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第九圏の欠落王 ―棺の底から始める地獄改革―  作者: カイメイラ
第二章 眠る王都へ続く道

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第三十二話 大融解


 霜牙軍との交易は、少しずつ形になっていた。


 西門交易所。


 そう呼ぶにはまだ粗末な場所だったが、黒石で囲った広場の一角には、すでに取引のための台が並んでいる。


 村側から出すのは、工具、骨釘、黒石材、補修材、乾いた布、そして温めた冥骨粥。


 対して霜牙軍が持ち込むのは、凍った野菜、凍結した魔物肉、霜苔、氷晶石、それに氷を削るための特殊な刃物だった。


 最初こそ、互いに睨み合いながらの取引だった。


 だが、数度の交換を重ねるうちに、悪魔たちは少しずつ慣れ始めていた。


 少なくとも、いきなり殴りかかる者はいない。


 それだけでも大きな進歩である。


「工具は助かっている」


 霜牙軍の使者が、氷のように白い息を吐きながら言った。


 彼らは交易所の前に、凍った根菜の束を置いている。


 表面は完全に氷漬けだが、中身はまだ食べられるらしい。


「地下の掘削も順調だ。寝床もできた。冷気の流れも悪くない」


「そりゃよかった」


 ヴェスパーは交易台の向こうで腕を組んだ。


「地下暮らしに関しては、お前らの方が才能あるな」


「我らは寒さの中で生きてきた」


「それは知ってる」


「だが、暖かい飯は悪くない」


「そこは素直に言うんだな」


 霜牙軍の使者は、少しだけ視線を逸らした。


 その横で、アガレスが記録板に交易内容を書き込んでいる。


「凍結野菜三束、凍結魔物肉二塊、霜苔一袋。交換品は、黒石用の小槌二本、骨釘二十本、補修布三枚、冥骨粥大鍋一杯です」


「粥の比率が高くなってきたな」


「人気ですね!」


「食い物は強いな」


 交易所の端では、霜牙軍の若い兵が、湯気の立つ器を両手で持って固まっていた。


 熱いものを食べるという行為に、まだ慣れていないらしい。


 器へ顔を近づけては離し、また近づける。


 その様子を見て、ニムが小声で言った。


「王様、あの人、粥と戦っています」


「応援してやれ」


「がんばれー」


 ニムが小さく手を振ると、霜牙軍の兵は気まずそうに器を持ち直した。


 悪くない光景だった。


 火の村と氷の軍。


 少し前まで戦っていた相手が、今は同じ交易所で食い物と道具を交換している。


 このまま少しずつ距離を詰めていければいい。


 そう思った、その時だった。


 低い音が響いた。


 最初は、遠くで岩が崩れたのかと思った。


 ごご、と。


 地面の奥で、何か巨大なものが身じろぎしたような音だった。


 交易所にいた悪魔たちが、一斉に顔を上げる。


「鉱山か?」


 ザグが南の方角を見る。


 だが、音は南からではなかった。


 北だ。


 北の奥。


 凍った大地の向こうから、重く湿った魔力が流れ込んでくる。


 炉の熱ではない。


 温泉の湯気でもない。


 排水路を流れる水の気配とも違う。


 もっと古く、重く、深い。


 水の底に長い間沈んでいた何かが、氷の下から息を吐いたような魔力だった。


「……これは」


 フルカスの声が、低く落ちた。


 ヴェスパーが振り返る。


 フルカスの顔から、血の気が引いていた。


 普段はどんな時でも落ち着いている老騎士が、明らかに動揺している。


「フルカス?」


 問いかけるより早く、フルカスは北へ走り出した。


 杖も使わず、剣の柄を押さえたまま。


「おい、フルカス!」


 ヴェスパーの声にも、返事はなかった。


 その北には、地底湖がある。


 以前、フルカスに案内されて見た場所だ。


 黒い岩壁に囲まれ、凍った水面を沈黙させていた巨大な湖。


 第九圏の奥に眠る、冷たい水の底。


 だが、今流れてきた魔力は、あの時の静かな気配とはまるで違っていた。


 凍った湖が、氷の下で暴れている。


 そんな気配だった。


「……地底湖か」


 ヴェスパーは舌打ちした。


「嫌な予感しかしねぇな」


 それと同時に、交易に来ていた霜牙軍の一人が顔色を変えた。


 彼は氷槍を掴むと、何も言わず北西へ走り出す。


「待て、どこへ行く!」


 バルガンが叫ぶ。


 霜牙軍の兵は振り返らない。


 交易所に、妙な緊張が走った。


「王様」


 グレルが耳を伏せる。


「北から、水の匂いがします。けど……普通の水じゃありません」


「普通じゃないのは分かった」


 ヴェスパーは舌打ちした。


「バルガン、ザグ、バティン、ついてこい。アガレスも記録板持て。グレル、前を見ろ。ニムは村に戻れ」


「はい!」


「あと、クロセルに伝えろ。北側で異変だ。救助と搬送の準備をさせろ」


「分かりました!」


 ニムが駆け出す。


 ヴェスパーは北へ目を向けた。


 また、低い地鳴りが響く。


 ごごご、と。


 氷の下から、何かが押し上げてくるような音。


「今度は何だよ」


 ぼやきながらも、ヴェスパーは走り出した。


 北へ進むほど、足元の様子が変わっていった。


 白く凍っていた大地に、黒い水の筋が浮かんでいる。


 排水路沿いではない。


 温泉排水の通り道でもない。


 それなのに、氷の隙間から水が滲み出していた。


 そりを引いていた悪魔が、途中で足を止める。


「王様、そりが滑りません!」


「ついに来たか」


「何がですか!」


「氷が溶けると、そり文明が終わる」


「今それを嘆く場面ですか!」


「俺もそう思う」


 足元が濡れている。


 氷はまだ硬いが、表面に水が浮いているせいで、逆に滑り方が読みにくい。


 遠くでは、黒い岩壁の間に白い霧が立ち込めていた。


 フルカスはその前で立ち止まっていた。


 息を切らしている。


 だが、その視線は前方に釘付けだった。


「フルカス」


 ヴェスパーが追いつく。


「地底湖だな」


「はい」


 フルカスの声は硬かった。


「ですが、これは通常の融解ではございません」


「通常の融解なんてものが、この地獄にあるのかよ」


「本来、あの湖は凍っていなければならぬ場所でございます」


 ヴェスパーは眉をひそめた。


「水源だからか?」


「それだけではございません」


 フルカスは剣の柄を握る。


「あれは、王都へ水を送る血流であると同時に、古いものを沈めた氷牢でもありました」


 その言葉の意味を、ヴェスパーはすぐには理解できなかった。


 だが、前方の光景を見た瞬間、理解するより先に背筋が冷えた。


 そこは、巨大な盆地だった。


 黒い岩壁に囲まれた、すり鉢状の窪地。


 その中央に、黒い氷で覆われた湖があった。


 いや、覆われていた。


 今は、その黒氷が大きく割れている。


 亀裂の奥から、青黒い水面が覗いていた。


 氷の裂け目から、白い霧と黒い魔力が立ち上っている。


 氷壁が軋む。


 巨大な氷塊が、湖へ落ちた。


 轟音。


 水しぶきが上がり、岸辺へ押し寄せる。


「……大融解、か」


 誰かが呟いた。


 それが誰の声だったのか、ヴェスパーには分からなかった。


 だが、その言葉は目の前の光景に妙に合っていた。


 第九圏の氷が、ただ溶けているのではない。


 地形そのものが変わり始めている。


「王様!」


 グレルが叫んだ。


「水が来ます!」


 湖の封じ氷が、さらに大きく割れた。


 次の瞬間、濁った水が一気に溢れ出した。


 黒い氷片を巻き込みながら、濁流となって岸を越える。


 水は地形の低い方へ向かって流れ始めた。


 その先には、村へ伸びる道がある。


 西門交易所もある。


 温室も、低地の寝床も、霜牙軍が作り始めた地下の居住区も、場所によっては水を受ける。


「まずいな」


 ヴェスパーは即座に地形を見た。


 水を止める。


 無理だ。


 この量を真正面から受ければ、黒石壁ごと持っていかれる。


 ならば。


「止めるな!」


 ヴェスパーの声が飛んだ。


「真正面から受けるな! 水は止めるより逃がす方が早い!」


 バティンが地面に手を突いた。


「どちらへ!」


「旧河道側だ! 南東の低い筋へ流せ!」


 ヴェスパーは泥を踏みながら指示を飛ばす。


「黒石壁を斜めに積め! 土壁で受けろ! 水の正面じゃねぇ、横だ! 流れを曲げろ!」


「曲げるのか!」


 バルガンが杭を担いで叫ぶ。


「そうだ!」


「水を殴っては駄目なのか!」


「駄目に決まってんだろ!」


「では杭を殴る!」


「それはいい!」


 バルガンは巨大な骨杭を泥に突き立て、拳で叩き込んだ。


 ザグたちが黒石を運び、斜めに積む。


 バティンが黒土を盛り上げ、壁の背を作る。


 メルツの部下たちは、濡れた布と魔獣皮を持ってきて、隙間へ詰めていく。


 水が黒石壁にぶつかった。


 ごう、と音を立てる。


 壁が震える。


「押されてます!」


「積み足せ!」


「泥が流れる!」


「杭を増やせ!」


 ヴェスパーは叫び続けた。


 水を止めるのではない。


 誘導する。


 直撃を避け、勢いを殺し、流れたい方向へ曲げる。


 防壁を作った時と同じだ。


 敵を止めるのではなく、進む場所を限定する。


 違うのは、相手が軍ではなく水だということ。


「王様、氷壁が来ます!」


 グレルの声に、ヴェスパーが振り返る。


 北西から、霜牙軍が駆けてきていた。


 先頭にいるのは、グラスヴァルだった。


 表情は硬い。


 普段の冷静さは残っている。


 だが、唇は固く結ばれ、氷槍を握る手には余計な力が入っていた。


 湖から立ち上る黒い霧を見た瞬間、彼の歩調が一度だけ乱れる。


 まるで、来ると分かっていた悪夢が、本当に目の前へ現れたかのようだった。


「氷壁を張れ!」


 グラスヴァルの声で、霜牙軍が氷槍を地面に突き立てた。


 水の端に沿って、白い氷壁が立ち上がる。


 村側の黒石と土壁。


 霜牙軍の氷壁。


 火の村と氷の軍が、同じ水を相手にしていた。


「そっちは低くしろ!」


 ヴェスパーが叫ぶ。


「高すぎると跳ね返る!」


 グラスヴァルが一瞬だけこちらを見る。


「承知した」


「氷を使えるなら、縁を固めろ! 流れを逃がす!」


「止めぬのか」


「止めたら死ぬ!」


「ならば、逃がす」


 グラスヴァルは即座に頷き、部下へ指示を飛ばした。


 濁流は、斜めに築かれた壁へぶつかる。


 勢いを失いながら、徐々に向きを変える。


 旧河道。


 かつて水が流れていたらしい低い地形へ、黒い水が流れ込んでいく。


 地面が削れる。


 氷片が流れる。


 泥と水が混じり、白い霧が立つ。


 それでも、村へ向かう直撃は避けられた。


 悪魔たちの間に、安堵の息が漏れる。


「……一旦、逸れたな」


 ヴェスパーは息を吐いた。


 だが、グラスヴァルの顔は緩まなかった。


 彼は氷槍を握りしめたまま、地底湖を見ている。


 その目は、濁流ではなく、その奥を見ていた。


 湖の奥から、低い声が響いていた。


 声。


 そうとしか言いようのないものだった。


 風の音ではない。


 水の音でもない。


 ひとつではない。


 泣く声。


 笑う声。


 祈る声。


 怒鳴る声。


 何かを噛み砕くような音。


 それらが水面の下で重なり、黒い霧となって立ち上っている。


 グレルの耳が、ぺたりと伏せられた。


「王様……水の中に、何かいます」


「だろうな」


 ヴェスパーは濡れた前髪をかき上げた。


 その横で、グラスヴァルが低く呟いた。


「ついに、目覚めたか」


 その声は小さかった。


 だが、震えていた。


 怒りではない。


 恐怖でもない。


 長い間、見張り続けてきたものが、ついに目を開けてしまった者の声だった。


 ヴェスパーは彼を見る。


「知ってるのか」


 グラスヴァルはしばらく沈黙した。


 喉が動く。


 氷槍の柄を握る手が、ぎり、と鳴った。


 それから、ゆっくりと言った。


「我ら霜牙軍は、氷を好んでこの地に残ったのではない」


「どういう意味だ」


「我らの本来の役目は、地底湖の監視だ」


 周囲の悪魔たちが息を呑む。


 フルカスは黙ったまま、湖を見ていた。


 グラスヴァルは続ける。


「この水底に沈む者たちが、二度と地上へ戻らぬように」


「沈む者たち?」


「罪人だけではない。封じた者。封じられた者。守るために沈んだ者。逃げ遅れた民。水路に沈んだ兵。長すぎる時が、それらを分けられなくした」


 グラスヴァルの氷槍が、きしりと音を立てる。


「氷は、牢だった」


 ヴェスパーは、割れた地底湖を見た。


 氷を溶かした。


 水が戻った。


 それで終わりではなかった。


 水と一緒に、過去まで戻ってきた。


「……つまり、敵か味方か分からん連中が、水底からまとめて起きたってことか」


「そうだ」


「最悪だな」


「否定はしない」


 その時だった。


 地底湖の水面が、大きく盛り上がった。


 黒い霧が濃くなる。


 湖の奥で、何かが一斉に動いた。


「構えろ!」


 バルガンが前に出ようとする。


「待て!」


 ヴェスパーの声が飛んだ。


 次の瞬間、湖から多数の影が飛び出した。


 黒い水を撒き散らし、氷片を砕きながら、悪魔たちが岸辺へ降り立つ。


 濡れた翼。


 割れた角。


 朽ちた鎧。


 古い槍。


 封印鎖。


 水路工事に使っていたらしい鉄具。


 誰かを庇ったまま凍っていたのか、小さな悪魔を腕に抱えた者もいた。


 その小悪魔は、まだ目を開けていなかった。


 抱えている悪魔の方も、焦点の合わない目で周囲を見回しながら、それでも腕だけは決して緩めない。


 別の悪魔は、片脚を氷に取られたまま引きずっていた。


 膝から下に黒い氷が絡みつき、歩くたびに氷片が落ちる。


 彼は自分の足を見ていない。


 ただ、誰かの名前を繰り返し呼んでいた。


 さらに後ろから出てきた女悪魔は、胸元に割れた水路具を抱いていた。


 それを宝物のように抱えたまま、涙も出ない目で空を見上げている。


 人の形を保っている者もいれば、半ば怪異化している者もいる。


 目の焦点が合わない者。


 怒りに震える者。


 膝をつき、地面を掴んで泣く者。


 武器を握ったまま、誰を敵と見ればいいのか分からず立ち尽くす者。


 湖底から戻った悪魔たちは、霜牙軍とヴェスパーたちの前に、濡れた軍勢のように立ち並んだ。


 霜牙軍が氷槍を構える。


 村の悪魔たちも身構える。


 湖底勢もまた、古い武器を握り直した。


 一触即発。


 バルガンが拳を握る。


「王様!」


「動くな!」


 ヴェスパーは叫んだ。


「こっちから手を出すな。目覚めたばかりで、向こうも何が何だか分かってねぇ」


「ですが!」


「殴るのは、話が通じねぇと分かってからでいい」


 バルガンは唸ったが、拳を下ろした。


 グラスヴァルも霜牙軍へ手を上げる。


 氷槍の穂先が、わずかに下がった。


 湖底から現れた悪魔たちの群れが、ゆっくりと割れる。


 その奥から、二つの影が前へ出た。


 一人は、大柄な悪魔だった。


 片腕に古い鎖を巻き、濡れた黒髪が肩へ貼りついている。


 折れた角の根元からは、鈍い赤い魔力が滲んでいた。


 体には幾重もの封印鎖が残り、歩くたびに、じゃらりと重い音がした。


 もう一人は、女だった。


 濁った水をまといながらも、その姿には奇妙な美しさがある。


 長い髪には黒い水草のようなものが絡み、額の角は古い冠のように曲がっていた。


 白い肌には、淡い緑と金の紋様が浮かび、濡れた長衣の裾からは、枯れた花弁のような魔力がこぼれている。


 実りの匂いと、腐敗の匂い。


 春の気配と、沼の底の気配。


 相反するものが、同じ身体から漂っていた。


 二人が前へ出た瞬間、湖底の悪魔たちは一斉に動きを止めた。


 大柄な悪魔が、ゆっくりと顔を上げる。


「……フルカス」


 その名を呼ばれた瞬間、フルカスの目が見開かれた。


「その声……まさか」


「まだ、立っているのか。お前は」


 低く、重い声だった。


 フルカスは震える手で剣の柄に触れる。


「ベリアル……貴様こそ、まだ眠っていたのか」


 水底より現れた大悪魔――ベリアルは、鎖を引きずりながら薄く笑った。


「眠っていた、か。あれを眠りと呼ぶならな」


 フルカスは答えなかった。


 その顔には、驚きと痛みと、どうしようもない安堵が入り混じっていた。


 女悪魔が、ゆっくりと周囲を見回す。


「ファルナウスも、まだ地に足をつけているのですね」


 その声には、敵意とも安堵ともつかない響きがあった。


「ならば、第九圏は、まだ完全には枯れていない」


 フルカスが低く呟く。


「アスタロト……」


 その名が落ちた瞬間、村の悪魔たちの間にざわめきが走った。


 ベリアル。


 アスタロト。


 かつて第九圏に名を刻んだ大悪魔たち。


 だが今、彼らの背後には、さらに無数の湖底勢が濡れたまま立っている。


 敵なのか。


 味方なのか。


 救うべき者なのか。


 封じ直すべき者なのか。


 何一つ分からない。


 アスタロトは、炉の煙を見た。


 黒石の防壁を見た。


 泥にまみれた村の悪魔たちを見た。


 氷槍を構える霜牙軍を見た。


 そして最後に、銀髪のヴェスパーを見た。


 彼女の眉が、わずかに動く。


「……ルシファー様は?」


 その問いに、場の空気が凍った。


 フルカスは答えられない。


 アガレスも口を閉じる。


 グラスヴァルも、氷槍を握ったまま視線を伏せた。


 ヴェスパーは、少しだけ間を置いてから答えた。


「消息不明だ」


 湖底から戻った悪魔たちの間に、ざわめきが走る。


 アスタロトが静かに繰り返した。


「消息不明」


「ああ。少なくとも、俺が目覚めてからは一度も姿を見てねぇ」


 ベリアルの鎖が、じゃらりと鳴った。


「馬鹿な」


 低い声だった。


「ルシファー様が消えたまま、第九圏がまだ形を保っているだと?」


 アスタロトの目が、ヴェスパーへ向く。


「では、あなたは何者です」


 無数の視線が、銀髪の男へ集まった。


 湖底から戻った悪魔たち。


 霜牙軍。


 フルカス。


 アガレス。


 バルガン。


 皆が、ヴェスパーを見ている。


 ヴェスパーは、ひどく面倒そうに息を吐いた。


「俺もそれを知りたいんだよ」


 アガレスが小さく手を上げる。


「王様です」


「雑にまとめるな」


 ベリアルの鎖が、また重く鳴った。


 アスタロトは何かを言いかける。


 だが、ヴェスパーはそれ以上、問いに答えなかった。


 彼は湖底から戻った悪魔たちを見た。


 濡れた翼。


 震える手。


 割れた角。


 焦点の合わない目。


 抱えたまま離せずにいる古い槍。


 誰かの名を呼び続けている小さな声。


 敵かどうかを決めるには、早すぎる。


 救えるかどうかを諦めるには、なお早い。


「話は後だ」


 ヴェスパーは言った。


 アスタロトが眉を動かす。


「後、ですか」


「ああ。目覚めたばかりで、そっちも何が何だか分かってねぇだろ」


 ヴェスパーは振り返った。


「村から作業炉を持ってこい。運搬炉もだ。毛布、乾いた布、冥骨粥、黒石材、骨杭、全部いる」


 ザグが顔を上げる。


「王様、ここで何を?」


「野営地を作る」


 ヴェスパーは、濡れた岸辺を指差した。


「簡易でいい。炉を置け。黒石で風除けを作れ。水際から距離を取って、湖底の連中を集める場所を作る」


 バルガンが拳を下ろす。


「戦わないのですか」


「戦うにしても、凍えたままじゃ話にならねぇ」


 ヴェスパーは湖底勢へ視線を戻した。


「まず温める。食わせる。座らせる」


 そして、低く言った。


「話は、その後だ」


 地底湖の黒い水は、まだ低く鳴っていた。


 黒い霧は晴れず、湖底から戻った悪魔たちは濡れたまま岸辺に立ち尽くしている。


 霜牙軍は氷槍を下げきれず、村の悪魔たちも完全には警戒を解けない。


 それでも、ヴェスパーの命令で悪魔たちは動き始めた。


 作業炉を運ぶ者。


 黒石を積む者。


 骨杭を打つ者。


 泥を均す者。


 毛布を広げる者。


 冥骨粥の大鍋を準備する者。


 戦場ではなく、野営地を作るために。


 大融解は、地底湖の水だけを解き放ったわけではなかった。


 第九圏の底に沈んでいた過去までも、岸辺へ押し上げていた。


 そして水底からは、なおも声が聞こえていた。


 名を呼ぶ声。


 助けを求める声。


 誰かを呪う声。


 そのすべてが黒い水の下で混ざり合い、まだ目覚めきらぬ地獄の底を震わせていた。


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