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第九圏の欠落王 ―棺の底から始める地獄改革―  作者: カイメイラ
第二章 眠る王都へ続く道

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第三十一話 灰豆畑とDシャツ


 温泉排水路ができて、数日が経った。


 村の南東へ伸びる旧河道には、白い湯気を帯びた水が流れている。


 黒石で護岸された水路の周囲では、氷が少しずつ後退し、黒土が顔を出し始めていた。


 それ自体はいい。


 いいのだが。


「おい」


 ヴェスパーは排水路の横に立ち、額に手をかざした。


「この川沿い、すでに暑いな」


 アガレスが記録板を覗き込みながら頷く。


「王様、温排水路沿いの気温上昇を確認しています!」


「見りゃ分かる。湯気が出てる」


「悪魔たちが休憩場所として利用し始めています!」


「仕事しろ」


「温かいので、つい座ってしまうそうです!」


「気持ちは分かる」


 見ると、排水路の脇では、鉱山帰りの悪魔が黒石に腰を下ろし、完全にくつろいでいた。


 別の悪魔は靴を脱ぎ、水路の近くで足を伸ばしている。


「足湯ではないぞ」


「足湯とは?」


「説明すると増えるから言わない」


 ヴェスパーは自分の袖をつまんだ。


 分厚い魔獣皮。


 内側に詰めた霜苔。


 風を通さない黒布。


 氷獄で生きるための服。


 それは、以前なら正解だった。


 吹雪の中で凍えず、炉のない場所でも少しは耐えられる。


 外作業には必要だ。


 霜牙軍との交易所付近など、まだ冷える場所では手放せない。


 だが、村の中心には炉がある。


 湯殿がある。


 導湯管がある。


 温泉排水路がある。


 場所によっては、もう寒さより暑さの方が気になるようになっていた。


 特に湯殿周りと排水路沿いはひどい。


 魔獣皮を着込んで歩くと、蒸れる。


 せっかく風呂に入ったのに、少し作業しただけでまた汗と湯気と煤が混じる。


 これは、よろしくない。


「……もうちょい服、何とかならねーかな」


 アガレスが即座に記録板を構えた。


「衣服改善ですね!」


「記録が早い」


「王様が生活に文句を言う時は、だいたい新事業の始まりですので!」


「嫌な法則を見つけるな」


 近くにいたフルカスが、自分の外套へ目を落とした。


「たしかに、村内と外作業で同じ装いというのは、少々不便かもしれませぬな」


「だろ」


「鍛錬場でも、厚い皮衣は動きを妨げます」


「それもある」


「湯上がりの者が、そのまま魔獣皮を着込むのも、少々……」


「蒸し焼きだな」


「はい」


 ヴェスパーは腕を組んだ。


 欲しいものは明確だ。


 村内で着る薄い服。


 洗いやすい服。


 作業用の前掛け。


 湯上がり用の布。


 寝床に敷く布。


 鍛錬用の動きやすい服。


 外作業用の防寒着とは別の、日常用の衣服。


 だが、問題はそこではない。


「布がねぇ」


 ヴェスパーは言った。


「ぬの、でございますか」


 アガレスが首を傾げる。


「薄くて、柔らかくて、体を覆える素材だ。魔獣皮とは違う」


「魔獣皮では駄目なのですか?」


「外に出るならいい。だが村の中じゃ暑い。湯殿周りなんか蒸れる」


「では、薄い皮を使うのは」


「数が足りねぇし、洗いにくい。そもそも皮ばっかりじゃ重い」


「なるほど」


 ヴェスパーは排水路の向こうに広がる黒土を見た。


 氷が溶けて、ようやく顔を出した土地。


 そこには、まだ何も植わっていない。


 だが、湯気を帯びた水路のおかげで、地面は以前より柔らかくなっている。


「綿はない」


「わた?」


「ふわふわした植物繊維だ。服に使える」


「ありませんね」


「麻もない」


「あさ?」


「茎から繊維を取る植物だ」


「それも、名前としては記録にありません」


「羊もいない」


「羊とは?」


「毛が取れる獣だ。服になる」


「霜喰い山羊なら、いずれ探せるかもしれません!」


「壁を登る家畜は後回しだ」


 ヴェスパーはため息をついた。


「つまり、服を作る前に、布の原料から探さないといけない」


「いつもの流れですね!」


「嬉しそうに言うな」


 その時、ブエルがのんびりと歩いてきた。


 背中には採取籠。


 手には、灰色の豆の株を持っている。


「王様ぁ」


「なんだ、ブエル」


「灰豆なら、莢が裂けますぅ」


「莢?」


「はいぃ。乾かすと、びりびりになりますぅ。茎も裂けますぅ。根皮も細く剥けますぅ」


 ヴェスパーは灰豆の株を受け取った。


 以前から食料として使っている灰豆。


 灰色の莢をつける、奇妙な豆だ。


 そのままだと粉っぽいが、冥骨粥に入れれば腹持ちが増す。


 採っても採っても、妙になくならない。


 ずっと不思議ではあった。


 ヴェスパーは乾きかけた茎を指で割いた。


 ぱり、と表面が裂ける。


 その内側から、細い筋が残った。


「……これ、繊維になるか?」


「なるかもしれませんねぇ」


 ブエルはいつもの調子で頷いた。


「豆は食う。莢と茎は繊維にする。根皮は縄だ」


 ヴェスパーは灰豆の株を見下ろした。


「縄文時代からあるやり方だ」


「じょうもん、とは?」


 アガレスが目を輝かせる。


「知らん。だが、そういう時代があったはずだ」


「王様の記憶、たまに変なところだけ戻りますね!」


「俺もそう思う」


 ヴェスパーは灰豆の茎を軽く引っ張った。


 細い繊維は簡単に切れた。


 だが、束ねれば使えるかもしれない。


 温排水で洗い、乾かし、叩いて、ほぐして、撚る。


 上等な布にはならないだろう。


 だが、粗布なら作れる。


 今の第九圏に必要なのは、絹でも礼服でもない。


 洗えて、着られて、動ける服だ。


「よし。灰豆の畑を作るぞ」


 アガレスが記録板を構えた。


「食料増産ですか?」


「それもある。だが今回は服の材料もだ」


「豆で服を?」


「豆は食う。莢と茎は繊維にする」


「王様、豆の扱いが雑です!」


「無駄がないと言え」


 ヴェスパーは南東へ流れる温排水路を指さした。


「川沿いなら暖かい。温排水で地面も緩んでる。そこを開墾する」


 バティンが黒土を踏みしめ、頷いた。


「氷の下に土が出ていますな。耕せます」


「ただし、このままだと熱が逃げる」


 ヴェスパーは黒石の杭を並べるように指示した。


「低い結界を張る。風を止めて、熱を逃がさない。簡易温室みたいなもんだ」


 アガレスの目が輝いた。


「王様、温排水路沿い農地ですね!」


「また名前がでかい」


「記録します!」


「するだろうなと思ったよ」


 開墾はすぐに始まった。


 バティンが黒土を起こし、ザグが石をどかす。


 ハディンの鉱山組は余った黒石を運び、低い畦を作った。


 ブエルは灰豆の株を選別し、根が生きているものをまとめる。


 アガレスは小型の結界装置に術式を刻み、フルカスは作業の安全を見ていた。


 排水路沿いの黒土は、氷獄の大地にしては柔らかい。


 温かい水が近くを流れ、湯気が地面を湿らせている。


 低い黒石杭を等間隔に立て、その間へ薄い結界を張ると、風が弱まった。


 湯気が逃げず、地表近くに留まる。


 寒い外気と、温かい水路の熱。


 その境目に、灰豆畑ができていく。


「寒さに耐える服を作ってたら、今度は暑さに対応する服が必要になった」


 ヴェスパーは畑の端で腕を組んだ。


「そのために豆を植える」


「はい!」


「地獄の生活改善、遠回りがすぎる」


「ですが、前に進んでいます!」


「それはそうなんだよな」


 最初に植えた灰豆は、驚くほど早く根づいた。


 翌日には、葉が立った。


 三日後には、蔓が伸びた。


 五日後には、灰色の莢がいくつもぶら下がっていた。


 ヴェスパーは畑を見下ろし、しばらく黙った。


「……こいつ、思ったより成長が早いな」


 ブエルがのんびり頷く。


「灰豆は、採っても採ってもなくなりませんでしたぁ」


「そりゃそうだ。こいつ、採られた端から生やしてやがる」


「元気ですねぇ」


「元気の範囲を超えてる」


 氷土の中で生きていた植物だ。


 ただ寒さに強いだけではない。


 凍りついた土の中で、わずかな魔力と水分を拾いながら生き延びていた。


 そんな灰豆が、温排水と結界の保温を得た。


 伸びないわけがない。


「食える。繊維になる。成長も早い」


 アガレスが記録板を抱えて感動したように言う。


「完璧じゃないですか、王様!」


「水路の護岸に根を食い込ませなければな」


「……食い込むのですか?」


「もう食い込んでる」


「元気ですね!」


「元気で済ませるな」


 灰豆の根は、黒土だけでなく黒石の隙間にも入り込もうとしていた。


 放っておくと、水路の護岸を割るかもしれない。


 便利なものほど管理がいる。


 ヴェスパーは、しみじみそう思った。


「畦を分けろ。水路のすぐ横は根止めを入れる」


「根止め、でございますか」


「黒石板を縦に埋める。護岸に根を入れさせるな」


 バティンが頷いた。


「承知しました」


「あと、収穫時期も決める。伸びっぱなしにするな」


 クロセルが筆を構えた。


「灰豆収穫日を暦に記載いたします」


「また暦が畑に使われるな」


「農事暦が充実してまいりました」


「嬉しそうだな」


「はい」


 そして、最初の収穫日が来た。


 灰豆畑には、収穫班が並んでいる。


 ブエルを先頭に、採取食料部の悪魔たち。


 数人の小悪魔たち。


 念のため、バルガン。


 そして、なぜか盾。


「畑仕事に盾ですか?」


 アガレスが首を傾げた。


 ヴェスパーは灰豆の莢を睨んだ。


「豆が撃ってくるらしいからな」


「撃つ?」


 ぱん、と乾いた音がした。


 乾いた莢が弾け、中の灰豆が勢いよく飛んだ。


 豆はまっすぐ飛び、ヴェスパーの額に当たった。


「……」


「攻撃されましたねぇ」


 ブエルがにこにこ言った。


「農作物に攻撃されるとは思わなかった」


「元気な証拠ですぅ」


「元気で済ませるな」


 畑のあちこちで、ぱん、ぱん、と軽い音が鳴った。


 灰色の豆が飛び、小悪魔たちが悲鳴を上げる。


 バルガンは盾を構え、飛んでくる豆を胸と盾で受け止めた。


「任せろ! 俺は壁だ!」


「畑に壁役を配置するな!」


 遠くから見ていたフォルネウスが、真顔で頷く。


「受けの訓練になります」


「畑で戦闘訓練するな」


 結局、灰豆の収穫にはいくつかの規則ができた。


 乾いた莢は弾ける前に収穫する。


 収穫班は目を守る。


 子悪魔は畑の奥へ入らない。


 暴発が多い区画には危険畝の札を立てる。


 弾けた豆は拾って飯場へ。


 割れた莢と茎は繊維工房へ。


 根皮は縄用に分ける。


 残った細かい屑は温室の培地へ混ぜる。


「食料にもなる。布にもなる。畑を広げると村が暖かくなる」


 ヴェスパーは収穫された灰豆と、莢と茎の山を見下ろした。


「そして、たまに撃ってくる」


 また一粒、飛んできた豆が足元に当たった。


「地獄の農業、だいたい命がけだな」


 アガレスが嬉しそうに記録した。


 灰豆畑の背後には、すぐに工房が建てられた。


 一つは、繊維工房。


 温排水で洗った灰豆の莢と茎を乾かし、黒石槌で叩き、細く裂いて、撚っていく。


 最初はぼそぼそだった灰色の繊維も、何度も揉まれ、引かれ、撚られるうちに、一本の糸になっていった。


 工程は単純ではない。


 洗い方が悪いと、粉っぽさが残る。


 乾かしすぎると、繊維が折れる。


 叩きすぎると、短く切れる。


 撚りが甘いと、すぐほどける。


 悪魔たちは何度も失敗した。


 糸になりかけたものが切れ、束が絡まり、乾燥中の莢が弾けて顔に当たる。


 それでも、少しずつ手順は固まっていった。


 温排水で洗う。


 湯気のそばで半乾きにする。


 黒石板の上で軽く叩く。


 手でほぐす。


 短い繊維は詰め物や粗縄へ。


 長い繊維は撚って糸へ。


 根皮は太い縄へ。


 そして糸は、隣の織物工房へ運ばれる。


 織物工房には、黒骨と黒石で作った簡単な織り機が並んでいた。


 メルツが作ったものだ。


 細部は粗い。


 動きも硬い。


 だが、縦糸を張り、横糸を通すことはできる。


 悪魔たちは、最初ぎこちなく手を動かしていた。


 縦糸と横糸が交わり、少しずつ灰色の布が伸びていく。


 それは綺麗な布ではなかった。


 糸の太さは場所によって違う。


 ところどころに黒い点がある。


 手触りも、少しチクチクする。


 だが、間違いなく布だった。


「おお」


 ヴェスパーは、出来上がった試作品を手に取った。


 粗い。


 硬い。


 少し重い。


 しかし、魔獣皮よりは軽い。


 そして、洗える。


「布だな」


 アガレスが胸を張った。


「灰豆布です!」


「豆から布ができたな」


「第九圏産の新素材です!」


「言い方が急に商売っぽい」


 ヴェスパーは試作服を広げた。


 形は単純だ。


 首を通す穴。


 左右に短い袖。


 胴を覆う直線的な形。


 前後を縫い合わせただけの、もっとも簡単な服。


 肩と胴の形を見た瞬間、記憶の奥から妙な言葉が浮かんだ。


「Tシャツか」


 アガレスが首を傾げる。


「なんでTなのですか?」


「そういう文字があったはずなんだよ」


「文字、ですか」


「ああ。形がこう……肩と胴でTっぽい」


 アガレスはしばらく考えた。


 それから、ぱっと顔を輝かせる。


「では、悪魔の頭文字を取って、Dシャツにしましょう!」


「うーん」


 ヴェスパーは灰色の試作服を広げた。


 名前は、若干ださい。


 いや、かなりださい気もする。


 だが、地獄らしいと言えば地獄らしい。


 少なくとも、誰かが覚えやすい名前ではある。


「採用」


「採用されました!」


「ただし、最初の量産品は作業用だ。おしゃれ着じゃねぇぞ」


「Dシャツ、作業用標準服として記録します!」


「大げさだな」


「王様、第九圏に服飾産業が生まれました!」


「豆からな」


 最初のDシャツは、ヴェスパーが試着することになった。


 なぜか、そういう流れになっていた。


「王様が最初に着るべきです!」


 アガレスが言う。


「なんでだよ」


「王様が言い出した服ですので!」


「そういう時だけ王様扱いを強めるな」


 仕方なく、ヴェスパーは外套を脱いだ。


 分厚い魔獣皮が肩から外れた瞬間、体にまとわりついていた熱が少し逃げる。


 その下に、灰豆布のDシャツを通した。


 首元がやや狭い。


 肩の縫い目が、少し硬い。


 肌に当たる布は、滑らかとは言いがたい。短い繊維の先がところどころ内側に出ていて、動くたびに薄くちくちくする。


 それでも、魔獣皮とは違った。


 重さがない。


 腕を上げても、布が肩に引っかからない。


 袖が短いので、手首が自由に動く。


 湯気を含んだ空気の中でも、熱がこもりすぎない。


 ヴェスパーは肩を回した。


 次に腕を前へ伸ばす。


 肘を曲げる。


 腰をひねる。


 軽く屈む。


 周囲の悪魔たちが、妙に真剣な顔でその動きを見ていた。


 王が着飾っているというより、新しい道具の性能試験を眺める目だった。


「……着られる」


 ヴェスパーは小さく頷いた。


「動けるな」


 フルカスが目を細める。


「外套よりも、腕の動きがずっと軽そうでございます」


「ああ。鍛錬場ではこっちの方がいい」


 ハボリムがうなずく。


「飯場でも、袖が短いのは助かるのう。鍋に引っかかりにくい」


 ザグが布の裾を見た。


「作業中に邪魔になりませんね。石運びにも使えそうです」


 バティンは少しだけ考え込み、黒土のついた自分の腕を見た。


「洗えるなら、開墾作業でも助かりますな」


 ブエルがにこにこしている。


「灰豆、役に立ちますねぇ」


「たまに攻撃してくるけどな」


「元気ですぅ」


「それはもう聞いた」


 ニムがヴェスパーをじっと見上げていた。


「王様」


「なんだ」


「それ、かっこいいです」


「そうか?」


「はい。王様が、村の人みたいです」


 ヴェスパーは少しだけ黙った。


 村の人。


 その言い方が、妙に胸に残った。


 石棺から出てきた時、自分は何者でもなかった。


 名前もなく、居場所もなく、ただ寒さの中に放り出された。


 それが今は、炉があり、飯場があり、湯殿があり、排水路があり、畑があり、工房がある。


 そして、豆から作った服を着ている。


 村の人。


 たしかに、少しはそう見えるのかもしれない。


「……まあ、悪くないな」


 ヴェスパーはDシャツの裾を軽く引っ張った。


 硬い布が、指先にざらりと触れる。


 完璧ではない。


 むしろ、改良点だらけだ。


 だが、これは確かに服だった。


 ただ寒さを防ぐだけの皮ではなく、暮らしに合わせて作られた服だ。


「ただ、改良は必要だ」


 アガレスがすぐに筆を構える。


「改良点ですね!」


「首元を広げる。縫い目を平らにする。洗うと縮むかもしれないから試す。肌に当たる部分は柔らかくする。短い繊維は内側に出すな」


「承知しました!」


「あと、湯上がり用はもっとゆったり作れ。作業用と分ける」


「Dシャツ、湯上がり型!」


「なんでもDシャツにするな」


「では、湯上がりDシャツ!」


「悪化した」


 それでも、工房には笑いが広がった。


 灰豆布を手に取る者。


 試作服を畳む者。


 織り機の前に座り直す者。


 飯場では、豆を煮る準備が進んでいる。


 畑では、次の収穫に備えて灰豆の蔓が伸びている。


 温排水路には、湯気を帯びた水が流れていた。


 その熱が、畑を温める。


 畑が、豆を育てる。


 豆が、飯になり、糸になり、布になる。


 布が、服になる。


 風呂を作っただけのはずだった。


 排水に困っただけのはずだった。


 それが今は、水路を作り、畑を作り、工房を建て、服まで生み出している。


 ヴェスパーは腕を組み、苦笑した。


「温泉の排水で豆を育てて、豆の茎で服を作る」


「はい!」


「何を言ってるのか分からんが、現場としては正しい」


 アガレスが満面の笑みで記録板に書き込む。


「第三十一日、灰豆布完成。作業用標準服、Dシャツを採用」


「日付はクロセルに確認しろ」


「はい!」


 ヴェスパーは灰豆畑の方を見た。


 灰色の莢が、湯気の中で揺れている。


 その一つが、ぱん、と弾けた。


 飛んできた豆が、バルガンの盾に当たる。


「また攻撃してるな」


「収穫時期ですね!」


「畑に戦闘音がするの、やっぱりおかしいだろ」


 だが、悪魔たちは笑っていた。


 以前なら、寒さに震え、火にすがるだけだった者たちが、今は豆に撃たれて笑っている。


 それはたぶん、悪くない変化だった。


 ヴェスパーはDシャツの袖をつまみ、少しだけ肩を回した。


「……次は、もうちょい着心地だな」


 その言葉を聞いたアガレスの目が、また輝いた。


「王様、次の衣服改善ですね!」


「終わらねぇな、生活改善」


「生活とは、続くものですので!」


「急に良いこと言うな」


 南東の旧河道を、水が流れていく。


 その脇で、灰豆の畑が揺れ、織物工房の中では、ぎこちない織り機の音が鳴り始めていた。


 カタン。


 カタン。


 炉の音、鐘の音、水の音に続いて。


 第九圏に、布を織る音が加わった。


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