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第九圏の欠落王 ―棺の底から始める地獄改革―  作者: カイメイラ
第二章 眠る王都へ続く道

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第四十一話 哭麦風車


 レンガ道は、少しずつ伸びていた。


 一日でパンデモニウムまで届くわけではない。


 そんな都合のいい話はない。


 朝に粘土をこね、型に詰め、乾燥棚へ並べる。ラファエル式送風機で風を送り、割れが出ないように様子を見る。乾いたものから炉へ運び、焼き上がったレンガを荷車に積む。


 それを黒石の基礎の上へ並べる。


 隙間を詰める。


 踏み固める。


 横に排水溝を掘る。


 道筋を見失わないよう、一定間隔で霜鋼柱を立てる。


 作業は地味だった。


 恐ろしく地味だった。


 だが、昨日敷いたレンガは、今日もそこにある。


 昨日立てた霜鋼柱は、今日も道の脇で白い冷気をまとっている。


 昨日掘った排水溝には、今日も温排水が細く流れている。


 ヴェスパーは、旧王都東広場へ向かって伸びる道の前に立ち、腕を組んだ。


「……進んでるな」


 誰に言ったわけでもない。


 だが、隣で記録板を抱えていたクロセルが、すぐに答えた。


「はい。本日朝時点で、旧王都東広場方面への敷設距離は、昨日比で二割増でございます」


「数字で返すな」


「進捗報告でございますので」


「まあ、助かるけどな」


 ヴェスパーは足元のレンガを軽く踏んだ。


 まだ不揃いだ。


 焼き色もばらついている。


 端が欠けているものもある。


 だが、氷の上をそりで滑っていた頃とは違う。


 ここは、歩ける。


 荷車が通れる。


 道として残る。


「一日でパンデモニウムまでは届かねぇ」


 ヴェスパーは、白く霞む遠方を見た。


「だが、昨日よりは近い」


 その言葉に、近くでレンガを運んでいたザグが顔を上げた。


「王様、今のは記録した方がいいのでは!」


「しなくていい」


「名言では?」


「現場の感想だ」


「現場の感想は大事です!」


 アガレスが別方向から勢いよく飛んできた。


 手には、もちろん記録板がある。


「王様語録に追加いたします!」


「追加するな」


「一日でパンデモニウムまでは届かない。だが、昨日よりは近い。非常に良いです!」


「やめろ。言った本人が恥ずかしくなる」


 アガレスは満面の笑みで筆を走らせた。


 もう止めるだけ無駄だった。


 道の脇では、乾燥場から運ばれてきたレンガが積まれている。


 以前は乾燥の途中で割れるものが多かった。表面だけ乾いて中が湿ったまま焼けば、炉の中で爆ぜる。厚みがそろわなければ、積む時に歪む。


 だが今は違う。


 ラファエル式送風機が、一定の弱い風を送り続けている。


 強すぎれば割れる。


 弱すぎれば乾かない。


 その調整に悪魔たちはずいぶん苦労したが、ようやく扱いに慣れてきた。


 乾燥棚には、赤黒い粘土の塊が整然と並んでいる。


「割れが減ったな」


「はい!」


 乾燥棚のそばにいたメルツが、誇らしげに頷いた。


「送風機の風量を弱め、棚の間隔も広げました。あと、粘土に混じっていた小石をかなり除いています」


「おお、まともな改善だ」


「王様に何度も爆ぜるレンガを見せられましたので」


「俺が爆ぜさせたみたいに言うな」


「最初に炉へ入れろとおっしゃったのは王様です」


「実験だ」


「はい。爆ぜる実験でした」


 ヴェスパーは目を逸らした。


 アガレスが嬉しそうに筆を走らせる。


「第一乾燥場、実用確認。ラファエル式送風機によるレンガ乾燥、安定稼働!」


「その名前、定着してるのが腹立つんだよな」


「ラファエル様が喜びそうです!」


「余計に腹立つ」


 もっとも、便利なのは事実だった。


 乾燥が安定すれば、レンガが増える。


 レンガが増えれば、道が伸びる。


 道が伸びれば、東広場までの物流が安定する。


 物流が安定すれば、パンデモニウムへ近づける。


 火の村は、ただの避難所ではなくなりつつあった。


 道を伸ばし、資材を積み、旧王都へ向かってじわじわと手を伸ばしている。


 地獄の底で、都市計画が進んでいる。


「……ほんと、何やってんだろうな」


「パンデモニウム遷都準備でございます」


 クロセルが即答した。


「分かってるよ」


「分かっていても、時折確認したくなるお気持ちは理解できます」


「お前、最近こっちの精神まで読んでこないか」


「行政とは、王の疲労を記録することでもございますので」


「そんな行政やめろ」


 その時、飯場の方からハボリムがゆっくり歩いてきた。


 白い髭を揺らし、大きな杓子を手にしている。


 その顔は、どこか困っていた。


「王様」


「今度は何が足りない」


 ヴェスパーは先に聞いた。


 最近、ハボリムが来る時はたいてい何かが足りない。


 鍋。


 粥。


 配膳する者。


 燃料。


 水。


 器。


 生活とは、足りないものが次々に顔を出すものらしい。


 ハボリムは、少しだけ感心したように頷いた。


「さすが王様。分かっておられる」


「分かりたくなかった」


「器が足りませぬ」


「やっぱりか」


 ヴェスパーは額を押さえた。


「鍋は増やしただろ」


「はい。大鍋は増えました。粥も煮物も、以前より多く作れます」


「なら」


「分ける器が足りませぬ」


「そう来たか」


 ハボリムは杓子を胸の前に持った。


「粥を入れる椀。煮物を分ける皿。湯を飲む杯。湯殿の後に水を飲む器。工房へ持っていく携帯用の器。どれも足りませぬ」


「飯が増えたら器が足りなくなるのか」


「生活とはそういうものでございます」


 クロセルが当然のように言った。


「お前、その言葉便利に使ってないか」


「便利でございますので」


「認めるな」


 飯場へ向かうと、問題はすぐに分かった。


 悪魔たちは、器を使い回していた。


 黒石を削った椀はある。


 だが重い。


 骨皿もある。


 だが形がそろわない。


 古い金属杯もいくつか残っている。


 だが数が足りない。


 湖底勢は水草を葉で包んで食べることに慣れていたらしく、粥を葉で受けようとして失敗していた。


 第九圏探索隊の一部は、氷皿を作って食べようとしたが、温かい粥を入れてすぐ割れた。


 ニムが欠けたタンブラーを両手で持ち、困った顔をしている。


「王様、これ、また順番です」


「順番?」


「飲む順番です」


 見ると、小悪魔たちが一つのタンブラーを囲んでいた。


 一人が湯を飲む。


 次に別の小悪魔が受け取る。


 さらに次が待つ。


 まるで儀式である。


「……そこまで足りないのか」


「はい」


 ニムは真剣に頷いた。


「これは、欠けているから口を切らないように気をつける杯です」


「その説明がもう嫌だな」


 ヴェスパーはニムからタンブラーを受け取った。


 縁が欠けている。


 底には古い傷があり、黒ずんでいる。


 最初の頃から、ずっと使われていたものだ。


 まだ村が小さく、冥骨粥を少しずつ分け合っていた頃。


 あの時は、これでも足りていた。


 だが今は違う。


 火の村には、湖底勢が加わった。


 探索隊もいる。


 工房も増えた。


 湯殿もある。


 飯場は常に動いている。


 欠けたタンブラーを回している段階ではない。


「……そういや、まともな杯すらなかったな」


 ヴェスパーは呟いた。


 そして、乾燥場の方を見た。


 粘土。


 乾燥棚。


 炉。


 送風機。


 レンガ。


 つまり、土を焼く技術はもうある。


「レンガを焼けるなら、器も焼けるんじゃねぇか?」


 その場の悪魔たちが、一斉に首を傾げた。


「土を、丸くするのですか?」


 ザグが言った。


「雑に言えばな」


「レンガは四角いです」


「器は四角くなくていい」


「土を薄くしたら割れませんか?」


 メルツが心配そうに言う。


「割れるだろうな」


「では」


「だから試作だ」


 ヴェスパーはタンブラーを掲げた。


「椀、皿、杯、タンブラー型。あと、壺だ」


「壺ですか?」


 アガレスが顔を上げた。


「ああ。水を溜める。材料を入れる。蓋をする。保存する。いくらでも使う」


「王様、器計画ですね!」


「言い方は雑だが、まあそうだ」


 こうして、レンガ乾燥場の横に、新しく焼き物試作場ができた。


 最初はひどかった。


 粘土をこねる段階で、まず悪魔たちは力を入れすぎた。


 バルガンが試しにこねた粘土は、ほとんど黒い石の塊になった。


「硬すぎる」


「よくこねたぞ!」


「こねると圧縮は違う」


 次にザグが椀を作った。


 形は椀だった。


 ただし、分厚い。


 持つと重い。


 黒石椀よりは軽いが、陶器と呼ぶにはだいぶ武器に近い。


「これは……」


「どうですか、王様!」


「殴ったら痛そうだな」


「器です!」


「器って言い張るには強すぎる」


 メルツは慎重に薄く作った。


 今度は乾燥中に縁が歪んだ。


 乾いた時には、片側だけへこんでいた。


「これはこれで、注ぎ口があります」


「前向きだな」


「失敗ではありません。用途変更です」


「いい考え方だ」


 そして最初の焼成。


 乾燥が甘かった椀は、炉の中で割れた。


 ぱきん、と小さな音がした。


「割れました!」


「まだいい。爆ぜてない」


 次の器は、ぼん、と音を立てて爆ぜた。


「爆ぜました!」


「器が爆ぜるな!」


 炉の前にいた悪魔たちが一斉に身を伏せる。


 アガレスだけが目を輝かせていた。


「王様、内部に水分が残っていたようです!」


「分かってる!」


「乾燥工程の重要性が確認されました!」


「確認の仕方が派手すぎる!」


 二つ目の試作品は、焼けたと思ったら底が抜けた。


 ハボリムが水を注ぐと、そのまま下へ流れた。


「飲む前から漏れてるな」


「底の厚みが不足しています」


 クロセルが記録する。


「器底部強度不足、と」


「記録名だけは立派だな」


 三つ目は、焼き上がった。


 割れていない。


 漏れない。


 ただ、妙に分厚い。


 ヴェスパーはそれを持ち上げた。


「……武器か?」


「杯です!」


 ザグが胸を張る。


「これで飲むのか?」


「頑丈です!」


「頑丈すぎる」


 だが、それでも前進だった。


 割れるもの。


 漏れるもの。


 重すぎるもの。


 歪むもの。


 それらを並べながら、悪魔たちは少しずつ学んでいく。


 粘土はこねすぎても駄目。


 乾かし方が甘いと割れる。


 薄すぎれば底が抜ける。


 厚すぎれば使いにくい。


 形が歪むなら、乾燥棚の風を弱める。


 底を平らにするなら、型がいる。


 やることが増えていく。


 だが、見込みは立った。


 欠けたタンブラーしかなかった村に、歪んだ杯が並び始めた。


 それだけでも十分だった。


 そんな試作品を見ていたアスタロトが、静かに口を開いた。


「杯も作れるのですね」


「ああ。まだだいぶ怪しいけどな」


 ヴェスパーは、縁の歪んだ杯を手にした。


「そのうち、まともなのも焼けるだろ」


「なら、酒を注げますね」


 その一言で、周囲の空気が少し変わった。


 酒。


 それは、この村にすでに何度か現れている。


 宴で酒樽が積まれた。


 湖底勢も、火の村の悪魔たちも、第九圏探索隊も、それで大いに騒いだ。


 だが、あれは安定供給ではない。


 パンデモニウムの記憶か、旧王都の残滓か、偶然か。


 とにかく、いつまでも都合よく酒樽が出てくるとは限らない。


「……酒か」


 ヴェスパーは杯を見下ろした。


「宴の酒樽も、いつまでも出てくるわけじゃねぇしな」


「ええ」


 アスタロトは静かに頷いた。


「酒は、作れます」


「材料があればな」


「種ならありますよ」


 ヴェスパーは顔を上げた。


「……何の」


「酒を起こす種です」


 アスタロトは懐から、小さな黒い壺を取り出した。


 古い壺だった。


 表面には水草のような模様が刻まれ、蓋の隙間には黒い封蝋が残っている。


 壺そのものが、長く水の底に沈んでいたような湿った気配をまとっていた。


「湖底酒母です」


「しゅぼ?」


「酒を育てるための種です。旧王都時代、地底湖の酒蔵で使われていました」


「酒蔵まであったのかよ」


「王都でしたから」


 アスタロトは当然のように言った。


「食料、水、酒、薬、保存食。暮らしには必要なものです」


「まあ、そうだな」


「腐るものと、育つものは近いのです」


「いきなり不安になる説明だな」


「違いは、管理です」


「それは分かりやすい」


 アガレスが壺を覗き込もうとした。


 アスタロトは静かに壺を引いた。


「近づけすぎないでください」


「危険なのですか?」


「好奇心で開けると、腐ります」


 アガレスは両手で記録板を抱え直した。


「知識の悪魔への対策が的確です!」


「自覚があるならやめろ」


 アスタロトはさらに、小さな黒い袋を取り出した。


 袋は古い布でできており、表面には薄い霜が残っていた。


 彼女がそれを開くと、中には黒い粒が入っていた。


 麦に似ている。


 だが普通の麦ではない。


 粒は黒く、ところどころ灰色がかった銀色の筋が走っている。


 その袋から、かすかな音がした。


 ひゅう、とも。


 しくしく、とも聞こえる。


 ヴェスパーは眉をひそめた。


「……今、泣いたか?」


「哭麦ですから」


「こくむぎ?」


「はい。悪魔たちの嘆きから生まれた麦、と言われています」


「食って大丈夫なのか、それ」


 アスタロトは、黒い粒を指先に乗せた。


「食べなければ、嘆きは嘆きのままです」


「急に深いこと言うな」


「粥にもできます」


「ほう」


「粉にもできます」


「便利だな」


「酒の素にもなります」


 その瞬間、周囲の悪魔たちの目つきが変わった。


 ヴェスパーは、はっきりとそれを見た。


 レンガを運んでいたザグの手が止まる。


 バルガンが振り返る。


 ハボリムの白い眉が上がる。


 湖底勢の何人かが、さりげなく近づく。


 ベリアルでさえ、少しだけ目を細めた。


「……おい」


「王様?」


 アガレスが首を傾げる。


「今、全員のやる気の入り方が違ったぞ」


「酒ですから!」


「理由が不純すぎる」


 バルガンが一歩前へ出た。


「王様!」


「なんだ」


「畑を作れば酒が飲めるのか!」


「順番を飛ばすな!」


 ベリアルが腕を組む。


「麦を育てれば、酒ができるのか」


「お前も順番を飛ばすな」


「重要な確認だ」


「気持ちは分かるが、まだ種だ」


 ハボリムは壺と種を見比べ、ゆっくり頷いた。


「酒ができれば、宴も増えますな」


「増やす前提で話すな」


「火はよい。酒もよい」


「並べるな。危険な響きになる」


 アスタロトは、そんな悪魔たちを見て、少しだけ笑った。


「今なら、育てられそうです」


 ヴェスパーは彼女を見た。


「どこで」


「南の西側です」


 その言葉に、ヴェスパーの頭の中で地図が広がる。


 南の石切り場。


 鉱山。


 そこへ伸びる道。


 温排水路。


 貯水池。


 旧河道。


 その西側には、最近になって氷が緩み、黒土が顔を出し始めている場所があった。


 炉の熱と温排水のおかげで、完全に凍りついてはいない。


 まだぬかるみも多いが、バティンが整地すれば使える。


 水はある。


 熱もある。


 霜苔も混ぜられる。


 道も伸び始めている。


「……畑にできるのか」


「はい」


 アスタロトは頷いた。


「黒土に霜苔を混ぜ、温排水の熱を遠くから通せば、哭麦は芽吹きます。寒すぎても眠りますが、温めすぎても枯れます。今の南西なら、ちょうどよいかと」


「ちょうどいい地獄の畑か」


「はい」


 クロセルがすでに筆を構えていた。


「南西哭麦栽培区、と記録いたします」


「名前が早い」


「必要になるかと」


「なるけどな」


 悪魔たちの反応は早かった。


 早すぎた。


 ザグが黒石の余りを抱え直す。


「畑の縁を作ります!」


 バティンが地面を見る。


「黒土を起こしましょう」


 メルツが考え込む。


「水路用の小さな板も必要ですね」


 バルガンが拳を握る。


「俺は耕す!」


「お前が耕すと畑が戦場になるから待て」


 湖底勢の悪魔たちは、泥地の扱いなら任せろと言い出した。


 第九圏探索隊は、霜苔を運べると言った。


 ブエルは、のんびりと手を上げた。


「種まき、楽しそうですぅ」


「楽しそうで済む作物なのか、これ」


「たまに泣くだけですぅ」


「だけ、で済ませていいのか」


 悪魔たちは、今にも南西へ走り出しそうだった。


 ヴェスパーは両手を叩いた。


「待て待て待て」


 全員の視線が向く。


「道路整備はどうした」


「酒のためです!」


 誰かが力強く言った。


「まだ麦も生えてねぇよ!」


「育てます!」


「だから順番がある!」


 ヴェスパーは巨大キャンバスを広げた。


 火の村、南の石切り場、鉱山、温排水路、旧王都東広場、パンデモニウム東門。


 その南西側に、新しく線を引く。


「いいか。畑は作る。哭麦も育てる。だが、道路は止めない」


「なぜですか!」


 バルガンが本気で聞いた。


「麦を運ぶにも道がいる」


 悪魔たちが一斉に納得した。


「なるほど!」


「酒の道か!」


「違う。物流路だ」


 クロセルが筆を止めた。


「酒の道、という名称も民間呼称としては定着する可能性がございます」


「定着させるな」


「しかし、分かりやすくはあります」


「分かりやすいから困るんだよ」


 結局、作業は並行して進めることになった。


 道路整備班はそのまま。


 焼き物班は器と壺の試作を続行。


 新たに、南西哭麦栽培区の開拓班を組む。


 アスタロトが土を見る。


 バティンが黒土を起こす。


 ザグが畑の縁を黒石で囲う。


 湖底勢が水路と泥地を調整する。


 探索隊が霜苔を運ぶ。


 ブエルが種の管理をする。


 クロセルが農事暦を作る。


 そしてアガレスが、目を輝かせながら記録する。


「王様、農業です!」


「酒目当てのな」


「動機はともかく、農業です!」


「そこは否定しない」


 南西の開墾地は、思った以上に可能性があった。


 温排水路から離れすぎれば凍る。


 近すぎればぬかるむ。


 だが、その中間には、黒い土が柔らかく出ている場所がある。


 霜苔を混ぜると、水分を保ちつつ冷えすぎを防げるらしい。


 アスタロトは、土を指先で触り、匂いを確かめるように目を閉じた。


「ここなら」


「いけるか」


「ええ。最初は小さく。哭麦は、あまり広くまきすぎると、夜にうるさいです」


「泣くからか?」


「はい」


「畑がうるさいって何なんだ」


「慣れます」


「慣れたくねぇ」


 畑の話が進むと、次の問題もすぐに出た。


 麦は、育てれば終わりではない。


 刈る。


 乾かす。


 脱穀する。


 粉に挽く。


 酒にする。


 つまり、また仕事が増える。


 ヴェスパーは頭を抱えた。


「麦を育てるなら、挽く仕組みもいるな」


「手でやりますか?」


 ザグが聞く。


「できなくはないが、量が増えたら死ぬ」


「では水車ですか?」


「水路沿いならな。だが、この南西全部を水車小屋に寄せるのも面倒だ」


 ヴェスパーは、南西の開けた土地を見た。


 そこには風が通っていた。


 温排水路の湯気が薄く流れ、黒土の上を冷たい風が撫でていく。


 地獄の風。


 今まではただ寒いだけだった。


 だが、風は力だ。


 回転にできる。


「水がない場所なら、風を使うか」


 アガレスが反応した。


「風を労働させるのですね!」


「また言い方」


「では、風に作業を分担させます!」


「まあ、それならいい」


 ヴェスパーはその場にしゃがみ込み、黒土の上に図を描いた。


 大きな羽根。


 軸。


 支柱。


 回転を下へ伝える歯車。


 粉挽き用の臼。


 脱穀用の槌。


 乾燥用の送風。


 以前作ったラファエル式送風機の羽根構造が使える。


 ただし、今回は風を作るのではなく、風を受ける。


「風車だ」


「ふうしゃ」


 アガレスが記録板に書く。


「風で車を回すのですか?」


「ああ」


「なら、送風機を羽根につければ、自分で風を出して自分で回り続けるのでは?」


 ヴェスパーは、アガレスを見た。


 しばらく黙った。


 そして言った。


「お前、今かなり危ないこと言ったぞ」


「危ないですか?」


「それは永久機関ってやつだ」


「永久に動くのですか!」


「だいたい動かない。動いたら世界の方が壊れる」


「地獄なら壊れてもよいのでは?」


「よくねぇ」


 アスタロトが静かに言う。


「風が弱い時だけ、補助すればよいのでは」


「そう。それだ」


 ヴェスパーは頷いた。


「自分で吹いた風で自分を回すな。風がある時に回れ。風が弱い時だけ補助しろ。それなら、ただの便利な風車だ」


「ただの便利な風車」


 アガレスが嬉しそうに復唱する。


「普通に記録しろ」


 こうして、南西哭麦栽培区の端に、試作風車を作ることになった。


 作業は早かった。


 悪魔たちの目には、まだ酒の光が宿っていた。


 ザグが支柱を組む。


 メルツが軸と金具を作る。


 バティンが台座の黒土を固める。


 グラスヴァルの探索隊が霜鋼杭を運ぶ。


 アガレスがラファエル式送風機の記録を参照する。


 ヴェスパーは何度も言った。


「送風術式は補助だけだぞ」


「はい!」


「羽根に刻みすぎるなよ」


「はい!」


「風を受けるんだ。風を出すんじゃない」


「はい!」


 返事は良かった。


 返事だけは。


 試作一号機が完成した時、見た目は悪くなかった。


 少し歪んではいる。


 羽根の大きさも微妙にそろっていない。


 支柱も不格好だ。


 だが、地獄の農業機械としては十分だろう。


 南西の風が吹く。


 羽根が、ゆっくりと回り始めた。


「おお」


 悪魔たちから声が上がる。


 ヴェスパーも少しだけ口元を緩めた。


「回ったな」


「回りました!」


 アガレスが嬉しそうに叫ぶ。


 風車は回った。


 回った。


 回りすぎた。


「……速くねぇか?」


「速いですね!」


「いや、速いですねじゃなくて止めろ!」


 風車の羽根が、急に甲高い音を立て始めた。


 ひゅんひゅん、という音が、すぐにぎゅおん、という音へ変わる。


 黒石の台座が震えた。


 魔獣骨の支柱が軋む。


 地面に打ち込んだ固定杭が、一本、二本と抜けていく。


「固定が負けてるぞ!」


「風に勝てません!」


「風に勝つな、逃がせ!」


 メルツが慌てて軸を外そうとした。


 だが回転が速すぎる。


 近づけない。


「誰だ送風術式を羽根に刻んだやつ!」


「王様の設計図にありました!」


「補助って書いただろ! 全力って意味じゃねぇ!」


「補助を強めにしました!」


「強めるな!」


 ごん、と最後の杭が抜けた。


 風車は、支柱ごとふわりと浮いた。


「浮いたぞ」


「浮きましたね」


「浮くな!」


 次の瞬間、不格好な風車は、巨大な羽根をぶん回しながら、南西の畑の上を飛んでいった。


 まるで、空を飛ぶために生まれた農具のようだった。


「追え!」


「いや、近づくな! 巻き込まれる!」


 バルガンが走り出しかける。


「俺が止める!」


「やめろ! お前まで飛ぶ!」


 風車は低空を唸りながら進み、積んであった哭麦の種袋を一つ巻き上げた。


 袋の口が少し開き、黒い種がぱらぱらと舞う。


 風の中で、かすかな音がした。


 しくしく。


 ひゅうひゅう。


「哭麦が飛んだ!」


「泣きながら飛んでます!」


「地獄みたいな光景だな!」


「地獄です!」


 アスタロトは、その光景を静かに見上げた。


「畑を耕す前に、空を耕しましたね」


「うまいこと言ってる場合じゃねぇ!」


 風車はしばらく南西の空を低く飛び、最後に黒土の柔らかい場所へ突っ込んだ。


 どすん、と音がした。


 羽根が一枚折れた。


 支柱が斜めになった。


 だが、奇跡的に誰も怪我はなかった。


 ヴェスパーは現場へ駆け寄り、地面に突き刺さった風車を見下ろした。


 そして、両手で顔を覆った。


「……農業機械を飛ばすな」


「王様」


 アガレスが、おずおずと記録板を構える。


「記録名は、飛行風車実験でよろしいでしょうか」


「よくない」


「では、風車一号機飛翔事故」


「事故は合ってるが、残すな」


「貴重な知見です!」


「それはそうなんだよな……」


 悔しいが、得るものはあった。


 送風術式は強すぎる。


 羽根に直接刻みすぎてはいけない。


 回転制限が必要。


 風を逃がす穴も必要。


 台座は霜鋼杭で固定する。


 そして何より。


 ヴェスパーは設計図に赤字で書いた。


 飛ばない。


 アガレスがそれを覗き込む。


「王様、“飛ばない”は仕様ですか?」


「最重要仕様だ」


「なるほど!」


 修正版は、夕方までにどうにか形になった。


 羽根は小さくなった。


 送風術式は軸の補助に移された。


 風が強すぎる時は、羽根の一部が逃げるように角度を変える。


 台座は霜鋼杭で固定した。


 今度は、飛ばない。


 たぶん。


 南西哭麦栽培区の端で、修正版の風車がゆっくり回り始めた。


 ぎし、と軸が鳴る。


 羽根は少し歪んでいる。


 見た目も不格好だ。


 それでも、風を受けて回っている。


 風車だ。


「南西哭麦栽培区用風力回転補助機」


 クロセルが言った。


「長い。風車でいい」


「では、正式名称は風力回転塔、俗称は哭麦風車でいかがでしょう」


「俗称が先に定着しそうだな」


「すでに何名かが哭麦風車と呼んでおります」


「早いんだよ」


 夕方。


 南西の黒土に、哭麦の種がまかれた。


 アスタロトが小さな黒い粒を指先でつまみ、土の上へ落とす。


 ブエルがその横で霜苔をほぐす。


 バティンが黒土を軽くかぶせる。


 温排水路の湯気が、畑の上を薄く流れていた。


 少し離れた場所では、不格好な哭麦風車がゆっくり回っている。


 火の村から旧王都東広場へ向かうレンガ道は、今日も少しだけ伸びた。


 乾燥棚には、歪んだ椀と杯が並んでいる。


 黒石壺の中では、湖底酒母が静かに眠っている。


 そして南西の黒土には、哭麦の種が沈んだ。


 風が吹く。


 ひゅう、と。


 それはただの風の音にも、誰かのすすり泣きにも聞こえた。


「……今、泣いたか?」


「哭麦ですから」


 アスタロトは当然のように言った。


「だから慣れたくねぇんだよ」


 ヴェスパーは顔をしかめた。


 だが、周囲の悪魔たちは目を輝かせている。


「これが育てば……」


「酒か」


「酒だな」


「酒ですぅ」


「まだ早い!」


 ヴェスパーの声が、南西の開墾地に響いた。


 その足元で、小さな黒い芽が、ひとつだけ土を割った。


 その時はまだ、誰も知らなかった。


 この南西の黒土にまかれた小さな哭麦が、やがて第九圏の宴に欠かせぬ酒となることを。


 のちに、氷獄エールと呼ばれる酒である。


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