第三十五話 決闘
決闘の場は、村の南側に整えられた訓練場だった。
闘技場では狭い。
それは、前日の段階で全員の意見が一致していた。
ベリアルが本気で暴れれば、闘技場の床どころか観客席まで巻き込まれる。ならば、最初から広い場所を使えばいい。
そういう、非常に単純で、非常に現実的な判断だった。
もっとも、だからといって、ここまで整える必要があったのかは疑問である。
黒石を敷き直した床。
外周に作られた低い防壁。
観覧用に盛られた土手。
村側と湖底勢が分かれて座れるよう、左右に分けられた仮設席。
さらに外側では、霜牙軍の悪魔たちが氷槍を手に警戒しながら立っている。
決闘場というより、すでに小さな競技場だった。
ヴェスパーは入場口の前で、それを見て半眼になった。
「……よく短時間でこんなの作ったな」
隣でアガレスが胸を張る。
「余暇活動です!」
「余暇活動で決闘場を整備するな」
「皆さん、とても楽しそうでした!」
「楽しそうなら何でも許されると思うなよ」
言いながらも、ヴェスパーはそれ以上止めなかった。
実際、悪魔たちは楽しそうだった。
ザグは黒石の床を叩きながら満足げに頷き、バティンは地盤の具合を確かめ、クロセルは観覧席の配置と鐘の合図を管理している。
フルカスは、中央に立っていた。
老騎士の背筋は伸び、剣の柄に片手を添えている。
今日の彼は、審判だった。
村側にも、湖底勢にも顔が利く。
武人として公平に振る舞える者。
その役目を担うのに、フルカス以上の者はいなかった。
カン、と黒鉄の鐘が鳴った。
その音を合図に、ヴェスパーは訓練場へ足を踏み入れる。
同時に、反対側からベリアルが入ってきた。
黒い髪を後ろへ流し、片腕には古びた鎖を巻いている。
湖底の氷牢に長く封じられていたはずの悪魔。
だが今のベリアルからは、弱りきった気配など微塵も感じなかった。
重い。
ただ歩くだけで、訓練場の空気が沈む。
観客席が沸いた。
「王様! 王様! 王様!」
「ベリアル様! ベリアル様! ベリアル様!」
村側と湖底勢の声がぶつかる。
うおおお、と低い熱気が訓練場を包んだ。
ヴェスパーは思わず肩をすくめる。
「なんで地獄でコール合戦が起きてんだよ」
「王様人気ですね!」
「人気っていうか、これ半分見世物だろ」
「半分以上かと!」
「言い切るな」
ベリアルは鎖を鳴らしながら、中央へ進んだ。
「ずいぶんと騒がしいな」
「お前の側もだいぶ騒いでるぞ」
「我らは、決闘を好む」
「知ってる。昨日からずっと決闘決闘うるさかったからな」
ベリアルは口元を吊り上げた。
その笑みは、挑発でもあり、喜びでもあった。
フルカスが二人の間に立つ。
「これより、ヴェスパー王とベリアル殿による決闘を執り行う」
その声は、訓練場全体に響いた。
「決闘は一対一。外部からの助力を禁ずる。勝敗は、戦闘不能、降伏、あるいは審判である私が明確な優劣を認めた時点で決する」
フルカスは一度、村側と湖底勢を見渡した。
「この決闘は、殺害を目的としない」
ベリアルの鎖が、じゃらりと鳴った。
「手加減をしろということか」
ヴェスパーは首を横へ振った。
「違う。殺すなってだけだ」
「難しい注文だな」
「地獄の改革よりは簡単だろ」
その言葉に、観客席の一部から笑いが漏れた。
ベリアルも低く笑う。
「よい。では、殺さぬ程度に潰してやる」
「信用できる言い方じゃねぇな」
フルカスが剣を抜いた。
刃を高く掲げる。
一瞬、訓練場が静まり返った。
「それでは――はじめ!」
剣が振り下ろされた。
その瞬間、ベリアルの鎖がほどけた。
錆びたように見えた鎖が、赤黒い魔力を帯びる。
一本だった鎖は、二本、三本、十本へと増え、空中で蛇のようにうねった。
地面を這う鎖。
横から薙ぐ鎖。
上空へ伸びる鎖。
それらが一斉に、ヴェスパーへ向かって走る。
「こちらから行くぞ」
ベリアルが笑った。
「おらあああああ!」
鎖が迫る。
観客席が息を呑んだ。
ヴェスパーは動かなかった。
逃げない。
構える。
足を半身に開き、左手を前へ出す。
右手は腰の近くへ引いた。
前世で、魔法で見たビデオの中にあった型。
それを、この地獄の底で、今さら実践する。
馬鹿げている。
自分でもそう思う。
だが、やるしかない。
ヴェスパーの内側で、魔力が高まった。
黒紅の魔力が足元から立ち上がる。
しかし、それは外へ広がらない。
炎のように放たれるのではなく、皮膚の下へ沈み、腕へ、足へ、胸へ、背中へと流れていく。
拳に熱。
突きに雷。
蹴りに風。
防御に魔力の層。
そして全身に、薄い鎧のような魔力をまとわせる。
アガレスが観客席で記録板を抱えたまま身を乗り出した。
「王様……構えています」
フォルネウスが目を細める。
「粗い。ですが、意図があります」
バルガンが腕を組んだ。
「つまり?」
「殴られる覚悟をした構えです」
「それは強いのか?」
「普通は、強くありません」
「普通は、か!」
「ええ。王様は普通ではありませんので」
最初の鎖が、ヴェスパーの左肩を狙った。
ヴェスパーの左手が、円を描く。
鎖を止めない。
受けない。
流す。
力の向きをずらすように、左手の魔力層を鎖の側面へ滑らせた。
じゃらん、と重い音を立てて、鎖が横へ弾ける。
二本目も、三本目も同じ。
ヴェスパーの左手が円を描くたび、鎖の軌道がわずかにずれ、空を切る。
ベリアルの目が細くなった。
「受けたのではないな」
「止めたら折れるだろ」
「ならば、折れるまで打つ」
「そう来ると思ったよ」
ベリアルが腕を振る。
鎖の先端が赤黒く光った。
次の瞬間、空気が破裂する。
鎖の先から撃ち出された魔力弾が、訓練場の床を抉りながらヴェスパーへ迫った。
ヴェスパーは一瞬、背後を意識する。
後ろには観客席がある。
避ければ、魔力弾はそのまま防壁へ飛ぶ。
防壁で止まる保証はない。
「避けたら後ろに飛ぶだろうが!」
ヴェスパーは右拳に炎をまとわせた。
そして、地面を殴った。
轟音。
黒石の床が割れた。
亀裂の奥から赤黒い熱が走り、石板が壁のように隆起する。
次の瞬間、魔力弾がその石壁に直撃した。
どごん、と鈍い爆発が起きる。
隆起した黒石の壁が砕け、破片が雨のように降り注いだ。
「あー! 訓練場の床が割れた!」
ザグが観客席で頭を抱える。
「直せばいい!」
バルガンが叫ぶ。
「お前が言うな!」
ヴェスパーは土煙の向こうから顔をしかめた。
「あとで直せ!」
「王様が壊してるんです!」
「知ってる!」
ベリアルが笑った。
「地面を殴って壁を作るか」
「即席だ。見た目は気にするな」
「悪くない」
「褒められてる気がしねぇ」
ベリアルが片腕を振り上げる。
鎖が空へ伸びた。
一本ではない。
十本、二十本、三十本。
赤黒い鎖が訓練場の上空に広がり、槍の穂先のように先端を尖らせる。
それらが一斉に、ヴェスパーへ向いた。
「数で押す気かよ」
ヴェスパーは腰を落とした。
左手を前へ。
右手を引く。
その右拳に、黒雷が集まっていく。
「なら――」
足元の黒石が、びしりと鳴った。
「全部、叩き落とす!」
鎖が降った。
「おらぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
ヴェスパーの拳が、霞んだ。
一発。
鎖の先端が砕ける。
二発。
横から迫った鎖が雷に弾かれ、宙で暴れる。
三発、四発、五発。
黒雷をまとった突きが、まるで機関銃のように撃ち込まれていく。
拳が走るたび、雷鳴が鳴った。
鎖が砕ける。
火花が散る。
破片が黒石の床に突き刺さる。
ベリアルの放った鎖の群れが、正面から粉砕されていった。
観客席がどよめく。
「王様が殴ってる!」
「いや、あれは突きです!」
「突きって、あんな連続で出るものなのか!?」
「知りません!」
フォルネウスは、冷静に目を細めていた。
「鎖を壊しているのではありません」
バルガンが振り向く。
「どういうことだ!」
「鎖の中を流れる魔力を断っています。一撃ごとに雷を乗せ、魔力回路を撃ち抜いている」
「なるほど!」
「ただし、かなり無茶です」
「俺もやる!」
「やめろ!」
ザグが悲鳴を上げた。
「お前がやったら床どころか訓練場が消える!」
アガレスは目を輝かせて記録板に筆を走らせている。
「王様! 今の技名は!?」
「ない!」
「では、黒雷連突で!」
「勝手につけるな!」
「記録しました!」
「消せ!」
そう叫びながらも、ヴェスパーは突きを止められない。
鎖はまだ来る。
ベリアルは笑いながら、さらに鎖を増やしていた。
「そこまで正面から砕くか」
「増やすな!」
「ならば、これはどうだ」
次の瞬間、ヴェスパーの足元に亀裂が走った。
鎖が床下から飛び出す。
足首。
膝。
腰。
絡み取るように、黒い鎖が巻きつこうとする。
「下か!」
ヴェスパーは右拳を握り込んだ。
黒雷が拳に集まる。
鎖は床の下を走っている。
なら、床ごと撃てばいい。
「黒雷杭打ち」
「今、名前つけましたね!」
「うるせぇ!」
ヴェスパーは拳を地面へ叩き込んだ。
雷が亀裂を走る。
床下に潜っていた鎖が、ばちばちと音を立てて跳ね上がった。
制御を失った鎖が暴れ、黒石の床を内側から割る。
その反動で、ヴェスパーの右腕に焼けるような痛みが走った。
「っ……!」
鎖の破片が降る中、ヴェスパーは右拳を握り直す。
感覚が鈍い。
黒雷を連続で流し込みすぎたせいで、指先が自分のものではないようだった。
「……調子に乗るもんじゃねぇな」
笑おうとして、失敗した。
右腕の内側が、焼けるように痛んでいる。
それでも、前を見る。
ベリアルはまだ笑っていた。
「訓練場南面、床材損壊率三割を突破しました!」
クロセルが冷静に記録する。
「今それ言う必要あるか!?」
「修繕計画に必要です」
「正論で殴るな!」
ベリアルが指を鳴らした。
床に突き刺さっていた鎖が、赤く光る。
フォルネウスが叫んだ。
「地面に刺さった鎖から離れろ!」
「そういうの先に言え!」
爆発。
黒石の床が内側から吹き飛んだ。
訓練場に大穴が開く。
ヴェスパーは足元に風をまとわせ、床を蹴った。
爆風に押されながら、空中で体勢を変える。
吹っ飛ばされたのではない。
少なくとも、本人はそう思いたかった。
だが実際には、半分以上吹き飛ばされていた。
背中から床に落ち、黒石の破片が肩を打つ。
「っ……!」
息が詰まった。
一瞬、視界の端が白くなる。
それでも、ヴェスパーは転がりながら膝をついた。
肩が痛い。
肺の奥が軋む。
魔力鎧も、今の衝撃で一枚剥がれたような感覚があった。
「飛んだ!」
「王様が飛んだ!」
「いや、吹っ飛ばされたんじゃないですか?」
「飛んだことにしろ!」
ザグが両手を広げて叫んだ。
「床が! 床がもう床じゃない!」
「まだ足場としては使える!」
「それを床と言い張るのは無理があります!」
ヴェスパーは荒い息を吐いた。
肩が痛い。
腕が重い。
魔力鎧もところどころ軋んでいる。
それでも、立っていた。
ベリアルは鎖を引き戻した。
それまで訓練場の上空や床下を走っていた鎖が、すべて彼の右腕へ集まっていく。
一本一本が絡み合い、束になり、ねじれ、膨れ上がる。
それはもはや鎖ではなかった。
黒い城門をそのまま振り下ろすような、巨大な槌だった。
訓練場の空気が沈む。
観客席が静まり返る。
ベリアルが低く告げた。
「ならば、これはどう受ける」
鎖が唸る。
「鎖獄――黒王槌」
フルカスが目を鋭くした。
「ベリアル殿」
「殺しはせん」
「信用できる言い方じゃねぇな」
ヴェスパーはそう言いながら、地面へ拳を向けた。
魔力鎧は、もう何度も割れていた。
肩に走る痛みは消えない。
左腕は鎖を流し続けた反動で痺れている。
右拳は黒雷連突のせいで、握っている感覚すら怪しい。
それでも、後ろへ退けなかった。
背後には観客席がある。
ここで避ければ、衝撃は後ろへ抜ける。
黒王槌が振り上げられる。
影が落ちる。
まともに受ければ、訓練場ごと潰れる。
ヴェスパーは右拳に炎をまとわせ、床を殴った。
黒石の床が割れ、分厚い石壁が斜めに隆起する。
一枚。
二枚。
三枚。
即席の防壁が、黒王槌の前に立ち上がる。
だが、止まらなかった。
一枚目が砕ける。
二枚目が砕ける。
三枚目が粉になる。
鎖の槌は勢いを削られながらも、なお落ちてくる。
「止まらねぇのかよ!」
後ろへ退けば、衝撃が観客席へ抜ける。
横へ逃げれば、訓練場の床が半分持っていかれる。
なら。
「下だ」
ヴェスパーは歯を食いしばった。
足元に風を噛ませる。
体が黒石の床を滑るように前へ出た。
「王様!?」
アガレスの悲鳴が聞こえた。
逃げたのではない。
潜った。
落ちてくる黒王槌の影の中へ、ヴェスパーは自分から飛び込んだ。
砕けた黒石の破片が全身を打つ。
頬が裂ける。
肩に石片が当たる。
魔力鎧が軋む。
圧が体を押し潰そうとする。
だが、巨大な槌には隙がある。
大きすぎるものほど、内側が空く。
ヴェスパーはベリアルの右腕の内側へ滑り込んだ。
ベリアルの目がわずかに見開かれる。
「潜るか!」
「真正面から受けるかよ!」
ヴェスパーは拳を振らなかった。
肩。
胸。
全身にまとった魔力を一点へ寄せる。
炎が鎖の内側を焼き、雷がベリアルの魔力の流れを一瞬だけ止める。
「おらぁ!」
ヴェスパーの肩が、ベリアルの胸元へ叩き込まれた。
衝撃は爆発しなかった。
突き抜けた。
ベリアルの足が、わずかに床から離れる。
力で持ち上げたのではない。
黒王槌を振り下ろすために前へ流れた体重。
鎖に引かれた腕。
踏み込んだ勢い。
その全部を、ヴェスパーは横へ流した。
「倒れろ!」
ヴェスパーはベリアルの腕を抱え込み、腰を入れた。
次の瞬間、ベリアルの巨体が宙を舞った。
轟音。
ベリアルの背が、訓練場の床に叩きつけられる。
黒石の床が蜘蛛の巣状に割れた。
衝撃で観客席の悪魔たちが一斉に立ち上がり、土煙が南側の訓練場を呑み込む。
だが、ヴェスパーも無事では済まなかった。
投げた瞬間、肩から胸にかけて嫌な音が走る。
肋骨の奥が軋み、呼吸が一拍止まった。
「っ、ぐ……!」
ヴェスパーは膝をつきかけ、どうにか踏みとどまる。
力を流した。
受け流した。
それでも、相手はベリアルだった。
流しきれなかった衝撃が、体の芯に残っている。
「あああああ!」
ザグが頭を抱えた。
「床が! 床が完全に死んだ!」
「生き返らせろ!」
「床は悪魔じゃありません!」
バルガンが目を輝かせた。
「俺もやる!」
フォルネウスが即座に言った。
「まず死にます」
「なぜだ!」
「今のは、真似をしてはいけない部類です」
土煙の中で、鎖が鳴った。
ベリアルがゆっくりと体を起こす。
口元には、笑みがあった。
ダメージはある。
だが、戦意は折れていない。
むしろ、先ほどよりも楽しそうだった。
「……今のは、何だ」
ヴェスパーは肩で息をしながら答えた。
「知らん。たぶん、当て身投げだ」
「たぶん?」
「魔法で見たビデオで覚えた」
「びでおとは何だ」
「説明が面倒なやつだ」
フォルネウスが静かに言った。
「相手の力を利用した投げです。黒王槌を受けたのではありません。槌を振り下ろすために前へ流れたベリアル殿の力を、横へ逃がした」
ベリアルはヴェスパーを見た。
「力だけではないか」
「力だけなら、お前に勝てる気がしねぇよ」
「ならば、何で勝つ」
「構造だ」
「構造?」
「力の流れだよ。現場も戦いも、無理に止めたら壊れる。だから流す」
ベリアルはしばらく黙った。
そして、喉の奥で笑う。
「面白い」
鎖が再び動いた。
だが、今度は巨大な槌ではない。
短く束ねるわけでもない。
ベリアルの全身に、鎖が巻きついていく。
腕に。
肩に。
背に。
脚に。
錆びた鎖が赤黒く輝き、鎧のように彼の体を覆った。
その先端が、すべて前方へ向く。
槍。
いや、杭だ。
ベリアル自身を巨大な鎖の杭に変えるような構えだった。
ヴェスパーは、荒い息を吐きながらそれを見た。
次で決まる。
理屈ではなく、そう分かった。
ベリアルも同じことを悟っている。
ここから先、小細工はない。
鎖を砕くか。
拳が折れるか。
どちらかだ。
「次で決めるぞ、火の王」
「ああ」
ヴェスパーは右拳を握った。
握れているのかどうか、自分でも分からなかった。
指先の感覚は薄い。
肩は熱を持ち、肋骨の奥は呼吸のたびに軋む。
左腕は上がりきらず、魔力鎧はほとんど形を保っていない。
まだ立っている。
ただ、それだけだった。
だが、ベリアルも無傷ではない。
鎖は砕け、鎧は歪み、片膝に黒石の粉がついている。
それでも、その目は死んでいない。
互いに分かっていた。
次で決まる。
ヴェスパーは、残った魔力鎧を解いた。
「王様!?」
アガレスの声が飛ぶ。
防御を捨てる。
炎を拳へ。
雷を拳へ。
風を足へ。
体を守るための魔力すら、右腕へ流し込む。
外せば終わり。
受け損ねても終わり。
だが、防御に残す余裕など、もうなかった。
左手を前へ。
右拳を腰へ引く。
正拳突き。
ただ真っ直ぐに打つ。
それだけの型。
だが、今のヴェスパーが持つすべてを、そこへ乗せる。
「これが――」
足元の黒石が、びしりと割れた。
「今の俺の最高の一撃だ」
ベリアルが踏み込んだ。
鎖が唸る。
空気が重く沈む。
赤黒い鎖の杭が、一直線にヴェスパーへ迫る。
ヴェスパーも踏み込んだ。
風が爆ぜた。
黒石の床が砕け、足元から衝撃が走る。
「おらぁぁぁぁぁぁぁ!」
右拳が放たれた。
その瞬間、音が消えた。
拳が空気を裂く。
黒紅の炎と黒雷をまとった正拳突きが、音速を超えて走った。
白い衝撃の輪が、拳の周囲に生まれる。
次の瞬間、ヴェスパーの拳がベリアルの鎖鎧の中心を撃ち抜いた。
まだ音は来ない。
鎖が砕ける。
赤黒い火花が散る。
黒雷が鎖の魔力回路を走り、内側から弾け飛ばす。
そして、遅れて衝撃が来た。
轟音。
空気そのものが、訓練場から押し出された。
観客席にいた悪魔たちは、一瞬、息を吸えなくなった。
胸の奥が空になったような感覚。
目の前の空気が、ごっそり奪われたような圧。
声を出そうとしても、喉が鳴らない。
次の瞬間、押し出された空気が暴風となって戻ってきた。
観客席の悪魔たちが一斉に身を伏せる。
土埃が舞い、仮設席の布がばたばたと激しく鳴った。
ベリアルの巨体が、宙へ浮いた。
「ぐっ……!」
鎖をまとったまま、ベリアルが吹き飛ぶ。
黒石の床を二度、三度と跳ね、南側の防壁へ叩きつけられた。
再び轟音。
防壁が砕ける。
砕けた黒石が、南側へ雨のように飛び散った。
拳を突き出した姿勢のまま、ヴェスパーは動けなかった。
右腕が震えている。
拳の皮膚が裂け、黒い靄のような血が滲んでいた。
肩から先が、自分の体ではないようだった。
足元の風も消えている。
魔力鎧もない。
ただ、立っている。
それだけだった。
「……二度は、無理だな」
そう呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
誰もすぐには歓声を上げられなかった。
あまりの衝撃に、叫ぶための息が戻っていなかった。
遅れて、観客席に音が戻る。
「あれ!」
バルガンが目を見開いて叫んだ。
「あれ、俺も前にやられたやつより速い!」
「比較対象があるのかよ!」
ザグが叫んだ。
「あります!」
バルガンはなぜか誇らしげに胸を張った。
「前に王様に吹き飛ばされました!」
「誇るところじゃありません!」
そして、ようやく息を取り戻した悪魔たちが、一斉に吠えた。
「うおおおおおおおおお!」
「王様! 王様! 王様!」
土煙が南側の訓練場を覆う。
ベリアルも、土煙の中で動いた。
砕けた防壁を押しのけ、立ち上がろうとする。
だが、片膝が落ちた。
鎖が力なく床を叩く。
ベリアルは膝をついたまま、ヴェスパーを見た。
そして、笑った。
「……見事」
フルカスが二人を見た。
ベリアルは意識を保っている。
だが、立てない。
ヴェスパーは立っている。
決着は明らかだった。
フルカスが剣を掲げる。
「勝者、ヴェスパー王」
もう一度、歓声が爆発した。
村側の悪魔たちが叫ぶ。
湖底勢は、最初沈黙していた。
ベリアルが鎖を下ろす。
膝はついた。
だが、それは敗北の屈辱ではなかった。
立てないほどの一撃を受け、それでも胸を張るための膝だった。
ベリアルは拳を胸に当てた。
それを見て、湖底勢の悪魔たちも同じように拳を胸に当てる。
「認めよう」
ベリアルが言った。
ヴェスパーは荒い息を吐きながら問う。
「従うのか」
「勘違いするな。貴様に膝を折るのではない」
「じゃあ何だよ」
「貴様の進む道に、我らの力を貸す」
ヴェスパーは少しだけ笑った。
「十分だ」
アガレスが勢いよく駆け寄ってきた。
「王様! 今の戦いは何ですか!」
「知らん。魔法で見たビデオの型を、それっぽくやった」
「びでお?」
「説明が面倒なやつだ」
フォルネウスも歩み寄り、壊れた訓練場を見渡した。
「拳に炎。突きに雷。蹴りに風。防御に魔力層。全身に魔力鎧。さらに地面隆起、黒雷連突、黒雷杭打ち、当て身投げ。そして最後の正拳突き」
「並べるとだいぶひどいな」
「戦闘術としては粗いです」
「そこは言うんだな」
「ですが、思想があります」
フルカスが静かに頷いた。
「殺すためではなく、制するための道でございますな」
アガレスがぱっと顔を輝かせる。
「では、魔闘術ですね!」
ヴェスパーは首を横へ振った。
「術じゃない」
「では?」
「敵を殺すわけじゃない。自分の力を制御して、相手も制する。なら、道だ」
フルカスの目が細くなる。
「魔闘道、でございますか」
「……今、決まったのか?」
アガレスが記録板に大きく書き込んだ。
「記録しました!」
「早いんだよ」
周囲から笑いが起きる。
湖底勢の悪魔たちも、完全ではないが、少しだけ表情を緩めていた。
村側と湖底勢。
まだ完全な信頼があるわけではない。
昨日まで、互いにどう扱うべきか分からなかった相手だ。
だが、同じ場所に立つことはできた。
同じ決闘を見届け、同じ勝敗を受け入れた。
それだけでも、大きな一歩だった。
バルガンが、目を輝かせてベリアルへ近づく。
「次は俺とやってくれ!」
ベリアルは一瞥した。
「まず立ち方を直せ」
フォルネウスが即座に頷く。
「その通りです」
「なぜだ!」
「そこからです」
訓練場に、また笑い声が広がった。
ヴェスパーは痛む肩を押さえながら、周囲を見渡す。
黒石の床は割れている。
南側は大きく陥没している。
外周の防壁も一部崩れている。
ザグは頭を抱え、バティンは地盤の修復箇所を確認し、クロセルはすでに復旧予定を書き始めていた。
「……決闘って、こんなに後片付けが出るもんなのか」
「第三十五話、魔闘道創始の記録です!」
アガレスが嬉しそうに記録板を掲げる。
「話数を記録するな」
カン、と黒鉄の鐘がもう一度鳴った。
それは、決闘の終わりを告げる音だった。
だが同時に、別の始まりを告げる音でもあった。
湖底の悪魔たちは火の村へ入り、火の村の悪魔たちは彼らを迎え入れる。
力で従わせたのではない。
力を見せ、道を示し、ようやく同じ場所に立った。
壊れた訓練場に、悪魔たちの笑い声が響く。
第九圏に、新しい戦い方が生まれた。




