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第九圏の欠落王 ―棺の底から始める地獄改革―  作者: カイメイラ
第一章 氷獄に火を灯す

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第十八話 黒い鉱山の声


 天使の光が消えても、村は止まらなかった。


 ウリエルが去った空を見上げる者はいた。

 だが、その場に膝をついて祈る者はいない。

 騒ぐ者も、勝利を叫ぶ者もいない。


 ただ、そりに木材を積む音がしていた。


 凍った地面の上を、黒い丸太が引きずられていく。

 魔獣の腱を束ねた縄が、ぎしぎしと音を立てる。

 黒石材、火石、毛皮、骨管、黒鉄釘、支柱用の太材。

 それらが次々とそりに積まれていった。


 天界の光は消えた。


 だが、村の火は消えていない。


 中央炉はいつも通り赤黒く燃え、凍った地面を静かに押し返していた。

 その炉の近くで、毛皮に包まれたプルトンが浅い息を繰り返している。


 まだ意識ははっきりしていない。

 だが、口だけは時折動いた。


「奥に……右……古い支柱……黒鉄の梁……」


「聞こえてる」


 ヴェスパーはその横にしゃがみ込み、短く答えた。


 プルトンの瞼は重く閉じている。

 唇は乾き、頬はこけ、魔力の輪郭はまだ薄い。


 それでも、彼は何かを必死に伝えようとしていた。


「正面は……駄目だ……上が……抜ける……」


「分かった。正面からは掘らない」


「右……右へ……古い坑道……まだ……」


「寝てろ」


 ヴェスパーは毛皮を掛け直した。


「起きたらもう一回聞く」


 プルトンは返事をしなかった。

 ただ、浅い呼吸だけが続いている。


 ヴェスパーは立ち上がり、モルクを見た。


「準備は」


 モルクはそりの横で縄を締めながら答えた。


「木材、縄、灯り、そり、黒鉄釘。すぐ出せる。毛皮も積んだ。冥骨粥も鍋ごと持っていく」


「よし」


 ヴェスパーはそりの荷を確認した。


 採掘道具は少ない。

 かわりに木材と支柱材が多い。


 それでいい。


 今日は鉱石を取りに行くのではない。

 悪魔を取りに行くのだ。


「バルガン」


「おう!」


 バルガンが巨大な木材を肩に担いで振り返る。


「今度は殴るな。運べ」


「お、おう……必要なら殴る」


「必要になるまで殴るな」


「分かった!」


「声がでかい。分かってなさそうだな」


「分かってる!」


「だから声がでかい」


 バルガンは不満そうに鼻を鳴らしたが、木材をそりに乗せた。

 そりが大きく沈む。


 アガレスは記録板を抱え直していた。


「王様。坑道救助の記録も、私が」


「天界に負けたくないだけだろ」


「少しだけ」


「正直でよろしい」


 アガレスは胸を張った。


「天界は記録します。ならば、こちらも記録します。王様が何を見て、何を選び、何を諦めなかったのか。残すべきです」


「大げさだな」


「大げさではありません」


 珍しく、アガレスの声は真面目だった。


「プルトン殿も、記録では消えた者でした。けれど、生きていました」


 ヴェスパーは少しだけ黙った。


 記録では消えた。

 全滅扱い。

 閉鎖。

 喪失。


 そう書かれたところで、現場にまだ誰かがいるのなら意味がない。


「なら、書き換えるか」


「はい!」


「坑道救助の記録だ。採掘記録じゃない」


「承知しました!」


「あと、救えなかった場合も書け」


 アガレスの筆が止まった。


 ヴェスパーは南を見た。


「うまくいったことだけ残すな。失敗した理由も残せ。次に同じ失敗をしないためだ」


 アガレスはゆっくり頷いた。


「はい。記録します」


 フルカスが歩み寄ってきた。


「王様。村の守りは整えました。ハボリムに炉番を、グレルの索敵班を一部残し、狩猟番も半数は村に置きます」


「グレルは」


「坑道入口の外を見張ると申しております」


「外は任せる。中の音はラゴだ」


 近くで待機していたラゴが、短く頷いた。


「聞く」


「頼む。今日はお前の耳が命綱だ」


 ラゴは少しだけ耳を動かし、無言でそりの方へ歩いた。


「ニムは」


「炉の近くに」


 その言葉に、少し離れた場所にいたニムが顔を上げた。


「ニムも行けます」


「行けない」


「プルトン様のように、誰かを運ぶなら、手は多い方がいいです」


「手はいる。だが、鉱山で小さい手は危ない」


「小さいから入れる隙間もあります」


「そういうこと言う奴が一番危ない」


 ニムはむっとした顔をした。


 ヴェスパーは少しだけ視線を落とす。


「村に残って、プルトンを見てろ」


「プルトン様を?」


「あいつがまた何か言ったら、ハボリムかグレルを呼べ。言葉は全部覚えておけ」


「全部ですか」


「できるか」


 ニムは背筋を伸ばした。


「できます」


「なら頼む」


 その一言で、ニムは少しだけ表情を変えた。


 行けないのではなく、任された。


 そう受け取ったらしい。


「分かりました。プルトン様の言葉を見張ります」


「見張るのは言葉じゃなくて本人だ」


「本人も見ます」


「よし」


 炉のそばでは、ハボリムが鍋を抱えていた。


「火は、よいのう」


「ハボリム」


「なんじゃ」


「炉を見てろ。鍋だけ見るな」


「鍋も、よいのう」


「鍋は大事だが、今日は炉だ」


「火は、見ておる」


 ヴェスパーは不安そうにハボリムを見た。


 だが、ハボリムの指先には小さな火が灯っている。

 ぼんやりしているように見えるが、火の扱いだけは確かだ。


「炉の音が変わったら呼べ」


「分からぬ音がしたら、じゃな」


「そうだ」


「鍋の蓋が落ちた音は」


「呼ぶな」


「難しいのう」


「難しくない」


 ブエルが籠を背負って近づいてきた。


「衰弱した悪魔を連れて帰るなら、温めるだけじゃなくて、少しずつ魔力を戻した方がいいですよぉ」


「できるのか」


「冥骨粥を薄めたものと、霜苔を煮たものが使えますぅ。ただ、急に食べさせると、たぶん吐きますぅ」


「地味に大事な情報だな」


「吐いたらもったいないですからぁ」


「理由が食材側なのが嫌だな」


 ブエルはにこにこしていた。


 だが、籠の中には薬草らしきものと毛皮が入っている。

 彼女なりに救助の準備をしているのだ。


 ヴェスパーは全員を見回した。


「今日は鉱石を取りに行くんじゃない」


 そりの周囲にいた悪魔たちが顔を上げる。


「悪魔を取りに行く」


 空気がわずかに引き締まった。


「プルトンの話が正しければ、鉱山の奥にまだ残ってるやつらがいる。記録では消えてるかもしれない。全滅扱いかもしれない」


 ヴェスパーは一度言葉を切った。


「だが、記録の上で死んだことにするな。そこにいるなら、まだ終わってねぇ」


 アガレスの筆が動く。


 フルカスが静かに目を伏せる。


 バルガンは木材を担ぎ直した。


「生きてるなら連れて帰る。生きてるか分からないなら、確認する。掘る道具より支える道具だ。穴を広げる前に、逃げ道を作れ。分かったな」


「おう!」


 バルガンの声が響く。


 今度は、ヴェスパーも止めなかった。


 そり隊が南へ向かった。


 村を出ると、風がすぐに強くなる。


 中央炉の熱が届く範囲は、以前より広がっている。

 排管沿いの氷は薄くなり、ところどころ黒い地面が覗いている。

 赤い帰還柱も間隔を置いて立ち、道を示していた。


 だが、南へ進むほど、まだ地獄は地獄だった。


 黒い岩稜が牙のように突き出している。

 地面は凍り、風は低く唸り、溶けかけた場所は泥になって足を取る。


 そりは重かった。


 木材が多い。

 支柱材が多い。

 毛皮と鍋と火石まで積んでいる。


 鉱石を積む余裕はほとんどない。


 バルガンがそりを押しながらぼやいた。


「これ、鉱山に行く荷じゃなくて、家でも建てる荷だぞ」


「半分正解だ」


 ヴェスパーは前を見たまま答えた。


「坑道の中に家を建てるつもりで行け」


「坑道に家?」


「支えのある場所だけが、安全な場所だ。支柱を入れたところまでが道。それより奥は墓穴だ」


 バルガンは少し黙った。


「墓穴は嫌だな」


「俺も嫌だ」


 アガレスが記録板に書き込む。


「支柱を入れたところまでが道。それより奥は墓穴。王様、名言です!」


「現場の注意書きだ」


「では、坑道入口に刻みますか?」


「やめろ。縁起が悪い」


「そうでしょうか。効果はありそうですが」


「怖がらせてどうする」


「事故防止です!」


「言い方だけ聞くと正しいのが腹立つな」


 フルカスが静かに笑った。


 その笑みは小さい。

 だが、村を出た時の重さを少しだけ和らげた。


 石切り場を越え、黒い岩稜の入口へ近づく。


 そこには、前回プルトンを救い出した坑道が口を開けていた。


 黒い岩肌に走る裂け目。


 入口には仮の支柱が組まれている。

 だが、奥は暗い。


 前に入った時よりも、空気が重く感じた。


 ヴェスパーは入口の前で止まった。


 坑道の奥から、冷気が流れてくる。


 熱で溶けた氷の匂い。

 黒鉄鉱の重い匂い。

 そして、古い閉じ込められた空気。


 グレルは入口の外へ立ち、周囲を見張った。

 ラゴは坑道の前で片膝をつき、耳を地面へ近づける。


 同じ索敵でも、見る場所が違う。


 グレルは外を見る。

 ラゴは山の中を聞く。


「どうだ」


 ヴェスパーが聞く。


 しばらく、誰も動かなかった。


 風の音。

 そりの縄が軋む音。

 炉から遠く伸びた排管の低い唸り。


 ラゴは目を細めた。


「奥が鳴ってる」


「崩れる音か」


「違う。水と、石と、風」


「他には」


 ラゴは少し黙った。


「まだ遠い。けど、叩く音がある」


 ヴェスパーは坑道の奥を見た。


「叩く音」


「一定じゃない。でも、岩だけじゃない」


「分かった」


 ヴェスパーは振り返った。


「入る。だが、入口から補強し直す。古い支柱は信用するな」


 メルツが入口の支柱に触れた。


「木は死んでるな。凍って形は残ってるが、衝撃には弱い」


 次に、奥に見える黒い梁を見て目を細める。


「ただ、黒鉄の梁は生きてる」


「使えるか」


「使える。持ち帰れば炉にも工具にも使えるが」


「支えに使う。持ち帰るのは後だ」


 メルツは一瞬だけ悔しそうな顔をした。


 職人としては、黒鉄の梁を素材として見たかったのだろう。


 だが、すぐに頷いた。


「分かった。今日は支えだ」


「そうだ」


 作業が始まった。


 入口の古い支柱を外すのではなく、横に新しい支柱を追加する。

 いきなり抜けば天井が落ちるかもしれない。


 黒石の台座を置き、木材を立てる。

 横木を渡す。

 黒鉄釘を打つ。

 魔獣の腱で締める。


 メルツが黒鉄釘を手にして唸った。


「釘は悪くない。だが、まだ柔らかいな」


「今あるものでやれ」


「分かってる。文句だ」


「現場で言う文句は改善案にしろ」


「じゃあ改善案だ。次はもっと太い釘を作る」


「採用」


 バルガンが木材を支える。


 その太い腕なら、支柱一本を抱え込むように押さえられる。


「俺が押さえてりゃいいだろ」


「お前が離れた瞬間に崩れるだろうが。支柱は置いて残るもんだ」


「それもそうか」


「納得が早くて助かる」


「俺は残れねぇからな」


「そうだ。お前には運ぶ仕事がある」


 バルガンは少しだけ目を伏せ、それから強く頷いた。


「任せろ」


 アガレスが横で術式を入れる。


 細い赤黒い光が黒石粉に走り、継ぎ目を固めた。


「王様、接合完了です!」


「焦がしてないな」


「焦がしてません!」


「よし。次」


 少し進む。


 止まる。


 天井を叩く。


 音を聞く。


 古い支柱を確認する。


 割れている場所には新しい支柱を入れる。


 水が垂れている場所には溝を切る。


 冷気が溜まる場所には、骨管を差し込み、熱を少しだけ送る。


 だが、熱を入れすぎると氷が緩む。


 冷やしすぎると、奥にいる者が持たない。


「面倒だな」


 ヴェスパーは低く呟いた。


 アガレスがうなずく。


「熱を送れば崩れ、送らねば凍る。非常に繊細な現場ですね」


「繊細って言葉で済ませるな」


「では、最悪です」


「そっちの方が正しい」


 プルトンの言葉を頼りに、右へ折れる古い坑道を探す。


 最初の分岐は違った。

 奥が完全に氷で塞がっている。


 二つ目も違う。

 黒鉄の梁はなく、天井が低すぎる。


 三つ目の分岐で、ラゴが止まった。


「ここ」


 その声は小さかった。


 ヴェスパーは分岐の奥を見た。


 右へ折れる坑道。


 古い支柱。


 黒鉄の梁。


 プルトンがうわ言で呟いていたものが、そこにあった。


 フルカスが息を吐く。


「ここでございますか」


「らしいな」


 ヴェスパーは足元を見た。


 古い坑道の床には、黒い粉が積もっている。

 天井には氷の筋。

 壁には、何かを引きずったような跡。


 そして、奥から微かな音がした。


 カン。


 全員が止まった。


 カン。


 また音がする。


 一定ではない。


 力も弱い。


 だが、明らかに自然音ではなかった。


 ラゴが呟く。


「叩いてる」


 アガレスがすぐに術式を展開した。


 赤黒い線が坑道の奥へ伸びる。


 しばらくして、彼女の顔が強ばった。


「複数、います」


「悪魔か」


「はい。かなり弱いです。形を保つのがやっとの者もいます。でも、反応はあります」


 バルガンが木材を担ぎ直した。


「なら行くぞ」


「待て」


 ヴェスパーは彼を止める。


「音があるなら、道を作る。走るな」


「分かってる」


「分かってなさそうな顔だ」


「今は我慢してる!」


「ならそのまま我慢しろ」


 坑道の右側へ進む。


 支柱を入れる。


 黒鉄梁を仮固定する。


 メルツが梁を見て唸った。


「この梁、かなり古いぞ。だが、まだ持ってる」


「黒鉄は腐らないのか」


「腐らない。だが、疲れる」


「金属が疲れるみたいに言うな」


「疲れるんだよ」


「そうかよ」


 メルツは梁に黒鉄釘を打ち込み、新しい木材と固定した。


 金属音が坑道に響く。


 カン。


 すると、奥から返事のように音が返ってきた。


 カン。


 誰も笑わなかった。


 バルガンの表情が変わる。


「聞こえてるんだな」


「たぶんな」


 ヴェスパーは奥を見た。


「待ってろ」


 声が届いたかは分からない。


 それでも言った。


「今、道を作ってる」


 さらに奥へ進む前に、ラゴが左の壁際を指した。


「ここにもいる」


 火石を近づけると、崩れた支柱の陰に悪魔が倒れていた。


 体の半分が氷に呑まれ、片腕だけが黒い粉の上に出ている。

 角は欠け、翼は凍りつき、目は閉じたままだった。


「生きてるか」


 アガレスが膝をつき、手をかざす。


「薄いです。でも、残っています」


「出すぞ」


 ヴェスパーが言うと、バルガンがすぐに前へ出た。


「俺が引く」


「引くな。氷ごと割ったら体も持っていかれる」


「じゃあどうする」


「周りを削る。温めすぎるな。割れ目を作って、抱えて抜く」


 ブエルが毛皮を広げた。


「出したらすぐ包みますぅ。急に炉の熱に当てると、たぶん割れますぅ」


「怖いことをさらっと言うな」


「割れるのはよくないですからぁ」


 アガレスが火を細く絞り、氷の縁だけを緩める。

 ザグが黒石片で周囲を削り、メルツが凍った支柱を押さえた。

 バルガンは息を殺すようにして、悪魔の体を抱え上げた。


 軽かった。


 あまりにも軽すぎた。


「……これで悪魔かよ」


 バルガンが低く呟く。


「今は言うな。運べ」


 ヴェスパーは短く言った。


 悪魔は毛皮に包まれ、坑道の外へ運ばれた。

 入口の前に置いた火石と毛皮で、ゆっくり温める。


 ブエルが薄めた冥骨粥を、唇に少しだけ含ませた。


 喉が、わずかに動いた。


「よし。次だ」


 ヴェスパーは奥を見た。


「一人ずつ出す。焦るな。走るな。壊すな」


 その先にも、二人いた。


 一人は折れた支柱を抱えるように倒れていた。

 もう一人は、黒鉄梁の下で身を丸めている。


 どちらも、ほとんど声は出なかった。

 だが、アガレスの術式には薄い反応が残っていた。


 ただの避難者ではない。


 坑道の中で、最後まで何かを守っていた者たちだった。


「鉱夫だな」


 ヴェスパーは低く言った。


「こいつらを連れて帰る。鉱山を知らない俺たちだけじゃ、この山は無理だ」


 毛皮が一枚、また一枚と使われていく。

 坑道の入口には、救い出された悪魔たちが並んだ。


 ブエルが火石の位置を調整し、ハボリムから持たされた小さな火種を守る。

 モルクはそりの向きを出口側へ変え、いつでも運び出せるように縄を結び直した。


 救えた。


 少なくとも、手前にいた者たちは。


 だが、奥からはまだ音がしていた。


 カン。


 カン。


 さらに奥で、誰かが黒鉄を叩いている。


 ヴェスパーは火石を手に取り、奥を見た。


「まだいる」


 アガレスが顔を上げる。


「はい。奥にも、反応があります」


「行くぞ」


 バルガンが木材を担ぎ直す。


「今度こそ全員だな」


「決めつけるな」


 ヴェスパーは低く言った。


「全員連れて帰るつもりで行く。だが、無理に開ければ、全員潰れる」


 その言葉に、バルガンは口を閉じた。


 さらに進むと、坑道は急に狭くなった。


 崩落した岩と氷が、道の半分を塞いでいる。

 その隙間の向こうに、空洞があった。


 火石の灯りを近づける。


 見えた。


 氷に半分埋もれた腕。

 黒鉄梁にもたれかかった悪魔。

 翼を抱えたまま動かない者。

 支柱の影に座り込んだまま、こちらを見ているのかどうかも分からない者。


 数ははっきりしない。


 五体か。

 十体か。

 あるいは、奥にもっといるのかもしれない。


 その中の一人が、震える手で黒鉄梁を叩いた。


 カン。


 ヴェスパーの喉が詰まった。


 生きている。


 いや、悪魔に生きているという言葉が正しいかは分からない。


 だが、そこにいる。


 消えていない。


 フルカスが低く呟いた。


「王国時代の鉱夫たちか……」


 アガレスは記録板を胸に抱いたまま、奥を見つめていた。


「……この坑道は、閉鎖されたはずです」


「閉鎖?」


「はい。崩落後、危険区域として封じられた、とだけ残っています」


 ヴェスパーは奥を見た。


 黒鉄梁を叩いた悪魔の手が、まだかすかに震えている。


「危険区域、ね」


 ヴェスパーは低く言った。


「中にいる側からすりゃ、ただの置き去りだろ」


 バルガンが前に出る。


「この岩をどかせばいいんだな」


「待て」


「見えてるぞ!」


「だから待て」


 ヴェスパーは隙間の周囲を見る。


 正面を塞いでいる岩。

 その上に乗っている氷。

 さらにその上を支えている黒鉄梁。

 そして、奥の空洞。


 見れば見るほど、嫌になる構造だった。


 正面の岩を抜けば、上が落ちる。

 黒鉄梁を外せば、空洞が潰れる。

 熱を入れれば氷が緩む。

 冷やせば奥の悪魔たちがさらに削られる。


 助けたい相手の目の前に、罠が重なっている。


「ああ、くそ」


 ヴェスパーは歯を食いしばった。


「見えてるのに、出せねぇ」


 フルカスが静かに言う。


「今、力任せに開けば、あの者たちごと潰れましょう」


「分かってる」


「王様」


「分かってるんだよ」


 分かっているから腹が立つ。


 今すぐ岩をどけたい。

 手を伸ばしたい。

 そりに乗せて帰りたい。

 毛皮で包み、冥骨粥を飲ませ、炉の前に寝かせたい。


 それだけの準備はしてきた。


 なのに、そこへたどり着く最後の数歩が開かない。


「正面は駄目だ」


 ヴェスパーはプルトンの言葉を思い出した。


 正面は駄目だ。

 上が抜ける。

 右。

 古い支柱。

 黒鉄の梁。


「プルトンは、これを言ってたのか」


 アガレスが頷く。


「おそらく。正面からではなく、右の古い支柱と黒鉄梁を使え、という意味かもしれません」


「使うにも足りねぇ」


 ヴェスパーは周囲を見た。


 木材はある。


 だが、足りない。


 黒鉄釘はある。


 だが、弱い。


 梁はある。


 だが、動かせない。


「ザグ。右の岩はどうだ」


 ザグが壁を叩く。


 軽い音が返った。


「駄目だ。叩いた音が軽い。中が割れてる」


「左は」


 ザグが反対側を叩く。


「左はまだましだ。だが、長くは預けられない」


「嫌な返事だな」


「岩が嫌な音をしてる」


「そうかよ」


 メルツが黒鉄梁を見上げた。


「梁を補強すれば、少しなら隙間を広げられるかもしれねぇ。ただ、金具が足りない」


「木で代用は」


「持たない。黒鉄と組まないと無理だ」


「ここで作れないか」


「炉がない。火石じゃ足りねぇ」


 ヴェスパーは奥の悪魔たちを見た。


 カン。


 弱い音がまた響く。


 待っている。


 こちらがいることを知っている。


 だから叩いている。


「……一度、戻るべきか」


 その言葉に、バルガンが目を剥いた。


「戻るのかよ!」


「戻る準備をするだけだ」


「でも、そこにいる!」


「分かってる」


「なら!」


「分かってる!」


 ヴェスパーの声が坑道に響いた。


 奥からの音が止まる。


 ヴェスパーは自分の声に舌打ちした。


「悪い」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 バルガンか。

 奥にいる悪魔たちか。

 それとも、自分自身か。


「今ある道具じゃ、正面を開けられない」


 フルカスが頷く。


「私も同意いたします」


「だが、何もせず戻るのはまずい。ここの支柱を増やす。次に来るまで空洞を保たせる」


「承知しました」


 作業が再開された。


 正面は開けない。

 その代わり、周囲を支える。


 木材を滑り込ませる。

 黒鉄梁の下に仮支柱を入れる。

 割れた岩の隙間に黒石材を詰める。

 骨管を差し込み、ほんの少しだけ温かい空気を送る。


 奥の悪魔たちに届くほどではない。

 だが、完全に凍らせないための熱だ。


 アガレスが出力を絞る。


「これ以上熱を入れると、氷が緩みます」


「これ以下だと」


「奥の反応が弱まります」


「最悪の調整だな」


「はい」


 アガレスの額に汗のようなものが浮かんでいた。


 悪魔に汗があるのかは分からない。

 だが、少なくとも余裕はない。


 ヴェスパーは奥へ向かって声をかけた。


「聞こえるか」


 返事はない。


 代わりに、黒鉄梁が小さく鳴った。


 カン。


「今は出せない」


 ヴェスパーは拳を握った。


「だが、戻る。道具を作って戻る。支柱も、金具も、熱を送る管も持ってくる。だから、持て」


 カン。


 音が返る。


 それが返事なのか、ただ震えただけなのかは分からない。


 それでも、ヴェスパーは頷いた。


「持て」


 その時だった。


 ラゴの耳が跳ね上がった。


 犬に似た耳が、冷気の中でぴんと立つ。


「撤収!」


 普段の低い声ではない。

 喉を裂くような声だった。


「全部捨てろ! 崩れる!」


 次の瞬間、坑道の奥で低い音がした。


 ごごごご、と。


 地鳴りのような音だった。


 全員の動きが止まる。


 ヴェスパーの背筋が冷えた。


「全員出ろ!」


 バルガンが奥を見る。


「まだだ!」


「出ろ!」


「奥にいるぞ!」


「分かってる!」


 ヴェスパーは喉が裂けるほど叫んだ。


「だから今は出ろ!」


 フルカスが即座に剣を抜いた。


 敵がいるわけではない。

 だが、その声は戦場の指揮と同じ鋭さだった。


「撤退! 列を崩すな! 走るな、だが止まるな!」


 ごごごごご、と音が大きくなる。


 坑道全体が、腹の底から唸っていた。


 火石の灯りが大きく揺れる。

 骨管から送っていた熱が、逆流する冷気に押し戻される。

 壁についた水滴が、一瞬で白く凍った。


 その白い筋が、天井へ走る。


 ぱき、と小さな音がした。


 ヴェスパーは見た。


 黒鉄梁の上を、細いひびが走っていく。

 一本。

 二本。

 蜘蛛の巣のように広がり、氷と岩の継ぎ目へ食い込んでいく。


 支柱が、ぎしりと鳴った。


 古い木が悲鳴を上げるような音だった。


 ばきり、と。


 乾いた音が坑道の奥で弾けた。


 次の瞬間、黒鉄梁が大きく軋んだ。

 金属がねじれるような、耳の奥を削る音だった。


 火石の灯りが、粉塵に呑まれる。


 視界が一気に灰色になった。


 天井の氷が割れ、黒岩が崩れ、古い支柱が一本、根元から折れる。

 折れた木材が跳ね、壁に叩きつけられた。


 奥の空洞へ続いていた細い隙間が、崩れた岩に潰されていく。


 ヴェスパーは、その向こうを見た。


 黒鉄梁にもたれた悪魔の手。

 かすかに持ち上がった指。

 助けを求めるように、あるいは、まだここにいると伝えるように。


 その指が、黒い岩と白い粉塵の向こうへ消えた。


「くそっ!」


 叫びは、崩落の音に呑まれた。


「下がれ! 下がれ!」


 フルカスの声が飛ぶ。


 バルガンが折れかけた支柱を押さえようとした。


「俺が持つ!」


「持つな!」


 ヴェスパーは怒鳴った。


「お前が潰れたら、次に誰が運ぶんだ!」


 バルガンの顔が歪む。


 その一瞬の迷いを、フルカスが逃さなかった。

 老騎士はバルガンの背に体当たりするようにぶつかり、支柱から引き剥がした。


「下がれ、バルガン!」


「フルカス!」


「ここで潰れれば、奥の者たちを救う手が減る!」


 その言葉で、バルガンはようやく足を動かした。


 直後、支柱が折れた。


 黒岩と氷が落ち、奥への道を完全に塞いだ。


 全員が入口へ向かって退いた。


 火石が消えかける。

 足元が滑る。

 毛皮を積んだ救助そりが壁に引っかかる。


 モルクがそれを引き戻そうとした。


「そりが!」


「置け!」


 ヴェスパーが怒鳴る。


「でもよ!」


「置け! そりは後で作れる!」


 モルクは歯を食いしばり、縄を切った。


 救助用のそりが坑道の端に倒れる。

 毛皮が散らばる。

 使われるはずだった器が転がる。


 だが、誰も拾えなかった。


 最後にフルカスが出る。


 その直後、坑道の奥で、もう一度大きな音がした。


 灰色の粉塵と黒い霧が吹き出し、入口の内側を呑み込む。


 補強した入口付近だけが、かろうじて形を保っていた。


 全員が外に転がり出た。


 冷たい風が頬を叩く。


 ヴェスパーは膝をつき、肩で息をした。


 坑道の奥は塞がっている。


 さっきまで見えていた空洞も、黒鉄梁も、悪魔たちの姿も、もう見えない。


 ただ、崩れた岩と氷の壁だけがそこにあった。


 バルガンが立ち上がった。


「掘るぞ」


 誰も答えなかった。


「まだ中にいる!」


「分かってる」


 ヴェスパーは低く言った。


「なら掘るぞ!」


「ダメだ」


 バルガンの目が赤く燃えた。


「見捨てるのかよ!」


 その声に、周囲の悪魔たちが身を固くした。


 ヴェスパーは立ち上がる。


 バルガンよりも小さい。

 腕力もない。

 今この場で岩をどかす力などない。


 それでも、目だけは逸らさなかった。


「違う」


「何が違う!」


「今掘ったら、残ってる空洞ごと潰す」


「だが!」


「分かってる!」


 ヴェスパーの声が、鉱山入口に響いた。


 バルガンが息を呑む。


 ヴェスパーは拳を握りしめていた。


「分かってる。中にいる。見えてた。声もあった。返事もあった。連れて帰れなかった。それでも、今掘れば終わりだ」


 奥の悪魔たち。


 記録では消えたことになり、それでもまだ残っていた者たち。


 連れて帰るはずだった。


 毛皮も持ってきた。

 冥骨粥も持ってきた。

 そりも空けてきた。


 だが、届かなかった。


 ヴェスパーは崩れた坑道を睨んだ。


「助けるために、今日は退く」


 バルガンは歯を食いしばった。


 何かを殴りたそうな顔だった。


 けれど、殴る相手はいない。


 鉱山を殴っても、奥の者たちは助からない。


 フルカスが静かに頭を下げる。


「王様。私の判断が遅れました」


「違う」


 ヴェスパーは即座に言った。


「お前のせいじゃない」


「しかし」


「現場を甘く見た俺のせいだ」


 フルカスが顔を上げる。


 ヴェスパーは坑道を見たまま続けた。


「木材が足りない。支柱の組み方も甘い。黒鉄の金具も足りない。冷気の抜け道も見てなかった。正面から開けようとしたのもまずかった」


「王様……」


「次は正面から掘らない」


 ヴェスパーはゆっくり息を吐いた。


「横から回る」


 アガレスが記録板を抱えたまま顔を上げた。


「迂回坑道、ですか」


「そうだ。崩れた道を戻すんじゃない。新しい道を作る」


 ザグが崩落した入口を見た。


「横の岩なら、まだ探れる」


 メルツが黒鉄梁の欠片を拾い上げる。


 崩落の衝撃で折れ、入口近くまで転がってきたものだった。


「この黒鉄を使えば、支柱金具を作れる。木だけよりは持つ」


 ラゴが地面に手を当てた。


 しばらく黙る。


 そして、小さく言った。


「奥の音は、まだ消えてない」


 ヴェスパーは顔を上げた。


「本当か」


「弱い。でも、ある」


「なら、終わってない」


 誰も声を上げなかった。


 だが、その場の空気がわずかに変わった。


 救えなかった。


 だが、失ったと決まったわけではない。


 まだ奥にいる。


 まだ音がある。


 なら、道を作る。


 ヴェスパーは救助そりが消えた坑道の奥を見た。


 本来なら、あそこにもっと乗せて帰るはずだった。


 毛皮に包み、炉の前へ運び、温かい粥を飲ませるはずだった。


「戻るぞ」


 ヴェスパーは言った。


「戻って、作る」


「何をですか」


 アガレスが聞く。


「支柱金具。黒鉄枠。冷気を抜く排気路。奥まで熱を届ける排管。救助用のそり。あと、冥骨粥を冷まさず運ぶ箱」


「箱まで?」


「助けたあとに凍えさせてどうする」


 アガレスは一瞬だけ目を丸くした。


 それから、静かに頷いた。


「記録します」


「ああ」


「坑道救助計画、第一版」


「それも第一版か」


「はい」


「第二版を作らずに済ませたいな」


「今度こそ」


 アガレスは小さく言った。


 帰り道、誰もあまり話さなかった。


 そりの音だけが、氷の上を滑っていく。


 そりは空ではなかった。


 毛皮に包まれた悪魔が三人、浅い息をしている。

 ブエルがそばにつき、器に残った薄い冥骨粥を少しずつ唇へ運んでいた。


 救えた。


 それは確かだ。


 だが、そりにはまだ空きがあった。


 本来なら、そこにも誰かが乗っているはずだった。

 黒鉄を叩いて返事をした、あの奥の悪魔たちが。


 ヴェスパーは、空いた場所を見つめた。


「……半分空いてるそりってのも、嫌なもんだな」


 アガレスは何か言おうとして、言葉を止めた。


 珍しく、何も言わなかった。


 村に戻ると、ニムが真っ先に駆け寄ってきた。


「王様」


「ああ。ただいま」


 ニムはそりを見た。


 毛皮に包まれた悪魔たち。

 黒鉄梁の欠片。

 壊れた木材。

 そして、まだ空いたままの場所。


「まだ、いるんですか」


 ヴェスパーは少し黙った。


「ああ」


「奥に?」


「ああ。奥にいる」


 ニムは唇を結んだ。


 炉のそばでは、プルトンがまだ毛皮に包まれていた。


 浅い息。

 薄く開いた唇。

 閉じた瞼の下で、眼球だけが小さく動いている。


 ニムがそばについていた。


「王様」


「プルトンは」


「また、少し言いました」


 ヴェスパーは膝をつく。


 プルトンの口元に耳を寄せた。


「……右は……まだ……生きてる……」


 かすれた声だった。


「黒鉄……折るな……下……下から……」


「聞こえてる」


 ヴェスパーは短く答えた。


「下から回るんだな」


 プルトンの指が、毛皮の中でわずかに動いた。


「梁を……抜くな……抜けば……落ちる……」


「分かった。抜かない」


「奥に……まだ……音が……」


「分かってる」


 ヴェスパーは目を伏せた。


「まだ、終わってねぇ」


 プルトンはそれ以上、何も言わなかった。

 ただ、浅い息だけが続いた。


 少し離れた場所で、ハボリムが鍋を見て、ぽつりと言った。


「まだ、器が残っておるのう」


 その言葉が、やけに深く刺さった。


 誰も責めていない。


 救えた者はいる。


 だが、救って帰るはずだった相手の器が、まだそこに残っている。


 ヴェスパーはしばらく黙っていた。


 まだ、情報はある。


 まだ、道はある。


 なら、終わっていない。


 ヴェスパーはそりに積まれた黒鉄梁の欠片を指した。


「メルツ」


「おう」


「炉に持っていけ」


「すぐ試すか」


「今すぐだ」


 メルツは頷き、黒鉄を抱えた。


 ザグもそれに続く。


 炉の前に黒鉄が置かれる。


 ハボリムが火を見つめる。


「黒いのう」


「焦がすなよ」


「鉄は焦げるかのう」


「割れる」


「では、割らぬように焼くかのう」


 メルツが槌を構えた。


 炉に入れられた黒鉄が、赤黒く光る。


 硬い。


 だが、熱が入ると表面がわずかに変わる。


 メルツが槌を振るった。


 カン、と音がした。


 村の悪魔たちが顔を上げる。


 もう一度。


 カン。


 そして、もう一度。


 カン。


 第九圏に、金属を叩く音が響いた。


 それは、以前なら希望の音だったかもしれない。


 文明が一段進む音。

 石と骨だけの村に、金属が戻る音。

 道具が生まれる音。


 だが、今夜のそれは違った。


 勝利の音ではない。


 鉱石を得た喜びの音でもない。


 ヴェスパーは炉の前に立ち、赤く光る黒鉄を見下ろした。


 その向こうに、崩れた坑道が見える気がした。


 黒い岩。

 古い支柱。

 黒鉄の梁。

 氷に呑まれかけた悪魔たち。

 黒鉄を叩いて返してきた、弱い音。


「掘るぞ」


 アガレスが顔を上げる。


「鉱石を、ですか?」


「違う」


 ヴェスパーは南を見た。


 まだ氷と岩に塞がれた、黒い鉱山の方角を。


「道をだ」


 誰も笑わなかった。


 誰も歓声を上げなかった。


 ただ、メルツが槌を振るう音だけが響いていた。


 カン。


 カン。


 カン。


 第九圏に戻った鍛冶の音は、祝福ではなかった。


 それは、まだ届かない場所へ、もう一度手を伸ばすための音だった。


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