第二十八話 氷を捨てぬ者たち
闘技場ができてから、村の空気は少し変わった。
赤黒盤戯の盤を囲んで頭を抱える者がいる一方で、黒石を敷いた広場の隣では、肉体派の悪魔たちが妙に真剣な顔で立っている。
いや、正確には立たされていた。
「違います」
フォルネウスの声が、朝の冷気の中に落ちる。
その前には、バルガンが胸を張って立っていた。
「立っているぞ!」
「立っているだけです」
「立っているだけでは駄目なのか」
「駄目です」
フォルネウスは、まだ完全には戻りきっていない体でありながら、目だけは恐ろしく鋭かった。
黒石の床に線を引き、足の置き方を示す。
「右足を少し引いてください」
「こうか!」
「引きすぎです」
「では、こうか!」
「今度は浅すぎます」
「立つとは難しいな!」
「はい。そこからです」
周囲の肉体派悪魔たちは、なぜか感心したように頷いている。
昨日までなら、彼らにとって立つとは、ただ地面に足を置くことだった。
だが、フォルネウスが言うと違う。
倒れにくい立ち方。
殴りやすい立ち方。
踏み込める立ち方。
止まれる立ち方。
そのすべてが違うらしい。
ヴェスパーは少し離れた場所からその様子を見て、半眼になった。
「立つだけで一日終わりそうだな」
「基礎とは、そういうものにございます」
隣に立つフルカスが、静かに言った。
老将軍は、フォルネウスの指導を見守りながらも、どこか満足そうだった。
「肉体派に、止まることを教える者は貴重でございます」
「突っ込むだけじゃ駄目ってことか」
「はい。突撃は力ですが、停止は技です」
「急に深いこと言うな」
ヴェスパーがぼやくと、フルカスはわずかに笑った。
鍛錬場の整備も進んでいる。
昨日、休息日のはずなのに悪魔たちが趣味と言い張って作り始めた場所だ。
ザグは黒石を運び、バティンは地面を均し、メルツは魔獣皮を縫い合わせて打ち込み用の袋を作っている。ブエルは霜苔を抱えて、受け身用の床に敷く場所を確認していた。
「休息日とはなんだったのか」
「余暇活動です!」
近くで記録板を持っていたクロセルが、当然のように答えた。
「余暇活動で鍛錬場ができるの、だいぶおかしいからな」
「ですが、誰も強制されておりません」
「それはそうなんだよな」
だから止めづらい。
無理やり働かされているなら止める。
倒れるまで働いているなら止める。
だが、悪魔たちは楽しそうに黒石を運び、楽しそうに床を均し、楽しそうに吊り袋を作っている。
それを止める理由がない。
「寝ろよー」
ヴェスパーが一応声をかけると、ザグが笑いながら手を振った。
「終わったら寝ます!」
「終わらせる気あるのか、それ」
そんなやり取りをしていた時だった。
村の西側から、急いだ足音が聞こえてきた。
グレルの配下の一人だった。
犬に似た耳を持つ悪魔が、息を整えるより先に膝をつく。
「王様」
「どうした」
「西側の帰還柱が壊されています」
空気が変わった。
黒石を運んでいたザグの手が止まる。
バルガンが、フォルネウスの前で中途半端な姿勢のまま固まった。
クロセルが記録板を抱え直す。
ヴェスパーは目を細めた。
「事故か?」
「いえ。柱の赤印が削られ、基部が凍らされて割られています。熱を通す接続部も潰されていました」
「物資は」
「奪われていません」
「村への動きは」
「今のところありません」
ヴェスパーは口を閉じた。
西側の帰還柱。
それは、村から西へ伸ばした探索用の目印だった。火の道を伸ばす時、凍土の中で帰る場所を見失わないための柱であり、暖所や休憩地点を広げるための基点でもある。
それが壊された。
しかも、奪うためではない。
熱の流れを切り、赤い印を削り、機能を止めるために壊されている。
「王様!」
バルガンが声を荒げた。
「やはり霜牙軍です!」
その言葉に、周囲の悪魔たちがざわめく。
霜牙軍。
かつて西門を襲撃してきた、氷をまとった悪魔たち。
あの時も西門で戦った。
村は守れたが、あれ以来、霜牙軍は扱いに困る存在だった。
完全な魔物ではない。
話が通じないわけでもない。
だが、こちらへ刃を向けたことは事実だ。
「前に西門を襲った連中でしょう!」
「今度は帰還柱です!」
「放っておけません!」
肉体派の悪魔たちが口々に言う。
当然だった。
一度戦っている。
その相手が、今度は村の外の施設を壊した。
怒るなという方が難しい。
だが、ヴェスパーはすぐには頷かなかった。
「分かってる」
低く言うと、周囲の声が少し静まった。
「一度、西門でやり合ってる。敵意がないとは言わねぇ」
バルガンが拳を握る。
「ならば」
「ただ、今回の動きは妙だ」
「妙、ですか」
クロセルが記録板に視線を落とした。
ヴェスパーは西の方角を見た。
「村を襲うなら、西門に来ればいい。前にもそうしたんだからな」
「はい」
「だが、今回は帰還柱だけだ。物を盗ってもいない。村にも来ていない」
ヴェスパーは指で空中に線を引くように動かした。
「物を盗ったんじゃなく、道を切ったのか」
フルカスが目を細める。
「火の道を、でございますか」
「ああ。あいつらから見たら、帰還柱は火の領域を伸ばす杭に見えたのかもしれない」
バルガンは納得できない顔をしていた。
「それでも壊したのは事実です」
「だから警戒は解かねぇ」
ヴェスパーは、バルガンを見た。
「でも、怒って突っ込むと相手の思うつぼだ。向こうが本当に境界を示してるなら、こっちが大軍で行った時点で戦になる」
バルガンは口を閉じた。
その横で、フォルネウスが一歩前に出る。
「王よ」
「なんだ」
「今までの遭遇情報から見て、霜牙軍はおそらく村の北西側に陣を構えているのでしょう」
「北西か」
「はい。以前の西門襲撃も、今回の西側帰還柱破壊も、どちらも西側の動線を押さえる動きです」
フォルネウスは壊された帰還柱の方角を見た。
「村を潰すことが目的なら、再び西門を攻めればよい。ですが、今回は帰還柱のみを壊している。おそらく、火の道が西へ広がることを止めたいのかと」
「つまり、警告か」
「そう見ます」
ヴェスパーはしばらく考えた。
自分が行けば話は早い。
だが、それは正しいとは限らない。
霜牙軍にとって、ヴェスパーは火を広げている張本人だ。
その火の王が、壊された帰還柱の前に直々に現れる。
それは話し合いではなく、詰問に見えるだろう。
あるいは、報復の前触れに見えるかもしれない。
「俺が行くと話がでかくなるな」
ヴェスパーが言うと、アガレスがぱちぱちと瞬きをした。
「王様が、ですか?」
「あいつらから見たら、俺は火を広げてる張本人だ。その俺が壊された柱の前に出ていけば、圧をかけに来たように見える」
ヴェスパーはフォルネウスへ向き直った。
「ここは下手に刺激しない方がいい」
フォルネウスは静かに膝をつく。
「王よ。何名かお借りして探索し、交渉してまいります」
「それは助かる」
ヴェスパーは素直に頷いた。
「扱いに困ってたんだ。敵対するつもりもないしな」
「承知しました」
「西担当と一緒に行ってくれ。地形も分かるだろうし、壊された帰還柱の場所も案内できる」
「はい」
すかさずバルガンが前に出た。
「王様! 俺も行きます!」
「駄目だ」
「なぜです!」
「お前は交渉に向いてない」
「話せます!」
「声がでかい」
「小さく話します!」
「顔がもう戦争だ」
「顔が……戦争……」
バルガンは真剣に傷ついた顔をした。
周囲の悪魔たちが、気まずそうに視線を逸らす。
フォルネウスだけが、真顔で頷いた。
「確かに、今のバルガン殿は威圧が強すぎます」
「フォルネウスまで!」
「まず立ち方からです」
「ここでもか!」
少しだけ空気が緩んだ。
ヴェスパーはその隙に、交渉隊を決める。
フォルネウスを主担当。
西側探索を担当している悪魔を道案内に。
グレルの配下を索敵役に。
壊された帰還柱の確認のため、ザグかバティンのどちらかを同行させる。
記録役も必要だ。
「クロセル、お前は村に残って、もしもの時の時刻管理と警戒を見てくれ」
「承知しました」
「記録役は一人出せるか」
「はい。交渉記録用に一名つけます」
ヴェスパーは頷いた後、アガレスを見た。
「アガレス」
「はい、王様!」
「契約書を作れ」
アガレスの羽が、ぴんと跳ねた。
「契約書!」
「ああ」
「ついに外交文書ですね!」
「揉めないための紙だ」
「それを外交文書と言います!」
「うるさい」
アガレスは目を輝かせ、すでに何かを書き始めようとしていた。
「表題はいかがいたしましょう!」
「仮契約でいい」
「では、第九圏西門暫定境界および相互交易協定書で」
「長い」
「格式は大切です!」
「読める長さにしろ」
ヴェスパーは地図を広げた。
村。
西門。
以前、霜牙軍と戦った場所。
壊された西側帰還柱。
北西にあると推測される霜牙軍の陣地。
採取班の動線。
火の道。
今後伸ばす予定の道。
それらを指で示しながら、ヴェスパーは考える。
霜牙軍が本当に火を嫌っているなら。
いや、火そのものではなく、火によって変わる環境を恐れているなら。
思い出したのは、村の食糧保管庫を掘った時のことだった。
地下は冷えていた。
炉の熱を通さなければ、冷気が逃げにくい。
地表とは違う。
暖めたい場所と、冷やしておきたい場所は分けられる。
「寒いのが好きなら、地下だな」
ヴェスパーがぽつりと言った。
アガレスが首を傾げる。
「地下、ですか?」
「食糧保管庫を掘った時のことを思い出した。あそこは、熱を通さなきゃ冷えたままだった」
「確かに、食料保存には適しておりました」
「冷気が逃げにくいんだ。だったら、寒い方が生きやすい連中の寝床も作れるかもしれない」
フルカスが静かに頷いた。
「住み分け、でございますな」
「ああ。仲良くしろとは言わねぇ。まず、勝手に踏み込まないことからだ」
ヴェスパーは地図に線を引いた。
「ここからこっちは村側の管理区域。こっちは霜牙軍が使う可能性のある区域。その間に緩衝地帯を置く」
アガレスは真剣な顔で覗き込む。
「境界線ですね!」
「大体でいい。現地で変えてもいい。でも、曖昧なまま帰ってくるな」
「王様、線は文明です!」
「名言みたいに言うな」
ヴェスパーはアガレスに向き直る。
「契約書には、相互不可侵、境界線、帰還柱の扱い、地下寝床の整備、物々交換、西門交易所、破った場合の対応を書いておけ」
「はい!」
「霜牙軍は、こっちの火の道、帰還柱、西門、採取班へ勝手に近づかない」
「はい!」
「こっちは、霜牙軍の陣地、地下寝床、氷脈、冷気管へ勝手に入らない。火も流さない」
「はい!」
「帰還柱は勝手に壊さない。こっちも境界の外へ勝手に伸ばさない」
「はい!」
「交換は西門だ。最初は少量。揉めたらその日の交換は中止」
「はい!」
「あと、契約を破った時の扱いも書け」
「協定停止、境界再協議、悪質な場合は敵対認定、でよろしいでしょうか!」
「怖い言葉を元気に言うな。まあ、そんな感じだ」
アガレスは嬉しそうに記録板へ書き込んでいく。
その横で、ヴェスパーはもう一枚、簡易の設計図を描いた。
地下氷窟。
黒石と氷壁による断熱。
冷気を逃がさない二重扉。
風止め室。
冷気管。
氷を削った寝床。
霜牙軍用の訓練場所。
地上への窓口。
「これは?」
フォルネウスが尋ねる。
「地下寝床の叩き台だ」
「すでに描かれたのですか」
「可能性の話だ。あいつらが本当に熱を恐れているなら見せろ。違う理由なら持ち帰れ」
ヴェスパーは図面の端を叩いた。
「地表は多少暖かくなる。そこは否定しない。俺たちは炉を増やすし、道も伸ばす。そうしなきゃ、凍えて消える連中を救えない」
それから、少し声を落とす。
「でも、冷たい場所まで全部奪う気はない。寒いのが好きなら、地下の寝床を整備する。その代わり、こっちの火の道には近寄るな。境界を決める」
「承知しました」
「あと、フォルネウス」
「はい」
「アガレスを連れていけ。契約と地図はこいつに任せる」
「承知しました」
アガレスが胸を張る。
「外交文書担当として、全力を尽くします!」
「勝手に話を盛るなよ」
「……はい!」
「今、一瞬迷ったな」
「格式を整える程度にします!」
「それを盛るって言うんだ」
フォルネウスは静かに頭を下げた。
その前に、フルカスが一歩近づく。
「フォルネウス」
「はい、フルカス様」
「剣の間合いで話すな」
フォルネウスの目が少しだけ細くなる。
「言葉の間合いを取れ、でございますね」
「そうだ。相手は敵ではない。だが、味方でもない」
「承知しました」
ヴェスパーは最後に、交渉隊全員を見た。
「無理にまとめる必要はない。勝つ必要もない。揉めそうなら引け」
「御意」
「こっちは戦争したいわけじゃない」
ヴェスパーは壊された帰還柱の方角を見る。
「でも、また柱を壊されるのも困る。線を引いてこい」
フォルネウスたちは、西へ向かった。
人数は少ない。
武装も最低限。
前に出るのはフォルネウス。
その横にアガレス。
少し後ろに西側探索担当の悪魔たち。
さらに外側をグレルの配下が警戒し、ザグが壊された帰還柱の確認用具を背負って歩いている。
バルガンは村に残された。
本人は最後まで不満そうだったが、ヴェスパーが「お前が来ると話が始まる前に終わる」と言ったら、しぶしぶ引き下がった。
西側の凍土は、村の近くよりも冷えていた。
帰還柱があった場所に近づくほど、空気の中に鋭い冷気が混じる。
赤く塗られていたはずの印は、氷の刃で削られていた。
柱の基部には白い霜が厚くまとわりつき、熱を通す骨管の接続部が凍って割られている。
ザグが膝をつき、壊れた部分を確認した。
「全部砕いたわけじゃないな」
フォルネウスが頷く。
「警告です」
「警告?」
アガレスが記録板を抱え直す。
「本気で断つなら、もっと砕けます。柱を完全に粉々にすることもできたはずです」
「でも、機能だけを止めた」
「はい。西へ進むな、という意思表示でしょう」
その時、グレルの配下が耳を立てた。
「前方、冷気が濃くなります」
フォルネウスは顔を上げた。
白い霧の向こうに、影があった。
氷をまとった悪魔たち。
青白い角。
鋭い爪。
吐息が白く凍り、足元には薄い霜が広がっている。
その中央に、他より一回り大きな悪魔が立っていた。
氷の鎧のような外殻をまとい、目は冷たい青。
手には、氷でできた長い槍。
彼が一歩進むたび、黒い凍土の表面に白い霜が花のように広がった。
吐き出された息は空中で細かな氷粒になり、ぱらぱらと足元へ落ちる。
周囲の冷気が濃くなり、アガレスが思わず肩をすくめた。
フォルネウスが名を呼ぶ。
「グラスヴァル」
氷の悪魔の動きが止まる。
「……その声」
「久しいな」
「フォルネウス、だと」
グラスヴァルの目が細くなる。
「王都の親衛隊は滅びたはずだ」
「凍っていただけだ」
フォルネウスは静かに答えた。
「王が迎えに来た」
霜牙軍の間にざわめきが走る。
グラスヴァルは、フォルネウスの後ろを見た。
「火の王は来ていないのか」
「王は、そちらを刺激せぬため、ここへ来ぬことを選ばれた」
その言葉に、グラスヴァルはわずかに眉を動かした。
「我らを軽んじたのではないか」
「違う。王は、己が火の象徴であることを理解している」
フォルネウスは一歩も詰めない。
剣の間合いではなく、言葉の間合い。
「王が直々に来れば、前の西門襲撃の詰問に見える。報復の圧力にも見える。だから、まず私を送った」
「……あの王は、そこまで考えるのか」
「少なくとも、無駄に血を流すことを嫌う」
グラスヴァルの視線が、壊された帰還柱へ向く。
「ならば、なぜ火の杭を西へ伸ばす」
「火の杭?」
「それだ」
グラスヴァルは帰還柱を指した。
「赤い印。熱の管。凍土を割る道。あれは火の領域を刻む杭だ」
アガレスが記録板へ急いで書き込む。
フォルネウスは黙って続きを待った。
「火の道が伸びれば、冷気の流れが乱れる。氷脈が歪む。地表が熱を持つ」
「それが、そちらの住処を脅かすと」
「そうだ」
グラスヴァルの声に、怒りが混じる。
「我らは氷の中で生きる。寒さは罰ではない。住処だ。お前たちが炉を増やし、道を伸ばし、地表を暖めれば、我らの子らは弱る。巣は崩れる。氷は腐る」
アガレスの筆が止まった。
霜牙軍は、ただ火を嫌っていたわけではない。
火の道が広がることを、自分たちの生存圏への侵食と見ていた。
前の西門襲撃も。
今回の帰還柱破壊も。
彼らにとっては、侵略への対抗だった。
「我らは氷を捨てぬ」
グラスヴァルが言った。
「火の王に従うため、暖かい土の上で弱れと言うなら、我らは戦う」
フォルネウスは静かに息を吐いた。
「王は、そちらに暖かくなれとは言っていない」
「何?」
「そのために、これを預かってきた」
フォルネウスがアガレスを見る。
アガレスは、少し緊張した顔で一歩前に出た。
「こちらが、王様より預かりました暫定案です」
黒い板が広げられる。
まず地図。
村、西門、壊された帰還柱、北西側の推定陣地、採取班の動線、火の道、緩衝地帯。
そして、もう一枚。
地下寝床の設計図。
グラスヴァルの目が、そこへ落ちる。
「これは」
「地下の寝床です」
アガレスが説明しようとしたが、言葉が弾みすぎそうになったため、フォルネウスが先に口を開いた。
「王は、地表が今後多少暖かくなることを否定しておりません」
霜牙軍がざわつく。
「炉を増やし、道を伸ばさなければ、凍えて消える者を救えない。それも事実です」
「ならば、やはり火は広がる」
「はい」
フォルネウスは隠さない。
「ですが、地下ならば冷気を保てる。王は以前、食糧保管庫を掘った時、地下が冷えを保つことを確認しています」
グラスヴァルは設計図を見つめた。
「黒石の断熱。氷壁。二重扉。風止め室。冷気管……」
アガレスが今度こそ説明を始める。
「地表の熱を直接入れず、氷脈や地底からの冷気を逃がさない構造です。寝床、訓練場、冷気植物の栽培区画も設けられます。地上との接点は限定し、交易窓口を西門に置く予定です」
「我らを地下へ追いやる気か」
グラスヴァルの声が低くなる。
フォルネウスは首を振った。
「違う。地表のすべてを火に変えぬための境界です」
「境界」
「王は、そちらに暖かくなれとは申しておりません。寒い方が生きやすいなら、その場所を守る。ただし、こちらの火の道にも近づかない」
アガレスが契約書を広げた。
「こちらが協定書です」
グラスヴァルが目を細める。
「長い」
「王様にも言われました!」
「なら短くしろ」
「要約版もあります!」
「あるのか」
「はい!」
アガレスは別の板を出した。
そこには短くまとめられていた。
一、互いに無断で踏み込まない。
二、帰還柱を壊さない。
三、地下寝床を整備する。
四、交換は西門で行う。
五、揉めたらまず話す。
六、破ったら協定停止。
グラスヴァルはしばらく黙ってそれを見た。
「西門」
「はい」
アガレスは地図の西門を示した。
「以前、戦闘になった場所です。だからこそ、今度は物々交換の場所にする、と王様は考えておられます」
「交換する品は何だ」
「霜牙軍側からは、氷晶塩、凍った魔物肉、凍魚、冷気植物、氷苔、獣皮、骨、角、氷に慣れた家畜などを想定しています」
グラスヴァルの目がわずかに動いた。
「凍魚まで書いているのか」
「候補です!」
「氷晶塩もか」
「はい! 保存食や加工に使える可能性があります!」
「……火の村が、氷の塩を欲しがるとはな」
アガレスはさらに続ける。
「村側からは、石材、黒石板、鉄材、黒鉄の釘、骨管、工具、皮加工品、簡易炉具、服、加工済みの器などを出せます」
「鉄と工具」
グラスヴァルの声が少しだけ低くなる。
霜牙軍にとっても、それは欲しいものらしい。
「最初は少量交換です。交換記録を残し、問題があれば中止します」
「戦場を、取引の場に変えるというのか」
「はい」
「火の王の考えか」
「はい!」
アガレスが胸を張る。
フォルネウスが補足した。
「王は言っていました。信用はいきなり生えるものではない、と」
グラスヴァルは目を上げた。
「我らを門の外に置くのか」
「最初は、です」
フォルネウスは、ヴェスパーの言葉をそのまま伝える。
「まず門だ。線を引いて、そこで話す」
「線か」
「越えぬための線です」
グラスヴァルは、長い沈黙のあと、設計図へ視線を戻した。
その図は、霜牙軍を追い出すためのものではなかった。
むしろ、彼らが氷を捨てずに残ることを前提にしている。
火の道を止めるのではなく、火の道と氷の寝床を分ける。
互いの境界を決め、接点を西門へ集める。
それは、霜牙軍にとっても初めての提案だった。
「フォルネウス」
「なんだ」
「お前は、火の側についたのか」
フォルネウスは静かに答える。
「違う」
その声に迷いはなかった。
「私は、第九圏の側に戻った」
グラスヴァルの目がわずかに揺れた。
そして、契約書へ手を伸ばす。
「であれば、よいだろう」
アガレスの羽が小さく跳ねた。
「ただし」
グラスヴァルの声が鋭くなる。
「我らは氷を捨てぬ」
フォルネウスは頷いた。
「王もまた、火を消す気はない」
「ならば境界だ」
「ああ」
「西門で話す。だが、裏切れば次は柱では済まぬ」
「こちらも、帰還柱をまた壊されれば協定は止まる」
氷と火の間に、初めて線が引かれた。
それは友好ではない。
同盟でもない。
だが、次に刃を抜く前に見るべき線だった。
フォルネウスたちは村へ戻った。
戻る頃には、鍛錬場の整備も一段落していたらしい。バルガンはまだ立ち方の練習をしており、なぜか足元に黒石で印をつけられていた。
「戻ったか」
ヴェスパーが声をかける。
フォルネウスは膝をつき、報告した。
「霜牙軍隊長格、グラスヴァルと接触いたしました」
「どうだった」
「敵意はあります。ですが、目的は村の壊滅ではなく、火の道の拡大阻止でした」
「やっぱり生存圏か」
「はい。彼らにとって、寒さと氷は生きるための環境です」
アガレスが契約書の控えを差し出した。
「王様! 暫定協定、概ね受け入れられました!」
「概ねってのが怖いな」
「境界線は現地調整が必要ですが、西門交易所については合意の方向です!」
「よし」
ヴェスパーは地図を見た。
前に戦った西門。
そこへ、今度は交易用の場所を作る。
火の側の小屋。
氷の側の待機所。
交換台。
記録台。
境界を示す杭。
どこかで、似たような話を聞いたことがある気がした。
戦っていた相手と、市場を開く。
境界を引き、そこに門を作る。
門の前で、刃ではなく品物を並べる。
記憶は曖昧だった。
前の世界の歴史だったのか、本で読んだだけなのか、それとも誰かの話だったのかは分からない。
ただ、ひとつだけ分かる。
戦場は、放っておけば戦場のままだ。
誰かが別の使い方を決めない限り、そこには次の戦いが戻ってくる。
「西門を整える」
ヴェスパーが言うと、ザグがすぐに反応した。
「交換台なら作れますぜ」
「黒石台もいる。重さを量れるようにしたい」
バティンが頷いた。
「地面は均しておきます」
ブエルが興味深そうに聞く。
「霜牙軍の野菜というのは、どのようなものでしょう」
「俺も知らん。凍ってるんじゃないか?」
「凍った野菜ですか」
「解凍すれば食えるかもしれない」
「調べます」
クロセルはすでに別の板を用意していた。
「西門交易記録台帳を作成します」
「早いな」
「交換日、交換者、品目、数量、状態、問題発生の有無を記録します」
「完全に市場だな」
「市場ですか?」
「たぶんそうなる」
ヴェスパーは西門の方を見た。
あそこは、前に戦場になった場所だ。
氷の悪魔たちが攻めてきて、村の悪魔たちが守った場所。
その場所に、今度は交易所を作る。
「前にやり合った場所だ」
ヴェスパーは静かに言った。
「だからこそ、次はそこで物を交換する」
フルカスが目を伏せる。
「戦場の意味を変える、ということですな」
「ああ」
ヴェスパーは肩をすくめた。
「戦場にしたままなら、また戦場になる。なら、別の使い方を先に作る」
アガレスが感動した顔で記録板を抱きしめた。
「王様、今の言葉も記録してよろしいでしょうか!」
「やめろ。恥ずかしい」
「もう記録しました!」
「早いんだよ」
その日のうちに、西門へ杭が打たれた。
赤黒い火の印ではない。
氷だけの印でもない。
片側に火を示す黒赤の線。
もう片側に氷を示す青白い線。
その間に、何も塗られていない細い空白。
緩衝地帯。
越えないための線。
そこで話すための線。
ザグが黒石の交換台を運び込み、バティンが地面を固める。クロセルは交易記録用の小さな屋根付き台を作らせ、ブエルは持ち込まれるかもしれない野菜や家畜の置き場を考え始めた。
フォルネウスは西門の外を見つめていた。
かつて刃を向け合った場所。
そこに、別の役割が与えられようとしている。
ヴェスパーは、その隣に立つ。
「グラスヴァルは何か言ってたか」
「はい」
「なんて」
「我らは氷を捨てぬ、と」
ヴェスパーは小さく笑った。
「捨てろとは言ってねぇ」
西門の向こう、遠い凍土を見ながら、ヴェスパーは続ける。
「こっちも火を消す気はない」
火と氷の境界に、最初の交易杭が立った。
それはまだ、和解ではなかった。
だが、戦場だった場所に、初めて戦う以外の理由が生まれた。




