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第九圏の欠落王 ―棺の底から始める地獄改革―  作者: カイメイラ
第一章 氷獄に火を灯す

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第十四話 見張り台の狙撃手


 西の白い闇の中で、青白い光が増えていた。


 ひとつではない。


 最初は吹雪の奥に揺れる小さな火のようにも見えた。だが、近づくにつれて、それが火ではないことが分かる。


 冷たい光だった。


 氷の奥から滲み出るような、青白い光。


 それが、横に広がりながら、少しずつ村へ近づいてくる。


 見張り台の下で、グレルが鼻を鳴らした。


 長く息を吸い、目を細める。


「来ます」


 その声は低かった。


 ヴェスパーは西門の向こうを見たまま、短く聞く。


「何が混じってる」


「冷気。金属。氷。あと……戦う悪魔の匂いです」


「戦う悪魔の匂いってなんだよ」


「魔物の群れとは違います。並んでいます。殺す気配が揃っている」


 グレルの言葉に、炉の周囲で息を潜めていた悪魔たちがざわついた。


 ラゴが氷の上に片膝をつき、手のひらを当てる。


 しばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。


「足音が揃ってる。いや、滑ってるのか。氷の上を、列で進んでる」


「ああ。隊列だ」


 アガレスが記録板を抱え、ヴェスパーの横に立つ。


 小さな金色の目が、白い闇の奥を見つめていた。


「王様。霜牙軍である可能性が高いです」


「やっぱりか」


「はい。第九圏の氷で弱るどころか、この氷の上でこそ機動力を発揮する連中です。こちらが足を取られる場所で、向こうは滑るように動きます」


「氷上専用の軍隊かよ。嫌な相手だな」


「はい。とても嫌です」


 アガレスが即答した。


 ヴェスパーは白い闇の奥を見た。


 青白い光が、確実に増えている。


 近づいている。


 こちらを見つけて、まっすぐ進んでいる。


 氷を擦る音が、風の奥から届き始めていた。


 ひとつの足音ではない。


 何十もの氷刃が大地を削り、何十もの鎧が軋み、何十もの槍が冷気を裂いている。


 その音が幾重にも重なり、白い闇全体がうねるように迫ってくる。


 軍勢だった。


 ただの敵ではない。


 集団として、こちらを押し潰すための形を持ったものだった。


 炉。


 寝床。


 帰還柱。


 救出者。


 狩猟番。


 石切り場から戻ったばかりの悪魔たち。


 そして、ようやく少し形になってきたこの村。


 壊されるわけにはいかなかった。


「作業停止」


 ヴェスパーは言った。


 声は自然と通った。


「炉の周辺を優先防衛区域にする。弱ってるやつ、救出者、子供は炉の内側へ移せ。寝床の悪魔も奥だ。そりは空けろ。搬送用に使う」


 アガレスが慌てて書き取る。


「黒石材は西門前へ積め。応急でいい、防壁を厚くする」


「はい!」


「狩猟番は左右。グレル、ラゴは迂回警戒。ザグは防壁補修。メルツは外套と布を集めろ。リトは温水と処置用品。ハボリムは湯と粥。アガレスは伝令と記録」


「はい、王様!」


 村が動き出した。


 悪魔たちの動きはまだ洗練されていない。


 走れば滑る。


 黒石材を運べば落とす。


 外套を持ってきたつもりで、なぜか魔物皮の切れ端を抱えている者もいる。


 だが、それでも動いていた。


 ただ震えているだけだった集落ではない。


 炉がある。


 飯がある。


 帰還柱がある。


 そりがある。


 防壁がある。


 そして、守るべき場所がある。


「フルカス」


 ヴェスパーが呼ぶと、老騎士はすでに西門前へ歩き出していた。


 腰には剣。


 片腕には古い盾。


 かつての力のすべてが戻ったわけではない。だが、その背筋はまっすぐだった。


「防衛線は任せる」


「承知いたしました」


 フルカスは西門前に立ち、周囲を見渡した。


「黒石材を積め。ただし高くしすぎるな。崩れたときに味方を潰す。胸の高さでよい。敵の進路を絞れ。中央は空けすぎるな。左右は狭く、しかし皆が動ける幅を残せ」


 ザグが黒石材を運びながら頷く。


「ここか」


「もう半歩内側だ。崩れた石が炉側へ転がらぬようにせよ」


「分かった」


「バルガン」


「おう!」


 大柄な悪魔が黒石盾を担いで前へ出た。


 体は大きく、声も大きい。


 そして、目がやたらと前を向いている。


 放っておけば、確実に突撃する顔だった。


「お前は中央だ」


「任せろ! 俺がぶち抜く!」


「違う」


 フルカスが即座に言った。


「ぶち抜くな。抜かせるな」


「……む?」


「お前は槍ではない。壁だ」


「壁」


「そうだ。中央を守れ。敵が来ても持ち場を離れるな。敵を追うな。倒し切れなくともよい。ここを抜かせなければ、お前の勝ちだ」


 バルガンは少し不満そうに口を曲げた。


 だが、すぐに黒石盾を地面に突き立てる。


「分かった。俺は壁だ」


「よろしい」


「だが、殴る壁だ!」


「壁が殴るな」


 ヴェスパーが横から言う。


 バルガンは真剣な顔で振り返った。


「殴らねば壁ではない!」


「どういう理屈だ」


「俺の理屈だ!」


「だろうな」


 フルカスは小さく息を吐いたが、否定はしなかった。


「殴ってもよい。ただし、戻れ」


「おう!」


「左右、狩猟番。敵が迂回しても、深追いはするな。防衛線を守れ。後方、そりの通り道を空けておけ。負傷者が出たら、そこを通す。炉へ続く道も塞ぐな」


 悪魔たちが頷く。


 モルクも、そりのそばに立っていた。


 つい先日まで、彼は運ばれる側だった。


 弱り切り、村へ連れ帰られ、炉と粥でようやく立てるようになったばかりだ。


 そのモルクが、今はそりの引き縄を握っている。


「モルク。無理するな」


 ヴェスパーが言うと、モルクは小さく首を振った。


「俺は、拾われた側です」


「だから休んでろって話だ」


「だから今度は、拾う側に回ります」


 その声はまだ細い。


 だが、引き縄を握る手は離れなかった。


 ヴェスパーは少しだけ黙り、それから頷いた。


「倒れる前に交代しろ」


「はい」


 フルカスは最後に、西の白い闇を見た。


「よく聞け。敵を倒すことだけが勝利ではない」


 村の悪魔たちが、老騎士を見る。


「守るべきものを守り切ることが、防衛戦の勝利でございます。炉を守れ。寝床を守れ。帰還柱を守れ。救い出した者たちを守れ。そして、生きて戻れ」


 その言葉に、ざわめきが消えた。


 ヴェスパーはフルカスの横顔を見る。


「やっぱ現役じゃねぇか」


「まだ錆びついております」


「錆びた剣にしては、よく切れそうだ」


「ならば、折れぬように使いましょう」


 フルカスはそう言って剣を抜いた。


 ヴェスパーも前へ出ようとした。


 だが、その前にフルカスが腕を伸ばした。


「王様」


「なんだ」


「前線へは出ませぬよう」


 ヴェスパーは眉をひそめた。


「俺が後ろで眺めてろってのか」


「眺めるのではありません。全体を見るのです」


「同じだろ」


「違います」


 フルカスの声は静かだった。


「王様が倒れれば、村全体の判断が止まります。炉、退避、搬送、熱配分、防衛線、負傷者対応。今この村で、すべてを見て判断できる者は王様しかおりませぬ」


「お前がいるだろ」


「私は防衛線を見る者です。村全体を見る者ではございませぬ」


 ヴェスパーは言葉に詰まった。


 バルガンまで振り返る。


「王は後ろにいろ!」


「お前までかよ」


「前は俺が殴る!」


「だから壁だろ」


「殴る壁だ!」


「もうそれでいい」


 ヴェスパーは西門前を見た。


 前線へ出たいわけではない。


 いや、正確には、出たかった。


 見ているだけというのが性に合わない。


 自分の村が攻められる。


 自分の作った炉が狙われる。


 自分が連れて帰った者たちが怯えている。


 なら、前へ出て止める。


 そう考えるのは自然だった。


 だが、フルカスの言うことも分かる。


 自分が倒れたら詰む。


 この村はまだ、役割が薄い。


 誰かが倒れても回る仕組みにはなっていない。


 なら、前へ出られない。


 だが、後ろで見ているだけでは済ませたくない。


「……届けばいいんだよな」


 ヴェスパーは呟いた。


「王様?」


 アガレスが首を傾げる。


「排管で熱を遠くへ届けた」


「はい」


「なら、力も遠くへ届ければいい」


 ヴェスパーは踵を返した。


「アガレス、来い」


「はい!」


「見張り台だ」


 見張り台は、村の西側に作ったばかりの簡素な構造物だった。


 黒石材を積み、氷木で支え、魔物皮で風を遮る。


 塔というには低く、砦というには脆い。


 それでも、西門前と氷原を見下ろすには十分だった。


 ヴェスパーはそこへ上がると、眼下の防衛線を見た。


 フルカスが指示を飛ばしている。


 バルガンが中央に立っている。


 狩猟番が左右へ散っている。


 炉の周囲では、弱った悪魔たちが奥へ運ばれていた。


 自分は前に出られない。


 それは分かっている。


 だが、何もしないで見ているつもりはなかった。


「届かせる」


 ヴェスパーは低く呟いた。


「前に出られないなら、ここから届かせる」


「王様?」


 アガレスが横で首を傾げる。


 ヴェスパーは答えなかった。


 右手を前へ出す。


 炉の奥で脈打つ灼熱炉核を思い出す。


 あの時も、そうだった。


 足りないものを見た。


 必要なものを考えた。


 形を探した。


 火を宿す石。


 燃え続ける心臓。


 なら、今必要なのは何だ。


 前線へ届く力。


 敵をまとめて吹き飛ばす大砲ではない。


 味方の隙間を縫い、遠くの一点だけを撃ち抜くもの。


 槍では遅い。


 弓では足りない。


 魔法を放つだけでは、狙いが甘い。


 もっと細く。


 もっと長く。


 もっと正確に。


「火力じゃない」


 ヴェスパーは息を吐いた。


「距離と精度だ」


 胸の奥で、魔力が熱を帯びる。


 それは灼熱炉核を生み出した時ほど重くはない。


 だが、確かに体の芯を削る感覚があった。


 黒い魔力が右腕へ流れ込む。


 赤い熱が指先に集まる。


 ヴェスパーは頭の中に形を描いた。


 長い筒。


 弾をまっすぐ走らせるための管。


 反動を受け止める台座。


 狙いを定めるための目。


 弾に黒炎をまとわせ、灼熱炉核の余熱で押し出す機構。


 銃。


 だが、ただの銃では足りない。


 長距離用。


 精密射撃用。


 一発ずつ撃つ。


 一発ずつ、戦場を崩す敵を抜く。


「もっとだ」


 ヴェスパーは歯を食いしばった。


「何かあるはずだ。遠くへ、細く、正確に力を届ける形が」


 右手の前で、黒い粒子が集まり始めた。


 氷混じりの風が、そこだけ赤黒く歪む。


 黒鉄のような長い筒が、空中に輪郭を取る。


 骨のように白い本体が、その後ろに組み上がる。


 魔物の腱に似た黒い筋が、銃身の周囲へ巻きついた。


 上部には、黒水晶と薄い骨板が重なり、照準器の形を作っていく。


 足元の黒石が砕け、台座となってせり上がった。


 長い銃身が、その上に固定される。


 がちり、と音がした。


 見張り台がわずかに沈む。


 現れたのは、長い銃だった。


 黒光りする長い銃身。


 白く大きな本体。


 上部には、黒水晶と薄い骨板を組み合わせた精密な照準器。


 黒石台座に固定して使う構造になっている。


 銃としては重い。


 杖としては長すぎる。


 砲としては細い。


 要するに、まだ分類すら怪しい。


 アガレスがぽかんと口を開けた。


「王様……今、作りました?」


「たぶんな」


「たぶんで作れるものなのですか!?」


「俺が聞きたい」


 ヴェスパーは長銃の銃身に手を置いた。


 まだ熱い。


 生まれたばかりの獣の骨に触れているような、不安定な感触がある。


 完成品ではない。


 今この場に必要なものを、無理やり形にしただけだ。


「名前は?」


 アガレスが目を輝かせる。


「試作型精密狙撃銃」


「正式名称ですか!」


「要件を並べただけだ」


「では正式名称として記録します!」


「するな」


 アガレスはもう記録していた。


「王様、これは以前の銃とは違うのですね」


「あれは近距離用だ。今欲しいのは、遠くの一点を撃ち抜く武器だ」


 ヴェスパーは黒石台座の安定を確かめる。


 台座は重い。


 だが、それが必要だった。


 反動を逃がし、狙いを安定させるためだ。


「火力じゃない。距離と精度だ。前線を崩すやつだけを止める」


「殲滅ではないのですね」


「全部倒せるほど弾もないし、こいつもたぶん長くもたん」


 ヴェスパーは長銃の側面に手を当てた。


 内部の構造が、完全には分からない。


 だが、必要な使い方だけは分かる。


 黒石弾を込める。


 黒炎をまとわせる。


 灼熱炉核の余熱を通す。


 細い筒で弾道を絞り、遠くの一点へ撃ち出す。


 ただし、一発ごとに装填が必要。


 連射不可。


 反動は強い。


 銃身にも負担がかかる。


 初投入で壊れる可能性もある。


「王様」


「なんだ」


「爆発しませんか?」


「したら失敗作だ」


「失敗作を実戦投入するのですか!」


「試作ってそういうもんだ」


「違うと思います!」


 霜牙軍が射程に入った。


 氷原の上を、青白い兵たちが滑るように進む。


 隊列は乱れない。


 前列の盾兵が低く構え、中列の槍兵が槍を揃え、後方の術者が杖を掲げる。


 吹雪の向こうで、氷の鎧が一斉に鳴った。


 薄い氷板を擦り合わせるような、きしきしという音。


 それが何十も重なり、白い闇の奥から押し寄せてくる。


 個々の兵の姿より先に、軍勢そのものの圧が来た。


 青白い光の帯が横へ広がり、槍の穂先が一斉に低く揃う。


 白い闇が、意思を持った壁のように前へ滑ってくる。


 フルカスの声が飛ぶ。


「構えよ!」


 霜牙軍が氷槍を放った。


 青白い槍が空を裂く。


 ひゅん、という甲高い風切り音の直後、黒石防壁に突き刺さった。


 がん、と重い音が響く。


 黒石材の表面に白い亀裂が走り、刺さった氷槍の周囲から霜が花のように広がった。


 さらに足元から氷刃が生える。


 西側の地面が、霜牙軍の魔力で凍り直されていく。


 せっかく炉の熱でわずかに緩めていた足場が、青白く塗り潰されていく。


 バルガンが黒石盾を構えた。


「来い!」


 氷槍が盾に突き立つ。


 衝撃で巨体がわずかに下がる。


 盾の縁に霜が広がり、バルガンの腕へ白い筋が這い上がった。


 それでも、倒れない。


「俺は壁だ!」


 狩猟番が左右で動く。


 グレルが吠える。


「右、二体回り込み!」


「左を締めよ!」


 フルカスの指示が飛ぶ。


 ヴェスパーは照準器を覗いた。


 視界の中で、氷槍を構える術者が見える。


 息を止める。


 黒石弾に魔力を流す。


 台座の奥で、赤黒い熱が脈打つ。


 引き金を引いた。


 銃声は乾いた破裂音ではなかった。


 長い筒の中を、熱と魔力が走る重い音。


 どん、と見張り台が震えた。


 固定していた黒石台座が床石を噛み、足元の石材がぎしりと鳴る。


 ヴェスパーの肩に反動が突き抜け、見張り台の支柱からぱらぱらと霜が落ちた。


 黒炎をまとった弾が飛ぶ。


 だが、弾は狙いよりわずかに右へ逸れた。


 霜牙軍の術者ではなく、その前に立った氷壁へ突き刺さる。


 氷壁が砕け散った。


「外れた!」


 アガレスが叫ぶ。


「見りゃ分かる」


「ですが氷壁は砕けました!」


「補正する」


 ヴェスパーは舌打ちした。


 冷気で弾道がぶれる。


 黒石弾の癖も強い。


 実戦初投入で、想定通りに飛ぶわけがない。


 銃身の熱。


 風。


 距離。


 敵の動き。


 全部見直す。


 二発目を装填する。


 今度は少し左へ置く。


 息を止める。


 撃つ。


 再び見張り台が大きく揺れた。


 床に置いていた小さな黒石片が跳ね、アガレスが慌てて記録板を抱え込む。


 黒炎弾が白い闇を貫いた。


 後方の氷槍術者の胸を撃ち抜く。


 術式が崩れ、青白い槍が空中で霧散した。


「当たった!」


「当てたんだよ」


 アガレスの目が輝く。


「王様、遠くの敵が急に倒れています!」


「急にじゃねぇ。狙ってる」


「怖いです!」


「俺も怖い」


 三発目。


 防壁を凍らせている敵。


 撃つ。


 反動で台座の継ぎ目が小さく鳴った。


 氷の杖が砕け、敵が後ろへ倒れる。


 四発目。


 バルガンの足元を凍らせようとしている術者。


 撃つ。


 弾は肩を抜き、敵の術式を吹き飛ばす。


 バルガンの足元に広がりかけた霜が止まった。


「おお!? 王か!」


「前を見ろ!」


 バルガンは笑いながら盾を振るい、飛び込んできた霜牙兵を受け止めた。


 氷槍と黒石盾がぶつかる。


 ぎゃり、と耳障りな音が鳴り、槍の穂先が盾の表面を削った。


 散った氷片がバルガンの頬を切る。


 だが、バルガンは笑った。


 敵の腕を掴み、そのまま持ち上げる。


「軽い!」


 霜牙兵を別の敵へ投げつける。


 青白い鎧同士がぶつかり、氷の破片が飛び散った。


 ヴェスパーは無差別に撃たなかった。


 弾は少ない。


 銃身ももたない。


 だから、狙う相手を選ぶ。


 氷槍を構える術者。


 防壁を凍らせる敵。


 バルガンの足元を狙う敵。


 フルカスの死角に入る敵。


 伝令役。


 迂回しようとする小隊長格。


 帰還柱を狙う敵。


 敵を全部倒すためではない。


 味方の防衛線を守るために撃つ。


「一匹ずつだ」


 ヴェスパーは低く言った。


「戦場を崩すやつから抜く」


 前線では、フルカスが剣を振るっていた。


 彼は中央より少し後ろにいた。


 前へ出すぎない。


 全体を見る。


 必要な場面だけ剣を抜く。


 氷槍を真正面から砕くのではなく、軌道を逸らす。


 槍の腹を剣で撫でるようにずらし、力を外へ逃がす。


 踏み込んできた敵の膝を切る。


 倒すことに執着しない。


 進路を塞ぎ、間合いを奪い、味方の線を保つ。


「左、下がるな。右、深追いするな。バルガン、戻れ」


「分かってる!」


 バルガンは敵を掴み、別の敵へ投げつけた。


 青白い兵が二体まとめて転がる。


 そのまま前へ出ようとする。


「バルガン!」


 フルカスの声が飛んだ。


 バルガンの足が止まる。


 歯を食いしばる。


 戻る。


「俺は壁だ!」


 黒石盾を構え直す。


「だが、殴る壁だ!」


 フルカスがわずかに笑った。


「よい壁だ」


「おお!」


 バルガンは単純に喜んだ。


 その直後、霜牙兵の一体が横から飛び込む。


 フルカスの死角。


 ヴェスパーが撃った。


 黒炎弾が敵の兜を割り、青白い体が氷上に沈む。


 フルカスは振り返らない。


 ただ、剣を半歩引いて、弾の通り道を空けていた。


「やりやすいな、あの爺さん」


「王様、今の連携は記録に残すべきです!」


「勝手にしろ」


「はい!」


 霜牙軍は村を侮っていた。


 それは動きで分かった。


 最初は試すように槍を放ち、左右に広がり、足場を凍らせれば終わると思っていたのだろう。


 だが、防衛線は崩れない。


 バルガンが中央を止める。


 フルカスが全体を締める。


 狩猟番が迂回を防ぐ。


 炉の熱と帰還柱の線が、村側の足場を保つ。


 そして、見張り台からヴェスパーの狙撃が飛ぶ。


 霜牙軍の後方で、ひときわ大きな影が動いた。


 白い角。


 青黒い鎧。


 氷でできた長い槍。


 隊長格だ。


 名乗りはしない。


 だが、その存在感だけで、ただの兵ではないと分かる。


 そいつは、じっと見張り台を見ていた。


 ヴェスパーは照準器越しに、その視線を感じた。


「火の王は、前に出ぬのか」


 低い声が、氷原を渡って届いた。


 ヴェスパーは狙撃銃を構えたまま、口元を歪める。


「王が全員、先頭で殴ると思うなよ」


 撃つ。


 黒炎弾が一直線に飛ぶ。


 その瞬間、見張り台全体が悲鳴を上げた。


 支柱が軋み、固定した黒石台座の下で床石が一枚割れる。


 だが、弾は飛んだ。


 隊長格は槍を振った。


 氷壁が立ち上がり、弾を受け止める。


 壁は砕けた。


 しかし隊長格までは届かない。


「硬いな」


「王様、次弾を!」


「撃たない」


「えっ」


「今のじゃ抜けない。銃身も限界だ」


 ヴェスパーは狙撃銃の銃身に触れた。


 熱い。


 黒光りしていた長い銃身が、わずかに赤みを帯びている。台座も軋み、白い本体の継ぎ目から薄く煙が漏れていた。


 無理に撃てば歪む。


 下手をすれば、見張り台ごと吹き飛ぶ。


「試作品だ。壊れたら終わりだ」


「もう少しで完成品だったのでは?」


「完成品なら試作って言わねぇ」


「なるほど!」


「納得するな」


 隊長格は防衛線を見ていた。


 炉。


 防壁。


 帰還柱。


 バルガン。


 フルカス。


 見張り台。


 そして、ヴェスパー。


 ひとつひとつ確認するように。


 やがて、氷槍を低く掲げた。


「退け」


 霜牙軍が一斉に動きを止めた。


 それは、不気味なほど揃っていた。


 槍を引く音。


 盾を下げる角度。


 氷上で足を滑らせる距離。


 すべてがひとつの大きな生き物のように揃っている。


 前線にいた兵たちが、声もなく下がり始めた。


 青白い光が、隊列を保ったまま後退していく。


 威力偵察。


 ヴェスパーは、その言葉を思い浮かべた。


 本気で村を潰しに来たのではない。


 村の力を測りに来たのだ。


 バルガンが一歩前へ出る。


「逃げるぞ!」


 何人かの悪魔も勢いづいた。


 防衛線が前へ押し出されかける。


 ヴェスパーは見張り台の上から叫んだ。


「追うな!」


 声が氷原に響いた。


 バルガンが止まる。


 狩猟番も足を止める。


「今回の目的は防衛だ」


 ヴェスパーは続けた。


「炉を守る。寝床を守る。怪我人を守る。帰還柱を守る。村を守る。それはもう達成した」


 西の白い闇を指す。


「あっちは霜牙軍の地形だ。足場も風も冷気も氷の状態も、向こうが知ってる。こっちは炉と防壁と帰還柱の線があるから戦えた。そこから出れば、勝利条件が変わる」


 バルガンが歯を食いしばった。


 それでも戻る。


 黒石盾を中央へ据え直す。


「勝った時ほど、戻る道を見ろ」


 ヴェスパーは低く言った。


「敵を滅ぼした勝ちじゃない。村を守った勝ちだ」


 霜牙軍は西の白い闇へ下がっていった。


 隊長格が最後に振り返る。


「火の道は、確かに伸びている」


 青白い槍の先が、鈍く光った。


「だが、氷は深い」


 風が吹く。


「次は、もっと冷えるぞ」


 その言葉を残し、霜牙軍は消えた。


 しばらく、誰も動かなかった。


 グレルが風を嗅ぐ。


「匂いが遠ざかりました」


 ラゴが氷に手を当てる。


「振動も消えた」


 村のあちこちで、息が漏れた。


 守った。


 村は残った。


 炉は無事。


 寝床も無事。


 救出者も守った。


 帰還柱も、線は残っている。


 防衛線も崩壊していない。


 初めて、村が明確な外敵に勝った。


「おおおおお!」


 バルガンが叫んだ。


 それに応じて、狩猟番たちが声を上げる。


 だが、ヴェスパーは見張り台から降りながら言った。


「喜ぶのは後だ」


 声は大きくなかった。


 しかし、騒ぎは止まった。


 ヴェスパーは周囲を見る。


 防壁が崩れている。


 黒石材が割れている。


 帰還柱の一部が砕けている。


 狩猟番の一人が腕を押さえている。


 護衛の足先には白い霜が張りついていた。


 救出者の一部は、冷気を浴びて震えが止まらない。


 フルカスも肩で息をしている。


 バルガンの足も、軽く凍傷を起こしていた。


 そして見張り台の上では、試作型精密狙撃銃の銃身が、わずかに歪んでいる。


 勝った。


 だが、無傷ではない。


「負傷者を数えろ」


 ヴェスパーは言った。


「歩けるやつ、歩けないやつ、凍傷のやつ、裂傷のやつを分けろ。冷気を浴びたやつもだ」


 そりが動いた。


 モルクが引き縄を握り、倒れた狩猟番のそばへ駆け寄る。


「乗せろ。ゆっくりだ」


「お前、大丈夫か」


 狩猟番が荒い息で聞く。


 モルクは少しだけ笑った。


「この村のそりは、運ばれるだけのものじゃないらしい」


 そう言って、彼は負傷者をそりへ乗せた。


 数日前、同じように自分が運ばれてきた道を、今度は逆の立場で進む。


 ヴェスパーはその姿を一瞬だけ見て、すぐに別の負傷者へ視線を移した。


 何人かの悪魔が、負傷者を炉のそばへ寝かせようとする。


「そこに寝かせるな」


「え?」


「炉に近づけすぎるな。凍傷は急に炙ると悪化する。熱湯もかけるな」


 別の悪魔が粥場の横へ布を敷こうとする。


「粥場の横にも寝かせるな」


「でも、ここなら温かくて……」


「食事場、寝床、治療場所を混ぜるな」


 ヴェスパーは即座に言った。


「仮設でいい。治療する場所を作る」


 アガレスが記録板を抱えたまま顔を上げる。


「治療する場所、ですか」


「ああ。負傷者をまとめる場所。軽傷と重傷を分ける場所。凍傷者を急に炙らない場所。湯を使える場所。布と外套を置ける場所。薬草や毒草を食材から分けて置く場所。煙を入れるな。熱は弱め。そりで運び込めるように入口は広くしろ」


「仮設救護所ですね!」


「名前は後だ。動け」


「はい!」


 壊れた防壁から黒石材を運ぶ。


 低く積んで、風除けの壁にする。


 氷木で骨組みを作る。


 魔物皮を張る。


 床には皮を敷き、冷たい地面から体を離す。


 炉から細い排管を引く。


 熱は弱め。


 煙は入れない。


 処置場所と、寝かせる場所を分ける。


 薬草、布、温水の置き場も分ける。


 作業は慌ただしかった。


 だが、戦闘のあとに、村はまた何かを作っていた。


 ヴェスパーはそれを見ながら、短く息を吐く。


 戦闘で勝つ。


 被害が出る。


 被害が出たから、医療体制が必要になる。


 そして、村の機能が一つ増える。


 戦闘回なのに、結局工事になる。


「地獄改革っていうか、ただの現場対応だな」


「王様、現場は大事です!」


「それはそう」


 だが、場所を作っただけでは足りない。


 メルツが布を抱えている。


 リトが温水と処置用品を分けている。


 ハボリムが湯を沸かしている。


 ブエルは薬草と毒草の入った籠を抱え、妙に楽しそうにしていた。


 しかし、誰が判断する。


 どの傷を先に見るのか。


 温めていいのか。


 冷やすべきなのか。


 薬草を使っていいのか。


 毒抜きが必要なのか。


 ヴェスパーは周囲を見回した。


「怪我に詳しいやつはいないのか」


 声を張る。


「凍傷、裂傷、魔力切れ、毒や薬草の危険。温めていい怪我と、温めすぎちゃ駄目な怪我を分けられるやつだ」


 ブエルがゆっくり手を上げかけた。


「毒なら詳しいですよぉ」


「お前は補佐だ」


「まだ何も言ってませんよぉ」


「顔が患者に試す気だった」


「ひどいですねぇ」


「補佐なら使う。勝手に使うな」


「はいぃ」


 沈黙が落ちた。


 誰も出てこない。


 やはり無理か。


 そう思いかけた時だった。


 後ろの方で、細い手が上がった。


「あの……少しだけなら……」


 声は小さかった。


 振り返ると、痩せた悪魔が立っていた。


 角は小さく欠けている。


 手は細い。


 肩も薄い。


 長く第九圏で弱っていたのだろう。魔力の圧はほとんど感じない。戦闘要員には見えなかった。


 だが、目だけは違った。


 彼は騒ぎではなく、負傷者を見ていた。


 傷を見る目だった。


 フルカスが目を細める。


「マルバスか」


 痩せた悪魔はびくりと肩を震わせた。


「お、覚えていてくださったのですか」


「忘れはせぬ。かつて病と傷に詳しかった悪魔であろう」


 アガレスが記録板をめくる。


「あります! マルバスさん。病と治癒に関する記録があります!」


「いえ、その……昔ほどの力はありません。今は、ほとんど何も……」


 マルバスは恐縮したように俯いた。


「ただ、判断くらいなら……」


「十分だ」


 ヴェスパーは即答した。


「見ろ」


「は、はい」


 マルバスは負傷者の前に膝をついた。


 おずおずした態度だった。


 だが、患者を前にすると、少しだけ空気が変わった。


 最初の負傷者は、狩猟番だった。


 腕に裂傷。


 傷口に青白い霜が残っている。


 マルバスは指先を近づけ、触れる寸前で止めた。


「裂傷です。ただ、氷の魔力が傷に残っています。先に布で押さえてください。熱を急に当てないで。傷の周りから、ゆっくり温めます」


 次は護衛の足。


 白くなった指先。


「凍傷です。炉のそばへ近づけすぎないでください。熱湯はだめです。布で包んで、弱い熱の場所へ」


 ハボリムが湯を持ってくる。


 マルバスは器に触れて、目を丸くした。


「熱すぎます」


「火は、よいのう」


「よすぎます。冷ましてください」


「湯を冷ますのかのう」


「はい」


「難しいのう」


「難しくありません」


 ヴェスパーは少し笑いそうになった。


 次は、救出者の一人。


 震えが止まらず、目の焦点が合っていない。


「低体温に近いです。濃い粥はまだ重いです。薄めたものを少しずつ。寝かせる場所は排管に近すぎないところへ」


 次は、バルガンの足。


「軽い凍傷です」


「俺は平気だ!」


「平気な方ほど悪化します」


「……そうなのか」


「はい」


 バルガンは妙に素直に黙った。


 次は、肩を打った悪魔。


「打撲です。骨は大丈夫そうです。ただ魔力が抜けています。先に薄い粥を」


 次は、氷槍の欠片が刺さった腕。


「抜く前に布を用意してください。抜いたあと、血ではなく魔力が漏れます。ブエルさん、その薬草はまだ使わないでください」


「効きますよぉ」


「強すぎます。薄めてからです」


「怒られましたぁ」


「当然だ」


 ヴェスパーは黙って見ていた。


 判断が早い。


 声は小さい。


 自信もなさそうだ。


 だが、負傷者を前にした時の判断は具体的だった。


 何をしていいかだけではない。


 何をしてはいけないかを知っている。


 それが今、一番必要だった。


「お前、詳しいな」


「い、いえ、少しだけで……」


「ここの責任者をやれ」


 マルバスが固まった。


「え」


「お前がここの院長だ」


「えええ……」


 アガレスが即座に記録した。


「仮設救護所、初代院長マルバスさん!」


「い、院長というほどでは……」


「では、救護所長で」


「それも重いです……」


 マルバスは本気で困っていた。


 ヴェスパーはその細い肩を見る。


 確かに重い。


 だが、誰かが持たなければならない。


「重くても持て」


 マルバスが息を呑む。


「怪我人を任せられるやつがいるだけで、村は一段ましになる」


「……」


「できないことは言え。必要なものも言え。勝手に全部抱えるな。だが、傷を見る判断はお前がしろ」


 マルバスはしばらく俯いていた。


 やがて、小さく頷いた。


「……できる範囲で、やります」


「十分だ」


 仮設救護所の役割は、その場で決まっていった。


 マルバスが負傷者の分類と治療方針。


 メルツが包帯、布、外套、固定具。


 ブエルが薬草、毒草、毒抜き。


 ただし、マルバスの許可なしには使わせない。


 ハボリムが湯。


 温度管理。


 熱すぎるとマルバスに怒られる。


 リトが薬と食料の保管。


 腐敗、毒抜き、保存管理。


 アガレスが患者台帳。


 負傷者数、処置内容、経過記録。


 ヴェスパーは救護所の入口に立ち、動線を見る。


「入口はもう少し広げろ。そりが引っかかる。寝かせる場所と処置する場所を近づけすぎるな。薬草と食材を同じ棚に置くな。ブエルが混ぜる」


「信用がありませんねぇ」


「実績だ」


「まだ混ぜてませんよぉ」


「混ぜそうだった」


 処置が一段落した頃には、村の空気も少し落ち着いていた。


 重傷者は救護所へ。


 軽傷者は薄い粥を受け取る。


 凍傷の者は弱い熱の場所へ寝かせられた。


 マルバスはまだ患者の間を歩こうとしていた。


 ヴェスパーはその襟首をつかむ。


「お前も食え」


「で、でも、まだ確認が……」


「院長が倒れたら救護所が止まる」


「院長では……」


「救護所長が倒れても止まる」


「……はい」


 マルバスは恐縮しながら、冥骨粥の器を受け取った。


 湯気が細い顔にかかる。


「温かいです」


「味は?」


「……温かいです」


「味の感想を言え」


「すみません」


 ようやく、勝利の宴が始まった。


 宴と言っても、派手なものではない。


 ハボリムが冥骨粥を大鍋で作る。


 狩猟番が保存していた肉を出す。


 ブエルが怪しいキノコを混ぜようとして止められる。


「元気が出ますよぉ」


「幻覚も出るだろ」


「少しだけですぅ」


「却下」


 メルツは負傷者に外套をかけて回っていた。


 リトは温水と薬を管理している。


 アガレスは戦果と負傷者数と救護所開設を記録していた。


 バルガンは足を布で巻かれたまま、器を掲げる。


「俺は壁だった!」


「よい壁だった」


 フルカスが静かに言う。


 バルガンは満面の笑みを浮かべた。


「おお! フルカスに褒められたぞ!」


「動くなとマルバス殿に言われただろう」


「むう」


 モルクは器を抱え、静かに炉を見ていた。


 自分が戻れたこと。


 そして、今度は誰かを運べたこと。


 その両方を噛みしめているようだった。


 ニムがヴェスパーの袖を引く。


「王様」


「なんだ」


「勝ったんですか」


 ヴェスパーはすぐには答えなかった。


 西を見る。


 霜牙軍は退いた。


 だが、まだ奥にいる。


 本隊は健在だ。


 次は試しでは済まないかもしれない。


 防壁は壊れた。


 帰還柱も傷ついた。


 狙撃銃も歪んだ。


 負傷者も出た。


 それでも。


「今日はな」


 ヴェスパーは器を持ち上げた。


「今日は、勝った」


 ニムは小さく笑った。


 それを見て、村の悪魔たちも器を掲げた。


 大騒ぎではない。


 負傷者がいる。


 救護所では、マルバスがまだ患者を気にしている。


 防壁の向こうには、冷たい西の闇がある。


 それでも、湯気があった。


 粥の匂いがあった。


 少しだけ笑い声があった。


 これまでは、生き延びるだけだった。


 今回は敵が来た。


 みんなが持ち場を守った。


 村を守った。


 傷ついた者も出た。


 その傷ついた者を戻す場所もできた。


 だから、祝う。


 完全勝利ではない。


 それでも、守った勝利だった。


 宴の後、ヴェスパーはひとり見張り台へ上がった。


 西の白い闇は静かだった。


 霜牙軍の姿はない。


 だが、冷気はまだ深い。


 見張り台の横には、試作型精密狙撃銃が置かれている。


 黒光りしていた銃身は、わずかに歪んでいた。


 白い本体にも、細かな亀裂が入っている。


 完成品ではない。


 まだ試作品だ。


「銃身の熱逃がしが足りないな」


 ヴェスパーは歪んだ銃身を見下ろし、低く呟いた。


「台座も弱い。反動を逃がす構造も見直し。弾もぶれる。次までに改良だ」


 狙撃銃は答えない。


 ただ、冷たい風の中で、わずかに赤い熱を残していた。


 そして、村も同じだった。


 防壁は壊れた。


 帰還柱は欠けた。


 救護所は仮設。


 炉も、排管も、寝床も、どこかしら直す必要がある。


 救護所では、マルバスが患者を見ていた。


 相変わらずおずおずしている。


 だが、負傷者の前では迷っていない。


 炉の周りには湯気と粥の匂い。


 西には冷たい闇。


 南には石切り場。


 ヴェスパーは壊れた防壁を見る。


 割れた黒石材。


 砕けた帰還柱。


 救護所の床に使った石。


 狙撃銃の修理に必要な黒鉄と黒石。


 熱結界装置の台座。


 足りないものが、頭の中に並んでいく。


「……石が足りねぇな」


 呟く。


 勝った。


 確かに勝った。


 だが、勝利は終わりではなかった。


 守った場所には、壊れた壁が残る。


 生き残った者には、傷が残る。


 火を守ったなら、その火を次も守れる形にしなければならない。


 宴の余韻はまだ残っている。


 けれど、明日の仕事はもう見えていた。


 南の石切り場。


 あそこを、ただの採石場所にしておく余裕はない。


 常設の作業拠点にする必要がある。


 炉がいる。


 排管がいる。


 暖所がいる。


 石を切るための仕組みがいる。


 ヴェスパーは西の闇から視線を外し、南を見た。


「勝ったなら、直さなきゃならねぇ」


 誰に言うでもなく、そう呟いた。


 壊れたものを数え、足りないものを並べ、次に必要な形を考える。


 それが、この村の勝ち方なのだろう。


 地獄の夜はまだ冷たい。


 だが、村には火が残っている。


 そして、その火を守るための次の現場が、もう待っていた。


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