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第九圏の欠落王 ―棺の底から始める地獄改革―  作者: カイメイラ
第二章 眠る王都へ続く道

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第三十六話 火の宴


 決闘の熱が、まだ訓練場に残っていた。


 いや、熱だけではない。


 黒石の床はひび割れ、ところどころめくれ上がっている。南側の防壁には大きな亀裂が入り、観覧用に盛られた土手の一部は、衝撃波を受けて崩れていた。


 その中央に、ヴェスパーとベリアルが立っていた。


 正確には、ヴェスパーは右腕を押さえながら立っており、ベリアルは片膝をついていた。


 勝負は決まった。


 だが、訓練場の損害も決まっていた。


「……王様」


 ザグが、割れた黒石の床を見下ろしながら震える声を出した。


「これ、直すんですよね?」


「直すしかねぇだろ」


「誰がですか」


「お前らが」


「王様も壊しましたよね?」


「半分くらいはな」


「半分どころではない気がします」


 クロセルが静かに言った。


 ヴェスパーは目を逸らした。


「細かい割合を出すな。心が痛む」


「右腕も痛んでいるようですが」


「そっちはもっと痛い」


 右拳の皮膚は裂け、肩から先の感覚がまだにぶかった。魔力で無理やり押さえているが、あとでアガレスかハボリムあたりに怒られる気がする。


 ベリアルがゆっくりと立ち上がった。


 鎖はすでに消えている。だが、その身に残る圧は、敗れてなお薄れていなかった。


「見事だった」


「そっちこそな。あれ、まともに食らってたら俺が床の模様になってたぞ」


「避けたではないか」


「避けなきゃ死ぬからな」


 ベリアルは低く笑った。


 それを見て、湖底勢の悪魔たちが一斉に声を上げた。


「うおおおおおおおお!」


「ベリアル様が笑ったぞ!」


「王もやるではないか!」


「決闘! 次は俺たちも!」


「やめろ!」


 ヴェスパーは即座に叫んだ。


「訓練場が死ぬ!」


 村側からも歓声が上がる。


 バルガンが両拳を振り上げていた。


「王様ぁ! 俺にもあの速いやつを教えてくれ!」


「まず立ち方からだ」


 フォルネウスが横から静かに言う。


「またそれか!」


「それです」


 フルカスが一歩前へ出た。


「決着はつきました。では、ここからは宴といたしましょう」


「おう」


 ヴェスパーは壊れた訓練場を見回した。


「飯食ってから考えるか」


「現実から目を逸らしましたね」


 クロセルが言った。


「逸らしてねぇ。優先順位の問題だ」


 その言葉に、村の悪魔たちが笑った。


 こうして、訓練場の修理は一旦後回しになった。


 火の村の中央では、すぐに大鍋が並べられた。


 冥骨粥。

 暗黒大根の煮込み。

 凍結魔物肉の炙り。

 湖底勢が持ち込んだ、黒い水草の塩茹で。

 骨皿に盛られた燻製肉。

 灰豆を潰した粥の増量版。


 それらが、炉の火を囲むように次々と運ばれてくる。


 湖底勢は最初、火の前に座ることをためらっていた。


 長く冷たい湖底にいたせいか、強い火に慣れていない者もいる。だが、湯気の匂いと肉の脂の匂いには勝てなかった。


 ひとりが器を受け取る。


 もうひとりが座る。


 それを見て、さらに何人もが続いた。


 ニムが、小さな湖底の悪魔に器を渡している。


「はい、熱いから気をつけてね」


「熱いとは、どの程度だ」


「口の中が大変になる程度」


「それは危険ではないか」


「でもおいしいよ」


 湖底の小悪魔は、しばらく器を見つめてから、おそるおそる粥を口に入れた。


 その目が、ぱっと開く。


「……熱い」


「だから言ったでしょ」


「だが、うまい」


「でしょ!」


 ニムが得意げに笑った。


 別の湖底悪魔は、炙った凍結魔物肉を前にして、しばらく真剣な顔をしていた。


「これは、焦げているのか」


「焼いてるんだよ」


 バルガンが胸を張って言う。


「焦げているように見えるが」


「だから焼いてるんだって」


 湖底悪魔は疑わしそうに肉をかじった。


 次の瞬間、無言で目を見開く。


「……焦げているのに、うまい」


「焼いてるんだよ!」


「もう一つもらえるか」


「おう! 食え食え!」


 別の場所では、黒い水草の塩茹でを食べた火の村の悪魔が、妙な顔をしていた。


「ぬるっとするな」


「湖底では上等な食材だ」


「味は悪くない」


「だろう」


「だが、ぬるっとするな」


「それがよいのだ」


 湖底勢と火の村の悪魔たちは、まだ互いの食べ物に戸惑っている。


 だが、戸惑いながらも、同じ火の前で笑っていた。


 少し離れた場所では、ベリアルが立ったまま器を持っていた。


 その姿は、まるで戦場で兵の動きを見ている将のようだった。


 ハボリムが近づき、無言で低い椅子を置く。


「座れ、ということか」


「飯は座って食うものです」


「戦場では立ったまま食う」


「ここは戦場ではありません」


 ベリアルはしばしハボリムを見下ろした。


 だが、最終的に椅子へ腰を下ろした。


 そして粥を食う。


 一口。


 二口。


 三口。


 無言で器を差し出す。


「おかわりだ」


 ヴェスパーが横から笑った。


「素直にうまいって言え」


「……悪くない」


「だいぶうまい時の言い方だな」


 アスタロトが静かに微笑んでいた。


「ベリアルが、おかわりを要求するとは」


「何か問題があるか」


「いえ。よいことです」


 火の村の悪魔たちと、湖底勢の悪魔たちは、まだ完全に混ざったわけではない。


 だが、同じ鍋の粥を食い、同じ肉をかじり、同じ火に手をかざしている。


 それだけで、昨日までとは明らかに違っていた。


 その輪から、少しだけ離れた場所に、霜牙軍がいた。


 氷槍を地面に立て、姿勢を崩さず、火の外側に立っている。


 グラスヴァルもまた、器を受け取らずにいた。


 ヴェスパーはそれを見て、眉を寄せた。


「グラスヴァル」


「はっ」


「お前らも食え」


「我らは、まだ任を解かれておりません」


「任?」


 ヴェスパーが問い返すと、火の周囲の声が少しずつ落ちた。


 湖底勢も、村側も、霜牙軍を見た。


 グラスヴァルは氷色の瞳を伏せる。


「我ら霜牙軍は、かつてルシファー王より命を受けました」


 その名が出た瞬間、火の前の空気が変わった。


 ルシファー。


 消えた王。

 第九圏を作り、そして今はもういない王。


 グラスヴァルは続けた。


「北方の氷牢を見張れ。湖底の者たちが暴れれば、湖ごと凍らせて止めよ。第九圏が崩れぬよう、北の冷気を保て」


 ベリアルが、器を持つ手を止めた。


 湖底勢の何人かが、顔を強張らせる。


 だが、グラスヴァルの声に敵意はなかった。


「王が戻らずとも、命が撤回されぬ限り、我らはそれを守る。それが霜牙軍の役目でした」


「……長かっただろうな」


 ベリアルが低く言った。


 グラスヴァルは答えない。


 ベリアルは少しだけ笑った。


「任務だ、などと言うな。任務だけで、あの年月は越えられん」


「……それでも、任務でした」


 グラスヴァルの声は固かった。


 だが、その固さは誇りだけではない。


 長すぎる時間を、自分で終わらせることができなかった者の声だった。


 アスタロトが静かに言う。


「あなたたちもまた、氷の中にいたのですね」


 火が揺れた。


 ヴェスパーはしばらく黙っていた。


 ルシファーの命令。


 それを自分がなかったことにしていいのか。


 自分はルシファーではない。


 だが今、第九圏を預かっているのは自分だ。


 ヴェスパーはグラスヴァルを見た。


「俺はルシファーじゃない」


「承知しております」


「だから、あいつの命をなかったことにはできねぇ」


 グラスヴァルは微動だにしない。


 ヴェスパーは続けた。


「けど、今の第九圏を預かってるのは俺だ」


 火の周囲が静まり返る。


「氷牢は開いた。湖底の連中は、もう火の前にいる。誰も湖ごと凍らせる必要はねぇ」


 ベリアルが目を細めた。


 アスタロトが静かに頷く。


「グラスヴァル」


 ヴェスパーは言った。


「お前らの任務は、ここで終わりだ」


 霜牙軍の中に、わずかなざわめきが走った。


 グラスヴァルは、すぐには答えなかった。


「……終わり、ですか」


「ああ」


 ヴェスパーは大鍋の湯気越しに、霜牙軍を見回した。


「霜牙軍は、一旦解体する」


 今度こそ、はっきりとざわめきが広がった。


 村側も湖底勢も、顔を上げる。


 グラスヴァルの氷の瞳が、わずかに揺れた。


 だがヴェスパーは、すぐに続けた。


「勘違いするな。追い出すわけじゃない」


 火の音だけが、ぱちりと響く。


「お前らの目も、足も、冷気も、この第九圏にはまだ必要だ」


 グラスヴァルは黙って聞いている。


「北だけを見張る軍じゃなくていい」


 ヴェスパーは地面を軽く蹴った。


「これからは、第九圏を調べろ」


 その言葉に、霜牙軍の兵たちが顔を上げた。


「凍った場所。溶けた場所。崩れた道。残ってる集落。眠ってる食料。生きてる悪魔。全部、探してくれ」


 アガレスが記録板を抱えたまま、目を輝かせる。


「王様、それは!」


「今日からお前らは、霜牙軍じゃない」


 ヴェスパーは器を掲げた。


「第九圏探索隊だ」


 沈黙が落ちた。


 それは拒絶ではなかった。


 あまりに長く同じ命令に縛られていた者たちが、新しい名を受け取るまでに必要な沈黙だった。


 グラスヴァルは長く黙っていた。


 やがて、氷槍を地面に立てる。


「……我らは、まだ役に立てるのですね」


「当たり前だろ」


 ヴェスパーは即答した。


「むしろ、ここから忙しいぞ」


 グラスヴァルの口元が、ほんのわずかに緩んだ。


「ならば、承りましょう」


 彼は火の前で深く頭を下げた。


「霜牙軍は、ここに任を終える」


 背後の兵たちも、一斉に氷槍を立てた。


 澄んだ音が、火の村に響く。


 その音が消えたあと、グラスヴァルはしばらく自分の槍を見つめていた。


 幾千、幾万という夜のあいだ、手放すことのなかった氷の槍。


 それを地面に立てた瞬間、肩に積もっていた見えない霜が、ほんの少しだけ崩れ落ちたような気がした。


 命令は終わった。


 だが、自分たちは終わっていない。


「以後、我らは第九圏探索隊として、王に仕えます」


「おう」


 ヴェスパーは少しだけ照れたように鼻を鳴らした。


「まずは飯を食え。探索は腹が減ってると碌なことにならねぇ」


 その言葉に、霜牙軍――いや、第九圏探索隊の悪魔たちは、ようやく火の前へ進んだ。


 ハボリムが器を渡す。


 グラスヴァルも受け取った。


 湯気の立つ粥を見て、彼は少し戸惑うように眉を寄せた。


「熱いぞ」


 ヴェスパーが言う。


「承知しています」


「無理なら冷まして食え」


「そこまで弱くはありません」


 グラスヴァルは粥を口にした。


 少しだけ、目を細める。


「……温かい」


「粥だからな」


「違います」


「違うのか」


 グラスヴァルは火を見つめた。


「任務が終わった後の飯は、温かい」


 ヴェスパーは何も言わなかった。


 ただ、器を軽く掲げた。


 しばらくして、火の周りに少しだけ余裕が戻った。


 湖底勢が肉を食い、村の悪魔が笑い、旧霜牙軍が熱い粥に苦戦している。


 その光景を見ながら、ヴェスパーはふと思った。


「そういや」


 隣にいたグラスヴァルが顔を上げる。


「お前らって、どういう悪魔族なんだ?」


 アガレスが勢いよく振り向いた。


「王様、それを今聞きますか!?」


「いや、前から気になってたんだよ」


 ヴェスパーはグラスヴァルを見る。


「氷獄熊みたいな見た目ってわけでもねぇし、普通の悪魔とそこまで変わらないだろ」


「ひょうごくぐま?」


「忘れろ」


 グラスヴァルは少し考え、それから答えた。


「我らは霜牙族です」


「霜牙族」


「第九圏の北方、氷河地帯に適応した悪魔の一族です。姿形は他の悪魔と大きく変わりません。ただ、火より冷気を好み、凍土や氷上での活動に向いています」


「寒い方が元気なのか」


「ええ。火のそばは嫌いではありませんが、長くいると少し疲れます」


「なるほどな」


 ヴェスパーは大鍋の火を見た。


 火の村は温かい。


 それは、今まで死にかけていた多くの悪魔にとって救いだった。


 だが、すべての悪魔にとって、同じ温度が正解とは限らない。


 霜牙族は寒さを好む。


 湖底勢は湿り気や水辺に慣れている。


 それぞれが違う。


 違うものを、同じ炉の前に無理やり座らせるだけでは、長くは続かない。


「なら、暖かいところとの出入りで苦労するやつも出るだろうな」


「……あり得ます」


「冷気を封じ込めた護符でも作れたら渡すさ」


 グラスヴァルが、わずかに目を見開いた。


「我らのために、ですか」


「お前らも第九圏の一員だろ」


 ヴェスパーは肩をすくめる。


「火の村に来い。でも暑いのは我慢しろ、じゃ長続きしねぇ」


 アガレスが記録板を構えた。


「王様、名称は!」


「名称?」


「はい! 新しい魔道具です!」


「まだできてねぇぞ」


「構想段階でも名称は必要です!」


「そういうもんなのか?」


 ヴェスパーは少し考えた。


 イメージとしては、氷の代わりに使う冷たい金属だ。


 溶けない氷。


 冷たさを保つ金属塊。


 それを護符にする。


「冷気護符……いや、もう少し金属っぽいな」


 グラスヴァルが静かに言った。


「霜鋼の護符、ではいかがでしょう」


「お、いいな」


「軽すぎず、用途も分かります」


「お前、名前にうるさいな」


「装備名は士気に関わります」


「そこ大事なのかよ」


 アガレスが大きく頷きながら記録する。


「霜牙族用冷気保持魔道具、通称・霜鋼の護符!」


「通称が長い」


「では、霜鋼の護符!」


「それでいい」


 グラスヴァルは静かに頭を下げた。


「その配慮、感謝します」


「まだ作れるとは言ってねぇぞ」


「それでも、です」


 ヴェスパーは少しだけ困ったように笑った。


「火を広げるって言っても、全部を熱くすりゃいいってもんじゃねぇからな」


 その言葉に、アスタロトが静かに目を伏せた。


「よいお考えです」


「まだ思いつきだけどな」


「思いつきから、国は変わります」


「急に重くするな」


 火の周囲に、柔らかい笑いが広がった。


 そこでヴェスパーは、器の中を見た。


 粥はある。


 肉もある。


 水草もある。


 だが、何かが足りない。


 宴というには、決定的に足りないものがある。


「あー」


 ヴェスパーは空を見上げた。


「宴会みたいなのに酒もないとは、さみしいというか、情けないというか」


 アガレスが目を瞬かせる。


「酒、ですか?」


「飲みてぇなぁ」


 その瞬間だった。


 こつん。


 小さな音がした。


 誰かが器を置いた音かと思った。


 だが、もう一度。


 こつん。


 火の村の外れ。


 炉の光がぎりぎり届くあたりで、何かが黒石の地面に置かれていた。


「……何だ?」


 ザグが顔を上げる。


 こつん。


 三つ目の音。


 誰も運んでいない。


 誰もそこへ歩いていない。


 それなのに、古びた酒樽がひとつ、またひとつと、火の村の端に積まれていく。


 炉の火が、一瞬だけ青白く揺れた。


 骨管がかすかに震える。


 赤い帰還柱の紋様が、薄く光った。


 遠く、旧王都のある方角から、低い呼吸のような魔力が流れてくる。


 それは風ではなかった。


 誰かの足音でもなかった。


 沈黙した都の奥で、眠っていた歯車が一つだけ動いたような気配だった。


 こつん。


 こつん。


 こつん。


 酒樽は、見えない手に運ばれているかのように、丁寧に並べられていく。


 乱暴ではない。


 投げ出されるのでもない。


 まるで、長い眠りから目を覚ました召使いが、王の宴に遅れて酒を届けているかのようだった。


 アガレスが記録板を抱えたまま固まる。


「王様……」


「俺は何もしてねぇぞ」


「わたしもです」


 こつん。


 最後の酒樽が、先に積まれた樽の横にきれいに並んだ。


 その瞬間、帰還柱の赤い光がふっと消える。


 炉の火も、いつもの色へ戻った。


 火の周りにいた悪魔たちは、誰も声を出せなかった。


 ヴェスパーはしばらく酒樽の山を見ていた。


「……あるんじゃねぇか」


 アガレスが我に返ったように駆け寄る。


 古い刻印を読み取り、目を見開いた。


「王様! これ、王都封蔵酒です!」


「王都封蔵酒?」


「第九圏王宮備蓄。パンデモニウム中央貯蔵庫管理印!」


 火の周囲がざわついた。


 パンデモニウム。


 旧王都。


 沈黙しているはずの都。


 そこから、酒樽が届いた。


「パンデモニウム、酒蔵は生きてるのか」


 ヴェスパーが呟く。


 アガレスは震える声で言った。


「酒蔵だけとは限りません!」


「それはそれで怖いな」


 ベリアルが、酒樽の刻印を見て低く笑った。


「懐かしいな」


「知ってるのか?」


「王宮の酒だ」


「飲んだことあるのか」


「何度か空にした」


 アスタロトが横から静かに言う。


「空にしないでください」


「昔の話だ」


「昔からです」


 ベリアルは答えなかった。


 ヴェスパーは酒樽を軽く叩いた。


「飲めるのか?」


 ハボリムが慎重に栓を調べる。


「保存状態は……よいようです」


「地獄の酒って腐るのか?」


「普通の酒とは違いますので」


「まあ、細かいことはいいか」


 栓が抜かれた。


 濃い香りが広がる。


 赤黒い酒だった。


 血のようで、熔けた宝石のようでもある。


 焦げた木の香り。

 黒蜜の甘さ。

 古い炉の火のような熱。


 器に注がれると、酒は微かに光を帯びた。


「強そうだな」


「強いです」


 ベリアルが即答した。


「お前の強いは信用ならねぇ」


 ヴェスパーは少量だけ器に受け、一口飲んだ。


 喉が焼けた。


 だが、不快な熱ではない。


 腹の底に、小さな火が灯るような酒だった。


「……うまいな」


 その言葉を聞いて、火の周りの空気が一気に緩んだ。


 湖底勢が酒を受け取る。


 村の悪魔が笑う。


 第九圏探索隊となった霜牙族たちも、慎重に器を手にした。


 湖底勢の若い悪魔が、注がれた赤黒い酒を覗き込んでいる。


「これは……水ではないな」


「酒だ」


 バルガンが言う。


「水より強いのか」


「強い」


「魔物か?」


「飲み物だ」


「飲み物が強いとは、どういうことだ」


「飲めば分かる」


 湖底の若い悪魔は、真剣な顔で酒を口にした。


 次の瞬間、喉を押さえて固まる。


「燃えた」


「燃えてねぇよ」


「腹の中に火が入った」


「それが酒だ!」


 周囲が笑う。


 別の湖底悪魔は、酒を一口飲んだあと、しばらく黙っていた。


「……湖底には、こういう熱はなかった」


 その声は小さかった。


 だが、隣にいた火の村の悪魔が器を掲げる。


「じゃあ、もう一杯だな」


「なぜそうなる」


「一杯目で驚いたなら、二杯目で慣れる」


「危険な理屈だ」


 それでも、湖底悪魔は器を差し出した。


 グラスヴァルは酒を見つめ、一口だけ飲んだ。


 目を閉じる。


「……温かいな」


「酒だからな」


 ヴェスパーが言う。


 グラスヴァルは首を横に振った。


「違います」


「また違うのか」


「任務が終わった後の酒は、温かい」


 ヴェスパーは黙って器を掲げた。


 ベリアルも、アスタロトも、フルカスも、アガレスも、クロセルも、ハボリムも、ザグも、ニムも、バルガンも、グラスヴァルも。


 火の前で、同じ酒を掲げる。


 湖底に封じられていた者。


 氷牢を見張っていた者。


 火の村で生き延びてきた者。


 それぞれの過去は違う。


 だが、今は同じ火の前にいる。


 フルカスが静かに言った。


「ルシファー様が見れば、驚かれたでしょうな」


「怒るかもな」


 ヴェスパーが言うと、ベリアルが低く笑った。


「いや、笑うかもしれん」


「そうか?」


「少なくとも、酒を出したのなら、飲めということだろう」


「都が勝手に出したんだろ」


 アガレスが目を輝かせる。


「王様! パンデモニウムが宴に応えた可能性があります!」


「そんな便利な都なのか?」


「分かりません!」


「分からないのに目を輝かせるな」


 笑いが広がった。


 霜牙軍は、その夜、役目を終えた。


 だが、消えたわけではない。


 氷牢を見張る軍は、第九圏を探す隊へ変わった。


 罰の場を守っていた悪魔たちは、これから、生きる場所を探す悪魔になる。


 湖底の鎖は緩んだ。


 氷の槍は地面に立てられた。


 火の村の大鍋は、三勢力の腹を満たした。


 そして、旧王都パンデモニウムは、沈黙の奥から酒樽を届けた。


 ヴェスパーは、遠く中央の闇を見た。


 そこにあるはずの旧都は、まだ見えない。


 だが、確かに何かが動いている。


「酒樽を出したんだ」


 ヴェスパーは器の中の赤黒い酒を揺らした。


「次は、部屋と飯も頼むぞ」


 返事はない。


 ただ、地の底で何かが静かに息をしたような気がした。


 アガレスが記録板を抱きしめる。


「王様、これは歴史的な宴です!」


「大げさだな」


「湖底勢、旧霜牙軍、火の村。そしてパンデモニウムの酒!」


「並べると確かにでかいな」


 クロセルが静かに付け加えた。


「明日の朝には、食料と寝床の不足が表面化します」


「今言うな」


「現実です」


「宴の最中に現実で殴るな」


 ヴェスパーは酒を飲み干した。


 喉に熱が落ちる。


 火の前では、悪魔たちが笑っていた。


 湖底勢も、火の村の悪魔も、第九圏探索隊となった霜牙族も。


 同じ飯を食い、同じ酒を飲み、同じ火を囲んでいる。


 それだけで、今夜は十分だった。


「まあいい」


 ヴェスパーは空の器を置いた。


「明日の現実は、明日の俺が殴られる」


 アガレスがにこにこと言った。


「王様、明日も会議ですね!」


「やっぱり今から殴られてる気がする」


 火の村に笑い声が響いた。


 長き命は、火の前で終わった。


 そして、新しい役目が、同じ火の前で生まれた。


 地獄の宴は、夜更けまで続いた。


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