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第九圏の欠落王 ―棺の底から始める地獄改革―  作者: カイメイラ
第二章 眠る王都へ続く道

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第二十七話 地獄に闘技場を作る


 赤黒盤戯は、予想以上に流行った。


 休息日の娯楽として作ったはずの盤戯は、気づけば休息日以外にも村のあちこちで話題に上るようになっていた。


 飯場では、器を抱えた悪魔たちが駒の動かし方について言い合っている。


 工房では、ザグが黒石を削りながら、自分の駒の形について熱弁していた。


 見張り台では、グレルが敵の気配を探りながら、斜めから刺し込むナイトの使い方について静かに語っている。


 研究所の隅では、アガレスとクロセルが、すでに何枚目か分からない戦績表を広げていた。


「王様! 赤黒盤戯の勝率をまとめてみました!」


「まとめるの早いな」


「記録は熱いうちに残すものです!」


「鉄みたいに言うな」


 ヴェスパーは、アガレスが差し出した記録板を覗き込んだ。


 名前が並んでいる。


 アガレス、クロセル、グレル、フルカス、ザグ、ニム。


 勝率の高い者は、だいたい考えるのが得意な悪魔だった。罠を読む者、時間を読む者、工程を読む者、相手の癖を見る者。


 逆に、勝率の低い者たちも分かりやすかった。


「……バルガン、勝率低いな」


「勝率というより、突撃率が高いです」


「赤黒盤戯に突撃率を持ち込むな」


 アガレスは楽しそうに羽を揺らした。


「バルガン殿は、すぐポーンを前に出します」


「まあ、出しそうだな」


「そして特攻を使いたがります」


「だろうな」


「しかも、特攻後に自分のポーンが砕けるたび、少し悲しそうな顔をします」


「じゃあ使うなよ」


 ヴェスパーが額を押さえていると、広場の端から重い足音が聞こえてきた。


 バルガンだった。


 普段なら胸を張って歩いてくるはずの大柄な悪魔が、今日は妙に肩を落としている。後ろには同じような肉体派の悪魔たちが数人続いていた。


 全員、どこかしょんぼりしている。


「なんだ、その顔」


 ヴェスパーが聞くと、バルガンは低く唸った。


「王様」


「おう」


「俺の駒は、あんなに強そうなのに、なぜ負ける」


「性能は同じだからだ」


「角を三本にした」


「見た目だろ」


「翼も増やした」


「性能は同じだ」


「鎧もつけた」


「だから性能は同じだって言ってるだろ」


 バルガンは、がっくりと膝をついた。


「見た目で勝てないのか……」


「勝てねぇよ」


 周囲の肉体派悪魔たちも、沈痛な顔で頷いた。


「王様、俺たちは、遊びでも役に立たないのでしょうか」


「重く受け止めすぎだろ」


 ヴェスパーは思わず言った。


 だが、彼らは本気だった。


 赤黒盤戯は楽しい。だが、考える遊びだ。読み合い、誘導、駒の価値、局面の整理。そういうものが得意な悪魔が勝つ。


 腕っぷしや根性や突撃力では、盤上の駒は強くならない。


 それが肉体派には少し堪えたらしい。


 バルガンは拳を握り、真剣な顔で言った。


「王様。俺らに向いている遊びが欲しいです」


 その言葉に、周囲の肉体派悪魔たちが一斉に頷いた。


「体を動かす遊びが欲しいです」


「殴る、いや、殴らないでもいいですが、体を使うやつを」


「勝ったら分かりやすいやつを」


「負けても、もう一回やりたくなるやつを」


 ヴェスパーは、少しだけ口元を緩めた。


「まあ、言うと思ってた」


 バルガンが顔を上げる。


「王様?」


「だから、準備してたぜ」


 その瞬間、肉体派悪魔たちの目が一斉に輝いた。


 ヴェスパーは広場の外れへ向かって歩き出した。


 そこは、村の中心から少し離れた場所だった。飯場や温室からは距離があり、工房への搬入路ともぶつからない。石切り場から運ばれてきた黒石の薄板が、何日も前から少しずつ積まれていた場所だ。


 ヴェスパーが手を上げると、バティンが地面に刻まれた術式へ手をかざした。


 低い音が響く。


 白い霜が払われ、黒い床が姿を現した。


 そこには、薄く切り出された黒石板を敷き詰めた広い空間があった。


 床は四角く整えられ、周囲には低い段差が作られている。さらに外側には、見物用の石段。端には小さな救護所らしき区画があり、黒鉄の鐘が一本、入口近くに吊るされていた。


 床の一部からは、うっすらと暖気が上がっている。


「石切り場から出た薄石板を敷いた。床下には霜苔を入れて、転んでも氷よりはましにしてある。骨管で薄く熱を通してるから、床が凍りつくこともない」


 ヴェスパーは腕を組んだ。


「周りは見物席。端は救護所。外に吹っ飛んだら負けだ」


 バルガンは、ぽかんと口を開けていた。


「これは……」


 ヴェスパーは、少しだけ得意げに言った。


「闘技場だ」


 次の瞬間、肉体派悪魔たちが吠えた。


 歓声というより、戦場の雄叫びに近かった。


 黒石の床が震え、近くにいたニムが両耳を押さえる。


「うるさいです」


「嬉しいらしい」


 ヴェスパーが言うと、ニムは闘技場をじっと見た。


「ここで、殴るんですか」


「一応な。ただし、殺し合いじゃない」


 その言葉に、ヴェスパーは声を少し張った。


「聞け。ここは殺し合いの場じゃない。気晴らしと訓練の場所だ。勝って偉くなる場所でも、負けて腐る場所でもない」


 悪魔たちが静かになる。


「体を動かして、汗をかいて、終わったら飯を食って寝る。そのための場所だ」


 フルカスが静かに頷いた。


「己の力を知り、相手の力を認める場でございますな」


「そういうことだ」


 ヴェスパーは闘技場の床を指差した。


「あと、床を割るな」


「王様、それは俺を見て言っていますか」


 バルガンが聞いた。


「だいたいお前だ」


「承知しました!」


「本当に分かってるか?」


 ヴェスパーは一度息を吐き、周囲を見た。


 悪魔たちはもう闘技場に入りたくてうずうずしている。だが、このまま入れたら、ただの殴り合いになる。


 それは困る。


 せっかく作った遊び場を、その日のうちに戦場に変えられてはたまらない。


「ただ殴るだけじゃ危ない。だから、少し見せる」


「王様が戦うのですか!」


 バルガンの声が跳ねた。


「戦わねぇ。見せるだけだ」


 ヴェスパーは眉間を押さえながら、頭の奥を探った。


 記憶は欠けている。


 自分の名前も、顔も、人生も、ほとんど残っていない。


 それでも、妙な知識だけは残っている。


 仕事の知識。設計の感覚。食事の記憶。道具の使い方。娯楽の断片。


 そして、格闘技の映像。


 テレビか、動画か、何かで見たものだろう。


 自分が習っていたわけではない。専門家でもない。だが、映像としては残っている。


「俺が説明するより、見せた方が早いか」


 ヴェスパーは右手を前に出した。


 黒い魔力が、指先に集まる。


 炎ではない。


 雷でもない。


 記録を呼び出すような、夢の断片を掬い上げるような感覚。


 頭の奥に沈んでいた映像を、薄い膜のように引き出す。


記憶投射(メモリー)


 言葉にした瞬間、闘技場の上に黒い光が広がった。


 光は薄い幕になり、その中に影が映った。


 人影だった。


 拳を前へ突き出す者。


 足を踏み込み、蹴りを放つ者。


 相手の腕を取り、力を流し、倒す者。


 投げられて、床を叩いて受け身を取る者。


 拳だけで打ち合う者。


 蹴りと拳を組み合わせる者。


 丸い囲いの中で向き合う者。


 演武のように型を繰り返す者。


 審判が間に入って止める場面。


 倒れた相手へ手を差し伸べる場面。


 音は曖昧だった。


 文字も読めない。


 だが、動きは見えた。


 悪魔たちは、息を呑んだ。


「王様! これは記録魔法ですか!? 精神魔法ですか!? 幻影魔法ですか!?」


 アガレスが飛び跳ねるように言った。


「知らん。記憶を映してるだけだ」


「だけ、で済ませてよいものではありません!」


 クロセルも、いつになく前のめりだった。


「王様。これは保存できますか」


「できるのか?」


「今、王様ができるようにしたので、おそらく」


「俺のせいにするな」


「格闘記録映像として分類いたします」


「だから名前を増やすな」


 ヴェスパーは映像を見上げた。


「これは……ビデオだな」


「びでお?」


「見て覚える記録だ。よし、まとめておこう。再生できるようにする」


 アガレスの金色の瞳が輝いた。


「格闘技資料、第一巻!」


「巻にするな」


 だが、悪魔たちはもう映像に夢中だった。


「殴っているだけではない……」


「足の置き方で、体が変わるのか」


「倒されても、すぐ起き上がっている」


「相手を殺していないのに、勝敗が決まっている」


 バルガンは、拳を握りしめていた。


 いつものような単純な興奮だけではない。何か知らないものを見つけた子供のような顔だった。


「王様。これは、ただ強いだけではないのですね」


「ああ。たぶんな」


 フルカスは映像を静かに見つめていた。


「殺すためだけの技ではございませぬな」


「分かるのか」


「ええ。これは、壊さぬための技も含んでおります」


 フルカスは、投げられた者が受け身を取り、すぐに立ち上がる映像を見た。


「相手が、次も立てるようにしている」


 ヴェスパーは頷いた。


「たぶん、そうだ。勝ち負けは決める。でも、相手を終わらせるためじゃない」


 その時だった。


 見物人の中から、一人の悪魔がふらりと前へ出た。


 黒い髪。


 まだ血色の戻りきらない顔。


 だが、その瞳だけが、先ほどまでとは別物になっていた。


 彼は映像から目を離さない。


 特に、拳を突き出す武術と、相手の腕を取り、流し、崩す動きをむさぼるように見ていた。


 その悪魔が、ゆっくりとフルカスの前で膝をつく。


「フルカス様」


 フルカスが目を細めた。


「フォルネウスか」


「はい。ご挨拶が遅れて申し訳ございません」


 フォルネウスと呼ばれた悪魔は、静かに頭を下げた。


「つい先ほど、ようやく意識がはっきりいたしました」


「そうか」


 フルカスの声は短かった。


 だが、その奥にはわずかな安堵があった。


「目は戻っているな」


「まだ、剣を握るには足りませぬ」


「焦るな。剣士が最初に取り戻すべきは、腕ではない。己の間合いだ」


 ヴェスパーは、そのやりとりを見て眉をひそめた。


「知り合いか?」


 フルカスは静かに頷いた。


「かつて、ルシファー陛下の親衛隊に名を連ねた剣士でございます」


「親衛隊?」


「隊長格の一人です」


「……で、お前は?」


 フルカスは少しだけ目を伏せた。


「私は、旧第九圏王国の軍務を預かっておりました」


 ヴェスパーは黙った。


 それから、ゆっくりと言う。


「大臣じゃねぇか」


「昔の話でございます」


「昔の話で済ませるな。情報が重い」


 アガレスが横から元気よく補足した。


「フルカス殿は、旧第九圏王国の軍務卿。老将軍であり、王国軍の重鎮です!」


「今言うのか、それ」


「聞かれませんでしたので!」


「聞かれる前に言え。いや、言われても困るが」


 フォルネウスは、そんなやり取りにもあまり反応しなかった。


 彼の目は、再び記憶投射の映像へ向かっていた。


 相手の拳を受け流し、腕を取る。


 力をぶつけず、方向を変える。


 崩す。


 倒す。


 だが、折らない。


 殺さない。


 制圧する。


「王よ」


 フォルネウスが言った。


「なんだ」


「今の動きを、もう一度見せていただけますか」


「どれだ?」


「相手の力を、殺さず、折らず、流した動きです」


 ヴェスパーは少し考え、記憶を探る。


「ああ……合気道っぽいやつか」


「あいきどう」


 フォルネウスは、その言葉を噛みしめるように繰り返した。


 映像がもう一度流れる。


 腕を取る。


 踏み込む。


 相手の力を受け止めず、軌道をずらす。


 相手が自分の力で崩れる。


 フォルネウスの目が、さらに鋭くなった。


「剣を失えば、剣士は終わりだと思っておりました」


「そうなのか」


「少なくとも、私はそう考えておりました。ですが、これは違う」


 フォルネウスは映像の中で倒れた者が立ち上がる姿を見つめる。


「剣がなくとも、守れる」


 その声は、低く熱を帯びていた。


「相手の力さえ、こちらの刃にできる」


 次に、拳を突き出す武術の映像が流れた。


 正拳。


 前蹴り。


 回し蹴り。


 受け。


 型。


 フォルネウスは、それも食い入るように見た。


「腰が先に動いている」


「分かるのか」


「拳だけではありません。地面から力を通している」


「お前、見ただけでそこまで分かるのか」


 フォルネウスは静かに答えた。


「武とは、形が違っても根は同じです」


 バルガンは感動したように拳を握った。


「根が同じなら、俺にもできるか」


「できます。ただし、まず立ち方からです」


「立っているぞ」


「倒れにくい立ち方と、殴りやすい立ち方は違います」


「……違うのか?」


「違います」


 バルガンの目も輝いた。


「教えろ!」


 ヴェスパーは額を押さえた。


「急に先生が増えたな」


「王よ」


 フォルネウスが改めて頭を下げる。


「この闘技場、そして後に作る鍛錬場の設計補助を、私に任せていただけませんか」


「後に作る鍛錬場?」


 ヴェスパーは嫌な予感を覚えた。


 フォルネウスは真剣な顔で続ける。


「試合の場と、鍛える場は分けるべきです。足運びの直線路。間合いを測る円。受け身用の霜苔床。打ち込み用の魔獣皮袋。骨剣の素振り場。気配を読む目隠し場。低い段差を使った足腰の鍛錬場も必要でしょう」


「お前、急に元気になったな」


「申し訳ありません。血が騒ぎました」


「教えるだけで済む顔じゃねぇな」


 フルカスが静かに言った。


「フォルネウス。まだ体は戻りきっておらぬ」


「承知しております。まずは教えるだけに」


「その目で言われても信用しにくいな」


 ヴェスパーがぼやくと、フォルネウスはわずかに目を伏せた。


「努めます」


「努力目標かよ」


 その場に少しだけ笑いが生まれた。


 だが、笑いはすぐに別の歓声へ変わる。


 悪魔たちはもう、今すぐにでも闘技場へ入りたがっていた。


 ヴェスパーは諦めて、黒石の床へ足を踏み入れる。


「分かった。少しだけ、俺も動いてみる」


 周囲がざわついた。


「王様が!」


「王様の演武だ!」


「記録します!」


「やめろ。演武ってほどじゃない」


 ヴェスパーは記憶投射の映像を見上げた。


 拳を構える。


 足を置く。


 腰を落とす。


「こうか?」


 軽く、正拳突きを放つ。


 瞬間。


 ぱきん、と音がした。


 闘技場の中央で、空気が割れた。


 氷ではない。


 石でもない。


 拳の前にあった何かが、透明な膜のように砕けた。


 悪魔たちが、静まり返る。


「……今、何が割れた?」


 バルガンが呟いた。


 アガレスが目を輝かせたまま答える。


「空気だと思います!」


「空気は割れるものなのか」


「普通は割れません!」


 ヴェスパーは自分の拳を見た。


「……魔力、込めてないんだけどな」


 妙な沈黙が流れた。


 ヴェスパーは気を取り直し、足を上げる。


「蹴りは……こうか?」


 軽く前へ蹴る。


 足先から透明な刃のような風が走った。


 かまいたちが闘技場の端へ飛び、黒石柱に細い傷を入れる。


 バティンがその傷を見て、固まった。


「王様! 今のは風属性ですか!?」


 アガレスが叫ぶ。


「知らん。足を出しただけだ」


「足を出しただけで切れました!」


「俺も困ってる」


 ヴェスパーは冷や汗をかきながら、最後に横へ体を回した。


「じゃあ、横からこう……」


 軽く回し蹴り。


 その瞬間、闘技場の中央に風が巻いた。


 霜苔の粉が舞い、黒石の砂が渦を描く。小さな竜巻が生まれ、見物席の手前でごうっと唸ってから、ようやく消えた。


 悪魔たちは大歓声を上げた。


 フルカスは真顔だった。


 フォルネウスも真顔だった。


 クロセルは無言で記録板に何かを書いている。


 ヴェスパーは足を下ろし、呟いた。


「……魔力込めてないんだけどな」


 アガレスが真剣な顔で言う。


「王様の肉体出力そのものが、すでに魔法じみている可能性がございます!」


「それは困る」


「あるいは、王様の記憶にある動きを、魔力が勝手に最適化したのかもしれません!」


「最適化で竜巻を出すな」


 フルカスが一歩前に出た。


「王様」


「なんだ」


「王様は、闘技場の試合に出てはなりませぬ」


「俺もそう思う」


 バルガンが勢いよく手を上げた。


「俺は一度くらい王様と――」


「やめておけ」


 フルカスが即座に止めた。


「死ぬぞ」


 ザグも言った。


「闘技場が」


 バティンが続けた。


「村も危険です」


 ヴェスパーは半眼になった。


「俺じゃなくて村の心配かよ」


「王様はたぶん無事ですので」


 アガレスが胸を張った。


「そこが一番怖いんだよ」


 ヴェスパーは深く息を吐いた。


「よし。ルールを決める。今すぐだ」


 クロセルが筆を構えた。


 アガレスも記録板を抱える。


 フルカスは審判の位置に立った。


「武器禁止。魔法禁止。爪で裂くの禁止。角で刺すの禁止。噛みつき禁止。目潰し禁止。首絞め禁止。見物人へ突っ込むの禁止」


 悪魔たちが少しざわつく。


「噛みつきも駄目ですか」


「駄目だ」


「尻尾は体の一部では?」


「首を絞めるな」


「角は?」


「刺すな」


「頭突きは?」


「角を当てるな。いや、待て。危ないな。要審判判断」


 ヴェスパーは頭を抱えた。


「お前ら、禁止事項を増やす才能がありすぎる」


 クロセルが淡々と記録する。


「禁止事項、追加。記憶映像を見た直後の無断再現は禁止。床に亀裂が入った場合は即中止。風が発生した場合も即中止」


「風が発生したら中止って、なんだよ」


「先ほど発生しましたので」


「俺のせいか」


「はい」


「俺のせいで禁止事項が増えたな」


 アガレスが嬉々として頷いた。


「記録しました!」


「嬉しそうにするな」


 その時、アガレスがさらに手を上げた。


「王様! 勝敗表を作りましょう!」


「また管理項目が増えるのか」


 クロセルも涼しい顔で続けた。


「試合予定、順位表、挑戦記録、防衛回数。すべて管理可能です」


「お前ら、こういう時だけ連携がいいな」


 ヴェスパーは闘技場を見た。


 どうせ盛り上がる。


 なら、揉めるよりは仕組みにした方がいい。


 勝った負けたで喧嘩になるくらいなら、最初から記録する。


 それに、目標があった方が鍛える理由にもなる。


「ランキング形式にする」


 肉体派悪魔たちがざわめいた。


「最初は総当たり戦で順位を決める。そこで初代チャンピオンを決める」


「ちゃんぴおん」


 バルガンがその響きを噛みしめる。


「以後、チャンピオンは防衛戦を行う」


 アガレスが羽を揺らした。


「防衛戦! 良い響きです!」


「そして、チャンピオンが七回防衛したら――」


 ヴェスパーは少し迷った。


 だが、悪魔たちの期待に満ちた目を見て、言ってしまった。


「王様への挑戦権を得る」


 闘技場が爆発したように沸いた。


 バルガンが両拳を突き上げる。


「七回防衛すれば、王様と戦える!」


「戦えるかもしれない、だ。俺が拒否したら延期だ」


「王様と拳を交えるなど、最高の名誉です!」


「俺は嫌なんだが」


 フルカスが静かに言った。


「王様。目標があれば、戦士は鍛錬を怠りませぬ」


「俺を目標にするな」


「すでに、なっております」


 ヴェスパーは口を閉じた。


 アガレスが記録板に大きく書き込んでいる。


「七回防衛。七つの罪を越えし者が、王へ挑む。記録上も美しいです!」


「お前、今ちょっと盛っただろ」


「はい!」


「正直でよろしい」


 クロセルが補足する。


「王様挑戦戦には特別規定が必要です」


「だろうな」


「挑戦者は七回防衛したチャンピオンのみ。フルカス殿、アガレス殿、私の三者承認が必要。王様が拒否した場合は延期。闘技場の補強後でなければ不可。王様は魔力禁止、武器禁止、全力禁止」


「全力禁止は当たり前だ」


「ただし、魔力を込めていないのに発生する空気割れ、かまいたち、竜巻については要協議」


「協議でどうにかなるのか、それ」


 フォルネウスが真剣に言った。


「王よ。まずは、王の動きを封じる術から考える必要があります」


「俺と戦う前提で話を進めるな」


 バルガンが目を輝かせている。


「俺は必ず七回防衛します!」


「まず初戦で勝て」


「はい!」


 その返事は、恐ろしく真っ直ぐだった。


 そして、当然のように次の問題が出た。


「王様」


 ザグが黒石床を見ながら言った。


「ここは試合用だろ」


「そうだな」


「普段から鍛える場所が別にいるな」


 ヴェスパーは無言でザグを見た。


「今なんて?」


「鍛錬場がいる」


 フォルネウスが静かに頷く。


「闘技場は試合の場。日々の鍛錬には、別の場所が必要です」


「休息日だぞ、今日」


「はい」


 バルガンが元気よく言った。


「だから、趣味で作ります!」


「趣味で工事ってなんだよ」


 しかし、もう悪魔たちは動き始めていた。


 ザグは黒石材の配置を見始め、バティンは地面を均す場所を探す。メルツは魔獣皮の吊り袋を作るために、加工場へ走った。ブエルは受け身用に使う霜苔の状態を確認し、ハボリムは骨管の暖気をどこへ通すか考え始めている。


 クロセルは暦板に筆を走らせた。


「休息日、任意鍛錬場整備、と」


「労働っぽく書くな」


「では、余暇活動として」


「余計に怪しい」


 フォルネウスは、まだ完全に戻りきっていない指をゆっくり握った。


 剣はない。


 鎧もない。


 かつて守っていた王都も、今は氷の下だ。


 それでも、足を置く場所がある。


 技を伝える相手がいる。


 鍛える理由がある。


 彼の目には、炉とは別の火が灯っていた。


「まず、足運びの直線路を作ります。次に、間合いを測る円。受け身用の霜苔床は、闘技場より柔らかく。打ち込み用の魔獣皮袋は、バルガン殿用に厚めのものを」


「俺用!」


 バルガンが喜んだ。


「喜ぶところか、それ」


 ヴェスパーは呆れたが、止める気力はもう薄れていた。


 悪魔たちは楽しそうだった。


 赤黒盤戯で頭を使う者がいる。


 闘技場で力を試す者がいる。


 鍛錬場で、自分を鍛えようとする者がいる。


 地獄に、遊びが増えていく。


 それは悪いことではない。


 たぶん。


 ヴェスパーは闘技場と、その隣で生まれつつある鍛錬場を見た。


「まあ……趣味なら仕方ねぇか」


 黒石を運ぶバルガンが、満面の笑みで叫んだ。


「王様! 俺は七回防衛します!」


「だから、まず初戦で勝て」


 フォルネウスがバルガンの足元を見て、静かに言った。


「その前に、立ち方です」


「立っているぞ!」


「そこからです」


 バルガンは真剣に頷いた。


 ザグが黒石を叩く音が響く。


 バティンが床を均す音が続く。


 メルツが魔獣皮を引きずり、ブエルが霜苔を抱えて歩いている。


 休息日だった。


 少なくとも、暦の上では。


 ヴェスパーは肩をすくめた。


「寝ろよー」


 返事はなかった。


 黒石を叩く音と、鍛錬場を作る悪魔たちの楽しそうな声だけが、炉の熱に包まれた第九圏の村に響いていた。


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