第三十話 水天使と魔鉄水門
風呂ができた。
それは、間違いなく良いことだった。
鉱山で見つかった源泉から導湯管を引き、村に湯殿を作り、沈殿槽と排水路まで整えた。
悪魔たちは、最初こそ湯に浸かるという行為そのものを不思議がっていたが、一度入ってしまえば早かった。
鉱山帰りの悪魔は、黒い粉塵を落として湯気の中で沈黙した。
鍛冶場の悪魔は、煤だらけの腕を洗いながら、何かを悟ったような顔をした。
狩猟番は、魔物の脂と血の匂いを落とし、湯上がりに力尽きた。
救助されたばかりの悪魔たちも、ハボリムに温度を調整された湯へ少しずつ浸かり、凍りついていた体を解かしていった。
湯殿の外では、ニムたち小悪魔が湯気を見上げている。
「……王様」
「なんだ」
「悪魔が、みんな、ゆでられています」
「ゆでてねぇ」
「でも、出てきた人たちが、ふにゃふにゃです」
「それは温まってるんだ」
ニムは真剣な顔でうなずいた。
「温まると、ふにゃふにゃになるんですね」
「だいたい合ってるようで、かなり違うな」
ヴェスパーは湯殿の前で腕を組み、白い湯気を見上げた。
氷獄の中に湯気が立っている。
それだけでも、十分に異様だった。
だが、問題は別にあった。
「王様!」
沈殿槽の方から、ザグが走ってきた。
顔には湯気と泥が混じっている。
「沈殿槽が、またいっぱいです!」
「またか」
「はい! 洗い場の排水が多すぎます!」
続いて、バティンも重い足取りでやって来た。
「仮排水路も一部あふれております。周囲の氷が変に溶け、黒土がぬかるみ始めました」
「風呂ができたのは良かったが……」
ヴェスパーは額を押さえた。
「排出される水の量が、想定より多いな」
アガレスが記録板を抱えて、ぱたぱたと近づいてくる。
「王様、湯殿の利用者が増えています!」
「だろうな」
「鉱山組、鍛冶組、狩猟番、救助者、工房組、洗濯利用者、それから湯気を浴びるだけの者もいます!」
「最後は何だ」
「温かいから近くにいたいそうです!」
「気持ちは分かる」
風呂は成功した。
成功したからこそ、水が足りなくなるのではなく、水が多すぎるという問題が出た。
この第九圏で、水が多すぎて困る日が来るとは思わなかった。
「源泉は止められないのか?」
フルカスが問う。
ヴェスパーは首を横に振った。
「止め方を間違えると、鉱山側に圧がかかる。源泉周りの岩盤がどうなってるか分からん以上、下手に塞ぎたくない」
「では、流すしかございませんな」
「ああ。問題はどこへ流すかだ」
ヴェスパーは地図を広げた。
黒石の上に置かれた地図には、村、湯殿、沈殿槽、貯水池、鉱山への道が描かれている。
そこからさらに、南東へ指を滑らせた。
「貯水池だけじゃ足りねぇ」
アガレスが地図を覗き込む。
「では、さらに大きく掘りますか?」
「一時しのぎにはなる。でも、湯殿の利用が増えればまた溢れる」
ヴェスパーの指が、貯水池の南東にある細い線で止まった。
「ここだ」
「これは……」
「たぶん、昔の川跡だ」
フルカスが目を細める。
「この辺りに、川があったのですか」
「今は氷と黒土に埋もれてる。でも地形の下がり方を見ると、昔はここを水が流れてたんだと思う」
アガレスが目を輝かせた。
「旧河道ですね!」
「そういうことだ」
ヴェスパーは地図を指で叩いた。
「湯殿からの排水は、沈殿槽を通す。いったん貯水池で受ける。そこから余った分を南東の旧河道へ逃がす」
「川を復活させるのですか?」
「排水路だ」
「川のような排水路です!」
「物は言いようだな」
ただし、問題はある。
貯水池から旧河道へ水を流すには、水量を調整する仕組みがいる。
常に流しっぱなしにすれば、旧河道側が削れるかもしれない。
逆に閉じすぎれば、貯水池があふれる。
つまり、水門が必要だった。
「水門を作る」
ヴェスパーが言うと、ザグとメルツが同時に顔を上げた。
「水門、ですか」
「魔鉄で板を作る。黒石の溝にはめて、上下に動かせるようにする。完全に閉じれば水は止まる。少し上げれば流れる。開け幅で水量を調整する」
メルツが顎に手を当てた。
「魔鉄板なら作れます。問題は、貯水池の水圧に耐える厚みですね」
「厚すぎると動かせなくなる」
「なら、板の中に骨材を噛ませて補強します」
「いいな」
ザグが腕を鳴らす。
「黒石の枠は俺が作ります。溝を二重にすれば、片方が壊れても止められる」
「おお、考えるようになってきたな」
「王様に無茶振りされ続けてますので!」
「俺のせいか」
「はい!」
「元気よく言うな」
作るものは決まった。
だが、まだ問題は残っている。
旧河道の正確な位置。
流れの勾配。
掘削中の水の制御。
貯水池からどの程度の量を流してよいか。
それを調べる手が足りない。
ヴェスパーが地図を睨んでいると、その時だった。
天井が光った。
村の空気が、一瞬で固まる。
悪魔たちは反射的に身構えた。
フルカスが手を剣に伸ばし、バルガンが湯殿の前で仁王立ちになる。
アガレスは記録板を抱えたまま、目を丸くした。
ヴェスパーは空を見上げ、半眼になった。
「……え。またセラフ?」
光は、ウリエルが降りてきた時のような鋭い裁きの光ではなかった。
空気が、わずかに湿った。
氷獄の乾いた冷気の中に、場違いなほど澄んだ水の匂いが混じる。
どこからともなく、細い水音が聞こえた。
岩肌を伝う雫の音。
遠い泉が揺れる音。
凍りついた世界が、ほんの一瞬だけ水辺の記憶を思い出したような音だった。
ラッパの音もない。
代わりに、どこか水音のような響きがあった。
高い天井の裂け目から、淡い青白い光が降りてくる。
その中心に、一人の天使が立っていた。
白銀の髪。
柔らかな青い瞳。
背には大きな白翼。
その周囲には、薄い水膜のような光が揺れている。
冷たくはない。
むしろ、澄んだ水辺のような気配だった。
天使はゆっくりと村へ降り立ち、少し困ったように笑った。
「えーと、私はガブリエル」
そして、自分を指さす。
「水に関する天使ですよ」
ヴェスパーは数秒黙った。
それから、地図を持ったまま歩み寄る。
「あー、ガブリエルさん」
「はい」
「いいところに来てくださいましたね」
「えっ」
ガブリエルの笑顔が少し固まった。
「なんだか、用件を聞く前に嫌な予感がするのだけれど」
「こっちの台詞です。ご用は?」
ガブリエルは、少し視線を逸らした。
水色の瞳が、湯殿の方へ流れる。
「温泉に入りたいの」
村が静まり返った。
悪魔たちが、天使を見る。
天使も、悪魔たちを見る。
湯殿からは、白い湯気が上がっている。
ヴェスパーは腕を組んだ。
「ほう」
アガレスが小声で言う。
「王様、外交案件です」
「温泉目当ての外交ってなんだよ」
ガブリエルは慌てたように手を振った。
「違うの。違わないけれど、違うの」
「どっちだ」
「第九圏で源泉が見つかったって聞いて、水の流れを確認しに来たのよ。あと、温泉に入りたいの」
「最後が本音だろ」
「全部本当よ」
ヴェスパーはじっとガブリエルを見た。
高位天使。
水に関する権能。
そして温泉に入りたい。
状況だけ見れば、面倒な客である。
だが、今の第九圏には水の専門家が必要だった。
「ただではないですよ?」
ヴェスパーが言うと、ガブリエルは素直に首を傾げた。
「えっと、どうしたらいいの?」
ヴェスパーは地図を広げた。
村。
湯殿。
沈殿槽。
貯水池。
その南東に眠る旧河道。
「排水に困ってましてね」
「排水」
「湯殿の利用者が増えた。沈殿槽と貯水池だけじゃ受けきれない。そこで、貯水池から南東の旧河道へ余剰水を逃がす」
ガブリエルは地図を覗き込む。
その青い瞳が、少しだけ細くなった。
「ここ、昔は水が流れていたのね」
「分かるのか」
「水が流れた記憶があるわ」
「水に記憶とかあるのか」
「あるわよ」
「急に詩的だな」
ガブリエルは地図の上に手をかざした。
淡い青い光が、地図の上を走る。
貯水池の南東から、細い線が浮かび上がった。
それは、ヴェスパーが予想していた旧河道とほぼ重なっていた。
「ここを掘れば、流れるわ」
「勾配は?」
「足りてる」
「途中で詰まりそうな場所は?」
「三つある。氷が厚いところと、黒石が崩れているところ」
「水量は?」
「最初は少しずつ。いきなり開けると、川跡が驚くわ」
「川跡が驚くのか」
「驚くわ」
「水の天使、感覚が独特だな」
ヴェスパーは頷いた。
「採用」
「え?」
「水門作りと旧河道工事を手伝ってください」
「手伝うから、入らせて」
「よし決まりだ」
即決だった。
ただし、そこでヴェスパーは湯殿を見た。
現在の湯殿は悪魔たちが使っている。
そこへセラフをそのまま入れるのは、いろいろと危険だった。
信仰上というより、感情的に危ない。
天使も気まずい。
悪魔も気まずい。
何より、バルガンあたりが妙な緊張で湯船を割りかねない。
「だが、悪魔と同じところに入れると戦争になる」
ヴェスパーは言った。
「来客用の風呂場を作るぞ」
ガブリエルが目を丸くした。
「そこから?」
「そこからだ」
「私は水門を手伝えば入れるんじゃないの?」
「入れる。入れるが、入る場所がまだない」
「そういうことなのね」
「外交は脱衣所から始まる」
アガレスが真顔で記録板に書きかけた。
「名言のようで、意味が分かりません!」
「書くな」
こうして、なぜか水門工事と来客用湯殿の建設が同時に始まった。
ザグとメルツは魔鉄板の加工に取りかかった。
分厚い魔鉄を炉で熱し、叩き、骨材を噛ませて補強し、上下に滑るための縁を作る。
バティンは貯水池の南東側を掘り、黒石で水門の枠を組む。
ハディン組は旧河道へ向かって溝を開き、凍った川跡を少しずつ掘り起こしていく。
アガレスは水門の開閉を補助する術式を刻む。
クロセルは、水位、開閉時刻、排水量の記録表を作り始めた。
「王様、水利管理表を作成いたします」
「また表が増えた」
「水は時と同じく、管理しなければ乱れます」
「急にまともなこと言うな」
一方、ガブリエルは水門予定地のそばで、しゃがみ込んで水の流れを見ていた。
実際には、まだ水は流れていない。
それでも、彼女には何かが見えているらしい。
「こっちへ行きたがってる」
「水がか?」
「うん。でも、急に流すと暴れる」
「川みたいだな」
「川だもの」
「今は排水路だ」
「川になるかもしれないわ」
「勝手に昇格させるな」
ガブリエルは楽しそうに笑った。
水門の魔鉄板が、黒石の溝へはめ込まれる。
ザグとメルツが慎重に位置を合わせ、バティンが土台を固め、アガレスが術式を通す。
魔鉄板は重い。
だが、開閉補助の術式が入ると、二人がかりで上下させられるようになった。
ガブリエルは、その様子を目を輝かせて見ていた。
「ヴェスパーくん、これ楽しいね」
「楽しいのか?」
「うん。水がこっちへ行きたがってるのに、鉄の板で待ってもらってる」
「言い方が詩的だな」
「水門って、すごいのね」
「まあ、地味だけどな」
「地味じゃないわ。水にお願いするんじゃなくて、流れる場所を一緒に決めてる」
「……天使っぽいこと言うな」
ガブリエルは首を傾げた。
「これ、労働?」
「労働だな」
「そっか」
彼女は少し考え、それからにこっと笑った。
「労働って、楽しいのね」
「天使に労働の喜びを教える地獄、だいぶ終わってるな」
アガレスが元気よく手を上げる。
「王様、外交的には成功です!」
「成功の方向が分からねぇ」
やがて、魔鉄水門が完成した。
黒石の枠に、黒く鈍い魔鉄板がはまっている。
板の表面には、アガレスの赤黒い術式と、ガブリエルが添えた淡い青の水紋が並んでいた。
地獄と天界の合作。
見た目は、かなり物騒だった。
「よし」
ヴェスパーは水門の前に立った。
「少しだけ開けるぞ」
「はい」
クロセルが記録板を構える。
「開門時刻、記録いたします」
「大げさだな」
「水門の初稼働でございます」
「まあ、そうか」
ザグとメルツが魔鉄板をゆっくり引き上げる。
最初は、何も起きなかった。
次の瞬間、貯水池の水が細く動いた。
水が水門の下をくぐり、南東へ向かって流れ出す。
黒石の溝を抜け、掘り起こされた旧河道へ入る。
じゅう、と音がした。
凍っていた川跡の氷が、温排水に触れて鳴いた。
それは、眠っていた川が最初に息を吐いたような音だった。
長いあいだ氷の下で押し黙っていた水の道が、ゆっくりと目を覚ましていく。
白い湯気が立ち上る。
水は細く、しかし確かに流れていく。
悪魔たちが黙ってそれを見ていた。
この第九圏に、水音が戻った。
炉の音。
鐘の音。
槌の音。
そこへ、流れる水の音が加わった。
フルカスが静かに目を細める。
「川の音を聞くのは、いつ以来でしょうな」
ガブリエルが小さく微笑んだ。
「水は、道を覚えているの」
ヴェスパーは流れを見下ろした。
「なら、思い出してもらうか」
「何を?」
「ここが川だったってことを」
アガレスが嬉しそうに羽を揺らす。
「王様、第九圏に川が戻りましたね!」
「排水路だ」
「でも、水は流れております」
フルカスが静かに言った。
ヴェスパーは少し黙った。
湯気を帯びた水が、黒石の護岸の間を流れていく。
その周囲では、さっそく悪魔たちが道を作り始めていた。
ブエルは排水路沿いに霜苔を植えられるか考えている。
ハボリムは洗濯場の湯の利用を見ている。
クロセルは水門の開閉表を作っている。
風呂の排水が、村の外へ道を作り始めていた。
「……風呂の排水まで仕事を始めやがった」
ヴェスパーがぼやくと、アガレスは楽しそうに笑った。
そして、来客用湯殿も完成した。
悪魔用の大湯殿とは別棟。
白黒石を組み合わせた小さめの建物で、魔鉄の配管と温度調整弁がついている。
脱衣所もある。
排水はもちろん沈殿槽へ流れ、貯水池を経由して、魔鉄水門から旧河道へ向かう。
外には、ザグが作った札が掲げられていた。
来客用湯殿。
「天使用じゃないんだね」
ガブリエルが札を見上げて言った。
「今後、誰が来るか分からねぇからな」
「他にも来ると思う?」
「来そうで嫌だ」
「嫌なの?」
「手ぶらで来るなら嫌だ」
ガブリエルはくすくす笑った。
「私は働いたものね」
「水門工事代としては十分だ」
「じゃあ、入ってくるね」
「ああ。湯温は熱すぎたらそこの弁で調整しろ。排水はそっちだ。変なことがあったら呼べ」
「温泉の説明が、設備説明なのね」
「風呂は設備だ」
「そういうところ、ヴェスパーくんらしいわ」
ガブリエルは楽しそうに来客用湯殿へ入っていった。
しばらくして。
中から、完全に気の抜けた声が聞こえた。
「……これは、いいわねぇ」
ヴェスパーは湯殿の外で腕を組んだ。
「天使が溶けてるな」
「王様、記録しますか?」
「するな」
「水天使、湯により溶解寸前、と」
「書くな」
中から、ガブリエルの声が続く。
「湯が柔らかいわ。少し鉱山の匂いがするけれど、悪くない。流れも生きている」
「温泉に入っても水の話か」
「水の天使だもの」
「満喫してるか?」
「してるー」
返事が軽かった。
しばらくして、湯上がりのガブリエルが出てきた。
白銀の髪は少し湿り、頬には淡い赤みが差している。
高位天使というより、完全に湯上がりの客だった。
「ヴェスパーくん、ありがとう」
「排水工事の礼なら、こっちが言う側だろ」
「ううん。温泉、すごくよかった。あと、水門も楽しかった」
「水門が温泉と同列に並ぶのか」
「うん」
ガブリエルは満足そうに笑った。
「また来るねー」
「予約してから来いよ」
「予約制なの?」
「天使が突然降ってくるな」
「分かったわ。次はちゃんと連絡する」
「本当にしろよ」
ガブリエルは笑いながら手を振った。
天井が淡く光る。
水音のような響きが村に広がり、彼女の姿は光の中へと消えていった。
あとには、湯気と水音だけが残った。
ヴェスパーは空を見上げる。
「……また天使が温泉に入りに来るのか」
アガレスが記録板を抱えて言った。
「王様、来客用湯殿の運用規定が必要ですね!」
「仕事が増えた」
「予約表も作りましょう!」
「本当に増えた」
ヴェスパーは大きく息を吐き、流れ始めた排水路へ目を向けた。
第九圏に、火が灯り、鐘が鳴り、湯気が上がり、水が流れた。
凍りついていた地獄は、少しずつ、動き方を思い出している。
それは悪くない。
悪くないのだが。
「風呂一つで、天界まで騒がしくなりそうだな」
その予感は、わりと正しかった。
ガブリエルが天界へ戻ると、すぐに肩を掴まれた。
「ガブリエル」
「ひゃっ」
振り返ると、そこにはラファエルが立っていた。
柔らかな笑み。
穏やかな瞳。
だが、その両手はしっかりとガブリエルの肩を掴んでいる。
「……温泉の、いい匂いがしますね」
「え、えーと」
「抜け駆けとは」
「きゃー! ごめんなさいー!」
その日、天界に新たな議題が生まれた。
第九圏温泉視察計画。
なお、最初に作成された視察希望者名簿には、なぜかラファエルの名前が三つ書かれていた。
「第一希望、第二希望、第三希望です」
「全部お前だろう」
ウリエルの低い声が、白い会議室に落ちた。
ラファエルは穏やかに微笑んだまま、少しも悪びれなかった。
「視察は重要ですから」
「湯浴みを視察と言い換えるな」
「泉質確認です」
「なお悪い」
その時、別の低い声が響いた。
「地獄で、労働しただと?」
ミカエルだった。
鋭い眼差しが、ガブリエルへ向けられる。
「ガブリエル。お前は、悪魔の工事を手伝ったのか」
「え、えーと……水門工事を少し」
「少し?」
「少し、楽しかったです」
「楽しかったではない」
白い会議室の空気が、わずかに張り詰めた。
ミカエルの眉間に、深い皺が寄る。
「天使が地獄で労働するなど、聞いたことがない」
「それは……そうかもしれません」
ガブリエルは小さくなった。
だが、その場でメタトロンが静かに口を開いた。
「ミカエル」
「何だ」
「悪魔に、来客用の湯殿まで作らせたのだ」
ミカエルが黙る。
メタトロンは、淡々と続けた。
「その湯を、天使がただで利用する。対価も払わず、労も返さず、恩恵だけを受ける」
白い会議室に、沈黙が落ちる。
「それこそ、天としては許されぬ」
「……」
ミカエルはしばらく黙っていた。
やがて、わずかに目を細める。
「つまり、対価としての労働だったと」
「そうだ」
「水門工事が?」
「そうだ」
ガブリエルは、そっと胸を張った。
「ちゃんと働きました」
「胸を張るな」
ウリエルの声が落ちる。
ガブリエルは慌てて肩をすくめた。
「ガブリエル」
「はいっ」
「報告書には、水門工事のことを先に書け」
「は、はい。温泉のことは?」
「後ろだ」
「書いていいのですね」
沈黙が落ちた。
ラファエルが、穏やかに微笑んだまま手を上げる。
「泉質確認の項目は、別紙でもよろしいでしょうか」
「よくない」
「効能についても」
「よくない」
「予約方法については」
「今は議題にない」
ガブリエルは、そっと目を逸らす。
ラファエルは、まだ微笑んでいる。
ミカエルは腕を組み、メタトロンは静かに記録板を見ている。
そのとき、ウリエルのこめかみには、青筋が見えたような、見えなかったような。




