第二十一話 六魔王会議
地獄には、九つの圏がある。
だが、そのすべてに魔王が座しているわけではない。
第一圏は、魂を裁き、記録し、各圏へ送る裁定官たちの領分だった。地獄における門であり、役所であり、天界との連絡窓口でもある。
第二圏から第五圏、そして第七圏には、それぞれ欲望を極めた魔王たちが玉座を置いている。
第六圏には、魔王がいない。
そこでは、救われぬ悪魔たちが黒い聖堂を築き、相変わらずよく分からないものを崇拝している。神なのか、悪魔なのか、それともただの妄執なのか。魔王たちの誰も、まともに確かめようとはしなかった。
関わると面倒だからだ。
第八圏は、悪魔貴族と詐術師どもが互いに代表を名乗り、今日も誰が支配者かを偽造している。
そして第九圏は、長らく空白だった。
ルシファーが消えて以来、そこは凍り、朽ち、忘れられるはずの場所だった。
少なくとも、地獄の王たちはそう見ていた。
◇
地獄のどの圏にも属さぬ場所に、古い会議場がある。
そこは黒い石でできていた。
壁はなく、天井もない。見上げれば、暗い渦がゆっくりと回っている。床には血のような赤黒い水脈が走り、脈打つたびに、かすかな熱が足元から立ち上った。
中央には、巨大な円卓が置かれている。
黒い石を削り出した円卓だ。
表面には古い傷がいくつも刻まれていた。爪痕。剣痕。焦げ跡。契約の文字。消えかけた血判。
そして円卓の中央には、黒い水鏡があった。
水のようにも見え、油のようにも見え、時には溶けた影のようにも見える。そこに映るものは、地獄の各圏であり、時に天の光であり、時に誰かの嘘だった。
円卓には、七つの席がある。
だが、そのうち一つは空席だった。
背もたれは砕け、黒い翼の意匠が半ば欠けている。
誰もその席を直そうとはしなかった。
誰もそこへ座ろうとはしなかった。
やがて、会議場の黒い床が震えた。
最初に現れたのは、サタンだった。
黒鉄の鎧をまとった大柄な魔王である。赤黒い髪は炎のように逆立ち、片頬には古い傷が走っている。彼が歩くたび、床の赤い水脈が熱を帯びた。
彼が席に着くだけで、会議場の空気が戦場に変わる。
次に、金貨の擦れる音がした。
マモンが現れる。
豪奢な外套をまとい、指という指に宝石の指輪をはめた魔王だ。笑みは柔らかい。だが、その目は何一つ見逃さない商人の目をしていた。
「ご機嫌が悪いようですね、サタン」
「黙れ」
「これは失礼」
マモンは笑ったまま、自分の席へ滑り込む。
羽音がした。
かすかな、黒い羽音。
しかし現れたのは、腐肉の怪物ではなかった。
白い手袋をはめた、清楚な女である。上品な礼装をまとい、長い髪をきちんと整え、柔らかな微笑みを浮かべていた。
暴食の魔王、ベルゼブブ。
彼女は席に着くなり、どこからか取り出した小さな焼き菓子を口へ運んだ。
「会議前の軽食です」
「誰も聞いていない」
サタンが低く言う。
「そうでしたか」
ベルゼブブは丁寧に微笑み、二つ目の菓子を口へ運んだ。
甘い香りが漂った。
アスモデウスが、最初からそこにいたかのように席に座っていた。艶やかな髪、豊かな肢体、退屈そうな微笑み。目を合わせた者の奥にある欲望を、指先でなぞるような魔王だった。
「あら、今日は荒れそうね」
「いつも通りだ」
サタンは吐き捨てる。
「あなたのいつもは、だいたい荒れているわ」
黒い水面が揺れた。
青黒い水が円卓の端からあふれ、そこからレヴィアタンが浮かび上がる。
濡れた夜のような長い髪。深海色の瞳。派手な装飾。軽く笑う口元。背後には、巨大な蛇か竜のような影が一瞬だけ揺れた。
「お待たせー。って、別に待ってないか」
「待っていない」
サタンが言う。
「だよね。ウケる」
最後の席には、いつの間にか寝台が置かれていた。
その上で、ベルフェゴールが横になっている。
乱れた衣。片方だけ欠けた角。眠そうな目。会議に来たのか、寝に来たのか、本人にも分かっていなさそうだった。
「……始まったか?」
「まだだ」
「なら寝る」
「起きろ」
「面倒だな」
六つの魔王が、円卓に揃った。
ただ一つ、砕けた席だけが空いたままだった。
マモンが、わざとらしく辺りを見回す。
「第一圏の裁定官たちは?」
アスモデウスが薄く笑う。
「来ると思う?」
「来られるわけがないでしょう」
マモンは肩をすくめた。
「魂の振り分け、裁定記録、天界への照会、異議申し立て、移送手続き、罪状訂正、再審請求」
指を折って数えるたび、ベルフェゴールの顔が嫌そうに歪んだ。
「まさに地獄のような仕事です」
一瞬、円卓が静まり返った。
次の瞬間、六魔王たちは揃って笑った。
サタンでさえ、鼻で笑った。
「地獄で一番の地獄が事務方とはな」
「絶対に行きたくない」
ベルフェゴールが寝台の上で呟いた。
ベルゼブブは、三つ目の菓子を食べながら頷く。
「長時間の事務には、糖分が必要ですね」
「お前は何にでも食を絡めるな」
「暴食ですので」
レヴィアタンが頬杖をつく。
「第六圏は?」
「来るわけがない」
マモンが言った。
「あそこは今日も、よく分からんものに祈っている」
「相変わらずか」
「相変わらずです」
アスモデウスが笑う。
「祈って何かが変わるなら、地獄はもう少し静かでしょうに」
「第八圏は?」
サタンが問う。
マモンはうんざりしたように笑った。
「代表が十二人来ると言っていました」
「多いな」
「全員が偽物でした」
「いつも通りだな」
ベルフェゴールが目を閉じたまま言う。
「本題に入れ。長い」
「貴様が言うな」
サタンの声が低くなる。
円卓の中央。
黒い水鏡が、ゆっくりと揺れた。
「第九圏だ」
その名が出た瞬間、会議場の笑いが消えた。
レヴィアタンが水鏡を覗き込む。
「第九圏?」
サタンの赤い瞳が、黒い水面に向けられる。
「映せ」
水鏡が震えた。
黒い水面に、白い氷が映る。
凍てついた大地。
暗い空。
冷たい風。
かつて、死んだはずの圏。
その中に、赤黒い火があった。
炉だ。
骨と黒石と鉄で組まれた、不格好な炉が低く唸っている。
その周囲で、悪魔たちが器を抱えていた。
湯気の立つ粥をすすっている。
別の光景に変わる。
赤い帰還柱。
そり道。
石切り場の小さな炉。
黒い鉱山の入口。
補強された支柱。
工房で黒鉄を叩く悪魔たち。
カン、カン、と黒鉄の音が、水鏡越しに響いた。
そして、銀髪の男。
白い肌、暗い赤の瞳。
その男は、王座には座っていなかった。
研究所らしき場所で図面を睨み、隣の小さな悪魔に何かを記録されながら、眉間を押さえていた。
レヴィアタンが、ぽつりと言った。
「第九圏、なにあれ。ウケるんだけど」
サタンの拳が、円卓を軋ませた。
「笑い事ではない」
「いや、だってさ」
レヴィアタンは水鏡を指差す。
「あそこ、ずっと凍ってるだけだったじゃん。なのに火とか、粥とか、工房とかさぁ。楽しそうなの、普通にムカつく」
「ずるい、か?」
アスモデウスが笑う。
「そう。ずるい」
レヴィアタンはあっさり頷いた。
マモンの目は、すでに別の場所を見ていた。
黒い鉱山。
積まれた黒鉄鉱。
魔鉱石らしき結晶。
工房の火。
「黒鉄鉱。魔鉱石。炉の技術。鉱山再稼働」
マモンの笑みが深くなる。
「凍った墓場だと思っていましたが、宝の山ですね」
「宝だと?」
サタンが睨む。
「怒る前に、価値を見積もるべきでしょう」
「貴様は何でも値札にする」
「値札が付かぬものほど危険ですから」
その時、ベルゼブブが持っていた菓子を止めた。
彼女は、初めて本気で水鏡を覗き込む。
映っていたのは、冥骨粥だった。
器を抱えた悪魔が、湯気を吸い込むように粥を口へ運んでいる。痩せ、輪郭を失いかけていたその姿が、火のそばで少しずつ戻っていく。
「冥骨粥、ですか」
ベルゼブブは、白い手袋をはめた指を口元に添えた。
「だしが何なのか、非常に興味が湧きますね」
「粥の話をしている場合か」
サタンが苛立たしげに言う。
「いえ、粥の話をしています」
ベルゼブブは、丁寧に微笑んだ。
「おそらく、あれは粥と言っていますが、ただの食事ではありません」
その声に、円卓の空気がわずかに変わる。
「精神生命体の魂の輪郭を、食という形式で復元している」
水鏡の中で、悪魔が器を抱えたまま息を吐く。
震えていた手が、少しずつ落ち着いていく。
「飢えを満たすだけではありません。崩れた形を繋ぎ直し、名を呼ばれた時に応えられるだけの自我を戻している」
ベルゼブブの瞳が、湯気に細まる。
「食える地獄は強いですよ」
そう言ってから、彼女はふと口元に白いハンカチを当てた。
「おっと。失礼いたしました。よだれが」
「……台無しだ」
サタンが低く吐き捨てる。
「暴食ですので」
ベルゼブブは清楚に微笑んだ。
アスモデウスは、水鏡の中の銀髪の男を見ていた。
「王座ではなく、炉を見る王か」
その声には、退屈を忘れた者の甘さがある。
「坑道を見て、粥を作り、工房を動かす。ふふ。退屈しなさそうね」
「王だと?」
サタンの声が低くなる。
「誰が認めた」
「周りがそう呼んでいるわ」
「呼ばれたら王か」
「欲望の世界では、呼ばれ方も力よ」
ベルフェゴールが、寝台の上で薄目を開ける。
「暖かい寝床は?」
誰もすぐには答えなかった。
レヴィアタンが笑う。
「あるっぽいよ」
「なら、少し興味がある」
「お前までか」
サタンの苛立ちは増していく。
黒い水鏡には、黒鉄を叩く工房が映っている。
鉱山前では、工夫の悪魔たちが支柱を立てていた。
そり道を、荷を積んだ悪魔たちが進んでいる。
炉の周りでは、子悪魔が粥を配っている。
水鏡がさらに揺れ、研究所の中を映す。
ヴェスパーが、大きな図面を広げていた。
第九圏全体の図面だ。
サタンの拳が、円卓に沈む。
「誰が許した」
その声で、黒い会議場が震えた。
「第九圏は、ルシファーと共に終わるはずだった。凍り、砕け、忘れられるはずだった」
黒い水鏡の中で、第九圏の炉が揺れる。
「魔王である俺たちの許可もなく、勝手なことをしてやがる」
誰も笑わなかった。
サタンは水鏡の中の男を睨む。
「名は」
マモンが答えた。
「ヴェスパー、と呼ばれているようです」
「誰が名付けた」
「リリスです」
その名に、円卓の空気が冷えた。
レヴィアタンの笑みが薄くなる。
アスモデウスの目が少しだけ細まる。
ベルゼブブは、菓子を持つ手を止めた。
サタンは低く唸る。
「あの女か」
「ええ」
マモンは指輪だらけの指を組む。
「本来の流れにない魂を、第九圏へ送り込んだらしい」
「あの女、何しやがったんだ」
「定かではありません」
マモンは笑みを崩さない。
「ただ、予定にない魂を第九圏へ送り込み、この結果になった」
水鏡の中で、ヴェスパーが額を押さえている。
隣のアガレスが、嬉しそうに記録していた。
アスモデウスが、柔らかく言う。
「彼女なりに、何か感じるものがあったのでしょう」
「余計なことを」
サタンが吐き捨てた。
「ならば、軍を起こすか?」
その一言で、会議場の熱が跳ね上がる。
「第九圏が形を取り戻す前に潰す。炉も鉱山も工房も、まとめて砕けばいい」
「深淵送りになりたいのですか?」
マモンが、穏やかな声で言った。
サタンの赤い瞳が、マモンを射抜く。
「……何だと」
「リリスのように、と申し上げたのです」
沈黙。
深淵。
その名を、魔王たちは軽々しく扱わない。
天界の牢ではない。
神が封じた底。
魔王ですら、そこへ落とされたいとは思わない。
ベルフェゴールが寝台の上で呟く。
「深淵送りは面倒だ」
「面倒で済むか」
「戻る手続きがなさそうだ」
「戻れんから深淵なのです」
マモンが淡々と言った。
サタンは舌打ちする。
「天界が第九圏に肩入れするというのか」
「肩入れするかは分かりません」
アスモデウスが、艶やかに笑う。
「けれど、見ているわ」
「誰がだ」
「ウリエル」
その名に、サタンの目が鋭くなる。
「青い瞳の熾天使が、あの火を見ている。第九圏はもう、天界の監視対象よ」
マモンが続ける。
「今、我々が軍を動かせば、天界に大義名分を与えることになります」
「大義名分など知るか」
「知るべきです。戦争は高くつきますので」
「金の話か」
「命も金も、失えば戻すのに手間がかかります」
ベルフェゴールがあくびをする。
「下手に手を出せば、戦争になる」
その言葉に、誰もすぐには笑わなかった。
かつて天と地獄がぶつかった戦は、遠い昔話ではない。
ルシファーが消えた。
第九圏が凍った。
地獄の底には、今もその焦げ跡が残っている。
サタンは、しばらく水鏡を睨んでいた。
その目に映るのは、炉だ。
黒鉄だ。
粥だ。
図面だ。
戦場ではない。
だが、サタンには分かる。
炉が戻れば、飯が戻る。
飯が戻れば、数が戻る。
数が戻れば、軍が戻る。
王がそれを望むかどうかは関係ない。
国は、動き始めた時点で戦場になる。
「ならば、指をくわえて見ていろというのか」
「いいえ」
マモンが笑う。
「軍ではなく、目を送ればよいのです」
「斥候か」
「斥候、使者、商人、迷い人。名目はいくらでもあります」
レヴィアタンが笑った。
「迷い人、いいじゃん。あたし、迷っちゃおうかな」
「お前は迷う気がないだろ」
「バレた?」
ベルゼブブは水鏡の粥を見つめたまま、静かに言った。
「料理研究という名目もございます」
「ない」
サタンが即答する。
「残念です」
「第九圏への全面侵攻は見送り、ですか」
マモンが確認する。
「ただし監視は強める。ヴェスパーの正体、リリスとの関係、黒鉄と魔鉱石、炉の技術、そして冥骨粥」
ベルゼブブが嬉しそうに微笑む。
「粥も入れていただけるのですね」
「入れなければ、貴様が勝手に調べるだろう」
「否定はいたしません」
サタンは円卓を見回した。
マモン。
ベルゼブブ。
アスモデウス。
レヴィアタン。
ベルフェゴール。
どいつもこいつも、自分の欲しか見ていない。
そして、それこそが魔王だった。
「いいか」
サタンの声が、黒い会議場に落ちる。
「なんにせよ、抜け駆けはするなよ」
誰も異を唱えなかった。
マモンは笑みを崩さない。
アスモデウスは退屈そうに爪先を揺らしている。
ベルゼブブは白いハンカチで、上品に口元を拭っていた。
レヴィアタンは黒い水鏡を覗いたまま、くすりと笑う。
ベルフェゴールは、もう眠っていた。
誰も異を唱えなかった。
そして、誰も信用できなかった。
黒い水鏡の中で、第九圏の炉が赤く揺れている。
サタンは、その火を睨んだ。
だが、彼の視線はやがて、円卓の空席へ移る。
砕けた背もたれ。
欠けた黒い翼の意匠。
かつて、そこに座っていた者の名を、誰も口にしなかった。
サタンが低く吐き捨てる。
「ルシファーのやつ」
黒い会議場に、その名だけが重く落ちた。
「いなくなっても、結局話題の中心か」
サタンの拳が、円卓を軋ませる。
「腹立たしいやつだ」
空席は、何も答えない。
水鏡の中では、第九圏の炉が燃えている。
サタンは、苛立たしげに牙を剥いた。
「さっさと出てきやがれって話だ」
その声に答える者はなく、黒い水鏡の中で、第九圏の炉だけが赤く燃えていた。
第一章 完
勢いで書き始めましたが、構想自体はずっと頭の中にありました。
今回は、その中身をひとまず吐き出すような形になりました。
これで、いったん第一章完了です。
第二章は、また合間を見ながら書いていきたいと思います。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。




