表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
第九圏の欠落王 ―棺の底から始める地獄改革―  作者: カイメイラ
第一章 氷獄に火を灯す

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/28

第十七話 六枚羽根の問い


 黒い氷原の向こうに、村の輪郭が見えてきた。


 いつもなら、まず目に入るのは中央炉の赤い火だ。


 凍りついた地獄の底で、そこだけが生き物のように脈打ち、赤い湯気を吐いている。その火を目印にすれば、吹雪の中でも帰る場所を見失わずに済む。


 だが、今は違った。


 村が、金色に染まっていた。


 黒い氷原の先で、防壁も、工房も、帰還柱も、中央炉から立つ赤い湯気までもが、異質な光を浴びて淡く輝いている。


 天から落ちたような光だった。


 赤い炉の火とは違う。

 黒紅の魔力とも違う。

 第九圏の氷を照らすには、あまりにも澄みすぎている。


 バルガンが、そりの前で低く唸った。


「敵襲か」


「落とすなよ」


 ヴェスパーは即座に言った。


 バルガンは肩越しに振り返る。


「王様、そこか?」


「そこだ。敵襲だろうが天罰だろうが、プルトンを落としたら介護の手間が増える」


「お、おう」


 そりの上には、毛皮に包まれたプルトンが横たわっていた。


 黒鉄鉱山の旧坑道長。

 氷の底から救い出された悪魔。


 意識は戻りかけているが、体力はまだない。骨のように痩せた顔は毛皮の間に半分埋まり、時折、坑道の奥を思い出すように浅く呻いている。


「奥に……まだ……」


「分かってる」


 ヴェスパーは短く返した。


「だから落とすな。こいつの口から、まだ聞かなきゃならんことがある」


「分かってるって!」


 バルガンはそりの縄を握り直した。


 その横で、アガレスが金色の光を見上げていた。


 いつもの好奇心に満ちた顔ではない。

 口元は笑っているが、目だけはわずかに細い。


「王様」


「なんだ」


「あれは、普通の天使の光ではありません」


「見りゃ分かる。普通のやつは、村全体を照明器具にしない」


「おそらく、かなり上位の存在です」


「かなりってどのくらいだ」


「私が不用意な冗談を控えたくなるくらいです」


「それは相当だな」


 フルカスが、そりの後方から静かに前へ出た。


 老騎士の手は剣の柄に添えられている。

 抜いてはいない。

 だが、その姿勢だけで、すぐに前へ出られることが分かった。


「王様。村の内側に敵意の匂いはございませぬ」


「敵意はない?」


「はい。ただし、圧はあります」


「圧だけで村が潰れそうだな」


 ヴェスパーは金色に染まる村を見た。


 中央炉の赤い湯気が、天の光に触れて薄い金へ変わっている。

 帰還柱の赤も、いつもより淡い。

 工房の煙も、防壁の黒石も、すべてが異質な光の中に浮かび上がっていた。


 気持ち悪いほど綺麗だった。


「急ぐぞ」


 ヴェスパーは歩き出した。


「プルトンを炉の横へ運ぶ。あの光が何だろうと、冷えたまま放置する理由にはならん」


「おう!」


 バルガンがそりを引く。


 黒い氷の上を、そりが軋みながら進んだ。


 村の門をくぐった瞬間、空気が変わった。


 いつもの炉の熱。

 冥骨粥の匂い。

 黒鉄を叩いた後の金属臭。

 溶けた氷の湿った匂い。


 それらすべての上に、金色の静けさが重なっていた。


 中央炉の隣に、光柱が立っていた。


 天から真っ直ぐ降りる、金色の柱。


 その中に、ひとりの天使が立っている。


 美しい相貌だった。


挿絵(By みてみん)


 白金の髪は、炉の赤い光を受けても色を失わない。

 青い瞳は、凍った湖面のように澄んでいる。

 整った顔立ちは穏やかで、怒りも驚きも浮かんでいない。


 だが、背に広がる六枚の羽根が、その穏やかさを人ではないものに変えていた。


 六枚の羽根。


 それぞれの縁が、炎のように淡く揺らめいている。

 白い羽根でありながら、その輪郭だけが金色に燃えていた。


 天使というより、裁きの火が人の形を取ったようだった。


 その背後には、さらに複数の天使が控えていた。


 普通の天使ではない。


 光槍を手にした者。

 翼の内側に目のような光を宿す者。

 大柄で、厚い鎧をまとった戦士のような者。

 黒い肌に、銀の鎧を着けた女性天使。

 細身でありながら、周囲の光を刃のように尖らせている者。


 顔立ちも、体格も、気配も違う。


 だが、全員が同じ方向を見ていた。


 ヴェスパーを。


「……天使の団体様かよ」


 呟いた瞬間、護衛たちの視線が一斉に刺さった。


 光槍の穂先が、わずかに動く。


 空気が重くなる。


 炉の火が一瞬だけ低く唸った。


 アガレスが、ヴェスパーの袖を小さく引いた。


「王様、普通の天使ではありません」


「見りゃ分かる。普通のやつは、睨むだけで空気を重くしない」


「では刺激しないでください」


「もう遅そうだな」


 護衛の一人が、半歩前へ出た。


 その瞬間、中央に立つ天使が片手を上げた。


 それだけだった。


 声もない。

 命令もない。


 だが、護衛たちは即座に動きを止めた。


 光槍の穂先が下がる。

 重かった空気が、わずかにほどける。


 ヴェスパーはその光景を見て、片眉を上げた。


「上司がまともで助かる」


 アガレスが小声で言った。


「王様」


「今のは褒めただろ」


「褒め方です」


 六枚羽根の天使が、静かに口を開いた。


「私はウリエル。地獄門を管理する者だ」


 声は低くも高くもなかった。


 ただ、よく通る。


 金属を叩いた音ではない。

 鐘を鳴らした音でもない。


 火が燃える前の、一瞬の静寂に近かった。


「第九圏における異常活性を確認した」


「異常活性ねぇ」


 ヴェスパーは中央炉の横に立つウリエルを見た。


 炉の赤。

 天界の金。


 その二つの光が並んでいる。


 まったく違うもののはずなのに、どちらも火に見えた。


 ウリエルは続けた。


「炉の増設。熱道の拡張。結界装置の稼働。帰還柱。悪魔個体の消滅傾向からの回復。さらに南方鉱山跡への進出」


「よく見てるな」


「地獄門を管理する者として、必要な確認だ」


「で、確認してどうする」


 ウリエルの青い瞳が、まっすぐヴェスパーを捉えた。


「お前は何者だ」


「それ、俺も知りたいんだよな」


 護衛天使たちの視線が、また鋭くなった。


 アガレスが小声で囁く。


「王様」


「事実だろ。記憶はない。名前も後付け。所属は第九圏。俺に分かる情報なんて、その程度だ」


 ウリエルは表情を変えなかった。


「名は」


「ヴェスパー」


「誰が与えた」


 そこで、周囲の空気が少し変わった。


 アガレスが黙る。

 フルカスも口を閉ざす。


 ヴェスパーは、ウリエルの青い瞳を見返した。


「リリスだ」


 護衛の一部が、わずかに反応した。


 光槍の握りが強くなる。

 黒い肌の女性天使が、鋭い目でヴェスパーを見た。


 ウリエルは沈黙した。


 ほんの一瞬。


「そうか」


「メタトロンみたいな返事するな」


 アガレスが、今度は明確に袖を引いた。


「王様」


「分かった。天界ジョークは難しいな」


 ウリエルの表情は動かない。


 怒ったのかどうかも分からなかった。


 ヴェスパーは一度息を吐き、周囲を見た。


 村の悪魔たちは、遠巻きにこちらを見ている。


 怯えはある。

 緊張もある。


 だが、全員が固まっているわけではなかった。


 工房のそばでは、メルツたちが道具を抱えたまま立っている。

 鍋の前ではハボリムが火加減を見ている。

 そりの横ではモルクが木材を押さえている。


 天使が来ても、村は完全には止まっていない。


 それでいい。


「攻撃じゃないんだな」


 ヴェスパーが言うと、アガレスが小さく頷いた。


「今のところは、視察です」


「なら全員で固まる必要はない」


 ヴェスパーは振り返った。


「バルガン」


「おう!」


「プルトンを炉の横へ運べ。毛皮を増やせ。粥は薄めでいい。温かいやつを飲ませろ」


「おう!」


「乱暴に置くなよ」


「分かってる!」


 バルガンはそりを引き、中央炉の脇へ向かった。


 その巨体が、毛皮に包まれたプルトンを驚くほど慎重に抱え上げる。

 普段なら岩でも投げるように扱いそうな腕が、今は壊れ物を運ぶように動いていた。


「モルク」


 ヴェスパーが呼ぶと、モルクがすぐに顔を上げた。


「はい」


「救助準備を止めるな。木材、縄、灯り、そり、黒鉄釘。坑道にいつでも戻れるように揃えろ」


「分かった」


「鉱山跡にはまだ入るな。だが、行ける準備だけはしておけ」


「承知しました」


「天界の相手は、俺とアガレスとフルカスでやる」


 モルクは一度だけウリエルを見た。


 それから、何も言わずに動き出す。


 木材をまとめる。

 縄を確認する。

 灯り用の黒石筒をそりへ積む。

 黒鉄釘を数え直す。


 その動きにつられて、他の悪魔たちも動き始めた。


 毛皮が集められる。

 鍋に薄い粥が足される。

 灯りが整えられる。

 そりに補強材が積まれる。


 天界の光を前にしても、村は止まらなかった。


 ウリエルは、それを黙って見ていた。


 護衛天使たちも、村の動きを警戒しながら見ている。


 だが、そこに突撃はない。

 混乱もない。

 罵声もない。


 悪魔たちは天使を見て震えながらも、自分の持ち場へ戻っていく。


 怪我人を炉へ運ぶ。

 鍋に火を入れる。

 救助用資材をそりに積む。

 毛皮を重ねる。


 ウリエルの青い瞳が、わずかに細まった。


「止まらぬのだな」


「止まったらプルトンが冷える。坑道救助も遅れる。天使が来たからって、現場の問題は消えない」


「現場」


「目の前のことだ」


 ヴェスパーは中央炉を指した。


「炉が暴れたら村が焼ける。粥が足りなきゃ悪魔が倒れる。坑道で支柱が折れたら中にいるやつごと潰れる。天界の視察より、そっちの方が今は急ぎだ」


 護衛天使のひとりが眉をひそめた。


 だが、ウリエルは片手をわずかに動かし、黙らせた。


「問う」


 ウリエルは言った。


「お前は、この第九圏で何をしている」


 周囲の音が少し遠のいた。


 炉の唸り。

 鍋の音。

 木材を積む音。

 縄を締める音。


 そのすべてが、問いの外側へ退いたようだった。


 ヴェスパーは少し考えた。


 そして、答えた。


「生活改善だ」


 ウリエルの表情は変わらなかった。


「生活改善」


「ああ。寒いから火を置いた。腹が減るから粥を作った。道がないから道を作った。壊れるから直した。凍ってたやつがいたから助けた。それだけだ」


「それだけで、第九圏の状態は変わらぬ」


「変わった方がましだったから変えた」


 ウリエルは、中央炉を見た。


 赤黒い火。

 その周りに集まる悪魔たち。

 毛皮の上で薄い粥を口にするプルトン。


「ここは地獄だ」


「知ってる」


「第九圏は最下層。重き罪を背負う者たちが堕ちる場所だ」


「それも聞いた」


「地獄は罰の場所である。第九圏の苦寒は、裁きの構造そのものだ」


 ウリエルの声は静かだった。


 怒鳴らない。

 責め立てない。


 だが、言葉には重さがあった。


「お前はそこを温め、食わせ、救っている。それは罰の意味を変える行為ではないのか」


 護衛天使たちの視線が集まる。


 アガレスがわずかに息を呑んだ。

 フルカスは静かに目を伏せている。


 ヴェスパーは、中央炉の火を見た。


「罰はここにいる時点で受けている」


 自分でも、思ったより低い声が出た。


「凍えて消えるだけなら、罰じゃなくて放置だろ」


 ウリエルは黙っている。


「腹が減って、寒くて、喋る力もねぇやつに、何を悔いろっていうんだ。何を選べっていうんだ。何を変えろっていうんだ」


 ヴェスパーは自分の胸元に手を当てた。


 そこに銃創はない。

 自分が何者だったかも分からない。


 だが、死んだ時の空洞だけは、まだ残っている気がした。


「逆に聞きたいが、記憶のない俺の罰はいったい何なんだよ」


 護衛天使たちの目が鋭くなる。


 ヴェスパーは続けた。


「現場監督という苦行か?」


「王様」


 アガレスが小声で注意した。


 ヴェスパーは横目で見た。


「今のは真面目な話だろ」


「後半が違います」


「真面目な軽口だ」


「難しい分類です」


 ウリエルは、微動だにしなかった。


「悪魔は、己の罪によりここへ堕ちた」


 その言葉に、フルカスが一歩前へ出た。


 老騎士は剣を抜かない。

 膝もつかない。


 ただ、深く頭を下げた。


「その通りでございます」


 声は静かだった。


「我らは罪なき者ではございませぬ。天に背き、敗れ、堕ちた。あるいは己の欲に従い、道を誤った者もおりましょう」


 フルカスは顔を上げた。


「ですが、消えゆくことを受け入れるだけが罰であるなら、我らはすでに何度も死んでおります」


 炉の火が、低く鳴った。


「王様が火を置かねば、我らは悔いる前に消えておりました」


 ウリエルは、フルカスを見た。


 フルカスの背筋は伸びている。

 かつて死を待っていた老悪魔ではない。


 まだ老いは残る。

 罪も残る。


 だが、目には火がある。


「お前は、悔いているのか」


 ウリエルが問うた。


 フルカスは少しだけ黙った。


「分かりませぬ」


 正直な答えだった。


「ですが、いまは悔いるだけの時間がございます。王様がくださった火により、我らは消えるだけではなくなりました」


 ウリエルは答えなかった。


 その時、炉の横から呻き声が聞こえた。


「奥に……まだ……」


 プルトンだった。


 毛皮に包まれ、薄い粥を口元に運ばれながらも、彼は浅く息をしながら呟いている。


「坑道の……奥に……声が……」


 ヴェスパーはすぐにそちらを向いた。


「分かってる。準備してる」


「柱……折れる……先に……右を……」


「右だな」


 ヴェスパーはモルクへ視線を送った。


「聞いたか」


「聞いた。坑道右側の支柱を優先確認」


「よし」


 ウリエルが言った。


「まだ救うのか」


 ヴェスパーは振り返る。


「助かるならな」


「悪魔を救うのか」


「悪魔だからじゃない」


「では何故だ」


 ヴェスパーはプルトンを見た。


 毛皮に包まれた旧坑道長。

 折れかけた声で、まだ奥の仲間を案じている悪魔。


「ただそこに助けを求めているやつがいるかもしれないからだ」


「それだけか」


「それ以上いるか?」


 ウリエルは沈黙した。


 護衛天使たちも、すぐには反応しなかった。


 炉の横で、バルガンがプルトンの毛皮を直している。

 鍋の前では、ニムが小さな器を抱えて待っている。

 モルクはそりに灯りを積み、黒鉄釘の束を確認している。


 天使の問いの横で、村は次の救助へ向けて動いていた。


 アガレスが、ふと顔を上げた。


「王様」


「今度はなんだ」


「天界側にも記録係がいます」


 見ると、護衛天使の一体が光の書板を持っていた。


 淡い金色の板に、細かな文字が自動で刻まれている。

 書いているのは手ではない。

 光そのものが、出来事を記録しているようだった。


 アガレスの金色の瞳が、ぎらりと輝いた。


「負けられません」


「張り合うな」


「記録係として」


「負けていい」


「王様、記録は戦いです」


「違う」


 ウリエルが静かに言った。


「記録は裁定のためにある」


 ヴェスパーは、アガレスの抱える記録板を見た。


 失敗した炉の構造。

 熱道の継ぎ目。

 灰豆による負傷件数。

 冥骨粥の改善案。

 坑道支柱の必要数。


「こっちの記録は、次に失敗しないためにある」


 ウリエルの瞳が、わずかに動いた。


「失敗」


「炉は割れる。排管は詰まる。粥はまずい。坑道は崩れる。記録しなきゃ、同じ失敗を繰り返す」


「悪魔が失敗を記録するのか」


「悪魔だろうが天使だろうが、継ぎ目が甘けりゃ漏れるだろ」


 アガレスが、なぜか誇らしげに胸を張った。


「王様の教えです。熱は逃げます」


「そこだけ切り取るな」


 ウリエルは村を見渡した。


 炉。

 粥。

 工房。

 帰還柱。

 救助準備。

 プルトン。


 赤い火の周囲で、悪魔たちは働いている。


 反乱軍のようには見えない。

 だが、ただの囚人でもない。


 更生と呼ぶには早い。

 反乱と断じるには違う。


 ウリエルは、ゆっくりと口を開いた。


「これは反乱か、更生か。今は判断しない」


 護衛天使たちが、静かに姿勢を正した。


「だが、第九圏は監視対象となる」


「元から見てただろ」


「正式に、だ」


「嫌な言い直しだな」


 ウリエルは続けた。


「生活改善。その言葉も記録しておく」


「好きにしろ。こっちは坑道で手一杯だ」


「その未来が、地獄門へ至るものでないことを願う」


「坑道は鉱山だ。門なんか掘ってる暇はない」


 ウリエルの六枚羽根が、静かに揺れた。


「ならば警告しておく」


 空気が、再び引き締まった。


 護衛天使たちの光が強くなる。

 炉の火とは違う、金色の圧。


「地獄門を開くな」


 ウリエルは言った。


「天への道を探るな」


 青い瞳が、ヴェスパーを捉える。


「魂の流れを乱すな」


 光柱が、低く鳴る。


「悪魔を地上へ出すな」


 六枚の羽根の縁が、炎のように揺らめいた。


「それを越えれば、私は門番として介入する」


 村の悪魔たちが息を呑む。


 ヴェスパーは、少しだけ眉をひそめた。


「今は坑道の入口で手一杯だ。まだそんな余裕ねぇよ」


「まだ、か」


「言葉尻を取るな」


 ウリエルは答えない。


 ただ、ヴェスパーを見ていた。


 ヴェスパーも視線を逸らさなかった。


 しばらくして、ウリエルが片手を上げた。


 背後の光柱が、さらに明るくなる。


 上級天使たちが一斉に動いた。


 光槍を持つ者が先に昇る。

 翼の内側に光を宿す者が、それに続く。

 大柄な鎧の天使。

 黒い肌の女性天使。

 光の書板を持つ記録係。


 ひとり、またひとりと、金色の柱の中へ消えていく。


 最後に残ったのは、ウリエルだけだった。


 彼はもう一度、村を見渡した。


 中央炉の赤い火。


 毛皮に包まれたプルトン。


 坑道救助の準備に走る悪魔たち。


 粥を運ぶ小さな悪魔。


 面倒そうな顔で腕を組んでいるヴェスパー。


 王座に座らない。


 剣を掲げない。


 命令だけで世界を動かそうとしない。


 ただ火を置き、道を作り、倒れた者を拾う。


 それが、誰かに似ている。


 ウリエルの胸中に、遠い記憶の火がかすかに揺れた。


 かつて天に背きながらも、誰より強く火を掲げた者。


 その名を、ここで口にすることはなかった。


 ウリエルは、ほんのわずかに唇の端を緩めた。


「――似ているな」


 その声は、誰にも届かないほど小さかった。


 ふ、と。


 ほんの一瞬だけ笑い、ウリエルは金色の光に包まれた。


 六枚の羽根が閉じる。


 光柱が収束する。


 次の瞬間、天界の光は消えた。


 村に残ったのは、中央炉の赤い火だけだった。


 金色の輝きが消えても、炉は燃えている。


 天から与えられた光ではない。


 誰かに赦された証でもない。


 悪魔たちが、自分たちで灯した火だった。


 ヴェスパーはしばらく空を見ていた。


 そこにはもう、天の裂け目も、六枚羽根の影もない。


 ただ、いつもの黒い空が広がっている。


「王様」


 アガレスが小さく声をかけた。


「天界の記録に、載りましたね」


「嬉しそうに言うな」


「少しだけ」


「面倒ごとが増えただけだ」


 フルカスが静かに言った。


「ですが、敵とはなりませなんだ」


「今は、な」


 ヴェスパーは肩を回した。


「天使の相手は終わりだ」


 そして、毛皮に包まれたプルトンを見る。


 プルトンは浅い息をしながら、まだ何かを呟いていた。


「奥に……右……古い支柱……黒鉄の梁……」


「聞こえてる」


 ヴェスパーはモルクを見る。


「準備は」


「木材、縄、灯り、そり、黒鉄釘。すぐ出せる」


「バルガン」


「おう!」


「今度は殴るな。運べ」


「お、おう……必要なら殴る」


「必要になるまで殴るな」


「分かった!」


 アガレスが記録板を抱え直した。


「王様。坑道救助の記録も、私が」


「天界に負けたくないだけだろ」


「少しだけ」


「正直でよろしい」


 ヴェスパーは中央炉の火を見た。


 天界の光は消えた。


 だが、村の火は消えていない。


 その火の前で、悪魔たちは次の仕事へ動き出している。


 ヴェスパーは息を吐いた。


「次は、坑道救助だ」


 赤い炉の光が、黒い氷の地獄を静かに照らしていた。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


もし面白いと感じていただけたら、

ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。


今後ともよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ