第三十八話 霜鋼の道
パンデモニウムへ移る。
そう口にした翌日、ヴェスパーは研究所前の広場に立っていた。
正確には、広場に広げられた巨大なキャンバスの前で、腕を組んでいた。
キャンバスには、火の村、湯殿、南側排水路、貯水池、地底湖、西門交易所、旧王都東広場、そしてパンデモニウム東門までの線が描き込まれている。
線。
線。
線。
昨日までは、ただの思いつきに近かったものが、今朝になって見ると、恐ろしいほど仕事の形をしていた。
「……あれもない。これもない」
ヴェスパーはぼそりと呟いた。
隣でアガレスが記録板を抱え、目を輝かせている。
「王様、素晴らしいです!」
「何がだ」
「足りないものが、こんなに見えています!」
「見えすぎて嫌になるんだよ」
ヴェスパーは額を押さえた。
飯が足りない。
家が足りない。
寝床が足りない。
鍋が足りない。
炊事場が足りない。
洗濯場が足りない。
資材置き場が足りない。
そして何より、パンデモニウムへ移るには、道が足りない。
勢いで突っ込めば、誰かが凍える。
荷車が詰まる。
食料が届かない。
帰り道が分からなくなる。
つまり、いつもの地獄である。
「王様」
クロセルが静かに歩み寄った。
黒い燕尾服の裾を整え、手には新しい記録板を持っている。
「本日の作業名はいかがいたしましょう」
「作業名?」
「昨日の宣言を受け、パンデモニウム遷都準備に関する最初の正式作業となりますので」
「正式作業にするな。逃げ道がなくなる」
「すでにございません」
「言い切るな」
クロセルは筆を構えたまま、涼しい顔で待っている。
ヴェスパーは巨大キャンバスの一角を指差した。
火の村から、旧王都東広場へ伸びる線だ。
「まずはここだ」
「旧王都東広場でございますね」
「ああ。あそこはもう見つけてる。なら次は、使えるようにする」
周囲に集まっていた悪魔たちが顔を上げた。
ザグ、メルツ、バティン、ハボリム。
フルカス、フォルネウス、グラスヴァル。
さらに湖底勢からはベリアルとアスタロトも来ている。
昨日の宴の名残は、まだ少しだけ彼らの顔に残っていた。
だが、今朝の空気は宴ではない。
完全に現場だった。
「パンデモニウムへ行くのですか?」
グラスヴァルが問うた。
ヴェスパーは首を横に振る。
「違う」
「違うのですか」
「これから何度も行き来することになる」
ヴェスパーはキャンバスに指を走らせた。
火の村。
旧王都東広場。
パンデモニウム東門。
「だから、ここいらできっちり整備するぞ」
フルカスが目を細める。
「進軍路、でございますか」
「半分はそうだな」
「半分は?」
「物流路だ」
ヴェスパーは言った。
「パンデモニウムへ行くたびに、村から資材を全部積んで出発してたら死ぬ。毎回、食料、工具、骨材、黒石材、魔鉄、配管、結界石、炉、鍋、毛布まで運んでたら、荷車が何台あっても足りねぇ」
「では、東広場に集めるのですね」
クロセルが筆を走らせる。
「そうだ。旧王都東広場を、前線資材置き場にする」
「前線資材置き場」
アガレスが嬉しそうに復唱した。
「よい響きです!」
「良い響きか?」
「とても作業の匂いがします!」
「最悪だな」
だが、方針は決まった。
旧王都東広場を、ただの到達地点ではなく、中継地点にする。
そこに資材を集める。
そこからさらに奥へ進む。
パンデモニウムへ突っ込むのではなく、パンデモニウムまで村を伸ばす。
「まずは道だ」
ヴェスパーは言った。
「道がなければ、何も運べねぇ」
「そり道ですか?」
グラスヴァルが問う。
霜牙軍――いや、第九圏探索隊にとっては、氷の上を進むならそりが基本だ。
これまで村も、そりにはずいぶん助けられてきた。
だが、ヴェスパーはまた首を横に振る。
「そりだけじゃ駄目だ」
「なぜです」
「溶けるからだ」
グラスヴァルは一瞬だけ沈黙した。
その顔に、分かりたくないが分かる、という表情が浮かぶ。
「……確かに」
「氷の上なら、そりが速い。だが、炉と配管で温めた道、排水路沿いのぬかるみ、旧王都の黒石舗装。そういう場所では荷車の方がいい」
ヴェスパーはキャンバスの上に、太い線を描いた。
「そりと荷車を使い分ける」
「物流体系の複線化でございますね」
クロセルが言った。
「お前、最近そういう言葉をためらわなくなったな」
「記録とは、現実を言葉にする行為でございますので」
「現実の方がどんどん面倒になってるんだよ」
ヴェスパーはため息をつき、ザグたちの方を見た。
「道を作るぞ」
「はい!」
ザグが即座に返事をした。
「黒石を敷くんですか?」
「それだけじゃ足りない」
「では、何を?」
「レンガだ」
その場の悪魔たちが、そろって首を傾げた。
「れんが」
アガレスが記録板に書きかけて、手を止める。
「王様、れんがとは?」
「焼いて固めた土だ」
「土を焼くのですか?」
「ああ」
「焼いた土を、道にするのですか?」
「そうだ」
ザグが眉を寄せた。
「土は土では?」
「焼けば変わる」
「土が、石になるのですか?」
「石ほどじゃない。でも形を揃えられる。積める。並べられる。壁にも道にも使える」
アガレスの目が一気に輝いた。
「王様! それはつまり、同じ形の土を量産できるということですか!」
「そうだ」
「素晴らしいです!」
「ただし、粘土がいる」
「ねんど」
また全員が首を傾げる。
ヴェスパーは額を押さえた。
「そこからか」
「王様」
その時、静かな声が入った。
アスタロトだった。
彼女は長い髪を後ろへ払い、南側排水路の方角を見る。
「土の話であれば、少し気になる場所があります」
「気になる場所?」
「南側の温排水路沿いです。あそこは水と熱で凍土が緩み、場所によって土の層が違います。畑を広げるために調べていましたが、根菜には重すぎる泥があります」
ヴェスパーの目が変わった。
「水を含んでも、形を保つか?」
「保ちます」
「乾くと硬いか?」
「かなり」
「掘るぞ」
即決だった。
アスタロトは少しだけ微笑む。
「やはり、使える土なのですね」
「たぶんな」
「たぶんで走るのですか」
「現場はだいたいたぶんで始まる」
「地獄らしいですね」
「やめろ。否定できない」
こうして、作業は二手に分かれた。
ザグ、メルツ、バティン、フルカス、グラスヴァルの一部は旧王都東広場へ向かう。
広場を資材置き場にするためだ。
一方、ヴェスパー、アガレス、アスタロト、ブエル、ハボリムの一部は南側排水路へ向かう。
粘土を探すためである。
まず動いたのは、東広場組だった。
旧王都東広場は、以前の遠征で到達している。
氷に半ば埋もれた広場。
倒れた街灯。
砕けた噴水。
黒石の舗装。
遠くに見えるパンデモニウム東門の影。
あの時は、ただ見つけるだけで精一杯だった。
だが、今回は違う。
荷車が何台も向かう。
黒石材。
骨材。
魔鉄板。
予備工具。
小型炉。
結界石。
帰還柱の補修材。
空の大鍋。
毛布と皮。
そして、資材を覆うための魔獣皮。
東広場へ着くと、ザグたちはすぐに作業を始めた。
「ここの氷を削れ!」
「倒れた柱は使える部分だけ切り出せ!」
「噴水跡は資材置き場にするぞ!」
「帰還柱の周りを黒石で固めろ!」
ザグが声を張る。
昨日までは訓練場の破損で死んだ目をしていた男とは思えない。
完全に工事現場の顔だった。
フルカスは広場の外周を見回し、防衛位置を確認している。
「北側は見通しが悪うございます。資材置き場を置くなら、南寄りがよいでしょう」
グラスヴァルは氷の厚さを調べていた。
「この辺りは下が空いている。重い資材を置くな」
ザグが顔をしかめる。
「また空洞ですか!」
「旧王都だ。地下に何があってもおかしくない」
「王様がいなくても無茶振りされている気がします!」
フルカスが静かに笑った。
「よい傾向です」
「よいのですか!」
東広場の一角に、小型炉が置かれる。
その周囲を黒石で囲い、さらに風除けを立てる。
資材は種類ごとに並べられた。
黒石材。
骨材。
魔鉄片。
工具。
配管用の骨管。
結界石。
予備荷車の車輪。
大鍋。
ただの広場が、少しずつ前線拠点へ変わっていく。
一方、南側排水路では、別の意味で地獄の現場が始まっていた。
温排水路の周囲は、以前よりも明らかに変わっていた。
湯殿からの排水は沈殿槽を通り、貯水池へ流れ、一部は旧河道へ逃がされている。
その道筋の周辺では、氷が緩み、黒土が顔を出していた。
霜苔が広がり、暗黒大根の試験区画があり、黒根草の隔離区画には注意札が立っている。
ブエルが、何かうねうね動く植物を抱えていた。
「王様ぁ、これも植えていいですかぁ?」
「まず名前を言え」
「噛みつき湿根ですぅ」
「駄目だ」
「まだ何も説明してませんよぅ」
「名前で十分だ」
ブエルは残念そうに湿った根を抱きしめた。
アスタロトは排水路の脇にしゃがみ込み、長い指で土をすくっていた。
黒く湿った土。
その下に、少し色の違う層がある。
灰色と赤黒が混じった、重い泥。
「こちらです」
アスタロトはその泥を手のひらで丸めた。
泥は崩れなかった。
指で押すと、形が残る。
ヴェスパーはそれを受け取り、手の中で握った。
ずしりと重い。
水を含んでいる。
だが、砂のように崩れない。
「……粘土だな」
アガレスが身を乗り出す。
「王様、これがねんどですか」
「ああ」
「ただの泥に見えます」
「泥の中でも、かなり使える泥だ」
「泥にも身分があるのですね!」
「そういう話じゃない」
ヴェスパーは粘土を見つめた。
頭の中に、形が浮かぶ。
こねる。
型に入れる。
乾かす。
焼く。
積む。
敷く。
道にする。
壁にする。
炉にも使える。
「よし」
ヴェスパーは立ち上がった。
「これでレンガが作れるぞ」
周囲の悪魔たちが顔を見合わせる。
ハボリムが髭を撫でた。
「土を焼くのですな」
「ああ」
「火はよいのう」
「今回は本当に火がよい」
すぐにレンガ工房の仮設が始まった。
粘土採取場。
こね場。
型抜き場。
乾燥棚。
焼成炉。
完成品置き場。
ひび割れ品置き場。
名前をつけると、立派な工房に見える。
実態は、排水路沿いの泥場に悪魔たちが群がっているだけだった。
だが、始まりはいつもそんなものだ。
バティンの配下が粘土を掘る。
ブエルが霜苔の繊維を少し持ってくる。
メルツの弟子たちが骨で作った型枠を持ち込む。
ハボリムが焼成炉の火加減を見る。
アガレスが術式で乾燥を補助する。
最初の粘土が型に詰められた。
四角い。
やや歪んでいる。
ヴェスパーは眉をひそめた。
「型が甘いな」
「これでは駄目ですか?」
「積むなら形を揃えたい」
「形を揃えるのが、そんなに大事なのですか?」
「大事だ」
ヴェスパーはまだ柔らかい粘土の角を指で整えた。
「積むにしても、敷くにしても、形が違うと隙間が増える。隙間が増えるとずれる。ずれると壊れる」
アガレスが記録板に勢いよく書く。
「王様、同じ形にすることが強さにつながるのですね!」
「そうだ」
「規格化です!」
「嫌な単語を覚えたな」
最初のレンガは、乾燥途中で割れた。
「王様! 割れました!」
「乾かし方が急すぎる。次はゆっくりだ」
二つ目は、焼きすぎて黒い塊になった。
「王様! 石になりました!」
「違う。焦げた土だ」
三つ目で、ようやくそれらしいものができた。
赤黒い焼きレンガ。
表面は少しざらつき、角は完全には揃っていない。
だが、手で叩くと、硬い音がした。
ヴェスパーはそれを持ち上げ、少しだけ笑った。
「……いけるな」
アガレスが飛び跳ねた。
「王様! 土が四角くなって硬くなりました!」
「言い方は雑だが、合ってる」
「これを道に敷くのですね!」
「そうだ」
ザグが東広場から戻ってきたのは、ちょうどその頃だった。
顔は土と氷と煤で汚れていた。
「王様、東広場の資材置き場、仮で形になりました!」
「早いな」
「壊れた広場なので、壊れている場所を資材置き場にすればよいだけでした!」
「言い方がひどい」
ザグはヴェスパーの手元を見た。
「それがレンガですか」
「ああ」
「黒石より軽いですね」
「だから量産する」
ヴェスパーは焼きレンガをザグに渡した。
ザグは両手で受け取り、しげしげと眺めた。
「これを道に」
「敷く」
「どれくらい必要ですか?」
「山ほど」
ザグの顔が固まった。
「山ほど」
「霜鋼とレンガが最優先だ」
ヴェスパーは言った。
「黒石もいる。骨管もいる。結界石もいる。だが、今一番必要なのは、道を凍らせない霜鋼と、荷車が走れるレンガだ」
アガレスが記録板を抱えて、また目を輝かせる。
「霜鋼とレンガ、最優先ですね!」
「ああ」
その言葉を聞いて、アガレスは別の記録板を取り出した。
「では、霜鋼柱の試作もご確認ください!」
「もう作ってたのか」
「はい!」
アガレスが合図すると、二人の悪魔が細長い柱を運んできた。
黒石の芯。
魔鉄の帯。
氷晶石の欠片。
そして、淡い青黒い光を帯びた新素材。
霜鋼。
先日まで護符として試していたものを、柱に組み込んだものだ。
柱の表面には細い溝が走り、下部には地面へ差し込むための尖った基部がある。
「霜鋼は冷気を吸います」
アガレスは得意げに説明した。
「ただ、吸いすぎると割れますので、柱の下から地中へ逃がします。その内側に骨管の熱を通せば、道だけを凍りにくくできます」
「冷気を消すんじゃなく、逃がすのか」
「はい!」
「なら使える」
ヴェスパーは霜鋼柱を見た。
冷気を全部消すのではない。
火で何もかも溶かすのでもない。
吸い、逃がし、必要な場所だけ熱を残す。
「火で全部溶かすんじゃない」
ヴェスパーは呟いた。
「冷気を制御する」
「はい!」
「道の中だけ、通れる温度にする」
「王様、それは道路ですか? 結界ですか? 冷気処理設備ですか?」
アガレスが真顔で聞いた。
ヴェスパーは少し考えた。
「全部混ざった道だ」
「混合型道路設備ですね!」
「言い方がどんどん嫌になるな」
やることは決まった。
レンガ工房は全力で回す。
霜鋼柱も作る。
東広場には資材を集める。
そして、その間を結ぶ道を作る。
問題は、道の幅だった。
ザグが黒石の板を持ってきて、地面に簡単な線を引いた。
「王様、道幅は荷車一台分でよいですか?」
「駄目だ」
「二台分ですか?」
「三台だ」
ザグの手が止まる。
「三台」
「荷車三台が横に通れる幅にするぞ」
周囲の悪魔たちがざわめいた。
「広すぎませんか?」
「広くするんだよ」
ヴェスパーは黒石の地面に、足で線を引いた。
「一台分じゃ、行きと帰りが詰まる。二台分でも、真ん中で荷車が壊れたら終わる。三台分あれば、すれ違える。止まった荷車を避けられる。整備する悪魔も入れる」
「整備するための幅も、道に含めるのですか」
クロセルが目を細めた。
「そうだ。通る道じゃない。運ぶ道を作る」
ヴェスパーは言った。
「両脇は黒石で固めろ」
「両脇を、ですか」
「中央はレンガの道だ。だが、レンガだけだと横に逃げる。黒石で縁を作って、道の形を固定する」
ザグが頷く。
「黒石で枠を作るのですね」
「そうだ。道にも端がいる」
「道に端」
アガレスが感心したように呟いた。
「王様、道とは奥深いのですね!」
「奥深くしたくてしてるわけじゃねぇ」
ヴェスパーは、さらに続けた。
「整備用に、同じ長さの棒を何本か作れ」
「棒、ですか?」
「道幅を測る棒だ」
今度は、全員が不思議そうな顔になった。
「道を、棒で測るのですか?」
「勘でやるな」
ヴェスパーは言った。
「この棒を横に置いて、幅を合わせる。同じ幅の道を、ずっと続ける」
「道幅を統一するのですね」
クロセルが筆を走らせる。
「道路規格、と記録いたします」
「また嫌な言葉が生まれた」
「必要な言葉かと」
「必要なのが嫌なんだよ」
ザグはすぐに作業へ移った。
荷車三台分の幅を測る長い棒。
レンガ列を揃えるための短い棒。
霜鋼柱の間隔を測る棒。
黒石の縁をまっすぐに置くための棒。
すべてを同じ長さ、同じ形で作る。
メルツが骨材と魔鉄片で補強し、バティンが曲がりを確認する。
アガレスはなぜか一本一本に番号を振ろうとしていた。
「番号はいらねぇ」
「管理できますよ!」
「棒の管理から始めると、今日が終わる」
「それは困りますね」
「分かってくれて助かる」
やがて、最初の試験区間が決まった。
火の村から東広場へ向かう道の、ほんの一部。
まずは短く。
下に砕いた失敗レンガと骨片を敷く。
黒土を踏み固める。
その上に、焼きレンガを並べる。
両脇は黒石で縁取る。
黒石の外側には霜鋼柱を立てる。
地下には骨管配管を通し、わずかな熱を流す。
要所には帰還柱と小型炉。
短い。
まだ粗い。
だが、形は道だった。
悪魔たちが集まって、それを見下ろしている。
土でもない。
氷でもない。
黒石を削っただけでもない。
焼いた土を敷き詰めた、赤黒い道。
「これが、舗装か」
ベリアルが低く言った。
いつの間にか来ていた。
腕を組み、霜鋼柱とレンガ道を見ている。
「舗装ってのは、道にレンガを敷くことだ」
ヴェスパーは答えた。
「土のままだと沈む。氷のままだと滑る。黒石だけだと重いし、数もいる。だから焼きレンガを敷く」
「道は踏めれば道ではないのか」
バティンが真顔で言った。
「踏むたび沈む道は罠だ」
「地面とは、沈むものでは?」
「その常識を今日で捨てろ」
周囲の悪魔たちが、妙に真剣な顔で頷いた。
ヴェスパーは少し不安になった。
「いや、全部の地面を疑えって意味じゃないからな」
「王様、荷車を」
ザグが声を上げた。
試験用の荷車が運ばれてくる。
空ではない。
黒石材を少し積んである。
実際に使えるかどうかを見るためだ。
荷車を押す悪魔が、少し緊張した顔で取っ手を握った。
「行け」
ヴェスパーが言う。
荷車が、焼きレンガの上に乗った。
車輪が沈まない。
滑らない。
黒土を噛んで止まることもない。
がたがたと揺れはする。
レンガの高さもまだ揃っていない。
ところどころ隙間もある。
それでも、荷車は前へ進んだ。
悪魔たちが息を呑む。
荷車は試験区間を抜け、向こう側で止まった。
押していた悪魔が振り返る。
目を輝かせていた。
「王様!」
「なんだ」
「荷車が走りやすいです!」
ヴェスパーは小さく笑った。
「だろ」
その一言で、周囲が一気に沸いた。
「沈まない!」
「車輪が取られないぞ!」
「これなら資材を多く積める!」
「そりより楽ではないか!」
その言葉に、第九圏探索隊の悪魔がむっとした顔をする。
「氷の上なら、そりの方が速い」
「なら使い分けだ」
ヴェスパーは即座に言った。
「氷の道はそり。温かい道は荷車。これからは両方使う」
「物流体系の複線化でございますね」
クロセルがまた言った。
「それ二回目だぞ」
「重要なので」
「お前の記録だけ、どんどん賢くなるな」
アスタロトは、道の端に立ち、霜鋼柱を見ていた。
柱の表面に、うっすらと白い霜が浮いている。
だが、その内側のレンガ道は凍っていない。
「冷気を吸っていますね」
「ああ」
「そして、道の熱を奪いすぎていない」
「今のところはな」
「面白い素材です」
アスタロトは静かに微笑んだ。
「畑にも使えるかもしれません」
「やめろ。用途を増やすな」
「食料資源統括としては、検討すべきかと」
「分かった。後で検討だけしろ。今は道だ」
遠くの東広場へ向けて、悪魔たちが動き始める。
レンガを積む者。
失敗レンガを砕く者。
黒石を運ぶ者。
霜鋼柱を立てる穴を掘る者。
骨管を接続する者。
同じ長さの棒を持ち、道幅を確認する者。
その光景を見て、ヴェスパーはふと黙った。
昨日までは、飯と家がないと騒いでいた。
その前は、湖底勢との決闘だった。
その前は、地底湖の氷牢。
温泉、排水路、霜牙軍、交易所、時間制度、温室、黒い鉱山、石切り場。
問題は次から次へと出てくる。
そのたびに、何かを作ってきた。
炉。
道。
門。
帰還柱。
温室。
水門。
湯殿。
訓練場。
そして今度は、レンガの道。
「王様?」
アガレスが隣から見上げる。
「どうしました?」
「いや」
ヴェスパーは、まだ短いレンガ道を見た。
その先には、旧王都東広場がある。
さらにその奥には、パンデモニウムがある。
凍りついた旧王都。
眠った都市。
いつか、そこへ移る。
ただ移るのではない。
住めるようにしてから移る。
「道ができれば、物が動く」
ヴェスパーは言った。
「物が動けば、家が建つ」
アガレスが記録板を構える。
「家が建てば、人が住める」
クロセルも筆を止め、静かに聞いていた。
「人が住めば、都になる」
アガレスが、少しだけ笑った。
「王様、パンデモニウムまで続けますか?」
「続ける」
ヴェスパーは即答した。
「これから何度も行き来するんだ。なら、最初からちゃんと作る」
霜鋼の柱が、赤黒い熱を抱いた道の脇に立ち並ぶ。
その足元では、焼きレンガが一枚、また一枚と敷き詰められていく。
中央には、荷車三台が横に通れるだけの幅。
両脇には、黒石の縁。
外側には、冷気を吸う霜鋼柱。
地下には、熱を運ぶ骨管。
まだ短い。
まだ粗い。
都へ続くには、あまりにも頼りない。
けれど、荷車は走った。
遠く、氷に沈むパンデモニウム東門の影が、白い風の向こうに見えている。
そこへ向かって、赤黒いレンガの線が一本、伸び始めていた。
「よし」
ヴェスパーは肩を回し、まだ積み上がったままのレンガと、次の霜鋼柱の束を見る。
「次の現場だ」
氷の地獄に、初めてレンガの道が生まれた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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今後ともよろしくお願いいたします。




