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第九圏の欠落王 ―棺の底から始める地獄改革―  作者: カイメイラ
第二章 眠る王都へ続く道

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第二十三話 旧中央広場の眠り人


 白銀の荒野を、赤い火が進んでいた。


 先頭を行くのは、そりに固定された作業用運搬炉だった。

 黒石と黒鉄で組まれた小型の炉が、赤黒い火を揺らしながら氷の上を滑っていく。


 村の灼熱炉核ほど力強くはない。

 それでも、火があるだけで違った。


 風に削られる頬が、少しだけましになる。

 指先の感覚が、完全には消えずに残る。


 火を運んでいる。


 それだけで、昔なら考えられなかった遠征だった。


「王! このまま西へ一直線ですか!」


 黒石柱を担いだバルガンが、やたら元気な声を上げた。


「一直線に行けるなら苦労しねぇよ」


 ヴェスパーは白い息を吐きながら答えた。


 前方には、何もない。


 いや、正確には何も見えない。


 白い地面。

 白い風。

 灰色の空。

 黒い岩の影。


 視界のすべてが同じ色に潰されている。


 遠くに見える岩が、近づいてみれば氷の塊だったりする。

 浅そうに見えるくぼみが、足を踏み入れれば腰まで沈む雪穴だったりする。

 氷の裂け目も、風が白い粉をかければ、ただの地面と変わらない。


 ここは道ではない。


 道にしなければ、道にならない場所だった。


「グレル」


「右前方、裂け目があります」


 グレルが即座に答えた。


 彼は隊列の少し前を歩いている。

 鼻先を風に向け、耳を伏せ、時折足を止めては氷の下を探るように爪を立てていた。


「幅は?」


「そり一台なら越えられます。二台並べると落ちます」


「じゃあ一列だ。バルガン、余計なことするなよ」


「余計なこととは!」


「そりを担いで飛ぼうとするな」


「なぜ分かった!」


「分からいでか」


 アガレスが隣で記録帳を開きながら頷いた。


「バルガン様の行動予測は、近頃だいぶ容易になってまいりました」


「俺は成長しているからな!」


「逆だと思うぞ」


 ヴェスパーは肩をすくめた。


 フルカスが隊列の後方を見ながら静かに言う。


「王様、後続も問題ございませぬ。そりの間隔も保たれております」


「よし。急がない。今日は進むことより、帰れること優先だ」


「承知いたしました」


 隊列は慎重に進んだ。


 先行するグレルとラゴが、裂け目と風の向きを探る。

 バティンが足場を固める。

 バルガンが黒石柱を運び、ザグとモルクがそりの滑りを確認する。

 アガレスは地図と記録帳を交互に見ながら、現在位置らしき場所に印をつけていた。


「王様、この辺りで一本目の帰還柱を立てるのがよろしいかと」


「距離は?」


「村からの歩数、そりの滑走時間、風向き、地図上の推定位置を合わせると、ちょうどよい間隔です!」


「最後ちょっとふわっとしたな」


「地図が古いので!」


「元気よく言うな」


 ヴェスパーは周囲を見回した。


 村はもう見えない。

 振り返っても、白い荒野が広がっているだけだった。

 だが、背後には最初の赤い帰還柱がかすかに見える。

 吹雪けばすぐに消えそうな光だ。


 だからこそ、次の柱がいる。


「ここに立てる」


「了解!」


 バルガンが黒石柱を地面に下ろした。


 ごん、と鈍い音が響く。


 バティンが前に出る。


「氷の下は硬い。だが、少し溶かせば入る」


「運搬炉を寄せろ」


 モルクがそりを動かし、作業用運搬炉を柱のそばへ寄せる。


 赤黒い火が氷を舐める。

 じゅう、と音を立てて白い湯気が立ち上がった。


 氷が緩む。

 そこへバティンが手をかざした。


 地面の奥が、低く唸る。


 凍った土と黒石の欠片が混じった地盤が、柱を受け入れるように少しずつ開いていく。


「入れろ」


「任せろ!」


 バルガンが黒石柱を持ち上げ、穴へ差し込んだ。


 バティンが周囲の土を締める。

 ザグが石片で根元を固める。

 アガレスが赤い印を刻む。


 黒石柱の表面に、細い赤い線が灯った。


 ぼう、と小さな光が立ち上がる。


 それは炉ほど暖かくはない。

 だが、白い世界の中では十分すぎる目印だった。


「一本目、完了です!」


 アガレスが嬉しそうに言う。


「毎回これをやるのですか?」


 若い悪魔が、思わずそう尋ねた。


 まだ遠征に慣れていない者だ。

 顔には疲労よりも、単純な疑問が浮かんでいる。


「ああ。毎回やる」


 ヴェスパーは答えた。


「面倒じゃないですか?」


「面倒だな」


「では、なぜ」


 ヴェスパーは白い荒野を指さした。


「吹雪いたら、全部同じ景色になる。進んだ方向も、戻る方向も、足跡も、そりの跡も消える」


 若い悪魔は黙った。


「帰り道を見失ったら終わりだ。火があっても、飯があっても、そりがあっても、帰る道がなきゃただの遭難者だ」


 ヴェスパーは帰還柱を軽く叩いた。


「だから立てる。面倒でもな」


 フルカスが静かに頷いた。


「道とは、踏み固めるだけでは足りませぬ。戻る者のために示されてこそ、道でございます」


「うまいこと言うな」


「本心でございます」


「知ってる」


 ヴェスパーは前方を見た。


 白い地獄の先には、まだ何も見えない。


「俺たちは冒険しに来たんじゃねぇ」


 その言葉に、周囲の悪魔たちが顔を上げた。


「帰れる道を作る工事をしながら、第九圏を取り戻してるんだ」


 バルガンが目を輝かせる。


「工事!」


「お前は工事という言葉で燃えるな」


「王! 工事とは戦いですか!」


「だいたい戦いだな」


「やはり!」


「ただし、相手は氷と距離と面倒だ」


「面倒を殴ればいいのですか!」


「殴れるならな」


 笑いが起きた。


 白い荒野の中に、その笑い声は意外なほどよく響いた。


 隊列は再び進み始めた。


     ◇


 二本目の帰還柱を立てた頃、風が変わった。


 ラゴが足を止め、鼻を上げる。


「西から冷たい風だ」


「ずっと冷たいだろ」


 ヴェスパーが言うと、ラゴは首を横に振った。


「違う。動いている冷たさだ」


「動いてる?」


「広い場所を抜けてくる風だ。壁が少ない。建物が壊れている。雪が積もった石の匂いもする」


 グレルも低く言った。


「古い街の匂いがあります」


 アガレスが地図を見た。


「王様、おそらく近いです」


「東中央広場か」


「はい。王都から見れば東側にある、大きな中継広場です」


「全員、気を引き締めろ」


 ヴェスパーの声で、隊列の空気が変わった。


 冗談が消える。

 足音が揃う。

 武器を持つ者は、柄に手を置いた。


 まだ敵がいるとは限らない。

 だが、旧王都に近い場所だ。

 何が埋まっていてもおかしくない。


 やがて、白い霧の向こうに黒い影が見えてきた。


 最初は岩の壁に見えた。

 だが近づくにつれ、それが整然と並んだ石造りの段差だと分かった。


 広場の縁だった。


「……でかいな」


 ヴェスパーは思わず呟いた。


 目の前には、巨大な石造りの広場が広がっていた。


 いや、広がっていたはずだった。


 今は、そのほとんどが雪と氷に埋もれている。

 見えているのは、広場の縁、折れた柱の先、半分だけ顔を出した階段、そして凍りついた舗装の一部だけだ。


 中央にあったであろう噴水は、黒い氷の塊となって沈黙している。

 その周囲には、砕けた街灯や、倒れた標識らしきものが突き出していた。


 ここに、人がいた。


 いや、悪魔がいた。


 交易をし、集まり、荷を運び、鐘の音を聞き、王都の時間に合わせて動いていた者たちが。


 その気配だけが、凍った石の下に残っている。


 アガレスが静かに言った。


「旧王都東中央広場。記録では、王都外縁と中央区を結ぶ中継地です」


「ここにクロセルが?」


「最後の記録では、この付近です」


 ヴェスパーは広場を見渡した。


 広い。


 広すぎる。


 適当に掘って見つかる規模ではない。


「範囲を絞れるか」


「鐘楼連絡の中継地があったのは、広場の北西側です。暦官が避難記録を持って動いていたなら、そこに向かった可能性が高いです」


「北西か。グレル」


「匂いは薄いです。ただ……」


 グレルは氷の上に膝をつき、鼻先を近づけた。


「この下に、何かあります」


「何か?」


「石だけではありません」


 ヴェスパーは頷いた。


「掘るぞ」


 悪魔たちが一斉に動いた。


 運搬炉を広場の端へ寄せる。

 雪をどかす。

 つるはしで氷を割る。

 ロープを張り、作業範囲を区切る。

 そりを待機させる。


 ザグが地面を見ながら唸った。


「氷が厚い」


「溶かせるか」


「時間はかかる」


「時間を探しに来て、時間がかかるのか」


 ヴェスパーは苦笑した。


 アガレスが記録帳を開く。


「名言として記録しますか?」


「するな」


 運搬炉の火が、氷を少しずつ緩める。

 バティンが土と石の感触を探り、割ってよい場所を示す。

 作業員たちがつるはしを振り下ろす。


 ガン。


 ガン。


 ガン。


 氷に亀裂が入る。


 白い欠片が飛び、黒い石畳が顔を出した。


「石畳だ!」


「割るなよ。下に何があるか分からん」


「王様! ここに何か出ました!」


 若い悪魔が叫んだ。


 ヴェスパーはそちらへ向かう。


 氷の中から、細長い黒いものが突き出していた。


「腕か!?」


 誰かが叫ぶ。


 周囲の悪魔たちが緊張する。


 ヴェスパーも一瞬息を止めた。


 だが、ザグが近づき、氷を少し削ってから言った。


「柱だ」


「柱かよ!」


「街灯の支柱だな」


 ヴェスパーは脱力した。


「いきなり心臓に悪いもん出すな」


「出したのは氷です!」


「氷に文句言っても仕方ないだろ」


 少しだけ笑いが起きた。


 張り詰めていた空気が、わずかに緩む。


 だが、その緩みは長く続かなかった。


「王様」


 グレルの声だった。


 いつもの声より低い。


 ヴェスパーは振り返る。


「どうした」


「今度は、本物です」


 その場の空気が、凍った。


 グレルが指さす先。


 厚い氷の下に、黒い影があった。


 最初は石像のように見えた。

 だが違う。


 角がある。

 翼がある。

 手がある。


 悪魔だった。


 氷の中で、膝を抱えるようにして眠っている。

 片手には袋を握りしめ、もう片方の手は胸元に押し当てられていた。


 顔は、苦しげではなかった。


 ただ、寒さの途中で力尽き、そのまま眠ったような顔だった。


「……いた」


 誰かが呟いた。


 ヴェスパーは膝をつき、氷の中の悪魔を見下ろした。


「生きてるか」


 アガレスが手をかざし、表情を引き締める。


「存在反応は……微弱ですが、あります」


「よし。割るな。周囲から削れ」


「はい!」


 作業が変わった。


 つるはしの音が小さくなる。

 力任せに割るのではなく、周囲の氷を少しずつ削る。

 運搬炉の熱を当て、氷を緩ませ、毛布と皮を用意する。


 氷の塊ごと、悪魔を掘り出す。


 ザグとバティンが慎重に氷の縁を切り出した。

 バルガンが腕力で支え、モルクたちがそりを寄せる。


「持ち上げろ。ゆっくりだ」


「任せろ……!」


 バルガンが珍しく声を抑えた。


 氷に包まれた悪魔が、そりの上へ移される。


 毛布と皮で包み、運搬炉のそばへ固定する。


「一人目!」


 アガレスが記録する。


 だが、その声が終わる前に、別の場所から声が上がった。


「こっちにもいます!」


「こちらにも!」


「王様、こっちは二人重なっています!」


「こっちは……子供を抱えてる!」


 広場の空気が、一気に変わった。


 一人ではなかった。


 掘れば、出る。

 雪をどかせば、見える。

 氷を溶かせば、影が浮かぶ。


 十人。

 二十人。

 三十人。


 氷の下から、凍った悪魔たちが次々と見つかった。


 最初に見つかったのは、袋を胸に抱いたまま凍った悪魔だった。

 次に、折れた車輪のそばで膝をついた悪魔。

 そして、小さな悪魔を庇うように覆いかぶさった者。


 その周囲にも、荷物を抱えた者、手をつないだまま眠る者、誰かを支えようとして倒れた者たちが、次々と氷の下から現れた。


 彼らは兵士ではなかった。


 少なくとも、ほとんどはそう見えなかった。


 逃げていたのだ。


 王都から。

 冷気から。

 何かが壊れていく中心から。


 それでも、間に合わなかった。


 フルカスが静かに目を伏せた。


「王都からの避難民でございますな」


 ヴェスパーは氷の中の悪魔たちを見た。


「ルシファーが消えた後か」


「おそらく」


 アガレスの声も、いつもの明るさを失っていた。


「王都を覆っていた結界が弱まり、各区画の熱源が止まり、悪魔たちは生き残るために外縁へ逃れたのでしょう。ですが、東中央広場で足止めされた」


「足止め?」


「門の閉鎖、道の崩落、吹雪、あるいは混乱。理由は分かりません」


「分からなくても、結果は見えてるな」


 ヴェスパーは奥歯を噛んだ。


 荷物を抱えたまま凍った悪魔。

 誰かを支えたまま動けなくなった悪魔。

 子供を守るように抱いた悪魔。


 広場は、墓ではなかった。


 途中だった。


 逃げる途中。

 助かろうとする途中。

 誰かを連れていこうとする途中。


 その途中で、時間ごと凍っていた。


「……迎えに来るのが遅くなったな」


 ヴェスパーは小さく呟いた。


 誰も答えなかった。


 風だけが、凍った広場を吹き抜ける。


 ヴェスパーは立ち上がった。


「一人も置いていくな」


 悪魔たちが顔を上げる。


「全部連れて帰るぞ」


「全部、でございますか」


 フルカスが確認するように言った。


「ああ。動かせる奴は全部だ。そりが足りなきゃ、柱の材料を下ろせ。毛布が足りなきゃ俺の分も使え。運搬炉の熱は救助優先。クロセル探しはそのあとだ」


 アガレスが目を見開いた。


「王様、ですがクロセルは」


「時間を作るために来たんだろ」


「はい」


「なら、こいつらの止まった時間を先に動かす」


 アガレスは一瞬だけ言葉を失った。


 それから、静かに頷いた。


「……はい。記録いたします」


「そこは記録しなくていい」


「します」


 アガレスの声は、妙に真剣だった。


 作業は続いた。


 氷を削る。

 掘り出す。

 包む。

 そりに乗せる。

 運搬炉で温めすぎないように調整する。


 生きているかどうか分からない者もいた。

 反応が薄すぎる者もいた。

 すでに形を保てなくなりかけている者もいた。


 それでも、誰も手を止めなかった。


 バルガンは氷塊を抱え、いつものように叫ばず、黙ってそりへ運んだ。

 フルカスは解凍の順番を見極め、兵ではない者を優先するよう指示した。

 グレルは広場の端を回り、まだ埋まっている気配を探した。

 バティンは氷の下の地盤を読み、崩さず掘れる場所を示した。

 ザグはつるはしの角度まで指示し、凍った体を傷つけないよう石を割った。

 モルクはそりの荷重を調整し、帰り道で崩れないよう縄を締めた。


 誰も、これは自分の仕事ではないと言わなかった。


 なぜなら、全員が知っていた。


 火のそばで目を覚ますことの意味を。

 そりに乗せられて帰ることの意味を。

 誰かが迎えに来ることの意味を。


「王様」


 グレルがふいに顔を上げた。


 その声に、ヴェスパーは振り返る。


「どうした」


「見られています」


 広場にいた全員が、動きを止めた。


 風の音が強くなる。


 ヴェスパーはゆっくりと視線を巡らせた。


「方向は」


「西北西。氷壁の上です」


 グレルが低く言う。


 ヴェスパーは目を細めた。


 白い風の向こう。

 崩れた建物のさらに奥。

 氷壁の上に、影があった。


 一つではない。


 五つ。


 青白い体。

 白い毛皮のような外套。

 氷の槍。

 狼にも似た角。

 細く、冷たい眼。


 霜牙軍。


 以前、村を襲った氷の軍勢。

 西に火の道を伸ばすなと警告してきた者たち。


 その斥候が、こちらを見ていた。


「フルカス」


「分かっております」


 フルカスは剣の柄に手を置いた。


 バルガンも黒石盾を構える。


「王、殴りますか」


「まだ殴るな」


「まだ!」


「まだ、だ」


 ヴェスパーは氷壁の上の影を見据えた。


 霜牙軍は動かない。


 こちらを襲う気配は、今のところない。

 ただ見ている。


 火の道を。

 帰還柱を。

 作業用運搬炉を。

 旧中央広場を掘り返す悪魔たちを。

 そりに乗せられた凍結悪魔たちを。


 彼らは、情報を持ち帰るつもりなのだ。


「グレル。数は」


「見えているのは五体。周囲に隠れている気配は薄いです」


「ラゴ」


「風下に回られてはいない。追うなら追えるが、吹雪が来る」


「追わない」


 ヴェスパーは即答した。


 バルガンが目を丸くする。


「王!」


「今の目的は救助だ。あいつらを追って、そりを置いていくわけにはいかない」


「しかし!」


「追えば向こうの地形に誘い込まれる。こっちは荷物を抱えてる。負けなくても、救助者が冷える」


 バルガンは悔しそうに歯を噛んだ。


 だが、盾を下ろしはしなかった。


 フルカスが静かに言う。


「正しいご判断でございます」


「向こうも、今は戦う気が薄い」


「偵察ですな」


「ああ。火の道がどこまで伸びたか、見に来たんだろう」


 氷壁の上で、霜牙軍の一体がわずかに身じろぎした。


 そのうち一体が、ほんのわずかに氷槍の穂先を下げた。


 狙いを定めたのではない。

 だが、いつでも届くぞと告げるような動きだった。


 ヴェスパーは、そいつと目が合った気がした。


 白い風の向こうで、青白い眼だけが冷たく光っている。


 ヴェスパーは声を張らなかった。


 相手に届かせるためではなく、自分に言い聞かせるように呟いた。


「あいつらも、どうにかしたいんだけどな」


 アガレスが隣で小さく息を呑んだ。


「王様」


「分かってる。難しいのは」


 霜牙軍は寒さの中で生きる。

 火の道を嫌う。

 温めることを侵攻と見る。


 だが、彼らも悪魔だ。


 第九圏に残り、凍った世界に適応し、その中で軍として生き残ってきた者たちだ。


 敵として倒すのは簡単かもしれない。

 いや、実際には簡単ではないだろう。


 それでも、戦う方が分かりやすい。


 殴ればいい。

 燃やせばいい。

 押し返せばいい。


 だが、共に生きるには、話さなければならない。


 住む場所を考えなければならない。

 熱と冷気の境目を作らなければならない。

 火を伸ばすだけでは済まない。


 ヴェスパーは苦笑した。


「戦う方が、よっぽど簡単だ」


 返事はなかった。


 霜牙軍の斥候たちは、しばらくこちらを見ていた。


 やがて、一体が身を翻す。

 残る四体も、それに続いた。


 白い毛皮が雪煙に溶ける。

 青白い影が、氷壁の向こうへ消えていく。


 追う者はいなかった。


「作業再開」


 ヴェスパーは言った。


「急げ。ただし雑にするな」


「はい!」


 悪魔たちは再び動き出した。


 だが、先ほどまでとは違う緊張が残っている。


 北西には霜牙軍がいる。

 王都は近い。

 旧中央広場には、まだ何人眠っているか分からない。


 そして、クロセルはまだ見つかっていない。


 そりは次々と埋まっていった。


 一台目。

 二台目。

 三台目。


 救助用に用意したそりだけでは足りず、資材用のそりから黒石柱を下ろし、毛布を敷いて凍結悪魔を乗せた。

 帰還柱用の材料は減ったが、ヴェスパーは迷わなかった。


「柱はまた切り出せる。こいつらは今しか運べない」


 その一言で、誰も反論しなかった。


 最後に、広場の北西側から、一体の悪魔が掘り出された。


 他の者と違い、その悪魔は姿勢が崩れていなかった。


 黒い服。

 凍りついた白い手袋。

 胸元に抱えた、金属製の薄い箱。

 閉じた目元は若く、眠っているというより、何かを待っているようにも見えた。


 アガレスが息を呑む。


「王様……」


「クロセルか?」


「断定はできません。ですが、服装と持ち物が記録と一致します」


 ヴェスパーはその悪魔を見下ろした。


「反応は」


「微弱です。ですが、あります」


「なら連れて帰る」


 ヴェスパーは即座に言った。


「名前が分かる奴も、分からない奴も、全部だ」


 若い執事風の悪魔は、氷に包まれたままそりへ移された。

 胸に抱えた金属箱だけは、外さなかった。

 無理に取れば、腕ごと砕けそうだったからだ。


 運搬炉の火が、そりの上の凍結悪魔たちを包む。


 赤い光が、白い荒野に揺れていた。


「撤収する」


 ヴェスパーは西の空を見た。


 風が強くなっている。

 これ以上長居すれば、帰還柱を立てていても危うい。


「グレル、先導。ラゴ、風を見る。バティン、柱の周囲を確認。フルカス、後方警戒。バルガン、そりを押せ」


「王! 全部押します!」


「全部は無理だ。順番に押せ」


「順番に全部押す!」


「それならいい」


 隊列が動き出した。


 来た時より、ずっと重い隊列だった。


 そりには凍った悪魔たちが眠っている。

 毛布と皮に包まれ、運搬炉の熱に守られながら、ゆっくりと村へ運ばれていく。


 広場には、掘り返された跡が残った。


 まだすべてを掘れたわけではない。

 まだ誰かが眠っているかもしれない。

 まだ王都は遠い。


 だが、今日連れて帰れる者は連れて帰る。


 それが今できる、最大のことだった。


 ヴェスパーは最後に一度だけ、旧中央広場を振り返った。


 雪と氷に埋もれた広場。

 凍った噴水。

 折れた街灯。

 眠る石畳。


 そこは墓ではなかった。


 まだ、途中の場所だ。


「また来る」


 ヴェスパーは小さく言った。


「今度は、もっと大勢でな」


 風が吹いた。


 その声が届いたのかどうかは分からない。


 けれど、凍った広場の奥で、何かがほんのわずかに軋んだような気がした。


 隊列は帰還柱の赤い光を頼りに、来た道を戻っていく。


 白い荒野に、そりの跡が伸びる。

 その周りで、運搬炉の火が揺れる。


 戦いにはならなかった。


 勝利の叫びもない。

 奪ったものもない。

 倒した敵もいない。


 それでも、そりの上には確かに、連れ帰るべき者たちがいた。


 ヴェスパーは白い風の中で、静かに息を吐いた。


「あいつらも、どうにかしたいんだけどな」


 遠く、霜牙軍の消えた北西の氷壁を見ながら、もう一度呟く。


「戦う方が、よっぽど簡単だ」


 返事はなかった。


 ただ、そりの上で眠る悪魔たちを包む運搬炉の火だけが、白い荒野に赤く揺れていた。


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