第三十四話 王の構え
決闘は、翌日と決まった。
地底湖の岸辺に、火はまだ並んでいる。
作業炉、運搬炉、黒石で囲った簡易炉。
赤黒い炎は濡れた岸辺を照らし、湖底から戻った悪魔たちの体を少しずつ温めていた。
凍っていた翼から水滴が落ちる。
割れた角の根元に、かすかな魔力が戻る。
古い鎖を引きずる者が、火の前で黙って膝を抱えている。
誰かが名を呼び、誰かが返事をし、返事がなければ近くの悪魔がそっと肩に手を置く。
地獄の底で、長すぎる時間を失った者たちが、ようやく火の前に戻ってきていた。
ハボリムの大鍋からは、冥骨粥の湯気が上がっている。
湖底勢の悪魔たちは最初こそ警戒していたが、一口食べると、黙り込んだ。
そして二口目を食べた。
三口目を食べた。
それから、器を握る手に力が入った。
「……うめぇぞ、これ」
誰かが呟いた。
その一言をきっかけに、湖底勢の悪魔たちの間にざわめきが広がる。
「力が戻る」
「火だけではない。中から熱が来る」
「粥だ。粥が強い」
「粥が強いって何だよ」
ヴェスパーは思わず突っ込んだ。
だが、悪魔たちは真剣だった。
長く凍りついていた彼らにとって、温かい食べ物はただの食事ではない。精神と魔力の輪郭を押し戻す、火とは別の救助だった。
ベリアルも、器を手にしていた。
古い鎖を腕に巻いたまま、簡易炉のそばに立ち、冥骨粥を口に運ぶ。
その表情は相変わらず険しい。
だが、二口目を飲み込んだ時、ほんのわずかに眉が動いた。
「……悪くない」
「褒め方が硬いな」
ヴェスパーが言うと、ベリアルは器を下ろした。
「力が戻る」
「なら食っとけ。決闘は明日だろ」
「言われずとも食う」
「素直でよろしい」
「貴様に言われる筋合いはない」
ベリアルはそう言って、また粥を口に運んだ。
その横で、アスタロトが静かに器を持っている。
彼女は粥を一口食べ、目を伏せた。
「温かい食べ物を、当たり前のように配るのですね」
「当たり前にしたいだけだ」
ヴェスパーは湖底勢の方を見た。
「腹が減ってるやつに飯を出す。凍えてるやつに火を出す。怪我してるやつを寝かせる。今は、それだけだ」
「それだけ、ですか」
「それだけだ」
アスタロトは少しだけ笑った。
「それができない時代が、長すぎました」
その言葉には、重さがあった。
ヴェスパーは返事をしなかった。
返事をするには、この第九圏が失ってきた時間はあまりに長い。
その代わり、彼は簡易卓の方へ視線を向けた。
フルカス、ファルナウス、アガレス、クロセルが、明日の決闘について話している。
場所は、村の西側にある訓練場。
闘技場では狭い。
赤黒盤戯の横に作られたあの場所は、当初は肉体派悪魔たちの余暇活動として始まったはずだった。
それがいつの間にか、村の戦闘訓練場になっている。
そして明日、第九圏の今後を決める決闘の場になる。
「本当に訓練場でいいのか」
ベリアルが低く問う。
「ああ」
ヴェスパーは答えた。
「闘技場じゃ狭い。お前が暴れたら、観客席ごと吹っ飛ぶだろ」
「観客を気にするのか」
「気にするだろ。決闘を見に来て巻き込まれて死にました、じゃ洒落にならん」
「悪魔が死を恐れるか」
「恐れなくても、後片付けが面倒なんだよ」
ベリアルは鼻を鳴らした。
「妙な王だ」
「よく言われる」
「武器はどうする」
その問いに、周囲の空気が少し変わった。
フルカスが顔を上げる。
ファルナウスが目を細める。
アガレスは記録板に筆を置いたまま、ヴェスパーを見た。
ヴェスパーは、ベリアルの腕に巻かれた鎖を見る。
古く、錆びているはずなのに、その鎖は生きているような魔力を放っていた。
おそらく、ただの鎖ではない。
湖底の氷牢で、長く彼と共に封じられていた武器なのだろう。
「そっちは好きに使うがいいさ」
ヴェスパーは言った。
「鎖でも、剣でも、槍でもな」
ベリアルの目がわずかに細くなる。
「貴様は」
「こっちは、こっちで考える」
「隠すのか」
「明日のお楽しみだ」
「ふざけているのか」
「半分くらいはな」
ベリアルの鎖が、じゃらりと鳴った。
怒ったのかと思った。
だが、違った。
ベリアルは笑っていた。
「よい」
低い笑い声が、濡れた岸辺に響く。
「ならば明日だ。貴様が何を持ち出すか、見てやろう」
「期待するなよ。こっちは素人だ」
「素人が、私の前に立つのか」
「立たなきゃ始まらんだろ」
ベリアルはしばらくヴェスパーを見ていた。
その視線には、敵意だけではないものが混じっていた。
値踏み。
興味。
そして、わずかな期待。
ヴェスパーはその視線を受け流し、岸辺の炉へ視線を戻した。
明日。
ベリアルを倒せば、湖底勢は従う。
単純で、悪魔らしい決着だ。
だが、その単純さこそ厄介だった。
ただ勝てばいいわけではない。
ベリアルを殺す戦いではない。
湖底勢に、納得させるための戦いだ。
村へ戻る道中、ヴェスパーはずっと黙っていた。
ぬかるんだ地面を越え、凍りかけた道を戻り、帰還柱の赤い印を辿る。
周囲では、悪魔たちが救助者用のそりを引いていた。
運搬炉の熱が揺れ、湖底勢の何人かがそのそばで眠っている。
ベリアルたちは、一部を連れて翌朝村へ来ることになった。
アスタロトは地底湖側の混乱を収めるために残り、グラスヴァルは霜牙軍と湖底勢の間に余計な衝突が起きないよう、外周で警戒する。
状況は整理された。
少なくとも、表面上は。
だが、ヴェスパーの頭の中は整理されていなかった。
「王様」
アガレスが横に並ぶ。
「明日のことですが」
「分かってる」
「狙撃筒は使用されますか?」
ヴェスパーは歩きながら、少しだけ口元を曲げた。
「戦争なら使う」
「では、今回は」
「決闘だろ」
「はい」
「なら違う」
アガレスは瞬きをした。
ヴェスパーは西門防衛の時を思い出す。
見張り台。
黒骨狙撃筒。
遠くの危険個体を抜く感覚。
戦場を制御するための一発。
あれは間違っていない。
村を守るなら、迷わず撃つ。
魔物の群れが来るなら撃つ。
敵の術者が防壁を凍らせるなら撃つ。
戦争であるなら、距離も武器も道具も使う。
勝つためではない。
守るために。
だが、明日は違う。
「遠くから撃ってベリアルを倒したところで、あいつらは納得しねぇ」
「湖底の悪魔たちですか」
「ああ」
ヴェスパーは足元の黒石道を見る。
「道具の強さを見せる場じゃない。俺が前に立てるかどうかを見せる場だ」
「王様が」
「そうだ」
口にしてから、少し嫌な気分になった。
王様。
いまだに、しっくりくるような、こないような呼び名だ。
だが、この第九圏に火を灯し、飯を作り、道を伸ばし、地底湖の底から悪魔たちを引き上げた。
その結果、ベリアルの前に立つことになった。
ならば、今さら逃げるわけにはいかない。
「王様、黒雷は」
「使う」
「黒炎は」
「必要ならな」
「重力場は」
「使えるなら使う」
「では、魔法は使うのですね」
「撃つんじゃない」
ヴェスパーは右手を握った。
「通す」
アガレスの目が、わずかに輝いた。
「通す、ですか」
「ああ。道具じゃなく、体に」
「それは……」
アガレスが何か言いかけた。
だが、ヴェスパーは軽く手を上げて止めた。
「まだ説明できるほど固まってねぇ」
「では、記録は」
「明日まで待て」
「王様」
「だめだ」
「まだ何も言っていません」
「顔に書いてある」
アガレスは記録板を抱えたまま、頬を膨らませた。
「知識の悪魔として、非常に気になります」
「知ってる」
「見たいです」
「来るな」
「まだ行くとは言っていません」
「顔に書いてある」
「顔は便利ですね」
「便利に使うな」
ヴェスパーは歩きながら、空を見上げた。
第九圏の空は暗い。
だが以前より、わずかに色がある。
炉の火。
温泉の湯気。
水門の流れ。
村から広がる灯り。
氷獄は、ゆっくりと変わり始めている。
その変化の先に立つためには、ただ便利な道具を作るだけでは足りないのかもしれない。
村に戻ると、すでに明日の準備が始まっていた。
クロセルは決闘の時刻を定め、鐘の予定を黒板に書き込んでいる。
フルカスは西側訓練場の広さと観覧位置を確認し、バルガンに観客を下がらせる位置を指示していた。
フォルネウスは黒石床の凹凸を見ている。
ファルナウスは、地底湖側の悪魔が暴れた場合の退避路を確認していた。
悪魔たちは興奮している。
決闘。
決闘。
決闘。
その響きだけで、肉体派の目はぎらつき、記録係は筆を握り、飯場はなぜか鍋を増やしていた。
「明日、決闘後に腹が減るかもしれませんので」
ハボリムが当然のように言う。
「決闘後の飯まで考えるな」
「火はよいのう」
「会話になってねぇ」
ヴェスパーは苦笑しながら、研究所へ向かった。
中へ入ると、そこには広げっぱなしの設計図、黒石の粉、魔鉄の試作品、使いかけの工具、古い記録板が散らばっている。
いつもの光景だ。
落ち着くようで、落ち着かない。
アガレスがついてこようとしたが、ヴェスパーは入口で振り返った。
「アガレス」
「はい、王様」
「ここから先は一人で考える」
アガレスの足が止まった。
「一人で、ですか」
「ああ」
「記録係として」
「だめだ」
「助手として」
「だめだ」
「心配係として」
「それは初めて聞いたな」
「いま作りました」
「作るな」
アガレスは不満そうだった。
けれど、無理に入ってこようとはしなかった。
それが少し意外で、ヴェスパーは眉を上げる。
「珍しいな」
「王様が、来るなとおっしゃいましたので」
「そうか」
「ですが、眠れないと思います」
「寝ろ」
「努力します」
「努力で寝られるなら苦労しねぇな」
アガレスは小さく笑った。
ヴェスパーも少し笑い、研究所の扉を閉めた。
静かになった。
外の騒がしさが、厚い壁の向こうへ遠ざかる。
ヴェスパーは机の前に座り、目を閉じた。
やることは多い。
考えることはもっと多い。
だが、今は一つに絞る。
ベリアルの前に立つ方法。
勝つ方法ではない。
死なない方法。
流されず、潰されず、逃げずに立つ方法。
息を吸う。
身体の奥へ意識を沈める。
炉核を作った時のように、深く。
黒い石棺から目覚めた時の闇よりも、さらに内側へ。
意識が落ちる。
音が消える。
研究所の床も、机も、扉も、すべて遠ざかる。
そして、ヴェスパーは自分の内側に立っていた。
そこは、何もない場所だった。
いや、何もないように見える場所だった。
黒い水面。
白い霧。
遠くに浮かぶ、壊れた記憶の断片。
文字。
映像。
声にならない声。
前世の記憶は、ほとんどない。
自分の名も、顔も、人生の細部も、掴もうとすると霧のように逃げる。
だが、知識は残っている。
癖のように。
道具を見れば構造を考える。
火を見れば熱の逃げ道を考える。
水を見れば勾配を考える。
人が動けば導線を考える。
ならば、戦いも同じはずだ。
ヴェスパーは手を伸ばした。
目の前に、黒い筒が現れる。
長い銃身。
銃床。
照準。
見張り台から敵を抜いた感覚。
戦場を俯瞰し、危険個体を撃ち、味方を守る。
正しい。
戦争なら正しい。
だが、ヴェスパーは首を横に振った。
「違う」
黒い筒が霧に戻る。
次に現れたのは、短い銃。
近距離で扱いやすい武器。
魔力を込めれば、十分に殺傷力はある。
これも違う。
「決闘で撃ち合ってどうする」
短銃も消えた。
残ったのは、自分の手だった。
白い手。
長い指。
悪魔の身体。
これでベリアルの前に立つ。
無謀だ。
正面から殴り合えば潰される。
受け止めれば骨が砕ける。
逃げ回れば、納得されない。
魔法を撃ち続ければ、戦争になる。
「じゃあ、どうする」
霧の中に、映像が流れた。
途切れ途切れだった。
白い道着。
板張りの床。
誰かの掛け声。
真正面へ伸びる拳。
腰の回転。
踏み込み。
蹴り上げる足。
腕を添え、相手の力を外へ流す動き。
投げられ、転がり、すぐに立ち上がる受け身。
自分がそれを習っていたのか。
ただ映像で見ただけなのか。
それすら分からない。
だが、型は残っていた。
完全ではない。
断片だ。
けれど、今必要なのは完成された武術ではない。
明日、ベリアルの前に立つための理屈だ。
ヴェスパーは、霧の中で拳を握った。
拳を突き出す映像が、何度も流れる。
足を踏み込み、腰を回し、肩を通し、拳へ力を伝える。
力は腕だけから出るものではない。
足から来る。
地面から返る。
腰を通り、背骨を通り、肩を通り、拳へ抜ける。
次に、蹴りが浮かぶ。
前へ押す蹴り。
横から叩く蹴り。
膝を折る蹴り。
相手を倒すというより、距離と体勢を変えるための蹴り。
さらに、別の動き。
相手の腕を掴まない。
止めない。
触れて、外へ流す。
踏み込んできた力を横へ逃がし、体勢を崩す。
投げるのではなく、崩す。
受け止めるのではなく、逸らす。
そして、転ぶ。
いや、転ばされる。
背中を丸め、顎を引き、腕で衝撃を逃がし、地面に力を流して立ち上がる。
受け身。
ヴェスパーは目を細めた。
「これだな」
完璧な型など知らない。
武術家だった記憶もない。
だが、理屈は分かる。
殴る時、力は足から来る。
蹴る時、力は地面から返ってくる。
受ける時、力を真正面で止めれば壊れる。
なら、角度を変える。
流す。
逃がす。
魔力も同じだ。
今までは、魔法として撃っていた。
黒炎弾。
黒雷。
重力場。
外へ放つ力。
だが今回は違う。
魔力を身体に通す。
胸から肩へ。
肩から肘へ。
肘から拳へ。
腰から膝へ。
膝から足裏へ。
足裏から黒石の地面へ。
撃つ魔法ではない。
纏うだけの魔法でもない。
身体の動きに、魔力を乗せる。
「拳に炎」
ヴェスパーは呟いた。
握った拳の内側に、赤黒い熱が灯る。
拳そのものに熱を宿す。
殴るためだけではない。
近づく者に、この手がまだ燃えていると知らせるための火。
脅しでもあり、芯でもある。
「突きに雷」
腕を伸ばす瞬間、肩から肘へ、肘から拳へ、細い黒雷が走る。
表面に派手な火花を散らすのではない。
拳が当たる瞬間だけ、芯に雷を通す。
一点。
一瞬。
相手の動きを止めるための雷。
「蹴りに風」
足を振ると、黒い霧の足元に風が巻いた。
倒すためではない。
距離を作り、軌道をずらし、踏み込みを狂わせるための風だ。
ベリアルのような相手に、まともな蹴りで勝てるとは思わない。
だが、一歩を遅らせることはできる。
膝を沈めることはできる。
鎖の間合いから半歩外れることはできるかもしれない。
「防御には、魔力の層」
腕の前に、薄い膜を張る。
盾ではない。
受け止めるものではない。
ぶつかった力を滑らせ、横へ逃がすための層。
硬く張りすぎれば砕ける。
柔らかすぎれば抜かれる。
なら、触れた瞬間だけ厚くする。
「体全体には……鎧か」
全身を薄い魔力で覆う。
厚くすれば動きが鈍る。
薄すぎれば砕ける。
だから、必要な瞬間だけ厚くする。
拳。
肩。
脇腹。
膝。
背中。
殴られる場所ではない。
壊れてはいけない場所を守る。
攻撃のためではない。
一撃で終わらないための鎧。
「魔法を撃つんじゃねぇ」
ヴェスパーは半身に構えた。
「型に、通す」
目の前に、ベリアルの幻影が現れた。
巨大な拳。
古い鎖。
湖底の水圧をまとったような魔力。
幻影のベリアルが踏み込む。
速い。
重い。
避けるより早く、拳が来る。
ヴェスパーは受けた。
真正面で。
腕が砕けた。
意識が霧に散る。
次の瞬間、最初の位置に戻っていた。
「正面は無理」
もう一度。
今度は横へ逸らす。
拳を外へ流そうとする。
だが、力が強すぎて肩ごと持っていかれる。
転がる。
背中から叩きつけられる。
受け身が遅い。
「遅い」
もう一度。
踏み込みを見る。
拳ではなく、肩を見る。
肩ではなく、腰を見る。
腰ではなく、足を見る。
ベリアルの力は、足から来る。
なら、足を崩す。
蹴る。
風で踏み込みをずらす。
必要なら、重さを足元へ落とす。
幻影のベリアルの膝が、わずかに沈む。
拳の軌道がずれる。
ヴェスパーは腕を添え、魔力の層で力を外へ流す。
成功。
と思った瞬間、鎖が来た。
首を刈られた。
「鎖、忘れてたな」
また戻る。
何度も潰される。
何度も叩きつけられる。
何度も吹っ飛ぶ。
勝てない。
まったく勝てない。
だが、少しずつ死ぬまでの時間が伸びた。
一撃で終わっていたものが、二手になった。
二手が三手になった。
三手が五手になった。
真正面から受けない。
足を見る。
腰を見る。
踏み込みに風を置く。
腕で流す。
流した瞬間に突く。
突きに黒雷を乗せる。
当てる場所は、顔ではない。
腕。
肋。
腹。
鎖を振るう肩。
踏み込む膝。
倒すためではない。
止めるため。
崩すため。
次の一手を作るため。
「……武術ってより、現場対応だな」
ヴェスパーは息を吐いた。
だが、それでいい。
完成された流派ではない。
伝統もない。
型もない。
美しさもない。
明日、死なないために作る。
それだけのものだ。
だが、核は見えた。
構え。
構えがいる。
ただ拳を上げるだけではない。
魔力の通り道を決める姿勢。
足裏で黒石を掴むように立つ。
膝を固めない。
腰を落とす。
肩の力を抜く。
片手を前へ。
もう片手を胸元へ。
胸の奥から腕へ、腕から拳へ。
同時に、腰から足へ、足から地面へ。
上へ放つ力と、下へ逃がす力。
その両方を持つ構え。
「構えって、魔力の回路なんだな」
口にした瞬間、霧の中で何かが繋がった。
足元に黒い線が走る。
胸の奥に赤黒い火が灯る。
拳の内側に細い黒雷が流れる。
足元に風が巻く。
腕の前には薄い魔力の層。
全身には、まだ粗い魔力の鎧。
地面には、逃げ道。
ヴェスパーは半身になった。
幻影のベリアルが、また踏み込んでくる。
今度は、見えた。
止められない。
だが、流せる。
勝てない。
だが、立てる。
拳が来る。
ヴェスパーは踏み込み、半身を切り、腕を添えた。
力が肩をかすめる。
骨が軋む。
魔力の鎧がひび割れる。
だが、砕けない。
地面へ衝撃を逃がし、左拳を突く。
黒雷が、幻影の肋に一瞬だけ走った。
ベリアルの幻影が、初めて止まった。
ヴェスパーは笑った。
「よし」
次の瞬間、鎖で吹っ飛ばされた。
霧の中を転がり、黒い水面に叩きつけられる。
「……まだまだだな」
それでも、笑いは消えなかった。
ヴェスパーは水面に手をつき、ゆっくり立ち上がった。
「魔闘術……」
そう言いかけて、首を横に振る。
「いや、違うな」
術なら、相手を倒すためのものだ。
殺すための技。
勝つための手段。
戦場なら、それでいい。
だが、明日は違う。
ベリアルを殺すために戦うわけではない。
湖底勢を恐怖で従わせるためでもない。
あいつらに見せるのは、殺し方ではない。
この第九圏で、力ある者同士がどう向き合うかだ。
敵を殺すための技ではない。
前に立つための技。
受けるための技。
流すための技。
壊さず、止めるための技。
倒して終わらせるのではなく、納得させるための技。
なら、術ではない。
「……道、か」
口にした瞬間、その言葉だけが妙にしっくりきた。
魔をもって闘う。
だが、殺すためではない。
立つため。
受けるため。
止めるため。
そして、先へ進むため。
「魔闘道」
ヴェスパーは半身に構えた。
「仮称にしては、大げさだな」
けれど、悪くはなかった。
意識が研究所へ戻る。
ヴェスパーは目を開けた。
机の上の灯りは、ほとんど減っていない。
精神世界ではかなり長く試したはずだが、現実ではそれほど時間が経っていないらしい。
「これは便利だな」
ぼそりと呟き、立ち上がる。
身体を動かす。
肩を回す。
拳を握る。
頭の中で作った回路を、実際の身体へ流す。
すぐに違和感が出た。
精神世界と現実の身体は違う。
魔力の通りも、関節の動きも、足裏の感覚も違う。
つまり、試さなければならない。
ヴェスパーは研究所の扉を開けた。
外では、アガレスが待っていた。
待っていたというより、扉の横に座って記録板を抱えていた。
「寝ろって言ったよな」
「努力しました」
「結果は」
「失敗しました」
「正直でよろしい」
アガレスは立ち上がり、ヴェスパーを見上げる。
「王様、何か掴まれましたか」
「たぶんな」
「それは何ですか」
「まだ名前はない」
「名前がないのですか」
「今はな」
アガレスの金色の瞳が輝きかける。
ヴェスパーはその前に言った。
「勝手に名付けるなよ」
「まだ何も言っていません」
「顔に書いてある」
「顔は便利ですね」
「便利すぎるな」
ヴェスパーは南の方角を見た。
村の外。
西側の訓練場からも少し離れた、黒石と氷が混じる広い空き地がある。
「南側へ行く」
「私も」
「来るな」
アガレスの口が止まった。
ヴェスパーは彼女を見下ろす。
「明日のお楽しみだ」
「王様」
「危ないかもしれねぇ」
「だからこそ」
「だから、来るな」
少しだけ、強い声だった。
アガレスは言葉を飲み込んだ。
知識の悪魔としては、見たいに決まっている。
記録したいに決まっている。
王様が何を掴み、何を組み替え、何を作ろうとしているのか。
それを、この目で見たい。
だが、ヴェスパーは来るなと言った。
ならば、行かない。
アガレスは小さく頷いた。
「……承知しました」
「いい子だ」
「子供ではありません」
「知ってる」
ヴェスパーは片手を上げ、そのまま南へ歩き出した。
アガレスは、その背中を見送った。
黒い衣の裾が、夜風に揺れる。
長い銀髪が、炉の明かりを受けて鈍く光る。
王様。
その背中は、まだ細い。
ベリアルのような圧倒的な肉体ではない。
フルカスのような剣士の背中でもない。
フォルネウスのような武の完成もない。
それでも、その背中は真っ直ぐ南へ向かっていた。
その夜、村の南側で魔力が爆ぜた。
最初は、小さな音だった。
短く、鋭い。
黒石を拳で叩いたような音。
続いて、地面が低く震える。
どん、と。
誰かが巨大な槌を落としたような響きが、村の外縁まで届いた。
見張り台の悪魔が、思わず南を見る。
「なんだ、今の」
「王様だ」
「王様が何をしている」
「来るなと言われた」
「なら、行くな」
悪魔たちは、それ以上近づかなかった。
王が、来るなと言ったからだ。
黒雷が走る。
地面が震える。
短い爆ぜ音が何度も響く。
時折、魔力が完全に途切れた。
倒れたのか。
失敗したのか。
限界だったのか。
誰にも分からない。
だが、そのたびに、しばらくしてまた魔力が立ち上がった。
細く。
短く。
しつこく。
何度でも。
炎ではない。
炉でもない。
狙撃筒でもない。
魔法陣でもない。
もっと身体に近い魔力だった。
拳。
肘。
膝。
足。
誰かが、魔力を打撃へ変えようとしていた。
研究所の窓辺で、アガレスは眠れずに座っていた。
記録板を抱えたまま、南の空を見る。
行きたい。
とても行きたい。
今すぐ走って行って、何をしているのか確かめたい。
王様が何を見つけ、何を考え、何を失敗し、何を作ろうとしているのか。
全部見たい。
全部記録したい。
知識の悪魔として、それは当然の欲求だった。
けれど、行かなかった。
王様が、来るなと言ったからだ。
「……王様、何を作っているんですか」
答えはない。
代わりに、南側でまた黒雷が爆ぜた。
アガレスは記録板を抱きしめる。
筆は動かさなかった。
見ていないものを記録するわけにはいかない。
だから、彼女はただ南の空を見ていた。
クロセルは時計を見上げ、夜の刻を記録した。
「南方にて、断続的魔力放出。王命により接近禁止」
そう書きながら、彼もまた筆を止めた。
「……眠れる状況ではございませんね」
その言葉に、近くで見張り交代の準備をしていた悪魔が頷いた。
誰も近づかなかった。
だが、誰も完全には眠れていなかった。
夜明け前。
最後に、ひときわ大きな魔力が膨らんだ。
黒雷ではない。
黒炎でもない。
風でもない。
魔力の層でもない。
それらすべてが、一瞬だけ身体の中心へ集まり、拳の先へ通り抜けるような気配だった。
どん、と。
南の地面が低く鳴った。
それきり、魔力は静かになった。
アガレスは窓辺で立ち上がった。
空はまだ暗い。
だが、村の時計は夜明けの刻へ近づいている。
やがて、黒鉄の鐘が鳴った。
カン、と。
一つ。
二つ。
三つ。
地獄の朝を告げる音が、村に響く。
決闘の日が来た。
研究所の扉の前で、アガレスは記録板を抱えたまま立っていた。
南の方角から、足音が近づいてくる。
ゆっくりと。
だが、確かに。
やがて、ヴェスパーが戻ってきた。
黒い衣の袖は破れ、靴底は半分削れている。
手の甲には焦げたような黒い痕があり、頬にも薄く傷が入っていた。
髪は乱れ、肩で息をしている。
どう見ても、万全ではない。
だが、その目だけは冴えていた。
「王様!」
アガレスが駆け寄る。
ヴェスパーは片手を上げた。
「来るなって言っただろ」
「行っていません!」
「じゃあ、なんでそんな顔してる」
「眠れなかっただけです!」
「それは知らん」
アガレスはヴェスパーの手を見る。
拳。
腕。
肩。
足元。
昨日までとは、魔力の流れが違っていた。
外へ漏れる魔力ではない。
内側を通る魔力。
身体そのものを回路にしているような、細く、危うく、だが確かに繋がった流れ。
「王様……魔力の流れが」
「ああ」
ヴェスパーは拳を軽く握った。
黒い雷が、表面ではなく拳の内側で一瞬だけ脈打つ。
「少しだけ、体に通るようになった」
「それは、何という技術ですか」
「技術ってほど完成してねぇ」
「では、魔闘術ですか?」
「術じゃねぇな」
アガレスが首を傾げた。
「術ではないのですか?」
「ああ」
ヴェスパーは拳を握った。
「殺すためのものじゃない。だから、道だ」
アガレスの金色の瞳が、ぱっと輝いた。
「魔闘道」
ヴェスパーは一瞬黙った。
「……まあ、仮ならそれでいい」
「では記録します。王式魔闘道」
「王式を足すな」
「正式名称として」
「仮だって言っただろ」
アガレスは久しぶりに、少しだけ笑った。
ヴェスパーも、疲れた顔で笑った。
「完成したのですか」
「まさか」
ヴェスパーは南の方角を振り返る。
夜通し叩き、転がり、失敗し、魔力を暴発させた黒石の空き地。
そこには、無数の足跡と拳の跡が残っているはずだ。
「完成品じゃない」
「では」
「試作品だ」
ヴェスパーは肩を回した。
痛みが走る。
だが、動く。
「だが、現場に間に合うなら、それでいい」
その時、遠くからざわめきが聞こえた。
西側の訓練場の方だ。
決闘を見届けるため、村の悪魔たちが集まり始めている。
湖底勢も、まもなく来るだろう。
ベリアルも。
ヴェスパーは息を吐いた。
銃はない。
剣もない。
槍もない。
あるのは、自分の身体と、そこに通した未完成の魔力だけ。
それで、ベリアルの前に立つ。
アガレスが記録板を抱え直した。
「王様」
「なんだ」
「勝てますか」
ヴェスパーは少し考えた。
そして、首を横に振る。
「分からん」
「そうですか」
「でも、一撃で終わるつもりはねぇ」
彼は拳を握り、半身に構えた。
足裏で黒石を掴むように立つ。
肩の力を抜く。
胸の奥から腕へ、腕から拳へ。
腰から膝へ、膝から足裏へ。
細い魔力が、身体の内側を通る。
アガレスはその姿を、瞬きもせず見つめていた。
それは、剣士の構えではなかった。
魔法使いの構えでもなかった。
王の構えと呼ぶには、まだあまりに不格好だった。
だが、確かにそこにあった。
ベリアルの暴力を前に、逃げずに立つための構えが。
鐘が、もう一度鳴った。
決闘の刻が近づいていた。




