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第九圏の欠落王 ―棺の底から始める地獄改革―  作者: カイメイラ
第二章 眠る王都へ続く道

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第三十話 水天使と魔鉄水門


 風呂ができた。


 それは、間違いなく良いことだった。


 鉱山で見つかった源泉から導湯管を引き、村に湯殿を作り、沈殿槽と排水路まで整えた。


 悪魔たちは、最初こそ湯に浸かるという行為そのものを不思議がっていたが、一度入ってしまえば早かった。


 鉱山帰りの悪魔は、黒い粉塵を落として湯気の中で沈黙した。


 鍛冶場の悪魔は、煤だらけの腕を洗いながら、何かを悟ったような顔をした。


 狩猟番は、魔物の脂と血の匂いを落とし、湯上がりに力尽きた。


 救助されたばかりの悪魔たちも、ハボリムに温度を調整された湯へ少しずつ浸かり、凍りついていた体を解かしていった。


 湯殿の外では、ニムたち小悪魔が湯気を見上げている。


「……王様」


「なんだ」


「悪魔が、みんな、ゆでられています」


「ゆでてねぇ」


「でも、出てきた人たちが、ふにゃふにゃです」


「それは温まってるんだ」


 ニムは真剣な顔でうなずいた。


「温まると、ふにゃふにゃになるんですね」


「だいたい合ってるようで、かなり違うな」


 ヴェスパーは湯殿の前で腕を組み、白い湯気を見上げた。


 氷獄の中に湯気が立っている。


 それだけでも、十分に異様だった。


 だが、問題は別にあった。


「王様!」


 沈殿槽の方から、ザグが走ってきた。


 顔には湯気と泥が混じっている。


「沈殿槽が、またいっぱいです!」


「またか」


「はい! 洗い場の排水が多すぎます!」


 続いて、バティンも重い足取りでやって来た。


「仮排水路も一部あふれております。周囲の氷が変に溶け、黒土がぬかるみ始めました」


「風呂ができたのは良かったが……」


 ヴェスパーは額を押さえた。


「排出される水の量が、想定より多いな」


 アガレスが記録板を抱えて、ぱたぱたと近づいてくる。


「王様、湯殿の利用者が増えています!」


「だろうな」


「鉱山組、鍛冶組、狩猟番、救助者、工房組、洗濯利用者、それから湯気を浴びるだけの者もいます!」


「最後は何だ」


「温かいから近くにいたいそうです!」


「気持ちは分かる」


 風呂は成功した。


 成功したからこそ、水が足りなくなるのではなく、水が多すぎるという問題が出た。


 この第九圏で、水が多すぎて困る日が来るとは思わなかった。


「源泉は止められないのか?」


 フルカスが問う。


 ヴェスパーは首を横に振った。


「止め方を間違えると、鉱山側に圧がかかる。源泉周りの岩盤がどうなってるか分からん以上、下手に塞ぎたくない」


「では、流すしかございませんな」


「ああ。問題はどこへ流すかだ」


 ヴェスパーは地図を広げた。


 黒石の上に置かれた地図には、村、湯殿、沈殿槽、貯水池、鉱山への道が描かれている。


 そこからさらに、南東へ指を滑らせた。


「貯水池だけじゃ足りねぇ」


 アガレスが地図を覗き込む。


「では、さらに大きく掘りますか?」


「一時しのぎにはなる。でも、湯殿の利用が増えればまた溢れる」


 ヴェスパーの指が、貯水池の南東にある細い線で止まった。


「ここだ」


「これは……」


「たぶん、昔の川跡だ」


 フルカスが目を細める。


「この辺りに、川があったのですか」


「今は氷と黒土に埋もれてる。でも地形の下がり方を見ると、昔はここを水が流れてたんだと思う」


 アガレスが目を輝かせた。


「旧河道ですね!」


「そういうことだ」


 ヴェスパーは地図を指で叩いた。


「湯殿からの排水は、沈殿槽を通す。いったん貯水池で受ける。そこから余った分を南東の旧河道へ逃がす」


「川を復活させるのですか?」


「排水路だ」


「川のような排水路です!」


「物は言いようだな」


 ただし、問題はある。


 貯水池から旧河道へ水を流すには、水量を調整する仕組みがいる。


 常に流しっぱなしにすれば、旧河道側が削れるかもしれない。


 逆に閉じすぎれば、貯水池があふれる。


 つまり、水門が必要だった。


「水門を作る」


 ヴェスパーが言うと、ザグとメルツが同時に顔を上げた。


「水門、ですか」


「魔鉄で板を作る。黒石の溝にはめて、上下に動かせるようにする。完全に閉じれば水は止まる。少し上げれば流れる。開け幅で水量を調整する」


 メルツが顎に手を当てた。


「魔鉄板なら作れます。問題は、貯水池の水圧に耐える厚みですね」


「厚すぎると動かせなくなる」


「なら、板の中に骨材を噛ませて補強します」


「いいな」


 ザグが腕を鳴らす。


「黒石の枠は俺が作ります。溝を二重にすれば、片方が壊れても止められる」


「おお、考えるようになってきたな」


「王様に無茶振りされ続けてますので!」


「俺のせいか」


「はい!」


「元気よく言うな」


 作るものは決まった。


 だが、まだ問題は残っている。


 旧河道の正確な位置。


 流れの勾配。


 掘削中の水の制御。


 貯水池からどの程度の量を流してよいか。


 それを調べる手が足りない。


 ヴェスパーが地図を睨んでいると、その時だった。


 天井が光った。


 村の空気が、一瞬で固まる。


 悪魔たちは反射的に身構えた。


 フルカスが手を剣に伸ばし、バルガンが湯殿の前で仁王立ちになる。


 アガレスは記録板を抱えたまま、目を丸くした。


 ヴェスパーは空を見上げ、半眼になった。


「……え。またセラフ?」


 光は、ウリエルが降りてきた時のような鋭い裁きの光ではなかった。


 空気が、わずかに湿った。


 氷獄の乾いた冷気の中に、場違いなほど澄んだ水の匂いが混じる。


 どこからともなく、細い水音が聞こえた。


 岩肌を伝う雫の音。


 遠い泉が揺れる音。


 凍りついた世界が、ほんの一瞬だけ水辺の記憶を思い出したような音だった。


 ラッパの音もない。


 代わりに、どこか水音のような響きがあった。


 高い天井の裂け目から、淡い青白い光が降りてくる。


 その中心に、一人の天使が立っていた。


 白銀の髪。


 柔らかな青い瞳。


 背には大きな白翼。


 その周囲には、薄い水膜のような光が揺れている。


 冷たくはない。


 むしろ、澄んだ水辺のような気配だった。


挿絵(By みてみん)


 天使はゆっくりと村へ降り立ち、少し困ったように笑った。


「えーと、私はガブリエル」


 そして、自分を指さす。


「水に関する天使ですよ」


 ヴェスパーは数秒黙った。


 それから、地図を持ったまま歩み寄る。


「あー、ガブリエルさん」


「はい」


「いいところに来てくださいましたね」


「えっ」


 ガブリエルの笑顔が少し固まった。


「なんだか、用件を聞く前に嫌な予感がするのだけれど」


「こっちの台詞です。ご用は?」


 ガブリエルは、少し視線を逸らした。


 水色の瞳が、湯殿の方へ流れる。


「温泉に入りたいの」


 村が静まり返った。


 悪魔たちが、天使を見る。


 天使も、悪魔たちを見る。


 湯殿からは、白い湯気が上がっている。


 ヴェスパーは腕を組んだ。


「ほう」


 アガレスが小声で言う。


「王様、外交案件です」


「温泉目当ての外交ってなんだよ」


 ガブリエルは慌てたように手を振った。


「違うの。違わないけれど、違うの」


「どっちだ」


「第九圏で源泉が見つかったって聞いて、水の流れを確認しに来たのよ。あと、温泉に入りたいの」


「最後が本音だろ」


「全部本当よ」


 ヴェスパーはじっとガブリエルを見た。


 高位天使。


 水に関する権能。


 そして温泉に入りたい。


 状況だけ見れば、面倒な客である。


 だが、今の第九圏には水の専門家が必要だった。


「ただではないですよ?」


 ヴェスパーが言うと、ガブリエルは素直に首を傾げた。


「えっと、どうしたらいいの?」


 ヴェスパーは地図を広げた。


 村。


 湯殿。


 沈殿槽。


 貯水池。


 その南東に眠る旧河道。


「排水に困ってましてね」


「排水」


「湯殿の利用者が増えた。沈殿槽と貯水池だけじゃ受けきれない。そこで、貯水池から南東の旧河道へ余剰水を逃がす」


 ガブリエルは地図を覗き込む。


 その青い瞳が、少しだけ細くなった。


「ここ、昔は水が流れていたのね」


「分かるのか」


「水が流れた記憶があるわ」


「水に記憶とかあるのか」


「あるわよ」


「急に詩的だな」


 ガブリエルは地図の上に手をかざした。


 淡い青い光が、地図の上を走る。


 貯水池の南東から、細い線が浮かび上がった。


 それは、ヴェスパーが予想していた旧河道とほぼ重なっていた。


「ここを掘れば、流れるわ」


「勾配は?」


「足りてる」


「途中で詰まりそうな場所は?」


「三つある。氷が厚いところと、黒石が崩れているところ」


「水量は?」


「最初は少しずつ。いきなり開けると、川跡が驚くわ」


「川跡が驚くのか」


「驚くわ」


「水の天使、感覚が独特だな」


 ヴェスパーは頷いた。


「採用」


「え?」


「水門作りと旧河道工事を手伝ってください」


「手伝うから、入らせて」


「よし決まりだ」


 即決だった。


 ただし、そこでヴェスパーは湯殿を見た。


 現在の湯殿は悪魔たちが使っている。


 そこへセラフをそのまま入れるのは、いろいろと危険だった。


 信仰上というより、感情的に危ない。


 天使も気まずい。


 悪魔も気まずい。


 何より、バルガンあたりが妙な緊張で湯船を割りかねない。


「だが、悪魔と同じところに入れると戦争になる」


 ヴェスパーは言った。


「来客用の風呂場を作るぞ」


 ガブリエルが目を丸くした。


「そこから?」


「そこからだ」


「私は水門を手伝えば入れるんじゃないの?」


「入れる。入れるが、入る場所がまだない」


「そういうことなのね」


「外交は脱衣所から始まる」


 アガレスが真顔で記録板に書きかけた。


「名言のようで、意味が分かりません!」


「書くな」


 こうして、なぜか水門工事と来客用湯殿の建設が同時に始まった。


 ザグとメルツは魔鉄板の加工に取りかかった。


 分厚い魔鉄を炉で熱し、叩き、骨材を噛ませて補強し、上下に滑るための縁を作る。


 バティンは貯水池の南東側を掘り、黒石で水門の枠を組む。


 ハディン組は旧河道へ向かって溝を開き、凍った川跡を少しずつ掘り起こしていく。


 アガレスは水門の開閉を補助する術式を刻む。


 クロセルは、水位、開閉時刻、排水量の記録表を作り始めた。


「王様、水利管理表を作成いたします」


「また表が増えた」


「水は時と同じく、管理しなければ乱れます」


「急にまともなこと言うな」


 一方、ガブリエルは水門予定地のそばで、しゃがみ込んで水の流れを見ていた。


 実際には、まだ水は流れていない。


 それでも、彼女には何かが見えているらしい。


「こっちへ行きたがってる」


「水がか?」


「うん。でも、急に流すと暴れる」


「川みたいだな」


「川だもの」


「今は排水路だ」


「川になるかもしれないわ」


「勝手に昇格させるな」


 ガブリエルは楽しそうに笑った。


 水門の魔鉄板が、黒石の溝へはめ込まれる。


 ザグとメルツが慎重に位置を合わせ、バティンが土台を固め、アガレスが術式を通す。


 魔鉄板は重い。


 だが、開閉補助の術式が入ると、二人がかりで上下させられるようになった。


 ガブリエルは、その様子を目を輝かせて見ていた。


「ヴェスパーくん、これ楽しいね」


「楽しいのか?」


「うん。水がこっちへ行きたがってるのに、鉄の板で待ってもらってる」


「言い方が詩的だな」


「水門って、すごいのね」


「まあ、地味だけどな」


「地味じゃないわ。水にお願いするんじゃなくて、流れる場所を一緒に決めてる」


「……天使っぽいこと言うな」


 ガブリエルは首を傾げた。


「これ、労働?」


「労働だな」


「そっか」


 彼女は少し考え、それからにこっと笑った。


「労働って、楽しいのね」


「天使に労働の喜びを教える地獄、だいぶ終わってるな」


 アガレスが元気よく手を上げる。


「王様、外交的には成功です!」


「成功の方向が分からねぇ」


 やがて、魔鉄水門が完成した。


 黒石の枠に、黒く鈍い魔鉄板がはまっている。


 板の表面には、アガレスの赤黒い術式と、ガブリエルが添えた淡い青の水紋が並んでいた。


 地獄と天界の合作。


 見た目は、かなり物騒だった。


「よし」


 ヴェスパーは水門の前に立った。


「少しだけ開けるぞ」


「はい」


 クロセルが記録板を構える。


「開門時刻、記録いたします」


「大げさだな」


「水門の初稼働でございます」


「まあ、そうか」


 ザグとメルツが魔鉄板をゆっくり引き上げる。


 最初は、何も起きなかった。


 次の瞬間、貯水池の水が細く動いた。


 水が水門の下をくぐり、南東へ向かって流れ出す。


 黒石の溝を抜け、掘り起こされた旧河道へ入る。


 じゅう、と音がした。


 凍っていた川跡の氷が、温排水に触れて鳴いた。


 それは、眠っていた川が最初に息を吐いたような音だった。


 長いあいだ氷の下で押し黙っていた水の道が、ゆっくりと目を覚ましていく。


 白い湯気が立ち上る。


 水は細く、しかし確かに流れていく。


 悪魔たちが黙ってそれを見ていた。


 この第九圏に、水音が戻った。


 炉の音。


 鐘の音。


 槌の音。


 そこへ、流れる水の音が加わった。


 フルカスが静かに目を細める。


「川の音を聞くのは、いつ以来でしょうな」


 ガブリエルが小さく微笑んだ。


「水は、道を覚えているの」


 ヴェスパーは流れを見下ろした。


「なら、思い出してもらうか」


「何を?」


「ここが川だったってことを」


 アガレスが嬉しそうに羽を揺らす。


「王様、第九圏に川が戻りましたね!」


「排水路だ」


「でも、水は流れております」


 フルカスが静かに言った。


 ヴェスパーは少し黙った。


 湯気を帯びた水が、黒石の護岸の間を流れていく。


 その周囲では、さっそく悪魔たちが道を作り始めていた。


 ブエルは排水路沿いに霜苔を植えられるか考えている。


 ハボリムは洗濯場の湯の利用を見ている。


 クロセルは水門の開閉表を作っている。


 風呂の排水が、村の外へ道を作り始めていた。


「……風呂の排水まで仕事を始めやがった」


 ヴェスパーがぼやくと、アガレスは楽しそうに笑った。


 そして、来客用湯殿も完成した。


 悪魔用の大湯殿とは別棟。


 白黒石を組み合わせた小さめの建物で、魔鉄の配管と温度調整弁がついている。


 脱衣所もある。


 排水はもちろん沈殿槽へ流れ、貯水池を経由して、魔鉄水門から旧河道へ向かう。


 外には、ザグが作った札が掲げられていた。


 来客用湯殿。


「天使用じゃないんだね」


 ガブリエルが札を見上げて言った。


「今後、誰が来るか分からねぇからな」


「他にも来ると思う?」


「来そうで嫌だ」


「嫌なの?」


「手ぶらで来るなら嫌だ」


 ガブリエルはくすくす笑った。


「私は働いたものね」


「水門工事代としては十分だ」


「じゃあ、入ってくるね」


「ああ。湯温は熱すぎたらそこの弁で調整しろ。排水はそっちだ。変なことがあったら呼べ」


「温泉の説明が、設備説明なのね」


「風呂は設備だ」


「そういうところ、ヴェスパーくんらしいわ」


 ガブリエルは楽しそうに来客用湯殿へ入っていった。


 しばらくして。


 中から、完全に気の抜けた声が聞こえた。


「……これは、いいわねぇ」


 ヴェスパーは湯殿の外で腕を組んだ。


「天使が溶けてるな」


「王様、記録しますか?」


「するな」


「水天使、湯により溶解寸前、と」


「書くな」


 中から、ガブリエルの声が続く。


「湯が柔らかいわ。少し鉱山の匂いがするけれど、悪くない。流れも生きている」


「温泉に入っても水の話か」


「水の天使だもの」


「満喫してるか?」


「してるー」


 返事が軽かった。


 しばらくして、湯上がりのガブリエルが出てきた。


 白銀の髪は少し湿り、頬には淡い赤みが差している。


 高位天使というより、完全に湯上がりの客だった。


「ヴェスパーくん、ありがとう」


「排水工事の礼なら、こっちが言う側だろ」


「ううん。温泉、すごくよかった。あと、水門も楽しかった」


「水門が温泉と同列に並ぶのか」


「うん」


 ガブリエルは満足そうに笑った。


「また来るねー」


「予約してから来いよ」


「予約制なの?」


「天使が突然降ってくるな」


「分かったわ。次はちゃんと連絡する」


「本当にしろよ」


 ガブリエルは笑いながら手を振った。


 天井が淡く光る。


 水音のような響きが村に広がり、彼女の姿は光の中へと消えていった。


 あとには、湯気と水音だけが残った。


 ヴェスパーは空を見上げる。


「……また天使が温泉に入りに来るのか」


 アガレスが記録板を抱えて言った。


「王様、来客用湯殿の運用規定が必要ですね!」


「仕事が増えた」


「予約表も作りましょう!」


「本当に増えた」


 ヴェスパーは大きく息を吐き、流れ始めた排水路へ目を向けた。


 第九圏に、火が灯り、鐘が鳴り、湯気が上がり、水が流れた。


 凍りついていた地獄は、少しずつ、動き方を思い出している。


 それは悪くない。


 悪くないのだが。


「風呂一つで、天界まで騒がしくなりそうだな」


 その予感は、わりと正しかった。


 ガブリエルが天界へ戻ると、すぐに肩を掴まれた。


「ガブリエル」


「ひゃっ」


 振り返ると、そこにはラファエルが立っていた。


 柔らかな笑み。


 穏やかな瞳。


 だが、その両手はしっかりとガブリエルの肩を掴んでいる。


「……温泉の、いい匂いがしますね」


「え、えーと」


「抜け駆けとは」


「きゃー! ごめんなさいー!」


 その日、天界に新たな議題が生まれた。


 第九圏温泉視察計画。


 なお、最初に作成された視察希望者名簿には、なぜかラファエルの名前が三つ書かれていた。


「第一希望、第二希望、第三希望です」


「全部お前だろう」


 ウリエルの低い声が、白い会議室に落ちた。


 ラファエルは穏やかに微笑んだまま、少しも悪びれなかった。


「視察は重要ですから」


「湯浴みを視察と言い換えるな」


「泉質確認です」


「なお悪い」


 その時、別の低い声が響いた。


「地獄で、労働しただと?」


 ミカエルだった。


 鋭い眼差しが、ガブリエルへ向けられる。


「ガブリエル。お前は、悪魔の工事を手伝ったのか」


「え、えーと……水門工事を少し」


「少し?」


「少し、楽しかったです」


「楽しかったではない」


 白い会議室の空気が、わずかに張り詰めた。


 ミカエルの眉間に、深い皺が寄る。


「天使が地獄で労働するなど、聞いたことがない」


「それは……そうかもしれません」


 ガブリエルは小さくなった。


 だが、その場でメタトロンが静かに口を開いた。


「ミカエル」


「何だ」


「悪魔に、来客用の湯殿まで作らせたのだ」


 ミカエルが黙る。


 メタトロンは、淡々と続けた。


「その湯を、天使がただで利用する。対価も払わず、労も返さず、恩恵だけを受ける」


 白い会議室に、沈黙が落ちる。


「それこそ、天としては許されぬ」


「……」


 ミカエルはしばらく黙っていた。


 やがて、わずかに目を細める。


「つまり、対価としての労働だったと」


「そうだ」


「水門工事が?」


「そうだ」


 ガブリエルは、そっと胸を張った。


「ちゃんと働きました」


「胸を張るな」


 ウリエルの声が落ちる。


 ガブリエルは慌てて肩をすくめた。


「ガブリエル」


「はいっ」


「報告書には、水門工事のことを先に書け」


「は、はい。温泉のことは?」


「後ろだ」


「書いていいのですね」


 沈黙が落ちた。


 ラファエルが、穏やかに微笑んだまま手を上げる。


「泉質確認の項目は、別紙でもよろしいでしょうか」


「よくない」


「効能についても」


「よくない」


「予約方法については」


「今は議題にない」


 ガブリエルは、そっと目を逸らす。


 ラファエルは、まだ微笑んでいる。


 ミカエルは腕を組み、メタトロンは静かに記録板を見ている。


 そのとき、ウリエルのこめかみには、青筋が見えたような、見えなかったような。


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