第十七話 六枚羽根の問い
黒い氷原の向こうに、村の輪郭が見えてきた。
いつもなら、まず目に入るのは中央炉の赤い火だ。
凍りついた地獄の底で、そこだけが生き物のように脈打ち、赤い湯気を吐いている。その火を目印にすれば、吹雪の中でも帰る場所を見失わずに済む。
だが、今は違った。
村が、金色に染まっていた。
黒い氷原の先で、防壁も、工房も、帰還柱も、中央炉から立つ赤い湯気までもが、異質な光を浴びて淡く輝いている。
天から落ちたような光だった。
赤い炉の火とは違う。
黒紅の魔力とも違う。
第九圏の氷を照らすには、あまりにも澄みすぎている。
バルガンが、そりの前で低く唸った。
「敵襲か」
「落とすなよ」
ヴェスパーは即座に言った。
バルガンは肩越しに振り返る。
「王様、そこか?」
「そこだ。敵襲だろうが天罰だろうが、プルトンを落としたら介護の手間が増える」
「お、おう」
そりの上には、毛皮に包まれたプルトンが横たわっていた。
黒鉄鉱山の旧坑道長。
氷の底から救い出された悪魔。
意識は戻りかけているが、体力はまだない。骨のように痩せた顔は毛皮の間に半分埋まり、時折、坑道の奥を思い出すように浅く呻いている。
「奥に……まだ……」
「分かってる」
ヴェスパーは短く返した。
「だから落とすな。こいつの口から、まだ聞かなきゃならんことがある」
「分かってるって!」
バルガンはそりの縄を握り直した。
その横で、アガレスが金色の光を見上げていた。
いつもの好奇心に満ちた顔ではない。
口元は笑っているが、目だけはわずかに細い。
「王様」
「なんだ」
「あれは、普通の天使の光ではありません」
「見りゃ分かる。普通のやつは、村全体を照明器具にしない」
「おそらく、かなり上位の存在です」
「かなりってどのくらいだ」
「私が不用意な冗談を控えたくなるくらいです」
「それは相当だな」
フルカスが、そりの後方から静かに前へ出た。
老騎士の手は剣の柄に添えられている。
抜いてはいない。
だが、その姿勢だけで、すぐに前へ出られることが分かった。
「王様。村の内側に敵意の匂いはございませぬ」
「敵意はない?」
「はい。ただし、圧はあります」
「圧だけで村が潰れそうだな」
ヴェスパーは金色に染まる村を見た。
中央炉の赤い湯気が、天の光に触れて薄い金へ変わっている。
帰還柱の赤も、いつもより淡い。
工房の煙も、防壁の黒石も、すべてが異質な光の中に浮かび上がっていた。
気持ち悪いほど綺麗だった。
「急ぐぞ」
ヴェスパーは歩き出した。
「プルトンを炉の横へ運ぶ。あの光が何だろうと、冷えたまま放置する理由にはならん」
「おう!」
バルガンがそりを引く。
黒い氷の上を、そりが軋みながら進んだ。
村の門をくぐった瞬間、空気が変わった。
いつもの炉の熱。
冥骨粥の匂い。
黒鉄を叩いた後の金属臭。
溶けた氷の湿った匂い。
それらすべての上に、金色の静けさが重なっていた。
中央炉の隣に、光柱が立っていた。
天から真っ直ぐ降りる、金色の柱。
その中に、ひとりの天使が立っている。
美しい相貌だった。
白金の髪は、炉の赤い光を受けても色を失わない。
青い瞳は、凍った湖面のように澄んでいる。
整った顔立ちは穏やかで、怒りも驚きも浮かんでいない。
だが、背に広がる六枚の羽根が、その穏やかさを人ではないものに変えていた。
六枚の羽根。
それぞれの縁が、炎のように淡く揺らめいている。
白い羽根でありながら、その輪郭だけが金色に燃えていた。
天使というより、裁きの火が人の形を取ったようだった。
その背後には、さらに複数の天使が控えていた。
普通の天使ではない。
光槍を手にした者。
翼の内側に目のような光を宿す者。
大柄で、厚い鎧をまとった戦士のような者。
黒い肌に、銀の鎧を着けた女性天使。
細身でありながら、周囲の光を刃のように尖らせている者。
顔立ちも、体格も、気配も違う。
だが、全員が同じ方向を見ていた。
ヴェスパーを。
「……天使の団体様かよ」
呟いた瞬間、護衛たちの視線が一斉に刺さった。
光槍の穂先が、わずかに動く。
空気が重くなる。
炉の火が一瞬だけ低く唸った。
アガレスが、ヴェスパーの袖を小さく引いた。
「王様、普通の天使ではありません」
「見りゃ分かる。普通のやつは、睨むだけで空気を重くしない」
「では刺激しないでください」
「もう遅そうだな」
護衛の一人が、半歩前へ出た。
その瞬間、中央に立つ天使が片手を上げた。
それだけだった。
声もない。
命令もない。
だが、護衛たちは即座に動きを止めた。
光槍の穂先が下がる。
重かった空気が、わずかにほどける。
ヴェスパーはその光景を見て、片眉を上げた。
「上司がまともで助かる」
アガレスが小声で言った。
「王様」
「今のは褒めただろ」
「褒め方です」
六枚羽根の天使が、静かに口を開いた。
「私はウリエル。地獄門を管理する者だ」
声は低くも高くもなかった。
ただ、よく通る。
金属を叩いた音ではない。
鐘を鳴らした音でもない。
火が燃える前の、一瞬の静寂に近かった。
「第九圏における異常活性を確認した」
「異常活性ねぇ」
ヴェスパーは中央炉の横に立つウリエルを見た。
炉の赤。
天界の金。
その二つの光が並んでいる。
まったく違うもののはずなのに、どちらも火に見えた。
ウリエルは続けた。
「炉の増設。熱道の拡張。結界装置の稼働。帰還柱。悪魔個体の消滅傾向からの回復。さらに南方鉱山跡への進出」
「よく見てるな」
「地獄門を管理する者として、必要な確認だ」
「で、確認してどうする」
ウリエルの青い瞳が、まっすぐヴェスパーを捉えた。
「お前は何者だ」
「それ、俺も知りたいんだよな」
護衛天使たちの視線が、また鋭くなった。
アガレスが小声で囁く。
「王様」
「事実だろ。記憶はない。名前も後付け。所属は第九圏。俺に分かる情報なんて、その程度だ」
ウリエルは表情を変えなかった。
「名は」
「ヴェスパー」
「誰が与えた」
そこで、周囲の空気が少し変わった。
アガレスが黙る。
フルカスも口を閉ざす。
ヴェスパーは、ウリエルの青い瞳を見返した。
「リリスだ」
護衛の一部が、わずかに反応した。
光槍の握りが強くなる。
黒い肌の女性天使が、鋭い目でヴェスパーを見た。
ウリエルは沈黙した。
ほんの一瞬。
「そうか」
「メタトロンみたいな返事するな」
アガレスが、今度は明確に袖を引いた。
「王様」
「分かった。天界ジョークは難しいな」
ウリエルの表情は動かない。
怒ったのかどうかも分からなかった。
ヴェスパーは一度息を吐き、周囲を見た。
村の悪魔たちは、遠巻きにこちらを見ている。
怯えはある。
緊張もある。
だが、全員が固まっているわけではなかった。
工房のそばでは、メルツたちが道具を抱えたまま立っている。
鍋の前ではハボリムが火加減を見ている。
そりの横ではモルクが木材を押さえている。
天使が来ても、村は完全には止まっていない。
それでいい。
「攻撃じゃないんだな」
ヴェスパーが言うと、アガレスが小さく頷いた。
「今のところは、視察です」
「なら全員で固まる必要はない」
ヴェスパーは振り返った。
「バルガン」
「おう!」
「プルトンを炉の横へ運べ。毛皮を増やせ。粥は薄めでいい。温かいやつを飲ませろ」
「おう!」
「乱暴に置くなよ」
「分かってる!」
バルガンはそりを引き、中央炉の脇へ向かった。
その巨体が、毛皮に包まれたプルトンを驚くほど慎重に抱え上げる。
普段なら岩でも投げるように扱いそうな腕が、今は壊れ物を運ぶように動いていた。
「モルク」
ヴェスパーが呼ぶと、モルクがすぐに顔を上げた。
「はい」
「救助準備を止めるな。木材、縄、灯り、そり、黒鉄釘。坑道にいつでも戻れるように揃えろ」
「分かった」
「鉱山跡にはまだ入るな。だが、行ける準備だけはしておけ」
「承知しました」
「天界の相手は、俺とアガレスとフルカスでやる」
モルクは一度だけウリエルを見た。
それから、何も言わずに動き出す。
木材をまとめる。
縄を確認する。
灯り用の黒石筒をそりへ積む。
黒鉄釘を数え直す。
その動きにつられて、他の悪魔たちも動き始めた。
毛皮が集められる。
鍋に薄い粥が足される。
灯りが整えられる。
そりに補強材が積まれる。
天界の光を前にしても、村は止まらなかった。
ウリエルは、それを黙って見ていた。
護衛天使たちも、村の動きを警戒しながら見ている。
だが、そこに突撃はない。
混乱もない。
罵声もない。
悪魔たちは天使を見て震えながらも、自分の持ち場へ戻っていく。
怪我人を炉へ運ぶ。
鍋に火を入れる。
救助用資材をそりに積む。
毛皮を重ねる。
ウリエルの青い瞳が、わずかに細まった。
「止まらぬのだな」
「止まったらプルトンが冷える。坑道救助も遅れる。天使が来たからって、現場の問題は消えない」
「現場」
「目の前のことだ」
ヴェスパーは中央炉を指した。
「炉が暴れたら村が焼ける。粥が足りなきゃ悪魔が倒れる。坑道で支柱が折れたら中にいるやつごと潰れる。天界の視察より、そっちの方が今は急ぎだ」
護衛天使のひとりが眉をひそめた。
だが、ウリエルは片手をわずかに動かし、黙らせた。
「問う」
ウリエルは言った。
「お前は、この第九圏で何をしている」
周囲の音が少し遠のいた。
炉の唸り。
鍋の音。
木材を積む音。
縄を締める音。
そのすべてが、問いの外側へ退いたようだった。
ヴェスパーは少し考えた。
そして、答えた。
「生活改善だ」
ウリエルの表情は変わらなかった。
「生活改善」
「ああ。寒いから火を置いた。腹が減るから粥を作った。道がないから道を作った。壊れるから直した。凍ってたやつがいたから助けた。それだけだ」
「それだけで、第九圏の状態は変わらぬ」
「変わった方がましだったから変えた」
ウリエルは、中央炉を見た。
赤黒い火。
その周りに集まる悪魔たち。
毛皮の上で薄い粥を口にするプルトン。
「ここは地獄だ」
「知ってる」
「第九圏は最下層。重き罪を背負う者たちが堕ちる場所だ」
「それも聞いた」
「地獄は罰の場所である。第九圏の苦寒は、裁きの構造そのものだ」
ウリエルの声は静かだった。
怒鳴らない。
責め立てない。
だが、言葉には重さがあった。
「お前はそこを温め、食わせ、救っている。それは罰の意味を変える行為ではないのか」
護衛天使たちの視線が集まる。
アガレスがわずかに息を呑んだ。
フルカスは静かに目を伏せている。
ヴェスパーは、中央炉の火を見た。
「罰はここにいる時点で受けている」
自分でも、思ったより低い声が出た。
「凍えて消えるだけなら、罰じゃなくて放置だろ」
ウリエルは黙っている。
「腹が減って、寒くて、喋る力もねぇやつに、何を悔いろっていうんだ。何を選べっていうんだ。何を変えろっていうんだ」
ヴェスパーは自分の胸元に手を当てた。
そこに銃創はない。
自分が何者だったかも分からない。
だが、死んだ時の空洞だけは、まだ残っている気がした。
「逆に聞きたいが、記憶のない俺の罰はいったい何なんだよ」
護衛天使たちの目が鋭くなる。
ヴェスパーは続けた。
「現場監督という苦行か?」
「王様」
アガレスが小声で注意した。
ヴェスパーは横目で見た。
「今のは真面目な話だろ」
「後半が違います」
「真面目な軽口だ」
「難しい分類です」
ウリエルは、微動だにしなかった。
「悪魔は、己の罪によりここへ堕ちた」
その言葉に、フルカスが一歩前へ出た。
老騎士は剣を抜かない。
膝もつかない。
ただ、深く頭を下げた。
「その通りでございます」
声は静かだった。
「我らは罪なき者ではございませぬ。天に背き、敗れ、堕ちた。あるいは己の欲に従い、道を誤った者もおりましょう」
フルカスは顔を上げた。
「ですが、消えゆくことを受け入れるだけが罰であるなら、我らはすでに何度も死んでおります」
炉の火が、低く鳴った。
「王様が火を置かねば、我らは悔いる前に消えておりました」
ウリエルは、フルカスを見た。
フルカスの背筋は伸びている。
かつて死を待っていた老悪魔ではない。
まだ老いは残る。
罪も残る。
だが、目には火がある。
「お前は、悔いているのか」
ウリエルが問うた。
フルカスは少しだけ黙った。
「分かりませぬ」
正直な答えだった。
「ですが、いまは悔いるだけの時間がございます。王様がくださった火により、我らは消えるだけではなくなりました」
ウリエルは答えなかった。
その時、炉の横から呻き声が聞こえた。
「奥に……まだ……」
プルトンだった。
毛皮に包まれ、薄い粥を口元に運ばれながらも、彼は浅く息をしながら呟いている。
「坑道の……奥に……声が……」
ヴェスパーはすぐにそちらを向いた。
「分かってる。準備してる」
「柱……折れる……先に……右を……」
「右だな」
ヴェスパーはモルクへ視線を送った。
「聞いたか」
「聞いた。坑道右側の支柱を優先確認」
「よし」
ウリエルが言った。
「まだ救うのか」
ヴェスパーは振り返る。
「助かるならな」
「悪魔を救うのか」
「悪魔だからじゃない」
「では何故だ」
ヴェスパーはプルトンを見た。
毛皮に包まれた旧坑道長。
折れかけた声で、まだ奥の仲間を案じている悪魔。
「ただそこに助けを求めているやつがいるかもしれないからだ」
「それだけか」
「それ以上いるか?」
ウリエルは沈黙した。
護衛天使たちも、すぐには反応しなかった。
炉の横で、バルガンがプルトンの毛皮を直している。
鍋の前では、ニムが小さな器を抱えて待っている。
モルクはそりに灯りを積み、黒鉄釘の束を確認している。
天使の問いの横で、村は次の救助へ向けて動いていた。
アガレスが、ふと顔を上げた。
「王様」
「今度はなんだ」
「天界側にも記録係がいます」
見ると、護衛天使の一体が光の書板を持っていた。
淡い金色の板に、細かな文字が自動で刻まれている。
書いているのは手ではない。
光そのものが、出来事を記録しているようだった。
アガレスの金色の瞳が、ぎらりと輝いた。
「負けられません」
「張り合うな」
「記録係として」
「負けていい」
「王様、記録は戦いです」
「違う」
ウリエルが静かに言った。
「記録は裁定のためにある」
ヴェスパーは、アガレスの抱える記録板を見た。
失敗した炉の構造。
熱道の継ぎ目。
灰豆による負傷件数。
冥骨粥の改善案。
坑道支柱の必要数。
「こっちの記録は、次に失敗しないためにある」
ウリエルの瞳が、わずかに動いた。
「失敗」
「炉は割れる。排管は詰まる。粥はまずい。坑道は崩れる。記録しなきゃ、同じ失敗を繰り返す」
「悪魔が失敗を記録するのか」
「悪魔だろうが天使だろうが、継ぎ目が甘けりゃ漏れるだろ」
アガレスが、なぜか誇らしげに胸を張った。
「王様の教えです。熱は逃げます」
「そこだけ切り取るな」
ウリエルは村を見渡した。
炉。
粥。
工房。
帰還柱。
救助準備。
プルトン。
赤い火の周囲で、悪魔たちは働いている。
反乱軍のようには見えない。
だが、ただの囚人でもない。
更生と呼ぶには早い。
反乱と断じるには違う。
ウリエルは、ゆっくりと口を開いた。
「これは反乱か、更生か。今は判断しない」
護衛天使たちが、静かに姿勢を正した。
「だが、第九圏は監視対象となる」
「元から見てただろ」
「正式に、だ」
「嫌な言い直しだな」
ウリエルは続けた。
「生活改善。その言葉も記録しておく」
「好きにしろ。こっちは坑道で手一杯だ」
「その未来が、地獄門へ至るものでないことを願う」
「坑道は鉱山だ。門なんか掘ってる暇はない」
ウリエルの六枚羽根が、静かに揺れた。
「ならば警告しておく」
空気が、再び引き締まった。
護衛天使たちの光が強くなる。
炉の火とは違う、金色の圧。
「地獄門を開くな」
ウリエルは言った。
「天への道を探るな」
青い瞳が、ヴェスパーを捉える。
「魂の流れを乱すな」
光柱が、低く鳴る。
「悪魔を地上へ出すな」
六枚の羽根の縁が、炎のように揺らめいた。
「それを越えれば、私は門番として介入する」
村の悪魔たちが息を呑む。
ヴェスパーは、少しだけ眉をひそめた。
「今は坑道の入口で手一杯だ。まだそんな余裕ねぇよ」
「まだ、か」
「言葉尻を取るな」
ウリエルは答えない。
ただ、ヴェスパーを見ていた。
ヴェスパーも視線を逸らさなかった。
しばらくして、ウリエルが片手を上げた。
背後の光柱が、さらに明るくなる。
上級天使たちが一斉に動いた。
光槍を持つ者が先に昇る。
翼の内側に光を宿す者が、それに続く。
大柄な鎧の天使。
黒い肌の女性天使。
光の書板を持つ記録係。
ひとり、またひとりと、金色の柱の中へ消えていく。
最後に残ったのは、ウリエルだけだった。
彼はもう一度、村を見渡した。
中央炉の赤い火。
毛皮に包まれたプルトン。
坑道救助の準備に走る悪魔たち。
粥を運ぶ小さな悪魔。
面倒そうな顔で腕を組んでいるヴェスパー。
王座に座らない。
剣を掲げない。
命令だけで世界を動かそうとしない。
ただ火を置き、道を作り、倒れた者を拾う。
それが、誰かに似ている。
ウリエルの胸中に、遠い記憶の火がかすかに揺れた。
かつて天に背きながらも、誰より強く火を掲げた者。
その名を、ここで口にすることはなかった。
ウリエルは、ほんのわずかに唇の端を緩めた。
「――似ているな」
その声は、誰にも届かないほど小さかった。
ふ、と。
ほんの一瞬だけ笑い、ウリエルは金色の光に包まれた。
六枚の羽根が閉じる。
光柱が収束する。
次の瞬間、天界の光は消えた。
村に残ったのは、中央炉の赤い火だけだった。
金色の輝きが消えても、炉は燃えている。
天から与えられた光ではない。
誰かに赦された証でもない。
悪魔たちが、自分たちで灯した火だった。
ヴェスパーはしばらく空を見ていた。
そこにはもう、天の裂け目も、六枚羽根の影もない。
ただ、いつもの黒い空が広がっている。
「王様」
アガレスが小さく声をかけた。
「天界の記録に、載りましたね」
「嬉しそうに言うな」
「少しだけ」
「面倒ごとが増えただけだ」
フルカスが静かに言った。
「ですが、敵とはなりませなんだ」
「今は、な」
ヴェスパーは肩を回した。
「天使の相手は終わりだ」
そして、毛皮に包まれたプルトンを見る。
プルトンは浅い息をしながら、まだ何かを呟いていた。
「奥に……右……古い支柱……黒鉄の梁……」
「聞こえてる」
ヴェスパーはモルクを見る。
「準備は」
「木材、縄、灯り、そり、黒鉄釘。すぐ出せる」
「バルガン」
「おう!」
「今度は殴るな。運べ」
「お、おう……必要なら殴る」
「必要になるまで殴るな」
「分かった!」
アガレスが記録板を抱え直した。
「王様。坑道救助の記録も、私が」
「天界に負けたくないだけだろ」
「少しだけ」
「正直でよろしい」
ヴェスパーは中央炉の火を見た。
天界の光は消えた。
だが、村の火は消えていない。
その火の前で、悪魔たちは次の仕事へ動き出している。
ヴェスパーは息を吐いた。
「次は、坑道救助だ」
赤い炉の光が、黒い氷の地獄を静かに照らしていた。
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