第二十九話 氷獄の湯けむり
月日は、少しずつ流れていった。
地獄に時間が生まれ、鐘が鳴り、休息日というものが定められてから、村の暮らしはわずかに落ち着きを見せ始めていた。
もちろん、平和になったわけではない。
西門では、霜牙軍との交易所の準備が続いている。
鍛錬場では、バルガンたちが相変わらずフォルネウスに立ち方を直されている。
温室では暗黒大根が不気味に根を伸ばし、飯場では冥骨粥の鍋が毎日忙しく湯気を上げている。
それでも、以前とは違った。
働く時間があり、飯を食う時間があり、休む時間がある。
倒れるまで働く者は減り、鐘の音で手を止める者も増えてきた。
ヴェスパーは、それを見て少しだけ安心していた。
「……ようやく、生活っぽくなってきたな」
もっとも、生活っぽくなってきたからこそ、見えてくる問題もある。
ヴェスパーはふと、自分の袖をつまんだ。
煤。
土。
魔獣の脂。
炉の煙。
鉱山の粉塵。
いろいろなものが染みついている。
そもそも、この村に来てからまともに体を洗った記憶がない。
いや、記憶どころか、誰かが体を洗っている場面も見たことがない。
雪でこする者はいた。
炉の近くで布を乾かす者もいた。
汚れは凍るから落ちたことにする、という理屈を真顔で言った悪魔もいた。
だが、それは洗ったとは言わない。
ヴェスパーは自分の髪を少し持ち上げた。
長い銀髪は、最初に石棺から出てきた頃よりも、明らかに生活感を帯びている。
悪い意味で。
「……なあ」
「はい、王様」
隣で記録板を抱えていたアガレスが、ぱっと顔を上げた。
「俺たち、風呂入ってなくね?」
「ふろ、ですか?」
「体を洗う場所だ」
「雪ならありますが」
「それは風呂じゃねぇ」
アガレスは不思議そうに首を傾げた。
「では、炉の近くで布を乾かすことでしょうか」
「それも違う」
「では、熱い石を抱いて寝ることでしょうか」
「惜しくもない」
ヴェスパーは深く息を吐いた。
「体を洗うんだよ。汚れを落として、湯に浸かる」
「湯に」
「そうだ」
「体ごと、ですか?」
「そうだ」
「煮るのですか?」
「煮ない」
近くで聞いていたハボリムが、ゆっくり顔を上げた。
「火はよいのう」
「風呂を料理に寄せるな」
ヴェスパーは自分の袖をもう一度見た。
見れば見るほど、ひどい。
「もう臭すぎて、自分でも分からん」
アガレスが真剣な顔で記録板を構えた。
「王様、嗅覚の麻痺を確認しました」
「記録するな」
「重要な生活記録では?」
「不名誉すぎる」
「では、衛生改善項目として」
「言い方を変えても駄目だ」
ヴェスパーは顔をしかめながら、村のあちこちを見た。
悪魔たちは元気になってきている。
働き、食べ、休み、遊ぶようになってきた。
だが、清潔という概念はまだだいぶ怪しい。
服は直した。
寝床も作った。
飯も多少ましになった。
それなら次は、洗う場所がいる。
ヴェスパーがそう考えた時だった。
南の方角から、鉱山担当の悪魔が駆け込んできた。
息を切らし、顔には黒い粉塵がついている。
「王様!」
「今度はなんだ」
「鉱山で、妙なものが見つかりました!」
「妙なものが多いな、この地獄は」
「黒い岩盤の裂け目から、熱い湯が噴き出しています!」
ヴェスパーは黙った。
アガレスも瞬きをした。
フルカスがゆっくりと顔を上げる。
「熱い湯、でございますか」
「はい! 湯気が上がって、周りの氷が溶けています!」
ヴェスパーは、しばらく何も言わなかった。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「……温泉か?」
「おんせん?」
アガレスがまた首を傾げた。
「温かい湯が、地面から自然に湧く場所だ」
「地獄にも、そのようなものがあるのですね!」
「俺も今知った」
報告によると、発見したのはハディンだった。
黒い鉱山では、いまも救助作業が続いている。
鉱山の閉鎖時に取り残された者たちは、まだ全員を助け出せたわけではない。
ハディンは、自分の部下だった鉱夫悪魔たちを救うため、横道を少しずつ掘り進めていた。
無理に大きく掘れば崩れる。
冷えた岩盤は硬く、ところどころに黒い氷が噛んでいる。
だから、一日に進める距離はわずかだった。
それでも、ハディンは止まらなかった。
その横道の先で、岩肌の奥から妙な湿気が漏れていたらしい。
冷たい風ではない。
ぬるく、重く、わずかに硫黄のような匂いのする湿った空気。
さらに奥へ掘り進めた時だった。
岩盤の奥で、低い音がした。
ごぼり、と。
水とも、石とも違う音だった。
「下がれ」
ハディンが反射的に叫んだ直後、黒い岩の裂け目から白い蒸気が噴き出した。
熱風が横穴を叩き、鉱夫悪魔たちが慌てて身を伏せる。
遅れて、熱い湯が岩肌を破るようにあふれ出した。
「……なんだ、これは」
凍りついていた壁が、じゅう、と音を立てて濡れていく。
黒い氷の表面を、湯気が舐める。
さらに、問題はそれだけではなかった。
「ハディンから、もう一つ報告が」
「まだあるのか」
「はい。源泉の熱で、奥の黒い氷が緩み始めています」
鉱山担当の悪魔は、そこで少し声を震わせた。
「閉じ込められていた鉱夫悪魔たちが、目覚め始めているそうです」
「……は?」
「ハディン殿の部下たちです。氷の中で、目を開けた者がいると」
ヴェスパーは片手で顔を覆いかけて、途中でやめた。
臭さを嘆いている場合ではなくなった。
「まじか」
嘆くより先に、やることがある。
「すぐ救援と視察に行くぞ」
「救援と、視察ですか?」
「ああ。先に悪魔だ。湯は逃げても追えるが、目覚めたやつを冷やしたら洒落にならん」
「承知しました!」
ヴェスパーは周囲へ視線を走らせた。
「フルカス、搬送役を集めろ。アガレス、記録。ザグとバティンは工具を持て。ハボリムは温め直しの準備。クロセルは救助者用の寝床と飯の時間を空けろ」
「承知しました」
「鉱山に行く。走れ」
鉱山へ向かう道は、以前よりも整っていた。
石切り場を拠点化し、南道を何度も往復したおかげで、道筋はかなり分かりやすくなっている。
それでも、鉱山周辺は冷える。
黒い岩稜の影に入ると、空気の重さが変わった。
だが、鉱山の奥へ近づくにつれて、別のものが混じり始める。
湿った熱。
湯気。
硫黄に似た匂い。
そして、氷が溶ける音。
黒い岩盤の裂け目から、白い湯気が立ち上っていた。
氷獄の中に、そこだけ別の世界があった。
白い氷は溶け、黒い石は濡れ、湯気が風に流されている。
裂け目からは、熱い湯が勢いよく噴き出していた。
「熱い湯が噴き出しています!」
「見りゃ分かる」
ヴェスパーは近づきすぎない位置で足を止めた。
湯気が頬に触れる。
熱い。
間違いなく、熱い。
この第九圏で、炉以外の自然の熱を感じるのは妙な気分だった。
「本当に温泉だな」
「これが温泉ですかぁ」
ブエルが湯気を眺めて、のんびり言った。
「周りの苔が、少し違いますねぇ」
「あとで調べろ。今は近づきすぎるな」
「はいぃ」
ヴェスパーは湯の裂け目を見た。
「氷の世界の下に、マグマでもあるのか?」
「まぐま、とは?」
アガレスが問う。
「地面の下にある、どろどろに溶けた熱い岩……みたいなもんだ」
「地獄らしいですね!」
「地獄らしいものが、ようやく下から出てきたな」
その奥で、ハディンが黒い氷の前に立っていた。
彼の顔には、煤と湯気と、隠しきれない動揺が混じっている。
黒い氷の中に、悪魔がいた。
鉱夫悪魔だ。
肩に古い作業具をかけ、片腕を岩へ伸ばした姿勢のまま、氷に閉じ込められている。
その目が、わずかに開いていた。
「ハディン……隊長……?」
かすれた声だった。
ハディンの手が止まる。
「……おい」
湯気の向こうで、凍りついた鉱夫悪魔の唇が震えている。
「お前、生きて……」
言いかけて、ハディンは歯を食いしばった。
「生きてるなら返事しろ、馬鹿野郎」
「……寒い、です」
「今、温めてやる」
ハディンの声は荒かった。
だが、その奥にある感情を、誰も笑えなかった。
彼はずっと掘っていた。
閉じ込められた部下たちを助けるために。
いつ動き出すかも分からない氷と岩を相手に、少しずつ横道を掘り続けていた。
その部下が、いま、声を出した。
「無理に砕くな」
ヴェスパーが言った。
ハディンが振り返る。
「王様」
「熱で緩んでる。力任せに割ると、中のやつまで壊すかもしれない」
「では」
「湯気と炉で温めながら、周囲を削る。外側から少しずつだ」
ハディンは即座に頷いた。
「部下を頼みます」
「頼まれた」
ヴェスパーは周囲へ指示を飛ばした。
「ハボリム、温めろ。ただし炙るな。アガレス、氷の状態を見ろ。ザグ、黒石の支柱を組め。崩れる前に支えろ。バティン、足場を固めろ。ハディン、お前は名前を呼び続けろ。意識をつなげ」
「承知しました」
作業が始まった。
湯気が黒い氷を舐める。
ハボリムの火が、弱く、広く、氷の表面を温める。
ザグが黒石の支柱を組み、バティンが崩れそうな岩盤を押さえる。
アガレスは氷の紋様を見ながら、緩んだ箇所を示していく。
ハディンは氷の中の鉱夫悪魔へ声をかけ続けた。
「おい、ラド。聞こえるか」
「……たい、ちょう」
「そうだ。俺だ。寝るなよ」
「……長く、寝てましたか」
「寝過ぎだ。仕事が山ほど残ってるぞ」
「……最悪です」
「生きてりゃな」
黒い氷に、ぱきりと音が入った。
鉱夫悪魔の肩が少し自由になる。
ヴェスパーは手を伸ばし、冷えきった体を支えた。
「ゆっくりだ。急に動くな」
「……ここは」
「第九圏だ」
「知って、ます」
「じゃあ、まず温まれ」
鉱夫悪魔は笑おうとしたのかもしれない。
だが、顔はうまく動かなかった。
それでも、彼はハディンを見た。
「隊長」
「なんだ」
「掘って、くれたんですか」
「当たり前だ」
ハディンは短く答えた。
「お前らは、俺の部下だろうが」
その言葉に、鉱夫悪魔の目がかすかに揺れた。
最初の一人が救出されると、奥の黒い氷から次々と音がした。
ぱき。
ぱきり。
氷の奥で、別の目が開く。
ハディンの部下だった鉱夫悪魔たちが、温泉の熱で少しずつ目覚め始めていた。
「……増えたな」
ヴェスパーが呟く。
「増えましたね!」
アガレスが元気に答える。
「元気に言うな」
「救助対象の増加です!」
「飯と寝床も増えるんだぞ」
「はい!」
「元気に言うなって」
それでも、悪い話ではなかった。
温泉は、ただの湯ではなかった。
鉱山に閉じ込められていた鉱夫悪魔たちを温め、目覚めさせた。
ハディンの救助作業は、一気に進む可能性が出てきた。
だが同時に、源泉を放置するわけにもいかなくなった。
湯は噴き出し続けている。
湯気は横穴へ流れ、氷を緩めている。
使い方を間違えれば、崩落も起きる。
逆に、うまく使えば、救助にも、風呂にも、道にも使える。
ヴェスパーは鉱山の濡れた床を見た。
「村まで引くか」
「湯を、でございますか?」
フルカスが聞き返す。
「ああ」
ヴェスパーは黒石の欠片を拾い、鉱山の床に地図を描き始めた。
「源泉はここ。村はこっち。今ある南道に沿って、湯を引く」
「湯が道を通るのですか?」
「管の中をな」
アガレスの目が輝く。
「導湯管ですね!」
「名前は後でいい」
「ですが、名前があると記録しやすくなります!」
「じゃあ導湯管でいい」
アガレスは嬉しそうに記録板へ書き込んだ。
ヴェスパーは線を引き続ける。
鉱山源泉。
湯溜め槽。
導湯管。
南道。
村。
湯殿。
そこまで描いたところで、手を止めた。
「問題は排水だな」
「はい?」
ザグが首を傾げる。
「湯を入れるだけなら方向は分かる。問題は使った後の湯だ」
「流せばいいのでは?」
「どこへ」
「……下へ?」
「雑すぎる」
ヴェスパーは黒石で地図の下側を叩いた。
「湯は勝手に消えない。入れた分、出ていく。湯殿を作るなら、排水先を決めないと村がぬかるむ。下手すれば湯気と泥と垢まみれの地獄になる」
「それは……少々嫌でございますね」
フルカスが渋い顔をした。
「少々じゃねぇ」
アガレスが手を上げる。
「王様。使用後の湯を、源泉へ戻して循環させるのはいかがでしょう」
「却下」
「早い!」
「源泉に戻すな。汚れる」
アガレスは目を瞬かせる。
「湯が、ですか?」
「体を洗った後の湯だぞ。垢、脂、煤、泥、たぶん血も混じる。そんなもん源泉に戻したら、次から汚れた湯が来る」
「なるほど!」
「循環させるなら、ろ過と浄化がいる。今の設備じゃ無理だ」
「では、捨てるのですか?」
「捨てるのももったいない」
ヴェスパーはしばらく考え、ふと顔を上げた。
「貯水池があったな」
以前、村の水回りを整えるために作った貯水池。
炉の熱で溶けた水や、排水路から流した水を集める場所だ。
完全に飲み水用というより、水を一時的に溜め、沈め、使い道を分けるための場所として作った。
あれが使える。
「貯水池へ流す」
「湯を、ですか?」
「ああ。ただし、直接じゃない。沈殿槽を通す」
ヴェスパーは湯殿の横に四角を描いた。
「ここが沈殿槽。洗い場の排水は一度ここへ落とす。垢や煤や泥を沈める」
「沈ませるだけでよいのですか?」
「完全には無理だ。でも、そのまま流すよりはましだ。上澄みを流して、底の汚れは定期的にさらう」
ザグがうなずく。
「黒石で囲えば作れますぜ」
「頼む。あと、湯船からあふれた比較的きれいな湯と、洗い場の汚水はできれば分けろ」
「分けるんですかい?」
「一緒にすると全部汚水になる。湯船のあふれ湯はまだ熱が使える。洗い場は汚れが濃い」
ヴェスパーは地図に二本の排水線を描いた。
一本は湯船から。
一本は洗い場から。
それぞれ沈殿槽を通し、最後は貯水池へ流れる。
「湯は源泉から湯殿まで一方通行だ。戻さない。使った湯は沈殿槽を通して、貯水池へ落とす」
「なるほど」
アガレスが頷きながら、楽しそうに記録している。
「源泉、導湯管、湯殿、沈殿槽、温排水路、貯水池……」
「楽しそうだな」
「はい! 水利事業です!」
「俺の感覚だと、風呂じゃなくて利水の話になってきたな」
「王様、正式には水利事業でございます!」
「正式名称を増やすな」
ヴェスパーはさらに地図へ線を加えた。
湯殿から出た排水路を、ただ貯水池へ向けるだけではない。
その途中で、温室の床下を通す。
村と鉱山を結ぶ道の脇も通す。
湯殿の床下も通す。
「捨てる前に熱を使う」
ヴェスパーが言うと、バティンが地図を覗き込んだ。
「熱、ですか」
「ああ。湯は汚れても、熱はまだ使える」
ヴェスパーは温室の区画を指で叩く。
「温室の床下に通せば、暗黒大根やキノコ棚の保温に使える。湯殿の床下を通せば足元が冷えにくい。道の下や脇を通せば、凍りにくい道になる」
「道が凍らなくなるのですか」
「なるだろうな」
「それは便利では?」
「便利だが、問題も出る」
ヴェスパーは南道を指した。
鉱山から村へ伸びる道。
今までは氷の上をそりで滑らせていた。
石も、魔鉱石も、救助者も、全部そりで運んできた。
だが、湯の管を通せば、その周辺の氷は溶ける。
凍っていない道ができる。
それは歩きやすい道であると同時に、そりが使えない道でもある。
「そりが死ぬな」
「そりが、死ぬ?」
メルツが不思議そうに聞き返した。
「氷の上だから滑るんだ。土や石の上じゃ滑らねぇ」
「では、石材をどう運びますか」
「車輪をつける」
「しゃりん」
ザグとメルツが同時にその言葉を繰り返した。
ヴェスパーは黒石の上に丸を描いた。
「滑らせるんじゃなく、転がす。そりに車輪をつけて、荷車にする」
「そりなのですか、荷車なのですか?」
アガレスが真顔で聞いた。
「今は両方だ」
「曖昧ですね!」
「現場の過渡期なんてそんなもんだ」
ザグは地図の横で腕を組み、真剣な顔で丸を見つめた。
「黒石で車輪を作ると重すぎますな」
「だろうな」
「骨だけだと割れます」
「外側に黒鉄の輪を巻け。軸は魔獣骨。軸受けには脂を使う」
「脂?」
「滑りをよくする。濡れた道でも回るようにするんだ」
メルツの目が輝いた。
「そりを改造すれば、荷台はそのまま使えます」
「そうだ。まずは試作でいい。全部をいきなり変えるな」
ヴェスパーは地図を見下ろした。
中央炉から村の中へ伸びる熱管。
鉱山源泉から南道沿いに伸びる導湯管。
湯殿から沈殿槽を通り、貯水池へ流れる温排水路。
排水の途中にある温室保温。
凍らなくなる南道。
その道を走る荷車。
地図の上に、線が増えていく。
最初は村の中央に火を置いただけだった。
それが飯場へ伸び、工房へ伸び、温室へ伸び、門や結界へ伸びた。
今度は鉱山から湯が伸びてくる。
さらに排水が貯水池へ向かう。
熱と水と道が、互いに絡み合い始めている。
「……地図が血管みたいになってきたな」
ヴェスパーが呟くと、アガレスがぱっと顔を上げた。
「王様、第九圏の循環器でございますね!」
「言い方が重い」
「ですが、その通りではありませんか? 中央炉の熱管が村の血管。鉱山源泉の導湯管が南の大動脈。湯殿排水が貯水池へ向かう静脈です!」
「だから言い方が重いんだよ」
フルカスが地図を見つめたまま、静かに言った。
「しかし、確かに国の形に近づいておりますな」
「風呂の話だぞ」
「風呂から道が生まれ、道から物流が変わり、排水から温室が温まり、貯水池が凍りにくくなる」
フルカスはわずかに目を細めた。
「それは、もはや風呂だけの話ではございますまい」
「分かってる」
ヴェスパーは頭をかいた。
「分かってるけど、納得はしたくない」
クロセルが、いつの間にか記録板を構えていた。
「温泉導水工事、湯殿建設、温排水路整備、南道改修、荷車試作。作業予定に追加いたします」
「さらっと増やすな」
「すでに増えておりますので」
「そうなんだよな」
ヴェスパーは深く息を吐いた。
最初は、自分たちの臭さに気づいただけだった。
誰も体を洗っていないことに気づき、いい加減どうにかした方がいいと思っただけだった。
なのに、鉱山で源泉が見つかり、鉱夫悪魔たちが目覚め、湯を引くことになり、排水を考え、貯水池を使い、道が溶け、そりが使えなくなり、荷車を作ることになった。
生活改善とは、なぜいつもこうも芋づる式なのか。
「王様」
ニムが地図を覗き込んでいた。
「これ、全部作るんですか」
「ああ」
「お風呂のために?」
「最初はな」
「今は?」
ヴェスパーは地図を見た。
源泉。
管。
湯殿。
沈殿槽。
温室。
貯水池。
南道。
荷車。
どう見ても、風呂だけではない。
「今は、水と熱と道の工事だな」
「お風呂、遠くなりましたか?」
「いや」
ヴェスパーは黒石の地図に、湯殿の位置を丸く囲んだ。
「風呂は作る」
そこだけは譲らない。
「絶対に作る」
アガレスが嬉しそうに笑った。
「王様、本日一番の決意ですね!」
「俺たち、臭すぎて自分でも分からなくなってるからな」
「王様、嗅覚の麻痺を記録しておきますか?」
「するな」
大工事が始まった。
鉱山側では、源泉の周囲に黒石の囲いを作り、湯を一度受ける湯溜め槽を組んだ。
噴き出す湯をそのまま流すと危ない。
湯量を調整し、石や泥を沈め、導湯管へ流すための場所がいる。
ザグとバティンが黒石を組み、ハディンの鉱夫悪魔たちが支柱を打ち込む。
まだ完全には回復していない鉱夫悪魔たちも、湯気に当たりながら少しずつ動き始めていた。
「無理すんな」
ヴェスパーが言うと、ハディンの部下の一人がかすれた声で笑った。
「鉱夫に、掘るなと言われましても」
「倒れたら運ぶ手間が増える」
「では、倒れない程度に」
「それでいい」
導湯管は、骨管と黒石管を組み合わせた。
外側には魔獣皮を巻き、熱が逃げすぎないようにする。
管の周囲には、徐々に湯気が生まれた。
凍りついていた南道の脇が、少しずつ濡れていく。
氷が溶け、黒土と石が顔を出す。
最初、悪魔たちは喜んだ。
「道ができています!」
「歩きやすいな!」
だが、すぐに別の声が上がった。
「王様!」
「今度はなんだ」
「そりが進みません!」
「……そりが?」
「道が凍っていません!」
ヴェスパーは額を押さえた。
「そりって、凍ってるから進むんだな……」
「当然では?」
アガレスが言った。
「当然なんだが、実感すると悲しいな」
荷車の試作も始まった。
そりの荷台を流用し、下に車輪をつける。
魔獣骨の車軸。
骨輪。
黒鉄の外輪。
軸受けには魔獣の脂。
ザグとメルツは、ほとんど子供のような顔で試作に没頭していた。
「回りました!」
「そりが転がってるな」
「荷車です!」
「まだそりに見える」
「では、そり車で!」
「変な名前を増やすな」
試作一号は、ぎこちなく進んだ。
がたん、と揺れる。
きしむ。
たまに車輪が石に引っかかる。
だが、進んだ。
凍っていない道の上を、荷物を載せて進んだ。
「……風呂を作ろうとしただけなのに、物流革命が始まったな」
「まだ湯殿は完成しておりません!」
「知ってるよ」
村側では、湯殿の建設が始まった。
黒石の湯船。
洗い場。
脱衣所。
小悪魔用の浅湯。
翼持ち用の広い区画。
角を壁にぶつけないための注意書き。
さらに、ヴェスパーは湯殿の設計図を見ながら、当然のように言った。
「男湯と女湯は分ける」
「なぜですか?」
アガレスが聞いた。
「なぜでもだ」
「文化ですか?」
「最低限の秩序だ」
「悪魔種によって性別の感覚は少々異なりますが」
「それでも分ける」
「後で揉めるから、でしょうか」
「そうだ。分からなくても分ける。あとで揉めるより、最初から分けた方が早い」
アガレスは記録板に書き込んだ。
「湯殿区分規則ですね!」
「長くするな」
「では、男女別湯殿使用区分規則」
「伸びたぞ」
ヴェスパーはさらに湯船を指した。
「あと、布は湯に入れるなよ」
周囲の悪魔たちが一斉に止まった。
「布を?」
「そうだ。布や皮を巻いたまま入るな」
「なぜですか?」
「汚れが湯に入るだろうが」
悪魔たちは顔を見合わせた。
「湯に入る前に体を洗う。汚れたまま湯船に入るな。湯船は煮込み鍋じゃねぇ」
ハボリムが目を細める。
「火はよいのう」
「だから風呂を煮るな」
クロセルとアガレスは、すぐに湯殿利用規則を作った。
一、男湯と女湯を分ける。
二、湯に入る前に体を洗う。
三、布や皮を巻いたまま湯に入らない。
四、武器を持ち込まない。
五、湯船で暴れない。
六、寝ない。
ヴェスパーは最後の項目を見て頷いた。
「最後が一番大事だ」
「小悪魔は浅湯、翼持ちは広い区画、角持ちは壁に気をつけろ。その辺は現場で分ける」
「王様、規則が口頭で追加されました!」
「全部書くと長いんだよ」
「寝る者が出ますか?」
「絶対に出る」
その日の夕方。
鉱山から引いた湯が、初めて村の湯殿に流れ込んだ。
黒石の湯船に、湯気が立つ。
白い湯気が天井へ上がり、冷たい空気に触れて薄く広がる。
悪魔たちは警戒したように湯船を見ていた。
湯だ。
熱い水だ。
それが大きな黒石の器に溜まっている。
どう見ても、未知の罠に見えるらしい。
「これは風呂だ」
ヴェスパーは言った。
「体を洗って、湯に入る。疲れが取れる。体が温まる。気持ちいい」
「本当に危険はないのですか」
バルガンが真剣に聞いた。
「熱すぎたら危険だ」
「敵ではないのですね」
「敵じゃない」
「では、挑みます」
「挑むな。入れ」
最初に入ったのは、フルカスだった。
老将軍は湯に足を入れ、しばらく目を閉じた。
それから、ゆっくりと肩まで浸かる。
湯気の中で、長い息が漏れた。
「……これは」
「どうだ」
「危険でございますな」
「何がだ」
「出たくありません」
「早いな」
次にバルガンが入った。
湯船が大きく揺れる。
「暴れるな!」
「入っただけです!」
「入っただけで波を立てるな!」
ニムは小悪魔用の浅湯に恐る恐る足を入れた。
最初はびくりと震えたが、すぐに固まった。
「ニム?」
「……動きたくないです」
「分かる」
アガレスは湯殿利用規則を読み上げようとした。
「では皆様、湯殿利用にあたっての規則を――」
誰も聞いていなかった。
湯に浸かった悪魔たちは、全員、静かになっていた。
あれほど騒がしかったバルガンすら、湯に肩まで浸かって目を閉じている。
フルカスは動かない。
ニムも動かない。
ハボリムは湯気を眺めて、ひたすら「火はよいのう」と呟いている。
「湯だって言ってるだろ」
ヴェスパーは自分も湯に浸かった。
熱が体に染みていく。
煤も、疲れも、寒さも、何かよく分からない重さも、少しずつほどけていくようだった。
氷獄の中で湯に浸かる。
それだけで、妙な勝利感があった。
「王様」
誰かが言った。
「なんだ」
「これは、危険です」
「何がだ」
「出たくありません」
ヴェスパーは深く頷いた。
「分かる」
その頃、天界では。
白い回廊の奥にある水鏡が、淡く揺れていた。
水面に映っているのは、第九圏。
凍りついたはずの地獄の最下層。
その鉱山の麓から、白い湯けむりが上がっている。
ガブリエルは、その水鏡をじっと覗き込んでいた。
もともと、水の気配には敏い。
清水。
雨。
泉。
涙。
水に宿る変化を見つけると、どうしても目が離せなくなる。
まして、それが地獄の最下層に湧いた温かな水となれば、なおさらだった。
「……温かい水?」
彼女は瞬きをする。
もう一度、水鏡を覗き込む。
第九圏に、湯気が上がっている。
悪魔たちが、湯に浸かっている。
しかも、妙に気持ちよさそうにしている。
「地獄に、温泉……?」
ガブリエルの瞳が、きらりと光った。
そばにいた天使が、不穏な気配を察して顔を上げる。
「ガブリエル様?」
「少しだけなら、見に行ってもいいよね」
「どちらへ」
「第九圏」
「お待ちください」
「すぐ戻るから」
「ガブリエル様?」
次の瞬間、ガブリエルの姿がふっと消えた。
白い回廊に、沈黙が落ちる。
天使はしばらく固まった後、慌てて走り出した。
「ガブリエル様が、姿を消されました!」
報告を受けたメタトロンは、記録板から目を上げた。
少しだけ沈黙する。
そして、いつものように短く言った。
「そうか」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
もし面白いと感じていただけたら、
ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。
今後ともよろしくお願いいたします。




