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第九圏の欠落王 ―棺の底から始める地獄改革―  作者: カイメイラ
第二章 眠る王都へ続く道

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第三十四話 王の構え


 決闘は、翌日と決まった。


 地底湖の岸辺に、火はまだ並んでいる。


 作業炉、運搬炉、黒石で囲った簡易炉。


 赤黒い炎は濡れた岸辺を照らし、湖底から戻った悪魔たちの体を少しずつ温めていた。


 凍っていた翼から水滴が落ちる。


 割れた角の根元に、かすかな魔力が戻る。


 古い鎖を引きずる者が、火の前で黙って膝を抱えている。


 誰かが名を呼び、誰かが返事をし、返事がなければ近くの悪魔がそっと肩に手を置く。


 地獄の底で、長すぎる時間を失った者たちが、ようやく火の前に戻ってきていた。


 ハボリムの大鍋からは、冥骨粥の湯気が上がっている。


 湖底勢の悪魔たちは最初こそ警戒していたが、一口食べると、黙り込んだ。


 そして二口目を食べた。


 三口目を食べた。


 それから、器を握る手に力が入った。


「……うめぇぞ、これ」


 誰かが呟いた。


 その一言をきっかけに、湖底勢の悪魔たちの間にざわめきが広がる。


「力が戻る」


「火だけではない。中から熱が来る」


「粥だ。粥が強い」


「粥が強いって何だよ」


 ヴェスパーは思わず突っ込んだ。


 だが、悪魔たちは真剣だった。


 長く凍りついていた彼らにとって、温かい食べ物はただの食事ではない。精神と魔力の輪郭を押し戻す、火とは別の救助だった。


 ベリアルも、器を手にしていた。


 古い鎖を腕に巻いたまま、簡易炉のそばに立ち、冥骨粥を口に運ぶ。


 その表情は相変わらず険しい。


 だが、二口目を飲み込んだ時、ほんのわずかに眉が動いた。


「……悪くない」


「褒め方が硬いな」


 ヴェスパーが言うと、ベリアルは器を下ろした。


「力が戻る」


「なら食っとけ。決闘は明日だろ」


「言われずとも食う」


「素直でよろしい」


「貴様に言われる筋合いはない」


 ベリアルはそう言って、また粥を口に運んだ。


 その横で、アスタロトが静かに器を持っている。


 彼女は粥を一口食べ、目を伏せた。


「温かい食べ物を、当たり前のように配るのですね」


「当たり前にしたいだけだ」


 ヴェスパーは湖底勢の方を見た。


「腹が減ってるやつに飯を出す。凍えてるやつに火を出す。怪我してるやつを寝かせる。今は、それだけだ」


「それだけ、ですか」


「それだけだ」


 アスタロトは少しだけ笑った。


「それができない時代が、長すぎました」


 その言葉には、重さがあった。


 ヴェスパーは返事をしなかった。


 返事をするには、この第九圏が失ってきた時間はあまりに長い。


 その代わり、彼は簡易卓の方へ視線を向けた。


 フルカス、ファルナウス、アガレス、クロセルが、明日の決闘について話している。


 場所は、村の西側にある訓練場。


 闘技場では狭い。


 赤黒盤戯の横に作られたあの場所は、当初は肉体派悪魔たちの余暇活動として始まったはずだった。


 それがいつの間にか、村の戦闘訓練場になっている。


 そして明日、第九圏の今後を決める決闘の場になる。


「本当に訓練場でいいのか」


 ベリアルが低く問う。


「ああ」


 ヴェスパーは答えた。


「闘技場じゃ狭い。お前が暴れたら、観客席ごと吹っ飛ぶだろ」


「観客を気にするのか」


「気にするだろ。決闘を見に来て巻き込まれて死にました、じゃ洒落にならん」


「悪魔が死を恐れるか」


「恐れなくても、後片付けが面倒なんだよ」


 ベリアルは鼻を鳴らした。


「妙な王だ」


「よく言われる」


「武器はどうする」


 その問いに、周囲の空気が少し変わった。


 フルカスが顔を上げる。


 ファルナウスが目を細める。


 アガレスは記録板に筆を置いたまま、ヴェスパーを見た。


 ヴェスパーは、ベリアルの腕に巻かれた鎖を見る。


 古く、錆びているはずなのに、その鎖は生きているような魔力を放っていた。


 おそらく、ただの鎖ではない。


 湖底の氷牢で、長く彼と共に封じられていた武器なのだろう。


「そっちは好きに使うがいいさ」


 ヴェスパーは言った。


「鎖でも、剣でも、槍でもな」


 ベリアルの目がわずかに細くなる。


「貴様は」


「こっちは、こっちで考える」


「隠すのか」


「明日のお楽しみだ」


「ふざけているのか」


「半分くらいはな」


 ベリアルの鎖が、じゃらりと鳴った。


 怒ったのかと思った。


 だが、違った。


 ベリアルは笑っていた。


「よい」


 低い笑い声が、濡れた岸辺に響く。


「ならば明日だ。貴様が何を持ち出すか、見てやろう」


「期待するなよ。こっちは素人だ」


「素人が、私の前に立つのか」


「立たなきゃ始まらんだろ」


 ベリアルはしばらくヴェスパーを見ていた。


 その視線には、敵意だけではないものが混じっていた。


 値踏み。


 興味。


 そして、わずかな期待。


 ヴェスパーはその視線を受け流し、岸辺の炉へ視線を戻した。


 明日。


 ベリアルを倒せば、湖底勢は従う。


 単純で、悪魔らしい決着だ。


 だが、その単純さこそ厄介だった。


 ただ勝てばいいわけではない。


 ベリアルを殺す戦いではない。


 湖底勢に、納得させるための戦いだ。


 村へ戻る道中、ヴェスパーはずっと黙っていた。


 ぬかるんだ地面を越え、凍りかけた道を戻り、帰還柱の赤い印を辿る。


 周囲では、悪魔たちが救助者用のそりを引いていた。


 運搬炉の熱が揺れ、湖底勢の何人かがそのそばで眠っている。


 ベリアルたちは、一部を連れて翌朝村へ来ることになった。


 アスタロトは地底湖側の混乱を収めるために残り、グラスヴァルは霜牙軍と湖底勢の間に余計な衝突が起きないよう、外周で警戒する。


 状況は整理された。


 少なくとも、表面上は。


 だが、ヴェスパーの頭の中は整理されていなかった。


「王様」


 アガレスが横に並ぶ。


「明日のことですが」


「分かってる」


「狙撃筒は使用されますか?」


 ヴェスパーは歩きながら、少しだけ口元を曲げた。


「戦争なら使う」


「では、今回は」


「決闘だろ」


「はい」


「なら違う」


 アガレスは瞬きをした。


 ヴェスパーは西門防衛の時を思い出す。


 見張り台。


 黒骨狙撃筒。


 遠くの危険個体を抜く感覚。


 戦場を制御するための一発。


 あれは間違っていない。


 村を守るなら、迷わず撃つ。


 魔物の群れが来るなら撃つ。


 敵の術者が防壁を凍らせるなら撃つ。


 戦争であるなら、距離も武器も道具も使う。


 勝つためではない。


 守るために。


 だが、明日は違う。


「遠くから撃ってベリアルを倒したところで、あいつらは納得しねぇ」


「湖底の悪魔たちですか」


「ああ」


 ヴェスパーは足元の黒石道を見る。


「道具の強さを見せる場じゃない。俺が前に立てるかどうかを見せる場だ」


「王様が」


「そうだ」


 口にしてから、少し嫌な気分になった。


 王様。


 いまだに、しっくりくるような、こないような呼び名だ。


 だが、この第九圏に火を灯し、飯を作り、道を伸ばし、地底湖の底から悪魔たちを引き上げた。


 その結果、ベリアルの前に立つことになった。


 ならば、今さら逃げるわけにはいかない。


「王様、黒雷は」


「使う」


「黒炎は」


「必要ならな」


「重力場は」


「使えるなら使う」


「では、魔法は使うのですね」


「撃つんじゃない」


 ヴェスパーは右手を握った。


「通す」


 アガレスの目が、わずかに輝いた。


「通す、ですか」


「ああ。道具じゃなく、体に」


「それは……」


 アガレスが何か言いかけた。


 だが、ヴェスパーは軽く手を上げて止めた。


「まだ説明できるほど固まってねぇ」


「では、記録は」


「明日まで待て」


「王様」


「だめだ」


「まだ何も言っていません」


「顔に書いてある」


 アガレスは記録板を抱えたまま、頬を膨らませた。


「知識の悪魔として、非常に気になります」


「知ってる」


「見たいです」


「来るな」


「まだ行くとは言っていません」


「顔に書いてある」


「顔は便利ですね」


「便利に使うな」


 ヴェスパーは歩きながら、空を見上げた。


 第九圏の空は暗い。


 だが以前より、わずかに色がある。


 炉の火。


 温泉の湯気。


 水門の流れ。


 村から広がる灯り。


 氷獄は、ゆっくりと変わり始めている。


 その変化の先に立つためには、ただ便利な道具を作るだけでは足りないのかもしれない。


 村に戻ると、すでに明日の準備が始まっていた。


 クロセルは決闘の時刻を定め、鐘の予定を黒板に書き込んでいる。


 フルカスは西側訓練場の広さと観覧位置を確認し、バルガンに観客を下がらせる位置を指示していた。


 フォルネウスは黒石床の凹凸を見ている。


 ファルナウスは、地底湖側の悪魔が暴れた場合の退避路を確認していた。


 悪魔たちは興奮している。


 決闘。


 決闘。


 決闘。


 その響きだけで、肉体派の目はぎらつき、記録係は筆を握り、飯場はなぜか鍋を増やしていた。


「明日、決闘後に腹が減るかもしれませんので」


 ハボリムが当然のように言う。


「決闘後の飯まで考えるな」


「火はよいのう」


「会話になってねぇ」


 ヴェスパーは苦笑しながら、研究所へ向かった。


 中へ入ると、そこには広げっぱなしの設計図、黒石の粉、魔鉄の試作品、使いかけの工具、古い記録板が散らばっている。


 いつもの光景だ。


 落ち着くようで、落ち着かない。


 アガレスがついてこようとしたが、ヴェスパーは入口で振り返った。


「アガレス」


「はい、王様」


「ここから先は一人で考える」


 アガレスの足が止まった。


「一人で、ですか」


「ああ」


「記録係として」


「だめだ」


「助手として」


「だめだ」


「心配係として」


「それは初めて聞いたな」


「いま作りました」


「作るな」


 アガレスは不満そうだった。


 けれど、無理に入ってこようとはしなかった。


 それが少し意外で、ヴェスパーは眉を上げる。


「珍しいな」


「王様が、来るなとおっしゃいましたので」


「そうか」


「ですが、眠れないと思います」


「寝ろ」


「努力します」


「努力で寝られるなら苦労しねぇな」


 アガレスは小さく笑った。


 ヴェスパーも少し笑い、研究所の扉を閉めた。


 静かになった。


 外の騒がしさが、厚い壁の向こうへ遠ざかる。


 ヴェスパーは机の前に座り、目を閉じた。


 やることは多い。


 考えることはもっと多い。


 だが、今は一つに絞る。


 ベリアルの前に立つ方法。


 勝つ方法ではない。


 死なない方法。


 流されず、潰されず、逃げずに立つ方法。


 息を吸う。


 身体の奥へ意識を沈める。


 炉核を作った時のように、深く。


 黒い石棺から目覚めた時の闇よりも、さらに内側へ。


 意識が落ちる。


 音が消える。


 研究所の床も、机も、扉も、すべて遠ざかる。


 そして、ヴェスパーは自分の内側に立っていた。


 そこは、何もない場所だった。


 いや、何もないように見える場所だった。


 黒い水面。


 白い霧。


 遠くに浮かぶ、壊れた記憶の断片。


 文字。


 映像。


 声にならない声。


 前世の記憶は、ほとんどない。


 自分の名も、顔も、人生の細部も、掴もうとすると霧のように逃げる。


 だが、知識は残っている。


 癖のように。


 道具を見れば構造を考える。


 火を見れば熱の逃げ道を考える。


 水を見れば勾配を考える。


 人が動けば導線を考える。


 ならば、戦いも同じはずだ。


 ヴェスパーは手を伸ばした。


 目の前に、黒い筒が現れる。


 長い銃身。


 銃床。


 照準。


 見張り台から敵を抜いた感覚。


 戦場を俯瞰し、危険個体を撃ち、味方を守る。


 正しい。


 戦争なら正しい。


 だが、ヴェスパーは首を横に振った。


「違う」


 黒い筒が霧に戻る。


 次に現れたのは、短い銃。


 近距離で扱いやすい武器。


 魔力を込めれば、十分に殺傷力はある。


 これも違う。


「決闘で撃ち合ってどうする」


 短銃も消えた。


 残ったのは、自分の手だった。


 白い手。


 長い指。


 悪魔の身体。


 これでベリアルの前に立つ。


 無謀だ。


 正面から殴り合えば潰される。


 受け止めれば骨が砕ける。


 逃げ回れば、納得されない。


 魔法を撃ち続ければ、戦争になる。


「じゃあ、どうする」


 霧の中に、映像が流れた。


 途切れ途切れだった。


 白い道着。


 板張りの床。


 誰かの掛け声。


 真正面へ伸びる拳。


 腰の回転。


 踏み込み。


 蹴り上げる足。


 腕を添え、相手の力を外へ流す動き。


 投げられ、転がり、すぐに立ち上がる受け身。


 自分がそれを習っていたのか。


 ただ映像で見ただけなのか。


 それすら分からない。


 だが、型は残っていた。


 完全ではない。


 断片だ。


 けれど、今必要なのは完成された武術ではない。


 明日、ベリアルの前に立つための理屈だ。


 ヴェスパーは、霧の中で拳を握った。


 拳を突き出す映像が、何度も流れる。


 足を踏み込み、腰を回し、肩を通し、拳へ力を伝える。


 力は腕だけから出るものではない。


 足から来る。


 地面から返る。


 腰を通り、背骨を通り、肩を通り、拳へ抜ける。


 次に、蹴りが浮かぶ。


 前へ押す蹴り。


 横から叩く蹴り。


 膝を折る蹴り。


 相手を倒すというより、距離と体勢を変えるための蹴り。


 さらに、別の動き。


 相手の腕を掴まない。


 止めない。


 触れて、外へ流す。


 踏み込んできた力を横へ逃がし、体勢を崩す。


 投げるのではなく、崩す。


 受け止めるのではなく、逸らす。


 そして、転ぶ。


 いや、転ばされる。


 背中を丸め、顎を引き、腕で衝撃を逃がし、地面に力を流して立ち上がる。


 受け身。


 ヴェスパーは目を細めた。


「これだな」


 完璧な型など知らない。


 武術家だった記憶もない。


 だが、理屈は分かる。


 殴る時、力は足から来る。


 蹴る時、力は地面から返ってくる。


 受ける時、力を真正面で止めれば壊れる。


 なら、角度を変える。


 流す。


 逃がす。


 魔力も同じだ。


 今までは、魔法として撃っていた。


 黒炎弾。


 黒雷。


 重力場。


 外へ放つ力。


 だが今回は違う。


 魔力を身体に通す。


 胸から肩へ。


 肩から肘へ。


 肘から拳へ。


 腰から膝へ。


 膝から足裏へ。


 足裏から黒石の地面へ。


 撃つ魔法ではない。


 纏うだけの魔法でもない。


 身体の動きに、魔力を乗せる。


「拳に炎」


 ヴェスパーは呟いた。


 握った拳の内側に、赤黒い熱が灯る。


 拳そのものに熱を宿す。


 殴るためだけではない。


 近づく者に、この手がまだ燃えていると知らせるための火。


 脅しでもあり、芯でもある。


「突きに雷」


 腕を伸ばす瞬間、肩から肘へ、肘から拳へ、細い黒雷が走る。


 表面に派手な火花を散らすのではない。


 拳が当たる瞬間だけ、芯に雷を通す。


 一点。


 一瞬。


 相手の動きを止めるための雷。


「蹴りに風」


 足を振ると、黒い霧の足元に風が巻いた。


 倒すためではない。


 距離を作り、軌道をずらし、踏み込みを狂わせるための風だ。


 ベリアルのような相手に、まともな蹴りで勝てるとは思わない。


 だが、一歩を遅らせることはできる。


 膝を沈めることはできる。


 鎖の間合いから半歩外れることはできるかもしれない。


「防御には、魔力の層」


 腕の前に、薄い膜を張る。


 盾ではない。


 受け止めるものではない。


 ぶつかった力を滑らせ、横へ逃がすための層。


 硬く張りすぎれば砕ける。


 柔らかすぎれば抜かれる。


 なら、触れた瞬間だけ厚くする。


「体全体には……鎧か」


 全身を薄い魔力で覆う。


 厚くすれば動きが鈍る。


 薄すぎれば砕ける。


 だから、必要な瞬間だけ厚くする。


 拳。


 肩。


 脇腹。


 膝。


 背中。


 殴られる場所ではない。


 壊れてはいけない場所を守る。


 攻撃のためではない。


 一撃で終わらないための鎧。


「魔法を撃つんじゃねぇ」


 ヴェスパーは半身に構えた。


「型に、通す」


 目の前に、ベリアルの幻影が現れた。


 巨大な拳。


 古い鎖。


 湖底の水圧をまとったような魔力。


 幻影のベリアルが踏み込む。


 速い。


 重い。


 避けるより早く、拳が来る。


 ヴェスパーは受けた。


 真正面で。


 腕が砕けた。


 意識が霧に散る。


 次の瞬間、最初の位置に戻っていた。


「正面は無理」


 もう一度。


 今度は横へ逸らす。


 拳を外へ流そうとする。


 だが、力が強すぎて肩ごと持っていかれる。


 転がる。


 背中から叩きつけられる。


 受け身が遅い。


「遅い」


 もう一度。


 踏み込みを見る。


 拳ではなく、肩を見る。


 肩ではなく、腰を見る。


 腰ではなく、足を見る。


 ベリアルの力は、足から来る。


 なら、足を崩す。


 蹴る。


 風で踏み込みをずらす。


 必要なら、重さを足元へ落とす。


 幻影のベリアルの膝が、わずかに沈む。


 拳の軌道がずれる。


 ヴェスパーは腕を添え、魔力の層で力を外へ流す。


 成功。


 と思った瞬間、鎖が来た。


 首を刈られた。


「鎖、忘れてたな」


 また戻る。


 何度も潰される。


 何度も叩きつけられる。


 何度も吹っ飛ぶ。


 勝てない。


 まったく勝てない。


 だが、少しずつ死ぬまでの時間が伸びた。


 一撃で終わっていたものが、二手になった。


 二手が三手になった。


 三手が五手になった。


 真正面から受けない。


 足を見る。


 腰を見る。


 踏み込みに風を置く。


 腕で流す。


 流した瞬間に突く。


 突きに黒雷を乗せる。


 当てる場所は、顔ではない。


 腕。


 肋。


 腹。


 鎖を振るう肩。


 踏み込む膝。


 倒すためではない。


 止めるため。


 崩すため。


 次の一手を作るため。


「……武術ってより、現場対応だな」


 ヴェスパーは息を吐いた。


 だが、それでいい。


 完成された流派ではない。


 伝統もない。


 型もない。


 美しさもない。


 明日、死なないために作る。


 それだけのものだ。


 だが、核は見えた。


 構え。


 構えがいる。


 ただ拳を上げるだけではない。


 魔力の通り道を決める姿勢。


 足裏で黒石を掴むように立つ。


 膝を固めない。


 腰を落とす。


 肩の力を抜く。


 片手を前へ。


 もう片手を胸元へ。


 胸の奥から腕へ、腕から拳へ。


 同時に、腰から足へ、足から地面へ。


 上へ放つ力と、下へ逃がす力。


 その両方を持つ構え。


「構えって、魔力の回路なんだな」


 口にした瞬間、霧の中で何かが繋がった。


 足元に黒い線が走る。


 胸の奥に赤黒い火が灯る。


 拳の内側に細い黒雷が流れる。


 足元に風が巻く。


 腕の前には薄い魔力の層。


 全身には、まだ粗い魔力の鎧。


 地面には、逃げ道。


 ヴェスパーは半身になった。


 幻影のベリアルが、また踏み込んでくる。


 今度は、見えた。


 止められない。


 だが、流せる。


 勝てない。


 だが、立てる。


 拳が来る。


 ヴェスパーは踏み込み、半身を切り、腕を添えた。


 力が肩をかすめる。


 骨が軋む。


 魔力の鎧がひび割れる。


 だが、砕けない。


 地面へ衝撃を逃がし、左拳を突く。


 黒雷が、幻影の肋に一瞬だけ走った。


 ベリアルの幻影が、初めて止まった。


 ヴェスパーは笑った。


「よし」


 次の瞬間、鎖で吹っ飛ばされた。


 霧の中を転がり、黒い水面に叩きつけられる。


「……まだまだだな」


 それでも、笑いは消えなかった。


 ヴェスパーは水面に手をつき、ゆっくり立ち上がった。


「魔闘術……」


 そう言いかけて、首を横に振る。


「いや、違うな」


 術なら、相手を倒すためのものだ。


 殺すための技。


 勝つための手段。


 戦場なら、それでいい。


 だが、明日は違う。


 ベリアルを殺すために戦うわけではない。


 湖底勢を恐怖で従わせるためでもない。


 あいつらに見せるのは、殺し方ではない。


 この第九圏で、力ある者同士がどう向き合うかだ。


 敵を殺すための技ではない。


 前に立つための技。


 受けるための技。


 流すための技。


 壊さず、止めるための技。


 倒して終わらせるのではなく、納得させるための技。


 なら、術ではない。


「……道、か」


 口にした瞬間、その言葉だけが妙にしっくりきた。


 魔をもって闘う。


 だが、殺すためではない。


 立つため。


 受けるため。


 止めるため。


 そして、先へ進むため。


「魔闘道」


 ヴェスパーは半身に構えた。


「仮称にしては、大げさだな」


 けれど、悪くはなかった。


 意識が研究所へ戻る。


 ヴェスパーは目を開けた。


 机の上の灯りは、ほとんど減っていない。


 精神世界ではかなり長く試したはずだが、現実ではそれほど時間が経っていないらしい。


「これは便利だな」


 ぼそりと呟き、立ち上がる。


 身体を動かす。


 肩を回す。


 拳を握る。


 頭の中で作った回路を、実際の身体へ流す。


 すぐに違和感が出た。


 精神世界と現実の身体は違う。


 魔力の通りも、関節の動きも、足裏の感覚も違う。


 つまり、試さなければならない。


 ヴェスパーは研究所の扉を開けた。


 外では、アガレスが待っていた。


 待っていたというより、扉の横に座って記録板を抱えていた。


「寝ろって言ったよな」


「努力しました」


「結果は」


「失敗しました」


「正直でよろしい」


 アガレスは立ち上がり、ヴェスパーを見上げる。


「王様、何か掴まれましたか」


「たぶんな」


「それは何ですか」


「まだ名前はない」


「名前がないのですか」


「今はな」


 アガレスの金色の瞳が輝きかける。


 ヴェスパーはその前に言った。


「勝手に名付けるなよ」


「まだ何も言っていません」


「顔に書いてある」


「顔は便利ですね」


「便利すぎるな」


 ヴェスパーは南の方角を見た。


 村の外。


 西側の訓練場からも少し離れた、黒石と氷が混じる広い空き地がある。


「南側へ行く」


「私も」


「来るな」


 アガレスの口が止まった。


 ヴェスパーは彼女を見下ろす。


「明日のお楽しみだ」


「王様」


「危ないかもしれねぇ」


「だからこそ」


「だから、来るな」


 少しだけ、強い声だった。


 アガレスは言葉を飲み込んだ。


 知識の悪魔としては、見たいに決まっている。


 記録したいに決まっている。


 王様が何を掴み、何を組み替え、何を作ろうとしているのか。


 それを、この目で見たい。


 だが、ヴェスパーは来るなと言った。


 ならば、行かない。


 アガレスは小さく頷いた。


「……承知しました」


「いい子だ」


「子供ではありません」


「知ってる」


 ヴェスパーは片手を上げ、そのまま南へ歩き出した。


 アガレスは、その背中を見送った。


 黒い衣の裾が、夜風に揺れる。


 長い銀髪が、炉の明かりを受けて鈍く光る。


 王様。


 その背中は、まだ細い。


 ベリアルのような圧倒的な肉体ではない。


 フルカスのような剣士の背中でもない。


 フォルネウスのような武の完成もない。


 それでも、その背中は真っ直ぐ南へ向かっていた。


 その夜、村の南側で魔力が爆ぜた。


 最初は、小さな音だった。


 短く、鋭い。


 黒石を拳で叩いたような音。


 続いて、地面が低く震える。


 どん、と。


 誰かが巨大な槌を落としたような響きが、村の外縁まで届いた。


 見張り台の悪魔が、思わず南を見る。


「なんだ、今の」


「王様だ」


「王様が何をしている」


「来るなと言われた」


「なら、行くな」


 悪魔たちは、それ以上近づかなかった。


 王が、来るなと言ったからだ。


 黒雷が走る。


 地面が震える。


 短い爆ぜ音が何度も響く。


 時折、魔力が完全に途切れた。


 倒れたのか。


 失敗したのか。


 限界だったのか。


 誰にも分からない。


 だが、そのたびに、しばらくしてまた魔力が立ち上がった。


 細く。


 短く。


 しつこく。


 何度でも。


 炎ではない。


 炉でもない。


 狙撃筒でもない。


 魔法陣でもない。


 もっと身体に近い魔力だった。


 拳。


 肘。


 膝。


 足。


 誰かが、魔力を打撃へ変えようとしていた。


 研究所の窓辺で、アガレスは眠れずに座っていた。


 記録板を抱えたまま、南の空を見る。


 行きたい。


 とても行きたい。


 今すぐ走って行って、何をしているのか確かめたい。


 王様が何を見つけ、何を考え、何を失敗し、何を作ろうとしているのか。


 全部見たい。


 全部記録したい。


 知識の悪魔として、それは当然の欲求だった。


 けれど、行かなかった。


 王様が、来るなと言ったからだ。


「……王様、何を作っているんですか」


 答えはない。


 代わりに、南側でまた黒雷が爆ぜた。


 アガレスは記録板を抱きしめる。


 筆は動かさなかった。


 見ていないものを記録するわけにはいかない。


 だから、彼女はただ南の空を見ていた。


 クロセルは時計を見上げ、夜の刻を記録した。


「南方にて、断続的魔力放出。王命により接近禁止」


 そう書きながら、彼もまた筆を止めた。


「……眠れる状況ではございませんね」


 その言葉に、近くで見張り交代の準備をしていた悪魔が頷いた。


 誰も近づかなかった。


 だが、誰も完全には眠れていなかった。


 夜明け前。


 最後に、ひときわ大きな魔力が膨らんだ。


 黒雷ではない。


 黒炎でもない。


 風でもない。


 魔力の層でもない。


 それらすべてが、一瞬だけ身体の中心へ集まり、拳の先へ通り抜けるような気配だった。


 どん、と。


 南の地面が低く鳴った。


 それきり、魔力は静かになった。


 アガレスは窓辺で立ち上がった。


 空はまだ暗い。


 だが、村の時計は夜明けの刻へ近づいている。


 やがて、黒鉄の鐘が鳴った。


 カン、と。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 地獄の朝を告げる音が、村に響く。


 決闘の日が来た。


 研究所の扉の前で、アガレスは記録板を抱えたまま立っていた。


 南の方角から、足音が近づいてくる。


 ゆっくりと。


 だが、確かに。


 やがて、ヴェスパーが戻ってきた。


 黒い衣の袖は破れ、靴底は半分削れている。


 手の甲には焦げたような黒い痕があり、頬にも薄く傷が入っていた。


 髪は乱れ、肩で息をしている。


 どう見ても、万全ではない。


 だが、その目だけは冴えていた。


「王様!」


 アガレスが駆け寄る。


 ヴェスパーは片手を上げた。


「来るなって言っただろ」


「行っていません!」


「じゃあ、なんでそんな顔してる」


「眠れなかっただけです!」


「それは知らん」


 アガレスはヴェスパーの手を見る。


 拳。


 腕。


 肩。


 足元。


 昨日までとは、魔力の流れが違っていた。


 外へ漏れる魔力ではない。


 内側を通る魔力。


 身体そのものを回路にしているような、細く、危うく、だが確かに繋がった流れ。


「王様……魔力の流れが」


「ああ」


 ヴェスパーは拳を軽く握った。


 黒い雷が、表面ではなく拳の内側で一瞬だけ脈打つ。


「少しだけ、体に通るようになった」


「それは、何という技術ですか」


「技術ってほど完成してねぇ」


「では、魔闘術ですか?」


「術じゃねぇな」


 アガレスが首を傾げた。


「術ではないのですか?」


「ああ」


 ヴェスパーは拳を握った。


「殺すためのものじゃない。だから、道だ」


 アガレスの金色の瞳が、ぱっと輝いた。


「魔闘道」


 ヴェスパーは一瞬黙った。


「……まあ、仮ならそれでいい」


「では記録します。王式魔闘道」


「王式を足すな」


「正式名称として」


「仮だって言っただろ」


 アガレスは久しぶりに、少しだけ笑った。


 ヴェスパーも、疲れた顔で笑った。


「完成したのですか」


「まさか」


 ヴェスパーは南の方角を振り返る。


 夜通し叩き、転がり、失敗し、魔力を暴発させた黒石の空き地。


 そこには、無数の足跡と拳の跡が残っているはずだ。


「完成品じゃない」


「では」


「試作品だ」


 ヴェスパーは肩を回した。


 痛みが走る。


 だが、動く。


「だが、現場に間に合うなら、それでいい」


 その時、遠くからざわめきが聞こえた。


 西側の訓練場の方だ。


 決闘を見届けるため、村の悪魔たちが集まり始めている。


 湖底勢も、まもなく来るだろう。


 ベリアルも。


 ヴェスパーは息を吐いた。


 銃はない。


 剣もない。


 槍もない。


 あるのは、自分の身体と、そこに通した未完成の魔力だけ。


 それで、ベリアルの前に立つ。


 アガレスが記録板を抱え直した。


「王様」


「なんだ」


「勝てますか」


 ヴェスパーは少し考えた。


 そして、首を横に振る。


「分からん」


「そうですか」


「でも、一撃で終わるつもりはねぇ」


 彼は拳を握り、半身に構えた。


 足裏で黒石を掴むように立つ。


 肩の力を抜く。


 胸の奥から腕へ、腕から拳へ。


 腰から膝へ、膝から足裏へ。


 細い魔力が、身体の内側を通る。


 アガレスはその姿を、瞬きもせず見つめていた。


 それは、剣士の構えではなかった。


 魔法使いの構えでもなかった。


 王の構えと呼ぶには、まだあまりに不格好だった。


 だが、確かにそこにあった。


 ベリアルの暴力を前に、逃げずに立つための構えが。


 鐘が、もう一度鳴った。


 決闘の刻が近づいていた。


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