第二十四話 村時間、第一刻
帰還柱の赤い光が、吹雪の向こうに見えた。
最初は、ただの点だった。
白い風にかき消されそうな、小さな赤い火。
けれど、それが見えた瞬間、隊列の空気がわずかに緩んだ。
帰る場所がある。
それだけで、足取りは変わる。
「見えたぞ!」
そりを押していたバルガンが声を上げた。
「村の帰還柱だ!」
「叫ぶな。そりが揺れる」
ヴェスパーは白い息を吐きながら言った。
隊列は重かった。
行きには資材と道具を積んでいたそりに、今は凍った悪魔たちが眠っている。
氷の塊ごと毛布と皮に包まれ、作業用運搬炉の熱に守られながら、ゆっくりと運ばれている。
誰も軽口を叩かなかった。
いや、バルガンだけは何度か叩こうとした。
そのたびにフルカスに静かに見られ、黙った。
火を消さない。
そりを揺らさない。
帰還柱を見失わない。
凍結した者たちを、さらに傷つけない。
ただ帰るだけの道が、これほど長く感じるとは思わなかった。
「グレル」
「村の匂いがします」
グレルが低く答えた。
「炉の煙、粥、黒鉄、子悪魔の足跡。間違いありません」
「最後のやつで分かるのか」
「ニムの匂いです」
「個別認識するな。いや、助かるけど」
ラゴも風を読んで頷く。
「結界内の暖かい風が流れてきている。近い」
「よし。もう少しだ」
ヴェスパーは前方を見た。
門の輪郭が、白い風の中から少しずつ浮かび上がってくる。
黒石の門。
その内側に揺れる炉の赤。
見張り台の上で手を振る悪魔。
そして、門の隙間からこちらを見ている小さな影。
「王様ー!」
ニムの声だった。
「帰ってきた!」
「そりをどけろ!」
「飯場に湯を用意しろ!」
「毛布! 毛布を持ってこい!」
門の内側が一気に騒がしくなる。
ヴェスパーは少しだけ笑った。
「騒がしい村になったな」
「よいことです」
フルカスが静かに言った。
「帰る者を迎える声がある。それだけで、村は村でございます」
「今日は詩人だな」
「王様の影響かもしれませぬ」
「俺のせいにするな」
門が開く。
結界の内側の空気が、外へ流れ出した。
暖かい。
ただ、それだけのことに、悪魔たちの何人かが息を吐いた。
そりの上に眠る凍結悪魔たちにも、その熱が届いたのかもしれない。
氷の表面に、かすかに白い湯気が立った。
「急げ。ただし雑にするな」
ヴェスパーは言った。
「炉の近くへ運べ。いきなり近づけすぎるな。割れるぞ。運搬炉はそのまま補助に使え。ハボリム、湯は?」
飯場の方から、ハボリムが鍋を抱えて出てきた。
「湯はあるのう。粥もあるのう。火はよいのう」
「今日ほどその言葉が頼もしい日はないな」
「いつも頼もしいのう」
「自分で言うな」
ブエルが毛布と薬草らしきものを抱えて、のんびり歩いてくる。
「凍結した方には、急に熱を入れすぎない方がいいですよぉ」
「分かってる。お前は反応が薄い奴を見ろ」
「はぁい。存在が薄くなっている方には、霜苔湯を少しずつですねぇ」
「毒じゃないな?」
「たぶん」
「今だけはたぶんをやめろ」
「毒ではありませんよぉ」
「最初からそう言え」
村の中央に、急ごしらえの解凍場が作られた。
炉の近く。
だが、近すぎない場所。
黒石の床に毛布を敷き、運搬炉を一定の距離に置く。
凍結悪魔たちは、氷の塊ごとそこへ並べられた。
毛布で包み、皮で覆い、弱い熱を当てながら、少しずつ氷を緩ませる。
ヴェスパーはひとりずつ見て回った。
袋を抱えた悪魔。
車輪のそばで見つかった悪魔。
子供を庇っていた悪魔。
手をつないだまま掘り出された二人。
そして、黒い服に白手袋の若い悪魔。
胸元に金属製の薄い箱を抱えたまま、静かに眠っている。
「こいつがクロセルか」
ヴェスパーが呟くと、アガレスが隣で記録帳を開いた。
「服装、装飾、携行品、氷中での姿勢。記録上の暦官クロセルと一致する点が多いです」
「本人確認は」
「目覚めていただくのが一番です」
「まあ、そうだな」
若い悪魔の顔は整っていた。
黒い髪。
閉じた瞼。
細い眉。
凍りついているのに、不思議と乱れがない。
周囲の凍結悪魔たちは、倒れたまま、庇ったまま、逃げる途中の姿勢で見つかった。
だが、この悪魔だけは違う。
まるで、自分が眠る場所を選び、そこで待っていたようだった。
「寝相が上品だな」
「王様、そこですか?」
「他と違うだろ」
「違いますね」
アガレスは真面目な顔で頷いた。
「暦官クロセルは、時間と形式を重んじる悪魔だったと記録されています。最後の瞬間まで姿勢を崩さなかった可能性はあります」
「面倒くさそうな奴だな」
「王様とは相性がよろしいかもしれません!」
「どういう意味だ」
「面倒と面倒は、時に噛み合います」
「噛み合うな。事故る」
その時、黒服の悪魔の指が、わずかに動いた。
その瞬間、解凍場にあった音が消えた。
鍋の泡立つ音も、そりの軋む音も、誰かの息遣いさえも、遠くなったように感じた。
長く凍っていた時間が、目の前で一拍だけ脈を打った。
氷が、ぱき、と小さな音を立てた。
白い手袋を覆っていた霜が、薄く剥がれる。
腕に走っていた氷の筋が、ゆっくりと溶けていく。
黒服の悪魔の瞼が震えた。
「……」
周囲の悪魔たちも、自然と声を潜める。
ハボリムが鍋を持ったまま止まった。
ブエルも薬草を摘む手を止めた。
ニムは毛布の山の影から、そっと顔を出している。
若い悪魔が、目を開いた。
黒い瞳だった。
深く、静かで、底の見えない黒。
だが、そこには混乱がなかった。
長い眠りから目覚めた者の目ではない。
まるで、予定されていた時刻に目を開けただけのような目だった。
若い悪魔は、ゆっくりと上体を起こした。
「おい、急に起きるな。割れるぞ」
ヴェスパーが言う。
だが、若い悪魔は自分の体の状態を確かめるように指を開き、胸元の金属箱を抱え直した。
それから、静かに周囲を見回す。
炉。
毛布。
そり。
凍結悪魔たち。
集まった村の悪魔。
アガレス。
フルカス。
そして、ヴェスパー。
若い悪魔は、少しだけ目を細めた。
次の瞬間、彼は毛布の上から立ち上がろうとした。
「立つなって言ってるだろ」
「失礼いたしました」
若い悪魔は、立ち上がる途中で動きを止めた。
その姿勢のまま、深く一礼する。
「お初にお目にかかります。第九圏王国暦官、クロセルと申します」
村が静まり返った。
寝起きの挨拶ではなかった。
儀礼だった。
ヴェスパーは半眼になった。
「寝起きとは思えねぇな」
「ありがとうございます」
「褒めてねぇ」
「では、今後の改善点として記録いたします」
「記録しなくていい」
「承知いたしました。記録しないことを記録いたします」
「面倒くせぇな、お前」
アガレスの目が、ぱっと輝いた。
「王様! 本人です! この面倒さは記録と一致します!」
「本人確認の基準がひどい」
クロセルは静かにアガレスへ視線を向けた。
「アガレス様。ご無事で何よりでございます」
「クロセル殿もご無事で!」
「厳密には、無事とは申しがたい状態であったと推測されますが」
「目覚めましたので、無事です!」
「では、無事ということで」
「適応が早いな」
ヴェスパーが呟く。
クロセルは改めてヴェスパーを見た。
そして、わずかに首を傾げる。
「失礼ながら、陛下ではございませんね」
周囲の空気が、わずかに張った。
ルシファーのことだ。
ヴェスパーはその問いに、肩をすくめた。
「ああ。俺はルシファーじゃない」
「では、王位継承者でございますか」
「知らん」
「暫定統治者でございますか」
「たぶん、そんな感じで扱われてる」
「では、暫定王として記録いたします」
「やめろ」
「では、王様と」
「それもやめろと言いたいが、もう手遅れだな」
アガレスがにこにこしている。
フルカスも静かに頷いている。
バルガンに至っては胸を張っている。
クロセルは一礼した。
「では、王様。現在時刻をお尋ねしてもよろしいでしょうか」
ヴェスパーは固まった。
「……それを聞きに来たんだよ」
クロセルは数秒だけ沈黙した。
「なるほど」
「何がなるほどだ」
「時刻喪失状態でございますね」
「名前があるのか」
「今つけました」
「お前も名付けるタイプか」
「分類は重要でございます」
「知ってる」
ヴェスパーは額を押さえた。
ややこしい。
だが、必要なややこしさだ。
「クロセル」
「はい」
「今の村には、時間がない」
「そのようでございます」
クロセルは周囲を見た。
鍛冶場。
飯場。
炉。
見張り台。
資材置き場。
解凍場。
そり。
帰還柱。
そして、疲れているのに動き続けようとしている悪魔たち。
「皆様、個々の必要に応じて動いておられますね」
「聞こえはいいな」
「組織としては破綻しております」
「はっきり言うな」
「失礼いたしました。非常に元気な混乱でございます」
「言い換えてもひどい」
クロセルは静かに頷いた。
「食事時刻、作業時刻、休息時刻、見張り交代、遠征出発時刻、帰還予定、鐘の合図。最低限、これらを定める必要がございます」
「まさにそれをやりたい」
「承知いたしました」
クロセルは胸に抱えていた金属箱をそっと開いた。
中には、薄い黒鉄の板と、小さな歯車、針、折り畳まれた細い鎖、そして割れた円盤が入っていた。
見た目は、壊れた時計の部品に近い。
「それは?」
「携帯時刻箱でございます。旧王都の鐘楼と同期するための補助機構でした」
「時計か」
「王都式では、小鐘箱と呼ばれておりました」
「時計でいいだろ」
「用途は近いですが、厳密には異なります」
「今は厳密じゃなくていい」
「承知いたしました。では、時計で」
クロセルは毛布の上に部品を並べた。
指先はまだ完全には動かないはずなのに、動作は正確だった。
氷から出てきたばかりの悪魔とは思えない。
歯車を置く。
針を直す。
割れた円盤を黒石の欠片で補強する。
細い鎖を巻き直す。
金属箱の底に刻まれた術式へ、指でそっと触れる。
アガレスが横から覗き込み、目を輝かせた。
「懐かしいです! 王都式同期術式ですね!」
「はい。もっとも、鐘楼からの信号は途絶しております」
「では、単独駆動ですか?」
「その通りです」
「おお!」
「お前らだけで盛り上がるな」
ヴェスパーは腕を組んだ。
「動くのか」
「完全な精度は望めません。しかし、村内の共通時刻を定める程度であれば、簡易機構で足ります」
「十分だ」
「ただし」
「ただし?」
クロセルは黒い円盤を持ち上げた。
「基準が必要でございます」
「基準」
「はい。旧王都であれば、中央鐘楼の第一鐘を基準としました。天の光、地獄の脈動、門の開閉、王城の鐘。それらを統合し、一日の始まりを定義しておりました」
「今は?」
「中央鐘楼は停止。王城の鐘も停止。門の正規開閉信号も途絶。天の光は第九圏では不安定。地獄の脈動も、現在は大きく乱れております」
「つまり」
「基準がございません」
ヴェスパーはしばらく黙った。
それから、クロセルが組み上げた黒い小さな時計を見た。
針はある。
歯車もある。
箱もある。
術式もある。
だが、何をもって今とするかがない。
「ご希望通りかと」
クロセルが静かに言った。
ヴェスパーは半眼で見た。
「いや。これ、何時なんだ?」
「基準をご指定ください」
「……結局そこからか」
「はい。時間とは、流れているだけでは管理できません。どこを始まりとするかを定めて、初めて使えるものになります」
アガレスが感動したように頷いた。
「王様がおっしゃっていたことと同じですね!」
「言い方はこっちの方が上品だな」
「ありがとうございます」
「クロセル、お前も褒めてねぇ」
「承知いたしました」
ヴェスパーはため息を吐いた。
だが、悪くない。
むしろ、分かりやすい。
基準がないなら、作ればいい。
道がなければ、柱を立てる。
火がなければ、炉を作る。
飯がなければ、粥を作る。
なら、時間も同じだ。
「今日からだ」
ヴェスパーは言った。
クロセルが顔を上げる。
「今日、でございますか」
「ああ。今日、俺たちは旧王都東中央広場から悪魔たちを連れて帰った。止まっていた時間を、少しだけ動かした」
ヴェスパーは炉の方を見た。
凍った悪魔たちが、毛布の上で少しずつ熱を取り戻している。
まだ目覚めない者も多い。
けれど、全員が村に帰ってきた。
「だから、今日を基準にする」
「暦の起点といたしますか」
「そこまで大げさにするな。まずは村の一日だ」
「承知いたしました。村時間、第一日」
「勝手に名前をつけるな」
「では、仮称として」
「仮称ならいい」
アガレスが横で記録帳を開く。
「王様! 村時間第一日、記録いたします!」
「お前も乗るな」
「もう記録しました!」
「早いな」
クロセルは小鐘箱を調整した。
黒い円盤の中央に針を合わせる。
歯車を巻き、細い鎖を固定する。
箱の内側の術式が、淡い赤い光を帯びた。
「基準時刻を設定いたします。王様、最初の合図を」
「合図?」
「鐘、あるいはそれに類する音でございます」
「鐘なんてまだないぞ」
「黒鉄板がございました」
「あれでいいのか」
「始まりに鳴らすなら、鐘でございます」
「雑だな」
「形式は、後から整えられます」
「それは俺の現場理論に近いな」
「光栄でございます」
ヴェスパーは村の中央へ向かった。
黒鉄の板が吊るされている。
前話で、遠征前の集合に使った仮の鐘だ。
ただの黒鉄板。
骨の槌。
不格好で、音も澄んではいない。
だが、今の村にはちょうどいい。
ヴェスパーは骨の槌を手に取った。
村の悪魔たちが、自然と集まってくる。
鍛冶場の悪魔。
飯場のハボリム。
採取のブエル。
そり係のモルク。
石工のザグ。
バルガン。
フルカス。
アガレス。
クロセル。
ニム。
そして、毛布の上でまだ眠る、旧王都から連れてきた悪魔たち。
ヴェスパーは一度だけ、周囲を見回した。
「今から、この村の時間を決める」
悪魔たちは黙って聞いている。
「飯の時間を決める。作業の時間を決める。休む時間を決める。見張りの交代を決める。外へ出る時間と、帰ってくる時間を決める」
バルガンが不安そうに手を上げた。
「王! 戦う時間は!」
「敵が来た時だ」
「分かりやすい!」
「分かりやすいだろ」
少しだけ笑いが起きた。
ヴェスパーは続ける。
「時間に縛られるためじゃない。壊れないためだ。誰かが働きすぎて倒れないように。飯を食いそびれないように。見張りが疲れきらないように。遠征に出た奴を迎えに行けるように」
ニムが真剣な顔で聞いていた。
「時間は、帰ってくるためにもいる」
その言葉に、何人かの悪魔が帰還柱の方を見た。
赤い光が、村の外へ点々と続いている。
道と同じだ。
時間もまた、戻るための目印になる。
ヴェスパーは骨の槌を握り直した。
「まずは今日を始まりにする」
クロセルが小鐘箱を構える。
「基準設定、準備完了でございます」
アガレスが記録帳を掲げる。
「記録準備、完了です!」
フルカスが静かに頷く。
「皆、聞くのでございます」
ヴェスパーは黒鉄板を叩いた。
カン。
澄んだ音ではなかった。
少し歪んでいた。
少し鈍かった。
鐘というには粗末すぎる音だった。
だが、その音は村に響いた。
鍛冶場の槌が止まる。
飯場の鍋を見ていたハボリムが顔を上げる。
見張り台の悪魔が門の方を見る。
そり係が手を止める。
子悪魔たちが、何かが始まったことを感じて目を丸くする。
クロセルの手の中で、小鐘箱の針が動いた。
かちり。
小さな音だった。
けれど、確かに動いた。
「基準時刻、設定完了」
クロセルが静かに告げる。
「村時間、第一刻を開始いたします」
アガレスがぱっと笑った。
「王様! 動きました!」
「ああ」
ヴェスパーは小鐘箱を見た。
針がゆっくりと進んでいる。
ただ、それだけだ。
それだけなのに、不思議な重みがあった。
火を灯した時。
粥を作った時。
道を伸ばした時。
帰還柱を立てた時。
それと同じように、今、村に新しいものが生まれた。
時間だ。
◇
その後、村は妙な混乱に包まれた。
「王様、飯の時間とは、腹が鳴る前ですか、鳴った後ですか?」
「鳴る前が理想だ」
「難しいのう」
ハボリムが鍋を抱えながら首を傾げる。
「腹が鳴ってから火を強くしていたのう」
「だから遅いんだ」
ブエルがのんびり手を上げた。
「採取班は、毒草が寝ている時間に出るのがよいですぅ」
「毒草も寝るのか」
「寝ますねぇ」
「起きてると?」
「噛みますぅ」
「植物が噛むな」
「噛みますねぇ」
「じゃあ、その時間は避けろ」
バルガンが拳を握る。
「王! 俺の休憩時間は!」
「ある」
「要らぬ!」
「ある」
「なぜ!」
「お前が倒れたら、運ぶ奴がいない」
「なるほど! 俺は休む!」
「納得が早くて助かる」
クロセルは淡々と黒石板に予定を書いていく。
食事。
作業。
休憩。
見張り交代。
採取班出発。
そり搬送。
解凍場確認。
工房作業。
会議。
完璧なものではない。
むしろ穴だらけだ。
実際に動かせば、すぐ直すことになるだろう。
だが、何もないよりはずっといい。
「王様」
クロセルが黒石板を見上げながら言った。
「この予定では、鍛冶場と石工場の作業時間が重なります」
「問題か」
「騒音は問題ございません。しかし、運搬そりの使用時間が競合いたします」
「なるほど。そりが足りないな」
「はい。作業をずらすか、そりを増やすか、積載量を減らす必要がございます」
「そりを増やす」
「では、そり製作時間を予定へ追加します」
「予定を作るために予定が増えるのか」
「時間管理とは、そのようなものです」
「面倒くせぇな」
「はい」
クロセルは涼しい顔で頷いた。
「ですが、面倒を見える形にするのが私の仕事でございます」
ヴェスパーは少しだけ黙った。
それは、いい言葉だった。
「面倒を見える形にする、か」
「はい」
「いいな、それ」
「ありがとうございます」
「今のは褒めた」
「記録いたします」
「それは記録していい」
アガレスが横から身を乗り出す。
「私も記録します!」
「お前は何でも記録するだろ」
「はい!」
「誇るな」
村の中央で、黒石板に時間割が刻まれていく。
最初は見ているだけだった悪魔たちも、次第に口を出し始めた。
「見張り交代は、風が強い時間の前にした方がいい」
「炉の近くで作業する班は、飯の前に替えた方がよいのう」
「採取班は戻った後に仕分け時間が欲しいですぅ」
「そりの修理時間も入れてくれ」
笑い混じりの声が飛び交う。
だが、その中で、村は少しずつ変わっていた。
今まで、ただ目の前の作業をしていた悪魔たちが、自分の仕事と誰かの仕事のつながりを見始めている。
飯場が遅れれば、作業が遅れる。
そりが足りなければ、工房が止まる。
見張り交代がずれれば、防衛が薄くなる。
休憩がなければ、翌日の動きが落ちる。
時間とは、ただ針が動くことではない。
村全体が、自分たちの動きを見るための道具だった。
ヴェスパーは黒石板を見ながら、小さく息を吐いた。
「ようやく、組織っぽくなってきたな」
フルカスが隣に立つ。
「王国の始まりでございますな」
「だから、まだ村だ」
「村に時間が生まれました。ならば次は、村の外にも時間が届くでしょう」
「嫌な予言をするな」
「楽しみでございます」
「お前、最近ちょっと前向きすぎないか」
「火と飯と時間がございますので」
「それは前向きにもなるか」
解凍場の方で、小さな声が上がった。
一人の凍結悪魔が、目を覚ましたのだ。
まだ意識はぼんやりしている。
言葉もはっきりしない。
だが、毛布の中で小さく息をし、鍋から運ばれた湯を少しずつ口にしている。
その姿を見て、ヴェスパーは少しだけ目を細めた。
止まっていたものが動き出す。
人も。
村も。
時間も。
全部、少しずつだ。
カン。
二度目の鐘が鳴った。
今度はクロセルが鳴らした。
黒鉄板の音は相変わらず鈍い。
だが、一度目よりも、少しだけ村に馴染んで聞こえた。
「第一食事刻でございます」
クロセルが告げる。
飯場の悪魔たちが慌てて動き出す。
ハボリムが鍋の火加減を見る。
ブエルが塩花を確認する。
ニムたち子悪魔が器を並べる。
鍛冶場の槌が止まった。
作業員たちが手を洗い、飯場へ向かう。
見張り台では、交代の悪魔が梯子を上り始めた。
ただの音だった。
けれど、その音で悪魔たちが顔を上げ、動きを変えた。
地獄に、初めて時間が生まれた。
それからしばらく、村にはいくつもの音が響くようになった。
食事を知らせる、低い鐘。
見張りの交代を知らせる、短い二度打ち。
作業の始まりと終わりを告げる、黒鉄板の乾いた音。
そりの出発時刻には、門のそばで小さな鈴が鳴った。
まだ不格好だった。
誰かが鳴らし忘れたり、バルガンが力任せに叩いて黒鉄板を曲げかけたりもした。
それでも、音が鳴るたびに、悪魔たちは顔を上げた。
鍛冶場の槌が止まり、飯場の鍋が確認され、見張り台の悪魔が交代の準備を始める。
ヴェスパーは腕を組み、少しだけ笑った。
「……これで、気絶するまで働いてる奴も止められるな」
クロセルが静かに振り返る。
「気絶するまで働く者がいるのでございますか?」
「いる」
ヴェスパーは鍛冶場の方を見た。
「いっぱいいる」
クロセルは一拍置いて、黒石板に何かを書き込んだ。
「では、強制休息刻を設定いたします」
「いいな、それ」
「抵抗した者は?」
「寝床に運べ」
バルガンが胸を張った。
「王! 俺が運びます!」
「お前も運ばれる側だ」
「なぜ!」
「一番働きすぎるからだ」
周囲から笑いが起きた。
村には、鍋の音が響いている。
炉の火が揺れる。
小鐘箱の針が進む。
黒鉄の鐘が、次の刻を待っている。
そして、毛布の上では、旧王都から連れ帰られた悪魔たちが、少しずつ目を覚まし始めていた。
止まっていた時間は、まだ完全には戻らない。
けれど、もう凍ったままではない。
第九圏の小さな村で、新たな最初の一日が動き始めていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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