第十六話 黒い鉱脈
ヴェスパー、アガレス、バルガンたちは、石切り場からさらに南へ進んだ鉱山跡地に来ていた。
南作業区の小型炉から伸ばした熱は、まだここまでは届いていない。
足元は硬い氷に覆われ、黒い岩稜の隙間を、白い風が低く唸りながら抜けていく。
その岩壁に、黒い筋が走っていた。
ただの黒石ではない。
氷の奥で眠るように、鈍い金属光を返している。
アガレスはそれを見た瞬間、金色の瞳を輝かせた。
「王様、やはり黒鉄系の鉱脈です! しかも普通の黒鉄ではありません。第九圏の冷気に長く沈んでいたせいか、魔力の通り方が――」
「用途を並べるなよ。欲しくなる」
「炉、弁、工具、支柱、武具、そりの補強材まで使えます!」
「並べるなって言っただろ」
ヴェスパーは顔をしかめ、鉱脈の先を見た。
黒い岩壁の奥に、氷に半分埋もれた穴があった。
歪んだ坑道口。
古い切り出し跡。
そして、入口の縁に残る、砕けた支柱の痕跡。
「……坑道口だな」
アガレスの羽がぴんと立った。
「旧鉱山跡ですね! 王様、これは――」
「掘るな」
ヴェスパーは即座に言った。
アガレスが止まる。
「まだ何も言ってません」
「顔が掘る顔だった」
「そんな顔がありますか?」
「今してた」
ヴェスパーは坑道口を睨んだ。
入口は歪んでいる。
支柱らしきものは見えない。
氷と岩が噛み合って、かろうじて形を保っているようにも見える。
あれは壁ではない。
ただ、崩れていないだけだ。
「鉱脈は逃げない。だが、崩れた坑道は戻らない」
ヴェスパーは低く言った。
「今日は鉱山を開けるんじゃない。鉱山跡の前まで、安全に近づけるようにするだけだ」
アガレスは少しだけ唇を尖らせた。
「未知の坑道を前に待てと言われる知識の悪魔の気持ちも、少しは考慮していただけますと」
「命があるうちに考慮してやる」
「とても現実的です」
「褒めてるのか、それ」
ヴェスパーは背後を振り返った。
バルガンがそりの綱を肩にかけ、黒石の台座や骨管を積んだ荷を引いている。
その隣で、モルクがそり道の氷を槌で叩いていた。
足場を見て、危なそうな場所に黒い欠片を置いている。
「バルガン」
「おう!」
「石切り場からここまで、排管を伸ばす。作業炉も一つ置く。結界装置も、石切り場と同じものを一基追加だ」
「運ぶか!」
「運べ。ただし、雑に置くな」
「難しいな!」
「難しくない」
バルガンは胸を張った。
「前にもやったからな!」
ヴェスパーは少しだけ眉を上げた。
「お前、覚えてたのか」
「重いものを運ぶ順番なら覚えた!」
「そこだけでも十分だ」
モルクが横からぼそりと言った。
「置く場所は、俺が見る」
「助かる」
「バルガンに任せると、だいたい真ん中に置く」
「真ん中は強いぞ!」
「邪魔なんだよ」
「む」
ヴェスパーは短く笑った。
実際、作業は思ったより早く進んだ。
南作業区を作った時とは違う。
あの時は、排管ひとつ伸ばすにも、炉をどこに置くにも、結界装置をどう据えるにも、ヴェスパーが一つずつ指示を出す必要があった。
だが今回は違った。
悪魔たちは、もう手順を知っている。
まず足場を均す。
そりが通る幅を取る。
排管の下に黒石を敷く。
骨管の継ぎ目を冷やさないよう、布と皮で巻く。
作業炉の台座は、風をまともに受ける場所には置かない。
結界装置は炉の横。
熱を受けやすく、坑道口へ近すぎない場所に据える。
溶け水の逃げ道は、最初に切る。
「……早いな」
ヴェスパーが呟くと、アガレスが術式板を確認しながら得意げに胸を張った。
「石切り場と同じ型ですからね。今回は記録を見なくても設置できます!」
「それは偉い」
「褒められました!」
「ただし、坑道口に近づけすぎるなよ」
「はい。熱を中へ入れすぎると崩落の危険があります!」
「分かってるじゃねぇか」
ヴェスパーは、少しだけ口元を緩めた。
作業が早い。
それは、ただ人数が増えたからではない。
一度作ったものを、もう一度作れるようになっている。
村が、手順を覚え始めていた。
排管は、石切り場から鉱山跡前まで伸びた。
長いものではない。
だが、熱を運ぶには十分だった。
黒石の上に骨管を並べ、継ぎ目を焼き固める。
途中に小さな支えを入れ、地面の氷に直接触れないようにする。
バルガンが骨管を抱えて戻ってきた。
「王様! 二本持ってきたぞ!」
「一本ずつでいいと言っただろ」
「一回で済む!」
「道が壊れる」
「む……現場は難しいな!」
モルクが即座に一本を奪うように支えた。
「壊す前に下ろせ」
「おお、助かる!」
「助けてるんじゃない。守ってる」
「何をだ!」
「道を」
「道も守るのか!」
「守るんだよ」
バルガンは妙に感心した顔で頷いた。
「現場は奥が深いな!」
「深くなくていい。一本ずつ運べ」
「分かった!」
バルガンは素直に一本を下ろし、もう一本を抱え直して戻っていった。
ヴェスパーはその背中を見送りながら、坑道口の方へ視線を戻した。
黒い穴は、まだ静かだった。
そこに何があるのかは分からない。
鉱石か。
古い道具か。
崩れた支柱か。
あるいは、何も残っていないのか。
だが、中へ入るのはまだ早い。
まずは外だ。
坑道の前で死なない場所を作る。
それだけでいい。
「作業炉を置くぞ」
ヴェスパーが言うと、バルガンが黒石の台座を抱えてきた。
「ここか!」
「少し右だ」
「ここか!」
「行きすぎだ」
「ここか!」
「そうだ。そこ」
「よし!」
バルガンは台座をどん、と置いた。
地面が少し揺れた。
「静かに置け」
「置いたぞ!」
「音が静かじゃねぇんだよ」
モルクが台座の下を見て、短く言う。
「傾いてる」
「おお?」
「右に石を噛ませろ」
「分かった!」
バルガンは言われた通り、黒石の欠片を台座の下に差し込んだ。
作業炉の土台が安定する。
「よし」
ヴェスパーは頷いた。
モブの作業員たちが黒石を組み、炉壁を作る。
小型の作業炉だ。
村の炉とは比べものにならない。
南作業炉よりもさらに小さい。
だが、目的は採掘ではない。
作業者の手足を温める。
工具の凍結を防ぐ。
緊急時に退避できる熱を確保する。
それだけだ。
「穴の中を温めるな」
ヴェスパーは言った。
アガレスが頷く。
「入口だけ、ですね」
「ああ。氷で支えてる場所があるかもしれねぇ。中まで溶かしたら、天井ごと落ちる可能性がある」
「火を入れれば安全になるわけではないのですね」
「火は便利だが、雑に使うと事故になる」
アガレスは真剣な顔で本に書き込んだ。
「火は便利だが、雑に使うと事故になる」
「記録するほどのことか?」
「重要です!」
「まあ、重要か」
作業炉に火が入った。
黒石の炉壁に赤い筋が走る。
排管の奥から、低い唸りが伝わってきた。
ごう、と炉が息をする。
坑道口の前に、初めて温かい空気が生まれた。
すぐ横に、簡易結界装置を据える。
それは石切り場で使っているものと同じ型だった。
黒石の土台。
黒鉄の輪。
骨管との接続口。
熱を受けると術式板が赤く光り、周囲の冷気を少しだけ押し返す。
立派な防壁ではない。
炉の熱を逃がしにくくし、作業者が凍えずに動ける程度の、小さな覆いだ。
「ここは開発じゃない。増設だ」
ヴェスパーは坑道口を見ながら言った。
「石切り場で使えるものを、鉱山跡前まで伸ばす」
「火の届く範囲を広げるのですね!」
「そうだ。ただし、坑道の中までは入れるな」
「熱も、結界も、ですね」
「分かってるならいい」
アガレスが結界装置の術式板に指を添えた。
「起動します」
黒鉄の輪が淡く赤く光る。
空気が、わずかに変わった。
吹きつけていた風が弱まり、炉の熱が周囲に留まる。
足元の氷がじわじわと濡れ始め、白い霜が黒い岩肌から剥がれていく。
「……よし」
ヴェスパーは炉の周囲を見回した。
「これなら作業員が手を温められる。坑道口を見るだけなら――」
その直後だった。
炉のすぐ横。
何もないはずの氷壁から、ぱき、と音がした。
全員が止まる。
ぱき。
ぱき、ぱき。
氷の表面に、黒い亀裂が走った。
その亀裂は、蜘蛛の巣のように広がっていく。
中から何かが、ゆっくりと氷を押していた。
ぎし、ぎし、と。
凍った岩肌が、内側から爪で削られるような音を立てる。
「王様」
アガレスの声が小さくなる。
「何か、います」
「下がれ」
ヴェスパーが言い終えるより早く、氷の中から黒い指が突き出した。
枯れ枝のように細い指だった。
その指が、空気を探すように震えた。
次に、氷の表面を内側から掻いた。
ぎり、と嫌な音がする。
モルクが息を呑む。
モブの一人が短く悲鳴を上げた。
次の瞬間、氷が割れた。
黒い腕が出る。
肘が出る。
肩が出る。
まるで氷そのものが死体を吐き出すように、痩せこけた悪魔が、炉の横からずるりと這い出してきた。
氷の破片が、乾いた音を立てて地面に散る。
悪魔の体から、白い霜が粉のように落ちた。
バルガンが叫ぶ。
「うおおおお!? 氷から出たぞ!」
「見れば分かる!」
悪魔は地面に倒れ込み、炉の熱へ顔を向けた。
黒鉄色の肌には霜が張りついていた。
片角は欠け、背中の翼は凍りついたまま動かない。
かつては大柄だったのかもしれない。
だが今は、長く凍っていたものが無理やり形を取り戻したように、ひどく痩せていた。
凍りついた唇が、わずかに動く。
「……温かい」
その声は、風よりも細かった。
アガレスが息を呑む。
ヴェスパーは膝をつき、距離を取りながら問いかけた。
「喋れるか」
悪魔のまぶたが震える。
氷に閉ざされていた目が、ゆっくりと開いた。
「プルトン……」
「名前か」
「プルトン……黒鉄鉱山の、坑道長……だった」
アガレスの表情が変わった。
「黒鉄鉱山……」
プルトンは炉の熱に顔を向けたまま、途切れ途切れに息を吐いた。
「結界が……消えて……吹雪が来た」
声は掠れていた。
「坑道が……冷えて……支柱が鳴って……俺は……部下を……奥へ逃がした」
「部下?」
ヴェスパーが聞くと、プルトンの目がわずかに見開かれた。
「まだ……中にいる」
空気が変わった。
アガレスが本を抱え直す。
バルガンの拳が、ぎり、と鳴る。
プルトンは震える手で坑道口を指した。
「助けてくれ……」
バルガンが即座に前へ出た。
「なら俺が行く!」
「行くな」
ヴェスパーの声が短く飛んだ。
バルガンが止まる。
「だが!」
「助けに行ったやつまで埋まったら終わりだ」
ヴェスパーは坑道口を見た。
歪んだ入口。
見えない支柱。
氷で保っているかもしれない天井。
そして、今入れたばかりの熱。
入口の氷は、もう少しずつ緩み始めている。
今入るのは、救助ではない。
ただの突撃だ。
「支柱がいる。縄もいる。灯りもいる。毛皮も粥もいる。中に入るなら、崩れた時に引き戻す役もいる」
ヴェスパーはバルガンを見た。
「助けたいなら、準備を飛ばすな」
バルガンは拳を握ったまま、歯を食いしばった。
だが、前には出なかった。
その場に踏みとどまった。
それだけで、以前よりはずいぶんましだった。
「……分かった」
「よし」
ヴェスパーはプルトンへ向き直る。
「村に戻るぞ」
プルトンが微かに顔を上げた。
「俺も……?」
「坑道を知ってるやつをここに置いていくか」
ヴェスパーは当然のように言った。
「飯を食って、温まって、覚えてることを全部話せ」
「……」
「助けたいなら、まず倒れるな」
プルトンの目が揺れた。
長い間、氷と岩の中で凍っていた悪魔。
部下を奥へ逃がした記憶だけを抱えた、旧坑道長。
その顔に、ほんの少しだけ感情が戻った。
「……わかった」
「バルガン」
「おう!」
「そりだ。プルトンを乗せる。揺らすな。落とすな。急ぎすぎるな」
「任せろ!」
「急ぎすぎるなって言ったぞ」
「任せろ!」
「不安だな」
プルトンは毛皮に包まれ、そりに乗せられた。
バルガンが綱を握る。
アガレスはプルトンのそばにしゃがみ、手早く状態を見ていた。
「凍結が深いです。けれど、炉の熱で意識は戻っています」
「村まで持つか」
「温め続ければ、おそらく」
「バルガン」
「おう!」
「熱溜まりで止まりながら戻る。速さより落とすな」
「分かった!」
南作業区から村へ戻る道は、以前よりずっと通りやすくなっていた。
そり道。
排管。
途中の熱溜まり。
帰還柱。
少しずつ整えたものが、今は救助のための道になっている。
バルガンは、いつもより慎重にそりを引いた。
大股ではある。
声も大きい。
だが、段差の前ではきちんと速度を落とす。
そりが傾きそうになると、モルクがすぐに横から支えた。
「右、沈む」
「おう!」
「左に寄せろ」
「おう!」
「寄せすぎだ」
「む!」
「真ん中」
「分かった!」
ヴェスパーはそのやりとりを横目に、頭の中で必要なものを並べていた。
支柱。
太い木材。
黒鉄釘。
魔物腱の縄。
毛皮。
冥骨粥。
灯り。
予備のそり。
坑道内の風を見る役。
入口補強。
救助するなら、最初にやるべきは奥へ進むことではない。
入口を生かすことだ。
「王様」
アガレスが小さく呼んだ。
「なんだ」
「救助、できますか」
「分からん」
ヴェスパーは正直に答えた。
「だが、何もしなきゃできない」
「はい」
「坑道を壊さない方法を考える。プルトンに聞く。入口を固める。順番を間違えるな」
「順番」
「ああ。順番を間違えると、善意でも死人が出る」
アガレスは黙って本を抱え直した。
「記録します」
「今のは記録しなくていい」
「必要です」
「そうかよ」
そりの上で、プルトンがかすかに呟いた。
「奥に……退避所が……あった」
ヴェスパーはすぐに振り返る。
「どのくらい奥だ」
「分からない……でも……曲がって……下って……広い場所……」
「支柱は」
「黒鉄……木……混じっていた……」
「排水は」
「右側……溝が……あった」
「風は」
プルトンは苦しげに目を閉じる。
「奥から……冷たい風が……来ていた……」
「無理に思い出すな。村で聞く」
プルトンは小さく頷いた。
その時だった。
空が、光った。
最初、誰もが作業炉の火かと思った。
だが違う。
炉の赤ではない。
排管の熱でもない。
第九圏の暗い天が、金色に裂けていた。
冷たい地獄の空に、明らかに異質な光が差している。
その光は、遠く村の方角へ落ちていた。
黒い氷原の先で、名もなき村の輪郭が金色に浮かび上がる。
村の炉から上がる赤い湯気が、天から差す光に照らされ、一瞬だけ淡い金に染まって見えた。
工房の屋根も、防壁も、帰還柱の先端も、見慣れたはずの場所が異質な光を浴びている。
風が止まったように感じた。
アガレスの顔から、笑みが消える。
「……天界光です」
ヴェスパーは足を止めた。
「村の方角だな」
バルガンがそりの綱を握ったまま叫ぶ。
「敵か!」
「分からん」
ヴェスパーは金色に輝く空を睨んだ。
「だが、村の上だ」
村には炉がある。
工房がある。
ニムたちがいる。
フルカスが守っている。
プルトンを温め、坑道の話を聞き、支柱を用意し、奥にいるかもしれない者たちを助けなければならない。
だがその前に、天界が来た。
「バルガン」
「おう!」
「そりを飛ばせ。プルトンを落とすな」
「任せろ!」
「急ぎすぎるな、でも急げ」
「難しいな!」
「やれ」
「やる!」
バルガンがそりを引く。
荷運び隊が走り出す。
モルクがそりの横につき、傾きを押さえる。
アガレスは本を抱え、金色の空を見上げたまま唇を引き結んでいる。
ヴェスパーは光の落ちた方角を見据えた。
第九圏の空が、金色に裂けている。
炉の火ではない。
作業炉の熱でもない。
あの光の下には、村がある。
ヴェスパーは低く言った。
「村に急ぐぞ」
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