第三十九話 水車の槌
パンデモニウムへ続く道作りは、始まったばかりだった。
旧王都東広場までの線は引いた。
レンガの試作も始まった。
霜鋼柱も、アガレスとグラスヴァルが中心になって量産方法を詰めている。
黒石材を敷き、レンガを焼き、霜鋼柱で凍結を抑え、帰還柱で道をつなぐ。
理屈だけなら、前へ進んでいる。
だが、理屈だけで道はできない。
「……南もだよな」
ヴェスパーは火の村に戻り、研究所前の広場で腕を組んでいた。
目の前には、巨大なキャンバスが広げられている。
火の村。
湯殿。
温排水路。
貯水池。
南の石切り場。
黒い鉱山。
西門交易所。
地底湖。
旧王都東広場。
パンデモニウム東門。
それらが線でつながれていた。
見れば見るほど、頭が痛い。
「旧王都東広場への道はいる。パンデモニウムへ行くなら当然だ」
ヴェスパーはキャンバスの線を指でなぞった。
「だが、南の石切り場も舗装した方がいい。鉱山への道もだ」
石切り場は黒石材の供給元だ。
黒い鉱山は魔鉄、鉱石、源泉、鉱夫救助の拠点である。
どちらも重要だ。
パンデモニウムへ移るからといって、捨てられる場所ではない。
むしろ、遷都の準備が進むほど、南側の資材と鉱山の重要度は増していく。
だが、そこまで手を広げる余裕がなかった。
「人も資材も足りねぇ」
ヴェスパーは唸った。
レンガはまだ試作段階。
霜鋼柱も量産前。
荷車も足りない。
そりも足りない。
黒石材も、使いたい場所はいくらでもある。
作業員も、増えたようでいて全然足りない。
湖底勢が加わり、第九圏探索隊も加わった。
それでも足りない。
飯を作る者がいる。
寝床を作る者がいる。
洗濯する者がいる。
水路を直す者がいる。
交易をする者がいる。
見張りをする者がいる。
道作りに全員を突っ込めば、村の暮らしが止まる。
「パンデモニウムに引っ越した後なら、そっちから南へ引っ張った方が早い気もするんだよな」
ヴェスパーはキャンバスの中央に描かれた旧王都を見た。
パンデモニウムを拠点にできれば、そこから南の鉱山や石切り場へ道を伸ばす方が合理的かもしれない。
だが、そこへ移るためには今の村から物資を運ばねばならない。
その物資を作るには、石切り場と鉱山が必要になる。
「うーむ」
完全に鶏と卵だった。
「王様」
隣でアガレスが記録板を抱えていた。
「悩んでいますね!」
「見りゃ分かるだろ」
「とてもよいことです!」
「悩みを歓迎するな」
「問題が見えている証拠ですから!」
「見えすぎて嫌になるんだよ」
ヴェスパーは額を押さえた。
その横で、クロセルが静かに筆を走らせている。
「現在の課題を整理いたしますか」
「今、俺の頭の中で勝手に増殖してる」
「それは整理が必要でございますね」
「お前ら、問題を記録するときだけ活き活きするよな」
「行政とは、問題に名前をつけるところから始まります」
「嫌な真理を言うな」
ヴェスパーはため息をつき、キャンバスから顔を上げた。
広場では、悪魔たちが忙しく動いている。
飯場では、ハボリムが大鍋を見ている。
工房では、ザグとメルツが骨釘や金具を作っている。
台車置き場では、壊れた荷車の車輪が外され、補修されていた。
洗濯場では、湯殿から引いた温水を使って布が洗われている。
その隣の乾燥場では、魔獣皮と布が炉の熱でゆっくり乾かされていた。
湖底勢の悪魔たちも、少しずつ村の仕事に混ざり始めている。
水路に詳しい者は排水の確認へ。
水草を知る者は食材班へ。
鎖を扱える者は重荷運搬へ。
第九圏探索隊は、外周警戒と遠征準備に回っている。
村は、以前よりずっと大きくなった。
活気もある。
それなのに、足りないものだらけだった。
「どこから手をつけるかだな」
ヴェスパーは村の中を歩き出した。
アガレスがついてくる。
クロセルも記録板を抱えたままついてきた。
「王様、どちらへ?」
「見回りだ」
「現場確認ですね」
「そうとも言う」
「現場監督でございますね」
「言うな。疲れる」
研究所前の広場を抜けると、村の生活区が見えてきた。
仮設小屋は以前より増えている。
だが、それでも満員だった。
外では、魔獣皮を縫い合わせた追加の天幕が張られている。
洗濯された布が、骨柱の間に渡された縄にかけられていた。
縄。
布。
袋。
毛布。
作業服。
補修布。
見るものすべてが、今の村に必要なものだった。
そして、それらの材料は、自然に湧いてくるわけではない。
「王様ー!」
のんびりした声が聞こえた。
ブエルだった。
腕いっぱいに黒根草の束を抱えている。
その後ろでは、湖底勢の悪魔が黒い水草を束ねていた。
「黒根草の外皮、持ってきましたぁ」
「おう。使えそうか」
「繊維が取れますぅ。けっこう丈夫ですぅ」
「そりゃ助かる」
「ただ、叩くのが大変ですぅ」
「叩く?」
ヴェスパーは首を傾げた。
ブエルは、作業場の方を指差した。
そこでは、悪魔たちが黒石台の前に並んでいた。
濡れた繊維束を置く。
棒で叩く。
ばしっ。
また叩く。
べちゃっ。
繊維を裏返す。
また叩く。
ばしっ。
水が跳ねる。
黒い外皮が裂ける。
細い繊維が少しずつほぐれていく。
それを隣の悪魔が手で裂き、さらに水に浸け、また叩く。
ひたすら、その繰り返しだった。
火の村の悪魔だけではない。
湖底勢もいる。
小悪魔もいる。
水草繊維に詳しい湖底の悪魔が、処理の仕方を教えながら、自分でも棒を振っていた。
作業場には、濡れた音が響き続けている。
ばしっ。
べちゃっ。
ばしっ。
べちゃっ。
ヴェスパーは、しばらく無言でそれを見ていた。
「……なんてブラックなんだ」
アガレスが首を傾げる。
「王様、繊維は白っぽいですが」
「そういう意味じゃねぇ」
「では黒根草の方でしょうか」
「色の話から離れろ」
ヴェスパーは作業場へ近づいた。
繊維班の悪魔たちは、慌てて手を止めようとした。
「止めなくていい」
ヴェスパーが手を振る。
「続けてくれ。見てるだけだ」
「はい!」
悪魔たちはまた棒を振り始めた。
水に浸ける。
叩く。
ほぐす。
裂く。
洗う。
絞る。
干す。
工程は単純だ。
単純だが、重い。
腕が疲れる。
水で冷える。
繊維は飛ぶ。
叩く強さも均一ではない。
そして、量が多すぎる。
「これ、毎日やってんのか」
「はい」
繊維班の一人が答えた。
「布も縄も袋も足りませんので」
「寝具にも使うのか」
「はい。湖底勢の方々の寝床も増やさないといけませんから」
別の悪魔が、濡れた繊維を持ち上げた。
「それに、遷都用の荷袋も必要です」
「補修布もだな」
「作業服もです」
「縄もいります」
「水草繊維は丈夫ですが、叩かないとほぐれません」
「黒根草は叩きすぎると切れます」
「魔獣皮の裏繊維は、もっと厄介です」
次々に問題が出てくる。
ヴェスパーは口を閉じた。
道を作る人手が足りないと思っていた。
だが、実際には人手はこういう場所で削られている。
生活に必要な作業。
遷都に必要な準備。
どれも省けない。
繊維を叩く悪魔を道作りへ回せば、今度は布と縄と袋が詰まる。
袋がなければ、資材を運べない。
縄がなければ、荷を固定できない。
寝具がなければ、増えた住民が休めない。
結局、道も止まる。
「……なるほどな」
ヴェスパーは小さく呟いた。
「道だけ見てても駄目か」
アガレスが目を輝かせる。
「王様?」
「人手が足りないなら、増やすんじゃねぇ」
「では、どうするのですか?」
「仕事の方を減らすんだ」
アガレスの目がさらに輝いた。
「王様、また妙なことを言い始めました!」
「妙じゃねぇ」
ヴェスパーは周囲を見渡した。
洗濯場の横。
乾燥場の奥。
そして、村の端を流れる温排水路。
湯殿から沈殿槽を通り、貯水池へ向かう水の流れ。
水門のおかげで、流量はある程度調整できる。
湯を含んだ排水だから凍りにくい。
常に流れている。
その水面が、低い音を立てながら黒石の水路を進んでいた。
「水が流れてる」
ヴェスパーは言った。
「なら、水車が回る」
アガレスがぱちりと瞬きをした。
「水を、車にするのですか?」
「車じゃねぇ。回る輪だ」
「回る輪」
「水の力で回して、槌を上下させる」
ヴェスパーは黒石台の上に置かれた濡れた繊維を指差した。
「手で叩く代わりに、水に叩かせる」
作業場の悪魔たちが、一斉に顔を上げた。
「水が、叩くのですか」
「どうやって」
「水に棒を持たせるんですか」
「持たせねぇよ」
ヴェスパーはその場にしゃがみ込み、濡れた地面に指で簡単な図を描いた。
丸。
軸。
羽根。
槌。
突起。
水の流れ。
「水が羽根を押す。すると輪が回る」
「はい」
「回る軸に出っ張りをつける」
「でっぱり」
「それが槌を持ち上げる」
「槌を」
「出っ張りが外れたら、槌が落ちる」
ヴェスパーは指で、こん、と地面を叩いた。
「これを繰り返す」
しばらく沈黙が落ちた。
次の瞬間、アガレスが跳ねた。
「王様! 水が働くのですね!」
「まあ、そうだな」
「水にも労働時間を設定しますか?」
「しなくていい」
「休息日は必要ですか?」
「水に休息日はねぇ」
クロセルが筆を構える。
「では、水車点検刻を設けます」
「また仕事が増えた気がする」
「仕事を減らすための仕事でございます」
「それ、言うとつらいやつだな」
ヴェスパーは立ち上がった。
「よし。やるか」
その一言で、周囲の悪魔たちの空気が変わった。
作業が始まる。
それを察した悪魔たちは早かった。
「ザグを呼べ。メルツもだ。バティンは水路脇の地面を見ろ。アスタロトにも来てもらう。湖底勢で水回りに強いやつも欲しい」
「はい!」
ニムが走っていく。
アガレスはすでに記録板を構えていた。
ヴェスパーは近くの黒石板を台にして、設計図を描き始めた。
「こんなもんか?」
「王様、また線が増えています!」
「線が増えたら仕事が増えるんだよ」
「素晴らしいです!」
「素晴らしくはねぇ」
設計図は雑だった。
だが、必要なものは見える。
黒木の板。
魔鉄の軸。
黒石の土台。
骨材。
魔獣腱。
霜鋼の薄片。
皮紐。
黒石槌。
しばらくして、ザグとメルツが駆けつけた。
バティンも水路脇の地面を確認しながらやってくる。
アスタロトは湖底勢の数人を連れていた。
さらに、ベリアルまで来た。
「何を作る」
「水車だ」
「水車」
「水の力で槌を動かす」
ベリアルの目がわずかに細くなる。
「水を使って槌を振るうのか」
「そうだ」
「面白い。水の鎖だな」
「表現が物騒なんだよ」
ベリアルは低く笑った。
「槌を動かすなら、鎖でもよかろう」
「今回は軸と突起だ。鎖を入れるとお前が楽しみ始める」
「否定はしない」
「否定しろ」
ヴェスパーは設計図を叩いた。
「ザグ、黒石の土台」
「はい!」
「メルツ、軸と金具」
「任せてください」
「バティン、水路脇を固めろ。水が漏れたら終わる」
「承知しました」
「アスタロト、叩き加減を見てくれ。繊維が切れたら意味がない」
「分かりました」
「湖底勢は水の流れを見る。強すぎたら止めろ」
湖底勢の悪魔たちが頷く。
「木の板を集めてくれ。薄くて、割れにくいやつだ」
ザグが顔を上げた。
「黒木でよいですか?」
「ああ。重すぎないように削れ」
「水車の羽根ですね!」
「そうだ」
「水車の羽根!」
ザグは楽しそうに復唱した。
こうして、温排水路の横に妙な作業場ができた。
黒石の土台を組む。
水路脇を固める。
魔鉄の軸を通す。
削った黒木の板を、円形に並べる。
骨材で補強する。
霜鋼の薄片を軸受けに挟む。
回転部に魔獣腱を巻いて、衝撃を逃がす。
槌は黒石で作った。
最初は重い方がいいだろうと、ザグが立派なものを持ってきた。
ヴェスパーはそれを見て、少しだけ嫌な予感がした。
「これ、重くないか」
「叩くなら重い方がいいかと!」
「まあ、最初は試すか」
それが間違いだった。
水車一号機は、思ったより早く形になった。
見た目は不格好だった。
黒い水路の横に、黒木の板を放射状に組んだ輪がついている。
その横には、黒石の台座。
台座の上には濡れた繊維。
さらに上には、柄のついた黒石槌。
軸についた突起が柄を押し上げ、外れると落ちる仕組みだ。
「よし」
ヴェスパーは腕を組んだ。
「少しだけ水を当てろ」
「少しだけ、ですね」
バティンが分流板を動かす。
温排水路の流れが、水車の羽根へ向かった。
水車が回った。
最初は、ゆっくりだった。
ぎい、と軸が鳴る。
羽根が水を受け、輪が動く。
悪魔たちが一斉に声を上げた。
「おお……!」
「回りました!」
「水が押しています!」
ニムが目を丸くする。
「王様、水が車になりました」
「だから車じゃないんだが、まあいい」
だが、次の瞬間だった。
羽根に温排水がまともに当たった。
水車が、想定以上の勢いで回り始めた。
「お、おお?」
ヴェスパーの顔が引きつる。
軸につけた突起が、槌の柄を跳ね上げた。
がこん、と音がした。
次の瞬間、黒石の槌が落ちた。
どんっ。
濡れた繊維が跳ねた。
さらに、水車は止まらない。
どん。
どん。
どん。
槌が連続して落ちる。
黒石台が震える。
繊維が飛ぶ。
水が跳ねる。
近くにいたバルガンの顔に、濡れた繊維がべちゃりと張りついた。
「攻撃か!」
「違う! 失敗だ!」
ザグが顔を引きつらせた。
「王様、これ、少し強くないですか?」
「少しじゃねぇな!」
次の一撃で、黒石の台座に亀裂が走った。
ばきっ、と嫌な音が響く。
周囲の悪魔たちが悲鳴を上げる。
「止めろ止めろ止めろ!」
ヴェスパーが叫んだ。
バティンが慌てて分流板を押し込む。
湖底勢の悪魔が水門を下ろす。
水の流れが弱まり、水車がゆっくりと止まっていく。
それでも最後に、槌が一度だけ落ちた。
こつん。
割れた台座の上に、濡れた繊維がへばりついていた。
ザグが呆然と呟く。
「……台座が割れました」
ヴェスパーは額を押さえた。
「破城槌じゃねぇぞ!」
アガレスが記録板に筆を走らせる。
「試作水槌一号機、台座破壊能力を確認!」
「確認するな」
バルガンが顔についた繊維を剥がしながら、目を輝かせた。
「王様、これを大きくすれば敵を砕けるのでは?」
「繊維を叩く機械だ」
「でも台座は砕けました」
「実績にするな」
ベリアルが割れた台座を見て、少し愉快そうに笑っていた。
「悪くない威力だ」
「だから威力を求めてねぇんだよ」
ヴェスパーは割れた黒石台を見下ろした。
失敗だ。
だが、完全な失敗ではない。
水車は回った。
槌も動いた。
ただ、強すぎた。
「原因は分かった」
ヴェスパーは指を折りながら言った。
「水量が多すぎる。槌が重すぎる。落下距離が長すぎる。台座が黒石だけで衝撃を受けてる。繊維を押さえる枠もない。あと回転速度が速すぎる」
アガレスが楽しそうに記録している。
「とても多いですね!」
「多いんだよ」
ヴェスパーはザグたちを見た。
「水量を絞る」
「はい!」
「槌を軽くする」
「はい!」
「落ちる距離を短くする」
「はい!」
「台座の下に骨材を噛ませろ。衝撃を逃がす。黒石だけで受けるな。割れる」
「もう割れました!」
「二度目を防ぐんだよ」
ザグが力強く頷いた。
「繊維を押さえる枠をつけろ。飛ぶ」
バルガンが、まだ少し濡れた顔で頷いた。
「飛ぶな」
「お前が言うと説得力あるな」
メルツが軸を確認する。
「軸受けも少し削れています。霜鋼の薄片を増やしましょう」
「頼む」
アスタロトは、潰れた繊維を手に取っていた。
「叩く力が強すぎますね。繊維が割れています」
「ほぐすんじゃなくて潰してるか」
「はい。水草繊維はまだ耐えますが、黒根草の外皮は切れます」
「なら、もっと軽くする」
湖底勢の悪魔が水路を覗き込んだ。
「水の流れもまっすぐ当てすぎだ。少し斜めに逃がせば、回り方は落ち着く」
「できるか」
「水門と分流板をもう一枚噛ませれば」
「やってくれ」
ヴェスパーは腕を組んだ。
「初号機は暴れすぎた。次は繊維を叩く機械にするぞ」
「王様」
アガレスが顔を上げる。
「では、一号機は失敗ですか?」
「失敗だ」
「記録名は、試作水槌一号機・破城槌型でよろしいですか?」
「よくない」
周囲の悪魔たちが笑った。
その笑いの中で、改良作業が始まった。
台座を組み直す。
黒石の下に骨材を噛ませる。
魔獣腱を巻き、衝撃を逃がす。
叩き台には浅い溝を掘る。
繊維を押さえる枠をつける。
槌はひと回り小さくした。
柄も短くする。
落下距離を抑える。
水車の羽根の角度を浅くし、水を受けすぎないようにする。
分流板も追加した。
水門をほんの少しだけ開け、流量を調整する。
クロセルが記録板を見ながら言った。
「水車点検刻を追加いたします」
「もう追加したのか」
「はい。朝の炉点検後、湯殿排水確認の前がよろしいかと」
「仕事を減らす機械を作ったのに、点検仕事が増える」
「保守のない機械は、災害でございます」
「正論がつらい」
やがて、改良版が完成した。
見た目は少し小さくなった。
槌も軽い。
台座も前より低い。
繊維を押さえる枠がついているため、作業台らしく見える。
ヴェスパーは水門の横に立った。
「今度は、本当に少しだけだ」
「承知しました」
湖底勢の悪魔が水門をわずかに上げる。
温排水が細く流れる。
羽根に当たる。
水車が回る。
ゆっくり。
一定の速度で。
軸が回る。
突起が槌の柄を持ち上げる。
そして、外れる。
槌が落ちた。
どん。
少し間を置いて。
どん。
また、どん。
今度は台座が割れない。
繊維も飛び散らない。
濡れた繊維が、均等に叩かれていく。
アスタロトが繊維を確認し、静かに頷いた。
「これなら、ほぐれます」
繊維班の悪魔たちが、呆然と水槌を見つめていた。
今まで自分たちが棒で叩いていた作業を、水が勝手にやっている。
どん。
どん。
どん。
その音は、鍛冶場の槌とは違った。
鉄を打つ硬い音ではない。
濡れた繊維を叩く、柔らかく湿った音だった。
ニムが水槌の前にしゃがみ込む。
「王様」
「なんだ」
「水が叩いてます」
「そうだな」
「水、えらいですね」
「えらいな」
ヴェスパーは思わず笑った。
アガレスが記録板を高く掲げる。
「水車式自動繊維叩き機、成功です!」
クロセルがすぐに首を横へ振った。
「名称が長うございます」
「じゃあ、水槌でいい」
「水槌」
アガレスの目が輝いた。
「水槌!」
クロセルが筆を走らせる。
「水槌一号機、と記録いたします」
「破城槌型は消しとけよ」
「試作失敗記録としては残します」
「残すな」
「技術発展には失敗の記録が必要でございます」
「それは正しいが、名前が嫌だ」
ザグが水槌を見ながら、感心したように腕を組んでいた。
「これで、繊維班の人数を少し減らせますね」
「ああ」
ヴェスパーは頷いた。
「叩く作業は水槌に任せる。悪魔は素材を並べる、取り替える、洗う、仕分ける。全部は無理でも、腕が死ぬほど叩く必要はなくなる」
「その分、道作りへ回せますか?」
「少しはな」
メルツが言う。
「縄の生産量も上がりそうです。袋も作れます」
アスタロトが繊維束を撫でた。
「湖底の水草繊維も、これなら安定して処理できます。寝具にも、荷袋にも使えるでしょう」
クロセルが記録板に追加していく。
「繊維班の再編。水槌点検係。乾燥場拡張。荷袋生産数の見直し」
「増えてる増えてる」
「生産量が増えれば、管理項目も増えます」
「地獄だな」
「地獄でございますので」
「便利な言葉にするな」
ヴェスパーは水槌を見た。
水が流れ続ける。
輪が回る。
槌が落ちる。
どん。
どん。
どん。
単純な仕組みだ。
だが、その単純な仕組みが、悪魔たちの腕を少し休ませる。
人手を少し空ける。
道作りへ回す余裕を生む。
「道を作るには、道だけ見てても駄目だな」
ヴェスパーは呟いた。
アガレスが顔を上げる。
「王様?」
「道を作る連中の飯、服、寝床、荷袋、縄。そっちが詰まったら、結局道も止まる」
彼は水槌の動きを見つめた。
「だったら、詰まってる仕事から機械に食わせる」
「機械に、仕事を食わせる」
アガレスが嬉しそうに復唱した。
「王様らしいですね!」
「俺らしいのか、それ」
「はい。面倒を嫌がりながら、面倒を増やすところが」
「褒めてないだろ」
「褒めています!」
「信用できねぇ」
その時、ザグが水槌を見つめたまま、ぽつりと言った。
「王様」
「なんだ」
「これ、もっと大きくすれば石も砕けませんか?」
ヴェスパーは固まった。
周囲の悪魔たちも、水槌を見た。
黒石の槌。
上下運動。
一定の衝撃。
砕石。
鉱石処理。
使える。
使えるが、今それを口にされると困る。
「……言うと思った」
アガレスが飛び跳ねた。
「王様! 水車式砕石槌ですね!」
「まだ作らねぇぞ」
「まだ、ということは?」
「……たぶんだ」
ベリアルが低く笑う。
「破城槌型の出番だな」
「出番じゃねぇ」
バルガンが拳を握る。
「俺も叩きたい!」
「お前は水車じゃない」
「では、俺車か!」
「何も分かってねぇ」
周囲に笑いが広がった。
その中で、水槌は動き続ける。
どん。
どん。
どん。
温排水路の横で、規則正しい音が村に響いた。
鍛冶場の槌とは違う。
戦いの音でもない。
悪魔が叩いていた仕事を、水が代わりに叩いている音だった。
ニムがその音に合わせて、小さく首を揺らしている。
「王様、水って働き者ですね」
「そうだな」
ヴェスパーは回り続ける水車を見上げ、腕を組んだ。
「……道を作る前に、仕事の方を減らすか」
パンデモニウムへ続く線は、まだ遠い。
南の石切り場も、黒い鉱山も、旧王都東広場も、すべてがまだ途中だ。
けれど、その手前で火の村はまた一つ、地獄らしくない音を手に入れていた。
どん。
どん。
どん。
水槌の音は、温排水路の流れに乗って、火の村の中へ静かに広がっていった。
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