第十四話 見張り台の狙撃手
西の白い闇の中で、青白い光が増えていた。
ひとつではない。
最初は吹雪の奥に揺れる小さな火のようにも見えた。だが、近づくにつれて、それが火ではないことが分かる。
冷たい光だった。
氷の奥から滲み出るような、青白い光。
それが、横に広がりながら、少しずつ村へ近づいてくる。
見張り台の下で、グレルが鼻を鳴らした。
長く息を吸い、目を細める。
「来ます」
その声は低かった。
ヴェスパーは西門の向こうを見たまま、短く聞く。
「何が混じってる」
「冷気。金属。氷。あと……戦う悪魔の匂いです」
「戦う悪魔の匂いってなんだよ」
「魔物の群れとは違います。並んでいます。殺す気配が揃っている」
グレルの言葉に、炉の周囲で息を潜めていた悪魔たちがざわついた。
ラゴが氷の上に片膝をつき、手のひらを当てる。
しばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。
「足音が揃ってる。いや、滑ってるのか。氷の上を、列で進んでる」
「ああ。隊列だ」
アガレスが記録板を抱え、ヴェスパーの横に立つ。
小さな金色の目が、白い闇の奥を見つめていた。
「王様。霜牙軍である可能性が高いです」
「やっぱりか」
「はい。第九圏の氷で弱るどころか、この氷の上でこそ機動力を発揮する連中です。こちらが足を取られる場所で、向こうは滑るように動きます」
「氷上専用の軍隊かよ。嫌な相手だな」
「はい。とても嫌です」
アガレスが即答した。
ヴェスパーは白い闇の奥を見た。
青白い光が、確実に増えている。
近づいている。
こちらを見つけて、まっすぐ進んでいる。
氷を擦る音が、風の奥から届き始めていた。
ひとつの足音ではない。
何十もの氷刃が大地を削り、何十もの鎧が軋み、何十もの槍が冷気を裂いている。
その音が幾重にも重なり、白い闇全体がうねるように迫ってくる。
軍勢だった。
ただの敵ではない。
集団として、こちらを押し潰すための形を持ったものだった。
炉。
寝床。
帰還柱。
救出者。
狩猟番。
石切り場から戻ったばかりの悪魔たち。
そして、ようやく少し形になってきたこの村。
壊されるわけにはいかなかった。
「作業停止」
ヴェスパーは言った。
声は自然と通った。
「炉の周辺を優先防衛区域にする。弱ってるやつ、救出者、子供は炉の内側へ移せ。寝床の悪魔も奥だ。そりは空けろ。搬送用に使う」
アガレスが慌てて書き取る。
「黒石材は西門前へ積め。応急でいい、防壁を厚くする」
「はい!」
「狩猟番は左右。グレル、ラゴは迂回警戒。ザグは防壁補修。メルツは外套と布を集めろ。リトは温水と処置用品。ハボリムは湯と粥。アガレスは伝令と記録」
「はい、王様!」
村が動き出した。
悪魔たちの動きはまだ洗練されていない。
走れば滑る。
黒石材を運べば落とす。
外套を持ってきたつもりで、なぜか魔物皮の切れ端を抱えている者もいる。
だが、それでも動いていた。
ただ震えているだけだった集落ではない。
炉がある。
飯がある。
帰還柱がある。
そりがある。
防壁がある。
そして、守るべき場所がある。
「フルカス」
ヴェスパーが呼ぶと、老騎士はすでに西門前へ歩き出していた。
腰には剣。
片腕には古い盾。
かつての力のすべてが戻ったわけではない。だが、その背筋はまっすぐだった。
「防衛線は任せる」
「承知いたしました」
フルカスは西門前に立ち、周囲を見渡した。
「黒石材を積め。ただし高くしすぎるな。崩れたときに味方を潰す。胸の高さでよい。敵の進路を絞れ。中央は空けすぎるな。左右は狭く、しかし皆が動ける幅を残せ」
ザグが黒石材を運びながら頷く。
「ここか」
「もう半歩内側だ。崩れた石が炉側へ転がらぬようにせよ」
「分かった」
「バルガン」
「おう!」
大柄な悪魔が黒石盾を担いで前へ出た。
体は大きく、声も大きい。
そして、目がやたらと前を向いている。
放っておけば、確実に突撃する顔だった。
「お前は中央だ」
「任せろ! 俺がぶち抜く!」
「違う」
フルカスが即座に言った。
「ぶち抜くな。抜かせるな」
「……む?」
「お前は槍ではない。壁だ」
「壁」
「そうだ。中央を守れ。敵が来ても持ち場を離れるな。敵を追うな。倒し切れなくともよい。ここを抜かせなければ、お前の勝ちだ」
バルガンは少し不満そうに口を曲げた。
だが、すぐに黒石盾を地面に突き立てる。
「分かった。俺は壁だ」
「よろしい」
「だが、殴る壁だ!」
「壁が殴るな」
ヴェスパーが横から言う。
バルガンは真剣な顔で振り返った。
「殴らねば壁ではない!」
「どういう理屈だ」
「俺の理屈だ!」
「だろうな」
フルカスは小さく息を吐いたが、否定はしなかった。
「殴ってもよい。ただし、戻れ」
「おう!」
「左右、狩猟番。敵が迂回しても、深追いはするな。防衛線を守れ。後方、そりの通り道を空けておけ。負傷者が出たら、そこを通す。炉へ続く道も塞ぐな」
悪魔たちが頷く。
モルクも、そりのそばに立っていた。
つい先日まで、彼は運ばれる側だった。
弱り切り、村へ連れ帰られ、炉と粥でようやく立てるようになったばかりだ。
そのモルクが、今はそりの引き縄を握っている。
「モルク。無理するな」
ヴェスパーが言うと、モルクは小さく首を振った。
「俺は、拾われた側です」
「だから休んでろって話だ」
「だから今度は、拾う側に回ります」
その声はまだ細い。
だが、引き縄を握る手は離れなかった。
ヴェスパーは少しだけ黙り、それから頷いた。
「倒れる前に交代しろ」
「はい」
フルカスは最後に、西の白い闇を見た。
「よく聞け。敵を倒すことだけが勝利ではない」
村の悪魔たちが、老騎士を見る。
「守るべきものを守り切ることが、防衛戦の勝利でございます。炉を守れ。寝床を守れ。帰還柱を守れ。救い出した者たちを守れ。そして、生きて戻れ」
その言葉に、ざわめきが消えた。
ヴェスパーはフルカスの横顔を見る。
「やっぱ現役じゃねぇか」
「まだ錆びついております」
「錆びた剣にしては、よく切れそうだ」
「ならば、折れぬように使いましょう」
フルカスはそう言って剣を抜いた。
ヴェスパーも前へ出ようとした。
だが、その前にフルカスが腕を伸ばした。
「王様」
「なんだ」
「前線へは出ませぬよう」
ヴェスパーは眉をひそめた。
「俺が後ろで眺めてろってのか」
「眺めるのではありません。全体を見るのです」
「同じだろ」
「違います」
フルカスの声は静かだった。
「王様が倒れれば、村全体の判断が止まります。炉、退避、搬送、熱配分、防衛線、負傷者対応。今この村で、すべてを見て判断できる者は王様しかおりませぬ」
「お前がいるだろ」
「私は防衛線を見る者です。村全体を見る者ではございませぬ」
ヴェスパーは言葉に詰まった。
バルガンまで振り返る。
「王は後ろにいろ!」
「お前までかよ」
「前は俺が殴る!」
「だから壁だろ」
「殴る壁だ!」
「もうそれでいい」
ヴェスパーは西門前を見た。
前線へ出たいわけではない。
いや、正確には、出たかった。
見ているだけというのが性に合わない。
自分の村が攻められる。
自分の作った炉が狙われる。
自分が連れて帰った者たちが怯えている。
なら、前へ出て止める。
そう考えるのは自然だった。
だが、フルカスの言うことも分かる。
自分が倒れたら詰む。
この村はまだ、役割が薄い。
誰かが倒れても回る仕組みにはなっていない。
なら、前へ出られない。
だが、後ろで見ているだけでは済ませたくない。
「……届けばいいんだよな」
ヴェスパーは呟いた。
「王様?」
アガレスが首を傾げる。
「排管で熱を遠くへ届けた」
「はい」
「なら、力も遠くへ届ければいい」
ヴェスパーは踵を返した。
「アガレス、来い」
「はい!」
「見張り台だ」
見張り台は、村の西側に作ったばかりの簡素な構造物だった。
黒石材を積み、氷木で支え、魔物皮で風を遮る。
塔というには低く、砦というには脆い。
それでも、西門前と氷原を見下ろすには十分だった。
ヴェスパーはそこへ上がると、眼下の防衛線を見た。
フルカスが指示を飛ばしている。
バルガンが中央に立っている。
狩猟番が左右へ散っている。
炉の周囲では、弱った悪魔たちが奥へ運ばれていた。
自分は前に出られない。
それは分かっている。
だが、何もしないで見ているつもりはなかった。
「届かせる」
ヴェスパーは低く呟いた。
「前に出られないなら、ここから届かせる」
「王様?」
アガレスが横で首を傾げる。
ヴェスパーは答えなかった。
右手を前へ出す。
炉の奥で脈打つ灼熱炉核を思い出す。
あの時も、そうだった。
足りないものを見た。
必要なものを考えた。
形を探した。
火を宿す石。
燃え続ける心臓。
なら、今必要なのは何だ。
前線へ届く力。
敵をまとめて吹き飛ばす大砲ではない。
味方の隙間を縫い、遠くの一点だけを撃ち抜くもの。
槍では遅い。
弓では足りない。
魔法を放つだけでは、狙いが甘い。
もっと細く。
もっと長く。
もっと正確に。
「火力じゃない」
ヴェスパーは息を吐いた。
「距離と精度だ」
胸の奥で、魔力が熱を帯びる。
それは灼熱炉核を生み出した時ほど重くはない。
だが、確かに体の芯を削る感覚があった。
黒い魔力が右腕へ流れ込む。
赤い熱が指先に集まる。
ヴェスパーは頭の中に形を描いた。
長い筒。
弾をまっすぐ走らせるための管。
反動を受け止める台座。
狙いを定めるための目。
弾に黒炎をまとわせ、灼熱炉核の余熱で押し出す機構。
銃。
だが、ただの銃では足りない。
長距離用。
精密射撃用。
一発ずつ撃つ。
一発ずつ、戦場を崩す敵を抜く。
「もっとだ」
ヴェスパーは歯を食いしばった。
「何かあるはずだ。遠くへ、細く、正確に力を届ける形が」
右手の前で、黒い粒子が集まり始めた。
氷混じりの風が、そこだけ赤黒く歪む。
黒鉄のような長い筒が、空中に輪郭を取る。
骨のように白い本体が、その後ろに組み上がる。
魔物の腱に似た黒い筋が、銃身の周囲へ巻きついた。
上部には、黒水晶と薄い骨板が重なり、照準器の形を作っていく。
足元の黒石が砕け、台座となってせり上がった。
長い銃身が、その上に固定される。
がちり、と音がした。
見張り台がわずかに沈む。
現れたのは、長い銃だった。
黒光りする長い銃身。
白く大きな本体。
上部には、黒水晶と薄い骨板を組み合わせた精密な照準器。
黒石台座に固定して使う構造になっている。
銃としては重い。
杖としては長すぎる。
砲としては細い。
要するに、まだ分類すら怪しい。
アガレスがぽかんと口を開けた。
「王様……今、作りました?」
「たぶんな」
「たぶんで作れるものなのですか!?」
「俺が聞きたい」
ヴェスパーは長銃の銃身に手を置いた。
まだ熱い。
生まれたばかりの獣の骨に触れているような、不安定な感触がある。
完成品ではない。
今この場に必要なものを、無理やり形にしただけだ。
「名前は?」
アガレスが目を輝かせる。
「試作型精密狙撃銃」
「正式名称ですか!」
「要件を並べただけだ」
「では正式名称として記録します!」
「するな」
アガレスはもう記録していた。
「王様、これは以前の銃とは違うのですね」
「あれは近距離用だ。今欲しいのは、遠くの一点を撃ち抜く武器だ」
ヴェスパーは黒石台座の安定を確かめる。
台座は重い。
だが、それが必要だった。
反動を逃がし、狙いを安定させるためだ。
「火力じゃない。距離と精度だ。前線を崩すやつだけを止める」
「殲滅ではないのですね」
「全部倒せるほど弾もないし、こいつもたぶん長くもたん」
ヴェスパーは長銃の側面に手を当てた。
内部の構造が、完全には分からない。
だが、必要な使い方だけは分かる。
黒石弾を込める。
黒炎をまとわせる。
灼熱炉核の余熱を通す。
細い筒で弾道を絞り、遠くの一点へ撃ち出す。
ただし、一発ごとに装填が必要。
連射不可。
反動は強い。
銃身にも負担がかかる。
初投入で壊れる可能性もある。
「王様」
「なんだ」
「爆発しませんか?」
「したら失敗作だ」
「失敗作を実戦投入するのですか!」
「試作ってそういうもんだ」
「違うと思います!」
霜牙軍が射程に入った。
氷原の上を、青白い兵たちが滑るように進む。
隊列は乱れない。
前列の盾兵が低く構え、中列の槍兵が槍を揃え、後方の術者が杖を掲げる。
吹雪の向こうで、氷の鎧が一斉に鳴った。
薄い氷板を擦り合わせるような、きしきしという音。
それが何十も重なり、白い闇の奥から押し寄せてくる。
個々の兵の姿より先に、軍勢そのものの圧が来た。
青白い光の帯が横へ広がり、槍の穂先が一斉に低く揃う。
白い闇が、意思を持った壁のように前へ滑ってくる。
フルカスの声が飛ぶ。
「構えよ!」
霜牙軍が氷槍を放った。
青白い槍が空を裂く。
ひゅん、という甲高い風切り音の直後、黒石防壁に突き刺さった。
がん、と重い音が響く。
黒石材の表面に白い亀裂が走り、刺さった氷槍の周囲から霜が花のように広がった。
さらに足元から氷刃が生える。
西側の地面が、霜牙軍の魔力で凍り直されていく。
せっかく炉の熱でわずかに緩めていた足場が、青白く塗り潰されていく。
バルガンが黒石盾を構えた。
「来い!」
氷槍が盾に突き立つ。
衝撃で巨体がわずかに下がる。
盾の縁に霜が広がり、バルガンの腕へ白い筋が這い上がった。
それでも、倒れない。
「俺は壁だ!」
狩猟番が左右で動く。
グレルが吠える。
「右、二体回り込み!」
「左を締めよ!」
フルカスの指示が飛ぶ。
ヴェスパーは照準器を覗いた。
視界の中で、氷槍を構える術者が見える。
息を止める。
黒石弾に魔力を流す。
台座の奥で、赤黒い熱が脈打つ。
引き金を引いた。
銃声は乾いた破裂音ではなかった。
長い筒の中を、熱と魔力が走る重い音。
どん、と見張り台が震えた。
固定していた黒石台座が床石を噛み、足元の石材がぎしりと鳴る。
ヴェスパーの肩に反動が突き抜け、見張り台の支柱からぱらぱらと霜が落ちた。
黒炎をまとった弾が飛ぶ。
だが、弾は狙いよりわずかに右へ逸れた。
霜牙軍の術者ではなく、その前に立った氷壁へ突き刺さる。
氷壁が砕け散った。
「外れた!」
アガレスが叫ぶ。
「見りゃ分かる」
「ですが氷壁は砕けました!」
「補正する」
ヴェスパーは舌打ちした。
冷気で弾道がぶれる。
黒石弾の癖も強い。
実戦初投入で、想定通りに飛ぶわけがない。
銃身の熱。
風。
距離。
敵の動き。
全部見直す。
二発目を装填する。
今度は少し左へ置く。
息を止める。
撃つ。
再び見張り台が大きく揺れた。
床に置いていた小さな黒石片が跳ね、アガレスが慌てて記録板を抱え込む。
黒炎弾が白い闇を貫いた。
後方の氷槍術者の胸を撃ち抜く。
術式が崩れ、青白い槍が空中で霧散した。
「当たった!」
「当てたんだよ」
アガレスの目が輝く。
「王様、遠くの敵が急に倒れています!」
「急にじゃねぇ。狙ってる」
「怖いです!」
「俺も怖い」
三発目。
防壁を凍らせている敵。
撃つ。
反動で台座の継ぎ目が小さく鳴った。
氷の杖が砕け、敵が後ろへ倒れる。
四発目。
バルガンの足元を凍らせようとしている術者。
撃つ。
弾は肩を抜き、敵の術式を吹き飛ばす。
バルガンの足元に広がりかけた霜が止まった。
「おお!? 王か!」
「前を見ろ!」
バルガンは笑いながら盾を振るい、飛び込んできた霜牙兵を受け止めた。
氷槍と黒石盾がぶつかる。
ぎゃり、と耳障りな音が鳴り、槍の穂先が盾の表面を削った。
散った氷片がバルガンの頬を切る。
だが、バルガンは笑った。
敵の腕を掴み、そのまま持ち上げる。
「軽い!」
霜牙兵を別の敵へ投げつける。
青白い鎧同士がぶつかり、氷の破片が飛び散った。
ヴェスパーは無差別に撃たなかった。
弾は少ない。
銃身ももたない。
だから、狙う相手を選ぶ。
氷槍を構える術者。
防壁を凍らせる敵。
バルガンの足元を狙う敵。
フルカスの死角に入る敵。
伝令役。
迂回しようとする小隊長格。
帰還柱を狙う敵。
敵を全部倒すためではない。
味方の防衛線を守るために撃つ。
「一匹ずつだ」
ヴェスパーは低く言った。
「戦場を崩すやつから抜く」
前線では、フルカスが剣を振るっていた。
彼は中央より少し後ろにいた。
前へ出すぎない。
全体を見る。
必要な場面だけ剣を抜く。
氷槍を真正面から砕くのではなく、軌道を逸らす。
槍の腹を剣で撫でるようにずらし、力を外へ逃がす。
踏み込んできた敵の膝を切る。
倒すことに執着しない。
進路を塞ぎ、間合いを奪い、味方の線を保つ。
「左、下がるな。右、深追いするな。バルガン、戻れ」
「分かってる!」
バルガンは敵を掴み、別の敵へ投げつけた。
青白い兵が二体まとめて転がる。
そのまま前へ出ようとする。
「バルガン!」
フルカスの声が飛んだ。
バルガンの足が止まる。
歯を食いしばる。
戻る。
「俺は壁だ!」
黒石盾を構え直す。
「だが、殴る壁だ!」
フルカスがわずかに笑った。
「よい壁だ」
「おお!」
バルガンは単純に喜んだ。
その直後、霜牙兵の一体が横から飛び込む。
フルカスの死角。
ヴェスパーが撃った。
黒炎弾が敵の兜を割り、青白い体が氷上に沈む。
フルカスは振り返らない。
ただ、剣を半歩引いて、弾の通り道を空けていた。
「やりやすいな、あの爺さん」
「王様、今の連携は記録に残すべきです!」
「勝手にしろ」
「はい!」
霜牙軍は村を侮っていた。
それは動きで分かった。
最初は試すように槍を放ち、左右に広がり、足場を凍らせれば終わると思っていたのだろう。
だが、防衛線は崩れない。
バルガンが中央を止める。
フルカスが全体を締める。
狩猟番が迂回を防ぐ。
炉の熱と帰還柱の線が、村側の足場を保つ。
そして、見張り台からヴェスパーの狙撃が飛ぶ。
霜牙軍の後方で、ひときわ大きな影が動いた。
白い角。
青黒い鎧。
氷でできた長い槍。
隊長格だ。
名乗りはしない。
だが、その存在感だけで、ただの兵ではないと分かる。
そいつは、じっと見張り台を見ていた。
ヴェスパーは照準器越しに、その視線を感じた。
「火の王は、前に出ぬのか」
低い声が、氷原を渡って届いた。
ヴェスパーは狙撃銃を構えたまま、口元を歪める。
「王が全員、先頭で殴ると思うなよ」
撃つ。
黒炎弾が一直線に飛ぶ。
その瞬間、見張り台全体が悲鳴を上げた。
支柱が軋み、固定した黒石台座の下で床石が一枚割れる。
だが、弾は飛んだ。
隊長格は槍を振った。
氷壁が立ち上がり、弾を受け止める。
壁は砕けた。
しかし隊長格までは届かない。
「硬いな」
「王様、次弾を!」
「撃たない」
「えっ」
「今のじゃ抜けない。銃身も限界だ」
ヴェスパーは狙撃銃の銃身に触れた。
熱い。
黒光りしていた長い銃身が、わずかに赤みを帯びている。台座も軋み、白い本体の継ぎ目から薄く煙が漏れていた。
無理に撃てば歪む。
下手をすれば、見張り台ごと吹き飛ぶ。
「試作品だ。壊れたら終わりだ」
「もう少しで完成品だったのでは?」
「完成品なら試作って言わねぇ」
「なるほど!」
「納得するな」
隊長格は防衛線を見ていた。
炉。
防壁。
帰還柱。
バルガン。
フルカス。
見張り台。
そして、ヴェスパー。
ひとつひとつ確認するように。
やがて、氷槍を低く掲げた。
「退け」
霜牙軍が一斉に動きを止めた。
それは、不気味なほど揃っていた。
槍を引く音。
盾を下げる角度。
氷上で足を滑らせる距離。
すべてがひとつの大きな生き物のように揃っている。
前線にいた兵たちが、声もなく下がり始めた。
青白い光が、隊列を保ったまま後退していく。
威力偵察。
ヴェスパーは、その言葉を思い浮かべた。
本気で村を潰しに来たのではない。
村の力を測りに来たのだ。
バルガンが一歩前へ出る。
「逃げるぞ!」
何人かの悪魔も勢いづいた。
防衛線が前へ押し出されかける。
ヴェスパーは見張り台の上から叫んだ。
「追うな!」
声が氷原に響いた。
バルガンが止まる。
狩猟番も足を止める。
「今回の目的は防衛だ」
ヴェスパーは続けた。
「炉を守る。寝床を守る。怪我人を守る。帰還柱を守る。村を守る。それはもう達成した」
西の白い闇を指す。
「あっちは霜牙軍の地形だ。足場も風も冷気も氷の状態も、向こうが知ってる。こっちは炉と防壁と帰還柱の線があるから戦えた。そこから出れば、勝利条件が変わる」
バルガンが歯を食いしばった。
それでも戻る。
黒石盾を中央へ据え直す。
「勝った時ほど、戻る道を見ろ」
ヴェスパーは低く言った。
「敵を滅ぼした勝ちじゃない。村を守った勝ちだ」
霜牙軍は西の白い闇へ下がっていった。
隊長格が最後に振り返る。
「火の道は、確かに伸びている」
青白い槍の先が、鈍く光った。
「だが、氷は深い」
風が吹く。
「次は、もっと冷えるぞ」
その言葉を残し、霜牙軍は消えた。
しばらく、誰も動かなかった。
グレルが風を嗅ぐ。
「匂いが遠ざかりました」
ラゴが氷に手を当てる。
「振動も消えた」
村のあちこちで、息が漏れた。
守った。
村は残った。
炉は無事。
寝床も無事。
救出者も守った。
帰還柱も、線は残っている。
防衛線も崩壊していない。
初めて、村が明確な外敵に勝った。
「おおおおお!」
バルガンが叫んだ。
それに応じて、狩猟番たちが声を上げる。
だが、ヴェスパーは見張り台から降りながら言った。
「喜ぶのは後だ」
声は大きくなかった。
しかし、騒ぎは止まった。
ヴェスパーは周囲を見る。
防壁が崩れている。
黒石材が割れている。
帰還柱の一部が砕けている。
狩猟番の一人が腕を押さえている。
護衛の足先には白い霜が張りついていた。
救出者の一部は、冷気を浴びて震えが止まらない。
フルカスも肩で息をしている。
バルガンの足も、軽く凍傷を起こしていた。
そして見張り台の上では、試作型精密狙撃銃の銃身が、わずかに歪んでいる。
勝った。
だが、無傷ではない。
「負傷者を数えろ」
ヴェスパーは言った。
「歩けるやつ、歩けないやつ、凍傷のやつ、裂傷のやつを分けろ。冷気を浴びたやつもだ」
そりが動いた。
モルクが引き縄を握り、倒れた狩猟番のそばへ駆け寄る。
「乗せろ。ゆっくりだ」
「お前、大丈夫か」
狩猟番が荒い息で聞く。
モルクは少しだけ笑った。
「この村のそりは、運ばれるだけのものじゃないらしい」
そう言って、彼は負傷者をそりへ乗せた。
数日前、同じように自分が運ばれてきた道を、今度は逆の立場で進む。
ヴェスパーはその姿を一瞬だけ見て、すぐに別の負傷者へ視線を移した。
何人かの悪魔が、負傷者を炉のそばへ寝かせようとする。
「そこに寝かせるな」
「え?」
「炉に近づけすぎるな。凍傷は急に炙ると悪化する。熱湯もかけるな」
別の悪魔が粥場の横へ布を敷こうとする。
「粥場の横にも寝かせるな」
「でも、ここなら温かくて……」
「食事場、寝床、治療場所を混ぜるな」
ヴェスパーは即座に言った。
「仮設でいい。治療する場所を作る」
アガレスが記録板を抱えたまま顔を上げる。
「治療する場所、ですか」
「ああ。負傷者をまとめる場所。軽傷と重傷を分ける場所。凍傷者を急に炙らない場所。湯を使える場所。布と外套を置ける場所。薬草や毒草を食材から分けて置く場所。煙を入れるな。熱は弱め。そりで運び込めるように入口は広くしろ」
「仮設救護所ですね!」
「名前は後だ。動け」
「はい!」
壊れた防壁から黒石材を運ぶ。
低く積んで、風除けの壁にする。
氷木で骨組みを作る。
魔物皮を張る。
床には皮を敷き、冷たい地面から体を離す。
炉から細い排管を引く。
熱は弱め。
煙は入れない。
処置場所と、寝かせる場所を分ける。
薬草、布、温水の置き場も分ける。
作業は慌ただしかった。
だが、戦闘のあとに、村はまた何かを作っていた。
ヴェスパーはそれを見ながら、短く息を吐く。
戦闘で勝つ。
被害が出る。
被害が出たから、医療体制が必要になる。
そして、村の機能が一つ増える。
戦闘回なのに、結局工事になる。
「地獄改革っていうか、ただの現場対応だな」
「王様、現場は大事です!」
「それはそう」
だが、場所を作っただけでは足りない。
メルツが布を抱えている。
リトが温水と処置用品を分けている。
ハボリムが湯を沸かしている。
ブエルは薬草と毒草の入った籠を抱え、妙に楽しそうにしていた。
しかし、誰が判断する。
どの傷を先に見るのか。
温めていいのか。
冷やすべきなのか。
薬草を使っていいのか。
毒抜きが必要なのか。
ヴェスパーは周囲を見回した。
「怪我に詳しいやつはいないのか」
声を張る。
「凍傷、裂傷、魔力切れ、毒や薬草の危険。温めていい怪我と、温めすぎちゃ駄目な怪我を分けられるやつだ」
ブエルがゆっくり手を上げかけた。
「毒なら詳しいですよぉ」
「お前は補佐だ」
「まだ何も言ってませんよぉ」
「顔が患者に試す気だった」
「ひどいですねぇ」
「補佐なら使う。勝手に使うな」
「はいぃ」
沈黙が落ちた。
誰も出てこない。
やはり無理か。
そう思いかけた時だった。
後ろの方で、細い手が上がった。
「あの……少しだけなら……」
声は小さかった。
振り返ると、痩せた悪魔が立っていた。
角は小さく欠けている。
手は細い。
肩も薄い。
長く第九圏で弱っていたのだろう。魔力の圧はほとんど感じない。戦闘要員には見えなかった。
だが、目だけは違った。
彼は騒ぎではなく、負傷者を見ていた。
傷を見る目だった。
フルカスが目を細める。
「マルバスか」
痩せた悪魔はびくりと肩を震わせた。
「お、覚えていてくださったのですか」
「忘れはせぬ。かつて病と傷に詳しかった悪魔であろう」
アガレスが記録板をめくる。
「あります! マルバスさん。病と治癒に関する記録があります!」
「いえ、その……昔ほどの力はありません。今は、ほとんど何も……」
マルバスは恐縮したように俯いた。
「ただ、判断くらいなら……」
「十分だ」
ヴェスパーは即答した。
「見ろ」
「は、はい」
マルバスは負傷者の前に膝をついた。
おずおずした態度だった。
だが、患者を前にすると、少しだけ空気が変わった。
最初の負傷者は、狩猟番だった。
腕に裂傷。
傷口に青白い霜が残っている。
マルバスは指先を近づけ、触れる寸前で止めた。
「裂傷です。ただ、氷の魔力が傷に残っています。先に布で押さえてください。熱を急に当てないで。傷の周りから、ゆっくり温めます」
次は護衛の足。
白くなった指先。
「凍傷です。炉のそばへ近づけすぎないでください。熱湯はだめです。布で包んで、弱い熱の場所へ」
ハボリムが湯を持ってくる。
マルバスは器に触れて、目を丸くした。
「熱すぎます」
「火は、よいのう」
「よすぎます。冷ましてください」
「湯を冷ますのかのう」
「はい」
「難しいのう」
「難しくありません」
ヴェスパーは少し笑いそうになった。
次は、救出者の一人。
震えが止まらず、目の焦点が合っていない。
「低体温に近いです。濃い粥はまだ重いです。薄めたものを少しずつ。寝かせる場所は排管に近すぎないところへ」
次は、バルガンの足。
「軽い凍傷です」
「俺は平気だ!」
「平気な方ほど悪化します」
「……そうなのか」
「はい」
バルガンは妙に素直に黙った。
次は、肩を打った悪魔。
「打撲です。骨は大丈夫そうです。ただ魔力が抜けています。先に薄い粥を」
次は、氷槍の欠片が刺さった腕。
「抜く前に布を用意してください。抜いたあと、血ではなく魔力が漏れます。ブエルさん、その薬草はまだ使わないでください」
「効きますよぉ」
「強すぎます。薄めてからです」
「怒られましたぁ」
「当然だ」
ヴェスパーは黙って見ていた。
判断が早い。
声は小さい。
自信もなさそうだ。
だが、負傷者を前にした時の判断は具体的だった。
何をしていいかだけではない。
何をしてはいけないかを知っている。
それが今、一番必要だった。
「お前、詳しいな」
「い、いえ、少しだけで……」
「ここの責任者をやれ」
マルバスが固まった。
「え」
「お前がここの院長だ」
「えええ……」
アガレスが即座に記録した。
「仮設救護所、初代院長マルバスさん!」
「い、院長というほどでは……」
「では、救護所長で」
「それも重いです……」
マルバスは本気で困っていた。
ヴェスパーはその細い肩を見る。
確かに重い。
だが、誰かが持たなければならない。
「重くても持て」
マルバスが息を呑む。
「怪我人を任せられるやつがいるだけで、村は一段ましになる」
「……」
「できないことは言え。必要なものも言え。勝手に全部抱えるな。だが、傷を見る判断はお前がしろ」
マルバスはしばらく俯いていた。
やがて、小さく頷いた。
「……できる範囲で、やります」
「十分だ」
仮設救護所の役割は、その場で決まっていった。
マルバスが負傷者の分類と治療方針。
メルツが包帯、布、外套、固定具。
ブエルが薬草、毒草、毒抜き。
ただし、マルバスの許可なしには使わせない。
ハボリムが湯。
温度管理。
熱すぎるとマルバスに怒られる。
リトが薬と食料の保管。
腐敗、毒抜き、保存管理。
アガレスが患者台帳。
負傷者数、処置内容、経過記録。
ヴェスパーは救護所の入口に立ち、動線を見る。
「入口はもう少し広げろ。そりが引っかかる。寝かせる場所と処置する場所を近づけすぎるな。薬草と食材を同じ棚に置くな。ブエルが混ぜる」
「信用がありませんねぇ」
「実績だ」
「まだ混ぜてませんよぉ」
「混ぜそうだった」
処置が一段落した頃には、村の空気も少し落ち着いていた。
重傷者は救護所へ。
軽傷者は薄い粥を受け取る。
凍傷の者は弱い熱の場所へ寝かせられた。
マルバスはまだ患者の間を歩こうとしていた。
ヴェスパーはその襟首をつかむ。
「お前も食え」
「で、でも、まだ確認が……」
「院長が倒れたら救護所が止まる」
「院長では……」
「救護所長が倒れても止まる」
「……はい」
マルバスは恐縮しながら、冥骨粥の器を受け取った。
湯気が細い顔にかかる。
「温かいです」
「味は?」
「……温かいです」
「味の感想を言え」
「すみません」
ようやく、勝利の宴が始まった。
宴と言っても、派手なものではない。
ハボリムが冥骨粥を大鍋で作る。
狩猟番が保存していた肉を出す。
ブエルが怪しいキノコを混ぜようとして止められる。
「元気が出ますよぉ」
「幻覚も出るだろ」
「少しだけですぅ」
「却下」
メルツは負傷者に外套をかけて回っていた。
リトは温水と薬を管理している。
アガレスは戦果と負傷者数と救護所開設を記録していた。
バルガンは足を布で巻かれたまま、器を掲げる。
「俺は壁だった!」
「よい壁だった」
フルカスが静かに言う。
バルガンは満面の笑みを浮かべた。
「おお! フルカスに褒められたぞ!」
「動くなとマルバス殿に言われただろう」
「むう」
モルクは器を抱え、静かに炉を見ていた。
自分が戻れたこと。
そして、今度は誰かを運べたこと。
その両方を噛みしめているようだった。
ニムがヴェスパーの袖を引く。
「王様」
「なんだ」
「勝ったんですか」
ヴェスパーはすぐには答えなかった。
西を見る。
霜牙軍は退いた。
だが、まだ奥にいる。
本隊は健在だ。
次は試しでは済まないかもしれない。
防壁は壊れた。
帰還柱も傷ついた。
狙撃銃も歪んだ。
負傷者も出た。
それでも。
「今日はな」
ヴェスパーは器を持ち上げた。
「今日は、勝った」
ニムは小さく笑った。
それを見て、村の悪魔たちも器を掲げた。
大騒ぎではない。
負傷者がいる。
救護所では、マルバスがまだ患者を気にしている。
防壁の向こうには、冷たい西の闇がある。
それでも、湯気があった。
粥の匂いがあった。
少しだけ笑い声があった。
これまでは、生き延びるだけだった。
今回は敵が来た。
みんなが持ち場を守った。
村を守った。
傷ついた者も出た。
その傷ついた者を戻す場所もできた。
だから、祝う。
完全勝利ではない。
それでも、守った勝利だった。
宴の後、ヴェスパーはひとり見張り台へ上がった。
西の白い闇は静かだった。
霜牙軍の姿はない。
だが、冷気はまだ深い。
見張り台の横には、試作型精密狙撃銃が置かれている。
黒光りしていた銃身は、わずかに歪んでいた。
白い本体にも、細かな亀裂が入っている。
完成品ではない。
まだ試作品だ。
「銃身の熱逃がしが足りないな」
ヴェスパーは歪んだ銃身を見下ろし、低く呟いた。
「台座も弱い。反動を逃がす構造も見直し。弾もぶれる。次までに改良だ」
狙撃銃は答えない。
ただ、冷たい風の中で、わずかに赤い熱を残していた。
そして、村も同じだった。
防壁は壊れた。
帰還柱は欠けた。
救護所は仮設。
炉も、排管も、寝床も、どこかしら直す必要がある。
救護所では、マルバスが患者を見ていた。
相変わらずおずおずしている。
だが、負傷者の前では迷っていない。
炉の周りには湯気と粥の匂い。
西には冷たい闇。
南には石切り場。
ヴェスパーは壊れた防壁を見る。
割れた黒石材。
砕けた帰還柱。
救護所の床に使った石。
狙撃銃の修理に必要な黒鉄と黒石。
熱結界装置の台座。
足りないものが、頭の中に並んでいく。
「……石が足りねぇな」
呟く。
勝った。
確かに勝った。
だが、勝利は終わりではなかった。
守った場所には、壊れた壁が残る。
生き残った者には、傷が残る。
火を守ったなら、その火を次も守れる形にしなければならない。
宴の余韻はまだ残っている。
けれど、明日の仕事はもう見えていた。
南の石切り場。
あそこを、ただの採石場所にしておく余裕はない。
常設の作業拠点にする必要がある。
炉がいる。
排管がいる。
暖所がいる。
石を切るための仕組みがいる。
ヴェスパーは西の闇から視線を外し、南を見た。
「勝ったなら、直さなきゃならねぇ」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
壊れたものを数え、足りないものを並べ、次に必要な形を考える。
それが、この村の勝ち方なのだろう。
地獄の夜はまだ冷たい。
だが、村には火が残っている。
そして、その火を守るための次の現場が、もう待っていた。




