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第九圏の欠落王 ―棺の底から始める地獄改革―  作者: カイメイラ
第二章 眠る王都へ続く道

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第二十九話 氷獄の湯けむり


 月日は、少しずつ流れていった。


 地獄に時間が生まれ、鐘が鳴り、休息日というものが定められてから、村の暮らしはわずかに落ち着きを見せ始めていた。


 もちろん、平和になったわけではない。


 西門では、霜牙軍との交易所の準備が続いている。


 鍛錬場では、バルガンたちが相変わらずフォルネウスに立ち方を直されている。


 温室では暗黒大根が不気味に根を伸ばし、飯場では冥骨粥の鍋が毎日忙しく湯気を上げている。


 それでも、以前とは違った。


 働く時間があり、飯を食う時間があり、休む時間がある。


 倒れるまで働く者は減り、鐘の音で手を止める者も増えてきた。


 ヴェスパーは、それを見て少しだけ安心していた。


「……ようやく、生活っぽくなってきたな」


 もっとも、生活っぽくなってきたからこそ、見えてくる問題もある。


 ヴェスパーはふと、自分の袖をつまんだ。


 煤。


 土。


 魔獣の脂。


 炉の煙。


 鉱山の粉塵。


 いろいろなものが染みついている。


 そもそも、この村に来てからまともに体を洗った記憶がない。


 いや、記憶どころか、誰かが体を洗っている場面も見たことがない。


 雪でこする者はいた。


 炉の近くで布を乾かす者もいた。


 汚れは凍るから落ちたことにする、という理屈を真顔で言った悪魔もいた。


 だが、それは洗ったとは言わない。


 ヴェスパーは自分の髪を少し持ち上げた。


 長い銀髪は、最初に石棺から出てきた頃よりも、明らかに生活感を帯びている。


 悪い意味で。


「……なあ」


「はい、王様」


 隣で記録板を抱えていたアガレスが、ぱっと顔を上げた。


「俺たち、風呂入ってなくね?」


「ふろ、ですか?」


「体を洗う場所だ」


「雪ならありますが」


「それは風呂じゃねぇ」


 アガレスは不思議そうに首を傾げた。


「では、炉の近くで布を乾かすことでしょうか」


「それも違う」


「では、熱い石を抱いて寝ることでしょうか」


「惜しくもない」


 ヴェスパーは深く息を吐いた。


「体を洗うんだよ。汚れを落として、湯に浸かる」


「湯に」


「そうだ」


「体ごと、ですか?」


「そうだ」


「煮るのですか?」


「煮ない」


 近くで聞いていたハボリムが、ゆっくり顔を上げた。


「火はよいのう」


「風呂を料理に寄せるな」


 ヴェスパーは自分の袖をもう一度見た。


 見れば見るほど、ひどい。


「もう臭すぎて、自分でも分からん」


 アガレスが真剣な顔で記録板を構えた。


「王様、嗅覚の麻痺を確認しました」


「記録するな」


「重要な生活記録では?」


「不名誉すぎる」


「では、衛生改善項目として」


「言い方を変えても駄目だ」


 ヴェスパーは顔をしかめながら、村のあちこちを見た。


 悪魔たちは元気になってきている。


 働き、食べ、休み、遊ぶようになってきた。


 だが、清潔という概念はまだだいぶ怪しい。


 服は直した。


 寝床も作った。


 飯も多少ましになった。


 それなら次は、洗う場所がいる。


 ヴェスパーがそう考えた時だった。


 南の方角から、鉱山担当の悪魔が駆け込んできた。


 息を切らし、顔には黒い粉塵がついている。


「王様!」


「今度はなんだ」


「鉱山で、妙なものが見つかりました!」


「妙なものが多いな、この地獄は」


「黒い岩盤の裂け目から、熱い湯が噴き出しています!」


 ヴェスパーは黙った。


 アガレスも瞬きをした。


 フルカスがゆっくりと顔を上げる。


「熱い湯、でございますか」


「はい! 湯気が上がって、周りの氷が溶けています!」


 ヴェスパーは、しばらく何も言わなかった。


 そして、ゆっくりと顔を上げる。


「……温泉か?」


「おんせん?」


 アガレスがまた首を傾げた。


「温かい湯が、地面から自然に湧く場所だ」


「地獄にも、そのようなものがあるのですね!」


「俺も今知った」


 報告によると、発見したのはハディンだった。


 黒い鉱山では、いまも救助作業が続いている。


 鉱山の閉鎖時に取り残された者たちは、まだ全員を助け出せたわけではない。


 ハディンは、自分の部下だった鉱夫悪魔たちを救うため、横道を少しずつ掘り進めていた。


 無理に大きく掘れば崩れる。


 冷えた岩盤は硬く、ところどころに黒い氷が噛んでいる。


 だから、一日に進める距離はわずかだった。


 それでも、ハディンは止まらなかった。


 その横道の先で、岩肌の奥から妙な湿気が漏れていたらしい。


 冷たい風ではない。


 ぬるく、重く、わずかに硫黄のような匂いのする湿った空気。


 さらに奥へ掘り進めた時だった。


 岩盤の奥で、低い音がした。


 ごぼり、と。


 水とも、石とも違う音だった。


「下がれ」


 ハディンが反射的に叫んだ直後、黒い岩の裂け目から白い蒸気が噴き出した。


 熱風が横穴を叩き、鉱夫悪魔たちが慌てて身を伏せる。


 遅れて、熱い湯が岩肌を破るようにあふれ出した。


「……なんだ、これは」


 凍りついていた壁が、じゅう、と音を立てて濡れていく。


 黒い氷の表面を、湯気が舐める。


 さらに、問題はそれだけではなかった。


「ハディンから、もう一つ報告が」


「まだあるのか」


「はい。源泉の熱で、奥の黒い氷が緩み始めています」


 鉱山担当の悪魔は、そこで少し声を震わせた。


「閉じ込められていた鉱夫悪魔たちが、目覚め始めているそうです」


「……は?」


「ハディン殿の部下たちです。氷の中で、目を開けた者がいると」


 ヴェスパーは片手で顔を覆いかけて、途中でやめた。


 臭さを嘆いている場合ではなくなった。


「まじか」


 嘆くより先に、やることがある。


「すぐ救援と視察に行くぞ」


「救援と、視察ですか?」


「ああ。先に悪魔だ。湯は逃げても追えるが、目覚めたやつを冷やしたら洒落にならん」


「承知しました!」


 ヴェスパーは周囲へ視線を走らせた。


「フルカス、搬送役を集めろ。アガレス、記録。ザグとバティンは工具を持て。ハボリムは温め直しの準備。クロセルは救助者用の寝床と飯の時間を空けろ」


「承知しました」


「鉱山に行く。走れ」


 鉱山へ向かう道は、以前よりも整っていた。


 石切り場を拠点化し、南道を何度も往復したおかげで、道筋はかなり分かりやすくなっている。


 それでも、鉱山周辺は冷える。


 黒い岩稜の影に入ると、空気の重さが変わった。


 だが、鉱山の奥へ近づくにつれて、別のものが混じり始める。


 湿った熱。


 湯気。


 硫黄に似た匂い。


 そして、氷が溶ける音。


 黒い岩盤の裂け目から、白い湯気が立ち上っていた。


 氷獄の中に、そこだけ別の世界があった。


 白い氷は溶け、黒い石は濡れ、湯気が風に流されている。


 裂け目からは、熱い湯が勢いよく噴き出していた。


「熱い湯が噴き出しています!」


「見りゃ分かる」


 ヴェスパーは近づきすぎない位置で足を止めた。


 湯気が頬に触れる。


 熱い。


 間違いなく、熱い。


 この第九圏で、炉以外の自然の熱を感じるのは妙な気分だった。


「本当に温泉だな」


「これが温泉ですかぁ」


 ブエルが湯気を眺めて、のんびり言った。


「周りの苔が、少し違いますねぇ」


「あとで調べろ。今は近づきすぎるな」


「はいぃ」


 ヴェスパーは湯の裂け目を見た。


「氷の世界の下に、マグマでもあるのか?」


「まぐま、とは?」


 アガレスが問う。


「地面の下にある、どろどろに溶けた熱い岩……みたいなもんだ」


「地獄らしいですね!」


「地獄らしいものが、ようやく下から出てきたな」


 その奥で、ハディンが黒い氷の前に立っていた。


 彼の顔には、煤と湯気と、隠しきれない動揺が混じっている。


 黒い氷の中に、悪魔がいた。


 鉱夫悪魔だ。


 肩に古い作業具をかけ、片腕を岩へ伸ばした姿勢のまま、氷に閉じ込められている。


 その目が、わずかに開いていた。


「ハディン……隊長……?」


 かすれた声だった。


 ハディンの手が止まる。


「……おい」


 湯気の向こうで、凍りついた鉱夫悪魔の唇が震えている。


「お前、生きて……」


 言いかけて、ハディンは歯を食いしばった。


「生きてるなら返事しろ、馬鹿野郎」


「……寒い、です」


「今、温めてやる」


 ハディンの声は荒かった。


 だが、その奥にある感情を、誰も笑えなかった。


 彼はずっと掘っていた。


 閉じ込められた部下たちを助けるために。


 いつ動き出すかも分からない氷と岩を相手に、少しずつ横道を掘り続けていた。


 その部下が、いま、声を出した。


「無理に砕くな」


 ヴェスパーが言った。


 ハディンが振り返る。


「王様」


「熱で緩んでる。力任せに割ると、中のやつまで壊すかもしれない」


「では」


「湯気と炉で温めながら、周囲を削る。外側から少しずつだ」


 ハディンは即座に頷いた。


「部下を頼みます」


「頼まれた」


 ヴェスパーは周囲へ指示を飛ばした。


「ハボリム、温めろ。ただし炙るな。アガレス、氷の状態を見ろ。ザグ、黒石の支柱を組め。崩れる前に支えろ。バティン、足場を固めろ。ハディン、お前は名前を呼び続けろ。意識をつなげ」


「承知しました」


 作業が始まった。


 湯気が黒い氷を舐める。


 ハボリムの火が、弱く、広く、氷の表面を温める。


 ザグが黒石の支柱を組み、バティンが崩れそうな岩盤を押さえる。


 アガレスは氷の紋様を見ながら、緩んだ箇所を示していく。


 ハディンは氷の中の鉱夫悪魔へ声をかけ続けた。


「おい、ラド。聞こえるか」


「……たい、ちょう」


「そうだ。俺だ。寝るなよ」


「……長く、寝てましたか」


「寝過ぎだ。仕事が山ほど残ってるぞ」


「……最悪です」


「生きてりゃな」


 黒い氷に、ぱきりと音が入った。


 鉱夫悪魔の肩が少し自由になる。


 ヴェスパーは手を伸ばし、冷えきった体を支えた。


「ゆっくりだ。急に動くな」


「……ここは」


「第九圏だ」


「知って、ます」


「じゃあ、まず温まれ」


 鉱夫悪魔は笑おうとしたのかもしれない。


 だが、顔はうまく動かなかった。


 それでも、彼はハディンを見た。


「隊長」


「なんだ」


「掘って、くれたんですか」


「当たり前だ」


 ハディンは短く答えた。


「お前らは、俺の部下だろうが」


 その言葉に、鉱夫悪魔の目がかすかに揺れた。


 最初の一人が救出されると、奥の黒い氷から次々と音がした。


 ぱき。


 ぱきり。


 氷の奥で、別の目が開く。


 ハディンの部下だった鉱夫悪魔たちが、温泉の熱で少しずつ目覚め始めていた。


「……増えたな」


 ヴェスパーが呟く。


「増えましたね!」


 アガレスが元気に答える。


「元気に言うな」


「救助対象の増加です!」


「飯と寝床も増えるんだぞ」


「はい!」


「元気に言うなって」


 それでも、悪い話ではなかった。


 温泉は、ただの湯ではなかった。


 鉱山に閉じ込められていた鉱夫悪魔たちを温め、目覚めさせた。


 ハディンの救助作業は、一気に進む可能性が出てきた。


 だが同時に、源泉を放置するわけにもいかなくなった。


 湯は噴き出し続けている。


 湯気は横穴へ流れ、氷を緩めている。


 使い方を間違えれば、崩落も起きる。


 逆に、うまく使えば、救助にも、風呂にも、道にも使える。


 ヴェスパーは鉱山の濡れた床を見た。


「村まで引くか」


「湯を、でございますか?」


 フルカスが聞き返す。


「ああ」


 ヴェスパーは黒石の欠片を拾い、鉱山の床に地図を描き始めた。


「源泉はここ。村はこっち。今ある南道に沿って、湯を引く」


「湯が道を通るのですか?」


「管の中をな」


 アガレスの目が輝く。


「導湯管ですね!」


「名前は後でいい」


「ですが、名前があると記録しやすくなります!」


「じゃあ導湯管でいい」


 アガレスは嬉しそうに記録板へ書き込んだ。


 ヴェスパーは線を引き続ける。


 鉱山源泉。


 湯溜め槽。


 導湯管。


 南道。


 村。


 湯殿。


 そこまで描いたところで、手を止めた。


「問題は排水だな」


「はい?」


 ザグが首を傾げる。


「湯を入れるだけなら方向は分かる。問題は使った後の湯だ」


「流せばいいのでは?」


「どこへ」


「……下へ?」


「雑すぎる」


 ヴェスパーは黒石で地図の下側を叩いた。


「湯は勝手に消えない。入れた分、出ていく。湯殿を作るなら、排水先を決めないと村がぬかるむ。下手すれば湯気と泥と垢まみれの地獄になる」


「それは……少々嫌でございますね」


 フルカスが渋い顔をした。


「少々じゃねぇ」


 アガレスが手を上げる。


「王様。使用後の湯を、源泉へ戻して循環させるのはいかがでしょう」


「却下」


「早い!」


「源泉に戻すな。汚れる」


 アガレスは目を瞬かせる。


「湯が、ですか?」


「体を洗った後の湯だぞ。垢、脂、煤、泥、たぶん血も混じる。そんなもん源泉に戻したら、次から汚れた湯が来る」


「なるほど!」


「循環させるなら、ろ過と浄化がいる。今の設備じゃ無理だ」


「では、捨てるのですか?」


「捨てるのももったいない」


 ヴェスパーはしばらく考え、ふと顔を上げた。


「貯水池があったな」


 以前、村の水回りを整えるために作った貯水池。


 炉の熱で溶けた水や、排水路から流した水を集める場所だ。


 完全に飲み水用というより、水を一時的に溜め、沈め、使い道を分けるための場所として作った。


 あれが使える。


「貯水池へ流す」


「湯を、ですか?」


「ああ。ただし、直接じゃない。沈殿槽を通す」


 ヴェスパーは湯殿の横に四角を描いた。


「ここが沈殿槽。洗い場の排水は一度ここへ落とす。垢や煤や泥を沈める」


「沈ませるだけでよいのですか?」


「完全には無理だ。でも、そのまま流すよりはましだ。上澄みを流して、底の汚れは定期的にさらう」


 ザグがうなずく。


「黒石で囲えば作れますぜ」


「頼む。あと、湯船からあふれた比較的きれいな湯と、洗い場の汚水はできれば分けろ」


「分けるんですかい?」


「一緒にすると全部汚水になる。湯船のあふれ湯はまだ熱が使える。洗い場は汚れが濃い」


 ヴェスパーは地図に二本の排水線を描いた。


 一本は湯船から。


 一本は洗い場から。


 それぞれ沈殿槽を通し、最後は貯水池へ流れる。


「湯は源泉から湯殿まで一方通行だ。戻さない。使った湯は沈殿槽を通して、貯水池へ落とす」


「なるほど」


 アガレスが頷きながら、楽しそうに記録している。


「源泉、導湯管、湯殿、沈殿槽、温排水路、貯水池……」


「楽しそうだな」


「はい! 水利事業です!」


「俺の感覚だと、風呂じゃなくて利水の話になってきたな」


「王様、正式には水利事業でございます!」


「正式名称を増やすな」


 ヴェスパーはさらに地図へ線を加えた。


 湯殿から出た排水路を、ただ貯水池へ向けるだけではない。


 その途中で、温室の床下を通す。


 村と鉱山を結ぶ道の脇も通す。


 湯殿の床下も通す。


「捨てる前に熱を使う」


 ヴェスパーが言うと、バティンが地図を覗き込んだ。


「熱、ですか」


「ああ。湯は汚れても、熱はまだ使える」


 ヴェスパーは温室の区画を指で叩く。


「温室の床下に通せば、暗黒大根やキノコ棚の保温に使える。湯殿の床下を通せば足元が冷えにくい。道の下や脇を通せば、凍りにくい道になる」


「道が凍らなくなるのですか」


「なるだろうな」


「それは便利では?」


「便利だが、問題も出る」


 ヴェスパーは南道を指した。


 鉱山から村へ伸びる道。


 今までは氷の上をそりで滑らせていた。


 石も、魔鉱石も、救助者も、全部そりで運んできた。


 だが、湯の管を通せば、その周辺の氷は溶ける。


 凍っていない道ができる。


 それは歩きやすい道であると同時に、そりが使えない道でもある。


「そりが死ぬな」


「そりが、死ぬ?」


 メルツが不思議そうに聞き返した。


「氷の上だから滑るんだ。土や石の上じゃ滑らねぇ」


「では、石材をどう運びますか」


「車輪をつける」


「しゃりん」


 ザグとメルツが同時にその言葉を繰り返した。


 ヴェスパーは黒石の上に丸を描いた。


「滑らせるんじゃなく、転がす。そりに車輪をつけて、荷車にする」


「そりなのですか、荷車なのですか?」


 アガレスが真顔で聞いた。


「今は両方だ」


「曖昧ですね!」


「現場の過渡期なんてそんなもんだ」


 ザグは地図の横で腕を組み、真剣な顔で丸を見つめた。


「黒石で車輪を作ると重すぎますな」


「だろうな」


「骨だけだと割れます」


「外側に黒鉄の輪を巻け。軸は魔獣骨。軸受けには脂を使う」


「脂?」


「滑りをよくする。濡れた道でも回るようにするんだ」


 メルツの目が輝いた。


「そりを改造すれば、荷台はそのまま使えます」


「そうだ。まずは試作でいい。全部をいきなり変えるな」


 ヴェスパーは地図を見下ろした。


 中央炉から村の中へ伸びる熱管。


 鉱山源泉から南道沿いに伸びる導湯管。


 湯殿から沈殿槽を通り、貯水池へ流れる温排水路。


 排水の途中にある温室保温。


 凍らなくなる南道。


 その道を走る荷車。


 地図の上に、線が増えていく。


 最初は村の中央に火を置いただけだった。


 それが飯場へ伸び、工房へ伸び、温室へ伸び、門や結界へ伸びた。


 今度は鉱山から湯が伸びてくる。


 さらに排水が貯水池へ向かう。


 熱と水と道が、互いに絡み合い始めている。


「……地図が血管みたいになってきたな」


 ヴェスパーが呟くと、アガレスがぱっと顔を上げた。


「王様、第九圏の循環器でございますね!」


「言い方が重い」


「ですが、その通りではありませんか? 中央炉の熱管が村の血管。鉱山源泉の導湯管が南の大動脈。湯殿排水が貯水池へ向かう静脈です!」


「だから言い方が重いんだよ」


 フルカスが地図を見つめたまま、静かに言った。


「しかし、確かに国の形に近づいておりますな」


「風呂の話だぞ」


「風呂から道が生まれ、道から物流が変わり、排水から温室が温まり、貯水池が凍りにくくなる」


 フルカスはわずかに目を細めた。


「それは、もはや風呂だけの話ではございますまい」


「分かってる」


 ヴェスパーは頭をかいた。


「分かってるけど、納得はしたくない」


 クロセルが、いつの間にか記録板を構えていた。


「温泉導水工事、湯殿建設、温排水路整備、南道改修、荷車試作。作業予定に追加いたします」


「さらっと増やすな」


「すでに増えておりますので」


「そうなんだよな」


 ヴェスパーは深く息を吐いた。


 最初は、自分たちの臭さに気づいただけだった。


 誰も体を洗っていないことに気づき、いい加減どうにかした方がいいと思っただけだった。


 なのに、鉱山で源泉が見つかり、鉱夫悪魔たちが目覚め、湯を引くことになり、排水を考え、貯水池を使い、道が溶け、そりが使えなくなり、荷車を作ることになった。


 生活改善とは、なぜいつもこうも芋づる式なのか。


「王様」


 ニムが地図を覗き込んでいた。


「これ、全部作るんですか」


「ああ」


「お風呂のために?」


「最初はな」


「今は?」


 ヴェスパーは地図を見た。


 源泉。


 管。


 湯殿。


 沈殿槽。


 温室。


 貯水池。


 南道。


 荷車。


 どう見ても、風呂だけではない。


「今は、水と熱と道の工事だな」


「お風呂、遠くなりましたか?」


「いや」


 ヴェスパーは黒石の地図に、湯殿の位置を丸く囲んだ。


「風呂は作る」


 そこだけは譲らない。


「絶対に作る」


 アガレスが嬉しそうに笑った。


「王様、本日一番の決意ですね!」


「俺たち、臭すぎて自分でも分からなくなってるからな」


「王様、嗅覚の麻痺を記録しておきますか?」


「するな」


 大工事が始まった。


 鉱山側では、源泉の周囲に黒石の囲いを作り、湯を一度受ける湯溜め槽を組んだ。


 噴き出す湯をそのまま流すと危ない。


 湯量を調整し、石や泥を沈め、導湯管へ流すための場所がいる。


 ザグとバティンが黒石を組み、ハディンの鉱夫悪魔たちが支柱を打ち込む。


 まだ完全には回復していない鉱夫悪魔たちも、湯気に当たりながら少しずつ動き始めていた。


「無理すんな」


 ヴェスパーが言うと、ハディンの部下の一人がかすれた声で笑った。


「鉱夫に、掘るなと言われましても」


「倒れたら運ぶ手間が増える」


「では、倒れない程度に」


「それでいい」


 導湯管は、骨管と黒石管を組み合わせた。


 外側には魔獣皮を巻き、熱が逃げすぎないようにする。


 管の周囲には、徐々に湯気が生まれた。


 凍りついていた南道の脇が、少しずつ濡れていく。


 氷が溶け、黒土と石が顔を出す。


 最初、悪魔たちは喜んだ。


「道ができています!」


「歩きやすいな!」


 だが、すぐに別の声が上がった。


「王様!」


「今度はなんだ」


「そりが進みません!」


「……そりが?」


「道が凍っていません!」


 ヴェスパーは額を押さえた。


「そりって、凍ってるから進むんだな……」


「当然では?」


 アガレスが言った。


「当然なんだが、実感すると悲しいな」


 荷車の試作も始まった。


 そりの荷台を流用し、下に車輪をつける。


 魔獣骨の車軸。


 骨輪。


 黒鉄の外輪。


 軸受けには魔獣の脂。


 ザグとメルツは、ほとんど子供のような顔で試作に没頭していた。


「回りました!」


「そりが転がってるな」


「荷車です!」


「まだそりに見える」


「では、そり車で!」


「変な名前を増やすな」


 試作一号は、ぎこちなく進んだ。


 がたん、と揺れる。


 きしむ。


 たまに車輪が石に引っかかる。


 だが、進んだ。


 凍っていない道の上を、荷物を載せて進んだ。


「……風呂を作ろうとしただけなのに、物流革命が始まったな」


「まだ湯殿は完成しておりません!」


「知ってるよ」


 村側では、湯殿の建設が始まった。


 黒石の湯船。


 洗い場。


 脱衣所。


 小悪魔用の浅湯。


 翼持ち用の広い区画。


 角を壁にぶつけないための注意書き。


 さらに、ヴェスパーは湯殿の設計図を見ながら、当然のように言った。


「男湯と女湯は分ける」


「なぜですか?」


 アガレスが聞いた。


「なぜでもだ」


「文化ですか?」


「最低限の秩序だ」


「悪魔種によって性別の感覚は少々異なりますが」


「それでも分ける」


「後で揉めるから、でしょうか」


「そうだ。分からなくても分ける。あとで揉めるより、最初から分けた方が早い」


 アガレスは記録板に書き込んだ。


「湯殿区分規則ですね!」


「長くするな」


「では、男女別湯殿使用区分規則」


「伸びたぞ」


 ヴェスパーはさらに湯船を指した。


「あと、布は湯に入れるなよ」


 周囲の悪魔たちが一斉に止まった。


「布を?」


「そうだ。布や皮を巻いたまま入るな」


「なぜですか?」


「汚れが湯に入るだろうが」


 悪魔たちは顔を見合わせた。


「湯に入る前に体を洗う。汚れたまま湯船に入るな。湯船は煮込み鍋じゃねぇ」


 ハボリムが目を細める。


「火はよいのう」


「だから風呂を煮るな」


 クロセルとアガレスは、すぐに湯殿利用規則を作った。


 一、男湯と女湯を分ける。


 二、湯に入る前に体を洗う。


 三、布や皮を巻いたまま湯に入らない。


 四、武器を持ち込まない。


 五、湯船で暴れない。


 六、寝ない。


 ヴェスパーは最後の項目を見て頷いた。


「最後が一番大事だ」


「小悪魔は浅湯、翼持ちは広い区画、角持ちは壁に気をつけろ。その辺は現場で分ける」


「王様、規則が口頭で追加されました!」


「全部書くと長いんだよ」


「寝る者が出ますか?」


「絶対に出る」


 その日の夕方。


 鉱山から引いた湯が、初めて村の湯殿に流れ込んだ。


 黒石の湯船に、湯気が立つ。


 白い湯気が天井へ上がり、冷たい空気に触れて薄く広がる。


 悪魔たちは警戒したように湯船を見ていた。


 湯だ。


 熱い水だ。


 それが大きな黒石の器に溜まっている。


 どう見ても、未知の罠に見えるらしい。


「これは風呂だ」


 ヴェスパーは言った。


「体を洗って、湯に入る。疲れが取れる。体が温まる。気持ちいい」


「本当に危険はないのですか」


 バルガンが真剣に聞いた。


「熱すぎたら危険だ」


「敵ではないのですね」


「敵じゃない」


「では、挑みます」


「挑むな。入れ」


 最初に入ったのは、フルカスだった。


 老将軍は湯に足を入れ、しばらく目を閉じた。


 それから、ゆっくりと肩まで浸かる。


 湯気の中で、長い息が漏れた。


「……これは」


「どうだ」


「危険でございますな」


「何がだ」


「出たくありません」


「早いな」


 次にバルガンが入った。


 湯船が大きく揺れる。


「暴れるな!」


「入っただけです!」


「入っただけで波を立てるな!」


 ニムは小悪魔用の浅湯に恐る恐る足を入れた。


 最初はびくりと震えたが、すぐに固まった。


「ニム?」


「……動きたくないです」


「分かる」


 アガレスは湯殿利用規則を読み上げようとした。


「では皆様、湯殿利用にあたっての規則を――」


 誰も聞いていなかった。


 湯に浸かった悪魔たちは、全員、静かになっていた。


 あれほど騒がしかったバルガンすら、湯に肩まで浸かって目を閉じている。


 フルカスは動かない。


 ニムも動かない。


 ハボリムは湯気を眺めて、ひたすら「火はよいのう」と呟いている。


「湯だって言ってるだろ」


 ヴェスパーは自分も湯に浸かった。


 熱が体に染みていく。


 煤も、疲れも、寒さも、何かよく分からない重さも、少しずつほどけていくようだった。


 氷獄の中で湯に浸かる。


 それだけで、妙な勝利感があった。


「王様」


 誰かが言った。


「なんだ」


「これは、危険です」


「何がだ」


「出たくありません」


 ヴェスパーは深く頷いた。


「分かる」


 その頃、天界では。


 白い回廊の奥にある水鏡が、淡く揺れていた。


 水面に映っているのは、第九圏。


 凍りついたはずの地獄の最下層。


 その鉱山の麓から、白い湯けむりが上がっている。


 ガブリエルは、その水鏡をじっと覗き込んでいた。


 もともと、水の気配には敏い。


 清水。


 雨。


 泉。


 涙。


 水に宿る変化を見つけると、どうしても目が離せなくなる。


 まして、それが地獄の最下層に湧いた温かな水となれば、なおさらだった。


「……温かい水?」


 彼女は瞬きをする。


 もう一度、水鏡を覗き込む。


 第九圏に、湯気が上がっている。


 悪魔たちが、湯に浸かっている。


 しかも、妙に気持ちよさそうにしている。


「地獄に、温泉……?」


 ガブリエルの瞳が、きらりと光った。


 そばにいた天使が、不穏な気配を察して顔を上げる。


「ガブリエル様?」


「少しだけなら、見に行ってもいいよね」


「どちらへ」


「第九圏」


「お待ちください」


「すぐ戻るから」


「ガブリエル様?」


 次の瞬間、ガブリエルの姿がふっと消えた。


 白い回廊に、沈黙が落ちる。


 天使はしばらく固まった後、慌てて走り出した。


「ガブリエル様が、姿を消されました!」


 報告を受けたメタトロンは、記録板から目を上げた。


 少しだけ沈黙する。


 そして、いつものように短く言った。


「そうか」


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