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第九圏の欠落王 ―棺の底から始める地獄改革―  作者: カイメイラ
第二章 眠る王都へ続く道

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第三十五話 決闘


 決闘の場は、村の南側に整えられた訓練場だった。


 闘技場では狭い。


 それは、前日の段階で全員の意見が一致していた。


 ベリアルが本気で暴れれば、闘技場の床どころか観客席まで巻き込まれる。ならば、最初から広い場所を使えばいい。


 そういう、非常に単純で、非常に現実的な判断だった。


 もっとも、だからといって、ここまで整える必要があったのかは疑問である。


 黒石を敷き直した床。


 外周に作られた低い防壁。


 観覧用に盛られた土手。


 村側と湖底勢が分かれて座れるよう、左右に分けられた仮設席。


 さらに外側では、霜牙軍の悪魔たちが氷槍を手に警戒しながら立っている。


 決闘場というより、すでに小さな競技場だった。


 ヴェスパーは入場口の前で、それを見て半眼になった。


「……よく短時間でこんなの作ったな」


 隣でアガレスが胸を張る。


「余暇活動です!」


「余暇活動で決闘場を整備するな」


「皆さん、とても楽しそうでした!」


「楽しそうなら何でも許されると思うなよ」


 言いながらも、ヴェスパーはそれ以上止めなかった。


 実際、悪魔たちは楽しそうだった。


 ザグは黒石の床を叩きながら満足げに頷き、バティンは地盤の具合を確かめ、クロセルは観覧席の配置と鐘の合図を管理している。


 フルカスは、中央に立っていた。


 老騎士の背筋は伸び、剣の柄に片手を添えている。


 今日の彼は、審判だった。


 村側にも、湖底勢にも顔が利く。


 武人として公平に振る舞える者。


 その役目を担うのに、フルカス以上の者はいなかった。


 カン、と黒鉄の鐘が鳴った。


 その音を合図に、ヴェスパーは訓練場へ足を踏み入れる。


 同時に、反対側からベリアルが入ってきた。


 黒い髪を後ろへ流し、片腕には古びた鎖を巻いている。


 湖底の氷牢に長く封じられていたはずの悪魔。


 だが今のベリアルからは、弱りきった気配など微塵も感じなかった。


 重い。


 ただ歩くだけで、訓練場の空気が沈む。


 観客席が沸いた。


「王様! 王様! 王様!」


「ベリアル様! ベリアル様! ベリアル様!」


 村側と湖底勢の声がぶつかる。


 うおおお、と低い熱気が訓練場を包んだ。


 ヴェスパーは思わず肩をすくめる。


「なんで地獄でコール合戦が起きてんだよ」


「王様人気ですね!」


「人気っていうか、これ半分見世物だろ」


「半分以上かと!」


「言い切るな」


 ベリアルは鎖を鳴らしながら、中央へ進んだ。


「ずいぶんと騒がしいな」


「お前の側もだいぶ騒いでるぞ」


「我らは、決闘を好む」


「知ってる。昨日からずっと決闘決闘うるさかったからな」


 ベリアルは口元を吊り上げた。


 その笑みは、挑発でもあり、喜びでもあった。


 フルカスが二人の間に立つ。


「これより、ヴェスパー王とベリアル殿による決闘を執り行う」


 その声は、訓練場全体に響いた。


「決闘は一対一。外部からの助力を禁ずる。勝敗は、戦闘不能、降伏、あるいは審判である私が明確な優劣を認めた時点で決する」


 フルカスは一度、村側と湖底勢を見渡した。


「この決闘は、殺害を目的としない」


 ベリアルの鎖が、じゃらりと鳴った。


「手加減をしろということか」


 ヴェスパーは首を横へ振った。


「違う。殺すなってだけだ」


「難しい注文だな」


「地獄の改革よりは簡単だろ」


 その言葉に、観客席の一部から笑いが漏れた。


 ベリアルも低く笑う。


「よい。では、殺さぬ程度に潰してやる」


「信用できる言い方じゃねぇな」


 フルカスが剣を抜いた。


 刃を高く掲げる。


 一瞬、訓練場が静まり返った。


「それでは――はじめ!」


 剣が振り下ろされた。


 その瞬間、ベリアルの鎖がほどけた。


 錆びたように見えた鎖が、赤黒い魔力を帯びる。


 一本だった鎖は、二本、三本、十本へと増え、空中で蛇のようにうねった。


 地面を這う鎖。


 横から薙ぐ鎖。


 上空へ伸びる鎖。


 それらが一斉に、ヴェスパーへ向かって走る。


「こちらから行くぞ」


 ベリアルが笑った。


「おらあああああ!」


 鎖が迫る。


 観客席が息を呑んだ。


 ヴェスパーは動かなかった。


 逃げない。


 構える。


 足を半身に開き、左手を前へ出す。


 右手は腰の近くへ引いた。


 前世で、魔法で見たビデオの中にあった型。


 それを、この地獄の底で、今さら実践する。


 馬鹿げている。


 自分でもそう思う。


 だが、やるしかない。


 ヴェスパーの内側で、魔力が高まった。


 黒紅の魔力が足元から立ち上がる。


 しかし、それは外へ広がらない。


 炎のように放たれるのではなく、皮膚の下へ沈み、腕へ、足へ、胸へ、背中へと流れていく。


 拳に熱。


 突きに雷。


 蹴りに風。


 防御に魔力の層。


 そして全身に、薄い鎧のような魔力をまとわせる。


 アガレスが観客席で記録板を抱えたまま身を乗り出した。


「王様……構えています」


 フォルネウスが目を細める。


「粗い。ですが、意図があります」


 バルガンが腕を組んだ。


「つまり?」


「殴られる覚悟をした構えです」


「それは強いのか?」


「普通は、強くありません」


「普通は、か!」


「ええ。王様は普通ではありませんので」


 最初の鎖が、ヴェスパーの左肩を狙った。


 ヴェスパーの左手が、円を描く。


 鎖を止めない。


 受けない。


 流す。


 力の向きをずらすように、左手の魔力層を鎖の側面へ滑らせた。


 じゃらん、と重い音を立てて、鎖が横へ弾ける。


 二本目も、三本目も同じ。


 ヴェスパーの左手が円を描くたび、鎖の軌道がわずかにずれ、空を切る。


 ベリアルの目が細くなった。


「受けたのではないな」


「止めたら折れるだろ」


「ならば、折れるまで打つ」


「そう来ると思ったよ」


 ベリアルが腕を振る。


 鎖の先端が赤黒く光った。


 次の瞬間、空気が破裂する。


 鎖の先から撃ち出された魔力弾が、訓練場の床を抉りながらヴェスパーへ迫った。


 ヴェスパーは一瞬、背後を意識する。


 後ろには観客席がある。


 避ければ、魔力弾はそのまま防壁へ飛ぶ。


 防壁で止まる保証はない。


「避けたら後ろに飛ぶだろうが!」


 ヴェスパーは右拳に炎をまとわせた。


 そして、地面を殴った。


 轟音。


 黒石の床が割れた。


 亀裂の奥から赤黒い熱が走り、石板が壁のように隆起する。


 次の瞬間、魔力弾がその石壁に直撃した。


 どごん、と鈍い爆発が起きる。


 隆起した黒石の壁が砕け、破片が雨のように降り注いだ。


「あー! 訓練場の床が割れた!」


 ザグが観客席で頭を抱える。


「直せばいい!」


 バルガンが叫ぶ。


「お前が言うな!」


 ヴェスパーは土煙の向こうから顔をしかめた。


「あとで直せ!」


「王様が壊してるんです!」


「知ってる!」


 ベリアルが笑った。


「地面を殴って壁を作るか」


「即席だ。見た目は気にするな」


「悪くない」


「褒められてる気がしねぇ」


 ベリアルが片腕を振り上げる。


 鎖が空へ伸びた。


 一本ではない。


 十本、二十本、三十本。


 赤黒い鎖が訓練場の上空に広がり、槍の穂先のように先端を尖らせる。


 それらが一斉に、ヴェスパーへ向いた。


「数で押す気かよ」


 ヴェスパーは腰を落とした。


 左手を前へ。


 右手を引く。


 その右拳に、黒雷が集まっていく。


「なら――」


 足元の黒石が、びしりと鳴った。


「全部、叩き落とす!」


 鎖が降った。


「おらぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 ヴェスパーの拳が、霞んだ。


 一発。


 鎖の先端が砕ける。


 二発。


 横から迫った鎖が雷に弾かれ、宙で暴れる。


 三発、四発、五発。


 黒雷をまとった突きが、まるで機関銃のように撃ち込まれていく。


 拳が走るたび、雷鳴が鳴った。


 鎖が砕ける。


 火花が散る。


 破片が黒石の床に突き刺さる。


 ベリアルの放った鎖の群れが、正面から粉砕されていった。


 観客席がどよめく。


「王様が殴ってる!」


「いや、あれは突きです!」


「突きって、あんな連続で出るものなのか!?」


「知りません!」


 フォルネウスは、冷静に目を細めていた。


「鎖を壊しているのではありません」


 バルガンが振り向く。


「どういうことだ!」


「鎖の中を流れる魔力を断っています。一撃ごとに雷を乗せ、魔力回路を撃ち抜いている」


「なるほど!」


「ただし、かなり無茶です」


「俺もやる!」


「やめろ!」


 ザグが悲鳴を上げた。


「お前がやったら床どころか訓練場が消える!」


 アガレスは目を輝かせて記録板に筆を走らせている。


「王様! 今の技名は!?」


「ない!」


「では、黒雷連突で!」


「勝手につけるな!」


「記録しました!」


「消せ!」


 そう叫びながらも、ヴェスパーは突きを止められない。


 鎖はまだ来る。


 ベリアルは笑いながら、さらに鎖を増やしていた。


「そこまで正面から砕くか」


「増やすな!」


「ならば、これはどうだ」


 次の瞬間、ヴェスパーの足元に亀裂が走った。


 鎖が床下から飛び出す。


 足首。


 膝。


 腰。


 絡み取るように、黒い鎖が巻きつこうとする。


「下か!」


 ヴェスパーは右拳を握り込んだ。


 黒雷が拳に集まる。


 鎖は床の下を走っている。


 なら、床ごと撃てばいい。


「黒雷杭打ち」


「今、名前つけましたね!」


「うるせぇ!」


 ヴェスパーは拳を地面へ叩き込んだ。


 雷が亀裂を走る。


 床下に潜っていた鎖が、ばちばちと音を立てて跳ね上がった。


 制御を失った鎖が暴れ、黒石の床を内側から割る。


 その反動で、ヴェスパーの右腕に焼けるような痛みが走った。


「っ……!」


 鎖の破片が降る中、ヴェスパーは右拳を握り直す。


 感覚が鈍い。


 黒雷を連続で流し込みすぎたせいで、指先が自分のものではないようだった。


「……調子に乗るもんじゃねぇな」


 笑おうとして、失敗した。


 右腕の内側が、焼けるように痛んでいる。


 それでも、前を見る。


 ベリアルはまだ笑っていた。


「訓練場南面、床材損壊率三割を突破しました!」


 クロセルが冷静に記録する。


「今それ言う必要あるか!?」


「修繕計画に必要です」


「正論で殴るな!」


 ベリアルが指を鳴らした。


 床に突き刺さっていた鎖が、赤く光る。


 フォルネウスが叫んだ。


「地面に刺さった鎖から離れろ!」


「そういうの先に言え!」


 爆発。


 黒石の床が内側から吹き飛んだ。


 訓練場に大穴が開く。


 ヴェスパーは足元に風をまとわせ、床を蹴った。


 爆風に押されながら、空中で体勢を変える。


 吹っ飛ばされたのではない。


 少なくとも、本人はそう思いたかった。


 だが実際には、半分以上吹き飛ばされていた。


 背中から床に落ち、黒石の破片が肩を打つ。


「っ……!」


 息が詰まった。


 一瞬、視界の端が白くなる。


 それでも、ヴェスパーは転がりながら膝をついた。


 肩が痛い。


 肺の奥が軋む。


 魔力鎧も、今の衝撃で一枚剥がれたような感覚があった。


「飛んだ!」


「王様が飛んだ!」


「いや、吹っ飛ばされたんじゃないですか?」


「飛んだことにしろ!」


 ザグが両手を広げて叫んだ。


「床が! 床がもう床じゃない!」


「まだ足場としては使える!」


「それを床と言い張るのは無理があります!」


 ヴェスパーは荒い息を吐いた。


 肩が痛い。


 腕が重い。


 魔力鎧もところどころ軋んでいる。


 それでも、立っていた。


 ベリアルは鎖を引き戻した。


 それまで訓練場の上空や床下を走っていた鎖が、すべて彼の右腕へ集まっていく。


 一本一本が絡み合い、束になり、ねじれ、膨れ上がる。


 それはもはや鎖ではなかった。


 黒い城門をそのまま振り下ろすような、巨大な槌だった。


 訓練場の空気が沈む。


 観客席が静まり返る。


 ベリアルが低く告げた。


「ならば、これはどう受ける」


 鎖が唸る。


「鎖獄――黒王槌」


 フルカスが目を鋭くした。


「ベリアル殿」


「殺しはせん」


「信用できる言い方じゃねぇな」


 ヴェスパーはそう言いながら、地面へ拳を向けた。


 魔力鎧は、もう何度も割れていた。


 肩に走る痛みは消えない。


 左腕は鎖を流し続けた反動で痺れている。


 右拳は黒雷連突のせいで、握っている感覚すら怪しい。


 それでも、後ろへ退けなかった。


 背後には観客席がある。


 ここで避ければ、衝撃は後ろへ抜ける。


 黒王槌が振り上げられる。


 影が落ちる。


 まともに受ければ、訓練場ごと潰れる。


 ヴェスパーは右拳に炎をまとわせ、床を殴った。


 黒石の床が割れ、分厚い石壁が斜めに隆起する。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 即席の防壁が、黒王槌の前に立ち上がる。


 だが、止まらなかった。


 一枚目が砕ける。


 二枚目が砕ける。


 三枚目が粉になる。


 鎖の槌は勢いを削られながらも、なお落ちてくる。


「止まらねぇのかよ!」


 後ろへ退けば、衝撃が観客席へ抜ける。


 横へ逃げれば、訓練場の床が半分持っていかれる。


 なら。


「下だ」


 ヴェスパーは歯を食いしばった。


 足元に風を噛ませる。


 体が黒石の床を滑るように前へ出た。


「王様!?」


 アガレスの悲鳴が聞こえた。


 逃げたのではない。


 潜った。


 落ちてくる黒王槌の影の中へ、ヴェスパーは自分から飛び込んだ。


 砕けた黒石の破片が全身を打つ。


 頬が裂ける。


 肩に石片が当たる。


 魔力鎧が軋む。


 圧が体を押し潰そうとする。


 だが、巨大な槌には隙がある。


 大きすぎるものほど、内側が空く。


 ヴェスパーはベリアルの右腕の内側へ滑り込んだ。


 ベリアルの目がわずかに見開かれる。


「潜るか!」


「真正面から受けるかよ!」


 ヴェスパーは拳を振らなかった。


 肩。


 胸。


 全身にまとった魔力を一点へ寄せる。


 炎が鎖の内側を焼き、雷がベリアルの魔力の流れを一瞬だけ止める。


「おらぁ!」


 ヴェスパーの肩が、ベリアルの胸元へ叩き込まれた。


 衝撃は爆発しなかった。


 突き抜けた。


 ベリアルの足が、わずかに床から離れる。


 力で持ち上げたのではない。


 黒王槌を振り下ろすために前へ流れた体重。


 鎖に引かれた腕。


 踏み込んだ勢い。


 その全部を、ヴェスパーは横へ流した。


「倒れろ!」


 ヴェスパーはベリアルの腕を抱え込み、腰を入れた。


 次の瞬間、ベリアルの巨体が宙を舞った。


 轟音。


 ベリアルの背が、訓練場の床に叩きつけられる。


 黒石の床が蜘蛛の巣状に割れた。


 衝撃で観客席の悪魔たちが一斉に立ち上がり、土煙が南側の訓練場を呑み込む。


 だが、ヴェスパーも無事では済まなかった。


 投げた瞬間、肩から胸にかけて嫌な音が走る。


 肋骨の奥が軋み、呼吸が一拍止まった。


「っ、ぐ……!」


 ヴェスパーは膝をつきかけ、どうにか踏みとどまる。


 力を流した。


 受け流した。


 それでも、相手はベリアルだった。


 流しきれなかった衝撃が、体の芯に残っている。


「あああああ!」


 ザグが頭を抱えた。


「床が! 床が完全に死んだ!」


「生き返らせろ!」


「床は悪魔じゃありません!」


 バルガンが目を輝かせた。


「俺もやる!」


 フォルネウスが即座に言った。


「まず死にます」


「なぜだ!」


「今のは、真似をしてはいけない部類です」


 土煙の中で、鎖が鳴った。


 ベリアルがゆっくりと体を起こす。


 口元には、笑みがあった。


 ダメージはある。


 だが、戦意は折れていない。


 むしろ、先ほどよりも楽しそうだった。


「……今のは、何だ」


 ヴェスパーは肩で息をしながら答えた。


「知らん。たぶん、当て身投げだ」


「たぶん?」


「魔法で見たビデオで覚えた」


「びでおとは何だ」


「説明が面倒なやつだ」


 フォルネウスが静かに言った。


「相手の力を利用した投げです。黒王槌を受けたのではありません。槌を振り下ろすために前へ流れたベリアル殿の力を、横へ逃がした」


 ベリアルはヴェスパーを見た。


「力だけではないか」


「力だけなら、お前に勝てる気がしねぇよ」


「ならば、何で勝つ」


「構造だ」


「構造?」


「力の流れだよ。現場も戦いも、無理に止めたら壊れる。だから流す」


 ベリアルはしばらく黙った。


 そして、喉の奥で笑う。


「面白い」


 鎖が再び動いた。


 だが、今度は巨大な槌ではない。


 短く束ねるわけでもない。


 ベリアルの全身に、鎖が巻きついていく。


 腕に。


 肩に。


 背に。


 脚に。


 錆びた鎖が赤黒く輝き、鎧のように彼の体を覆った。


 その先端が、すべて前方へ向く。


 槍。


 いや、杭だ。


 ベリアル自身を巨大な鎖の杭に変えるような構えだった。


 ヴェスパーは、荒い息を吐きながらそれを見た。


 次で決まる。


 理屈ではなく、そう分かった。


 ベリアルも同じことを悟っている。


 ここから先、小細工はない。


 鎖を砕くか。


 拳が折れるか。


 どちらかだ。


「次で決めるぞ、火の王」


「ああ」


 ヴェスパーは右拳を握った。


 握れているのかどうか、自分でも分からなかった。


 指先の感覚は薄い。


 肩は熱を持ち、肋骨の奥は呼吸のたびに軋む。


 左腕は上がりきらず、魔力鎧はほとんど形を保っていない。


 まだ立っている。


 ただ、それだけだった。


 だが、ベリアルも無傷ではない。


 鎖は砕け、鎧は歪み、片膝に黒石の粉がついている。


 それでも、その目は死んでいない。


 互いに分かっていた。


 次で決まる。


 ヴェスパーは、残った魔力鎧を解いた。


「王様!?」


 アガレスの声が飛ぶ。


 防御を捨てる。


 炎を拳へ。


 雷を拳へ。


 風を足へ。


 体を守るための魔力すら、右腕へ流し込む。


 外せば終わり。


 受け損ねても終わり。


 だが、防御に残す余裕など、もうなかった。


 左手を前へ。


 右拳を腰へ引く。


 正拳突き。


 ただ真っ直ぐに打つ。


 それだけの型。


 だが、今のヴェスパーが持つすべてを、そこへ乗せる。


「これが――」


 足元の黒石が、びしりと割れた。


「今の俺の最高の一撃だ」


 ベリアルが踏み込んだ。


 鎖が唸る。


 空気が重く沈む。


 赤黒い鎖の杭が、一直線にヴェスパーへ迫る。


 ヴェスパーも踏み込んだ。


 風が爆ぜた。


 黒石の床が砕け、足元から衝撃が走る。


「おらぁぁぁぁぁぁぁ!」


 右拳が放たれた。


 その瞬間、音が消えた。


 拳が空気を裂く。


 黒紅の炎と黒雷をまとった正拳突きが、音速を超えて走った。


 白い衝撃の輪が、拳の周囲に生まれる。


 次の瞬間、ヴェスパーの拳がベリアルの鎖鎧の中心を撃ち抜いた。


 まだ音は来ない。


 鎖が砕ける。


 赤黒い火花が散る。


 黒雷が鎖の魔力回路を走り、内側から弾け飛ばす。


 そして、遅れて衝撃が来た。


 轟音。


 空気そのものが、訓練場から押し出された。


 観客席にいた悪魔たちは、一瞬、息を吸えなくなった。


 胸の奥が空になったような感覚。


 目の前の空気が、ごっそり奪われたような圧。


 声を出そうとしても、喉が鳴らない。


 次の瞬間、押し出された空気が暴風となって戻ってきた。


 観客席の悪魔たちが一斉に身を伏せる。


 土埃が舞い、仮設席の布がばたばたと激しく鳴った。


 ベリアルの巨体が、宙へ浮いた。


「ぐっ……!」


 鎖をまとったまま、ベリアルが吹き飛ぶ。


 黒石の床を二度、三度と跳ね、南側の防壁へ叩きつけられた。


 再び轟音。


 防壁が砕ける。


 砕けた黒石が、南側へ雨のように飛び散った。


 拳を突き出した姿勢のまま、ヴェスパーは動けなかった。


 右腕が震えている。


 拳の皮膚が裂け、黒い靄のような血が滲んでいた。


 肩から先が、自分の体ではないようだった。


 足元の風も消えている。


 魔力鎧もない。


 ただ、立っている。


 それだけだった。


「……二度は、無理だな」


 そう呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。


 誰もすぐには歓声を上げられなかった。


 あまりの衝撃に、叫ぶための息が戻っていなかった。


 遅れて、観客席に音が戻る。


「あれ!」


 バルガンが目を見開いて叫んだ。


「あれ、俺も前にやられたやつより速い!」


「比較対象があるのかよ!」


 ザグが叫んだ。


「あります!」


 バルガンはなぜか誇らしげに胸を張った。


「前に王様に吹き飛ばされました!」


「誇るところじゃありません!」


 そして、ようやく息を取り戻した悪魔たちが、一斉に吠えた。


「うおおおおおおおおお!」


「王様! 王様! 王様!」


 土煙が南側の訓練場を覆う。


 ベリアルも、土煙の中で動いた。


 砕けた防壁を押しのけ、立ち上がろうとする。


 だが、片膝が落ちた。


 鎖が力なく床を叩く。


 ベリアルは膝をついたまま、ヴェスパーを見た。


 そして、笑った。


「……見事」


 フルカスが二人を見た。


 ベリアルは意識を保っている。


 だが、立てない。


 ヴェスパーは立っている。


 決着は明らかだった。


 フルカスが剣を掲げる。


「勝者、ヴェスパー王」


 もう一度、歓声が爆発した。


 村側の悪魔たちが叫ぶ。


 湖底勢は、最初沈黙していた。


 ベリアルが鎖を下ろす。


 膝はついた。


 だが、それは敗北の屈辱ではなかった。


 立てないほどの一撃を受け、それでも胸を張るための膝だった。


 ベリアルは拳を胸に当てた。


 それを見て、湖底勢の悪魔たちも同じように拳を胸に当てる。


「認めよう」


 ベリアルが言った。


 ヴェスパーは荒い息を吐きながら問う。


「従うのか」


「勘違いするな。貴様に膝を折るのではない」


「じゃあ何だよ」


「貴様の進む道に、我らの力を貸す」


 ヴェスパーは少しだけ笑った。


「十分だ」


 アガレスが勢いよく駆け寄ってきた。


「王様! 今の戦いは何ですか!」


「知らん。魔法で見たビデオの型を、それっぽくやった」


「びでお?」


「説明が面倒なやつだ」


 フォルネウスも歩み寄り、壊れた訓練場を見渡した。


「拳に炎。突きに雷。蹴りに風。防御に魔力層。全身に魔力鎧。さらに地面隆起、黒雷連突、黒雷杭打ち、当て身投げ。そして最後の正拳突き」


「並べるとだいぶひどいな」


「戦闘術としては粗いです」


「そこは言うんだな」


「ですが、思想があります」


 フルカスが静かに頷いた。


「殺すためではなく、制するための道でございますな」


 アガレスがぱっと顔を輝かせる。


「では、魔闘術ですね!」


 ヴェスパーは首を横へ振った。


「術じゃない」


「では?」


「敵を殺すわけじゃない。自分の力を制御して、相手も制する。なら、道だ」


 フルカスの目が細くなる。


「魔闘道、でございますか」


「……今、決まったのか?」


 アガレスが記録板に大きく書き込んだ。


「記録しました!」


「早いんだよ」


 周囲から笑いが起きる。


 湖底勢の悪魔たちも、完全ではないが、少しだけ表情を緩めていた。


 村側と湖底勢。


 まだ完全な信頼があるわけではない。


 昨日まで、互いにどう扱うべきか分からなかった相手だ。


 だが、同じ場所に立つことはできた。


 同じ決闘を見届け、同じ勝敗を受け入れた。


 それだけでも、大きな一歩だった。


 バルガンが、目を輝かせてベリアルへ近づく。


「次は俺とやってくれ!」


 ベリアルは一瞥した。


「まず立ち方を直せ」


 フォルネウスが即座に頷く。


「その通りです」


「なぜだ!」


「そこからです」


 訓練場に、また笑い声が広がった。


 ヴェスパーは痛む肩を押さえながら、周囲を見渡す。


 黒石の床は割れている。


 南側は大きく陥没している。


 外周の防壁も一部崩れている。


 ザグは頭を抱え、バティンは地盤の修復箇所を確認し、クロセルはすでに復旧予定を書き始めていた。


「……決闘って、こんなに後片付けが出るもんなのか」


「第三十五話、魔闘道創始の記録です!」


 アガレスが嬉しそうに記録板を掲げる。


「話数を記録するな」


 カン、と黒鉄の鐘がもう一度鳴った。


 それは、決闘の終わりを告げる音だった。


 だが同時に、別の始まりを告げる音でもあった。


 湖底の悪魔たちは火の村へ入り、火の村の悪魔たちは彼らを迎え入れる。


 力で従わせたのではない。


 力を見せ、道を示し、ようやく同じ場所に立った。


 壊れた訓練場に、悪魔たちの笑い声が響く。


 第九圏に、新しい戦い方が生まれた。


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