第三十七話 お集まりの諸君、一大事だ
宴の翌朝、火の村は死屍累々だった。
もちろん、本当に死んでいるわけではない。
ただ、炉の周り、飯場の横、壊れた訓練場の端、湯殿へ向かう道の途中、台車置き場の影に至るまで、悪魔たちが思い思いの場所で転がっていた。
火の村の悪魔。
湖底から戻った悪魔。
元霜牙軍――今は第九圏探索隊と呼ぶことになった者たち。
三勢力が、ごちゃ混ぜになって寝ている。
湖底勢の若い悪魔が、バルガンの腕を巨大な丸太か何かと勘違いしたのか、その上に頭を乗せていた。
バルガン本人は大の字で寝ている。
幸せそうだった。
別の場所では、探索隊の悪魔が氷槍を抱いたまま丸くなっている。その隣では、湖底勢の悪魔が錆びた鎖を枕にして眠っていた。
炉の前では、小さな湖底の悪魔が空の器を抱えたまま、湯気の消えた鍋を名残惜しそうに見上げている。
「……平和なのか、地獄なのか、分からねぇな」
ヴェスパーは壊れた訓練場の脇に立ち、ぼそりと呟いた。
右腕が痛い。
肩も痛い。
背中も痛い。
昨日のベリアルとの決闘で酷使した全身が、朝になって本格的に文句を言い始めていた。
魔力で補強していた分、肉体の方に反動が来ている。
拳を握ろうとすると、指先に鈍い痛みが走った。
「……二度と決闘なんかしねぇ」
「王様、昨日も似たようなことをおっしゃっておりました」
隣でクロセルが記録板を抱えている。
朝から涼しい顔だった。
「記録するな」
「重要な発言かと」
「感情の叫びだ」
「王の感情も記録対象でございます」
「やめろ。後世に残すな」
ヴェスパーは顔をしかめた。
目の前では、ザグが訓練場の惨状を見下ろしていた。
黒石の床は割れ、南側の防壁には亀裂が走り、観覧用の土手は一部崩れている。昨日の決闘の熱狂と宴の騒ぎが嘘のように、朝の冷たい空気の中で現実だけが残っていた。
ザグの目は死んでいた。
「王様」
「なんだ」
「これ、直すんですよね」
「直すしかねぇな」
「誰が」
「お前らが」
「やっぱり」
ザグは空を見上げた。
「訓練場、昨日できた気がするんですけど」
「できたものは壊れる」
「王様が壊したんですよ」
「ベリアルも壊した」
「王様も壊しました」
「半分だ」
「半分以上です」
クロセルが記録板へ目を落とす。
「破損原因比率を算出いたしますか?」
「しなくていい」
「訓練場修理計画には必要です」
「心に刺さるからやめろ」
ヴェスパーは壊れた黒石を見ながら、深く息を吐いた。
訓練場の修理。
それだけなら、まだいい。
だが、問題はそれだけではなかった。
飯場の方から、ハボリムがゆっくり歩いてきた。
白い髭を揺らしながら、手には空になった大鍋用の杓子を持っている。
「王様」
「嫌な予感しかしねぇな」
「粥が足りませぬ」
ヴェスパーは目を閉じた。
「やっぱりか」
「昨夜は、火の村、湖底勢、探索隊、全てが食べました。よいことです。たいへん、よいことです」
「それは分かる」
「ですが、今朝の分が足りませぬ」
「だよな」
ハボリムは杓子を胸の前で握った。
「鍋も足りませぬ」
「鍋もか」
「大鍋は三つでは足りませぬ。炊事場も足りませぬ。器も足りませぬ。配膳する者も足りませぬ」
「足りないの連打やめろ」
「火はよいのですが、火にかける鍋が足りませぬ」
「火の哲学を混ぜるな」
そこへ、今度はメルツが布束を抱えて走ってきた。
「王様、寝床も足りません!」
「そっちもか」
「仮設小屋は満員です。救助者用の寝床も、湖底勢で埋まっています。探索隊の一部は台車置き場で寝ました」
「見た」
「台車を動かせません!」
「そりゃそうだろうな」
さらにバティンが泥のついた手を拭きながら近づいてくる。
「仮設小屋の周囲もぬかるみ始めています。人数が増えすぎて、排水と踏み固めが追いつきません」
「衛生面も危ないな」
「はい。湯殿はありますが、洗濯場と乾燥場が足りません」
「風呂を作ったら洗濯場が問題になるのか」
「生活とはそういうものでございます」
クロセルが真顔で言った。
「お前、最近そういうの覚えてきたな」
「はい。地獄の行政は、たいへん学びが多うございます」
「嫌な学びだな」
その時、飯場の前で小さな騒ぎが起きた。
湖底勢の悪魔が、空の鍋を真剣に覗き込んでいる。
「この器は、もう何も生まぬのか」
「鍋は食べ物を生む道具じゃねぇ」
近くの火の村の悪魔が困った顔で答えていた。
「だが昨夜は、何度も粥が出てきた」
「作って入れてるんだよ」
「……火の村は、鍋に食料を入れるのか」
「湖底ではどうしてたんだよ」
「水草は水にある」
「文化が違いすぎる」
ヴェスパーはその会話を聞き、額を押さえた。
「地獄で住宅難どころか、炊事文化のすり合わせからかよ」
アガレスが、どこからともなく飛んできた。
手には記録板。
目は輝いている。
「王様! 問題が山積みですね!」
「嬉しそうに言うな」
「知識の気配がします!」
「災害の気配だよ」
「どちらも記録対象です!」
「頼もしくねぇな」
ヴェスパーはしばらく黙っていた。
そして、壊れた訓練場、空の大鍋、台車置き場で寝ている悪魔たち、ぬかるんだ道、積み上がった空樽を順に見た。
逃げられない。
これはもう、個別対応では無理だ。
「クロセル」
「はい」
「鐘を鳴らせ」
クロセルが顔を上げた。
「緊急招集でございますか」
「ああ」
ヴェスパーは痛む右腕を軽く振り、顔をしかめた。
「全員集合だ」
カン、と鐘が鳴った。
いつもの作業開始の鐘ではない。
少し低く、短く、連続して鳴る緊急招集の音。
村のあちこちで寝ていた悪魔たちが、びくりと体を起こした。
炉のそばの湖底勢が周囲を見回す。
探索隊の悪魔が反射的に氷槍を探す。
火の村の悪魔たちは、寝ぼけながらも「ああ、また王様が何か言うんだな」という顔で立ち上がった。
集合場所は、壊れた訓練場の横になった。
研究所前広場では狭すぎる。
訓練場は壊れているが、広さだけはある。
村側の悪魔たち。
湖底勢。
第九圏探索隊。
各班代表。
フルカス、ファルナウス、フォルネウス、ベリアル、アスタロト、グラスヴァル。
アガレスとクロセルは記録板を持ち、すでに準備万端だった。
ヴェスパーは割れた黒石の上に立った。
右腕は痛む。
だが、顔には出さない。
出したところで、問題は減らない。
「さぁ、お集まりの諸君」
ヴェスパーは周囲を見渡した。
「一大事だ」
悪魔たちがざわめく。
ベリアルが腕を組む。
グラスヴァルが警戒するように目を細める。
バルガンが拳を握った。
「敵か!」
「違う」
「では決闘か!」
「違う」
「では何だ!」
ヴェスパーは真顔で言った。
「飯と家がない」
沈黙が落ちた。
風が、壊れた訓練場を吹き抜ける。
それから、アガレスがぱっと顔を輝かせた。
「飯と家がない会議ですね!」
「やめろ。そのまま言うと情けない」
クロセルが筆を走らせる。
「人口急増対応会議、と記録いたします」
「それでいい」
「正式議題、人口急増に伴う食料、居住、作業割、衛生、治安、軍制、探索計画の再編」
「急に立派になったな」
「中身は飯と家でございます」
「言わなくていい」
悪魔たちの間に、ざわざわと声が広がった。
最初は拍子抜けした顔をしていた湖底勢も、周囲を見回して少しずつ理解し始める。
空の大鍋。
寝床に入りきれない者。
仮設小屋の外に積まれた布。
台車置き場で寝ていた悪魔。
壊れた訓練場。
足りないものは、見れば分かる。
「仲間が増えた」
ヴェスパーは言った。
「それはめでたい。湖底から戻った者たちもいる。霜牙軍は第九圏探索隊になった。火の村だけじゃ手が届かなかった場所にも、これから手が届く」
湖底勢の何人かが、静かに顔を上げる。
探索隊の悪魔たちは、まだその名に慣れていないのか、少しむずがゆそうな顔をした。
「だが、飯は勝手に増えねぇ。寝床も勝手に生えねぇ。仕事の割り振りも、気合いと善意だけじゃ回らねぇ」
ヴェスパーは足元の割れた黒石を軽く蹴った。
「このままだと、数日で混乱する。配給で揉める。寝床で揉める。作業場所で揉める。水場で揉める。訓練場でも揉める。たぶん、バルガンは突っ込む」
「なぜ俺だけ名指しだ!」
「突っ込むだろ」
「突っ込む!」
「ほらな」
フォルネウスが静かに言う。
「突撃許可制が必要ですね」
「待て! 俺の突撃が制度で縛られるのか!」
「はい」
「三秒待つ訓練を再開します」
「長い!」
「短いです」
ベリアルが低く言った。
「妥当な裁定だ」
バルガンが振り返る。
「また裁かれた!?」
少し笑いが起きた。
だが、ヴェスパーはすぐに表情を戻した。
「まず、食料だ」
ブエルがぴょこんと手を上げた。
「採取食料部、頑張りますぅ」
「頑張るだけじゃ足りねぇ。班を増やす」
ヴェスパーは指を折る。
「灰豆、黒根草、暗黒大根、キノコ、霜苔。今までの採取量を増やす。それに、地底湖周辺の食材調査を追加する」
湖底勢の一人が顔を上げた。
「地底湖には食える藻や貝がある」
「貝がいるのか」
「いる。殻が硬いが、中身は食える」
「硬いのはこの村の連中ならどうにかするだろ」
ザグが小さく頷いた。
「殻は素材になりますか?」
「食う前から素材を見るな。いや、見ていいけど」
別の湖底勢が、少し誇らしげに言った。
「黒藻は干せば保存できる。噛めば少しぬめるが、腹持ちはいい」
「ぬめるのか」
「それがよい」
「そこは昨日から文化差が埋まらねぇな」
ブエルがのんびり言う。
「食べられるものだけじゃなくて、食べようとしてくるものもいますぅ」
「後半がいらねぇ」
「地底湖ですのでぇ」
「説明になってねぇ」
アスタロトが静かに口を開いた。
「地底湖の食材は、私の方で整理できます。水草、藻、根、貝、泥地に潜る魔物。食べられるもの、薬になるもの、避けるべきものを分けましょう」
「助かる」
ヴェスパーは頷いた。
「じゃあ採取班は、ブエルとアスタロトで組め。湖底勢から案内役を出す。探索隊は氷河地域の食料調査だ。凍結魔物、凍結植物、霜苔、氷晶石。食えるもの、危ないもの、保存できるものを分類しろ」
グラスヴァルが静かに頷いた。
「承知した」
「ただし、勝手に奥へ行くな。帰還柱を建てながら進め。火の道と冷気の道を分ける。無理に溶かすな。無理に凍らすな」
「火と氷の境界管理か」
「そうだ。お前らは寒い場所に詳しい。だが、こっちの炉や結界石とぶつかると事故になる」
「分かった」
グラスヴァルは短く答えた。
その顔には、以前のような硬さだけではないものがあった。
監視役として氷を守っていた悪魔ではなく、第九圏を調べる隊の長として、彼は立っている。
「次、素材だ」
ザグが身を乗り出す。
「黒石、骨材、皮、脂、魔鉄、壊れた資材を集める。用途は仮設住宅、寝具、配管、結界石、台車、倉庫、炊事場、それから訓練場修理」
「訓練場修理!」
ザグの目に光が戻った。
「それは最優先で――」
「飯と家が先だ」
「……はい」
「露骨にしょんぼりするな。直す。直すけど、先に寝床だ。訓練場で寝るわけにいかんだろ」
「寝ている者はいました」
クロセルが補足する。
「いたけど、正式な寝床にするな」
素材回収班は、ザグ、バティン、メルツを中心に再編されることになった。
湖底勢からは重荷運搬に向く者。
探索隊からは氷上運搬に向く者。
火の村からは加工と組み立てに慣れた者。
細かな説明はクロセルが板にまとめ、アガレスが能力調査と一緒に記録していく。
ヴェスパーは、そこでベリアルとアスタロトを見た。
「お前らの配下が何をできるか、アガレスに伝えてくれ」
ベリアルは当然のように答えた。
「戦える」
「それ以外だ」
「壊せる」
「それも一旦置け」
「縛れる」
「だんだん悪くなってるぞ」
アスタロトが、静かに横から言った。
「水中作業、泥地移動、重荷運搬、鎖操作、採取、簡易治療、記録補助、調理補助、地底湖食材の知識、水路と湿地管理。湖底勢には、そうした者たちがいます」
「最初からそっちに聞けばよかったな」
「同感です」
ベリアルが不満げにアスタロトを見る。
「戦力は重要だ」
「もちろんです。ですが、今は鍋と寝床の話です」
「……鍋か」
「鍋です」
ベリアルは納得していない顔だったが、黙った。
その時、アガレスが「あっ」と声を上げた。
「王様、ベリアル様は裁判官です!」
「は?」
ヴェスパーが顔を向ける。
ベリアルも眉をひそめた。
「裁判官とは何だ」
「旧王都時代、ベリアル様は争議裁定や刑罰判断を担っておられました。湖底勢の規律管理もしていたはずです」
ベリアルは腕を組んだ。
「秩序を乱す者を鎖で縛り、裁いていた」
「鎖振り回して訓練場を更地にしたやつが?」
「裁くためには力も要る」
「言い切ったよ」
ヴェスパーはしばらくベリアルを見た。
配給順。
住居割り。
作業違反。
決闘申請。
揉め事。
これから確実に増える。
今までなら、ヴェスパーがその場で判断するしかなかった。
だが、もう無理だ。
全部を王が見ていたら、現場が止まる。
「よし」
ヴェスパーは言った。
「ベリアル、お前を裁定官にする」
ベリアルの目が細くなる。
「俺に、配給の順番を裁けと?」
「そうだ」
「住居割りもか」
「そうだ」
「決闘申請もか」
「むしろそこはお前が見ろ。勝手にやらせるな。訓練場が死ぬ」
「……俺は、戦うために戻ったのだが」
「今この村に足りない役職だ」
ベリアルはしばらく黙った。
湖底勢がざわめく。
火の村の悪魔たちも、緊張した顔で見ている。
ベリアルは強い。
昨日の決闘で、誰もがそれを見た。
そのベリアルが、配給や住居の揉め事を裁く。
妙ではある。
だが、説得力もある。
少なくとも、彼の前でくだらない嘘をつく勇気のある者は少ないだろう。
「よかろう」
ベリアルは低く言った。
「裁いてやる」
「処刑はするなよ」
「内容による」
「よらない」
「では縛る」
「まず話を聞け」
「面倒だな」
「裁定官だろ」
ベリアルは鼻を鳴らした。
アスタロトが微笑む。
「似合っていますよ、ベリアル」
「黙れ」
「配給順で揉めた小悪魔を、どう裁くのか楽しみです」
「黙れと言った」
そのやり取りに、少しだけ笑いが起きた。
「次、アスタロト」
ヴェスパーは彼女を見る。
「お前は食料資源統括だ」
アスタロトは静かに目を瞬かせた。
「食料資源統括」
「採取、地底湖食材、氷河地域の食料、温室、畑、水路、保存食。食えるものと、食えないものと、食おうとしてくるものを分ける係だ」
「最後だけ分類名が乱暴ですね」
「地底湖基準に合わせた」
アガレスが補足する。
「アスタロト様は、旧王都時代に食料生産、水路、森林資源管理に近い役割を担っておられました」
「農林水産大臣じゃねぇか」
ヴェスパーが言うと、アスタロトは首をかしげた。
「完全に同一ではありませんが、近いかもしれません」
「近いのかよ」
「作物、水脈、根、保存、腐敗の制御。そうしたものは扱っていました」
「完全に必要な人材だな」
アスタロトは静かに頷いた。
「承ります。この地に、もう一度根を戻しましょう」
その言葉に、湖底勢の何人かが顔を伏せた。
地底湖に沈んでいた彼らにとって、根という言葉は軽くないのだろう。
ファルナウスも深く頭を下げた。
「お願いいたします」
「あなたも手伝いなさい、ファルナウス」
「もちろんです」
「次、フルカス」
老騎士が一歩前に出る。
「はい、王様」
「お前は軍務総監だ」
周囲が少し静まった。
「狩猟番、防衛班、第九圏探索隊、湖底勢の戦闘員。全部を見ろ」
「全てでございますか」
「全てだ。護衛編成、避難計画、非戦闘員保護、パンデモニウム調査隊の護衛。戦うためだけじゃない。守るための軍にする」
フルカスの表情が、わずかに変わった。
誇りと、痛み。
長く凍っていた第九圏で、彼が守りきれなかったものは多い。
だが、今は守るべきものが増えている。
「奪うためじゃない」
ヴェスパーは言った。
「守るための軍だ」
フルカスは静かに膝をついた。
「王の兵を、王の民を守る軍として整えましょう」
「膝つくな。仕事増やしてるだけだぞ」
「だからこそでございます」
「そういうものかね」
フルカスは立ち上がった。
その背筋は、昨日よりもさらに伸びて見えた。
細かな訓練の再編は、フォルネウスが見ることになった。
村側はすぐ殴る。
湖底勢はすぐ縛る。
探索隊はすぐ凍らせる。
バルガンはすぐ突っ込む。
それらをどうにか同じ号令で動かす。
ヴェスパーがそう言うと、フォルネウスは静かに頷いた。
「まず、全員に停止を教えます」
「また立ち方からか!」
バルガンが叫ぶ。
「今度は止まり方です」
「増えた!」
「基礎です」
ベリアルが頷く。
「妥当な裁定だ」
「裁定官が敵に回った!」
「味方だ」
「味方の裁きが重い!」
笑いが広がる。
ヴェスパーはその空気を少しだけ見守った。
昨日まで戦っていた者たちが、同じ場で笑っている。
それは悪くない。
だが、ここで終わりではない。
むしろ、ここからが本題だった。
「それでだ」
ヴェスパーの声に、場が静まる。
「ここまで、飯、素材、能力調査、裁定、食料、軍、訓練を割り振った」
クロセルが記録板を掲げる。
板にはすでに、無数の役割と線が書き込まれていた。
「だが、これは応急処置だ」
悪魔たちが顔を上げる。
ヴェスパーは火の村を見回した。
炉。
飯場。
研究所。
温室。
湯殿。
排水路。
西門交易所。
訓練場。
仮設小屋。
帰還柱。
この村は、よくやった。
名もなき集落だった場所から、ここまで来た。
凍えて震えるだけだった悪魔たちは、飯を作り、道を作り、湯を引き、交易し、訓練場まで作った。
だが、それでも限界だった。
ここは、最初から小さな救助拠点だった。
火を灯し、倒れた者を助け、周囲へ道を伸ばすための場所。
王都ではない。
国の中心にはなれない。
「火の村はよくやった」
ヴェスパーは言った。
「炉を作った。飯を作った。寝床を作った。道を作った。風呂も作った。排水まで作った。救助して、交易して、訓練場まで作った」
ザグが少し胸を張った。
メルツが小さく笑う。
ハボリムが杓子を握ったまま頷く。
「だが、この人数になった以上、ここを広げるだけじゃ足りねぇ」
フルカスの目が細くなる。
ファルナウスが息を呑む。
アガレスの金色の瞳が輝く。
湖底勢の間でも、かすかなざわめきが起きた。
彼らはまだ、火の村を完全には知らない。
けれど、この場所が狭いことは分かる。
火があり、飯があり、湯があり、寝床がある。
だが、それらはすべて、すでに限界まで使われている。
「俺たちの目標は、火の村の拡張じゃない」
ヴェスパーは、遠く中央の方角を見た。
すり鉢状の第九圏の底。
氷に沈んだ旧都。
かつてルシファーの都だった場所。
王軸塔が眠り、都市そのものの意識が微かに目覚めかけている場所。
誰もが知っている。
だが、誰も口にしなかった名。
失われた王都。
凍った中心。
第九圏の心臓。
ヴェスパーは、その名を告げた。
「パンデモニウムへ移る」
場が、凍った。
先ほどまでのざわめきが、嘘のように消える。
火の村の悪魔たちは息を呑み、湖底勢の悪魔たちは古い傷を押さえるように黙り込んだ。
探索隊の悪魔たちは、氷槍を握る手に力を入れた。
パンデモニウム。
その名は、ただの地名ではなかった。
火の村の若い悪魔たちにとっては伝承であり、湖底勢にとっては失われた都であり、探索隊にとっては近づいてはならない凍結中心だった。
フルカスが、かすかに目を伏せる。
ファルナウスは胸元に手を当てた。
アスタロトの表情から、柔らかな笑みが消えていた。
ベリアルの鎖が、低く鳴る。
「王都へ戻るか」
「ああ」
「ルシファー様の都へ」
「違う」
ヴェスパーは即座に言った。
ベリアルの目が鋭くなる。
グラスヴァルも振り返った。
フルカスも、アスタロトも、火の村の悪魔たちも、ヴェスパーを見る。
「今は、俺たちの都にする」
その言葉は、静かだった。
だが、炉の火よりも熱を持っていた。
「昔に戻すんじゃねぇ。失われた王都を、ただ懐かしむために掘り返すんでもねぇ」
ヴェスパーは、中央の方角を見据えたまま続けた。
「飯を作れる都にする。寝床のある都にする。道があり、水が流れ、火が届き、誰かが倒れたら運べる都にする」
湖底勢の小さな悪魔が、ぽつりと呟いた。
「……王都に、また火が灯るのか」
隣の古い鎖を巻いた悪魔が、黙ってその頭に手を置いた。
探索隊の悪魔が低く言う。
「氷の中心に、火を入れるのか」
グラスヴァルは答えなかった。
ただ、遠く中央を見ていた。
ベリアルはしばらく黙っていた。
そして、口元を歪めた。
「よい」
低い声だった。
「王都を奪い返すのではなく、作り直すか」
「ああ」
「ならば、戦より面倒だな」
「だから困ってる」
「面白い」
ベリアルの鎖が、じゃらりと鳴った。
アスタロトは静かに目を伏せた。
「パンデモニウムの根は、まだ死にきっていないかもしれません」
「なら、掘る」
ヴェスパーは言った。
「もちろん、勢いで突っ込まねぇ。たどり着く前に凍るなら意味がない。飯も寝床もないまま王都へ入ったら、ただの遭難だ」
彼は指を折った。
「道を作る。配管を伸ばす。帰還柱を置く。結界石を置く。食料を確保する。仮設住宅を作る。水路を調べる。旧食料庫を探す。危険区画を洗い出す。移れる状態にしてから移る」
クロセルの筆が高速で動く。
アガレスは興奮で翼を震わせていた。
「王様、これは大事業です!」
「分かってる」
「遷都計画です!」
「名前をつけるな」
「パンデモニウム遷都計画!」
「つけるなって言っただろ」
「記録上必要です!」
「くそ、必要そうなのが腹立つ」
ベリアルが腕を組む。
「王都を取り戻すなら、戦力がいる」
「だからフルカスに軍を任せる」
アスタロトが言う。
「食料がいる」
「だからお前に任せる」
グラスヴァルが言う。
「凍結地帯の調査がいる」
「だから探索隊だ」
ザグが言う。
「資材がいります」
「だから素材回収班を増やす」
ハボリムが言う。
「鍋がいります」
「作れ」
「火はよいのう」
「鍋の話をしろ」
ニムが小さく手を上げた。
「王様、家は?」
「作る」
「いっぱい?」
「いっぱいだ」
「じゃあ、迷子にならないように道もいります」
「作る」
「すごい」
「すごく大変なんだよ」
ヴェスパーはため息をついた。
だが、その口元には少しだけ笑みがあった。
「いいか」
彼は全員を見渡した。
「これから、火の村はただの村じゃなくなる。旧都へ向かう準備拠点だ。飯を増やす。家を増やす。道を伸ばす。人を分ける。揉め事を裁く。訓練する。調べる。運ぶ。直す」
悪魔たちは黙って聞いている。
昨日まで宴で笑っていた者たちが、今はそれぞれの役割を背負い始めていた。
「地味だ」
ヴェスパーは言った。
「たぶん、戦うより地味だ。決闘より派手じゃない。王っぽくもない。だが、これをやらないと誰も生きられない」
ベリアルの目が細くなる。
フルカスは静かに頷いた。
「だから、やる」
ヴェスパーは右腕の痛みを押さえながら、笑った。
「お集まりの諸君。一大事だ。飯と家がない。だから、作るぞ」
最初に声を上げたのは、バルガンだった。
「おおおおお!」
それに続き、火の村の悪魔たちが叫ぶ。
湖底勢の一部が、戸惑いながらも声を合わせる。
探索隊の悪魔たちは氷槍を掲げた。
炉の火が揺れる。
壊れた訓練場の黒石が、赤い光を受けて鈍く輝いた。
その瞬間、火の村はただの村ではなくなった。
パンデモニウムへ向かう、最初の拠点になった。
会議は終わった。
そして、村は一斉に動き出した。
採取班は、ブエルとアスタロトの指示で地底湖方面へ向かう準備を始めた。
湖底勢の案内役が、食える藻と食われる藻の違いを説明している。
「見た目は似ているが、こちらは食える」
「こっちは?」
「食おうとしてくる」
「やっぱり後半がいらねぇ」
ヴェスパーの突っ込みが飛ぶ。
素材回収班は、ザグ、バティン、メルツを中心に、黒石、骨材、皮、脂、魔鉄の集積場を作り始めた。
ザグは訓練場をちらちら見ていたが、メルツに耳を引っ張られて仮設住宅用の資材置き場へ連れていかれた。
湖底勢は能力申告を始めた。
鎖を扱える者。
水中で作業できる者。
泥地を歩ける者。
重いものを運べる者。
料理ができると言い張るが、黒い水草をそのまま出そうとする者。
それらをアガレスが楽しそうに記録している。
第九圏探索隊は、二手に分かれた。
氷河地域食料調査。
旧王都方面予備調査。
グラスヴァルは部下たちに、火の道と冷気の道を混ぜるなと繰り返し命じていた。
フルカスは、狩猟番、防衛班、探索隊、湖底勢の戦闘員を並べ、護衛編成の基礎を確認している。
フォルネウスは、バルガンを前にして静かに言った。
「では、三秒です」
「もう始まったのか!」
「はい」
「一、二、三で突っ込めばいいのか!」
「まず一で止まってください」
「難しいな!」
「そこからです」
ベリアルは、壊れた訓練場の横に置かれた簡易卓の前に立っていた。
最初の裁定案件は、飯のおかわり順で揉めた小悪魔二人だった。
「先に並んだのはどちらだ」
「僕です!」
「違う、僕です!」
ベリアルは二人を見下ろした。
鎖が、じゃらりと鳴る。
二人の小悪魔が同時に黙った。
「証人は」
近くにいたニムが手を上げた。
「こっちの子が先でした。でも、こっちの子は器を落としました」
「ならば、先に並んだ者を優先。ただし、器を落とした者の分は新しい器で受け取れ。配膳場を汚すな」
二人の小悪魔が目を丸くする。
「……怒らないの?」
「次に嘘をついたら縛る」
「はい!」
ヴェスパーはその様子を見て、アスタロトに言った。
「意外と向いてるな」
「でしょう?」
アスタロトは少し楽しそうだった。
その頃、アガレスはすでに研究所の一角で霜鋼の護符の試作に取りかかっていた。
霜牙軍改め探索隊が冷気地帯で活動するための護符。
火の村の悪魔が凍結地帯へ入るための護符。
逆に、冷気の悪魔が炉の近くで消耗しすぎないための調整具。
黒石、氷晶石、霜苔、魔鉄片を並べながら、アガレスは目を輝かせている。
「王様、霜鋼の護符は三種類いけます!」
「いきなり増やすな」
「寒冷地活動用、熱緩衝用、境界作業用です!」
「必要そうなのがまた腹立つな」
「作ります!」
「作れ」
ヴェスパーは研究所へ戻った。
右腕はまだ痛い。
だが、休む暇はなかった。
巨大キャンバスを広げる。
それは、もう村の区画図だけでは足りなかった。
火の村。
地底湖。
西門交易所。
第九圏探索隊の氷河調査範囲。
旧王都方面。
パンデモニウム東門。
王軸塔。
水路。
配管予定。
帰還柱予定地。
結界石の配置。
食料庫候補。
仮設住宅地。
倉庫。
炊事場。
訓練場修理。
全部を描くには、キャンバスが狭すぎた。
「あれもない。これもない」
ヴェスパーは筆を走らせながら呟いた。
「飯が足りない。鍋が足りない。寝床が足りない。仮設住宅が足りない。倉庫が足りない。道が足りない。台車が足りない。配管が足りない。結界石が足りない。食料庫が足りない」
アガレスが横で嬉しそうに頷く。
「足りないもの一覧ですね!」
「地獄か」
「はい、地獄です!」
「そうだったな」
ヴェスパーは苦笑した。
そして、キャンバスの端に大きく書く。
パンデモニウム遷都。
その文字を見た瞬間、研究所の空気がわずかに震えた気がした。
遠く。
氷に沈んだ旧都の方角で、何かが静かに目を開けたような感覚。
気のせいかもしれない。
だが、ヴェスパーは筆を止めなかった。
「じゃあ、地獄らしく一個ずつ潰すか」
最初は、ひとつの炉だった。
凍える集落の中央に置いた、歪な炉。
そこから飯が生まれ、道が生まれ、救助が始まり、湯が流れ、交易が始まり、決闘が終わり、仲間が増えた。
そして今、ヴェスパーの前に広がっているのは、村の図面ではなかった。
第九圏そのものの設計図だった。
足りないものばかりだ。
だが、足りないものが見えているなら、作ればいい。
ヴェスパーは遠く中央の方角を見た。
そこには、まだ氷に沈む旧都がある。
王都パンデモニウム。
かつて失われた、第九圏の心臓。
「さぁ」
ヴェスパーは小さく笑った。
「次の現場だ」
火の村は、その日から旧都へ向かって動き出した。
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