」
「成熟した哭麦ですね」
静かな声がした。
振り返ると、アスタロトが畑の横に立っていた。
黒い長衣の裾を揺らし、哭麦畑をどこか懐かしそうに見ている。
「アスタロト。これ、知ってるのか」
「ええ。地獄では比較的扱いやすい穀物です」
ばばばばばっ。
黒い実が盾に当たった。
ザグが盾の裏で叫ぶ。
「扱いやすいんですか、これ!」
アスタロトは穏やかに頷いた。
「近づかなければ撃たれません」
「作物として終わってるだろ」
「地獄の植物では普通ですね」
「普通の定義を見直せ」
ヴェスパーは額を押さえた。
だが、育っている。
食えるかもしれない。
粉にできるかもしれない。
なら、収穫しない選択肢はない。
「焼いたら駄目だよな」
「食べる部分も種も失います」
「殴ったら」
「実が散ります」
「盾持って突っ込んだら」
「哭麦が怯えて、さらに撃つでしょう」
「麦のくせにメンタルがあるのかよ」
ヴェスパーが呻くと、アスタロトは少しだけ考えた。
「眠らせましょう」
「麦を?」
「はい」
「畑を寝かしつける日が来るとは思わなかった」
呼ばれたのは、夢の悪魔だった。
薄い紫の靄をまとった小柄な悪魔で、目元に眠そうな影がある。歩いているのか漂っているのか分からない足取りで、哭麦畑の前に立った。
「夢の悪魔、モルペでございます」
「頼む。あの麦を寝かせてくれ」
「よい夢を見るとは限りませんが」
「麦に悪夢を見せるな」
「努力いたします」
モルペが両手を広げると、薄紫の霧が畑へ流れ込んだ。
哭麦の穂が、ざわりと揺れる。
きぃ、きぃ、という泣き声のような音が少しずつ弱くなる。
穂先が垂れた。
茎がしなり、葉が静まる。
先ほどまで黒い実を撃ち出していた畑が、まるで本当に眠ったように動きを止めた。
「……効くんだな」
「植物にも、眠りに近い状態はあります」
アスタロトが言った。
「ただし、長くは持ちません」
「よし」
ヴェスパーは振り返った。
「ザグ、バルガン、収穫だ。盾は持ったまま行け。起きたら逃げろ」
「起きたら殴ればいいですか!」
バルガンが拳を鳴らす。
「麦を殴るな。食い物だ」
「食い物が撃ってくるのですが!」
「地獄だからな」
言ってから、ヴェスパーは顔をしかめた。
「嫌な納得の仕方をした」
収穫は急いで行われた。
ザグたちが黒石盾を構え、メルツたちが穂を刈り取る。アスタロトが種に使う分を選別し、アガレスが収穫量を記録する。クロセルは作業時間と人数を記録しながら、淡々と次の予定を書き込んでいった。
哭麦の茎は、束ねて乾燥棚へ運ばれた。
「この茎も使えるのか?」
ヴェスパーが尋ねると、アスタロトは頷いた。
「乾かせば敷材になります。霜喰い山羊なら食べるかもしれませんね」
「山羊が出てくる前提で話すな」
「いずれ必要になるかと」
「嫌な予言だな」
とはいえ、捨てる理由はない。
穂は食料。
種は次の栽培。
茎は敷材か飼料。
危険ではあるが、無駄が少ない。
地獄にしては、かなり優秀な作物なのかもしれない。
撃ってくることを除けば。
収穫された哭麦は、まず粥になった。
いきなりパンにするには、まだ工程が多すぎる。
ハボリムが大鍋に水を張り、粗く砕いた哭麦を入れる。塩を少し。魔獣骨から取った出汁を少し。炉の火でじっくり煮る。
やがて、黒い粒が膨らみ、鍋の中で重い粥になっていった。
見た目は、正直よくない。
灰色がかった黒い粥だ。
だが、湯気には香ばしさがあった。
最初に器を受け取ったバルガンが、一口食べる。
そして、目を見開いた。
「腹に残る!」
「感想が肉体派だな」
ヴェスパーも一口食べた。
冥骨粥よりも重い。
粒の食感がある。
噛むと、かすかな甘みと苦みが出る。
美味いかと聞かれれば、素朴だ。
だが、食ったという感じがある。
「悪くないな」
ヴェスパーが言うと、ハボリムが嬉しそうに髭を揺らした。
「これはよい粥ですな。火はよいのう。麦まで食べ物にします」
「今回はだいたい合ってる」
ニムも小さな器を抱えて、真剣に哭麦粥を食べていた。
「王様」
「なんだ」
「噛むところがあります」
「今までどれだけ液体寄りだったんだよ」
周囲でも、悪魔たちが哭麦粥をすすりながら驚いていた。
冥骨粥は、弱った悪魔を温めるにはいい。
だが、作業前の腹には軽い。
哭麦粥は違う。
腹に残る。
力が続く。
これは主食になる。
「よし」
ヴェスパーは器を置いた。
「次は粉だ」
「粉、でございますか」
クロセルが筆を構える。
「ああ。粥だけじゃなく、焼けるようにする。保存して運べるようにする」
「手で挽きますか?」
ザグが、収穫された哭麦の山を見て言った。
ヴェスパーは即答した。
「やってられるか」
「ですよね」
「粉挽き場を作る」
アガレスが目を輝かせた。
「水車小屋の軸を一つ増やしますか?」
「駄目だ」
ヴェスパーは首を横に振った。
「あれは洗濯と繊維加工で使う。叩き槌も脱水もある。粉挽きまで押し込んだら、生活の方が止まる」
「では、新しい水車を?」
「水路沿いはもう混んでる。貯水池から流れを取るにも、場所がいる」
ヴェスパーは顔を上げた。
冷たい風が吹いている。
第九圏の風。
体温を奪い、布を揺らし、炉の火を煽り、悪魔たちを震えさせてきた風。
今までは、ただ邪魔なだけだった。
だが、ラファエル式送風機を作ってから、風の見方が少し変わった。
風は、流れだ。
流れなら、使える。
「水が駄目なら、風だ」
ヴェスパーは言った。
「風で臼を回す」
アガレスがぱっと顔を上げる。
「地獄の寒風に働いてもらうのですね!」
「そうだ」
ヴェスパーは吹きつける風を見た。
「ようやく、このクソ寒い風にも仕事ができた」
粉挽き専用の風車作りは、すぐに始まった。
場所は、試験畑の近くにある少し高い黒石の丘だ。
風通しがよく、村からも近い。
ザグが黒石で基礎を組み、バティンが地面を固める。メルツが魔獣骨の支柱を調整し、魔鉄の軸を通す。羽根は軽い骨板と魔獣皮を組み合わせ、そこへラファエル式送風機を小型化した風術式を刻むことになった。
「送風機とは逆ですか?」
アガレスが尋ねる。
「逆というより、補助だな」
ヴェスパーは羽根の角度を見ながら言った。
「風を受ける。受けた風を乱さず回転に変える。風術式は、風を整えるために使う」
「風に道を作るのですね!」
「まあ、そんな感じだ」
クロセルは記録板にさらさらと筆を走らせた。
「哭麦製粉所、建設開始」
「急に施設名がそれっぽいな」
「粉を挽く場所ですので」
「そのままだが、分かりやすい」
問題は、最初の試運転だった。
羽根に刻んだ風術式が、少し強すぎた。
ぶおん、と嫌な音がした。
羽根が回った。
回った、というより、暴れた。
黒石の基礎が震え、魔獣骨の支柱がぎしぎしと鳴る。魔鉄の軸が悲鳴のような音を立てた。
「王様、回っています!」
「回りすぎだ!」
次の瞬間、風車の頭が、ふわりと浮いた。
全員が黙った。
「浮いたぞ!」
バルガンが叫ぶ。
「浮くな!」
ヴェスパーも叫んだ。
だが、叫んだからといって止まるものではない。
試作風車の羽根部分は、支柱から外れ、ものすごい勢いで回転しながら空へ飛んだ。
ぶおおおおん、と間抜けな音を立てて、黒い空を横切る。
そして、近くの黒石小屋の屋根へ突き刺さった。
静寂。
ヴェスパーは額を押さえた。
「……誰だ。小型化したら頭につけて飛べそうとか言ったやつ」
「王様です」
アガレスが即答した。
「俺だったか」
「はい!」
「記録するなよ」
クロセルが筆を止めた。
「すでに」
「消せ」
「歴史的事故にございます」
「歴史に残すな」
結局、風車は作り直しになった。
羽根の角度を浅くする。
風術式を弱める。
軸を太くする。
支柱を黒石で固定する。
回転を臼へ逃がす仕組みを増やす。
さらに、周囲に安全柵を作ることになった。
「風車に安全柵がいるのか」
ザグが言った。
「さっき空を飛んだだろ」
「いりますね!」
「あと、粉塵にも気をつけろ」
ヴェスパーは粉受け箱を指差した。
「粉が舞ってるところに火を入れるなよ。爆発するかもしれん」
バルガンが目を輝かせた。
「粉が爆発するのか!」
「試すなよ」
「しかし」
「絶対に試すなよ」
アガレスが記録板に書き込む。
「粉塵爆発、実験禁止」
「実験の文字を消せ」
調整後の風車は、今度こそ空を飛ばなかった。
羽根が風を受け、ゆっくり回り始める。
回転は魔鉄の軸を通り、歯車を噛ませ、下の黒石臼へ伝わる。
ごり、ごり、と重い音がした。
臼の隙間に哭麦を少しずつ入れる。
黒い粒が砕ける。
粗い粉が、粉受け箱へ落ちていく。
完全に細かい粉ではない。
だが、粉だ。
哭麦粉だ。
「……できたな」
ヴェスパーは粉を指先でつまんだ。
黒に近い灰色。
少しざらつく。
だが、香りはある。
「王様」
アガレスが目を輝かせた。
「地獄に製粉所ができました!」
「今度は本当に文明っぽいな」
次は、発酵だった。
哭麦粉に湯と塩を混ぜるだけでは、硬い塊にしかならない。
そこでアスタロトが持ち出したのが、小さな黒い壺だった。
中で、黒い泡がぶくぶくと膨らんでいる。
ヴェスパーは一歩下がった。
「何だそれ」
「悪魔酵母です」
「名前の時点で不安なんだが」
「発酵に使えます」
「腐ってないか?」
「腐敗とは異なります」
「ならいいが」
「食べられる腐敗です」
「一番嫌な説明をするな」
それでも、使わないわけにはいかなかった。
哭麦粉。
湯。
塩。
少量の脂。
そして悪魔酵母。
それらを混ぜ、こね、しばらく寝かせる。
生地は黒かった。
どう見ても黒かった。
膨らんでいるのか、うごめいているのか、判断に困る瞬間もあった。
ニムが生地をじっと見つめる。
「王様」
「なんだ」
「これ、生きていますか?」
「たぶん」
「食べるんですか?」
「たぶん」
「たぶんが多いです」
「俺もそう思う」
やがて、生地は炉へ入れられた。
ハボリムが火加減を見る。
メルツが焼き台を調整する。
アスタロトが発酵の進み具合を確認し、アガレスがその全てを嬉しそうに記録する。
しばらくして、香ばしい匂いが広がり始めた。
悪魔たちが、自然と炉の周りへ集まる。
焼き上がったものは、黒かった。
真っ黒だった。
焦げたわけではない。
最初から、そういう色なのだ。
表面は硬く、ところどころひび割れている。見た目だけなら、黒石の欠片か、焦げた木片か、何かの呪物に見えた。
ニムが真剣な顔で言った。
「王様、石みたいです」
「食える石だ」
「食える石」
「いや、石じゃない」
ヴェスパーは黒いパンを割った。
外側は硬い。
だが、中は重く、しっとりしている。
湯気が出た。
香ばしい匂いと、かすかな酸味。
それに、哭麦独特の苦みが混じっている。
ヴェスパーは小さくちぎり、口に入れた。
硬い。
重い。
だが、噛むほどに味が出る。
苦い。
少し甘い。
香ばしい。
そして、腹に残る。
「……美味いな」
その一言で、周囲の悪魔たちが動いた。
バルガンが大きな欠片を受け取り、噛む。
しばらく黙る。
そして、もう一口噛んだ。
「硬い!」
「感想が悪口だな」
「だが、うまい!」
「ならいい」
ハボリムは小さくちぎって口に入れ、嬉しそうに頷いた。
「火はよいですな。麦を粥にし、粉にし、パンにする」
「火の哲学、今回はかなり合ってる」
湖底勢の悪魔たちも、黒いパンを慎重に食べていた。
「これは、石ではないのか」
「石ではない」
「黒いが」
「地獄だからな」
「なるほど」
「それで納得するな」
探索隊の悪魔は、パンを割って腰袋に入れてみた。
「持ち運べますね」
「そこが大事だ」
ヴェスパーは頷いた。
「粥はその場で食う飯だ。だが、こいつは持っていける。保存も試せる。煮込みに浸してもいい。肉と食ってもいい。街道作業にも遠征にも使える」
クロセルが記録板へ筆を走らせる。
「哭麦粥、哭麦粉、黒いパン。食料自給率および携行食開発に大きな進展あり」
「大げさに聞こえるが、まあその通りだな」
ヴェスパーは黒いパンを見た。
炉がある。
道がある。
水車がある。
送風機がある。
風車がある。
そして、パンがある。
まだ粗末だ。
見た目も悪い。
硬いし、黒いし、泣きながら撃ってくる麦から作っている。
それでも、パンだ。
「中世くらいにはなったな」
ヴェスパーが呟くと、アガレスが首を傾げた。
「前は何だったのですか?」
「遭難者キャンプだ」
クロセルが真顔で記録した。
「遭難者キャンプ期から、初期農村期への移行と」
「嫌な時代区分を作るな」
「しかし、的確かと」
「的確だから嫌なんだよ」
その時、村の東側から声が上がった。
探索隊が戻ってきたのだ。
霜鋼の道を進んでいた隊の一部だった。彼らは黒い雪を払いながら、まっすぐヴェスパーの前へ来る。
「王様」
「どうした」
「パンデモニウムへ続く街道ですが、さらに先へ進めそうです」
ヴェスパーの表情が引き締まった。
「道は持ったか」
「はい。霜鋼柱と帰還柱は機能しています。黒石の補修は必要ですが、荷車も通せます」
「よし」
飯ができた。
道も伸びる。
遷都準備が、少しずつ形になっていく。
ヴェスパーがそう思った時、探索隊の悪魔が少し言いづらそうに続けた。
「ただ、道の先に獣の群れの痕跡があります」
「魔物か?」
「いえ。草食に近いかと。岩壁を登った跡がありました」
ヴェスパーはゆっくりとアスタロトを見た。
アスタロトは、黒いパンを手にしたまま穏やかに言う。
「霜喰い山羊かもしれませんね」
「……家畜候補か」
ヴェスパーは空を見上げた。
遠くで、こつん、と硬い音が響いた気がした。
岩壁を駆け上がる蹄の音。
そんなものが、風に混じって聞こえた。
ヴェスパーは黒いパンを片手に、深く息を吐いた。
「壁を登るなよ」
誰も答えなかった。
ただ、製粉所の風車だけが、冷たい風を受けてゆっくりと回っていた。
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