第三十三話 氷牢の底の会談
地底湖の岸辺に、火が並んだ。
作業炉。
運搬炉。
黒石で囲った簡易の炉。
村から運び込まれたそれらは、濡れた岸辺に赤黒い熱を落としている。
氷牢の底から戻った悪魔たちは、その火を遠巻きに見ていた。
濡れた翼。
割れた角。
水草のように絡みついた黒い藻。
錆びた鎖。
古い槍。
壊れた水路具。
凍りついていた時の姿のまま、彼らは岸辺に立ち尽くしている。
目覚めたばかりなのだ。
何が起きたのか分からない。
どれほどの時が流れたのかも分からない。
ルシファーがいないことも、第九圏が凍りついていたことも、村が火を灯し始めたことも、彼らにとっては何もかもが突然だった。
だから、ヴェスパーは戦わせなかった。
まず温める。
食わせる。
座らせる。
話はその後だ。
その方針に従い、村の悪魔たちは泥に足を取られながら動いていた。
ザグたちが黒石を積み、風除けを作る。
バティンがぬかるんだ地面を固める。
ハボリムが大鍋を据え、冥骨粥を温め直す。
クロセルは簡易卓の横に立ち、記録板と筆を整えていた。
霜牙軍は少し離れた外周に立ち、氷槍を手に警戒している。
その中心で、ヴェスパーは濡れた地面を見渡していた。
「……完全に避難所だな」
「野営地でございます、王様」
アガレスが記録板を抱えたまま、にこにこと言った。
「言い方を変えるな。やってることは炊き出しと収容だ」
「炊き出し。良い響きですね!」
「地獄で炊き出しって何なんだろうな」
ヴェスパーはため息をついた。
だが、やらない選択肢はない。
目の前には、濡れて震える悪魔たちがいる。
中には、目の焦点が合っていない者もいる。
誰かの名前を呼び続ける者もいる。
片腕に小悪魔を抱いたまま、炉の火を見て動けなくなっている者もいる。
敵かどうかを決めるには早すぎる。
救えるかどうかを諦めるには、なお早い。
「王様、会談の場は整いました」
クロセルが静かに告げた。
黒石を平らに並べただけの簡易卓。
その周囲に、いくつかの石椅子。
中央には小さな作業炉。
立派な会議室ではない。
だが、今の地底湖岸辺ではそれが限界だった。
「よし」
ヴェスパーは頷いた。
「じゃあ、話すか」
会談に出たのは、村側からヴェスパー、フルカス、ファルナウス、アガレス、クロセル。
湖底勢側からは、ベリアルとアスタロト。
グラスヴァルは少し離れた位置に立っていた。
彼は会談の当事者ではない。
だが、地底湖を監視してきた霜牙軍の長として、この場から離れるわけにはいかなかった。
ベリアルは座らなかった。
片腕に巻かれた古い鎖を鳴らしながら、簡易卓の向こうで腕を組んでいる。
濡れた黒髪が肩に貼りつき、折れた角の根元からは鈍い赤い魔力が滲んでいた。
その姿は、封印から解かれた直後とは思えないほど重い。
力そのものが、そこに立っているようだった。
一方、アスタロトは静かに石椅子へ腰を下ろしていた。
長い髪には黒い水草のようなものが絡み、額の角は古い冠のように曲がっている。
白い肌には淡い緑と金の紋様が浮かび、濡れた長衣の裾からは枯れた花弁のような魔力がこぼれていた。
実りと腐敗。
春と沼底。
その相反する気配が、彼女の周囲に静かに漂っている。
フルカスはベリアルを見ていた。
言葉にできないほど長い時間を挟んだ再会。
ファルナウスは、アスタロトに向かって静かに頭を下げた。
「アスタロト様」
「ファルナウス」
アスタロトの声は柔らかかった。
「あなたも、まだ折れていなかったのですね」
「どうにか」
「ならば、この地にはまだ根が残っています」
ファルナウスは目を伏せた。
ベリアルが鎖を鳴らす。
「感傷は後だ」
低い声が、炉の熱を押し返すように響いた。
「フルカス。答えろ」
フルカスが顔を上げる。
ベリアルは彼を睨んだ。
「我らが湖底で鎖を噛んでいる間、お前たちは何をしていた」
岸辺の空気が重くなる。
ヴェスパーは口を挟まなかった。
これは、まず彼らの間で交わされるべき問いだ。
「ルシファー様はどこだ」
ベリアルの声がさらに低くなる。
「なぜ第九圏は、ここまで枯れている」
フルカスは、しばらく沈黙した。
その沈黙に、逃げはなかった。
痛みだけがあった。
「答えられることと、答えられぬことがある」
「逃げるのか」
「逃げぬ」
フルカスは静かに言った。
「ルシファー様は、消息不明だ」
ベリアルの鎖が鳴る。
「先ほども聞いた」
「我らも、それ以上を知らぬ」
「馬鹿な」
ベリアルの眼光が強まった。
「ルシファー様が消えたまま、第九圏がここまで残っているなど、あるはずがない」
「残っていたのではありません」
答えたのはアガレスだった。
いつもの無邪気な声ではなかった。
小さな知識の悪魔は、記録板を抱えたまま、静かにベリアルを見上げている。
「崩れきらずに、凍っていただけです」
ベリアルの視線がアガレスへ向く。
「知識の悪魔か」
「はい。アガレスです」
「覚えている。相変わらず小さいな」
「知識に身長は必要ありません」
「口も変わらん」
「そこは褒め言葉として記録します」
「するな」
ヴェスパーが横から突っ込んだ。
わずかに空気が緩む。
だが、すぐにアガレスは真面目な顔へ戻った。
「天上戦争の後、第九圏は深く傷つきました。王都パンデモニウムの機能は大きく低下し、水路、炉、門、記録、区画管理、魔力循環のすべてが不安定になりました」
クロセルが板に線を引く。
地底湖封印。
ルシファー不在。
王都機能停止。
結界維持不能。
大凍結。
各集落の孤立。
ヴェスパー覚醒。
灼熱炉核。
救助。
鉱山。
温泉。
水門。
大融解。
黒石の板に、時系列が並んでいく。
「正確な経過年数は、記録が途切れております」
クロセルが言った。
「時間を測る者も、時間を告げる鐘も、凍っておりましたので」
「暦官が凍っていては、暦も止まるか」
アスタロトが静かに呟いた。
「ええ。お恥ずかしい限りです」
「責めているのではありません」
アスタロトは地面に視線を落とした。
「この地は、長く枯れていたのですね」
彼女の白い指が、泥に触れる。
濡れた黒土の下には、まだ冷えた氷が残っている。
「土も、水も、魔力の根も、すべて痩せている。水は戻り始めていますが、流れは乱れている。本来なら、地底湖の水脈は王都へ向かうはず。けれど今は、牢を破って暴れている」
アスタロトは顔を上げた。
「ルシファー様の結界は、いつ消えたのですか」
「消えた、というより」
アガレスは少しだけ言葉を選んだ。
「維持されなくなりました」
「維持されなくなった?」
「はい。ルシファー様の不在により、第九圏全域を覆っていた結界と魔力循環は少しずつ弱まりました。王都との接続も途切れ、炉も、水路も、門も、順に止まりました」
アガレスの声が、ほんの少し落ちる。
「そして第九圏は、氷に沈みました」
ベリアルはしばらく黙っていた。
彼の背後では、湖底勢が炉の火を見ながらざわめいている。
凍った時代を知る者。
知らぬまま封じられた者。
戦場からそのまま沈んだ者。
彼らにとって、アガレスの説明は遠い歴史ではない。
自分たちが失った時間そのものだった。
「では、我らを封じたのは誰だ」
ベリアルが問う。
「天上戦争の後、地底湖に集まった者たちは凶悪として封印された。そう言われた。我らは第九圏のために戦った。戦い、傷つき、狂いかけた者もいた。だが、それでも」
鎖が鳴る。
「我らは第九圏の悪魔だった」
フルカスが目を伏せる。
「凶悪、か」
ベリアルは低く笑った。
「便利な言葉だ。戦場で狂わぬ者だけが、我らを裁けばよい」
「貴様らを見捨てたとは言わぬ」
フルカスが言った。
その声には、老騎士の重みがあった。
「だが、救えなかったことも事実だ」
ベリアルの目が細くなる。
「続けろ」
「天上戦争後、第九圏は内側から壊れかけていた。地底湖には、暴走した戦闘悪魔、処刑できぬ罪人、封印を守る兵、負傷者、逃げ遅れた民が混在していた」
フルカスは言葉を切る。
「誰を救い、誰を封じるか。判別する時間がなかった」
「だから、まとめて沈めたか」
「そうだ」
フルカスは逃げなかった。
「氷牢は、苦渋の隔離措置だった」
ベリアルの拳が鳴る。
だが、彼は殴りかからなかった。
横で、アスタロトが静かに言う。
「私たちの中にも、もはや正気を保てぬ者がいたことは事実です」
「アスタロト」
「ベリアル。怒ることと、事実を見ないことは別です」
ベリアルは舌打ちした。
その反応を見て、ヴェスパーは少しだけ眉を上げた。
ベリアルは完全な狂戦士ではない。
怒っている。
疑っている。
納得していない。
だが、話は聞いている。
「霜牙軍は、その監視役だったのか」
ヴェスパーがグラスヴァルを見る。
グラスヴァルは静かに頷いた。
「そうだ。氷牢が破れぬように。水底の者たちが戻らぬように。我らは冷気の側に残された」
「だから帰還柱を壊した」
「火の道が広がれば、封印氷が弱まると判断した」
「説明しろよ」
「敵と見ていた」
「それはまあ、そうか」
ヴェスパーは頭をかいた。
「お互い、説明不足で殴り合う寸前だったわけだ」
「寸前ではなく、一度殴り合っております」
クロセルが淡々と補足した。
「そこは記録しなくていい」
「重要な外交記録でございます」
「嫌な外交だな」
ベリアルがヴェスパーを見る。
「それで、貴様は何をした」
「何をって」
「この第九圏が動き始めている理由だ。炉の熱も、水路も、飯も、野営地も、貴様が始めたのだろう」
アガレスが目を輝かせた。
「では、王様の偉業一覧を」
「出すな」
「でも、説明に必要です!」
「盛るなよ」
「事実だけを記録します!」
「その言い方が一番怖い」
アガレスは嬉しそうに記録板をめくった。
「王様は、王の石棺から目覚めました」
湖底勢がざわつく。
「その後、リリス様にヴェスパーと名付けられました」
さらにざわめきが大きくなる。
アスタロトの目が、わずかに変わった。
「リリス様が」
「はい」
アガレスは頷く。
「それから、名もなき集落に灼熱炉核を作り、消えかけていた悪魔たちを温めました。冥骨粥を改良し、服を作り、寝床を作り、排管を通し、道を整え、防壁を作り、旧王都から凍結悪魔を救助し、クロセルを起こし、時間制度を戻しました」
クロセルが丁寧に頭を下げる。
「その後、霜牙軍とは一度戦いましたが、現在は交易へ移行しております」
「鉱山では救助と採掘を行い、温泉を発見し、湯殿、沈殿槽、排水路、貯水池、魔鉄水門を整備しました」
「結果として、地底湖の封印氷が緩み、今回の大融解に至ったと推測されます」
最後だけ、妙に重かった。
ヴェスパーは額を押さえる。
「そこだけ俺のせいみたいに言うな」
「原因の一部ではございます」
クロセルが即答した。
「正直だな、お前」
「記録官として」
「暦官だろ」
「最近、記録も増えておりますので」
「役職を増やすな」
ベリアルはしばらく黙っていた。
それから、低く言う。
「生活改善だと?」
「ああ」
「我らが湖底で封じられている間に、第九圏は鍋と寝床の話をしていたのか」
「鍋と寝床がなきゃ、兵も王も動けねぇだろ」
ヴェスパーは即答した。
ベリアルの目が細くなる。
「……ほう」
「戦うにも、飯がいる。守るにも、寝る場所がいる。凍えて腹減ってるやつに忠誠も戦意もあるかよ」
ヴェスパーは炉の方を見る。
湖底勢の一部は、火に近づき始めている。
「俺は、まずそこからやってるだけだ」
アスタロトは静かにヴェスパーを見ていた。
「それが、リリス様の言葉に繋がるのですね」
ヴェスパーの眉が動く。
「何の話だ」
アガレスが、少しだけ表情を改めた。
フルカスも、ファルナウスも沈黙する。
クロセルは記録板へ新しい項目を書き込んだ。
リリスの予言。
「王様」
アガレスが静かに言った。
「リリス様は、かつて王の石櫃について言葉を残されています」
「石櫃」
ベリアルが呟く。
アスタロトは目を伏せた。
「ルシファー様が消え、第九圏が凍り、王都が沈黙した後。いつか、石櫃で目覚める者がいる、と」
アガレスの声は、いつもの調子ではなかった。
どこか遠い記録を読み上げるように、けれど大切なものを傷つけないように、慎重だった。
「王なき時代が長く続くでしょう」
炉の火が揺れる。
「火は消え、水は凍り、名は失われる」
湖底勢が静まり返る。
「けれど、石櫃で目覚める者がいる」
ヴェスパーは黙って聞いていた。
「その者は名を持たず、過去を持たず、ただ願いを持つ」
アスタロトの指が、わずかに震えた。
「その者こそ、第九圏を再び動かす王」
沈黙。
地底湖の水音だけが聞こえる。
ヴェスパーは、しばらく何も言わなかった。
言えなかったのではない。
頭の中で、勝手に話が大きくなっていくのを止めようとしていた。
石棺。
名前なし。
リリス。
ヴェスパー。
灼熱炉核。
第九圏を動かす王。
全部、自分の意思と関係ないところで並べられていく。
ようやく彼は、深く息を吐いた。
「また勝手に話がでかくなったな」
アガレスがぱっと笑顔になる。
「王様らしいご感想です!」
「らしさを決めるな」
ベリアルは鼻で笑った。
「予言で王が決まるなら、戦場はいらん」
「ベリアル」
アスタロトが窘める。
「事実だ」
ベリアルはヴェスパーを見た。
「石櫃から出た。リリス様に名を与えられた。炉を灯した。眠る者を起こした。なるほど、筋は通っている」
鎖が鳴る。
「だが、湖底の悪魔がそれだけで膝をつくと思うな」
「つかなくていい」
ヴェスパーは即答した。
ベリアルが少しだけ目を細める。
「何?」
「予言だの王だのは後でいい」
ヴェスパーは卓に手を置いた。
「今いるのは、濡れて凍えて混乱してる連中だ。そいつらを座らせて、食わせて、話ができる状態にする。その後で、王だの封印だのを考える」
彼は湖底勢を見た。
「順番を間違えるな」
アスタロトは黙ってヴェスパーを見つめていた。
ベリアルは笑わなかった。
ただ、少しだけ口の端を上げた。
「面白い」
「面白がるな」
「王を名乗らぬ王か」
「名乗ってねぇって言ってんだろ」
「だが、命じている」
「現場が回らねぇからだ」
フルカスが静かに目を伏せた。
ファルナウスも、わずかに笑う。
アガレスは満足そうに記録板へ筆を走らせた。
「では、現場を回すための決定事項を」
「お前も乗るな」
「重要ですので!」
クロセルが簡易卓の上に板を置いた。
「湖底勢の扱いについて、現時点の方針を整理します」
ヴェスパーは頷く。
「まず、すぐ敵とは扱わない。ただし、全員を村に入れることもしない」
クロセルが書く。
「地底湖岸辺の野営地を一時収容地とする。霜牙軍は監視を継続。ただし、こちらからの攻撃は禁止」
グラスヴァルが頷いた。
「村側は炉、飯、布、簡易寝床を提供。ベリアルとアスタロトは湖底勢の統率に協力。アガレスとクロセルは名簿作成。フルカスとファルナウスは旧知の者を確認」
ヴェスパーは指を折る。
「危険な者。錯乱した者。救助対象。会話可能な者。分ける」
ベリアルが眉をひそめる。
「名簿だと?」
「ああ」
「この状況で名簿か」
「この状況だから名簿だ」
ヴェスパーは言い切った。
「敵、味方、要治療、要隔離。分ける。分けないと、助ける相手も止める相手も分からねぇ」
アスタロトが、小さく息を吐いた。
「分類。記録。保護。隔離」
「地味だろ」
「いいえ」
彼女は静かに首を振る。
「根を戻す時も、まず腐った根と生きている根を分けます。混ぜたままでは、すべてが腐ります」
「怖い例えだな」
「豊穣とは、選別でもあります」
「女神っぽいこと言うな」
「元はそういうものですので」
「そうだったな」
ベリアルは、しばらく腕を組んでいた。
会談は進んだ。
理屈は通っている。
方針も悪くない。
湖底勢をいきなり斬らない。
助けられる者は助ける。
危険な者は隔離する。
霜牙軍も監視する。
村も支援する。
それは、現実的な落としどころだった。
だが、湖底勢のざわめきは消えていなかった。
彼らはまだ、ヴェスパーを王とは認めていない。
理屈は分かる。
予言も聞いた。
リリスの名も重い。
だが、悪魔とはそう簡単なものではない。
ベリアルは、ゆっくりと立ち上がった。
鎖が、じゃらりと鳴る。
「予言も、記録も、理屈も聞いた」
低い声が、野営地に落ちる。
「だが、湖底の悪魔どもがそれで納得すると思うなら、少しばかり悪魔を甘く見ている」
濡れた湖底勢の視線が、ベリアルへ集まった。
彼は笑った。
獣のように。
戦場を思い出した悪魔のように。
「ここは、悪魔らしく決めようではないですか」
ヴェスパーは露骨に顔をしかめた。
「……嫌な予感しかしねぇな」
「この中では、私が一番強い」
ベリアルは自分の胸を叩いた。
「私を倒せば、おのずと皆も従うでしょう」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、湖底勢が爆発した。
「うぉおおおおおおおおおおおおお!」
「決闘!」
「決闘!」
「決闘!」
「新王とベリアル様の決闘だ!」
「勝った方に従うぞ!」
「悪魔なら力で示せ!」
地底湖の岸辺が、一気に熱を帯びた。
霜牙軍が警戒を強め、村の悪魔たちもざわめく。
アガレスは目を輝かせ、クロセルは当然のように記録板を構えた。
「では、決闘の時刻を定めますか」
「定めるな」
「観客整理も必要ですね」
「祭りにするな」
ヴェスパーは頭を抱えた。
「会談してたよな、俺たち」
「はい、王様」
アガレスがにこにこと答える。
「ですが、悪魔ですので」
「便利な言葉だな、それ」
ベリアルは鎖を鳴らし、口の端を吊り上げた。
「逃げはしないでしょうな、新たな王よ」
ヴェスパーは深く息を吐いた。
水害。
封印。
予言。
名簿。
そして決闘。
問題は、今日も順調に増えている。
「……分かった」
ヴェスパーは、濡れた地面を踏みしめた。
「ただし、今すぐは駄目だ」
ベリアルの目が細くなる。
「何故です」
「お前ら、目覚めたばかりだろ」
ヴェスパーは湖底勢を見渡した。
濡れた翼。
震える手。
焦点の合わない目。
炉の熱に縋るように座り込む者たち。
「そんな状態で勝っても負けても、あとで揉める」
湖底勢が、ざわりと揺れた。
「飯を食え。体を温めろ。寝ろ。万全になってから来い」
ベリアルは一瞬黙り、それから低く笑った。
「なるほど。決闘の前に、敵を休ませると」
「敵かどうかも、まだ決まってねぇだろ」
ヴェスパーは言った。
「やるなら明日だ」
「明日」
「ああ。場所は訓練場を使う。闘技場じゃ狭い。見物人が多そうだしな」
その一言で、湖底勢がまた吠えた。
「うぉおおおおおおおおおおおおお!」
「明日!」
「訓練場!」
「決闘!」
「飯だ!」
「寝床だ!」
「万全で決闘だ!」
ヴェスパーは顔をしかめた。
「最後だけ妙に健康的だな」
クロセルは記録板へさらさらと書き込む。
「では、明日の第一刻。訓練場にて、ベリアル殿と王様の決闘。観客整理、救護班、炉の配置、退避線を設定いたします」
「だから祭りにするな」
「安全管理でございます」
「それを言われると止めづらい」
アスタロトは、呆れたように息を吐いた。
「ベリアル。あなたは本当に、昔から変わりませんね」
「分かりやすいだろう」
「ええ。あまりにも」
そう言いながらも、アスタロトは反対しなかった。
湖底の悪魔たちは、まだヴェスパーを王とは認めていない。
だが、少なくとも明日までは従う。
飯を食い、火に当たり、名を記し、眠る。
そして明日、悪魔らしく決める。
作業炉のそばで、大鍋から冥骨粥がよそわれ始めた。
湖底から戻った悪魔たちは、最初こそ警戒していた。
器を受け取っても、すぐには口をつけない。
匂いを嗅ぎ、隣の者の様子を見て、炉の火と粥を交互に見比べている。
その中の一人が、恐る恐る粥を口に運んだ。
沈黙。
次の瞬間、その悪魔の目が見開かれた。
「……おい」
周囲の湖底勢が身構える。
「うめぇぞ、これ」
濡れた悪魔の手が、器を握りしめる。
「力が……みなぎる」
その言葉を聞いた瞬間、他の湖底勢が一斉に粥へ食いついた。
「本当だ!」
「温かい!」
「腹に落ちる!」
「魔力が戻るぞ!」
「おかわりはあるのか!」
ハボリムが大鍋の前で、満足そうに杓子を構えた。
「あるぞい。並べ」
その一言で、湖底勢がざっと列を作った。
ヴェスパーは半眼でそれを見る。
「さっきまで決闘決闘って叫んでた連中が、粥で整列してるぞ」
アガレスが記録板を抱え、目を輝かせる。
「冥骨粥、湖底勢にも有効です!」
「飯は強いな」
「はい!」
ベリアルも器を受け取っていた。
最初は興味なさそうに見ていたが、一口食べた瞬間、眉がわずかに動く。
「……悪くない」
フルカスが静かに笑う。
「素直に美味いと言えばよかろう」
「黙れ、フルカス」
アスタロトは粥の湯気を見つめ、静かに言った。
「温かいものを食べる。眠る。明日を待つ」
彼女の目が、炉の火を映す。
「……この地は、本当に変わり始めているのですね」
その夜、地底湖の岸辺には作業炉の火が並んだ。
湖底から戻った悪魔たちは、長い眠りのあと初めて、器を抱えて粥を食った。
明日、決闘がある。
だが今は、火があり、飯があり、名を呼ぶ声がある。
それだけで、彼らは少しだけ悪夢の底から戻ってきた。
ヴェスパーは大鍋の前にできた列を見て、ぼそりと呟く。
「……決闘前夜というより、炊き出しだな」
アガレスが嬉しそうに記録板を抱え直した。
「王様のお仕事です!」
「だから、その呼び方も仕事も、まだ認めてねぇ」
地底湖の黒い水は、まだ低く鳴っていた。
けれどその岸辺には、もう冷たい沈黙だけがあるわけではなかった。




