第四十話 風を送る者
水車は、思った以上に働いた。
最初はただ、繊維を叩くための仕組みだった。
水の流れで車輪を回し、その回転を槌に伝え、一定の間隔で材料を叩かせる。理屈だけなら簡単だ。だが、実際に作ってみれば、台座は割れるし、槌は暴れるし、水車は勢い余って軸を軋ませる。
それでも、何度か壊し、何度か直し、何度か悪魔たちをびしょ濡れにした結果、ようやく使えるものになってきた。
水路沿いに立てられた試作水車は、今日もごとごとと音を立てて回っている。
その横では、繊維担当の悪魔たちが、いつもよりずっと楽な顔で作業をしていた。
これまでは、凍った繊維草や魔獣の毛束を、手作業で叩いてほぐしていた。棒を振り下ろし、絡んだ繊維をほぐし、また叩く。単純だが、時間も体力も使う作業だ。
だが今は、回る水車が槌を持ち上げ、落とし、また持ち上げ、落とす。
同じ間隔で。
同じ強さで。
悪魔が疲れても、水は疲れない。
ヴェスパーは、その様子を少し離れた場所から見ていた。
「……一台で終わらせるもんじゃねぇな」
隣で記録板を抱えていたアガレスが、ぱっと顔を上げる。
「増やすのですか、王様!」
「増やす。というか、応用する」
「応用!」
アガレスの金色の瞳が輝いた。
こういう時の知識の悪魔は、実に分かりやすい。
ヴェスパーは水車を指差した。
「叩けるなら、回せる。回せるなら、揉める。絞れる。砕ける。混ぜられる」
「水に労働させるのですね!」
「言い方」
「では、水に作業を分担させるのですね!」
「まあ、それならいい」
ヴェスパーは腕を組み、水路沿いを見渡した。
温排水路は、以前よりも安定して流れている。
湯殿から出た温排水は、沈殿槽を通り、貯水池へ流れ、そこから南東の旧河道へ逃がすように整備されている。水量が増えたことで、村の周囲には凍っていない流れが増えた。
水がある。
流れがある。
なら、動力にできる。
パンデモニウムへ移る準備を考えれば、人手はいくらあっても足りない。飯を作る者、レンガを焼く者、道を敷く者、資材を運ぶ者、洗濯する者、警備する者、乾燥場を見る者。
全部を手作業で回せば、いずれ破綻する。
人を増やしても、仕事の方が増える。
なら、仕組みを作るしかない。
「ザグ」
「はい!」
水車の軸を見ていたザグが振り返った。
「水路沿いに小屋を作るぞ」
「小屋ですか?」
「水車小屋だ。水車をむき出しで並べると、雪と泥と水しぶきで面倒だ。あと誰かが巻き込まれる」
「巻き込まれますか?」
「この村の悪魔なら、一回はやる」
「否定できません!」
「元気よく認めるな」
ザグはすぐにメルツやバティンを呼びに走った。
アガレスは記録板に筆を走らせる。
「水車小屋建設、と」
「仮だぞ」
「仮水車小屋建設」
「仮をつければいいってもんじゃねぇ」
ヴェスパーはため息をつきながら、巨大キャンバスを広げた。
水車を中心に、軸と歯車、槌、回転桶、脱水籠、粉砕臼のようなものを次々と描き込んでいく。
絵は雑だ。
だが、伝わればいい。
「ここから回転を取る。こっちに槌。こっちは桶。こっちは籠。こっちは臼みたいなやつ」
「王様、絵が増えております!」
「設計図だ」
「落書きではなく?」
「設計図だ」
「王様がそうおっしゃるなら、設計図です!」
「少しは疑え」
やがて、簡易的な水車小屋の建設が始まった。
黒石で基礎を作り、魔獣の骨で梁を組み、魔獣皮と板材で壁を張る。屋根は雪と水しぶきを避けるため、片側へ流す形にした。中には水車の軸が通り、複数の作業機に力を分ける。
見た目は、はっきり言って不格好だった。
黒石、骨、木材、魔鉄、革。
どれも色も形も違う。まるで魔獣の骨格を無理やり小屋にしたような姿である。
だが、動く。
それが重要だった。
最初に試したのは、洗濯桶だった。
湯殿ができてから、洗濯物が増えた。
悪魔たちが体を洗うようになったのはいい。作業着を洗うようになったのもいい。だが、その分、洗う布が増えた。
洗濯場では、悪魔たちが桶の中で布を揉み、叩き、すすぎ、絞っている。
これもまた、かなりの手間だった。
「よし。回せ」
ヴェスパーが言うと、ザグが水車側の接続を動かした。
ごとん、と音がして、洗濯桶が回り始める。
最初はゆっくり。
次第に勢いがつく。
桶の中の布が、ぐるんと回った。
水が跳ねる。
布が絡む。
さらに回る。
桶の中で、洗濯物が戦っているような音がした。
「王様!」
「止めろ!」
ヴェスパーが叫ぶより早く、水しぶきが派手に飛んだ。
近くにいたアガレスが記録板を抱えたまま、頭から水をかぶる。
「冷たいです!」
「記録しなくていい!」
ザグが慌てて接続を外し、桶の回転が止まった。
中の布は、見事に絡まっていた。
まるで魔物の巣である。
ヴェスパーは額を押さえた。
「違う違う違う。洗いたいんであって、布を戦わせたいわけじゃねぇ」
「勢いが強すぎましたね!」
「見れば分かる」
「でも、よく回りました!」
「回ればいいってもんじゃねぇ」
ヴェスパーは桶の内側に羽板をつけ、回転を落とし、途中で止まるように調整した。
ただ回すのではなく、ゆっくり揺らす。
布を動かし、汚れを浮かせ、水を入れ替える。
何度か試すうちに、桶の中の布は戦わなくなった。
次は脱水籠だった。
穴を開けた籠に洗った布を入れ、回転させて水を飛ばす。
理屈は単純だ。
だが、単純なものほど初回は事故る。
回転を始めた脱水籠は、思った以上に勢いよく回った。
水が飛ぶ。
そこまではいい。
布も浮く。
これはよくない。
さらに籠そのものが軽く跳ねた。
「止めろ!」
ヴェスパーが叫ぶ。
ザグが接続を外す。
脱水籠が、がたん、と音を立てて止まった。
あと少し遅ければ、洗濯物が空へ飛んでいたかもしれない。
ヴェスパーはしばらく脱水籠を見つめた。
「服を乾かしたいんであって、空に打ち上げたいわけじゃねぇんだよ」
「空を飛ぶ服、面白そうですね!」
「面白くねぇ。回収が面倒だ」
それでも、調整すれば使えた。
籠を重くし、外側に固定枠をつけ、回転を段階的に上げるようにする。
洗濯、すすぎ、脱水。
水車小屋の中で、布が少しずつ処理されていく。
洗濯場の悪魔たちは、最初こそ恐る恐る見ていたが、やがてその効果に気づいた。
「手で絞るより早い」
「水がかなり落ちる」
「これなら干す時間も短くなるかもしれない」
「水車が洗濯している……」
「水車が働き者だ」
「水車に飯はいるのか?」
「いらねぇ」
ヴェスパーが即答した。
悪魔たちは感心したように水車を見た。
「飯がいらない働き手……」
「すごいな」
「水車は偉い」
「崇めるな」
ヴェスパーは頭を抱えかけたが、すぐにやめた。
まあいい。
働いてくれるなら、多少崇められてもいい。
水車小屋が動き始めると、目に見えて作業が減った。
繊維を叩く者。
皮を揉む者。
灰豆や乾燥草を砕く者。
洗濯物を揉む者。
脱水する者。
その多くが、投入係と見張りに回れるようになった。
水車は疲れない。
文句も言わない。
たまに壊れるが、それは悪魔も同じだ。
ヴェスパーは水車小屋の入口で腕を組み、回る軸を見つめた。
「人が増えたから楽になるんじゃない」
ぽつりと呟く。
アガレスが横で首を傾げた。
「王様?」
「楽になる仕組みを作るから、人を別の仕事に回せるんだ」
「なるほど!」
アガレスは勢いよく記録板へ書き込んだ。
「王様語録ですね!」
「語録にするな」
「大事な言葉です!」
「なら、せめて恥ずかしくない形にしてくれ」
だが、ヴェスパーの顔は明るくなかった。
水車で楽になった。
洗濯も進むようになった。
繊維加工も早くなった。
それでも、問題は次から次へと出てくる。
彼は水車小屋を離れ、レンガ置き場へ向かった。
そこには、型に詰められた粘土が並んでいた。
以前、温排水路沿いで見つけた粘土を使い、レンガの試作は進んでいる。形を揃えることはできる。焼けば固まることも分かってきた。
だが、焼く前に乾かさなければならない。
ここで詰まっていた。
ヴェスパーは、乾燥棚に並ぶレンガを一つ持ち上げる。
表面は少し乾いている。
しかし、中はまだ重い。
水分が残っている証拠だ。
「……作れるのに、乾かねぇ」
彼は顔をしかめた。
強く温めればいいというものではない。
表面だけ急に乾かすと、ひびが入る。内部に水分が残ったまま焼けば、割れる。下手をすると爆ぜる。
レンガは大量に必要だ。
道にも、壁にも、乾燥場にも、パンデモニウムへ向かう中継拠点にも使う。
なのに、乾燥に時間がかかりすぎる。
「地獄のくせに、なんでこういうところだけ湿っぽいんだよ」
近くで棚を見ていたザグが、困った顔をした。
「炉の近くへ持っていきますか?」
「近すぎると割れる」
「では遠くへ?」
「遠いと乾かない」
「難しいですね!」
「難しいんだよ」
そこへ、洗濯場の悪魔が濡れた布を抱えてやって来た。
「王様、干し場が足りません」
「今度はそっちか」
「脱水は早くなりましたが、干す場所が詰まっています」
「乾かないものが増えてきたな」
レンガ。
洗濯物。
繊維。
皮材。
乾かすものばかり増えている。
熱だけでは駄目だ。
必要なのは、湿気を運ぶもの。
弱く、一定に、長く流れるもの。
「風だな」
ヴェスパーが呟いた、その時だった。
村の中央が光った。
悪魔たちが一斉に顔を上げる。
光の柱。
白い羽根。
清浄すぎる魔力。
もう何度か見た光景だった。
「また天使か」
「今度は誰だ」
「鍋の近くじゃないだけ、ましだな」
「村の真ん中に出るなと言ったはずでは」
悪魔たちの反応も、だいぶ雑になってきている。
ヴェスパーは額を押さえた。
「あー……どうして天使って、毎回村の真ん中から現れるんだ」
光の中から現れたのは、一人の天使だった。
金色の髪。
緑の瞳。
整いすぎた相貌。
背には六枚の白い翼。
その身の周囲には、淡い風がまとわりついている。歩くたびに空気が流れ、冷えた村の空気をやわらかく撫でていく。
セラフ。
ただ立っているだけで、それが分かる存在だった。
「ラファエル……」
アガレスが小さく呟く。
その瞬間、空気が変わった。
村の悪魔たちの中でも、特に地底湖から戻った者たちが、一斉に殺気を放った。
ベリアルが立ち上がる。
古い鎖が、じゃらりと鳴った。
アスタロトも静かに目を細める。
湖底勢の悪魔たちは、火の前にいた者も、作業をしていた者も、ラファエルを睨んでいた。
無理もない。
彼らにとって天使は、遠い昔の存在ではない。
長く封印されていた者たちにとっては、つい最近まで戦っていた敵に近い。
ヴェスパーは内心でため息をつきながら、前へ出た。
「あー、ラファエルさん」
ラファエルは、こちらへ視線を向けた。
「あなたがヴェスパー?」
「そうです。で、前にガブリエルが来た時とは、村のメンバーが違うんで」
ヴェスパーは後ろの湖底勢を親指で示した。
「できれば大人しくしていてくださいね」
ラファエルは少し眉を上げた。
「失礼しちゃうわね、もう」
「こっちは風呂場で天上戦争の続きとかされたくないんですよ」
「するわけないでしょう」
ラファエルはそう言ったが、ベリアルは低く言った。
「向こうが何もしなければな」
「ほら、こういう感じなんで」
ヴェスパーが言うと、ラファエルは少しだけ困ったように笑った。
「なるほど。事情はありそうね」
「山ほどあります」
「でも、今日は争いに来たわけではないわ」
「では何をしに?」
ラファエルは村を見回した。
水車小屋。
湯殿へ向かう道。
乾燥棚。
洗濯場。
そして、白く上がる湯気。
その緑の瞳が、明らかに湯気で止まった。
「温泉があると聞いてね」
ヴェスパーは少しだけ沈黙した。
そして頷いた。
「ありますよ。来客用の浴場もある」
「まあ、素敵」
ラファエルの顔が分かりやすく明るくなった。
だが、ヴェスパーはすぐに言った。
「ただし、うちでは働かない者には何も出ません」
「失礼しちゃうわね。セラフに労働を求めるの?」
「セラフでも悪魔でも、風呂に入るなら働いてもらいます」
「本当に失礼しちゃうわ」
「何が得意です?」
あまりにも自然に仕事の話へ移ったせいか、ラファエルは一瞬だけ瞬きをした。
それから、軽く首を傾げる。
「風かしら」
ヴェスパーの目が変わった。
「風!」
「ええ」
「風をずっと送る装置、作れません?」
「風を?」
「そう。強風じゃなくていい。むしろ強すぎると困る。弱く、一定に、長く流したい」
「何に使うの?」
「レンガを乾かす。洗濯物も乾かす。繊維も乾かす。あと作業場の換気にも使える」
ラファエルは少し黙った。
そして、やや微妙な顔をした。
「……地味ね」
「地味なものほど国を支えるんですよ」
「それ、天界でも言えそうね」
「比較対象にするな」
ヴェスパーはラファエルを乾燥棚へ案内した。
乾きかけのレンガを見せる。
表面だけ乾いたもの。
ひびの入ったもの。
乾きが甘く、重いままのもの。
ラファエルはそれを一つ手に取り、指先で撫でた。
「強い風で一気に乾かせばよいのでは?」
「それだと割れる」
「熱は?」
「強すぎると表面だけ乾く」
「では、弱い風を長く当てるのね」
「そう。それです」
ラファエルはレンガを戻し、風をまとった指先を軽く振った。
「ただ風を吹かせるだけなら簡単だけれど、一定に保つなら器がいるわね」
「器?」
「風を通す道。風を整える輪。流れを乱さないための羽根」
その言葉に、ヴェスパーは目を細めた。
「羽根車か」
「はねぐるま?」
「回る羽根だ。水車の回転で羽根を回して、筒の中に風を送る。そこにあなたの風術式を入れて安定させる」
アガレスが跳ねた。
「王様! 水と風の共同作業です!」
「そういうことだ」
クロセルが静かに筆を構える。
「中型風送り乾燥装置、と記録いたしましょう」
「長い」
「では、中型風送り装置」
「まあ、それでいい」
アガレスが言う。
「ラファエル式送風機!」
ラファエルが少し楽しそうに笑った。
「あら、悪くないわね」
「本人が気に入るな」
作業はすぐに始まった。
黒石の台座を組む。
魔鉄の筒を作る。
内部に羽根車を入れる。
水車小屋から回転を取るため、簡易軸を伸ばす。
風管を乾燥棚へ向けて設置する。
ザグとメルツは、すでに水車小屋でだいぶ慣れてきたらしい。ヴェスパーの雑な図面を見ながら、必要な形に近づけていく。
ラファエルは魔鉄の筒へ手をかざした。
淡い緑の光が、筒の内側に流れ込む。
見えない風の線が、輪のように刻まれていった。
「これで、風が乱れにくくなるはずよ」
「おお」
ヴェスパーは筒の内側を覗き込んだ。
「魔法の整流板みたいなもんか」
「せいりゅうばん?」
「風を整える仕組みだ」
「あなた、ときどき妙な言葉を使うのね」
「俺もそう思う」
一回目の試作は、見事に失敗した。
水車の回転で羽根車が回る。
ラファエルが風を入れる。
魔鉄の筒から風が吹き出す。
そこまでは良かった。
問題は、風が強すぎたことだ。
乾燥棚に干してあった布が、一斉に舞い上がった。
軽い繊維束が飛ぶ。
アガレスの記録板の紙片が暴れる。
ニムが小さな悲鳴を上げながら、空を舞う布を追いかける。
さらに、乾燥中のレンガの表面に細いひびが入った。
「止めろ止めろ止めろ!」
ヴェスパーが叫ぶ。
ザグが慌てて水車の接続を外す。
風が止まった。
飛んだ布が、ばさばさと地面に落ちる。
アガレスは記録板を抱えたまま、髪をぐしゃぐしゃにしていた。
「すごい風でした!」
「すごけりゃいいってもんじゃねぇ!」
ヴェスパーはレンガを手に取った。
表面にひびが走っている。
「違う違う違う! 乾かしたいんであって、吹き飛ばしたいわけじゃねぇ!」
ラファエルは少し不満そうに言う。
「注文が多いわねえ」
「建材が割れたら家が崩れるんです」
「なるほど。それは困るわね」
「困るで済まないんですよ」
二回目は、筒を太くした。
風管を分けた。
風が一点に当たらないよう、乾燥棚の下と横から流す。
羽根車の回転も落とす。
ラファエルは風術式を調整し、強い風ではなく、緩やかに流れ続ける風を作った。
水車が回る。
羽根車が回る。
筒の中を風が通る。
風管から、乾燥棚へ柔らかな風が流れた。
今度は布が舞わない。
レンガの表面も割れない。
ただ、棚全体に風が通り、湿った空気を少しずつ運んでいく。
ヴェスパーは手をかざした。
熱ではない。
強風でもない。
だが、確かに流れている。
「……うん。いいな」
彼は乾燥棚に並ぶレンガを見た。
「これなら、乾燥がかなり楽になる」
洗濯場の悪魔たちも、風管の先を見て驚いていた。
「布が乾きやすくなるぞ」
「脱水してから風に当てれば、かなり早い」
「繊維も干せる」
「皮もいけるんじゃないか」
「作業場の煙も流せるかもな」
アガレスは記録板に勢いよく書き込んでいる。
「ラファエル式送風機、成功!」
「中型風送り装置だ」
「ラファエル式送風機!」
「まあ、もうそれでいいか……」
ラファエルは少し得意げに翼を揺らした。
「それで、温泉には入ってもいいのかしら」
ヴェスパーは頷いた。
「もちろんだ」
そして、懐から小さな黒石札を三枚取り出した。
札には赤い印が刻まれている。
来客用浴場。
利用券。
クロセルがいつの間にか作っていたものだ。
「うん。素晴らしい出来だ」
ヴェスパーは三枚の札をラファエルへ差し出した。
「感謝を込めて、入浴チケットを三枚進呈しよう」
ラファエルは黒石札を受け取り、目を丸くした。
「……ちけっと?」
「来客用浴場の利用券だ」
「三回も入っていいの?」
「三回までな」
ラファエルの緑の瞳が、分かりやすく輝いた。
「あなた、意外と話が分かるのね」
「働いた者には報酬を出す。それがうちのルールです」
「天界より制度がしっかりしている気がするわ」
「比較対象にするな」
ラファエルは黒石札を一枚、指先でつまんだ。
「では、一枚目を今使うわ」
「即使用かよ」
「風を使ったもの。湯で整えないと」
「セラフの理屈が分からん」
「風と水は大事よ」
「急にそれっぽいこと言うな」
ヴェスパーは来客用浴場へ案内させた。
その途中で、地底湖組の視線が痛いほど刺さる。
ヴェスパーは振り返った。
「揉めるなよ。風呂場で天上戦争の続きをやるなよ」
ベリアルは腕を組んで言った。
「向こうが何もしなければな」
「湯冷めするからやめろ」
「戦場で湯冷めを気にする王など初めて見た」
「ここは風呂場だ」
ラファエルは小さく笑い、湯殿の方へ歩いていった。
その背にまとわりつく風が、村の湯気をそっと揺らしていた。
ラファエルが天界へ戻ったのは、それからしばらく後のことだった。
来客用浴場を堪能し、残り二枚の入浴チケットを手にして、彼女は満足げに天界へ帰還した。
その手にある黒石札に、最初に気づいたのはガブリエルだった。
「……それ、何?」
「入浴チケットよ」
ラファエルは少し得意げに、黒石札を指先で揺らした。
「第九圏の来客用浴場を使えるそうよ。三枚いただいて、一枚使ってきたから、残り二枚ね」
「えっ」
ガブリエルの青い瞳が丸くなる。
「私、チケットもらってない」
「あら」
ラファエルは涼しい顔で言った。
「だって私は魔道具を作ったもの。魔道具を作ったのよ」
「えー。私だって水門づくり手伝ったのに……」
その横で、ウリエルは黙って報告書を書いていた。
第九圏。
温泉。
来客用浴場。
入浴チケット。
水門。
送風機。
ガブリエルの協力。
ラファエルの協力。
セラフ二名の報酬格差。
羽ペンの先が、紙の上で止まった。
ウリエルのこめかみに、ぴくりと青筋が浮かぶ。
「……」
ぱきん、と乾いた音がした。
記録していた羽ペンが、ウリエルの手の中で折れていた。
少し離れた場所で、メタトロンはその会話を聞いていた。
沈黙。
長い沈黙だった。
いつもの「そうか」すらなかった。
天の書記官は静かに目を閉じる。
そして、深くため息をついた。
一方、その頃。
第九圏の火の村では、ヴェスパーが中央広場を見ていた。
天使が現れる場所は、だいたい決まっている。
村の真ん中。
広場。
作業動線。
鍋の近く。
乾燥中のレンガのそば。
悪魔たちが集まっている場所。
ガブリエルもそうだった。
ラファエルもそうだった。
天使たちは、なぜか遠慮なく村の中央に降りてくる。
だが今の村は、以前とは違う。
水車小屋がある。
洗濯場がある。
乾燥棚がある。
レンガが積まれている。
湯殿がある。
工事中の道があり、荷車が走り、悪魔たちが資材を運んでいる。
次に誰かが降ってきて、黒石材の山に突っ込まれても困る。
鍋の上に出られても困る。
洗濯中の桶の中に出られても、かなり困る。
「……危ないな」
ヴェスパーは腕を組んだ。
隣でアガレスが首を傾げる。
「王様?」
「もう天使発着場でも作っておくか」
アガレスの目が輝いた。
「天使発着場!」
「記録するな」
「王様、新施設です!」
「記録するなって言ったよな」
クロセルが、いつの間にか筆を構えていた。
「正式名称はいかがいたしましょう」
「まだ作るとは言ってねぇ」
「仮称で構いません」
「構うんだよ」
「天界来訪者用着地点、兼安全管理広場ではいかがでしょう」
「急にまともな名前にするな」
「では、天使発着場で?」
「そっちに戻すな」
ヴェスパーは額を押さえた。
だが、村の中央広場を見れば見るほど、必要な気がしてくる。
天使は来る。
もう、たぶん来る。
しかも温泉目当てで来る。
場合によっては、入浴チケットを求めて来る。
「……いや、作るか」
アガレスの翼がぱたぱた揺れた。
「天使発着場、建設ですね!」
「違う。安全管理だ」
「安全管理としての天使発着場ですね!」
「結局記録するんじゃねぇか」
クロセルは涼しい顔で巨大キャンバスの端に新しい区画を書き込んだ。
アガレスが嬉しそうに覗き込む。
「次はミカエル様でしょうか!」
「絶対に呼ぶな」
ヴェスパーは空を見上げた。
灰色の空。
かつては裁きと監視の象徴だったその空から、今ではセラフが温泉を求めて降ってくる。
地獄も変われば変わるものだ。
彼はため息をつき、巨大キャンバスの端に書き足された文字を見た。
天使発着場。
「……地獄の都市計画って、なんなんだろうな」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
もし面白いと感じていただけたら、
ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。
今後ともよろしくお願いいたします。




