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第九圏の欠落王 ―棺の底から始める地獄改革―  作者: カイメイラ
第二章 眠る王都へ続く道

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第二十六話 暗黒大根と赤黒盤戯


 休息日を作った翌日、最初に悲鳴を上げたのは飯場だった。


 もちろん、本当に誰かが悲鳴を上げたわけではない。


 鍋だ。


 広場の端に据えられた大鍋が、いつもより早く底を見せた。


 炉の熱で煮立っていた冥骨粥は、湯気を立てながら悪魔たちの器へ分けられていく。石切り場から戻った者。旧中央広場から救助され、ようやく動けるようになった者。温室のキノコ棚を見に行く者。新しく部門に加わった者。


 列は途切れなかった。


 ハボリムが大きな杓子を鍋の底に当て、ことりと音を鳴らした。


「……鍋が空になるのが早いのう」


 その声には、困惑と、ほんの少しの嬉しさが混じっていた。


 悪魔たちが食えるようになった。


 それは良いことだ。


 凍えて倒れていた者たちが、器を持って並べるようになった。冥骨粥を口に入れ、顔色を取り戻し、仕事の話をするようになった。


 それは間違いなく、良いことだった。


 だが、良いことはたいてい、別の問題を連れてくる。


 ブエルが、採取食料部の小さな記録板を抱えて、のんびりと首をかしげた。


「灰豆も、黒根草も、減りが早いですぅ。キノコも、昨日より棚が寂しいですぅ」


「人が増えたってことは、腹も増えたってことか」


 ヴェスパーは腕を組み、飯場の前に立った。


 鍋の周囲では、悪魔たちが器を抱えて粥をすすっている。薄い顔をしていた救助者たちも、今日は少しずつ声を出し始めていた。


「働き手が増えるのは助かる。だが、食わせられなきゃ意味がねぇな」


「肉をもっと獲ればいいんじゃねぇか?」


 近くにいたバルガンが、当然のように言った。


 ヴェスパーはそちらを見る。


「魔物肉は安定しねぇ。獲れる日はいいが、獲れねぇ日はどうする」


「なら、魔物を囲って飼えばいいだろ」


「家畜か」


 その言葉に、何人かの悪魔が顔を上げた。


 家畜。


 悪くない考えではある。


 肉、乳、毛、骨、皮。うまく回れば食料だけでなく、衣料や素材にもなる。そりを引かせられる獣がいれば、運搬部も助かる。


 だが、ヴェスパーはすぐに首を横へ振った。


「無理だな」


「なんでだよ」


「家畜は餌がいる」


 バルガンが口を閉じた。


 ヴェスパーは広場の外を見る。


 結界の外には、まだ白い氷と黒い石が広がっている。炉と結界で村の周囲は溶け始めているが、それでも草原とは程遠い。


「食料を増やすために、食料を食わせる余裕はねぇ。草もねぇ。餌場もねぇ。今の段階で家畜を増やしたら、俺たちの飯を奪い合うだけだ」


「むう」


「霜苔が増やせれば、霜喰い山羊も飼えるかもしれませんねぇ」


 ブエルがぽつりと言った。


「霜喰い山羊?」


「黒い毛で、氷の角があって、壁を登りますぅ」


「壁を登る家畜は後回しだ」


 ヴェスパーは即答した。


 バルガンが少し興味を持った顔をしたが、そこは見なかったことにする。


「先にやるのは栽培だ」


「栽培、でございますか」


 フルカスが静かに聞き返した。


「ああ。キノコはもう温室で育ててる。だが足りねぇ。温室を増やすぞ」


 ヴェスパーは黒石の地面に靴先で線を引いた。


「第一温室はキノコの増産。第二温室は霜苔と培地作り。第三温室は根菜の試験栽培。灰豆と黒根草は危ないから隔離区画だ」


「灰豆は危ないんですかぁ?」


「弾けるだろ」


「元気ですぅ」


「豆が元気すぎるのは困るんだよ」


 ヴェスパーが言うと、ブエルは楽しそうに笑った。


 すぐに部門長たちが呼ばれた。


 バティンは黒土の出ている場所を見に行き、排水と整地の話を始めた。ザグは黒石の枠と棚、低い囲いを作るために工房へ向かう。ハボリムは炉から伸ばす排熱管の位置を確認し、クロセルは広場の巨大暦板へ新しい作業予定を書き込んでいく。


 暦板には、すでに作業開始、炉点検、運搬日、防衛交代、休息日が並んでいた。


 そこへ新たに、温室増設、霜苔床確認、暗黒大根試験植え、灰豆隔離区画点検という文字が加わる。


「ついに暦が畑に使われたな」


 ヴェスパーが呟くと、クロセルは涼しい顔で筆を止めた。


「栽培記録は暦と非常に相性がよろしいかと。播種、点検、収穫予定。いずれも時の管理でございます」


「まあ、そうだな」


「第九圏王国農事暦として、別枠を設けますか?」


「名前を増やすな。まず育てろ」


「承知いたしました」


 クロセルは少し残念そうに筆を戻した。


 そのときだった。


「王様ぁ」


 のんびりした声が、広場の端から聞こえた。


 ブエルだった。


 両腕に、何か黒いものを抱えている。


 ヴェスパーはそちらへ目を向けた。


 それは、根だった。


 いや、根と呼んでいいのかも怪しかった。


 黒く、太く、ねじれている。表面には皺が寄り、人形のように手足めいた細い根が伸びていた。さらに悪いことに、正面らしき部分には、顔のような模様まで浮かんでいる。


 目のような窪み。


 口のような裂け目。


 全体としては、地面から引きずり出された呪いの人形にしか見えなかった。


 ヴェスパーは思わず一歩下がった。


「なんだその呪いの人形みたいなのは」


「暗黒大根ですぅ」


「大根に謝れ」


 即座に言った。


 ブエルは不思議そうに首をかしげた。


「大根ですぅ」


「その見た目で大根を名乗るな」


「根菜ですぅ」


「根菜界にも限度があるだろ」


 周囲の悪魔たちも、微妙な顔で暗黒大根を見ている。


 ニムはヴェスパーの後ろから顔だけ出し、そっと呟いた。


「……見られてる気がします」


「見るな。目が合うと面倒そうだ」


「目、あるんですか?」


「知らん」


 ブエルは暗黒大根を大事そうに抱えたまま、説明を始めた。


「第九圏の黒土に埋まっている根菜ですぅ。生で食べると舌がしびれますぅ。下処理しないと、少し気分が沈みますぅ」


「食材の説明に精神攻撃を混ぜるな」


「でも、薄く切って煮込むと辛味と甘味が出ますぅ。粥に入れると腹持ちもよくなりますぅ」


 ヴェスパーは暗黒大根を見下ろした。


 見た目は最悪だ。


 最悪どころか、食べ物として認識したくない。


 だが、腹持ちがよくなるという言葉は聞き逃せなかった。


「ハボリム」


「うむ」


「試せるか」


「薄く切って、よく煮ればよかろう」


「頼む。ただし、変な煙が出たらすぐ止めろ」


「火はよいのう」


「煙の話だ」


 ハボリムは暗黒大根を受け取ると、飯場へ持っていった。


 まな板代わりの黒石の上に置かれた暗黒大根は、切られる直前、低く唸ったような音を出した。


「今、鳴ったか?」


「鳴りましたねぇ」


 ブエルがにこにこしている。


「食材が鳴るな」


「新鮮ですぅ」


「新鮮の基準がおかしい」


 薄く切られた暗黒大根は、黒い輪切りになった。


 ハボリムがそれを冥骨粥へ入れ、骨出汁と一緒に煮込む。最初はひどい見た目だった。粥の中に黒い何かが沈んでいるせいで、料理というより儀式に見えた。


 だが、しばらくすると匂いが変わった。


 骨出汁の重い香りの中に、少しだけ辛味が混じる。さらに奥の方に、妙な甘さがあった。


 ヴェスパーは器を受け取り、慎重に一口食べた。


 暗黒大根はほろりと崩れた。


 見た目に反して、味は悪くない。辛味の後に甘味が来る。粥に入れると、腹に残る重さもある。体の奥が少し温まるような感覚もあった。


「……見た目以外は、かなり使えるな」


 ヴェスパーが言うと、周囲の悪魔たちが順番に試食した。


 ニムも小さな器を両手で持ち、恐る恐る食べる。


 黒い輪切りをじっと見てから、眉を寄せた。


「……目が合いそうです」


「もう切られてるから大丈夫だ」


「でも、おいしいです」


「怖いのか、気に入ったのか、どっちだ」


「両方です」


 ヴェスパーは少しだけ笑った。


 別の器を受け取った救助悪魔が、暗黒大根入りの粥を飲み込み、自分の指先を見つめた。


「……少し、熱い」


 その爪は、さっきまで青白かった。


 だが今は、ほんのわずかに赤みが戻っている。


 ヴェスパーはそれを見逃さなかった。


「腹に残るだけじゃねぇな。熱も回るのか」


「暗黒大根は、黒土の熱を溜めますぅ」


 ブエルが得意げに言った。


「名前と見た目以外は優秀だな」


「名前もかわいいですぅ」


「かわいくはねぇ」


 ニムは器を抱えたまま、もう一度暗黒大根を見た。


「おかわり、ありますか?」


「気に入ったのか」


「ちょっとだけ」


 ヴェスパーはブエルを見た。


「これ、増やせるか」


 ブエルは暗黒大根の細根を一本つまみ、にこりと笑った。


「これを栽培できるように、がんばりますぅ」


「……栽培できるのか?」


「たぶんできますぅ」


「たぶんか」


「根っこですのでぇ」


「根っこだからって増えるとは限らねぇだろ」


「増やしますぅ」


「急に力強いな」


 ヴェスパーは黒土の出ている結界内の一角を見る。


 炉の熱で氷が解け、排水溝の近くに湿った黒土が顔を出している。あそこなら、試す価値はある。


「バティン。第三温室はそこだ。霜苔を敷いて、骨粉を少し混ぜる。水は溜めるな。排熱管は近くまででいい。温めすぎると腐る」


「承知しました」


「ザグ。黒石で低い囲いを作れ。逃げるかもしれん」


「大根がか?」


「この見た目だぞ。念のためだ」


「まあ、そうだな」


 ザグが妙に納得した顔で頷いた。


「ブエル。管理は任せる。ただし、収穫時に叫ぶなら先に言え」


「低く鳴くだけですぅ」


「十分だ」


 アガレスが羽を揺らしながら、記録板を抱えていた。


「王様! 地獄農業の始まりですね!」


「農業ってもっと穏やかなもんじゃなかったか」


「暗黒大根、霜苔床、灰豆隔離区画。実に悪魔的です!」


「食料を悪魔的にするな」


「ですが、悪魔が育てる食料です!」


「それはそうだが」


 ヴェスパーは軽く頭を押さえた。


 食料問題はすぐには解決しない。


 だが、方向は見えた。


 キノコを増やす。霜苔を増やす。暗黒大根を試す。灰豆と黒根草も囲って育てる。家畜は、その後だ。


 食料問題には、少なくとも手を打った。


 温室が増え、暗黒大根が根付けば、明日の鍋は今日より少し重くなるかもしれない。


 だが、腹を満たすだけでは、休息日はまだ休息にならない。


 食うものの次は、過ごし方だ。


 ヴェスパーは、温室作りに走り回る悪魔たちを見送りながら、工房の隅へ向かった。


 手元には、黒石を磨いた四角い盤。


 そして、白骨と黒骨で削った小さな駒が並んでいる。


 盤には細い術式を刻んだ。駒に簡単な反応を返す程度のものだ。戦わせるためではない。あくまで演出だ。


 最初に気づいたのはアガレスだった。


「王様、それは何ですか?」


「遊び道具だ」


「遊び道具!」


 アガレスの目が、一瞬で輝いた。


「休息日を作ったはいいが、あいつらは休み方を知らねぇ。だから、座ってできる遊びから作る」


「素晴らしいです!」


「まだ何も説明してねぇだろ」


 ヴェスパーは盤を広げ、駒を並べた。


「これはチェスっていう盤戯だ。駒ごとに動き方が違う。交互に動かして、相手の王を追い詰めたら勝ちだ」


「小さな戦場ですね!」


「まあ、そんなもんだ。ただし、殴るな。盤を壊すな。駒を食うな」


「食べません!」


「念のためだ」


 アガレスは真剣な顔で盤を見つめた。


 動きの説明をすると、理解は早かった。


 さすがは知識の悪魔というべきか、王、兵、塔、騎兵、呪僧、参謀の違いをすぐに飲み込んでいく。


 しかし、説明の途中で、周囲に集まっていた悪魔たちの顔が微妙に曇った。


「……なんだ」


 ヴェスパーが聞くと、アガレスが言いにくそうに白い駒をつまんだ。


「王様。この白い駒は少々……」


「何がだ」


「天使っぽいです」


 周囲の悪魔たちが頷いた。


 フルカスまで、少しだけ苦笑している。


「駒の色でそこまで嫌がるのか」


「白はどうにも、天の側に見えます!」


「敵側の色ってことか」


「はい!」


 ヴェスパーは白い兵を見下ろした。


 ただの骨の色だ。


 だが、悪魔たちにとってはそうではないらしい。


「じゃあ赤にしろ」


 ザグが横から赤い染料の入った皿を出した。


 魔物の血と炉の煤を混ぜたような、深い赤だった。


「準備が早いな」


「白はいけねぇと思ってたんで」


「お前もかよ」


 こうして、白と黒の盤戯は、説明を終える前に赤と黒へ変わった。


 赤黒盤戯。


 アガレスがその名を口にした瞬間、周囲の悪魔たちから妙に納得した声が上がった。


「王様、これ、改良してもいいですか?」


 基本の説明を聞き終えたアガレスが、目を輝かせて言った。


「改良?」


「はい。もう少し悪魔的にできます!」


「悪魔的にする必要あるか?」


「あります!」


「即答かよ」


 ヴェスパーは盤を見下ろした。


 どうせ、普通の遊びをそのまま出しても、こいつらは勝手に変える。


 なら、最初から枠を決めてやらせた方がいい。


「好きにしていいぞ。ただし、遊びとして成立する範囲でな」


「ありがとうございます、王様!」


「まず条件だ。各駒の特殊な力は一局に一度だけ。力を使ったターンは動けない。動くか、力を使うか、どっちかだ」


「代償ですね!」


「調整だ」


「悪魔的です!」


「調整だ」


 アガレスは嬉しそうに赤い兵を並べ直した。


「兵はどうしましょう」


「兵は敵陣の奥まで行ったら騎兵に昇格でいい」


「兵が騎兵に!」


 アガレスが感動したように両手を握る。


「弱き兵が敵陣を越え、跳躍する力を得るのですね!」


「そこまで詩的に言った覚えはねぇが、まあそうだ」


「では、昇格兵は黒騎兵に――」


「赤側もいるだろ」


「では赤騎兵と黒騎兵に!」


「普通だな」


「では堕騎兵と聖骸騎兵に!」


「普通に戻せ」


 周囲から笑いが起きる。


 その中で、バルガンが赤い兵を一つつまみ上げた。


「俺は槍が好きだから、兵は槍だ」


 そう言って、赤い兵に細い骨の槍を持たせる。


「見た目は好きにしろ」


 ヴェスパーは言った。


「ただし、性能は変えるな。槍を持ってるから二マス先を刺せるとか、そういうのはなしだ」


「槍なのにか?」


「槍なのにだ」


「納得いかねぇ」


「遊びが壊れる」


 アガレスは逆に目を輝かせていた。


「王様! つまり、見た目は自由、ルールは同じということですね!」


「そうだ」


「素晴らしいです! 同じ兵でも、持ち主の性格が出ます!」


「それはまあ、そうだろうな」


 ザグが頷いた。


「駒作り、流行るな」


「また工房の仕事が増えるな」


「悪くねぇ」


 職人たちの目が妙に真剣になっている。


 ヴェスパーは少しだけ嫌な予感を覚えたが、もう遅かった。


「兵にも特殊な動きがほしいです」


 アガレスが言った。


「兵にまで持たせるのか」


「一局に一度だけ、自軍の兵のうち一体が、正面の敵を討てるようにしましょう」


「普通は斜めに取るんだがな」


「真正面から敵を討つのです。悪魔的に」


「それは悪魔的というより、ただの特攻だろ」


「では、特攻です!」


「そのまま採用するな」


 ヴェスパーは眉間を押さえた。


「全員がやったら盤面が壊れる。一局に一度、自軍の兵全体で一回だけだ」


「一体だけ……」


「そうだ。しかも特攻なら、その兵も死ぬ」


 アガレスの目がさらに輝いた。


「敵を討ち、自らも盤上から消えるのですね!」


「嬉しそうに言うな」


「悪魔的です!」


「便利な言葉にするな」


 クロセルが静かに記録板を取り出していた。


「赤黒盤戯、暫定規則。各駒の特殊能力は一局に一度。使用時は移動不可。使用済み駒は色調低下。兵の特攻は全兵共有で一局に一度。正面の敵駒を倒し、特攻兵も盤上から除去」


「ずいぶん物騒な記録になったな」


「規則は明確であるほど、争いを防げます」


「遊びの規則で争いを防ぐの、地獄っぽいな」


 ヴェスパーは盤の縁に指を置いた。


 刻んでおいた術式が、赤く淡く光る。


「駒は、盤の上では動く。見た目に応じた戦い方もする。だが効果はルール通りだ。見た目で強さは変わらねぇ」


「動くのですか!」


 アガレスが身を乗り出した。


 ヴェスパーは赤い槍兵を一マス進めた。


 かたり、と駒が震えた。


 次の瞬間、小さな赤い兵は槍を構え、自分の足で盤の上を歩き出した。黒い兵の前で止まり、顔のない頭を上げる。


「おお……」


 ニムが目を丸くした。


 バルガンが身を乗り出す。


「本当に動いたぞ!」


「演出だ」


「演出は大事です!」


 アガレスが羽を震わせる。


 次に、ヴェスパーは黒の兵を斜めに動かした。


 黒い兵が短い刃を抜くように腕を上げ、赤い兵へ飛びかかる。小さな金属音が鳴り、赤い兵が盤の外へ弾かれた。


 広場に、歓声が上がった。


「もう一回だ!」


「まだルール説明中だ」


「特攻を見せろ!」


 バルガンが叫ぶ。


「お前、絶対それ好きだろ」


「好きだ!」


「隠す気もねぇな」


 仕方なく、ヴェスパーは赤い槍兵を黒い塔の正面に置いた。


「特攻だ」


 そう命じた瞬間、赤い槍兵がびくりと震えた。


 そして、ゆっくりと後ろを振り向いた。


 顔はない。


 ないはずなのに、明らかに嫌そうだった。


「……今、嫌がらなかったか?」


「嫌がりましたね!」


 アガレスが嬉しそうに言った。


「嬉しそうに言うな」


 だが、命令は命令だった。


 赤い槍兵は小さく肩を落とすと、槍を構えた。次の瞬間、正面の黒い塔へ突っ込む。


 乾いた衝撃音。


 黒い塔が倒れ、赤い槍兵はその場で砕け散った。


「おおおお!」


 悪魔たちが一斉に歓声を上げる。


 バルガンは拳を握った。


「いいじゃねぇか! 真正面からぶっ倒して死ぬ! 分かりやすい!」


「遊びで死ぬな」


「駒ですので!」


 アガレスが胸を張る。


「そういう問題じゃねぇ」


 ニムは砕けた槍兵の欠片を見て、少し眉を下げた。


「かわいそうです」


「それが普通の感覚だ」


 ヴェスパーは頷いた。


 だが、その直後、盤の端に刻まれた術式が光った。


 対局を終えると、盤外へ転がっていた赤い槍兵の欠片が震え始める。砕けた破片が寄り集まり、折れた槍がつながり、薄れていた赤が戻っていく。


 やがて、赤い槍兵は何事もなかったかのように盤の端へ立った。


「……戻るのか」


「戻ります!」


 アガレスが誇らしげに言った。


「最初に言え」


「驚きがあった方が楽しいかと」


「駒の復元で心臓に悪い演出をするな」


 ヴェスパーは赤い槍兵をつまみ上げた。


 壊れても戻る。


 切られても、砕けても、色が薄くなっても、昇格して騎兵になっても、対局が終われば元に戻る。


「壊れても戻るなら、まあいい」


「何度でも戦えるのです!」


「言い方は物騒だが、遊び道具としては正しいな」


 フルカスが盤面を見つめ、深く頷いた。


「これは、戦術訓練にもなりそうでございますな」


「遊びだぞ」


「遊びであればこそ、繰り返せます」


「……それはそうだな」


 クロセルはすでに規則を増やしていた。


「対局終了時、全駒復元。破損、切断、粉砕、色調低下、昇格状態、すべて初期化。記録しました」


「記録がどんどん物騒になってるな」


「遊戯規則でございます」


 こうして、赤黒盤戯は、広場に放たれた。


 最初は数人が盤を囲んだだけだった。


 だが、小さな駒が歩き、跳び、斬り合い、砕け、また戻る様子を見るうちに、悪魔たちは次々と集まってきた。


 バルガンは槍兵の特攻に熱狂した。


 フルカスは騎兵の使いどころを静かに読み始めた。


 アガレスは改良案を出そうとして、ヴェスパーにそのたび止められた。


 クロセルは暫定規則を広場の端に貼り出した。


 ザグは駒の造形に凝り始めた。


 ニムは小さな骨兵を作り、特攻を命じるかどうかで本気で悩んでいた。


 救助されたばかりの悪魔たちも、最初は遠巻きに見ていたが、やがて笑い出した。


 盤上の小さな戦場で、兵が嫌そうに振り返る。


 そのたびに、悪魔たちは腹を抱えて笑った。


 壊れても戻る。


 負けても、また始められる。


 それだけで、地獄の休息日は少しだけ騒がしくなった。


 ヴェスパーはその輪を少し離れて見ていた。


 食料は、まだ足りない。


 温室は、これから増やす。


 暗黒大根が本当に育つかも分からない。


 赤黒盤戯も、放っておけばどこまで魔改造されるか分からない。


 それでも、村には湯気があり、飯を食う列があり、暦板には作業予定が並び、広場では悪魔たちが遊びで騒いでいる。


 ここはもう、ただ凍えて死を待つ場所ではない。


 少なくとも、そうなり始めている。


 広場では、赤と黒の小さな戦場に悪魔たちが熱狂していた。


 槍兵が突撃し、塔が砕け、呪僧が色を失い、特攻を命じられた兵が嫌そうに振り返る。


 そのたびに、歓声が上がる。


 その輪から少し離れた工房の隅で、ヴェスパーは黒石の欠片を手に取っていた。


「……次は、体を動かす遊びだな」


 広場の歓声を背に、ヴェスパーはもう次のものの制作に取り掛かっていた。


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