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第九圏の欠落王 ―棺の底から始める地獄改革―  作者: カイメイラ
第二章 眠る王都へ続く道

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第二十二話 止まった王都の夢


 静寂。


 誰もいない王都パンデモニウムに、風だけが吹いていた。


 黒く凍りついた石畳。

 崩れ落ちた尖塔。

 砕け散った噴水。

 半ば折れた街灯。


 かつて悪魔たちで賑わっていたであろう大通りは、今では氷に覆われ、足音ひとつ残っていない。


 店の看板は凍りつき、文字は読めない。

 閉じた扉、割れた窓、崩れた屋根。

 誰も直さず、誰も叩かず、誰も笑わない。


 ただ、王都の中心にそびえる王軸塔だけが、いまだ威厳を失っていなかった。


 黒い塔。

 地獄の骨を束ねたような、巨大な軸。

 天を支えるのではなく、地獄そのものを縫い止めているかのように、深く、重く、静かに立っている。


 王のいない王都。

 声を失った街。

 永い眠りについた地獄の首都。


 その奥底で、かすかな意識が揺れた。


 眠っていた。

 長く、長く眠っていた。


 誰の声も聞こえなくなってから、どれほどの時が流れたのか。


 鐘は鳴らない。

 門は開かない。

 地下道を走る足音もない。

 市場の喧騒も、兵舎の号令も、工房の槌音も、王へ捧げられる報告も、すべて消えた。


 王都は、街であることを忘れかけていた。


 それでも、完全には消えなかった。


 壁は覚えていた。

 道は覚えていた。

 広場は覚えていた。

 塔は覚えていた。


 ここに悪魔たちがいたことを。

 ここで笑い、怒り、働き、争い、眠り、また起きたことを。


 そして、王がいたことを。


 ふと、遠くで小さな火が揺れた。


 第九圏の北東。

 名もなき小さな村。


 そこに、赤黒い火が灯っている。


 炉の煙が、ゆっくりと空へ昇っていた。


 トン。


 トン。


 カン。


 ゴン。


 鉄を叩く音がする。

 誰かの笑い声がする。

 子悪魔たちが走り回る声がする。

 そりが氷の道を滑る音がする。

 鍋が煮える音がする。


 それは、王都にとって遠すぎる音だった。


 けれど、確かに届いていた。


 凍りついた街の奥で、女性のような気配が静かに目を開ける。


 姿はない。

 肉体もない。

 ただ、街の記憶と、石畳の冷たさと、塔の影と、地下道の闇に溶けた意識。


 それが、遠くの火を見つめていた。


「……火が灯ったのね」


 柔らかな声だった。


 誰に聞かせるでもない。

 長く眠っていた街が、自分自身に囁いたような声。


 その声には、母が子を見守るような温かさがあった。


 遠くの村では、悪魔たちが働いている。

 壊れたものを直し、凍ったものを溶かし、道を伸ばし、炉を囲み、食べ、笑っている。


 王都は、その光景を見ていた。


「ふふ……」


 小さく笑う。


「あの子たち、笑っている」


 王都パンデモニウムは、笑い声というものを思い出した。


 かつて、それはどこにでもあった。

 市場にも。

 酒場にも。

 工房にも。

 地下道にも。

 兵舎にも。

 王宮の裏庭にも。


 それが今は、遠い村から聞こえてくる。


「ここにも……来てくれるかしら」


 王都の夢が、白い霜に包まれていく。


 凍った石畳。

 動かない時計塔。

 ひび割れた鐘。


 そのすべてが、また深い静寂へ沈んでいった。


 けれど、最後に残ったのは遠くの火だった。


 赤黒く、頼りなく、それでも確かに燃える火。


 その火を見つめながら、王都は再び眠りについた。


挿絵(By みてみん)


     ◇


「……うあぁ」


 ヴェスパーは、机に突っ伏したまま妙な声を漏らした。


 頬に冷たい感触がある。

 何かが張りついている。


 目を開けると、目の前いっぱいに設計図が広がっていた。


 村の配置図。

 骨管の延伸案。

 石切り場から鉱山への搬送路。

 工房の配置。

 寝床の増設案。

 帰還柱の設置候補。

 結界装置の改良案。

 狙撃筒の弾丸規格。


 その一枚に、見事なよだれの跡があった。


「……現場監督として終わってるな」


 ヴェスパーは顔を上げ、口元を拭った。


 首が痛い。

 肩も重い。

 どうやら机で寝落ちしたらしい。


「久しぶりに寝落ちしたな……」


 そこまで呟いて、ふと首を傾げた。


「……久しぶりってなんだ」


 自分で言った言葉に、答えがない。


 前世の記憶はない。

 ただ、知識や癖だけが残っている。

 寝落ちという言葉も、机に突っ伏して目覚めた時の妙な自己嫌悪も、なぜか自然に出てくる。


 ヴェスパーは少しだけ苦笑した。


「まあいいか。今さらだな」


 椅子から立ち上がる。


 研究所と呼んでいる小屋は、最初に作った頃よりもだいぶ物が増えていた。

 壁には黒石の板が立てかけられ、棚にはアガレスの記録帳が並び、床には丸めた設計図と、用途のよく分からない試作品が転がっている。


 片隅では、試作の小型炉が低く唸っていた。

 その熱のおかげで、研究所の中は外よりずっとましだ。


 ヴェスパーは扉を開け、外へ出た。


 瞬間。


 カン。


 カン。


 ゴン。


 ゴン。


 村中に鉄を叩く音が響いていた。


 鍛冶場では、黒鉄を叩く火花が飛んでいる。

 工房では、木材を削る音がする。

 石切り場から戻ったそりが、黒石材を積んで広場へ入ってくる。

 運搬係の悪魔たちが声を掛け合い、材料置き場ではザグが石材の形を確認していた。

 飯場ではハボリムが大鍋を見つめ、ブエルが何か怪しい草根を仕分けている。

 少し離れた場所では、ニムたち子悪魔が小さな骨片を運んでいた。


 以前のこの場所を思えば、信じられないほどの活気だった。


 あの時は、火種にすがるだけの避難所だった。

 今は、村になっている。


 いや、村になろうとしている。


「……変わったな」


 ヴェスパーは小さく呟いた。


 凍りついた地面は、炉の周囲から少しずつ黒い土を見せ始めている。

 防壁は形になり、見張り台も立ち、門もある。

 道にはそりの跡が残り、帰還柱の赤い光が遠くに点々と伸びていた。


 それだけなら、よかった。


 だが、しばらく眺めているうちに、ヴェスパーは眉をひそめた。


「あのさ」


「はい、王様」


 隣に、いつの間にかアガレスがいた。


 記録帳を抱え、いつも通り妙に楽しそうな顔をしている。


 ヴェスパーは村の方を指さした。


「あいつら、ずっと働いてないか?」


 アガレスは不思議そうに首を傾げる。


「働いておりますね」


「いや、そうじゃなくて」


「大変よいことでは?」


「限度があるだろ」


 ヴェスパーは額を押さえた。


 鍛冶場の悪魔は、さっきからずっと黒鉄を叩いている。

 そり係は、休まず村と資材置き場を往復している。

 飯場では鍋が空になる前に次の準備をしている。

 見張り台の悪魔も、いつ交代したのか分からない。


「いつ飯食うんだ」


「お腹が空いた時でしょうか」


「いつ寝るんだ」


「眠くなった時でしょうか」


「会議は?」


「集まりたい時でしょうか」


「交代は?」


「限界が来た時でしょうか」


「全部だめだな」


 アガレスはぱちぱちと瞬きをした。


「何か問題でも?」


「問題しかねぇよ」


 ヴェスパーは村の中央へ歩きながら言った。


「今はまだいい。人数も増えたとはいえ、全員の顔が見える。問題が起きれば誰かが叫ぶ。飯が足りなければ鍋の前に列ができる。炉がおかしければ煙で分かる」


「はい」


「でも、この先もっと広がったら無理だ」


 石切り場。

 鉱山。

 狩猟小屋。

 工房。

 西の帰還柱。

 南の作業炉。

 見張り台。

 寝床。

 飯場。


 村の外にも、動く場所が増えている。


「工房が材料を待ってるのに、そりが別の場所へ行ってる。見張りが疲れてるのに、交代が来ない。飯ができた時には外班が出てる。外班が戻った時には炉番が寝てる。そういうのが増える」


「なるほど」


「あと、俺が『この作業、いつ終わる?』って聞いても、誰も答えられないだろ」


 アガレスは少し考えた。


「皆さん、一生懸命やっております」


「それは分かってる。だからこそだ」


 ヴェスパーは鍛冶場の前で立ち止まった。


 黒鉄を叩いていた悪魔が、こちらに気づいて顔を上げる。


「王様! まだ叩けます!」


「寝ろ」


「なぜですか!」


「槌の振り方が雑になってる」


「まだ腕は動きます!」


「腕が動くのと、いい仕事ができるのは別だ」


 鍛冶場の悪魔は衝撃を受けたような顔をした。


 ヴェスパーは続ける。


「休憩を入れろ。飯を食え。交代しろ」


「しかし、まだ作業が」


「休むのも作業だ」


 悪魔は目を丸くした。


「休むのも……作業……」


「そうだ。倒れたら余計に手間が増える」


 近くで聞いていたバルガンが胸を張った。


「王! 俺は倒れん!」


「お前は一番危ない」


「なぜだ!」


「そういう奴から倒れる」


「俺は三日は働ける!」


「だから危ないって言ってるんだよ」


 周囲の悪魔たちが笑う。


 ヴェスパーはため息を吐いた。


「時間が必要だな」


「時間、ですか?」


 アガレスが聞き返す。


「時間なら流れておりますが」


「流れてるだけじゃ使えねぇんだよ」


「使うのですか、時間を」


「使う。少なくとも、現場では使う」


 ヴェスパーは研究所へ戻るように歩き出した。


 アガレスがその後ろをぱたぱたとついてくる。


「王様、時間を使うとは?」


「全員で同じ区切りを持つってことだ。飯の時間、作業の時間、休憩の時間、見張り交代の時間、会議の時間、外班の出発と帰還予定。そういうものを決める」


「なるほど。村全体の共通認識ですね!」


「そういうことだ」


「それは、暦や鐘に近いものですか?」


 ヴェスパーは足を止めた。


「あるのか」


「かつては、ございました」


「先に言え」


「今思い出しました!」


「記録悪魔のくせに反応遅いな」


「知識の悪魔です!」


「どっちでもいい。探せ」


「はい!」


 アガレスは急に目を輝かせ、研究所へ駆け込んだ。


「少々お待ちください!」


「走るな。転ぶぞ」


 返事はない。


 数分後。


 アガレスは、自分の体ほどもある分厚い帳簿を抱えて戻ってきた。


 古びた黒革の表紙。

 角は凍りつき、金具は錆びている。

 それでも、本そのものは不思議と崩れていなかった。


 アガレスは地面に帳簿を置き、ぱらぱらとページをめくる。


「あ……」


「見つけたか」


「はい。いました」


「いるのかよ」


 ヴェスパーは思わず突っ込んだ。


 アガレスは嬉しそうにページを指さす。


「第九圏王国暦官、クロセル」


「暦官」


「はい。暦、時刻、鐘、作業刻、門の開閉、兵の交代、祭礼、記録の日付を管理していた悪魔です」


「今、一番必要な奴じゃねぇか」


「まさに!」


 アガレスは胸を張った。


「旧王都パンデモニウムにおいて、中央鐘楼および各区画の時刻管理を担当していた記録があります」


「パンデモニウム……」


 その名を口にした時、ヴェスパーはわずかに眉をひそめた。


 旧王都。

 第九圏の中心。

 ルシファーがいた王国の首都。

 いまだ遠く、氷に沈んだままの場所。


「クロセルは生きてるのか?」


「記録上、消滅確認はありません」


「つまり分からんってことか」


「はい!」


「元気よく言うな」


 アガレスは古い地図を広げた。


 黒い線で描かれた第九圏の地図。

 今の村の周囲とは比べものにならないほど、細かい道が刻まれている。


 けれど、多くの線は途中で途切れていた。

 氷に閉ざされ、道として機能しなくなった場所。

 壊れた橋。

 沈んだ広場。

 埋もれた地下道。


 アガレスの細い指が、西を示した。


「最後の記録では、旧王都西中央広場付近で消息不明」


「西中央広場」


「はい。王都外縁から中央区へ入る手前の大きな広場です。交易、集会、物資配分、鐘楼連絡の中継地でもありました」


「遠いのか」


「現在の帰還柱の先から、さらに西です」


「埋まってるな」


「おそらく」


 アガレスの返事は静かだった。


 ヴェスパーは地図を見下ろした。


 西。

 まだ本格的には進めていない方角。

 霜牙軍が現れた方角でもある。

 その先に、旧王都パンデモニウムへ続く道がある。


 そして、そこに暦官クロセルが眠っているかもしれない。


「よし」


 ヴェスパーは口の端を上げた。


「発掘だ」


 アガレスの目が輝いた。


「遠征ですね!」


「救助だ」


「発掘救助遠征ですね!」


「名前が長い」


「では、西方発掘隊!」


「まあ、それでいい」


     ◇


 ガン。


 ガン。


 村の中央で、黒鉄の板が叩かれた。


 鐘の代わりだ。


 まだ正式な鐘はない。

 ただの黒鉄板を吊るし、骨の槌で叩いているだけである。


 それでも、村中の悪魔たちはすぐに集まってきた。


「王様!」


「何事ですか!」


「仕事ですか!」


「遠征ですか!」


「飯ですか!」


「最後の奴は少し落ち着け」


 ヴェスパーは集まった悪魔たちを見回した。


 フルカス。

 アガレス。

 バルガン。

 グレル。

 ラゴ。

 バティン。

 ハボリム。

 ブエル。

 ザグ。

 モルク。

 ニム。


 他にも、工房係、そり係、狩猟番、採取班、石切り場から戻ってきた者たちが並んでいる。


 第一章の最初には考えられない人数だった。


「これから西へ遠征する」


 村がざわついた。


 遠征。


 その言葉には、まだ危うさがある。

 第九圏の外へ出ることは、死に近づくことだった。

 結界の外は寒い。

 道は分からない。

 霜牙軍もいる。


 けれど、今の悪魔たちの目にあるのは、恐怖だけではなかった。


 期待。

 緊張。

 興奮。

 そして、役に立てることへの喜び。


「目的は、旧王都西中央広場」


 アガレスが地図を掲げる。


「そこに、暦官クロセルの最後の記録がある。生きてるかどうかは分からない。だが、凍って眠っている可能性がある」


 フルカスが静かに目を伏せた。


「暦官クロセル……。懐かしい名でございますな」


「知ってるのか」


「直接深い親交があったわけではございませぬ。ですが、旧王都の時を預かる者として、名は広く知られておりました」


「なら、なおさら連れて帰る」


 ヴェスパーは村の方を見た。


「今の村には時間がない。飯、作業、見張り、交代、遠征、全部が感覚任せだ。このまま広げれば、どこかで事故る」


 悪魔たちは黙って聞いている。


「だから、時間を作る」


 その言葉に、何人かが首を傾げた。


 ヴェスパーは続ける。


「火を作った。飯を作った。家を直した。道を伸ばした。次は、時間だ」


 アガレスが感動したように両手を握った。


「王様、非常に王国らしいです!」


「まだ村だ」


「ですが、村が国になる途中です!」


「そういうのはあとでいい」


 ヴェスパーは指を折りながら指示を出す。


「作業用運搬炉を二台。そりを四台。つるはし、ロープ、毛布、保温用の皮。帰還柱用の黒石柱。赤印用の黒鉄板。冥骨粥の携行分。あと、解凍した奴を運ぶための寝台代わりになる板」


 ザグが頷いた。


「石柱は用意できる」


 モルクが手を上げる。


「そりは二台追加で出せる。板も積める」


 ハボリムが鍋を抱えたまま言う。


「粥は温かい方がよいのう」


「携行用だ。汁気は少なめにしろ」


「汁気の少ない粥は、粥なのかのう」


「今回は腹に入ればいい」


 ブエルがのんびりと笑う。


「塩花を少し混ぜておきますねぇ」


「毒じゃないな?」


「塩ですぅ」


「お前の言う塩は信用しきれないんだよな」


 バルガンは拳を鳴らした。


「王! 俺は何を持てばいい!」


「重いもの」


「任せろ!」


「本当に助かるな、お前は」


 グレルが静かに言った。


「索敵班、先行します」


「頼む。霜牙軍がいたら無理に近づくな」


「承知しました」


 ラゴが鼻を鳴らす。


「風の向きも見る。吹雪けば、匂いも音も変わる」


「頼む」


 バティンが低く頷く。


「柱の基礎は俺が固める」


「助かる。帰還柱は最優先だ」


 フルカスは剣を腰に帯び、静かに一礼した。


「いつでも参れます」


「今回は戦争じゃない」


 ヴェスパーは全員を見る。


「仲間を迎えに行く」


 その一言で、村の空気が変わった。


 戦いに行くのではない。

 奪いに行くのでもない。

 まだ見ぬ悪魔を、氷の下から連れて帰る。


 その意味を、今の村の悪魔たちは理解できた。


 なぜなら、自分たちもそうだったからだ。


 炉に救われた者。

 そりで運ばれてきた者。

 鉱山から回収された者。

 寒さと飢えの底から、名前を呼び戻された者。


 彼らは皆、誰かに迎えに来てもらった側だった。


「ならば」


 フルカスが静かに言った。


「一人でも多く、連れ帰りましょう」


「ああ」


 ヴェスパーは頷いた。


「一人でも多くだ」


     ◇


 門が開く。


 ゴゴゴゴ、と黒石の門が軋みながら左右へ動いた。


 その隙間から、白い風が流れ込んでくる。


 次の瞬間。


 ゴォォォォォッ!!


 凍てつく風が、一斉に村へ吹き込んだ。


「うわっ!」


「寒い!」


「結界の外、やっぱりやべぇ!」


「鼻が取れる!」


「取れたら拾え!」


「拾っても凍る!」


 悪魔たちが騒ぐ。


 ヴェスパーも思わず肩をすくめた。


「結界の外って、こんな寒かったか……!」


 頬を刺す冷気。

 骨の奥に染みる風。

 視界を白く潰す氷の粒。


 ほんの少し前まで、これが当たり前だった。


 ヴェスパーは振り返る。


 結界の内側では、炉の煙が上がっていた。

 鍛冶場の火が赤く揺れている。

 飯場には湯気があり、工房では悪魔たちが忙しく動いている。

 子悪魔たちは、寒さを忘れたように走っていた。


 門一枚。


 たったそれだけで、世界が違う。


「……いつの間にか、ここまで変わったんだな」


 ヴェスパーは小さく笑った。


 アガレスが隣で微笑む。


「はい」


 その声は、いつもより少しだけ穏やかだった。


「皆で築いた村です」


「まだ途中だけどな」


「途中だから、よいのでは?」


「まあな」


 ヴェスパーは前を向いた。


 白銀の荒野が広がっている。

 その先に、西がある。

 旧中央広場がある。

 クロセルがいるかもしれない。

 さらにその先には、王都パンデモニウムが眠っている。


「初めて行く場所だ。油断するなよ」


 悪魔たちが一斉に姿勢を正す。


「一定距離ごとに帰還柱を建てる。柱が立つまで先へ進まない。吹雪いたら止まる。見失ったら戻る。無理だと思ったら引き返す」


 バルガンが拳を上げた。


「王! 敵が出たら!」


「殴る前に報告しろ」


「報告してから殴る!」


「よし」


「よしなのですか、王様」


 アガレスが首を傾げる。


「だいぶ進歩してる」


「なるほど!」


 ヴェスパーは運搬炉を見た。


 小型の炉が、そりに固定されている。

 赤黒い火が揺れ、周囲にわずかな熱を広げていた。

 その前方には、黒石柱を積んだそり。

 後方には、毛布と皮を積んだ救助用のそり。


 この隊列そのものが、移動する小さな村だった。


「俺たちは冒険しに来たんじゃねぇ」


 ヴェスパーは白い荒野を見据えた。


「帰れる道を作りながら、第九圏を取り戻しに行くんだ」


 悪魔たちの目が燃える。


「行くぞ」


「「「おおおおお!!」」」


 運搬炉の赤い炎を先頭に、悪魔たちの隊列は進み始めた。


 そりが氷を削る。

 黒石柱が揺れる。

 武具が鳴る。

 風が唸る。


 門の内側から、ニムたち子悪魔が手を振っていた。


「王様ー!」


「早く帰ってきてください!」


「おみやげ!」


「おみやげは期待するな!」


 ヴェスパーは片手を上げて応えた。


 結界の外へ、一歩。


 さらに一歩。


 背後の村の火が、少しずつ遠ざかっていく。


 けれど、完全には消えない。


 赤い帰還柱がある。

 炉がある。

 道がある。


 もう、ただの氷原ではない。


 帰る場所がある荒野だ。


 隊列は西へ進む。


 白銀の地獄の向こうへ。


 止まった王都の夢が、その足音を待っているとも知らずに。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


もし面白いと感じていただけたら、

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更新は別の作品との兼ね合いでマイペースになると思います。


今後ともよろしくお願いいたします。

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