第四十四話 失われた楽園の門
パンデモニウム東門へ向かう道は、思った以上に歩きやすかった。
少し前までなら、考えられないことだった。
凍りついた地面。
足を取る雪。
どこに裂け目があるのかも分からない氷原。
それらを警戒しながら進むしかなかった場所に、今は道がある。
霜鋼の柱が一定間隔で並び、赤い印が帰る方向を示している。黒石とレンガで固められた路面はまだ粗いが、そりも荷車も通れる幅があった。ところどころには小さな暖所があり、作業炉を置くための黒石の台座まで作られている。
地獄の最下層に、道ができている。
それだけのことが、ヴェスパーには妙に不思議だった。
「……最初にここを歩いた時とは、別世界だな」
思わず呟くと、隣を歩いていたアガレスがぱっと顔を上げた。
「王様が変えたのです!」
「俺だけじゃねぇよ」
「では、王様がみんなを働かせて変えました!」
「言い方」
ヴェスパーは半眼でアガレスを見る。
だが、否定はできなかった。
村の悪魔たち。
湖底勢。
第九圏探索隊。
工房組。
採取班。
飯場。
水路担当。
そして、山羊に壁を登られて悲鳴を上げていた牧柵担当。
全員が、何かしら働いている。
その積み重ねが、この道だった。
今日の同行者は多すぎないように絞っていた。
アガレス、フルカス、ベリアル、アスタロト、クロセル、グラスヴァル。
それに、探索隊と工房組から数名。
物資を積んだそりと荷車が後ろに続いている。食料、毛布、工具、黒石材、骨材、小型作業炉、結界石。とりあえず一晩は野営できるだけの準備だ。
「本当に開くのでしょうか」
グラスヴァルが前方を見ながら言った。
氷の瞳には、期待と警戒が混じっている。
「開かなきゃ困る」
ヴェスパーは肩をすくめた。
「ここまで道を作って、門の前で解散は嫌すぎる」
「東門は王権を持つ者でなければ開かぬと伝わっております」
フルカスが静かに言う。
「かつて、パンデモニウムの中枢は王権と結びついておりました。王なき者が力ずくで開こうとすれば、門は沈黙し、都市は侵入者として扱ったと」
「物騒な街だな」
「王都でございますので」
「王都ってそういうものなのか?」
「そういうものでございました」
ヴェスパーは顔をしかめた。
「王権が鍵って、紛失したらどうすんだよ」
アガレスが首を傾げる。
「王権は紛失するものなのですか?」
「知らん。でも現場ではだいたい想定外が起きる」
クロセルが記録板に筆を走らせた。
「王権紛失時の運用確認」
「記録するな。嫌な予備項目を増やすな」
「しかし、行政上は重要かと」
「王権なくした王とか嫌だろ」
ベリアルが低く笑った。
「なくせば奪われるだけだ」
「お前は発想が治安悪いんだよ」
「悪魔だからな」
「便利な言葉にするな」
そんな会話をしながら、一行は旧王都東側広場へ入った。
ここは以前から探索隊が資材を集めていた中継地点だった。黒石の広場はまだ氷に覆われている部分も多いが、中央部はすでに整地され、仮置きされた資材が布で覆われている。
広場の片隅には小さな炉が据えられ、赤黒い炎が低く揺れていた。
「休憩だ」
ヴェスパーが言うと、悪魔たちはそれぞれ荷を下ろした。
黒パンと冥骨粥が配られる。
探索隊の悪魔が湯気の立つ粥をすすり、湖底勢の一人が黒パンを硬そうに噛んでいる。
ベリアルは無言で黒パンを割った。
そして、しばらく見つめてから口に入れる。
「……相変わらず見た目は石だな」
「食える石なら上等だろ」
「悪くはない」
「褒め方が硬い」
「パンが硬い」
「うまいこと言ったつもりか」
アスタロトが静かに笑う。
「保存食としては優秀ですね。哭麦の茎も飼料に回せますし、家畜との相性も悪くありません」
「飯が循環し始めたのはでかいな」
ヴェスパーは黒パンをかじりながら、遠くを見た。
東門は、もう近い。
パンデモニウム。
失われた楽園。
ずっと遠くにあった旧都。
ようやく、そこまで来た。
その時、アガレスがふと思い出したように顔を上げた。
「王様」
「なんだ」
「そういえば、王様は最近、ステータスを確認されましたか?」
「ステータス?」
ヴェスパーは黒パンを飲み込んだ。
「見てねぇな」
「見ていないのですか?」
「興味なくて見てなかったわ」
アガレスが目を丸くした。
「王様、ご自身の状態ですよ?」
「腹減ってるか、寒いか、眠いか、怪我してるか。その辺が分かれば十分だろ」
「雑です!」
「現場の確認項目なんて、だいたいそんなもんだ」
クロセルが静かに筆を構えた。
「王様、自己状態確認を怠る傾向あり、と」
「記録するな」
「健康管理上、重要かと」
「俺の健康より、荷車の軸と炉材の数を記録しろ」
「どちらも重要でございます」
「ぐうの音も出ねぇ正論を出すな」
アガレスは少し不満そうに頬を膨らませた。
「ですが、王様の権限や称号に変化があるかもしれませんよ?」
「見たところで飯が増えるのか?」
「増えません」
「寝床は?」
「増えません」
「道は?」
「伸びません」
「なら後でいい」
「王様らしいです」
「褒めてねぇだろ、それ」
アガレスはまだ諦めきれないのか、ちらちらとヴェスパーを見ている。
「でも、少しだけでも……。たとえば、称号とか」
「称号?」
「はい。もしかすると、凍眠から目覚めさせし者、とか」
「まあ、それは分からんでもない」
「天界との交渉人、とか」
「勝手に交渉人にするな」
「魔闘道開祖、とか」
「それも嫌だな」
「汝、隣人に粥を食わせし者、とか」
「待て」
ヴェスパーは黒パンを持ったまま固まった。
「今、明らかに変なの混じったぞ」
「とても立派な称号です!」
「命令形じゃねぇか。あと粥を食わせただけで宗教っぽくするな」
クロセルが筆を構えた。
「汝、隣人に粥を食わせし者――」
「記録するな!」
「王様の慈愛を示す称号かと」
「粥だぞ。ただの炊き出しだぞ」
アガレスは胸を張った。
「地獄では、それが奇跡なのです!」
ヴェスパーは何も言い返せなかった。
火のない場所で凍えていた悪魔たち。
食うものもなく、名を誇る理由すら失っていた者たち。
その彼らに、温かい粥を配った。
ただそれだけのこと。
だが、この第九圏では、ただそれだけのことが、確かに誰かを生かしていた。
「……やめろ。真面目な話にするな」
「王様が照れています!」
「照れてねぇ」
ヴェスパーは黒パンの残りを口へ放り込み、立ち上がった。
「今見るべきなのは、あっちだ」
彼は、遠くに見える巨大な黒い門へ目を向ける。
パンデモニウム東門。
氷に閉ざされた、失われた楽園の入口。
「門を見に行くぞ」
アガレスは記録板を抱え直し、嬉しそうに頷いた。
「はい、王様!」
一行は再び歩き出した。
東側広場を越え、凍った大通りを進む。
やがて、視界の奥に黒い壁が現れた。
最初、それは山かと思った。
だが近づくにつれて、壁ではなく門だと分かる。
巨大すぎる門だった。
左右に広がる黒い城壁。
その中央にそびえる、氷に覆われた大門。
表面には悪魔文字のような紋様が刻まれ、厚い氷の下で黒い金属が眠っている。門の上部は白い霧に隠れ、見上げても端が分からない。
ヴェスパーは足を止めた。
「……でけぇな」
それしか出てこなかった。
アガレスも口を開けている。
「記録より、大きいです」
「お前の記録、負けっぱなしだな」
「実物が強すぎます!」
フルカスは静かに頭を下げた。
ベリアルは腕を組んだまま門を睨む。
アスタロトは懐かしむように目を細めた。
「東門……」
その声には、長い時間が滲んでいた。
ヴェスパーは一歩前へ出た。
門の前に立つ。
風が止まったような気がした。
凍りついた空気の中で、彼の胸の奥にある何かが、わずかに熱を持つ。
王権。
そう呼ばれているものが、反応したのだと分かった。
門に刻まれた紋様へ、黒い光が走った。
一本。
二本。
無数の線が氷の下でつながり、眠っていた巨大な回路が目を覚ますように輝き始める。
次の瞬間。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――。
地鳴りのような音が響いた。
東門を覆っていた氷に亀裂が走る。
白い霜が弾け、黒い氷塊が剥がれ落ちる。門の継ぎ目から古い冷気が噴き出し、凍りついた空気が白い霧になって広がった。
悪魔たちが息を呑む。
探索隊が槍を構えかけ、グラスヴァルが手で制した。
門が動く。
長い年月、閉ざされていたパンデモニウム東門が、氷を砕きながら内側へ開いていく。
「……開いたな」
ヴェスパーは呟いた。
轟音はなお続いている。
石畳が震え、遠くの建物から氷が落ちる。
「開き方がいちいち大げさなんだよ」
アガレスが震えながらも笑った。
「王都ですので!」
「便利な説明だな」
やがて、門の隙間から黒い街並みが見えた。
氷の霧。
凍った大通り。
奥へ伸びる黒石の街路。
そして、その中央に一人の女性が立っていた。
メイド姿だった。
黒と白の衣装。
整えられた髪。
静かな立ち姿。
だが、普通の悪魔ではない。
輪郭がわずかに揺らいでいる。
透けているようにも見える。
しかし、そこにいる。
足元には影があり、呼吸はないのに声がありそうな気配がある。
生者と幽霊の境界に立つような存在だった。
ヴェスパーは思わず言った。
「……おい。幽霊か?」
「いえ」
アガレスの声が、珍しく少し低くなった。
「あれは……懐かしいです」
「知ってるのか」
「都市管理悪魔パンデモニウム」
アガレスは、開いた門の奥を見つめて言った。
「都市の名前と同じですが、都市そのものではありません。王都パンデモニウムの記録、区画、地下道、防壁、王軸塔を管理する悪魔です」
「うぉ……そんな悪魔がいるのかよ」
ヴェスパーが呟くと、メイド姿の女性が静かに一礼した。
その動きは優雅で、どこか古い。
「王のご帰還を、お待ちしておりました」
空気が静まり返った。
ヴェスパーは何とも言えない顔をする。
「帰還って言われても、俺は初めてなんだがな」
「王権を持つ者がこの門を開いた時点で、都市はあなたを王と認識しております」
「本人確認が強引だな」
「王都ですので」
「お前もその説明か」
パンデモニウムは顔色ひとつ変えない。
都市悪魔に顔色があるのかは分からないが、とにかく表情は穏やかなままだった。
「さあ、こちらへどうぞ」
彼女は門の奥へ手を向けた。
「失われた楽園へ」
一行は、東門をくぐった。
その瞬間、ヴェスパーは言葉を失った。
門の内側に広がっていたのは、ただの廃墟ではなかった。
道幅が広い。
村の広場より広い道が、まっすぐ奥へ伸びている。
左右には巨大な建物が並んでいた。行政施設なのか、商館なのか、兵舎なのか、今は判別できない。どれも氷に覆われ、窓は閉ざされているが、崩れてはいない。
街灯のような骨柱が一定間隔で立ち、黒鉄の飾りが氷の中で鈍く光っている。
遠くには、さらに大きな建造物の影があった。
王都。
その言葉が、ようやく実感を伴って落ちてくる。
広い。
ただ広いだけではない。
ヴェスパーの目には、凍りついた建物の一つ一つが、そのまま仕事の塊に見えた。
あの建物は屋根が残っている。風除けになる。
あの広場なら荷を置ける。
あの細い路地は駄目だ。氷が厚すぎる。崩れた時に逃げ道がない。
あの壁際なら炉を置けるかもしれない。
王都の威容に圧倒されながらも、頭の中では勝手に作業手順が組み上がっていく。
「……王都ってのは、大げさじゃなかったんだな」
ヴェスパーが言うと、フルカスが小さく息を吐いた。
「再び、この地に足を踏み入れられるとは」
その声は震えていなかった。
だが、深かった。
ベリアルは黒い石畳を見下ろしている。
「眠っているだけだな」
「死んではいない、か」
ヴェスパーが言うと、ベリアルはわずかに頷いた。
「死んでいれば、ここまで門は開かぬ」
アスタロトが凍りついた建物群を見渡した。
「この都市は、悪魔たちの記憶そのものです。失ったものも、捨てられなかったものも、ここに沈んでいる」
都市悪魔パンデモニウムが静かに続ける。
「この都市はパンデモニウム。失われた楽園です」
「失われた楽園」
ヴェスパーはその言葉を繰り返した。
「どういう意味だ」
「天より落ちた者。楽園を失った者。名を失った者。居場所を失った者。そうした者たちが築いた都市です」
パンデモニウムの声は穏やかだった。
「罰の地でありながら、故郷でもありました」
ヴェスパーは少し黙った。
地獄。
罰。
悪魔。
それらの言葉が、ここでは少し違って見える。
凍りついた街並み。
閉ざされた窓。
眠る建物。
ここには確かに、誰かが暮らしていた。
働き、食べ、眠り、争い、笑い、泣いていた。
それが全部、氷の下に沈んでいる。
「……だったら」
ヴェスパーは歩きながら呟いた。
「失われっぱなしにしておく理由はねぇな」
アガレスが隣で嬉しそうに笑った。
しばらく進むと、街路が大きく開けた。
そこに、塔があった。
王軸塔。
そう呼ぶ以外にないものだった。
黒い骨格と魔鉄が絡み合ったような巨大な塔。
根元は一番街の中央広場に深く食い込み、上部は暗い天井へ向かって伸びている。途中から先は霧と氷に紛れ、どこまで続いているのかも分からない。
都市そのものを貫く柱。
そう呼ぶのが、もっとも近い。
「こちらが一番街。行政区になります」
都市悪魔パンデモニウムが告げた。
「ここが中枢か」
ヴェスパーは王軸塔を見上げた。
返事は、しばらくなかった。
フルカスは石畳に視線を落としている。
ベリアルは腕を組み、沈黙していた。
アスタロトは凍りついた行政区の建物群を見渡し、静かに目を細めている。
アガレスだけが、興奮を抑えきれずに記録板を抱えて震えていた。
「王様……本当に、パンデモニウムです」
「見りゃ分かる」
「記録では知っていました。でも、実物は、規模が、規模が……!」
「語彙が死んでるぞ、知識の悪魔」
「知識が実物に負けています!」
「負けるな」
ヴェスパーは小さく息を吐いた。
広い。
あまりにも広い。
村の広場など、ここの道一本にも満たない。
だが、感動だけしている暇はない。
氷に閉ざされた窓。
霜に埋もれた扉。
ひびの入った石畳。
落ちかけた黒鉄の梁。
どれもこれも、見れば見るほど作業が増える。
王都というより、巨大すぎる現場だった。
「……よし」
ヴェスパーは王軸塔から視線を外した。
そして、いつもの声で言った。
「作業炉をここへ置け。まず暖を取る場所を作る」
その一言で、悪魔たちが我に返った。
ザグが顔を上げる。
グラスヴァルが配下へ合図を送る。
探索隊の悪魔たちが、そりから小型の作業炉を下ろし始めた。
「村に通達。余剰資材はすぐ運び出せるように整理しておいてくれ」
ヴェスパーは指を折りながら続ける。
「旧王都東広場に集めてある物資は、どんどんこっちへ搬入だ。毛布、鍋、工具、骨材、黒石材、結界石、炉材。優先順位をつけろ」
「はい!」
「野営の準備も頼む。今日は戻れるとしても、次からは泊まりになる。飯を作る場所、寝る場所、荷物を置く場所、見張りの位置。全部決めるぞ」
アガレスが目を輝かせた。
「王様、ついに王都復興ですね!」
「違う」
「違うのですか?」
「まずは現場確認だ」
ヴェスパーは凍りついた行政区を見回した。
「どこが使えて、どこが危なくて、どこに寝られて、どこで飯を作れるか。それが分からんうちは、王都じゃなくて巨大な事故物件だ」
「事故物件」
クロセルが記録板へ筆を走らせる。
「パンデモニウム一番街、巨大事故物件――」
「記録するな」
「仮表現として」
「仮でも嫌だ」
ベリアルが低く笑った。
「王都を前にして、最初に考えることがそれか」
「それ以外に何がある」
ヴェスパーは即答した。
「復興は腹が減るし、寒いし、荷物がいる。王都だろうが地獄だろうが、住めなきゃ意味がねぇんだよ」
ベリアルは黙った。
だが、その口元にはわずかな笑みがあった。
ヴェスパーは都市悪魔パンデモニウムへ向き直る。
「パンデモニウム」
「はい、王よ」
「一番街で、今すぐ使える建物を教えてくれ。危ない場所もだ。俺はとりあえず状況確認をする」
都市悪魔は、静かに一礼した。
「承知いたしました。一番街東側三棟は比較的損傷軽微。仮庁舎、記録庫、炊事場への転用が可能です」
「炊事場まで分かるのか」
「都市において、食は行政の一部です」
ヴェスパーは一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。
「いいこと言うじゃねぇか」
作業炉に火が入る。
赤黒い炎が、凍りついた行政区の石畳を照らした。
王都パンデモニウム。
失われた楽園。
その中枢に戻った最初の命令は、軍議でも、征服宣言でもなかった。
暖を取る炉と、野営の準備だった。
◇
同じ頃。
天の高みにある白い会議場では、静かな緊張が満ちていた。
中央には澄んだ水盤が置かれ、その水面には第九圏の光景が映っている。
開かれたパンデモニウム東門。
氷を砕いた黒い門。
その奥へ進む悪魔たち。
王軸塔の前で作業炉を置かせる、銀髪の王。
観測を担う天使が、硬い声で告げた。
「パンデモニウム東門、開門を確認」
水盤の上に、淡い文字が浮かぶ。
「王権反応あり。都市管理悪魔パンデモニウム、再起動を確認」
会議場の空気が、わずかに揺れた。
最初に口を開いたのは、ミカエルだった。
「王都を持つ悪魔の王だ」
白銀の鎧をまとった大天使は、水盤を見下ろす。
「笑って見ていられる段階ではない」
「笑ってはいませんよ、ミカエル」
ラファエルが穏やかに返した。
その視線もまた、水盤の中のヴェスパーへ向いている。
「ただ、あの王がまず動かすのは、軍ではなく鍋と炉でしょう」
「鍋?」
「ええ。彼はそういう者です」
ミカエルは眉を寄せた。
「王軸塔が動き、都市悪魔が目覚めた。第九圏は、ただの辺境ではなくなったのだぞ」
「それは分かっています」
ラファエルは静かに頷いた。
「ですが、パンデモニウムへ到達した彼が最初に命じたのは、暖を取る場所と物資搬入でした」
水盤の中で、悪魔たちが作業炉を運んでいる。
玉座へ向かう者はいない。
兵を並べる者もいない。
毛布と鍋と工具が、次々とそりから下ろされていく。
ガブリエルが少し身を乗り出した。
六枚の羽が柔らかく揺れる。
「あの王様、ご飯を作るだけで大変そうでしたよ?」
ミカエルが彼女を見る。
「悪魔たちに食べさせて、眠らせて、働きすぎを止めて、道を作って、畑を見て、山羊を捕まえて……」
「山羊?」
「山羊です」
ガブリエルは真面目な顔で頷いた。
「天に攻める余裕なんて、まだないと思います」
少し間を置いて、彼女は付け加える。
「それに、あの人は壊すより、直す方に忙しそうです」
ウリエルは、しばらく黙っていた。
青い瞳が、水盤の中の第九圏を見つめている。
やがて、短く言った。
「そうだといいのだがな」
会議場が静まる。
「善意で始まったものが、力を持った時に何へ変わるかは分からぬ。パンデモニウムの復活とは、それほどの意味を持つ」
その言葉に、誰もすぐには反論しなかった。
火を灯すこと。
飯を作ること。
寝床を整えること。
それらは小さな善意かもしれない。
だが、それが都市を動かし、王都を復活させ、悪魔たちを束ねるなら。
それは、力になる。
最後に、メタトロンが口を開いた。
「観察を続けなさい」
天の書記官の声は、白い会議場に静かに落ちた。
「必要に応じ、視察も許可します。ただし、目的を履き違えぬように」
そこで、わずかに間が空いた。
「文化観察、衛生設備、休息施設。そうした名目で、任務以上に長居することのないように」
ラファエルが静かに視線を逸らした。
ガブリエルの羽が、ぴくりと揺れた。
「……衛生設備の観察は、重要だと思います」
「ガブリエル」
「はい」
メタトロンは水盤へ目を戻した。
パンデモニウムの門は、すでに開いている。
天は、その光景を見下ろしていた。
◇
同じ頃。
地獄の深い場所で、六つの影が黒い円卓を囲んでいた。
中央には、黒い水鏡がある。
揺らめく水面には、第九圏の旧都が映っていた。
開かれた東門。
砕け落ちた氷。
王軸塔へ伸びる行政区。
そして、都市管理悪魔パンデモニウムに案内される銀髪の王。
「おいおい」
最初に声を上げたのは、レヴィアタンだった。
彼女は頬杖をつき、黒い水面を覗き込みながら、面白そうに笑っている。
「本当にパンデモニウムまでついてるじゃん」
軽い声だった。
だが、円卓の空気は軽くならなかった。
サタンが黒鉄の籠手で卓を叩く。
「笑い事ではない」
「笑ってないよ。ちょっと楽しいだけ」
「同じだ」
サタンの赤い瞳が、水鏡の中の東門を睨んだ。
「あれはただの門ではない。パンデモニウムの正門だ。王軸塔が動き、都市悪魔が目覚め、旧都が王を認めた」
サタンは低く言う。
「第九圏は、死んだ土地ではなくなった」
マモンが、指に嵌めた金の輪を鳴らした。
「倉庫、地下道、記録庫、旧王の宝物庫。眠っているものは、さぞ多いでしょうね」
「欲しいのか」
アスモデウスが笑う。
艶やかな女の声だった。
「欲しくないと思われているなら、心外ですね」
マモンは優雅に微笑んだ。
その横で、ベルゼブブは小さな黒い菓子を口へ運んでいる。
「黒パンというものが、できたそうですね」
「そこか」
サタンが低く言った。
「そこです。地獄で新しい主食が生まれました。これは大事件です」
「パンデモニウムよりか?」
「食は都市を支えますので」
意外にも、誰もすぐには否定しなかった。
黒い水鏡の中では、悪魔たちが荷を運び、炉を置き、野営の準備を始めている。
その全てを支えるのは、結局のところ飯だ。
アスモデウスが水鏡を覗き込み、紅い唇に笑みを浮かべた。
「湯殿もあるのでしょう? あの氷獄に湯気が立つなんて、少し見てみたいわね」
「天使と同じことを言うな」
サタンが吐き捨てる。
「失礼ね。こちらの方が正当な興味よ」
レヴィアタンがくすくす笑った。
「でもさぁ」
彼女は黒い水鏡の中の第九圏を指差した。
「なんであいつらだけ楽しそうなんだ?」
円卓に沈黙が落ちる。
「火を囲んで、飯を食って、湯に浸かって、パンを焼いて、山羊飼って、今度は王都」
レヴィアタンは肩をすくめる。
「地獄で何してんの、あれ」
「改革だろう」
マモンが言った。
「腹立つ言い方をするな」
ベルフェゴールは寝台に横たわったまま、半分だけ目を開けた。
「面倒だな」
「お前はいつもそれだな」
「第九圏が動き出せば、こちらにも仕事が増える。仕事が増えることを喜ぶ方がおかしい」
サタンは舌打ちした。
「天使さえ、ちょくちょく来なければな。とっくに第九圏へ行っている」
「行けばいいじゃない」
アスモデウスが気軽に言う。
「行けるなら行っている」
サタンの声に苛立ちが混じった。
「今の第九圏は、天の目が多すぎる。視察だの観察だの、鬱陶しい」
「天使にも人気なんだねぇ」
レヴィアタンが笑う。
「くそが」
黒い水鏡の中で、ヴェスパーは玉座に向かってはいなかった。
作業炉を置かせ、資材を運ばせ、野営の準備を命じている。
レヴィアタンが、また笑った。
「王都に入って最初が、暖房と荷物整理かぁ」
彼女は頬杖をついたまま、楽しそうに言う。
「やっぱ楽しそう」
「楽しそうに見えるのが、余計に腹立たしい」
サタンが吐き捨てた。
やがて、六つの視線は円卓の一角へ向いた。
そこには、誰も座っていない。
砕けた背もたれ。
欠けた黒い翼の意匠。
今もなお、誰も直さず、誰も座らない席。
ルシファーの席。
サタンが低く言った。
「お前の都だぞ」
空席は答えない。
黒い水鏡の中では、失われた楽園の門が開いている。
「いなくなっても、結局そこへ戻るのか」
サタンの拳が、円卓を軋ませる。
「本当に、腹立たしいやつだ」
その声に答える者はなかった。
ただ、黒い水鏡の中で、パンデモニウムの門だけが静かに開いていた。
◇
さらに深く。
光も、音も、時さえも沈む闇の底で、ひとりの女が目を開いた。
そこには空もない。
大地もない。
時間の流れさえ、ひどく曖昧だった。
深淵。
魂の理から外れたものを沈める、名もなき牢獄。
その闇の中で、リリスは静かに顔を上げた。
「……ついに、そこまでたどり着いたのね」
声は誰にも届かない。
けれど、その口元には微かな笑みがあった。
「予想より、はるかに速い」
ヴェスパーはパンデモニウムへ辿り着いた。
火を灯し、道を敷き、飯を作り、悪魔たちを起こし、失われた楽園の門を開いた。
ならば。
「これなら……」
リリスは、闇の奥で小さく息を吐いた。
祈りにも似た声で、その名を呼ぶ。
「頼んだわよ」
深淵の闇が、わずかに震えた。
「ヴェスパー」
◇
その頃、パンデモニウム一番街では、小さな作業炉の火が揺れていた。
赤黒い炎は、凍りついた石畳を照らし、王軸塔の根元に淡い光を投げている。
ヴェスパーはその火の前で、広げた地図を覗き込みながら、また一つ線を引いた。
「まずは、ここからだ」
失われた楽園に、最初の火が灯った。
第二章 完
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